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167復興G:2013/10/31(木) 15:31:12 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十七

 「疑わずに吾が光を受けよ」

 すべて完成なるものの観る世界は完成あるのみである。神の子人間には、疑う自由がある、と一応は方便として説かれているが、聖経 『甘露の法雨』 には、

  悉く夢なければ本来人間清浄(しょうじょう)なるが故に
  罪を犯さんと欲するも
  罪を犯すこと能わず、

 と書かれているのであって、本来清浄なる神の子人間には、疑うという罪を犯す自由はないのである。それははじめのはじめより神なるものと神の子は不離一体であるが故に、信ずる信じないを超えた相(すがた)であるからである。神の子人間は、自由をさえ超えて渾(すべ)ての渾てなる存在なのである。これが 「今」 なる相(すがた)なのである。

 「疑わずに」 ということは 「今を生きよ」 ということなのである。疑いを除くという時間は無いのである。「今」、疑う人類は一人も居ないのである。その 「實相を生きよ」 ということのみがあるのである。

 再び、「今すべての病人は起つことが出来るのである」 とのコトバを聴くのである。疑って、倒れているものなどは一人もいないのである。それ故に、「すべての」 と言い切れているのである。

 大聖師谷口雅春先生にとって、イエス・キリストの 「汝の罪ゆるされたり。起ちて歩め」 とのコトバは、万人に、すべての人に天降(あまくだ)されている言葉であったのである。全宇宙に向かって 「汝」 と言ってい給うことであったのである。

 これは神の 「光りあれ」 との宣言と同じであって、この時光りは暗(やみ)になる自由はないのである。光りは光りであるのみである。「今すべての病人は起つことが出来るのである」 という宣言。「汝の罪ゆるされたり。起ちて歩め」 の宣言。これはまことにも神の天地創造の 「光りあれ」 と同じことであることが 「神示」 といわれるゆえんなのである。

 イエスご自身も 「吾れは何ごとも為す能(あた)わず、天の父吾れにありて為し給うなり」 と宣(の)り給うていることが、何ものが語り示し給うているかを教えているのである。

 イエス・キリストの言葉と大聖師谷口雅春先生とは神においてひとついのちなのである。万教帰一とはこの意味でもあるのである。釈尊のいのち、日蓮、親鸞、道元、等々、すべての人々と一体のいのちである實相に帰り給うて、人々だけ、教えだけではなく、天地一切万物と一体であるその實相より鳴り出でたのが 「万教帰一」 ということそのことなのである。

 大聖師谷口雅春先生の説かれる如く、自分をとりまくすべてのすべては、観世音菩薩の吾れに告げ給うみことばなのであれば、天地一切万物がひとつであるということが万教帰一ということであるのであった。ここにおいて、万教帰一ということと、中心帰一ということは、ひとつのこととして拝受されて来るのである。(1998.10.25)


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