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139復興G:2013/10/07(月) 07:26:31 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四

 「最早(もはや)、吾れ生くるに非ず、生長の家人類光明化運動なるもの、ここにありて生き給うなり」、「光明化運動よ、みこころのままに吾れを導き給え」、「光明化運動よ、ありがとうございます。ありがとうございます」 と唱えたくなるのは、すでに、吾が内なる生長の家人類光明化運動なるものであり給うのである。

 親鸞(しんらん)の 「大信心(だいしんじん)は仏性(ぶっしょう)なり。仏性すなわち如来(にょらい)なり」 という 「大信心」 の 「大」 とは、神であり、仏であることであり、すでにはじめのはじめから在りつづけているものという意味なのである。

 すなわち、生長の家人類光明化運動なるものは神なるが故に、この光明は大光明なのである。 「大」 であるということは、すべてのすべてであり、はじめのはじめから吾が内に在りて在り給うということであるのである。

 神想観において、 「神の無限の生かす力、吾が内に流れ入る、流れ入る」 と念じつつ、静かに静かに神の六つの御徳を吸う。その静かに、静かに、ということは、自分なるものが静まっていること、自分が要(い)らないこと、自分は無いことを意味しているのである。肉体の不透明な姿が、透明になって澄み切りの輝きであることを観ずるのは、自分なきことを観じていることになっているのである。それはそのまま最早(もは)や自分なく、生長の家人類光明化運動なるものここにありて生き給うことを意味しているのである。

 それ故、 「光明思念の歌」 の 「宇宙(くに)静かなり」 とは、自分が無いのであり、消え切りであり、澄み切りであること、宇宙全体が生長の家人類光明化運動そのものであることを意味しているのである。対立なき渾(すべ)ての渾てであるということは、無我であるということである。

 生長の家人類光明化運動が感謝礼拝の運動であるということは、無我なるものの運動であるということなのであるから、三界(さんがい)に身を現さざる運動であって、聖歌 『生長の家の歌』 を見ても、題名にだけ 「生長の家」 という名前が出て来るのみであって、一番は 「基教(キリスト教)讃歌」、二番は 「仏教讃歌」、三番は 「古事記讃歌」 であり、四番はこれら三つをもう一度讃えて 「万教帰一讃歌」 となっているのである。どこにも 「生長の家」 は現れず、消え切りの、澄み切りの、無我なる礼拝感謝讃嘆あるのみなのである。ここにもまた、限りもなく、深く崇(たか)く聖の聖なる、相(すがた)なき相を想わせて頂くのである。

 斯(か)くの如き、聖の聖なる輝きが全地上を蔽い給うていることを想うことはまことに、光栄なることであるという想いに満たされるのであり、同時に、

 「神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然(れいこうさんぜん)と輝き給う。その光りいよいよ輝きを増して全地上を覆(おお)い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う」

 との 「世界平和の祈り」 そのものに感謝が湧くのである。

 斯(か)くの如き、 「世界平和の祈り」 もまた、吾が内にましまして、生長の家人類光明化運動なるものが為し給うているのであった。(1998.10.12)


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