[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
web誌友会参考文献板
55
:
復興G
:2013/08/03(土) 04:58:25 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
四十五
イエス・キリストが 「吾れは神の一人児(ひとりご)である」 と宣(の)り給うてはばからなかったのは、 「子」 であるのは自分お一人であって、自分を取り巻く、天地一切万物ことごとくが親様であるということを知ってい給うたからなのである。
そこに親を観ずることの出来ることが、和解であり、調和であり、感謝であるのである。生長の家では 「神に感謝しても父母(ちちはは)に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 と『神示』が天降(あまくだ)っているのである。
父母は神の愛のあらわれそのものであり、神そのものであり給うのであるから、父母に感謝し得ないことは、神に感謝し得ないことと “ひとつ” ことであるから、神の心にかなわないのは当然以上の自然なことなのである。
尊師がお悟りになった時 「明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである」 と、因縁上の母の胎内即ち母親そのものを否定され、何ものにも因(よ)ることのない、神なるものそのもののまことの自分に還られたのであった。
そして 「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 と言い出されたのであって、父母が神よりも尊いものであると言い出したことになっているのである。
そして、その時こそ、神が 「わが意を得たり」 と手を打って讃えられる、神ご自身のよろこびを感じられ、はじめて自分が神の心にかなったことを味われたのであった。
それ故、その意味において、生長の家は宇宙最高の教えであり、ただ一つの教え(ひとり児)であることをよろこんではばからないのである。即ち、その宇宙最高という意味は、 「生長の家が宇宙一、父母をはじめ天地一切万物のそのままの、神の神なる尊さを知っている」 ということにおいてという意味なのである。
釈尊の 「天上天下唯我独尊(ゆいがどくそん)」 ということにおいても、釈尊は 「山川草木国土(さんせんそうもくこくど)、有情非情(うじょうひじょう)」 の悉くのものの尊さを知っていることにおいて自分以上のものは有り得ないのである、という、はばからないよろこびがそこに表現せられているのである。
それ故に、生まれてすぐに七歩あるいて 「天上天下唯我独尊」 と宣(の)り給うたお方が、その最高のよろこびの時の表現として 「山川草木国土 悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)、有情非情 同時成道(しっかいじょうぶつ)」 と言い給うているのであって、何故に、何において、どのような姿において 「独尊」 であるかがここにうかがわれるのである。
その世界、そのいのち、そのよろこびをそのまま拈華微笑(ねんげみしょう)によって継承したのが迦葉であったのである。
大勢いる弟子たちの中で、釈尊の拈(ねん)じた蓮華を見て、たった一人迦葉(かしょう)のみがその真意を解したのであった。
しかしながら、これはこれでよいとしても、釈尊ともあろうお方が、たった一人しか悟らせることが出来なかったのであろうか。これでは釈尊の教化力が疑われることになりはしないであろうか。
しかしながら、迦葉は釈尊の 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 そのものの世界をそっくりそのまま受けとってしまったのである。それ故に迦葉にとっては、自分の周囲に居る弟子たちも山も川もすべてのすべてが仏であるその世界をそっくり受けとってしまったのであれば、まことに、迦葉一人で充分である、 “ひとつ” なる世界、中心がすべてのすべてである世界、天皇の六合照徹(りくごうしょうてつ)の世界を拝み奉り、その世界を生きた姿が拈華微笑の消息であったということが出来るのであり、たった一人で必要且つ充分であったということが出来るのである。
イエス・キリストに言わせれば、迦葉は釈迦の 「一人児(ひとりご)」 であったのである。 「子」 は迦葉一人であり、迦葉をとりまく天地万物ことごとくが釈迦であり、仏であり、親様であったのである。
この世界こそが 「ハイ」 の消息であり、それ故、迦葉に 「ハイ」 とこたえた阿難(あなん)は、 「それでよし!!」 とされたのである。
ここに中心帰一の極みの姿があるのである。
即ち、中心に帰一したならば、自分が中心となっているということである。それ故、 「中心帰一せよ」 とは無限の祝福として聴こえなければならないのである。
何故、中心帰一が可能であるのか。自分のいのちが、中心より出でて、中心でありつづけているからなのである。そのことを 「ハイ」 と受けることこそ 「そのままの心を大切にする」 ことなのである。(2013.8.14)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板