apprivoiserの訳
最近、サンテクジュペリの「星の王子さま」の翻訳独占権(?)が切れたということで、雨後の筍のごとく、いろんな翻訳が出てます。んで、4月開講のNHKのラジオフランス語講座の応用編でも、これをテキストにしているのですが、そこで大いなるギモンがあります。というのは、王子さまがキツネと出会う場面で、キツネと親しくなりたい王子さまにキツネは「Je ne suis pas apprivoise」と答えます。で、この「apprivoiser」の訳が、例の岩波版の内藤訳以下、そのラジオ講座のテキストに至るまで、「仲良くなる」という、実に生ぬるい訳語をあてているのです。この「apprivoiser」の元々の意味は「飼い馴らす」ということですよね。野生の動物を「家畜化する」ということだと思うのですが、そこから、キツネは「野生の獣を飼いならそうとする人間と僕とは、そう簡単に友達になれないんだよ」ということを言っていると思うのですが、そんな「仲良くなる」といった、生ぬるいというより、敢えて「誤訳」といっていいと思うのですが、そういう訳語が次々と踏襲されているというのは、いったい「なぜ?」と、私などは思います。こうやって、「規制緩和」されたのですから、そこらのところはそれぞれの訳者が「正確に」訳すべきだと思うのですが。
lienの訳語
書いたついでですので、もう一つ、その星の王子さまに出てくる「creer des liens」ですが、これはこれまでの岩波版の内藤訳でも、「絆を創る」だったと記憶していますが、この「lien(s)」は、辞書を引くと、「鎖」という意味もありますよね。実はこれまで私はそのキツネと王子さまとの会話の中で出てくるこの「creer des liens」を「鎖で結びつける」というふうに、かなりネガティブな意味に解釈していたのです(もちろん、アイロニカルな意味もこめてですけど)。というのは、たまたま大学時代の原典購読の授業で、星の王子さまのうち、このキツネとの出会いの部分だけ、原文で読まされる機会があったからです。それもあって、「apprivoiser」という、日常生活ではたぶんあんまり使わない動詞を覚え、また、この「creer des liens」というステキな表現も、ずっと、頭にこびりついていたのです。そうこう考えていくと、翻訳という作業もなかなか難しいですが、そこに「解釈」という知的作業の醍醐味もあるような気がします。
絆を創る
ええと、内藤訳では、確か、「ぼくは飼いならされてないから」とか言うキツネに、その意味が分からないPetit prince が、「飼いならすってなあに」ときいたら、「仲良くなるってことさ」とキツネが答えたんですよ。それで「apprivoiser」の新しい意味が「creer des liens 」、つまり、異なる2者の関係を、優勢な方が劣勢な方を抱合して自分に従わせるという形から、新しい関係を creerする関係に
liens
というのは日常的に普通に使われる言葉ですよね。「リンク」もこれでしたね。creer des liensも、ごく日常的な表現ですか?
日本語と外国語でしばしば動詞の向きが違うことがありますね。特に、日本語として自然な表現を使うとそうなる、という。「仲良くなる」とか「縁ができる」というのは、働きかけでそうなった、というニュアンスで、creerの意味が出ませんね。
このところの「星の王子様」の話には、わたしはやや入れずにいました。と言いますのは、わたしは、食わず嫌いで、読んだことがないんです。原題はLe petit princeでしたっけ、それが「星の王子様」ですけれど、若い頃はこのタイトルだけで拒否反応でした。子ども向けの本では、ヴェルヌやアーサー・ランサム、サトクリフなどの冒険小説風のものが大好きで、王子様、には全く興味がありませんでしたので。今でも、その本よりは、テクジュペリの伝記なら読むかなあ、という程度です。
ルビッチ
ルビッチなんですね。私は彼の作品をほとんどカルチエラタンの名画座で見たので、日本語の表記も題名も知らなかったんです。今、ルビッチで検索したら、私の好きな「The Shop Around the Corner」は桃色の店(街角)とありました。James Stawart がなつかしい。ドイツ人でもこんなロマンチック・コメディーが創れて、原作がハンガリーの戯曲かなんかでしたよね。この中で、初老の店の主人が、浮気する奥さんに、君は僕と一緒に年をとってくれるのが嫌だったんだね、みたいなことを言うのがすごく身につまされました。まだ若かったんですが。そうか、一緒に年をとれるかというのがカップルなんだなあと思って。それに比べるとヒーローとヒロインの恋の顛末は印象が薄いでした。メグ・ライアンとトム・ハンクスでリメイクしたとか。あのEーメールの恋の映画がそれだったとは知りませんでした。
C'est l'histoire de quatre individus :
Chacun, Quelqu'un, Quiconque et Personne :
Un travail important devait être fait,
et on avait demandé à Chacun de s'en occuper.
Chacun était assuré que Quelqu'un allait le faire, Quiconque aurait pu s'en occuper, mais Personne ne l'a fait.
Quelqu'un s'est emporté parce qu'il considérait que ce travail était la responsabilité de Chacun.
Chacun croyait que Quiconque pouvait le faire, mais Personne ne s'était rendu compte que Chacun ne le ferait pas.
