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復興G
:2013/08/26(月) 07:31:58 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
六十八
「大光明」 という言葉はあるであろう。 「大光明」 とは神である光明ということである。 「神 光りあれと言い給いければ光りありき」 と何故神は言葉したくなられ給うたのであるか。神が光りであり給うからなのである。光りである神の自己展開としてその言葉はあるのである。
神が 「光りあれ」 と宣(の)り給うまでは、それまでは光りは存在しなかった、ということはどうしても想えないのである。何故ならば、はじめのはじめから在りて在るものを光りと言っているからである。はじめのはじめを光りと言っているからであり、神を光りと言っているからである。
これは光り自体が 「私は無いのである」 と光りみずからの消え切りの澄み切りの、神のみ渾(すべ)ての渾てであるが故に光りであることの表現なのである。光りみずからが死に切っており、また、この聖書の言葉を書いたものも死に切って、神のみ渾ての渾てなることを表現しているのである。
それ故 「大光明」 とは 「光明」 みずからの消え切りであるが故に、 「大」 のみ渾ての渾てであり、その意味において 「大光明」 とは神そのものなのである。
「神は光りであり、光りは神である」 という場合は 「大光明」 のことを意味しているのである。
これは光りみずからの禊(みそ)ぎ祓(はら)いということが出来るのである。生長の家人類光明化運動も 「神、今起て!! と言い給いければ、生長の家人類光明化運動ありき」 という時は、生長の家人類光明化運動のみずからの消え切り、澄み切りの、よろこびの輝きの充満を意味しているのであり、生長の家人類光明化運動みずからの禊ぎ祓いを意味しているのである。
「今起て!!」 とは 「今なる汝よ、起て!!」 ということであったのである。この今は久遠(くおん)の今であり、渾ての渾てなる、はじめのはじめなる今であるが故に、大聖師谷口雅春先生は今そのものであり給い、その今なるものに天降った言葉であったのである。
今はすべてのすべてであるが故に、生長の家人類光明化運動もまた今そのものであり、 「今なる生長の家人類光明化運動よ、起て!!」 ということであったのである。今と大聖師と生長の家人類光明化運動とはひとつであるのである。吾れと今とこことがひとつである久遠の今において、大聖師と生長の家人類光明化運動と自分とはひとつなのである。
無の門関に坐して、時空超脱(じくうちょうだつ)の目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)に乗るとはこのことなのである。
生長の家に天降(あまくだ)った 「神示」 は数多くあって、これを拝誦(はいしょう)することはまことに尊いことであるが、 「神示」 は神が直接示したもうているのだから一番、神に近いのであるという見方だけで、他の聖典と区別して、近道を行くというようなことはまことに勿体(もったい)ないことなのである。
生長の家の 「神示」 の尊いゆえんは、その神が自分である、ということが言い切れるところにあるのである。
時空超脱、久遠の今なる實相において、神とひとつであることを説いて下さっているのが 『生命の實相』 その他の聖典、聖経なのである。久遠の今において、 「神示」 も聖典も聖経もひとつなのである。唯神(ゆいしん)實相の哲学によって、ひとつなることが解き明かされているのである。聖典も聖経もまた神に導かれて書かれたものであり、神が書き給うたことにおいて 「神示」 なのであり、大聖師そのものも久遠の今として立ち給うているのである。
また、大聖師は、自分を取りまく天地一切、山も川も草も木も、風の音も山の色も有情非情(うじょうひじょう)すべては観世音菩薩すなわち尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)の説法であると説示されているのである。それ故、吾れを取り巻く天地一切万物の姿そのものが 「神示」 そのものであるということが出来るのである。天地一切万物が大光明であるということである。(1998.9.6)
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