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14復興G:2013/06/29(土) 08:31:32 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十

 『真理』 第七巻の冒頭には、新体制が出来て 「聖使命」 会制度が出来て、はじめてのご講義と想われる、尊師のご講話からのご文章が載せられている。そこには人間が、神から生み出されたという、親が子を生むように神が人間を生んだというのは、哲学的思索の幼い人々に解りやすく説いたものであって、生んだものと生み出されたものとの相対関係のある見方からは、どこやらに許すものと許されるものとの対立があり、どこやらに人間そのものを神が審判するというような考えがひそんでいて、まだまだ本当ではないのであって、仏教の重無礙(じゅうむげ)の見方が正しいものであると説かれているのである。一つの鏡の前に百万の鏡を置けば、同時に百万のすがたが写るように神と人間とは同時、同一の存在であり、生むものと生み出されるものとの相対的な存在ではない観方を説かれているのである。

 尊師のこのような重無礙の説き方はそれまでもよくなされたことではあったが、神が人間を生んだという考えは本当ではない、という説き方をされたのは他にあまりなかったのではないかと想われるのであって、ここには、聖使命会制度の発進に当たって、はっきりとさせておかなければならないことをお想いになられたからであったと拝察するのである。それはちょうど 「発進宣言」 をなされた時に尊師がみずからに心定めをされた時のことと重なって想われていたのではないかと拝察申し上げるのである。

 即ち、人間は神そのものであって、神と人間とは、はなれた相対関係にあるのではないこと、会費によって神とくっついたり離れたりする存在ではないこと、そのことが聖なる存在たり得る唯一のすがたである、ということ、神は離れたところから、会費を沢山納めた者と、納め方の少ない者、納めない者を区別され給うというような考え方の起こることを懸念されたからではなかったかと拝察せずにはいられないのである。生きとし生けるものを平等に完全に生かし給えるみ親神は、生かすものと生かされるものとの離れたる相対関係ではないということを、はっきりとさせておかれたのではなかったか。「生かされている」ということは、決してはなれたる存在ではないことをよろこんでいる姿なのである。

 生かされるために聖使命会費を納めるのではないということである。神と人間とは一体不離、同体の存在であり、生かされていることは久遠の昔より久遠の未来に向かってつづいていることなのである。それでこそ聖なるものであり得るのであって、会費によって聖なる存在は買うことはできないのである。それ故に、聖経の 『四部経』 においては、「聖使命菩薩讃偈」 よりも先に、「招神歌」 が載せられているのである。

 「汝に面するものは誰ぞ!」 「山も川も草も木も国土も悉く仏である」 (『真理』第七巻) それは未来のことではないのである。一億七千万年後のことでは話にならない。今、現に成仏しているのである。今現に、山も川も草も木も有情非情(うじょうひじょう)皆聖なる命そのものである。先に度(わた)るものと後に度るものとの別はないのである。

 「己れ未だ度(わた)らざる前に他を度す」 というのはここでは、先なるものも後なるものも最高最尊なるものが、お互いに、「あなた様のお陰です」 と他を先に拝み合っている。その拝み合いの姿そのものが形にあらわれて 「聖使命会員」 の姿となっているのである。

 聖なるものとは何か。それは何ものによっても崩れることなく、汚れることなきものである。その崩れることなき切なるものの生きる姿が 「聖使命会活動」 ということなのである。聖になるための運動ではなく、聖なるものの運動なのである。聖なるものの運動が、よろこびなるものの運動であり、これが 「よろこびの光明化運動」 であり、このよろこびは神より来たった神であるよろこびなのである。(1998.7.10)


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