A la fin, Chacun blâmait Quelqu'un, du fait que Personne n'avait fait ce que Quiconque aurait dû faire.
サービス精神にあふれてます。考えさせられます。
ただ、この話では大事な仕事を4人に頼んできたのは「4人以外の外側の人間」だと考えられるので、住民と役所のような、すでに責任関係(役所は住民のサービス機関とか)がある間の2者のやり取りは適切じゃないかもしれません。この話の核は、「成員が同等な課題遂行能力を有するグループの中にいる『私と私以外』という意識の問題」だと思うんです。他の誰かができるからといってやらない自分は免責できるのかという話ですね。Blamer を「顔を青くした」と訳された方、このBlamerはブラスフェ−ム(冒涜)の語源の言葉なので、Bleu とは関係ないです。あ、考えるタネの最新記事にフランス語の発音の悩みを書いてます。コメントや、似たような体験があればどうぞ。
では次の質問。また仏文和訳。
解説つきでもどうぞ! 文字化けの問題があるらしいのでアクサンつけません。敷衍してくださっても、前後の文を勝手に足してくださってもOKです。(liberte の最後のEに右上がりアクサンです。)
La liberte, ce n'est pas faire ce que l'on veut, mais vouloir ce qu'on fait.
フィギュア・スケート
ベルシーのフィギュアスケートのスター・オン・アイスに行ってきました。昔はよくホリデイ・オン・アイスとか行きましたが、フィギュア・スケートのショーは初めて、しかも世界チャンピオン級のは今までTVでしか見たことがありません。今回は、フランス人のブライアン・ジュベールが42年ぶりでフランス人男子シングルの世界チャンピオンになったばかりで、華やかです。私は日本人なので、女子チャンピオンの日本人も見たい感じですが、女性ソロはワルシャワであったヨーロッパ選手権の2位のサラ・メイヤーというスイス人、3位のキラ何とかいうフィンランド人でした。キラさんは最も美しいスケーターに選ばれたそうで、「もちろんブロンドで」とかいうナレーションは「なんかなあ」と思いました。サラ・メイヤーさんはブロンドじゃないけど美しかったし。カップルのアイスダンスが多かったので、ソロですべる人は何となく寂しそうに見えたのも意外。第一部のはじめの方で、転んだりする人が出て、司会者が、「ベルシーですべるのはすごく難しいんです。ベルシーだから、パリだから」とフォローしてました。この「パリだから」というのも、すごくフランス的だなあと思いました。国際大会とかで、「日本だから」「東京だから」みんな緊張するとは日本のアナウンサーは言わないだろうなと。出演者の主力はフランス・チームなので、この「パリだから」というのは、多分ほとんどのスケーターが地方出身者だということを意味してるのかもしれません。
それで、男子ソロはこないだの日本で行われた世界選手権の金銀銅が全員出てました。銀の高橋大輔くんも。その順位で行くとまず銅のステファヌ・ランビエルが滑って、次に高橋、最後にブライアンかと思ったら、高橋が一部も二部も3人の中では前座扱いの最初でした。最もランビエルは2005年と2006年の世界チャンピオンだから、総合の格から言うと、高橋の後に滑るのが妥当かもしれない。それに彼はフランス系スイス人でフランス語を話すし、フランスでも人気だから。私は高橋がフリーで最高得点を出したのをTVで見ていたので、ベルシーでかっこよく滑るのを期待していたのですが、そして、期待通り上手でしたが、何か違う。完璧で高性能という感じで、集中力も伝わり、色気さえあるんですが、そして最後に「J'adore la France]とフランス語で言うというサービスも見せて受けていたんですが、ランビエルやブライアンにあって彼にないもの、それは余裕と華かもしれません。このショーは選手権とかじゃないんだから、ミスをしないとか完璧とかいうより、もっとはじけてほしかったです。3人の中では彼が一番若く、その差も多少出てくるのかもしれません。ブライアンも若いんですが、アレクセイ・ヤグディンの薫陶を受けたせいか、楽しんで、それをコミュニケートするという喜びをちゃんとあらわせています。彼が出てきたときの「華」というのは、スポーツ選手の華というより、なんだか宝塚の男役トップスターの華です。あたかも技術なんか2次的なような。「がんばる」という感じが見えていたらショーにはならない、フィギュアスケートはスポーツだけど、バレーなんかに非常に近いので、選手はアーティストである必要があります。ショーとなると、アスリートが完全にアーティストに変身しなくてはならないんですね。エンタテイナーといってもいいです。後、ッスケートクラブの女の子たちなんかが客席からすごい声で叫ぶんですが、その抑揚が独特で、掛け声の文化というのはどこにでもあるのだと感心しました。仏文和訳2の解説は明日にでも。
「 La liberte, ce n'est pas faire ce que l'on veut, mais vouloir ce qu'on fait.
