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177復興G:2013/11/11(月) 13:22:21 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十六

   すでにわたしが出てこのままが神の国に変貌したのだ。


 私が神癒祈願をさせて頂いていた時、申し込み者の名簿の人々、いや全世界、全宇宙の不幸不完全を一度の祈りで全て消せないものだろうか。との想いが湧いた時、

 「それを既にやったのが私だよ」

 「それを既にやったのが生長の家だよ」

 といっておられる、幸いに満たされた大聖師をたしかに私は観じさせて頂いたのである。

 そのお言葉には、やはり、

 「それをやるとかやらないとかという私自身が無いんだよ」

 という消え切りの、澄み切りの、聖なるよろこびの輝くひびきがあって私はそこに包まれて坐っていたのを、心あらたに想うのである。

 「こと終われり」 である。この 「こと終われり」 から生長の家人類光明化運動ははじまっているのである。既に変貌し給うたところから 「こと終われり」 「こと完成せり」 の純粋なる創造的持続として 「今」 生長の家人類光明化運動はありつづけなのである。

 それは 「今」 なる光明化運動であって 「未来」 なる光明化運動ではないのである。理想ではなく現実を超えた現実としての 「完成」 なる光明化運動なのである。それ故にこそ、生長の家人類光明化運動は神なのである。

 神の起こし給える運動とは、天国なるもの、完成なるものみずからの起こし給う、天国なる、完成なる運動であるということなのである。

 「吾が中に、神が今此処に、そして天国が今此処にある。」 (『日々読誦三十章経』 )

 これが最高の神想観に念ずる言葉とされていることは、神想観の中身の純粋なる持続が人類光明化運動であり、この自性円満の實相なるものを観ずる神癒の展開は、神想観の中身の展開であると言うことが出来るのである。

 今ここに神の国があり、天国があるということは、これから時間をかけて顕わして行くという時間の世界の話ではないということである。今ここにあるのである。これから時間をかけて顕わさなければならないという神はなく、天国もないのである。今ここであってこそ神であり給い、今ここであってこそ天国であるのである。

 それは 「現象無し」 を説く教えにして、はじめて、 「今ここ」 を説くことが出来るのである。それは針の先ほども自分というものの要らない既に完成している世界である。

 ただただ完全が完全なるものを自己展開することがあるばかりである。これを生長というのであるから、満足と感謝の展開が生長ということなのである。感謝して、満足したいのちほどよく生長を実現しているのが神の子のすがたであるのである。

 どこまでも、不完全の存在を認めないのが生長の家であり、その人類光明化運動である。イエスは方便を以て説いているが、そこにもまた完全と完全のいのちがあるばかりなのである。

 釈尊の 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくど しっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょう どうじじょうどう)」 とは、 「方便の成道」 ということも入っているのである。生長の家人類光明化運動が、時に応じ、所に応じて、様々なすがたをとって来たという、その姿そのものが 「悉皆成道(しっかいじょうどう)」 のすがたなのである。ただただ完全が完全し、完成が完成している相(すがた)があるばかりなのである。(1998.11.3)


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