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復興G
:2013/08/19(月) 06:52:11 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
六十一
無限、絶対なるもの、即ち神が自分の内にあり給うとは、無限よりも、絶対なるものよりも大きいものが自分であるということは、まことに矛盾したことにはちがいないが、それが何ら矛盾なく、澄み切りであるということが入龍宮不可思議なのである。
それ故、吾れの吾れなるものは、外から見られている存在ではないということである。監視されているということは、生命にとってはまことに不自然きわまりなきことなのである。すべては自分の内にあり、自分の自分なるものは、全存在すべてを生み、創造し、それを見護っている方なのである。
たえず、たえず、視られているという感じは、生命が不自然すなわち浄まっていないこと、汚れていることであり、解放、生長の反対なる拘束であり、後退であり、萎縮となるのである。
さて、組織を形成し、数の概念を導入して、運動の進展の状況を測定し、統一するための価値基準とすることに対して、何かそこに違和感が発生せざるを得ないということがもしあるとすれば、それは、組織内にいるものが、たえず、監視され、測定されているという感じを持たざるを得ないのであり、そこに生命の本質である開放と生長の反対なるものを観じざるを得ないからであると言わなければならないのである。
だんだんと冷え冷えとしたものを自分にも周囲にも感じはじめた時、 「あの入信当時のよろこびはどこに行ったのか」 とつぶやきはじめるが、監視の目を感じてそれを言おうと想っても、それを言えなくなっているのに気がつくのである。
しかし、生長の家は、現象無し、五官の世界なしの宣言の時から、すべては取り払われているのである。このようなものを取り払ったところから生長の家は出発しているのである。そのような怯(おび)えさせ、そしてその故にちぢこまらなければならない幽霊なるものはどこにもなかったのである。
『生命の實相』 の中に、ある熱心なキリスト教の牧師が、神様に約束した人数の聴衆を集めることが出来なかったので、神様に申し訳ないと言って、ノイローゼになっているという話に対して、それは数という外(現象)の成績に頼っているからであって、イエスは、外に頼らなかったところに偉大さがある、ということが説かれているのである。
このことから拝察しても、生長の家は祝福礼拝こそあれ、監視したり、恐怖させるものの影におびえなければならないなどということはどこにも教えていないのである。
知らず知らずの内に、この亡霊即ち監視の目なるものが現れていたのである。そしてそれを後生大事にその前に拝脆(はいき)していたのではなかったか。
そして、自分の中のあるものに、それを納得させようとして、それに理由を申し上げて頭を下げて、納得してもらおうとしていたのではなかったか。
そんなものは無いのである。納得するものもなければ、納得してもらわなければならないようなものなど、何一つなかったのである。
「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)であり給う神」 を生んだのが自分であり、斯く言えば、わが内にありて神が手を打って 「さすがわが世嗣ぎよ!!」 と賞(め)で給う荘厳きわまりなき神の大愛の中に浴しているのが生長の家人なのである。
神の子が 「生みの親」 となる時、これを成人した、というのである。 「稚心(ちしん)を去る」 とは、このことであったのである。それがまことの 「今起て!!」 の御声として大聖師は聴き給うたお姿であったと拝察するのである。
二十一世紀を 「生長の家人類光明化運動」 の成人の時としたいものである。稚心をはなれて独り立ちする時が来ているのである。(1998.8.30)
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