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復興G
:2013/07/05(金) 08:15:55 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書― 榎 本 恵 吾
十六
ここに 「光明一元」 であり、 「實相独在」 であり、 「救われていないものは一人もいない世界のみがある」 という世界において、何故、光明化運動というものが必要であるのかという問題になって来ざるを得ないのである。
神想観において 「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に入る」 と言ったとき、すでに五官の世界のすべては消えているのである。光明化運動のひろがっている世界もひろがっていない世界もないのである。現象を針の先ほどでも認めるということは、 “神はない” ということなのである。神のない光明化運動というものは有り得ないのである。
神は天地創造を何の必要があってなされたもうたのであろうか。神は必要性のために天地を創造せられたのではないのである。神の前に、神より先に “必要性” というものが存在するとか、神以前に何かがあり、神がそれに従わなければならないということは決してないのである。神はただただ嬉しくて、よろこびで、創造したいから創造せられ給うたのである。
人間は神の子であって完全であるのに何故迷うのか。それは神が人間に自由を与え給うたからである。神は強制され給うことはない。自由のないところには価値がないからである。迷う自由がありながら、自由性の中に迷わないところに善があるのである。一応この説明は方便説としては説かれているところではある。
しかし、それならば聖経 『甘露の法雨』 の中の 「罪を犯さんと欲するも罪を犯すこと能わず」 ということはどうなるのであるか。
神の前に、神がしたがわなくてはならないという法則などはないのである。 「自由のあるところにのみ善がある」 というような法則が神より先にあって、神はその法則に従って創造をしなければならないなどということは有り得ないことなのである。神は神のコトバの発し給う通りでよいのである。
それ故、神は、迷う自由を無くして、しかもそこに善があり、無限のよろこびがあるという相に人間を創造したもうたのが本当の相なのである。
人間は未だかつて迷ったことはないのである。迷う自由は無いのである。此の世もまた一度も不完全であったことも、暗であったことも、迷いのあったこともないのが真実の相なのである。
ここに不完全であるからこそ救済しなければならない、という姿は消えてしまったのである。不完全を、暗をもとにする光明化運動ではなくなったのである。
『未だかつて、一度も一人も救ったことはない』 ということが光明化運動の本当のすがたなのである。
ただただ、光明が光明し、實相が實相し、光明一元だからこそ、實相円満完全であり、迷うもの一人もなく、迷いそのもの、暗そのもの不完全そのものが存在しないからこそ、光明であり、光明化運動があるのである、ということが真実の運動のすがたなのである。
唯神實相、光明一元であれば、なぜ運動の必要があるのか、ということの説明において、現象というものを針の先ほども持ち込まないで説明し得るか、ということは、二十一世紀の百年をかけて研究されてもされ尽くすことの出来ない、美しいテーマであろうと想われるのである。(1998.7.16)
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