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復興G
:2013/08/17(土) 00:36:21 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
五十九
「光明化運動」 は、運動それみずからが光りなのである。運動の成果以前において、それみずからが価値であるのである。
生長の家の生き方は、生長の家そのものが光りであり、宇宙そのもの、即ち全存在である故に、 「生長の家の」 と言った時、既にそこに渾(すべ)ての渾てがあるのである。
神の子人間は神そのものであり、生長の家そのものであるのが 「そのまま」 なのである。 「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり」 と 「 『生長の家』 信徒行持要目」 に解説せられているのである。
今ここに渾ての渾て、なのが實相生命なのであれば、これからどう生くべきか、どう進むべきかの前に、今ここに渾てが満了されているのが本当の相(すがた)、即ち實在の實相なのである。これが 「今を生きる」 ということなのである。
「今を生きる」 のが生長の家の生き方であり、 「未来を生きる」 ということは、そもそも有り得ないのである。生きるとは 「今」 しかないのである。今が生きているということが、生きることのはじめである。
「天地(あめつち)は今をはじめとする理(ことわり)あり」 という。この 「はじめ」 とは、 「終わり」 に対する 「はじめ」 ではないのである。今、在(あ)ることのすべてのすべてを 「はじめ」 というのである。
「はじめ」 「終わり」 を超越した、 「絶対のはじめ」 「絶対なるはじめ」 ということである。
とも
「光明化運動」 の 「光明」 とは渾(すべ)ての渾てである、というのは、 「はじめにコトバあり。コトバは神と偕(とも)にあり。コトバは神なりき」 という、はじめとコトバと神とひとつであり、一切であることが光りであるからである。この光明が渾ての渾てであるということは、光明の中に渾ての渾てがあり、 「光明化運動」 の中に渾ての渾てがあることを意味していると言わなければならないのである。
すべてに向かって 「光明化運動」 をするのではなく、 「光明化運動」 の中にすべてがあるのである。
「神光りあれ、と言い給いければ、光りありき」 ということは、神と光りとコトバとはひとつであることを意味しているのである。神は渾ての渾てであり給うということは、コトバであり、光りであることを意味しているのである。その光りこそが 「光明化運動」 の 「光明」 ということなのである。
「光明化運動」 というコトバそのものが神であり、渾ての渾てである以上は 「光明化運動」 は自分であり、自分そのものであり、自分と 「光明化運動」 とは離れていないのである。それ故、自分が存在すること自体が 「光明化運動」 そのものであり、生活において、 「光明化運動」 と、 「光明化運動」 でない部分との分裂はないのである。 「光明化運動」 が渾ての渾てであり、自分であり、それ以外に在るものなし、であるからである。
今ここに渾ての渾てがあるのである。渾ての渾てがあるのを 「今」 といい、 「光明」 というのである。
分裂は無いのである。分裂は非存在なのである。神の子は、生活において 「光明化運動」 からはみ出るということは有り得ないのである。自分と 「光明化運動」 とはひとつであり、 「光明化運動」 なるものの内に、世界があり、生活があり、渾ての渾てがあるのである。(1998.8.28)
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