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復興G
:2013/08/22(木) 00:05:33 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
六十四
「写経」 というのがあり、入龍宮幽斎殿に於いて聖経の筆写が行われているのであるが、生命の本当の姿の鳴りひびきを筆写され給うた、その第一、最大の写経なるものが、聖典 『生命の實相』 であり、聖経 『甘露の法雨』 ほかの生長の家の聖典であると言わなければならないのである。
それ故、この筆写なるものと出逢う時、こちらもまた写経したくなるのである。聖典、聖経は、他人(ひと)ごとではなく、自分自身そのものであるからなのである。
生きとし生けるものとして生かされてあることが先であって、その生かされている姿を写し給うて歌われたのが 「招神歌(かみよびうた)」 なのである。事実が先であって、それが写されるのである。
雨が降るから傘をさすのである。傘をさすから雨が降るのではないのである。雨にもよおされて傘が開くのである。完全円満平等遍満の實相生命がはじめのはじめから、既に、今ここに輝いているのが先であって、それを讃え給うているのが聖典聖経なのである。
呼吸も、久遠の流れ入りがありつづけているから吸うのである。流れ入るから吸うのであって、吸うから流れ入るのではないのである。 「神の無限の生かす力吾が内に流れ入るのを観(み)つめ観送る」 ということは、自分ならざる、はじめのはじめからありつづけている流れ入りの相(すがた)の消息なのである。
神想観は観法なのである。観(かん)ずることの出来るのは、既に在るからなのである。在るのは、はじめのはじめより神によりて在るのである。即ち、すべては生かされて在るのである。それ故に、観法は感謝なのである。神想観の結論は感謝である、ということは、観法であることの意味をもつのである。
その感謝から、よろこびに満ち、光りに満ちて、コトバを創造的に発する時、 「祈り」 即ち 「命宣(いのり)」 となるのである。その故に、神想観は 「観法」 であると同時に 「祈り」 であると言われているのである。
感謝はすでに在(あ)るものを味わうこと観ずることによってのみ起こるのであるから、ノイローゼは感謝が出来た時、既に無いのである。ノイローゼは本来無いものを相手にする姿であるから、感謝が起きたとき、在るものにふれ、地に足がついたことになるからである。
即ち、 「生長の家人類光明化運動」 は、實相なるものの上に立った 「観」 なるものを基(もとい)としていることによって、ただ単なる世界の時勢への取り越し苦労ではなく、一瞬一瞬みのりのある歩を進めているところの荘厳な相(すがた)となっているのである。 「愛行は虚(むな)しからず」 ということである。
斯くの如く、 「観」 なるものを基としないとき、その行は、釈尊の宣り給うた如く、 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 の行となってしまうのである。生長の家では 「招神歌」 を唱える時、すでに實(じつ)のある真行となっているのである。
生長の家の観からすれば、中身なる實相(まこと)が先にあって、實相(まこと)が、みずからおのずから顕れ出て来て行となっているのである。
「實相円満完全」 と唱える時、實在なる實相の円満完全なる中身が先であり、その円満完全なる實相がみずから、おのずから顕れて 「實相円満完全」 と鳴りひびいて輝いているのである。
如何にすれば、行(ぎょう)にそして人類光明化運動に 「まこと」 がこもるかということは、まことに尊くもある重大なる、且(か)つ厳粛なるテーマであると言わなければならないのである。(1998.9.2)
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