『欲することを成すのが自由ではない。成すことを欲するのが自由なのだ。』
まあ〜、なんて単純。
それより、ひとつ質問させてください。初めのce que の後にはl' が入ってce que l'on veutになってますが、二度目の ce que の後にはなくて ce qu'on fait.になるのは、なぜなのでしょうね? リズム感の問題?(笑)
この l' の使い方って、難しくて、入れようとするとどこにでも入れてうるさくしてしまう気がするし、なければないでなにか抜けたような気が。慣例句のようになっているのは最低入れるように心がけてはいますが・・・あやふやなのです。むかし、フランス語の先生(外人に教えるフランス人)は、『あなたたちは使わなくてよろしい』と言いましたが・・・。」
ええと、単純ですがリズムがあってきれいな訳です。それに、単純なだけ、幅があって無難ともいえます。自由を2回繰り返したところがテクニックですね。最初のonに l' がついているのに2度目についてないのはやはりリズムの問題です。このlの挿入で、最初の部分のシラブルが2番目のちょうど2倍になっています。だから読んだ時に落ち着きがあります。日本人が書く時には確かに難しいですね。
これも含蓄がありますね。サルトルが選択の問題を自由と絡めたのは、キリスト教における自由意志の問題を意識しています。自由意志があるから、責任が生じ、責任があるから善悪の観念もでてくるわけです。
Dieu se chisit. il n'est pas ce qu'il est, el est ce qu'il veut.というのはFrancois Varillon の言葉。コクトーは人間に自由意志を与えたのは神のアリバイだ、と言ってます。「私は自由だ、神さま、私を自由から遠ざけてください。」といったのはクローデル。逆にFerdinand Galianiは、「もし宇宙にたった一人でも自由な存在がいたとしたら、神はもう存在しないだろう」と言っています。この世に善悪が混在する現実の前に、人間の自由は神のアリバイであり、神の自由は人間のアリバイなのかもしれません。サルトルが神を捨てた時、神なき自由意志だけを引き受けたわけで、自由と欲望と責任と倫理とがのしかかってきました。自由がなければ原罪もなく悪も生まれなかったというユダヤ=キリスト教文化がベースにあります。
Nier Dieu, c'est se priver de l'unique interet que presente la mort.
です。interet の最初のeに右肩がりアクサンが、2つ目のeに山形アクサンがはいります。presente の最初のe にもアクサンテギュがつきます。サーシャ・ギトリィの言葉です。sekko-culturelavo@hotmail.co.jp か個人メールにお願いします。コメントつき歓迎。その2のお答えに関するコメントは直接この掲示板に書き込んでください。
en の使い方
竹下先生、en の使い方について質問があります。
私は、友達5人でアランの幸福論を原文で読んでいるのですが、第9章 Maux d'esprit の中で次のような文章があります。
「L'imagination est pire qu'un bourreau chinois; elle dose la peur ; elle nous la fait gouter en groumets.」
で、最後の en groumets をどう訳すかよく分かりませんでした。
結局、「食通のように」と訳すのでいいのだと落ち着きましたが、en にはこのような使い方があるのですか?
順調でよかったです。
フランス語が溶けてきてよかったですね。でもこういう段階って、溶けて入ったものを OUT PUT する時に、不純物というか思い込みのフィルターを通すことも多いので、時々は意味や綴りのチェックをしたほうがいいですよ。私なんか、本で読むことのない話し言葉で10年以上も違う綴りをイメージしていたり、外来語で勝手に性別や発音を変えていたことってありました。外来語は一般に男性名詞とするって昔習ったものですから、ポテトチップのことを、男性名詞で使ってたんです。それが子供にうつって、彼らが大きくなってからママのせいで今でもchips(シップス)を口にする時は緊張するとか言われました。後、Puzzule はわざわざフランス語風に「ピュズル」って発音してたんですが、英語風のパズルでいいってことが後でわかって、これも子供に指摘されました。外来語って難しいです。30年前はハンバーガーを「アンビュルジェール」って完璧フランス語風に発音する人もいましたが今は「アンバーガー」ですし。こういう英語から来た言葉って、意味は分かっているものだからそれこそすぐ頭で溶けちゃって、わざわざフランス語の辞書を引いたりしないからけっこう要注意なんですよ。
フランスで最初に通った語学のクラスで先生が黒板に「MAT」って書いてその意味を質問したんですが、誰も知らず、私はマストのことだって知ってたんですが、脳内では「MAT=マスト」変換であってすぐにはフランス語で説明できなかったんで、結局答えられませんでした。やっぱりまめに仏仏辞書を引かないとフランス語アウトプットは上達しません。
