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128復興G:2013/09/27(金) 21:55:11 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十六

 「闇」 という字は 「門」 に 「音」 となっているのであり、 「門」 は 「日」 が二つあって、その中にいるものが 「音」 であることを示しているのである。 「音」 は 「立った日」 であり、 「闇」 という字は 「日」 の集まりであり、これまた明るいかぎりの字であるということになっているのである。中身、實体は 「日」 であるということなのである。

 なぜ、 「暗」 という字も 「闇」 という字も 「日」 の詰まった文字となっているのであるか――しかし、そんなことの理由づけを何故しなければならないのだろうか。人々はただただ 「そうしたかったから」 ということだけではいけないのだろうか。なぜ理由がなければならないのだろうか。

 草や木は、何か理由があってそこに伸びているのだろうか。野原で草を食っている牛を見て、

 「あの牛は、なぜあんなに平安なのだろうか」

 ときいた人に対して、

 「牛は、ただ草を食べて生くるなり」

 と応答したという。

 なぜそのように応答したのだろうか。

 「それは、ただそう言いたくなったから」

 というだけではいけないのだろうか。

 「暗」 という字も、 「闇」 という字もこんなに明るい字はない、というふうにつくりたくなったからこの文字を作ったのだ、ということである。ただただそうなっているというだけである。意味、理由があって、神は天地を創造されたのではないであろう。ただただ、

 「光りあれ」

 と言いたくなられたから、そのように言葉され給うたのである。それと何ら変わることなき流れによって、 「暗」 「闇」 という字をこのように作ったのであろう。

 草も木も文字も、生まれたくなったから生まれたのであろう。

 「なぜ、そうなのか」

 という想いもまた、自然にそうしたくなってそうしているのであろうが、しかしながら、

 「なぜ、そのように、 “なぜ” と問わなければならないのか」

 ということになると、結局のところ、

 「そうしたくなったから」

 ということに帰着するということも自然なことであると想われるのである。

 「生長の家人類光明化運動はなぜ生まれたのか」

 それへの答えは、

 「ただただ生まれたくなったから」

 ということである。

 ただただ、が自然なのである。ただただが尊いのである。意義づけや理由づけというのは因縁の世界である。因縁を超えたのが生長の家である。意義、理由からの解放が生長の家人類光明化運動である。

 意義づけ、理由づけというものは、限定なのである。限定よりの無限の開放が生長の家なのである。

 生長の家ということは、自然の自然なることなのである。万物が生き死にを超えて生長していることを直観し給うて、

 「生長!!」

 と感嘆され給うたのが大聖師であられたのである。生長の家の “生長” とは感嘆詞なのである。 「空は青い!!」 「雲は白い!!」 「花は美しい!!」 「苔(こけ)も美しい!!」 というのと何ら変わることのない、天然、自然、法然のながれなのである。

 ただただ、集まるすがたの自然が 「家」 であるから、 「家」 をつけて生長の家となったのである。そして、その自然の流れで 「生長の家人類光明化運動」 が久遠の流れを流れているのであった。(1998.10.4)


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