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web誌友会参考文献板

252a hope:2015/07/03(金) 10:10:26 ID:brQxC10.

Web誌友会板 >5596 の補足です
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/5596


「生命の實相」第23巻 p114 3行目〜

谷口――ご質問は「実相人間」と「肉体人間」を混同して、「肉体人間の知恵はなぜ不完全で真理がわからぬのであるか?」と言っていられるので、いつまで経っても正当な回答ができぬのであります。

釈迦は『法句経』において「怨み心ではいつまでも怨みは解けぬ」と申されましたそのように「肉体人間の迷いの心ではいつまでも迷いは解けぬ」のであります。

「肉体人間」は本来存在しないのであります。(本来存在しないから、やがて崩壊するのであります)

存在しないものが不完全であるのは当然であって、ただ完全なるもののみが存在するのであります。

存在しないものが「存在するもの」を理解しえないのは当然であります。

あなたは「なにゆえに完全なるべき神の子『人間』がその実相を直観できないのであるか」と言っておられますが、完全なるべき神の子たる「実相人間」は、その実相を直観するもしないもない、すでに完全なのだから問題はないのであります。


この辺の消息は議論をもって押し進めても「肉体人間の知恵」にわかるはずはないのであります。

ただ「肉体人間の知恵」(迷い)を淡(うす)くすることによって、霧が破れて日光の輝き出(い)ずるがごとく、肉体人間にも実相智の光線が射しはじめるのです。

この「虚」の暗(やみ)を破って実相智の光線の射しはじめることを、「直観」によって、実相人間の完全さを知る」というのであります。


肉体人間の知恵は「暗(やみ)」のようなもので、実相人間は「光」のようなものであります。

「暗(やみ)」はそれを淡(うす)くすることによって光の存在を知るのであります。

「暗(やみ)の無知無明はなぜあるかと」とあなたは論議されますが、暗(やみ)とは「光の虚(きょ)」であります。

「光の虚」が光を知らないのは当然であります。

光を知ればもう「光の虚」(暗)ではないのであります。

だから「光の虚」なる人間知は真理を知らないのは当然であります。

あなたは「肉体人間が聖典を読んで、実相人間を知る」と言われますが、「肉体人間」が聖典を読むのは、本来無いところの我見(肉体人間の知恵――迷い)を捨てるためで、「肉体人間の知恵」がなくなれば、ひとりでに内在の光が発現してきて、「本来の実相」が輝く。

これは「肉体人間が聖典を読んだので実相人間を知った」のではなくて、肉体人間(光の虚)がそれだけ減ったので実相が輝き出したであります。

肉体人間の知恵、はからいをいっさい捨てるほど実相人間があらわれるので、「肉体人間が実相人間を自覚する」などということは「迷いが悟りを自覚する」などという言葉と同様で、ありえないことなのです。


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