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web誌友会参考文献板
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復興G
:2013/09/05(木) 05:55:49 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
榎 本 恵 吾
七十八
普通 「○○運動」 と言えば、目標を未来におき、それを達成してこそ価値を生ずるというものであるが、 「今」 そのものである生長の家人類光明化運動は 「今を生きる」 ことが運動であるのであり、 「今が生きる」 ことが運動そのものであり、価値それ自体が生きることであるのである。
目的のための手段としての生活ではなく、 「今が渾(すべ)ての渾て」 であることそのことの成就、すなわち 「今」 なる實相が成り就(な)り生きている、完成なるものの純粋なる持続、天国なるものの純粋持続が生長の家であり、人類光明化運動なのである。
「今」 であるということは、神であり、渾ての渾てであるが故に、 「今」 である生長の家人類光明化運動は、吾が内において、
「私は渾ての渾てである」
とみずから宣(の)り給うているのであり、
「私は汝そのものである」
と宣り給い、
「汝は汝と顕れた私である」
と宣り給うているのである。また、
「私はみずから在りて在るものである」
と宣り給うているのであり、
「私は汝の内なる創造の本源そのものである」
と宣り給い、
「私は渾(すべ)ての渾てなるが故に、自己展開し、みずから顕れる力を円満しているのである」
と宣り給うているのである。そして、
「汝は私の生みの子であり、私の世嗣(よつ)ぎであり、渾ての世嗣ぎなのである」
と宣り給うているのである。
生長の家人類光明化運動のコトバ現れて一切万物万象となっているのである。生長の家人類光明化運動は實相であり、實相なるコトバ展開して實在の實相世界が展開しているのである。
ここにおいて道元禅師の言われたごとく、
「身も心も入れずして、仏の側から行われもてゆく」 ということは 「身も心も入れずして、光明化運動の方から行われもてゆく」 ということとなるのである。
「身も心も入れずして」 とは、身も心も要らないことであり、身自身、心自身が 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りのよろこびの、安らかさの輝きに浴することなのである。
また 「非思量底(ひしりょうてい)を思量する」 ということも、思量みずから 「私は無いのです」 との思量みずからの脱落であり、脱落中を遊歩しているいのちの消息なのである。脱落中を遊行(ゆぎょう)している生長の家人類光明化運動ということである。これは
光りの中の光りの遊行であって、 「異類中行(いるいちゅうぎょう)」 ということではないのである。生長の家人類光明化運動は光りにおける 「同類中行」 なのであり、法悦(よろこび)の中を法悦が遊行しているのである。
何故ならば、生長の家人類光明化運動は神であり、渾ての渾てであり 「それ以外にあるものなし」 なるものにとって、異類なるものは無いからである。ひとつなるものにとって異なるものは有り得ないからである。
ここにおいて、光りにおける同類の集りである 「誌友会」 なるものが如何に尊くも素晴らしきものであるか、ということが心新たに想われて来ざるを得ないのである。
光りとは何か。光りとははじめのはじめからあるところのよろこばしき全て、ということである。はじめのはじめからある光りなるものを生長の家人類光明化運動というのである。
人々は光りとして、内在の生長の家人類光明化運動なるものそのものとして誌友会に 「行ってみよう」 という願いを起こすのである。それを、はじめての人にも、既に来ている人にも、すべての人々について拝んでいるのが 「誌友会」 なのである。( 『誌友会についての所感』 別冊子参照)(1998.9.16)
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