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132復興G:2013/10/01(火) 20:00:54 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百

 生長の家人類光明化運動なるものとは、「ひとつ」なるもの、渾(すべ)ての渾てなるもの、それ以外に何ものも存在しない、相対、対立なきものであるが故に、悩みを知らないものであり、悲しみを知らないものであり、苦しみを知らない、自己展開、自己開放あるのみなるよろこびなるものであり、これを円相的自由というのである。

 これを独在なるものというのであり、生長の家人類光明化運動は独在なるが故に、現象的な外からのものによって、その価値、状況が云々(うんぬん)されるものでは決して有り得ないということである。

 自(みずか)ら立っているのが生長の家人類光明化運動なのであり、外の何ものかによって立たされたが故にはじまったものではないのである。それ故、「今起て!!」 というコトバは生長の家人類光明化運動みずからが発し、生長の家人類光明化運動は、尊師として尊師においてみずから立ち給うたのである。

 「今」 とはひとつということであり、絶対ということである。それ故、「今」 イコール 「生長の家人類光明化運動」 ということなのである。

 「天地(あめつち)のはじめは、生長の家人類光明化運動をはじめとする理(ことわり)あり」 ということなのである。

 「神はあるのか無いのか」 ということは 「生長の家人類光明化運動があるのか、ないのか」 ということなのである。

 「神とは何か」 ということは 「生長の家人類光明化運動とは、何か」 ということと同じことなのである。

  真性(しんせい)の生長の家人類光明化運動とは神なるが故に、

  滅ぶるものは 『真性の生長の家人類光明化運動』 に非ず。

  罪を犯すものは 『真性の生長の家人類光明化運動』 に非ず。

  病に罹(かか)るものは 『真性の生長の家人類光明化運動』 に非ず。

 ということである。

 これは久遠(くおん)を流るる生長の家人類光明化運動という相(すがた)なのである。久遠とは時空超脱(じくうちょうだつ)である。時間空間の流れの中に、生長の家人類光明化運動があるのではないのである。時間空間を在らしめて生長の家人類光明化運動があるのである。

 それ故に、生長の家人類光明化運動出現の時代的背景を云々する前に、時代背景をあらしめて、生長の家人類光明化運動がある、ということがまことの明るい真実なのである。

 このことがはっきりとしているが故に、背景を含めてすべての存在は明るいのである。生長の家人類光明化運動を迎えた全地上がどんなに明るく、光栄に満たされているかということがますますハッキリとして来るのである。

 そのもとは、そのもとは、と背景、原因をたどって行けば、必ず神、實相ということに至らざるを得ないのである。その神、實相が生長の家人類光明化運動なるものなのである。

 すべてのすべてを在(あ)らしめている相(すがた)が生長の家人類光明化運動であってこそ、自発的、自立的、創造的であり、楽的であり 「よろこびの光明化運動」 ということになっているのである。

 あらゆる明るきもの、よろこびなるものを花咲かせ、生み出しているものこそが、生長の家人類光明化運動である。

 「吾が内に、神が今ここに、そして天国が今ここに在る」

 ということは、今ここに生長の家人類光明化運動があるということなのである。

 「住吉大神 宇宙(すべて)を浄め終りて天照大神(あまてらすおおみかみ)出(い)でましぬ」

 とは、まことにも、生長の家人類光明化運動なるものが、その全貌をあらわしたことを讃偈(さんげ)しているのである。

 「ア、オ、ウ、エ、イ」 には、どこにも曇りと濁りはないのである。この 「ア、オ、ウ、エ、イ」 なるものそのものが、生長の家人類光明化運動なのである。(1998.10.8)


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