後、日本人の主婦なんかで、簡単におばさんたちの会話に入っていけるようになる人が、それを普通のフランス語だと思って、子供の学校の先生にも話しているとかもよく見ましたから要注意。外国人なんだから、丁寧語だけしゃべれた方がまだましなんです。出るとこへ出たらちゃんと話せるというポイントを抑えることが大事です。日本よりも教養の差が言葉に出ますからね。
マルセル・プルースト
励ましのお言葉痛み入ります。実は日本語教室のアシスタントのようなものもやっていて、そこで高校生にも日本語を教えているのですが、まだ叱り方がわかりません。この間、「Tais-toi」「Sois tranquille」「Calme-toi」の違いを説明してもらいました。日本語の「コラ〜」にあたるのが「Eh〜」だと教わったのですが、あまり使っているのを聞いたことがありません。
さて本題です。実は今トゥーサンのヴァカンスなのですが、マルセル・プルーストの「Du cote de chez Swann(1913)」の中の「L'edifice immense du souvenir」を要約してこいという宿題が出されました。高校生にもどったつもりで辞書を引き引き意味を調べています。当然仏語で要約するのですが、なかなか気持ちが乗りません。和訳でもプルーストは1冊も読んでいないので興味が湧かないと言えばそれまでですが・・。要約の方法もよくわからないのですが、どのようにしてモチベーションを高めていったら良いのでしょうか?ただ思ったより古語は少なく、文語調の言い回しが見受けられるくらいです。こんな質問は失礼かとも思ったのですが、なにせ一向に進まず苦しんでいるものですから・・。ヒントをいただければ幸いです。
単独で「Ce n'est pas inexact.」と言えばやはり「間違っているというわけではない」か、文脈によっては「C'est tres exact」の逆説的表現だったりしますね。
「Non,」で始まる否定文は本来否定辞(ne pas とか aucun とか personne とか nul とか)を含んでいなければなりませんけど、口語では否定の接頭辞入りの肯定文ですまされちゃうことはありますけれど。
「Non,ce n'est pas possible.」の代わりに
「Non, c'est impossible.」と言うとか・・
と、ここまで書いてから、好奇心で Petit Robert をひさしぶちに開きましたら、確かに、Non,c'est inexact の例文がありました。それだけから推論して飛躍しちゃったのだとしたら、誤解ですね。
フェーヴ
日本では、フェーヴの入ってないガレットが普通でしょうね。間違ってフェーヴを食べてしまった人がいたとのことで、クレームがついたか何かしたのでしょう。「食べる前に入れて下さい」とタルトにフェーヴを添付(PAUL、LA VIE DOUCE)、フェーヴ代わりにアーモンドのホールを入れる(SHIMA)などの方法がとられていますが、フランスの方からしたら、「うっそー!!!」でしょうね。実際、ブルゴーニュに住むわたしの友人(日本人)がそれで非常に驚いていたのでした。
で、わたしは、食べるのは好きなんですが、お料理はそんなに好きじゃなくて、時間さえあれば、別の手仕事をしたり、街歩きに出かけてしまうことが多く、それに、子どもはもう一人しか家にいないのです。で、この娘は料理好きなので、彼女にやらせようかな。というか、娘が、パンはビゴ、タルトならクリーム系は好きじゃなくて、なんつったって焼き菓子!なので、甘い親がついついガレットあさりしてます。もっとも、弁解すると、娘はグルメ気取りのわがままスイーツ(「スイーツ」については検索してみて下さい)というわけではなくて、ビゴみたいなパンがヨーロッパやアメリカ(ボストンの経験あり)ならどこにでもあるのに、どうして日本にはなくて、噛み応えも味もないパンばっかりなんだろう、と、仕方なく銀座まで行ってます。時間(と、もしかしたら適切な粉)さえあれば自分で焼くのが一番かもしれませんけれど。
La Grande trappe
Alainの<Propos sur le bonheur>の<
Bonne humueur>のところに、アランが<La grande trappe>に行つたことがかいてありました。トラピスト修道院でGrandeというのは、単に大きなというのではないようにおもいますが、どのような基準でGrandeというのがつくのでしょうか?一つの訳本は「大修道院」他の一つには「ノルマンデイのトラピスト修道院」とありました。そうすると、17世紀半ばすぎにおこつたという大改革がノルマンデイのトラツプ修道院であり、シトー会のことを、一般にトラピスト修道院とよびだしたことから、ここが「大」とつくことになつたのでしょうか?grande
という呼び名は他の修道院でもつかうのでしょうか?教えていただけると、幸いです。
アランはなんと、ここをおとずれたことが、カトリツクから離れる機縁になつたようですが、彼自身も何故、いつ、カトリツクからはなれたのか、はつきりしないそうです。いずれにしろ「解放された」という思いがあつたとか。トラピストでは墓穴を毎日ほるとか、死体を一週間見せるためにおいておいたとか、陰惨だつたそうで、彼は「上機嫌」こそ、大切な「徳」だとかいていました。
cafe au lait(牛乳)と vache a lait(乳牛)の違いはニュアンスが違うどころか、なんと日本語では漢字の前後の違いですね!
