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121復興G:2013/09/22(日) 06:27:54 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十


 生長の家の説く真理が、すべてのものへと伝わって行く、その相(すがた)は、真理なるものの継承の姿なのである。

 生長の家人類光明化運動の神なる相(すがた)の自己展開は、渾(すべ)てなるものの渾てなるものとしての自己展開なのであるが故に、ひとつなるものの自己展開であるが故に、分離されたもの同士のものではないのである。如何に多と観ゆれどもそのままひとつなのである。

 中心より出でて中心に還(かえ)りつつ生々発展して行く、そのままの相(すがた)が生長の家人類光明化運動の相なのである。ここも彼処(かしこ)もひとつばかりなのである。ひとつなるものの自己展開が生長の家人類光明化運動なのである。

 「私はすべてのすべてである」

 と、神である生長の家人類光明化運動は言い給うているのである。

 「あなたは私である」

 と言い給うているのである。

 「自分が自分に説得するということは有り得るだろうか。ただただ私が、よろこぶのみである」

 と言い給うているのである。

 「あなたは私の手であり、足であり、すべてである」

 と生長の家光明化運動は深い静かな低い声で語ってい給うのである。

 神が吾らを導き給いて、光明化運動をさせ給うのではないのである。光明化運動そのものが神であって、光明化運動そのものが吾らを生かし、満たし、導き給うのである。このことは、讃えても讃えても讃え切ることの出来ないことなのである。未(いま)だかつて、讃え切れたものはいずこにもいないのである。

 大聖師谷口雅春先生は、内なる神の国そのものであるところの、生長の家人類光明化運動という、久遠の創造の實相なるものを讃えても讃えても讃え切れないよろこびに満たされ給うていたのである。

 それ故、大聖師のよろこびは、はじめにおいて無限であり、無量であり給い、例えば聖典 『生命の實相』 全巻の中の、はじめの部分よりも、巻を重ねるに従って、そのよろこびは生長し、深まり、崇(たか)まり、広まってゆかれ給うているという想いは、吾らには起こらないのであって、ただただ 「讃えても、讃えても讃え切れないよろこびなるものとして、いのち立ち給うたのだ……」 と拝察させて頂くのみなのである。

 聖典 『生命の實相』 によって、大聖師は實相生命の創造、生長、すなわち生長の家人類光明化運動なるものを讃えて讃えつづけられていると拝察させていただく以外はないのである。

 その讃えが荘厳なるエポックを画されたのがご昇天のときのお言葉、

 「迷いなし、罪なし、病なし」

 というお言葉となり給うたのであった。

 「これが生長の家の根本真理であります」

 と言う、よろこびにおられ給うたのである。

 「これが根本である」 ということは、生長の家の結論と言われているところの聖経 『甘露の法雨』 は 「……なるが故に、罪なし」 というご表現によって、埋めつくされていると言っても過言ではない聖経となっていることを想わざるを得ないのである。このこと自体が、大聖師が罪なきものの運動、すなわち生長の家人類光明化運動に讃嘆の雨を降らせ給うている相(すがた)であり給うということが出来るのである。(1998.9.28)


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