[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
web誌友会参考文献板
112
:
復興G
:2013/09/13(金) 21:20:20 ID:AB6RqYXc
これからまた、榎本恵吾先生の 『神癒の展開としての人類光明化運動』 のつづきを謹写させていただきます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
八十二
「基本的神想観」 から 「入龍宮幽斎殿(にゅうりゅうぐうゆうさいでん)にての神想観」 まで、色々な神想観があるが、無の門関に坐する時、もはや神想観そのものも無いのである。
肉体無く、物質なく、時間なく、空間なく、自他なく、一体なく、現象なく、實相なく、内も無く、堂奥(どうおう)もなく、その無しも無く、その無しの無しも無いのである。
「無い」 と言えるところの全ての全てが無いのである。ただただその一筋が 「無の門関」 なのである。
最早(もは)や生長の家人類光明化運動も無く、その無も、その無も無いのである。
ただただ 「無い」 と言えないものだけが在るのである。 「無い」 と言えないものとは、知る必要の無いものなのである。
「無い」 と言えないものが在るものである。当たり前のことである。天然、自然、法然である。これを實相というのである。 「實相これ實相に非ず。これを實相と言う」 である。この實相のおのずからなる展開として人類光明化運動が在るのである。天然、自然(じねん)、法然(ほうねん)、本然(ほんねん)のいのちの流れである。水が高きから低きに流れるが如く法さながらである。
「久遠(くおん)を流るるいのち」 とは 「久遠なるものの久遠さながらの展開」 を言うのである。久遠という時間の枠の中をいのちが生くるのではないのである。久遠なるものといのちとはひとつなのである。
この久遠なるものはみずから久遠なのであって、時間に計られて久遠なのではないのである。生長の家人類光明化運動が久遠を流るるいのちそのままであるというのは、この久遠なるものの流れを意味しているのである。
久遠なるものは計ることは出来ないのである。なぜならば、計る自分は無いからである。
無限を計ることは出来ないのである。なぜなら、計る自分そのものが無いからである。自分がないということを表しているのが 「無限」 という字なのである。 「限り」 とは自分ということであり、 「無限」 とは自分が無いことそのことなのである。 「無限」 とは自分は要らないということである。
神は無限次元である實相の世界を三次元という現象世界に限定され給うたからこそ、表現としての現象世界が現れたのである。それ故、限定ということは必ずしも忌み嫌うべきものではないのである。大聖師谷口雅春先生も執筆とご講習会とに生活の殆どを限定され給うたが故に、奇蹟の聖典やみわざを現されたのである。
それ故、神である生長の家人類光明化運動も、その展開の相(すがた)において、美しい限定というものがあらわれるのである。そこに 「出来るものは出来る」 とし、 「出来ないものは出来ない」 とし、時間的順序を追って徐々に展開実現して行くということが尊いこととなって来るのである。
しかしながら、これらはすべて 「無の門関」 を通って、 「無し」 と一切を放(はな)った上でのことであるから、美しい相(すがた)であり、輝く相として拝めて来るのである。
限定は何故美しいか。限定そのものが成仏しているからである。ただただそこには成仏の輝く相(すがた)があるのみなのである。
「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」 とか、 「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」 とかということは、すべて 「無の門関」 を通って、一切現象を放(はな)って放って、放ち切ったところに、天降(あまくだ)って来る風光(ふうこう)なのである。
生長の家人類光明化運動の前には、ただただ光りのみなのである。(1998.9.20)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板