ここで、lait に冠詞がつくかつかないかは、基本的には前置詞「a」がつなぐ二つのものが混合物であるか否か、だそうです。
cafe au lait, glace au chocolat, sauce au vin などが前者で
vache a lait, moulin a eau, machine a vapeur などが後者の例です。
それでも、冠詞がつくつかないはそういうことだとして、その冠詞が部分冠詞なのか定冠詞なのか、私には調べがつきませんでした。Sekkoさまの考えでは、cafe au laitの lait についているのは部分冠詞ですね。でも、de le → du という規則が自然と頭に入っていても、du → de le と逆分解して a と de を置換するというのは、後付の理論に過ぎないような気がしてきました。ここはいっそ、カフェオレのレについている冠詞は定冠詞だと考えられませんか。
そこをつきつめていきますと、やっぱり部分冠詞という冠詞の設定不要論になります。部分をあらわす「de」と定冠詞の縮約規則があるだけと考えた方がスッキリです。「部分冠詞=部分ををあらわす前置詞+定冠詞」と言っても、そんな前置詞はフランス語ではde以外にないですよね。
beau fils et gendre
フランス人語の先生(フランス人男性)に「婿」のことを、beau fils といいましたら、「その言葉をつかつてはいけません。gendreを使いなさい」といわれて驚きました。神父さまからの手紙にはやはりgendreという表現がつかわれていました。お二人ともVouvoimentの関係ですので、vousで話すときにはbeau fils をつかつてはいけないのかしら?とおもいました。またgendreが手紙の中だつたことを考えると、文章中ではgendreをつかうのかしら?と思いました。「嫁」には文章中でbruが使われると辞書にありますが、まだこの言葉を文章中でみたことがありません。(あまり勉強できていないせいですが・・)。belle fille ということばが美しいせいか、この言葉しか知りませんでした。これらの使い分け方をご教示いただけますと、幸いに存じます。
ただ「保存」と「貯蔵」は同じようで微妙な違いもあります。「貯蔵」は「保存」のように時間を気にしません。ストックされていても午後にはなくなることも、そのまま10年後まであり続けることもできます。生鮮品でも加工品でも広く捉えることができます。また穀物の貯蔵であれば、magasin de grainesがそのまま、現在の「店」に置き換えられているような気もします。
いま問題にしているのは魚屋ではなく「店」なのですが、ふと思い立ってpoissonnerieの定義をインターネットの辞書(CNRTL)でみてみると、筆頭にMagasin où l'on vend du poisson et des fruits de merとありました。
店の話(続き)
私は日本語の保存と貯蔵のニュアンスの差を無視して使ったのですが、時間を気にするかどうかより、それこそ、語源的には、物を、ある「場所=蔵とか」に保存するのを貯蔵というんでしょう。「建築物の保存」なら、貯蔵とは言えませんし。で、magasin は、それでいうと、正確には貯蔵可能な商品を取り扱うもの、となりますね。今は一般的な「店」という意味にも使われているので、Magasin où l'on vend du poisson ということは言えますが、でも「靴屋=magasin de chaussures」のような意味で「魚屋= magasin de poissons」といわないことは確かなので、やっぱり生ものかどうかは大いに関係があると思います。commerce も一般的に店と使えますが、poissonnerie がpoissonnierと関係があり、commerce がcommerçant と関係があるように、そこに働いている人の顔が想定される小売店であり、magasin はデパート=grand magasin にも使えるように、ハコものというか、空間そのものと関係がありますね。ちょっとシックな含意を持たせることもできるものとして「maison」というのもありです。これならレストランでも使えることもあります。
レストランは物を売るというよりサービスを売るので、レストランをマガザンといえないのは、美容院をマガザンと言えないのと同じですよ。でも日本語では美容院でも店とか言いますよね。それは商業施設の建物の総称だからでしょう。日仏で完全に同じ概念の店の言葉はないんではないでしょうか。ヨーロッパなどは同業組合の歴史が長く「メチエ」の概念が根強くてそれが小売にも反映してるような気がします。
Pierre Boulle
知られてないと思います。映画は有名なんで、漠然とアメリカ物だと思われています。ただし、SF読者には知られています。(私もその一人です。)
死後に遺稿が発見されたとかでそれが出版された時は少し話題になりました。アメリカではすごく人気だそうで、研究書も出てるとか、Xファイルにも影響を与えたそうです。近代SFの始祖的なジュール・ヴェルヌもフランス人だし、わりとSF的感性はあるのかも。ブールは、レジスタンスだったから収容所に入れられたんですよね。フランス軍の方は、ベトナムに日本がきた時はもうドイツ占領下のヴィシー政権だったから、日本と戦争状態ではなく、わりと平和的に共存してた時期があったと聞きました。ブールはレジスタンスだったから、戦後派手に表彰されましたが、当時すごくアングロサクソン的状況だったんでしょう。
日本人差別があるかどうかは・・・少なくともこっちでは問題にされてないと思いますけど。私は彼の映画はどれもあまり好きじゃないです。
シュミット
話題の映画も殆ど知らないのですが
エリック=エマニュエル・シュミット(Éric-Emmanuel Schmitt, 1960年3月28日 リヨン 生まれ)は、この間『エゴイスト・クラブ』La Secte des égoïstes. 1996 を紹介して戴きましたが、『ピラトによる福音書』2000なんてのもありました。リヨンは聖書の登場人物で一番高潔だと云はれるポンティオ・ピラトが生まれて死んだと言はれて居る処ださうなので彼も子供の頃から親しんで居たのかも知れません。
Wikiを見るまでオペラや映画でも活躍してるとは知りませんでした。
≪“Le libertin”(放蕩者)映画版は舞台以上に全裸のオンパレードとなり、別の意味で話題となった。"Monsieur Ibrahim et les fleurs du Coran" 2004年にはオマー・シャリフ主演で映画化、2006年に撮影する書き下ろし台本による“Odette Toulemonde”では監督。≫
シュミット
シュミットは、若い頃に砂漠で死にそうになった時に神秘体験をしたといっており、その辺が私の関心と重なります。ユダヤ、イスラム、キリスト教に関する3部作はうまいですし、10歳の小児癌の子供が死の10日前に「神さま」に書き続けた書簡体小説『 Oscar et la Dame rose 』(ダニエル・ダリューの独演劇にもなりました)も自分で監督して映画にしたそうで、年末公開予定で楽しみにしています。今のフランスには、一昔前の無神論者と違ってこういうヒューマンな不可知論者がいて、共感をそそります。ただ、エリカからは、彼のソリプシズムはKと関係ない浅薄なものだと言われましたが。(フランス語お読みでしたら、エリカの訳少し送りますよ。このサイトの読者の感想投稿部分にメールを下されば。その場合は自己紹介お願いします。)
シャルル・ド・ヴォルネイではなく
Constantin-François Chassebœuf de La Giraudais, comte Volney, dit Volney, né le 3 février 1757[1] à Craon en Anjou et mort le 25 avril 1820 à Paris, est un philosophe et orientaliste français. Il est considéré comme le précurseur des ethnologues, anthropologues et sociologues du XXe siècle[réf. nécessaire].
