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復興G
:2013/09/17(火) 21:03:03 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
八十六
「大信心(だいしんじん)は仏性(ぶっしょう)なり。仏性即ち如来(にょらい)なり」 と親鸞(しんらん)は言っているのである。大信心と仏性と如来とはひとつであるということである。ひとつなるものを 「大」 と言い、 「仏」 と言い、 「如(にょ)」 というのである。
神と生長の家と人類光明化運動とはひとつなのである。ひとつであるということは、 「今」 であり、渾(すべ)ての渾てであるということなのである。渾ての渾てであるということは自分自身のことであるということでなければならないのである。
渾ての渾てであるという他人(ひと)ごとというのは有り得ないのである。渾ての渾てであると言いながら、それは自分のことではない、ということは成り立たないのである。
「吾れ」 「今」 「ここ」 がひとつであって渾ての渾てであるのが、存在するもののすべての相(すがた)なのである。
神とは、實相とは今、ここ、吾れなるものなのである。神、實相は今、渾ての渾てであるから、 「實相を現象に現してこそ値打ちがある」 というのは、實相ではないのである。今、すでに、完成そのものであり、 「そのままでよい」 と言えるものこそが、神であり、實相であるからである。
もしも、實相を現象に現さなければ値打ちがないのであれば、宇宙的に見れば、地上に戦争もあり、危険もあり、天体の爆発消滅もありであって、神は實相を現象に現していない、ということになって、神そのものも大したものではないということになるのである。
神と言い、神の子といい、神と言える神そのものがあるのかどうかが、全てなのである。
「神はあるのか無いのか」
「神とは何か」
「神があれば不完全は無く、不完全があれば神は無い」
ただただ、ひたすら、この問題(テーマ)だけでよいのである。そして生長の家は、
「神はある」
という大直観によってはじまっているのである。この 「不完全は無い」 との、神なる、よろこびの、大光明のおのずからなる展開が 「生長の家人類光明化運動」 の相(すがた)なのである。
神は絶対者であり、無限者である。それ故、神が自分の内にあるとは、自分は無いということであるのである。
吾が内にありて、生長の家人類光明化運動は、
「私は渾ての渾てである」
と宣(の)り給うているということは、自分は無いということなのである。
ただただ見渡すかぎり、神ばかり、光明化運動ばかり、よろこびばかりである。尽十方無礙(じんじっぽうむげ)光明化ということである。
自我なきことが光明化運動なのである。
「神は在(いま)し給う」
このいのちのコトバのひろがりがあるばかりである。
「生長の家人類光明化運動」 と書いて 「神は在し給う」 と読んでもよいのである。
神は渾ての渾てであり給う。ただこのことがあるのみなのである。ただただこのこと一筋でよいのである。この一筋を全托(ぜんたく)というのである。全宇宙を神に托している相(すがた)とはこのことである。
生長の家人類光明化運動は神であり給い、渾ての渾てであり給う故に、神に全托するとは、生長の家人類光明化運動なるものに全托するということなのである。(1998.9.24)
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