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198復興G:2013/12/25(水) 14:42:18 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十二

 神癒とは、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚した時に、あらわれるよろこばしき何かであるということである。自性円満なるもの(神=實相)はみずからあらわれるということなのであれば、神癒とは、内より神が癒しなるものがみずから、おのずからあらわれて実現するものであるということなのである。

 例えば、神癒祈願の申込みにおいても、申込みたくなること、そのことが既に内より神があらわれられ、神癒なるものがみずから、おのずからあらわれて申込書を書いているということになっているのである。

 はじめからある神そのものであればこそ、人型の 「實相円満」 という言葉があるのである。「實相円満」 がみずからあらわれて申込書となっているということなのである。

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)の 「信心よろこぶその人を如來とひとしと説き給う。大信心は佛性なり。佛性即ち如來なり」 という言葉は、このあたりのことを表現しているとも言えるであろう。神癒祈願の申込書を書いただけで病気が消えてしまって、お礼状だけが来るというようなことがあるのもまた、あるいはこのことの側面を教えているとも言えるのである。

 生長の家の人類光明化運動の出現は、宇宙的癒しの周期がめぐって来たことを意味していると言えるのである。宇宙の實相がみずから、おのずから顕れ給いて、生長の家人類光明化運動の出現となっているということである。

 ここにおいて、吾々は、二度三度、 「それを為し終ったのが生長の家だよ」 という声を聴くのであり、この 「為し終わり」 より発しているのが生長の家人類光明化運動なるものなのであることに、心を新たにしなければならないのである。

 そして 「こと完成せり」 「こと終われり」 の完全持続として、宇宙的自性円満の自己顕現のすがたとして、神癒なる光明化運動が實在していることを讃嘆し、拝みまつりたく 斯(か)く書かずにはいられないのである。

 斯く、繰り返し、繰り返し言いたくなるのは、生長の家人類光明化運動は神であり、實在そのものである、ということを讃嘆したい願いによるのである。

 生長の家人類光明化運動は實相そのものであって、實相と現象との中間あたりにあって實相を現象に持ち来たすための仲介の役目をする中有的な存在では決してあり得ないのである。

 神は暗(やみ)を知り給わず、悩みを知り給わないのである。それ故、神である生長の家人類光明化運動なるものは、暗を知らず、悩みを知らないのである。癒しそのものであり、甦(よみがえ)りそのものなのである。

 癒しと言えば、病悩を前提とした言葉のようであるが、 「神癒」 ということは、神である癒しなのであるから、この癒しとは、相対的なるものではなくして、神は絶対なるが如く 「神癒」 の癒なるものは、病悩に対する相対の癒しではなく、絶対の癒しそのものなのである。それはみずから、おのずからの新生そのものである、甦りというものなのである。

 それは、生長の家人類光明化運動と言えば、暗を光明化するという、相対の光明のように見えているままに、生長の家という言葉がついている以上は、神そのものであり、この光明も絶対の光明であり、相対の光明ではないということと同じように 「神癒」 もまた同じすがたなのである。(1998.11.19)


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