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135復興G:2013/10/04(金) 21:54:42 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三

 生命であるということは、忘れていても知らぬ間に伸びているということである。そして生命であるということは、外から教えられなくとも内から生長する智慧が備わっているということである。

 生長の家人類光明化運動なるものは、生きものであり給うということは、外から状況を説明し、教えなくともみずから伸び、ひろがり給うということである。

 草や木の芽に水をやりたくなるのは、草木それ自体に水をもらうという運命を展開するものをみずからに備えているからである。それは、はじめから神に生かされていると言ってもよく、神そのものであると言ってもよいのである。

 そういう姿として生長の家人類光明化運動はいのちそのもの、神そのものとしてあり給うことを想うのであって、そう想うと、そのみずみずしいすがたが私を生き生きとさせ、うるおいのある、むしろ植物的なさわやかさを甦らせて呉れるのである。生長の家人類光明化運動は、すがやかさ、さわやかさ、聖けさ、安けさ、かそけさ、そして、透明さそのものなる澄み切りなるものとして、私の中に伸びて来るのである。

 そして私そのものもまた、生長の家人類光明化運動なるものの、手であり、足であり、心臓であり、すべてのすべてであり、したがって、自分なるものは、要(い)らないということになっていることをかみしめて想うのである。

 伸びゆきて伸びゆきて、ひろがりてひろがりて、「見よ、麦は既(すで)に黄ばみたり」 ということが實相(まこと)のことであるのである。麦が伸び黄ばむのは、全くこちらの知らない内の出来ごとなのである。

 生長の家人類光明化運動なるものは人の手によって、数によって伸びるのではないのである。生長の家人類光明化運動は、それ自体の性質(さが)によって、光明であり、創造であり、生長そのものであるのである。

 知らない内に伸びるということは、生命なるものは、説得ということをしないからなのである。

 草や木や花は説得しているだろうか。ただただ歌っているだけのように想えるのである。説得する必要のないものが自然なるものであると言えるであろう。

 太陽は説得せずただ照っているのである。それ故、全人類は、あの太陽は自分のために照っていると受け入れているのであり、黙って照っている故に、誰れ一人として反対しないのである。

 夜露は万物を霑(うるお)して朝になったら消えゆくのである。誰も反対する余地はないのである。

生長の家人類光明化運動なるものは既に全地を霑(うるお)しているのが實相なのである。そして實相のほかには何もないのである。

 「それをやったのが私だよ」
 「それをやったのが生長の家だよ」

 ここにもまた、大聖師の言葉がわが内に甦るのを憶(おぼ)えるのである。

 ここに、生長の家人類光明化運動なるものが、新しき花嫁の装(よそお)いをして天降(あまくだ)っているのを見るのであって、新しき世紀が天降るのを想うのである。(1998.10.11)


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