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復興G
:2013/07/24(水) 07:51:19 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
三十五
今日、よく見ると、入龍宮幽斎殿に於ける神想観の唱える言葉の 無の門関 は “無の門関” になっていると想っていたが、 「“無” の門関」 となって 無 に “ ” がついていた。
「無の門関は透過すべし」 とよく言われる場合は、無の門関として、あくまでも通過すべきものとして受け取ればよいのであるが、 「無より一切を生ず」 とか 「無一物中無尽蔵」 ということになって来ると、この “無” は通過すべきものではなく、行きつくべき堂奥または、一切が発して来る本源とでも言うべきものであると拝察されて来るのである。
この場合の “無” は、有に対する相対の無ではなく、絶対の無、一切がそこより発生する、一切がそこに巻き納められているところの “無” であると言われているのである。 “絶対無” あるいは、“真空妙有” の “真空” にあたる言葉なのである。
この絶対無は、龍宮さえも 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りの、よろこびなる天照大御神なるものの輝きを輝くところの一切生み出しの本源なのである。
一切の元である 「如(にょ)」 なるものも 「口」 が書かれてあり、創造の本源なる 「龍宮」 の 「宮」 も、口が二つ連ねてあって、これは、真空なること、絶対無なることを表わしていると想われるのである。
大聖師谷口雅春先生のご揮毫に 「自性空(じしょうくう)」 というのがあるが、自性なる空とは、自分みずからが 「私は無いのです」 そのものなること、即ちみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびそのものであることなのであり、この言葉、文字そのものも 「私は無いのです」 との、消え切りの澄み切りなのである。實相の世界が 「無限の歓喜の海」 であるとは、このみずからの消え切りの、澄み切りの 『無限のよろこびの海』 であることなのである。
宇宙の大神であるイザナギの大神か、光明遍照の實相の世界において、浄(勢<きよ>)めのおはたらきをされている、そのはたらきが住吉の大神であり、その住吉の大神の霊光燦然として全宇宙を引きつつみ、全宇宙に流れ入り、宇宙そのものとなり給うているのである。そして、その全宇宙が、みずから消え切りの澄み切りの、よろこびなる天照大御神そのものであり給うのである。それ故、イザナギの大神とひとつなるものであり給うのである。そのすがたが、 「光明思念の歌」 となって、
「天照(あまてら)す御親(みおや)の神の大調和(みすまる)の生命(いのち)射照(いてら)し宇宙(くに)静かなり」
となっているのである。
「静かなり」 とは、あるべきものがあるべき姿にあることであり、宇宙=天照大御神は、消え切りの澄み切りのそのままに、無限の創造をしている、あるべき姿にあることを意味しているのである。
例えば、心臓は静かなる時が一番大活躍をしているのであり、音をたてて動悸が打っている時は、異常なる心臓であって、異常なる心臓は本来の心臓ではないのであって、本来のはたらきをしていないのである。
それ故 「宇宙(くに)静かなり」 は何の創造もしない、静寂な、死滅した、静止の意味ではないのである。 「私は無いのです」 との無限の調和とよろこびなる創造そのものの宇宙の姿、天照大御神そのものなのである。
これは。無の門関を通過した “無” そ のもの、“絶対無” の消息なのである。(1998.8.4)
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