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web誌友会参考文献板

48復興G:2013/07/27(土) 02:02:42 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十八

 聖典 『生命の實相』 の中には、現在行われている練成についての注による説明はあるが、この聖典全四〇巻が完成した時点では、いわゆる現在のような練成道場もなく、練成もなかったのである。 「『いのちのゆには』 の神示」 というのにもとづく集まりとしては、ご講習会や誌友会や花嫁学校や学生寮の生活などがあったのが、この神示に沿ったものであったのである。そして、生長の家は燎原の火のように広がって行くという表現がなされるほどの勢いをもってひろがって行ったのである。

 多くの人々は、聖典 『生命の實相』 に直接汲む以外はなかったというに近い状況であったがために、却って、尊師谷口雅春先生のお示し下さる真理に直接ふれるという度合いが強かったということが言えるのではないかと拝察するのである。

 練成というのは手っ取り早く入信していただく方法ではあるが、そこに指導者なるものを通している点において、直接 『生命の實相』 を読んで得るものとはおのずと異なったものが出て来るということにもなるのであって、そこは仲々複雑な問題を含んでいると想われるが、長い将来を見渡すと一考するだけのことはあるのではないかと想われるのである。

 神想観練習も 『詳説神想観』 がテキストに行われていることが多いと想われるのであるが、これはあくまでも便利的に出来ているものであって、やはり抜粋されているものは、もとのところにあった状態で読まれるのがよいのであって、抜粋された文章がはじめあった場所に帰りたがっているような気がしてならないのである。自然ないのちの流れの中で神想観が語られ、説明されているのであって、 『生命の實相』 では第八巻目に出て来るということは自然な美しい順序になっていると想われるのである。

 おおよそ、どなたからはじめられたのかは解りかねることではあるが、 「罪」 や 「神」 のことについてなど、ただ単に言葉の出て来たところを抜き出して並べれば、それが身につくであろうという期待と方法は、聖典なるものに対しての自然なあり方であるかどうかも一考してみる必要があるのではなかろうか。

 ある箇所について、そこに対しての自分の得た感動を表現するためや自分なりに受けとめるための掘り下げ方をするために引用するということは、ただ単に並べているのとはおのずから異なっていることは勿論のことであるであろう。

 抜粋集も、一度元のものを拝読している人にとっては全体の流れの中で昧わえることになるから、それはそれでよいのかも知れないが、大宗教になればなるほど、矛盾した表現が平気で一つの聖典におさめられているというぐらいのものであるから、微妙なニュアンスのちがいなど、切り取りの抜粋では汲み取りにくいものがあるにちがいないのである。

 とにかく、われも知らず、他(ひと)も知らず、ただただ便利だからと言ってそれに頼るような傾向が今後もつづいて行くならば、あまりにも勿体ないことになってしまうのではないかと懸念するのである。

 練成というものも、ある意味で、全生活上の抜粋であると言えるのであろうから、自然な生活の中で、聖典に直接汲みなから自ずと生活の中に光りを生かし込んで行くという姿とはまた異なったものが出て来るということもあるにちがいないのである。

 私自身も長年練成にたずさわって来たものであるが、一つの感慨として今、このような想いが浮かぶのである。

 練成会に依ることもさることなから、より一層直接聖典に汲め、という態度を涵養することか、特に著書による表現を特徴とする生長の家にとって自然であり且つ長い眼で見る時、結局は實(みのり)の多いものとなることなのではなかろうかと想えて来るのである。

 本が神殿であるということは、本そのものが道場そのものであることなのである。(1998.8.7)


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