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フランス語フランス文化質問箱

79Sekko:2007/05/02(水) 21:42:43
和訳その3
 Nier Dieu, c'est se priver de l'unique interet que presente la mort.
の和訳の解説です。最近こんな言葉を見つけました。

「悪い訳でもエエ訳(英訳)、変に訳してもフツウ訳(仏訳)、二人で訳しても独訳、東で訳しても西訳、秘かに訳しても露訳、そもそもいい加減に訳しているのにホン訳(翻訳)というのが良くない。」

 変な訳でもフツウ訳(仏訳)かあ・・・肩の力を抜きましょう。
ベルギー人神父さまの訳。

「神の存在を否定するということは死ぬことのあたえる関心事をすてさることです。」ご感想は、この文章を読んだ時、それを書いた執筆者は自分自身が無神論者ではないと上手に(間接に)断言していると思われたそうです。また、「私にとって「死」とは「神との出会い」ですが、今現在「理性と信仰」によるもので、来世において「顔と顔を合せて」(1コリント人への第一の手紙13,12)と信じていますから神は存在していなければ」とのことです。
 生きている間には神を信じているが会うことはない。死ねばはじめて神と会えるのですから、神を否定すると死後の唯一の楽しみ、特権がなくなってしまいます。それがなければ、死なんて、生を失うという意味ではネガティヴだし、無という意味では、まさに無意味ですからね。私自身は、一応死後は各種聖人の真似をして、人の祈りと神との間の取り次ぎ役になろうと思ってるんですが、徳がないと逆効果かもしれません。それに、別に死んでまで神に出会っても・・・と言う気もちょっとします。今のとこ別にこの世で深刻に苦しんでないので死後の慰めはいらないし、逆に、すでにお世話になってます、ありがとうございます、と言いたいです。もちろんお会いしたことはないので、あの世で、オフ会というか、神の素顔を拝んで・・というのもいいですが、自分の知覚の仕方も変わっているでしょうから、今の好奇心はあの世に結びつきません。
 そこでおなじみK さんの答え。コピペ。
「l’unique interet の意味が問題ですね。死んでしまえば意識が消えて、生と死の区別さえ消えてしまう。その後にも先にも、神はある(のだろうか)。そういうことを考えさせるのが「死」ですが、今回は思いっきり俗な意訳で失礼いたします。
『最後の審判も閻魔さんも怖くなければ、神を否定するがよい。』」

 おお、これは現世利益でなくあの世利益の思想ですね。エジプトのミイラがいろんな護符と一緒にぐるぐる巻きにされてるのを思い出します。どんな文化のどんな共同体でも、一応「死後の物語」の筋はあるので、三途の川の渡り賃だとか、旅装束とか、死者にいろいろ支度させて送り出すというのは普遍的にあります。この文は、「たったひとつのアンテレ」というのが、死の持つ唯一のいいことともとれますし、神の唯一の効用とも皮肉にもとれます。つまり現世利益の部分は効かないので絶望したか、最初からあんまり期待しないけど、自助努力ではどうにもならない死後の世界でこそ、神にしかすがれません、どうぞよろしく、という、情報の少ない未知の分野における危機管理でしょうか。神のものは神に、カエサルのものはカエサルに、で、死後の世界こそ神の得意分野みたいな・・
 でもたいていの文化では、生前からそれなりに信仰していないと、死ぬ時にあわてて恩赦を請うてももう遅いというまっとうな考えなんで、生前の信仰を管理したり支配の道具にしたりする組織や人間も出てくるわけです。

 Naoさんの訳。
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「神を否定するということは、死が与えてくれる唯一の利益をなくしてしまうということである。」

 同類で、Mさんの訳。
 「神を否定することは死のもたらす唯一の興味深いものを拒絶することだ」

もう一つ、Julieさん
 「『神を否定することは死というものが呈示してくれる唯一の慰みをむざむざ受け取らないことだ。』 死のおかげで味わえる(体験できる)たった一つの楽しみをむざむざと放棄すことだ、というのも考えました。」

 やはり、アンテレが問題ですね。結局、辞書にのっているような、興味、利益、関心事などすべて出てきて、そのどれも少し合っているし、微妙にずれてもいるような。
 結局、死の意識と不可知の意識は同時に生まれるとも思います。この文はフランス人の文なので、神は人格神であり、Nier というのは無神論など、神の存在の問題なんですが、被造物から超越した神なので、そもそも被造物の世界で被造物のような形では存在できないんですね。
 逆に、人間が死に思いをはせることがないか、不死身だったら、神は否定するまでもなく存在しないでしょう。神の存在は、有限の世界というこの被造物のあり方と人間によるその認識とペアになっているのです。「死ぬというあり方とその認識」といってもいいです。「Nier Dieu」は神の存在を前提としているわけです。しかし、死は否定できません。死とは無である、無は存在しないのだから無は存在しない、あるいは、死んだ時はそれを認識する人はもう存在しないのだから、死を知る人は誰もいない、などとエピキュリアン的詭弁は可能ですが、我々は誰でも、親しい人や動物が死に、肉体が破壊され、もう2度と帰ってこない経験などから、死の存在を実感します。死の体験とは、残された者にとっても一種の神との出会いの体験なのでしょう。死もまた神の被造物なのですから。
 哲学者シモーヌ・ヴェイユは、「神の体験をしたことのない二人の人間のうちでは、神を否定する人の方が、神のより近くにいるだろう」と言いました。
 神も死も、人間が否定するだけで存在しなくなるようなものではないんですね。ええと、なんだか、フランス語の解説と離れましたが、アンテレとは、語義的には、「注意を引くに足るもの」なんですね。利益はもちろんかもしれませんが、未知のものや、畏れを抱かせるものも、注意を引きます。死にひきつけられた時、神も姿を現すのかもしれません。


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