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178復興G:2013/11/11(月) 13:39:57 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十七

   わたしの内に、諸君の内に、ここにこのまま神の国はあるのだった。


 聖経 『甘露の法雨』 には、

 『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり。

 と言い切られているのである。

 釈迦、キリストを完成したのが生長の家である、と大聖師は宣(の)り給うているのである。この戯曲に登場しているイエス・キリストは生長の家によって完成し給うているキリストであると言えるのである。

 實相ははじめのはじめより完全である故に、實相には完成するということは有り得ないのである。それ故に、釈迦、キリストを完成したという、その完成された釈迦、キリストは現象の釈迦、キリストであり、実際には “完成した” ということは、その現象釈迦、キリストは “無い” ということをハッキリとしたということなのである。釈迦、キリストの出来なかったあれこれを出来たというエスカレーションの問題ではないのである。

 嘗(かつ)て二千年前のイエスは、 「神の国は汝らの内にあり」 と宣り給うたのであったが、これでは内にもあるが外にもあるということである。そこを 「汝らの内にのみ」 と言い切られたところが完成したるゆえんなのであって、この言葉を聴き給うて手を打って讃える

 「よくぞ言い切って呉れた!!」

 という實相イエス・キリストの声を確かに大聖師はお聴きになったのである。同じように實相釈尊のお声をも確かに大聖師はおききになったのである。天地一切万物が手を打ってよろこび讃える声をお聴きになったのである。天地一切を完成したもうたのが大聖師であり給うからなのである。

 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 はまことにも、完成した天地一切万物を照らし出し給うもののことであるのである。それを為し給うたのが大聖師谷口雅春先生にましますのである。「吾れ万物を完成せり」 と宣り給うものこそ 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 なのである。

 生長の家は一切を完成するのである。何故ならば、神をも完成し、ゆるしたのが生長の家であるからである。

 まことに神と言える神、實相なる神を見出し給うたのであり、この時まではまことにも神を審(さば)くことより仕方がなかったのである。不完全の神、神とは言えない神である以上、審く以外はなく、こちらが審くが故に、ただただ神に審かれているという想いしか有り得ず、 「愛されていた。生かされていた」 という、審き憎むことの反対であるところの、感謝と赦(ゆる)しというものは有り得なかったのである。ここに、神を完成し、神をゆるすという道が開かれたのである。

 「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ」

 と宣(の)りごとするとき、このみ親は、「吾が生みの」 なのであって、「私が生んだみ親神よ」 と言い切れており、そして、

 「さすが吾が世嗣ぎよ!!」 と神が手を打ってよろこび給う、そのみ声をたしかにお聴きになったことが、神を完成し、天地一切を完成し給うた時であったのである。その意味においても、釈迦、キリストを完成したるものと言い切れているのである。

 ある誌友が、初期のころであろうと拝察されるのであるが、あまりにもおどろいて大聖師谷口雅春先生に、

 「あなたは一体どなたにましますのですか?」

 と想わず問(き)いた時、

 「本当のことを言うと、手が後ろにまわるよ」

 とおこたえになったということを、先達にお聴きしたことがあったのを想い出すのである。ピラトがイエスに、

 「汝はまさに王なるか?」

 と言う。イエスは

 「汝の言えるが如し」

 と答え給うているのである。いくらイエスが 「そうだ」 と言っても、ピラト自身が自身の言葉で 「まことその通りである!!」 と言い得なければ何にもならないことなのである。大聖師もまた、万人が王の王であることを拝み給うていることについて、

 「まことに先生はこの通りですか?」

 との問いに対して、

 「汝の言えるが如し」

 と私たちにお応えになりつづけであり給うのである。(1998.11.4)


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