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76復興G:2013/08/21(水) 09:08:20 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十三

 光明遍照の實相世界においてのイザナギの命(みこと)が光明であれば、禊(みそ)ぎ祓(はら)いの水も光明であるのである。光明が光明する暗(やみ)なき禊ぎ祓いなのである。

 すなわち、暗(やみ)を知らない 「光明化運動」 なのである。 「光明化運動」 は未だかつて一度も暗と出会ったことはないのである。

 「化」 は 「人」 と 「ヒ」 であり、 「人」 は 「日止(ひと)」 であり 「日」 そのもの光りそのものであり、 「ヒ」 は 「日」 であり光明そのものなのである。

 「暗」 もまた実は 「日」 と 「音」 であり、 「日」 は光明そのものであり、. 「音」 は 「立っている日」 であり、光明そのものであり、そこには 「光明」 しかないのである。 「光明」 のみがあるのが本当なのである。 「やみ」 があるという目で見るから 「やみ」 があるように見えて来ているだけなのである。 「やみ」 とは 「無い」 ということの別名にすぎないのであって、 「無い」 ものは 「無い」 のである。

 むしろ 「暗」 という字は 「日」 が二つも輝いているに反して 「明」 という字は 「日」 は一つしかないのであって、どんなに 「くらい」 と見ゆるものも、倍した明るさがあるということなのである。

 これは 「暗(やみ)」 は夜明けを暗示するものであるとの見方とは違うのであって、 「暗」 そのものが 「明」 の二倍の明るさそのものである、 「今」 というものを表現しているのである。

 これはまた 「やみ」 によって引き立てられるところの相対の 「光明」 ではないということである。ただただそこには光明のみがみずから立っているのみなのである。

 「やみ」 があって、はじめて意義をもつという 「光明化運動」 ではないのである。 「光明化運動」 はみずから立っている 「光明化運動」 なのであり、どこにも 「やみ」 を必要としないのである。 「光明化運動」 そのものが神そのものであるからである。

 神は何故光明であり給うのか。光明であるから光明なのである。理由づけされる必要はないのである。原因、理由というものによってささえられる必要なく、みずから在(あ)りて在るからこそ光明なのである。

 「光明化運動」 は原因、理由は要らず、意義づけも何も要らずして、みずから在りて在る、みずから立って在る、みずから立っている運動なのである。

 「今」 立っているのであって、原因、理由が先にあってその後に生まれるということではない、みずから立っている光明なるものが立ったのが 「今立つ!!」 ということであったのである。それは 「光明化運動」 みずから立ったことなのである。大聖師谷口雅春先生の御いのちそのものが 「光明化運動」 であり給うたのである。

 「神光りあれ」 と言われた後、ある時間の経過の後に光りが生まれたのではないのである。そこに時間は無いのである。

 時間の無いのを 「今」 というのである。神も光りも 「今」 なのである。神に原因されての光りではないのである。神が 「今」 光りそのものなのである。存在するということと神であるということとは實在においては一つなのである。そこには時空のへだたりは存在しないのである。

 神であるからこそ光りであり、光りであるからこその神なのであり、生むものと生み出されるものとの相対関係はないのである。相対そのものが光りではないのである。絶対なるもの、みずからすべてのすべてなるものを光りというのである。それ故、 「光明化運動」 は渾ての渾てなのである。即ち神なのである。(1998.9.1)


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