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174復興G:2013/11/08(金) 20:35:06 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十三

   ところが今日(こんにち)、今ここに、そのままに、このままで、ここに、神はあるのだということをわたしはたった今悟ったのだ。


 「今日(こんにち)」 とは 「今なる日」 すなわち 「久遠の今」 そのものを意味しているのである。それ故、 「今ここに」 という、 「今」 は 「久遠の今」、「すべてのすべてなる今」 ということである。

 このままといい、そのままといい、 「まま」 とは、 「間間」 である。 「間」 とは 「門」 に中に 「日」 が置かれているのである。 「門」 は 「門」 (原稿では門の日の部分が国旗)であり、日の丸が二本立てられてあり、この奥の家の中には 「日」 即ち神があることを示しているのが 「門」 という字であるのである。家には神の子即ち神そのものが住み給うていることを表現しているのである。

 それ故、 「間間」 とは、神なるものの、完成なるもの天国なるものの純粋なる持続をあらわしているといわなければならないのである。

 「たった今悟った」 というその 「今」 も 「久遠の今」 ということであって、自分のいのちが 「今」 そのものであることを観たことが悟ったことなのである。

 それは、悟ったが故に、 「今ここに、このままに、そのままで」 という言葉が発せられているのである。 「今」 は神そのものであり、 「まま」 も神そのものであるから、 「今」 と 「このまま、そのまま」 とはひとつのことなのである。

 ここには 「今」 そのものであり、 「今」 が立ったよろこびが歌われているのである。 「今」 なるイエスがここに立ち給うているのである。 「今」 起ち給うた大聖師谷口雅春先生のいのちがここにイエスとして立ち給うているのである。

 「今」 は、過去、現在、未来なる時空(じくう)なるものの超脱(ちょうだつ)なるが故に、 「今」 は 「このまま」 であり、 「そのまま」 なのである。

 神は 「今」 であり、 「今」 は 「このまま」 であり、 「そのまま」 なのである。 「今日(こんにち)」 は 「今・日」 なのである。「・」 は無時の一点であり、幽の幽なる、身(みみ)を隠し給える、 「目無堅間(めなしかつま)」 なる 「点である。点もなき一点である。

 「今日」、「生長の家」 と 「人類」 と 「光明」 と 「運動」 とは一つなるものなのである。一つなるものなるが故に、 「生長の家人類光明化運動」 は絶対なのである。 「生長の家人類光明化運動」 は 「神」 であり、 「絶対」 であり、そこに展開しているのは 「絶対の愛」 なのである。

 「絶対の愛」 とは相手に対する相対の愛ではないのである。みずから立っている愛であり、 「今」 立っている愛であり、みずから愛である愛であり、在(あ)りて在る愛であり、それは人間の今、そのまま、このままの相(すがた)そのものなのである。

 それ故、今そのものである人間のそのまま、このままが生長の家人類光明化運動の姿をしているのである。今ここに、そのままに、このままに、生長の家人類光明化運動は立っているのである。

 今このままに、そのままに、生長の家人類光明化運動は久遠の昔よりこの方、人のいのちにおいて立ちつづけであったのである。

 「吾れ起ちてより已来(このかた)、百千万億那由他阿僧祇劫(なゆたあそうぎこう)なり」 と生長の家人類光明化運動はひとつなるいのちにおいて言っているのである。

 「吾れは、アブラハムの生まれぬ先より在るなり」 と生長の家人類光明化運動は、ひとつなるいのちとして、今ここに、このままに、そのままに鳴りひびいているのである。(1998.10.31)


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