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164復興G:2013/10/30(水) 12:13:29 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十四

 「光が近付くときすべての暗黒は消える」

 「光りは東方より」 ということは 「光りは当方より」 ということであり、「すべては当方より」 ということである。

 それ故、「光りが近付くとき」 とは 「あなたが近付くとき」 ということである。 「あなた」 とは神であり、實相であり、自分の自分である。

 「あなたが近付くとき」 とはまた、「生長の家人類光明化運動が近付くとき」 ということである。

 神は渾(すべ)ての渾てにましますが故に、神にとっては自己展開があるのみなのである。自己展開するものをコトバというのである。それ故、神はコトバであり、コトバは神なのである。

 イエス・キリストが祈り給う時、空から光りが射(さ)している絵があるが、あの光りは空からイエスに降りそそいでいるのではなく、イエス・キリストから出た光りなのであり、宇宙のはじまるところは自分の中になければならない、という文章を読んだことがあるが、一つの真理がここには語られているのである。

 「光りが近付くとき」 という、この 「光り」 とは、渾ての渾てなるが故に、今、ここに、吾が内に、既にあるところの完全なるものというものを意味しているのである。

  神は人間の光源(ひかりのみなもと)にして
  人間は神より出でたる光なり。
  光の無き光源はなく、
  光源の無き光はなし。
  光と光源とは一体なるが如く
  人間と神とは一体なり。

 と聖経 『甘露の法雨』 には書かれている。

 光のなき光源はなく、光源のなき光はないということは、光りは光源であり、光源は光りであるということである。光源なるものの自己展開が光りであり、自己展開しているものにとってはすべては自分自身なのである。

 聖書には 「光りは暗きに照る、しかして暗は光りを知らざりき」 と録(しる)されている。そして光りもまた暗を知らざりき、ということである。 「近付く」 ということは、永遠に、光りと暗とは出逢うことはあり得ないことを意味しているとも言えるのである。

 光りは暗を一度も経験したことなく、暗もまた一度も光りを経験したことはないのである。

  生命は生を知って死を知らず。

 と聖経 『甘露の法雨』 には書かれているのである。生命なるものは一度も死を経験したることはないのであり、死もまた生を経験したることなし、なのである。何故ならば、死は無いからであり、無いものが在るものを経験するということは永遠に有り得ないことであるからである。

 光明一元である。生一元である。光明であることにおいて、生であることにおいて、すべては一体なのである。近付くということの最大なるものは一体であるとも言えるのである。光りに近付き得るもの、光りと一体となり得るもの、一体であり得るものは光りでなければならないのである。生に近付き、一体であり得るものもまた同じく生のみなのである。

  闇に対しては光をもって相対(あいたい)せよ。

 とも聖経 『甘露の法雨』 には書かれているのである。光りに相対出来るものは光りのみなのである。それ故、この言葉の中身は、ただただ光りを生きよということであり、光りの自己展開を歌っているのである。それが 「今」 ということである。有り得るのは 「今」 のみなのである。ただただ在るものが在るのみなのが真理なのである。(1998.10.22)


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