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114復興G:2013/09/15(日) 20:29:02 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十四

 この世に悩むものが一人も居なくなったら生長の家人類光明化運動は終わりとなるということではないのである。神は永遠に久遠に今も休むことなく働き給うているのである。悩みに対する救済運動だけが、運動ではないのである。運動それみずからの運動こそが神であると言う運動なのである。

 生長の家人類光明化運動が神であるという意味は、完全である世界において、いよいよ完全のみの創造としての運動がいよいよ続くという意味なのである。創造することそのことが本性であるが故の創造ということである。

 神ははじめのはじめから不完全は見給わないのである。光りは光りするのみであり、暗(やみ)を知らないのである。それ以上に神である生長の家人類光明化運動は暗、不完全、救わなければならないものというものと出会っていないのである。

 神は天国そのものであるから、神である生長の家人類光明化運動も天国そのものなのであり、光明一元的展開があるのみなのである。

 「神は今に至るも働き給う」 ということは、働きそのものが神であり、生長の家人類光明化運動そのものが神であるということなのである。

 「完全のみの世界であるならば、何故、生長の家人類光明化運動が必要なのか」 という問題は、問題自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの聖なる輝きとなっているのである。

 久遠(くおん)生き通しのいのちを拝んでいるのが生長の家である。それ故に、生長の家人類光明化運動も久遠生き通しなのである。

 永遠の構図においての 「神と偕(とも)に創造する悦び」 とは、永遠久遠なるものとして構図し、久遠なるものとして創造することを意味しているのである。

 今は久遠であり、久遠は今なのである。時間の積み重ねに久遠があるのではないのである。今こそが實在であり、實在しない久遠というものは意味をなさないのである。

 「もしもすべての人々が救われてしまったならば……」 というような未来は無いのである。あるのはただ 「今、ここ、久遠」 のみなのである。

 「今に至るも神は働き給う」 とは、今のみ實在であり、永遠価値の創造は今にのみあり得ることを意味するのである。

 實在しない価値ということは有り得ないのである。今であるからこそ働きということは存在し得るのである。今のみが實在の渾(すべ)ての渾てであるからである。

 生長の家人類光明化運動には練習は無いのである。なぜならば、練習は本番という未来即ち無いものを相手にしているのであり、生長の家人類光明化運動は神であり、實在であり今であるからである。神は完成そのものであり給い、今、本番そのものの荘厳であり給うからである。

 生長の家人類光明化運動の荘厳は今なるものの荘厳にほかならないのである。

 「未来がなければ、運動方針も何も成り立たないではないか」 ということ勿(なか)れ。 「未来が本当にあるのか? あるのなら今ここに持って来て下さい」 という荘厳な問いが先であり、厳粛なる現実問題なのである。

 第二祖 慧可(えか)禅師が達磨(だるま)大師から 「その悩む心を持って来い」 と言われて、三日三晩、七転八倒して持って来ようとしたが 「終(つい)に得ず」 と言った。無いものを持って来ようがなかったのである。

 少なくとも、生長の家人類光明化運動は無いもののためにあるのではないのである。(1998.9.22)


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