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36
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復興G
:2013/07/19(金) 07:58:47 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
三十
「無我」 ということについてどのように受けとり、生くるかということは宗教上の大きなテーマであるであろう。 「諸法無我」 という言葉もあって、あるいは、 「無一物中無尽蔵」 という言葉もあり、 「無限」 という言葉、あるいはただ単に 「無」 という一字が揮毫されている場合もあり、 「無常」 という言葉は 「無常観」 という言葉と共に仏教を特徴づけている言葉となっていると言っても過言ではないであろう。
これらはすべて、 「私は無いのです」 とみずから死に切りの、消え切りの澄み切りのよろこびの、輝きそのものがそこに鳴り満ちている姿そのものなのである。
例えば、 「無我」 ということは 「我」 そのものが、みずから 「私は無いのです」 と消え切りであることであり、澄み切りのよろこびの輝きがそこに鳴っていることなのである。
斯くして、 「諸法無我」 とは、諸々の現象及び、實相は、それ自体、みずから 「私は無いのです」 と消え切りの澄み切りのよろこびの輝きの鳴り響きそのものであることなのである。
「無一物中無尽蔵」 とは、一物も残さずして、それ自体が 「私は無いのです」 と消え切り、それ自体の中に尽きることそのことが 「私は無いのです」 と消えていること、澄み切りのよろこびそのものが蔵されていることを表現しているのである。
「無」 とは無自体が、みずから 「私は無いそのものです」 とみずからの消え切りの、澄み切りそのものなのである。
「無常」 とは、常なるもの、實在なるもの、常恒なるものですら、 「私は無いのです」 との消え切りの澄み切りであり、 「無常観」 とは、常恒なるものを観ることそのことが 「私は無いのです」 と消え切りの澄み切りなのである。生長の家で言えば、神想観それ自体が 「私は無いのです」 と消え切りの澄み切りであることなのである。
「無常迅速」 という言葉が想い浮かんで来たが、これは、常なるもの、そして迅速なるものそれ自体が、 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびそのものの鳴り響きなのである。
「無限」 ということは、限りなるもの、我なるものが、それみずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびの鳴りひびきなのである。
『般苦心経』 に出て来る 「無――」 という言葉、それ自体が、みずから、 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りなのである。例えば 「無眼耳鼻舌身意(む げん に び ぜつ しん い)」 とは、眼耳鼻舌身意がそれ自体、みずから 「私は無いのです」 との、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きの鳴り響きであり、観自在菩薩は自在にそれを観じ、味わって、よろこびのひびきをもって、よろこびの輝きのひろがりとして、照見なるものがそこに現成しているのである。即ち、 「五蘊(ごうん)即ち現象は無かったのだー<」 と、そこに、五蘊即ち現象みずからの 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りのよろこびをよろこび給うたのが観自在菩薩(かんじざいぼさつ)であり給うのである。
この観自在菩薩は尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であり 「無礙(むげ)」 は礙(こ)り自体が 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きであり、それが 「無礙光」 なのであり、そのよろこびの輝きが、尽十方世界そのものとなっていることであり、 「五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見(しょうけん)する」 とは、それはそのまま天照大御神(あまてらすおおみかみ)の照り輝きそのものを意味しているのである。
しかも観自在菩薩は観自在の故に、みずからも 「私は無いのです」 と消えること自在、澄み切ること自在であり、自在のよろこびそのものなのである。
<つづくき>
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