ださうです。
南北朝時代から
宗教情勢が変はつて来たやうです。
Sekkoさんで納得出来ないのは『超越(或いは聖)』と云ふ言葉の(恣意的な)使ひ方です。(中沢新一や網野善彦も同様ですが)
何か場所的topologicなオーラのことのやうですが、本来は対象(実体)は、最も普遍的なものは経験や言葉を超越するので、概念では把握出来ないし、勿論感覚的にもその対象に達することは出来ない(それが超越とか超越論的と云ふ意味ですから)、或いはモノは常にコトバを超越すると云ふものだと理解します。
R.アイスラーの《哲学辞典》http://www.textlog.de/woerterbuecher.htmlによれば
Die Transcendenz ist schließlich nur ein inadäquater Ausdruck für die Incongruenz zwischen dem tatsächlichen Inhalt und dem Ideal der Erkenntnis. (E.Koenig,Üb. d. letzt. Frag. d. Erk., Zeitschr. f. Philos. 103. Bd. S. 59.).
Nach RIEHL ist transcendental 《die Form der Einheit des Bewußtseins in Abstraction von ihrem Inhalte gedacht, sofern diese Form als die allgemeine, nicht bloß für mich geltende Bedingung erkannt wird, unter welcher die Vorstellung jedes Objects... stehen muß》 (Philos. Krit. II 2, 163)
Je
遊戯概念の説明を抜かしました。(164頁)
Quelque chose avec quoi je peux faire CE QUE JE VEUX, une simple PLASMA, une matiere plastique mise a ma disposition, un JOUET. …..,La pensee SIVE tout est JEU SIVE Conmandement souverain. LE JEU SIVE MON JEU SEUL EXISTE. このテーゼを内部から眺め、その原初的な実在性から出現する命題がJe suis LUDENS absolu,c’est-a-dire JE SUIS ABSOLU.
Quoi donc ? Le sol s’est dérobé. Il n’y a d’autre conclusion que celle-ci : le tertium, c’est
n’importe quoi, quodlibet, Tout et Rien ; quelque chose avec quoi je peux faire ce que je
veux, ― un simple plasma, ― une bagatelle, ― un jouet. ― Le complément du Jouet,
c’est le Joueur ; la somme des deux donne le Jeu. La pensée sive tout est Jeu sive
Commandement souverain. Le Jeu sive Mon Jeu seul existe. Or, cette thèse(28), vue du
dedans, tout droit, dans sa réalité réelle, devient : Je suis Ludensk absolu, c’est-à-dire Je
suis Absolu.――
(これを読んでる他の方々、これを日本語に訳せとかおっしゃらないでくださいね。)
となっています。註28は下記です。
28. Cette thèse ― dit d’abord le dernier état du brouillon ― est une victoire sur le scepticisme, sur
l’Abîme, sur l’Archinuit gangrenée qu’engendre l’esclavage ―
更にこじつけ
ポアンカレの弟子のエピステモロジストでウィーンの論理実証主義団やハイエクなどのモンペラン協会の会員でもあつたLouis Rougier(1989-1982)はペタン政府の有力者だつたために戦後追放されWikiの英語版には彼の哲学的業績が書いてあるのに仏語版には専ら政治的なことしか書かれてありません。
古代からの反キリスト教の聖書とも言へる、ケルススの『アレーテス・ロゴス』の仏訳をした彼も有力な無神論者に属しますね。
ルジエが法王レオ13世のencyclical Aeterna Patris (1879)に反対する800頁以上の大論文 − アリストテレス・トミズムはキリスト教信仰と両立しない − を1924年に発表し、それについてユリウス・エヴォラ1898-1974(R.シュタイナーやR.ゲノンに並ぶエソテリズムの大物ですが)が1924年に書いて居るのを知りました。 http://thompkins_cariou.tripod.com/id3.html
その結論部分でEvolaが書いて居ることはクリマと似て居ないでせうか?
