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118復興G:2013/09/19(木) 23:19:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十八

 「聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)」 はいわゆる 「神示」 ではないのである。 「神示」 には年月日が書かれているのが普通であるが、これにはそれがないのである。

 「神示」 というのは神の方から天降(あまくだ)ったものであり、それに対して神が吾が内にましまして、生長の家人類光明化運動みずからが顕れて文字となったものとは、ニュアンスが違っているのが自然なことであろう。

 山も川も草も木もすべてが観世音菩薩の吾れに告げ給うみことばであるという意味では、すべてのすべてが 「神示」 「仏示」 であると言うことにもなるのであるが、そこのところのはっきりとした区別のようなものは付ける気にはならないのであり、区別することに何の意味があるのだろうか、という想いもあるのである。

 そう言えば、み教えの結論が書かれていると言われている聖経 『甘露の法雨』 も天使(てんのつかい)が歌い、告げ給うたと前置きされているが、これも 「神示」 とは言われていないのである。

 こう想ってみると、 「神示」 は直接神が告げ給うたのであるから、一番手っとり早い神理解の道である、というようなことは、やはり、 「そんなものではない」 という気がして来るのである。

 大聖師は 『神真理を告げ給う』 の中で、神のみ声を直接お聴きになったというご表現をされているが、それ以前から常に 「私はラッパである」 と宣(の)り給うているのである。さらに、

 「本当に神が出て来て告げられたのだろうか?」

 と訊(き)いた人も居たが、因縁を超え切っておられ、母の胎内を超え、釈尊、キリスト以前に帰っておられる大聖師にとっては、 「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ」 ということにおいて、 「吾が生みのみ親にまします神よ」 とは 「私が生んだ神よ」 と云うほどの意味であるから、大聖師が 「神が告げ給うた」 という大事実を自在に生むことの出来るところに立ち給うて、斯(か)く言葉を発し給うているのであれば、神が告げ給うたことと、大聖師が告げ給うたこととは、同じことであると拝察されるのである。

 それが 「今起て」 ということであり、 「今を生きよ」 ということであり給うたのである。それ故にこそ大聖師は 「起つことを躊躇(ちゅうちょ)」 され給うたのであった。

 どのような光りが、どのようないのちがそこに起ち給うたのであったか。どのような相(すがた)において 「今」 なるものが起ち給うたのであるか。

 神はみずから 「私は無いのである」 との消え切りの、澄み切りの、聖の聖なるものにましまし、大聖師もまた 「私は無いのです」 との、消え切りの、澄み切りの、聖の聖なるものにましますのである。この澄み切りの澄み切りにおいてひとつであり給うのである。その澄み切りが澄み切ったことが、いのち起ち給う相(すがた)であったのであり、 「今」 なるものが起ち給うたことであったのである。

 躊躇そのものが 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りであり、澄み切りとなったのである。同時にまた、世界も 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りであり、澄み切りであったのである。

 「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)、娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)」 とはこの煩悩みずからの、娑婆みずからの、消え切りの、澄み切りの、聖の聖なる、よろこびの輝きのみありの消息なのである。この消息において 「聖使命菩薩讃偈」 の 「聖」 なるものは、讃偈されているのである。(1998.9.26)


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