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83復興G:2013/08/28(水) 03:53:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十

 生長の家の出現は宇宙はじまって以来の荘厳である、と想わず心に叫んだ人があった。まことに羨(うらや)ましい限りである。

 この人は、宇宙はじまる以前、宇宙以前を言ったのであろう。宇宙を宇宙たらしめているもの、創造なるものの根源なるもの、即ち神を神たらしめたのが生長の家の唯神(ゆいしん)實相哲学であることをかい間観たにちがいないのである。この人の眼は実に、観るべからざるものを観てしまった、幽の幽なるものは観ること能わざるものにちがいないのに、それを観てしまった、神が神であるその全荘厳をのぞいてしまったという眼をしておられたのを想い出すのである。

 イザナギの命(みこと)が、イザナミの命の姿を見てはならないという言葉に反して見てしまった、その、のぞくべからざるものをのぞいてしまった時の眼はどのようなものであっただろうという想いに誘っていくその人の眼であった。そして、その眼は、暗(やみ)をのぞいたのではなく、光りの光りをのぞいてしまった眼であったのである。

 「今という不思議の光りを観た」 とその人は言っていた。

 過去、現在、未来、因縁、時空超脱の 「久遠の今」 こそ今という今なのである。

 今即久遠(いまそくくおん)、久遠即今(くおんそくいま)である。今という光りは久遠なる光りであり、光りである久遠であり、渾(すべ)ての渾てなる光りであったのである。

 その人の言った 「不思議の光り」 というこの不思議とは 「入龍宮不可思議(にゅうりゅうぐうふかしぎ)」 の不可思議である。この久遠の今、今という不思議の光りなる生長の家の哲学によって多くの奇蹟的治癒がその人の周囲にもたらされたことは 『生命の實相』 にあまりにも有名である。そのことによって純粋宗教の部門として生長の家本部に 「神癒祈願部」 が開設された時の初代の部長となられたのであった。

 今という不思議の光りが、どのようにかかわって人々に神癒をもたらしたか、そのメカニズムははかり知り難いが、時空超脱(じくうちょうだつ)の今が實相であり、神そのものであること、その光りを伝えることによってもたらされた癒しは、まことに神癒と言える神癒であったことだけは疑いようのないことだと言えるのである。

 「今なる不思議の光り」 によって神癒がもたらされたということは、大聖師谷口雅春先生が 「今起て!!」 という不思議の御声によってはじまった生長の家の人類光明化運動であることを想えば、それに救われ、共鳴されたこの人が 「今という不思議の光り」 によって癒しをもたらして行ったということはまことに生長の家人として自然きわまりないことであると言わざるを得ないであろう。

 時間未(いま)だ発せず、空間未だ発せず、一切万象(ばんしょう)発生の枢機(すうき)を把(にぎ)る久遠の今、創造の本源世界を説き給うたのが 「入龍宮不可思議境涯録」 という名前がつけられたこ文章で聖典の中におさめられているのである。そして、

 生長の家の哲学の中で最も重要な哲学が 「今の哲学」 であるとも説かれているのである。神癒の部門である純粋宗教部門が 「今の哲学」 によってはじまっているということは、 「今」 という不思議の光りこそが純粋ということの本体であるということを意味していると拝察させて頂くのである。

http://www.youtube.com/watch?v=e2ol5ztA3z8
http://www.youtube.com/watch?v=lDSwsxbLfes

 一方、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)の自覚によって神癒がもたらされるのであれば、生命の實相とは 「久遠の今」 ということであるということになるのである。

 神癒の展開としての人類光明化運動が 「今起て!!」 ということによって、 「今」 なるものが起(た)ったことであることの不思議を想うのである。(その人とは服部仁郎先生のことであり、この弟子のことは 「弟子像Ⅰ」 として拙著 『弟子像』 中に書きとめてあり)(1998.9.8)


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