God is this final self-manifestation : the act of the individual (or essence), and, in him, of all things, so that the individual can consider himself to be God in potentia. Not by a jump between two co-existents (Catholic dualism), but by continuity and progression of construction, one passes from one term to the other. Then, it can be said, like Meister Eckhart : all the creatures want their supreme perfection, all of them want the essential life, all of them move into my reason to become reason. I - the Unique - raise all the creatures from their consciousness to mine because they become unity in it. The individual must comprehend, according to the principle of cosmic responsibility, what it is that he does.
C'est vite pass
すごく、レベルの高い議論が続く中を、お許し下さい。
NHKラジオ「まいにちフランス語」の応用編にチャレンジし始めました。毎回、予習が大変ですが、今のところ頑張ってます。少しわからないことがございまして、ご回答いただければ、幸いです。お忙しいところをよろしく お願い申し上げます。
11月26日(木)放送分の本文の最後に、C'est vite passé!? があり、和訳が、「すぐに過ぎるよね。」となっております。ここの文は、内容的には未来のはずなのに、なぜ複合過去(だと思いましたが)で表現してあるのでしょうか。全文を載せます。
Clara : Tu prepares ton depart au Japon?
Raphael: Oui.? J'ai une foule de choses a faire.? Et il faut aussi que je prenne quelquew cours de japonais.
ラファエルの話は続きます。
Je suis prêt à tous les sacrifices pour que mon rêve se réalise. L'unique problème, c'est que ma copine veut que je l'emmène avec moi. Elle ne veut pas rester sans moi. Mais il n'est pas question qu'on y aille ensemble, au Japon, car so séjour n'est pas pris en charge. D'un autre côté, j'ai peur qu'elle rencontre quelqu'un d'autre en mon absence. Oui, je sais, ça ne sert à rien de se soucier de ce qui pourrait arriver. Bon, et puis trois mois, c'est vite passé!
もちろんそれは、 「Comment ca va ? 」とか 「 Est-ce que ca va ? 」の略ですが、もともとくだけた表現だから、「ca va?」になりがちで、ヨーロッパの他の人は、フランス語であいさつが「ca va?」「ca va.」と、同じ言葉で済んでしまうのにびっくりするようです。ふつうは質問と答えが違いますから。
日本人はむしろ「元気? 」「元気。」でもあり得るから違和感が少ないかも。
これについて、aller bien とか aller mal は、12世紀以来、状態の変化を表現していたのに、今は状態の継続を表す体と説明されています。
つまり「ca va?」というのは、「いつもと同じですか? 」「おかわりありませんか?」という意味ですね。だから、基本的に「いつもの状態」を知っている間柄で使うわけです。
いつもより具合悪い時は「Bof.」とかこたえちゃうわけです。
Oc語で「Quin vas ? 」(キンヴァス) というのは「Comment vas-tu?」の方じゃないでしょうか。
dativus commodi
wie geht es dir?のやうに、関与の与格dativus commodiか所有の與格dat.auctorisか知りませんが実際の主語になるはずの人称代名詞が欠けてゐるのでせうね。
valeo(etre sainの意味)と言ふラテン語と混同したのかも知れませんね。
辞書を見ると、手紙の最初にはS.V.B.E.E.Q.V.と書いてこれは si vales, bene est,ergo quidem valeoの略ださうです。またquomodo vales?はcomment vous portez-vous?と訳してありました。
come staiやcomo estasなら簡単なのに!
「アンゴルモアの大王」というのは、フランソワ1世の父でアングレーム伯と呼ばれたシャルル・ドルレアン(Charles d'Orléans Comte d'Angoulême)とよく似た名前のシャルル・ド・ゴール(Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle ste phane ruegg)のことではないかと思います。
2000年7月25日にシャルル・ド・ゴール国際空港を飛び立ったコンコルドAir France Flight 4590が、離陸直後に炎上し、墜落しています。この時の火だるまになって落ちていくコンコルドの映像は、シャルル・ド・ゴールの名前とともに全世界へ広く報道されました。
近年、というより、ここ十数年、欧米系、特に英語メディアで日本関係の話となると相変わらず目にする「日本衰退」の論調。リーマンショック以降、欧州経済が落ち込んでからは、「このままでは日本のようになってしまう」物言いもちらほら出始めました。
少々古い(2010年9月9日)記事ですが、ご紹介する英国・フィナンシャル・タイムスの記事もそんな内容(もっとも日本に触れているのはほんの一段落程度ですが)。つまり、欧州は日本的に影の薄い存在になりつつある(Europe heads for Japanese irrelevance)」ということ。
つまり、日本ってなんだかんだいっても世界有数の経済大国ですが、一方で国際政治、外交分野での影響力は、本当に影が薄い、欧州もそんな存在になりつつある、いいのか?これで?というボヤキとも警鐘ともつかぬコメントです。
(無題)
初めての投稿失礼致します。
私もあのフランス2の報道は、かなり事実を歪めた報道だったと思います。見た当初は、日本政府に怒りを感じたくらいでしたから...。そこで、ネットで調べてみると、事実はかなり違っていたと言うことがわかりました。
「竹の棒」で日本を見下すような報道をしたのは、フランス側の「vexation」の表れだったのではないかと思います。あの報道では絶対日本が悪いと取られますから。
「ル・ポワン」が比較的客観的な記事を書いています。タイトルが「Tokyo exige le retour des sauveteurs français à Sendai」で、「exige」というのが気になりますが、投稿されたコメントの半分以上を見ると、フランス側が軽率であったことが伝わっているようです。でも「ル・ポワン」の読者とフランス2の視聴者では圧倒的に数が違いますので、多くの人は日本政府の「自尊心」でフランスに失礼なことをしたという脚本を鵜呑みにしているでしょうね。
フランス2に抗議のメールか手紙を送ろうかと思っています。
東京の特派員( Paolo Longo なるジャーナリストでした):「こちらは東京ですが、節電の通達もあり町の中は若干暗いですが、人々がパニックに陥っている光景は見られません。この惨事のさなか、日本人は驚くほどの冷静さで毎日を送っています。世界中でたたえられた道徳観も失ってはおりません。人々は静かに情勢を見守っております」
