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復興G
:2013/07/23(火) 06:03:44 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
三十四
今まで、神は解らない、解らない、と言っていた人が
「なぜ神が解らないかが解ったんです!」
と言って来た。その人は女性であったが、目には涙を浮かべていた。
「神と一度もはなれたことがなかったからですね」
と言われるのであった。私はとても感銘を憶え、その後、時々この話を皆さんにお話しさせて頂いている。
今朝の早朝行事の時、
「神は澄み切りであられるから解らなかったんですね」
と言っているようなその方の表情が浮かんだのであった。
離れたとか離れていないとか、また、澄んでいるとか澄んでいないとか、という言葉は、現象界のものをもとにした表現であり、この表現そのものも現象であり、しかし、その言葉自体が 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。
「猫の子は猫であり、牛の子は牛であり、犬の子は犬であるから、神の子は神なのである」
という表現をするのであるが、しかし、まことには、猫の子は猫でなくとも、牛の子は牛でなくとも、犬の子は犬でなくとも、神の子は神なのである。神の子人間は、猫や牛や犬の真似をする必要はないのである。
神の子人間は、現象の真似をする必要はないのである。
神癒祈願を申し込んで来た人の中に、自分の娘の大学合格祈願に、 「首席合格」 と書かれており、よく見ると、私自身の娘の受ける大学と同じ大学であった。そして私自身も娘の 「首席合格」 という願いを持っているのであった。
このような時の 「願い」 とそれに対する 「祈り」 というものは、果たしてゆるされるのであろうか。既にそれは實相において実現しているからこそ願いが起こって来たのである、ということもまた私の中から湧き上がって来る想いでもあった。
現象的、あらわれから見れば、首席は一人であり、試合においても優勝は一つである。
しかし、實相においては、首席は無限にあり、優勝も無限にあるのである。妙々の、一即多、多即一なる一切が無限にそなわり、満足されているのが實相の世界なのである。
實相から出て来た願いを、現象に合わせて、願いを下げてはならない、ということである。現象の真似をする必要はないのであった。そう気がついて、私は両方の願いを祈ることにしたのであった。
そうしたら、その 『祈り』 の結果はどうなるのであるか。それはこちらが聞きたいのであって、それから先が奇蹟ということになるのである。
奇蹟とは何か。それは自分が全くそれに関して必要でなかった、ということの度合いが奇蹟的な度合いなのである。それ故、奇蹟は生かされている感謝になるのである。感謝の起こり得る度合いが奇蹟の度合いであるのである。
自分が要らない度合いとは、既に一切が現成、充満され、完成されている、成就そのものである實相の妙有を観ずることにあるのである。實相が妙々の奇蹟そのものなのである。
實相は当たり前の、神そのままであるから、奇蹟としては特に言う必要はないのである。実現しないことが却って奇蹟的なことと言われているのである。神が成就そのものであり、實相が成就そのものであり、自分が要らないことにおいて、奇蹟そのものなのである。
地上天国建設の願いもまた、現象に合わせた、現象のあり方の真似をした姿ではじまっているのではないのである。 (1998.8.3)
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