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196復興G:2013/12/14(土) 18:31:39 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十

 みずからにして、おのずからなるものとは、「現象無し」 と、捨てて捨てて、超えて超えて、死んで死んで、死に切って、はじめに帰って帰って、そして、その 「現象なし」 と捨てることも、超えることも、死に切ることも、はじめに帰ることも 「無し」 と超えて超えて超え切った 「無い」 と言えるすべてのすべてを 「無し」 として、神、仏、實相も 「無し」 として、その 「無し」 も 「無し」 としている、そこにそのままがあり、それがみずから、おのずからなのである。それが、實相なるもの、神なるもの、仏なるもの、創造するものなのである。

 そこにおのずからなる、みずからなる、そのままなる光明化運動なるものが久遠(くおん)を流れているのである。久遠なるものとしての生長の家人類光明化運動のすがたがそこにあるのである。

 みずから、おのずからなるものこそが創造であり、生長であり、唯一の善であり、価値なのである。自然(じねん)、法然(ほうねん)、天然(てんねん)なる光明化運動なるものの発進である。

 斯(か)くのごとき発進は久遠の発進なるものであり、「今」 なる発進なるものなのであり、すべてのすべてなる発進である。

 これは過去、現在、未来の流れの中の発進ではなく、「久遠」 なる、「今」 なる、「渾(すべ)ての渾て」 なる発進なのである。この渾ての渾てなるものが、みずからであり、おのずからなるものなのである。時空超脱の発進である。

 「発心(ほっしん)正しからざれば万行(ばんぎょう)空(むな)しく施す」 というよろこびの言葉はまことにも、みずから、おのずからなる発進、すべてのすべてなる発進の久遠なる実体がそこに鳴っている言葉なのである。

 五官の世界すなわち現象には、みずから、おのずからはないのである。それはすべて外より来たったものによって成り立っている、相対的にして、有限、局限なるものなのである。それは時間的にして、空間的なるものであるが故に、「久遠」 ではなく 「今」 ではなく、「渾ての渾て」 なるものでは有り得ないのであり、みずから、おのずからでは有り得ないのであり、そのままではないのである。

 みずからはおのずからなるが故に、相対を超えて 「在りて在る」 ものであるが故に、未だかつて崩れたることは無いのである。「今」 起った、みずから、おのずからそのものなる生長の家人類光明化運動なるもののまことのすがたがここにあるのである。

 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 に於いて 「欲(ほっ)するもの好ましきもの自(おのず)から集り来たり、欲せざるもの好ましからざるもの自(おのず)から去る」

 と観じ念ずる。この如意宝珠なるもののはたらきを称して、おのずからと言い、みずからと言うのである。おのずから、みずからがすべてのすべてであり、おのずから、みずからのみがあるのである。
 みずから、おのずからが神なのであり、天国なのであり、龍宮そのものなのである。

 去るも来るも、欲するも、欲しないも、好むも好まざるも、すべておのずから、みずからなのであり、神ばかり、光りばかり、善ばかりなのである。おのずから、みずからが、そのままであるから、「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり、」 と 「『生長の家』 信徒行持要目」 には「そのまま」について解説されているのである。

 みずから、おのずから、そのままの、如意なる運動が生長の家人類光明化運動なのである。(1998.11.17)


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