一昨日の経済紙 Les Echos によれば、最近のIfopの統計では、ユーロをやめてフランに戻りたいというフランス人は3人に1人だそうで、ドイツではマルクに戻りたいのが3人に2人とフランスの倍だそうです。フランス製品を買えとかフランスに製造業を戻せという声は高まっていますが、ユーロ維持の重要性は一般に行きわたっているようです。
ちなみに彼は、14歳で亡くしたおかあさんMaryがカトリック(おとうさんはプロテスタントで後に不可知論者)で、生まれた時にカトリックで受洗してますが、宗教教育は受けなかったそうです。
ジョン・レノンとかリンゴ・スターがアングリカンでジョージ・ハリスンがカトリック家庭出身だそうです。アングリカンもカトリックも聖母マリアへの思い入れは似てるので「Let it be」とかキリスト教カルチャーにインスパイアされているのは不思議じゃないと思います。
??There are many people in any country who are doubtful or suspicious about the vaccine against novel corona-virus disease.
??To inoculate against the virus, a doctor comes to a place where people from U.K., France, German, and U.S. just happen to be present at the right time.
??"This is the vaccine for you," the doctor says. First, a British is called.
British:??"No thanks."
Doctor: "Gentlemen are all to have vaccine inoculation."
??Without turning hair, the British got a preventive shot.
Doctor:??"Well, German. It's your turn!"
German: "That's very tempting but no thanks."
Doctor: "I’m not asking for, but I’m telling."
??Obediently, the German got vaccinated.
Doctor:??"Next is your turn, American."
American: "I refuse vaccinations."
Doctor: "Oh, you should have known it. Your neighbor have already finished a vaccination."
??Changing suddenly, the American agreed to get a shot.
Doctor: "Thank you for waiting, French. It's finally your turn."
French: "I don't need a vaccine."
Doctor: "Gentlemen are all to have vaccine inoculation."
French: "Who cares?"
Doctor: "I’m not asking for, but I’m telling."
French: "No way!"
Doctor: "Oh, you should have known it. Your neighbor have already finished a vaccination."
French: "So what?"
Doctor: "Who on earth are you?"
French: "A real Frenchman!"
Doctor: "Oh, that's funny. Then, anyway, it means that you have no right to get vaccinated."
French: "What was that? How dare you say I don't have the right??!!"
??In the end, the French also decided to have an inoculation against the virus.
French people would certainly laugh at the way this small talk unfolds. I wonder what kind of joke will be possible about Japanese people.
Doctor:??"Is there any person who hasn't been called yet?"
Japanese:??"Present here."
Doctor:??"You look an Asian."
Japanese:??"I'm a Japanese. Today I accompanied my French husband."
Doctor:??"You may have vaccine inoculation, if you wish."
Japanese:??"Thank you for encouraging me to, but I’m afraid I can’t."
Doctor:??"Why?"
Japanese:??"In Japan, as of today, no one has openly gotten vaccinated."
Doctor:??"In France, you are also a regular citizen sharing liberty, equality, and fraternity together with us. It's entirely up to you whether or not to have an inoculation."
Japanese:??"I can't easily go ahead of having a vaccine shot as one of the Japanese."
Doctor:??"I'm not asking for, but I'm providing you the opportunity. Here in this republic, your choice won't be blamed."
?? Realizing that her husband has the same opinion, the Japanese woman moved on to get vaccinated.
???????????????????????????????????????????????????????????????????? (1/ 27/ 2021)
Doctor:??"Possibly, could there be non-Westerners?"
French:??"Here, I brought my Japanese friend, but he says he just came here as an observer."
Doctor:??"You may have vaccine inoculation, if you wish."
Japanese:??"Thank you for encouraging me to, but I’m afraid I can’t."
Doctor:??"Why?"
Japanese:??"In Japan, as of today, no one has openly gotten vaccinated."
Doctor:??"In France, you are also a regular citizen sharing liberty, equality, and fraternity together with us. It's entirely up to you whether or not to have an inoculation."
Japanese:??"I can't easily go ahead of having a vaccine shot as one of the Japanese."
Doctor:??"I'm not asking for, but I'm providing you the opportunity. Here in this republic, your choice won't be blamed."
????Realizing that he cannot disregard the world standard, the Japanese embarrassingly moved on to get vaccinated.