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復興G
:2013/07/09(火) 04:50:01 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
二十
神は何故、光りであり、聖であり給うのであるか。
光りとは、それのみ渾(すべ)ての渾てであるよろこびであるからであり、聖もまた、それのみ渾ての渾てであり、その外にあるものなしなるよろこびであるからである。
光りとは絶対に暗くならないものであり、聖とは絶対に汚れることなきものなのである。
暗きこととは渾ての渾てでないことであり、汚れるとは渾ての渾てでないことなのである。光りとは“よろこび”ということである。それ以外ない宇宙いっぱいの自由をよろこびというのである。 「よろこびの光明化運動」 とは、この光りに起因し、このよろこびに起因するのである。
聖とは、ひじりであり、ひじりとは 「日がいちじるしく輝く」 ということであり、日は神をあらわし、渾ての渾てである。そして渾ての渾てであることにおいて、神と光りと聖とはひとつなのである。
聖と光りとは渾ての渾てなるが故に、はじめのはじめから在るところの存在なのである。それ故、光明化運動ははじめのはじめから在り、聖なる使命を生きる、聖使命なるものもはじめのはじめより、天地とともに窮まりなき存在なのである。
神の子ははじめのはじめから聖そのものであり、世の光りそのものでありつづけているのが實相なのである。實相ということはそれのみすべてのすべてである神なのである。
それ故、神の子人間は、神そのものであり、外より貰う必要のない存在であり、存在そのものが今、今、今、与えっ放しの存在であるのであるから、聖使命会への入会をすすめるにあたっては、
「あなたは日ごろ与えていないのだから、聖使命会に入会して、与える生活をしなさいよ」
といって、説明する場合もあるが、それよりはむしろ、
「あなたは神の子であって、はじめのはじめから与えている存在があなたの本性なのですから、与えることが一番ふさわしいのですね。あなたこそ、聖使命会入会がふさわしいのです」
という、すすめ方の方が新しい世紀、即ち、 「天照大神出でましぬ」 の世界観からすれば、この方が自然なすすめ方になるのではないかと拝察されるのである。
与えていないことを前提としてしまえば、日ごろ与えていなくて、悩み多い人ばかりにすすめて行くようになり、悩みのある人、マイナスのところにいる人ばかりの集団となりかねないということはないであろうか。
プラスなる存在を観て、プラスなる人にさらにプラスになっていただくということに生長ということの意味がある、ということに着目すれば、生長の家の光明化運動のすすめ方も、はじめからあるプラスなるものを先ず認め観じて、プラスが集まるというすがたにして行くことが出来るということになるのではないか。
どこかにマイナスを認めて、世界についても、人についても、それをもとにすすめて行くという運動は、光明一元だからこそ、實相独在だからこそ、すべては完全だからこそ、もう救われていないものは一人もいない世界であればこそ、はじまった、プラスのよろこびの光明化運動とどこかにくいちかいがあるように想え、この僅かなくいちがいが、“天地はるかにへだたる”というようなものとして想えても来るのである。(1998.7.20)
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