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エスペラント改造論

1やぱーの@管理人:2006/10/12(木) 17:46:51

申し訳ありません。すでに、このスレを立てたのですが、タイトルが「敢えて...」でした。
管理人初心者でしたので、お許しください。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1158318733/l50
改造論のスレを立てます。アルファングル以外は、こちらでどうぞ。

2ladio:2006/10/27(金) 23:50:01
Esperanto 2.0b
1.1 人称代名詞・草案
me(mea men)  私は(私の 私を)
mej(meja mejn) 私たちは(私たちの 私たちを)
ve あなた vej あなた達
ŝe 彼女 ŝej 彼女たち
le 彼 lej 彼ら
ce あの人(三人称中性代名詞) cej あの人達
ĝe それ ĝej それら

veajn amikojn あなたの友達達を
vejan amikon あなた達の友達を
vejajn amikojn あなた達の友達達を

発音の都合上、以下のような省略が必然的に形成される:
M'estas Esperantisto.

#Web 2.0の流行に乗って、エスペラントも2.0に!!
#文法に必要最低限の変更をちょっとづつしていこう。

3隣の隠居:2006/10/28(土) 15:03:12
「〜達」というのは、単に複数語尾を付けるというのは違うと思います。
「私たち」というのは、その場に"mi"が全員いる場合もあるでしょうが、その場に全員いない"mi kaj li"の可能性もあるでしょう。

4USoZo(JL1USZ):2006/10/28(土) 17:03:09
『(状況が)判り易いけど覚えにくい』ことにならないと良いですね。
設定が細かくなりすぎると覚え辛くなります。
私は、漢字で書く「おじ・おば」でも苦労するのでひらがなで誤魔化しますので。

5ladio:2006/10/28(土) 18:38:58
>>3
確かにその通りですね。
それでは、
「ŭe 私たちは」
に訂正(mとnは聞き分けづらいと言うイドの意見を取り入れて)。

ところで、「riisumo」運動と言うのがあるそうです。
liとŝiのように性別を区別しないriを使おう、と言うものです。
というわけで、
re あの人(三人称中性代名詞) rej あの人達
に訂正。


Esperanto 2.0b
1.2 性接尾辞・草案
-it- 男性接尾辞
-in- 女性接尾辞

patro 親
patrito 父親
patrino 母親

6USoZo(JL1USZ):2006/10/30(月) 02:41:52
>5
-it- 男性接尾辞

すでに -it- -at- -ot- がありますが、これらを他のモノに替えるのでしょうか?
すると、 -int- -ant- ont- も関連付けて変更しなければならなくなりますね。

7Nemaldekstremistocxjo:2006/10/30(月) 15:18:24
私もpatroが「親」や、instruistoなどの-istoには中性的な意味があればいいのになとは思います。
ただ、riでさえ、まだまだですし新しい接尾辞を使うのは反対意見が多いと思います。

あえて、女性教師であることを強調したいときにのみ、instruistinoを使うことにする、や
日本でも「看護婦」から「看護士」になったように、女性にもflegistoを使う(使っても良いことにする)など。
そういった自然な変化の方が受け入れられていくのではないでしょうか。

それで、父親であることを強調するときは、masklpatroとか?(笑)

8Kanva:2006/10/30(月) 22:55:28
二人称の単数・複数の区別は(特に相手を前にしていないときに)欲しい。

Riistoの提唱する男性化語尾は-iĉ-だけれども、例えば-oĉ-のように母音も
女性と違えてくれたほうがイメージしやすい。-i-自体に女性のイメージが
あるので(個人的感覚)。

9ladio:2006/10/31(火) 18:08:43
>>6
しくじりました。。。
>>8
既にあるんですね。
「-oĉ- 男性接尾辞」賛成です。

Esperanto 2.0b
1.3 冠詞
定冠詞laの使用を任意とする。
つまり、話者の母国語に冠詞がない場合、laは使わなくてもよく、
母国語に冠詞がある場合、laを使ってもよい。

#laを理解できるかできないかは文化によって違います。
#日本人にはどこにlaを使うのか分かりにくいものです。
#むしろ、必要性すら理解できないケースもあります。
#文化的差違を少なくするため、laを非推奨とします。

#現在、エスペラント改造という不純な動機のもと、エスペラントを勉強しています。
#このスレをモチベーションにしてます。
#迷惑を顧みず、勉強不足を晒しつつ改造案をほざいていきたいと思います。

10Kanva:2006/10/31(火) 22:24:59
「定冠詞を持たぬ言語を母語とする者は最初のうちlaを使わなくともよい」
とは、Fundamentoにも出ていた説明と思いますが、ladioさんの言いたい
のは、もっと減らさせようということですね。

11USoZo(JL1USZ):2006/11/01(水) 00:10:23
>8
#二人称の単数・複数の区別は(特に相手を前にしていないときに)欲しい。
同感ですね。「お前」だけに対して文句言いたいのに複数が目の前に居ると
「お前ら」全部に文句言ってると取られる場面が(英語で)以前あって
《一人対一人なら勝てるけど一人対多数では勝ち目が無いぢゃぁないか》
ってことで燻った経験があります。

 あ?これだと相手が目の前に居るときですね?
何十年も前のことなのに思い出したらまた悔しくなってきました。<`ヘ´>

>9
#現在、エスペラント改造という不純な動機のもと、エスペラントを勉強しています。
#このスレをモチベーションにしてます。
根拠は個人のそれぞれでよいですよね。
楽しめなければ学問はただの拷問だと思います。

#勉強不足を晒しつつ
自分で読書をしたり聞いたりして理解を深めていくことが勉強でしょうから、
知らないことを聞くこと(教えを請うこと)は極自然なことだと思います。
勉強完全なら教授になっているのでしょうから。
ladioさんやみなさんの勢いに乗っからせて貰いますね。(^^♪

12ladio:2006/11/01(水) 19:08:02
Esperanto 2.0b
2.1 動詞の不定形
動詞の不定形は動詞の目的語としてのみ用いる。
つまり、povi(〜できる),devi(〜しなければならない)などの後に用いる。
それ以外の場合、名詞化したり、形容詞化したり、前置詞を用いて表現する。

2.2 二重否定
二重否定、可。

13ladio:2006/11/02(木) 19:56:59
Esperanto 2.0b
2.3 能動分詞
分詞形容詞が叙述形容詞として使われるときは、分詞形容詞は動詞の不定形をとる。(-anti,-inti,-ontiを語尾にとる)
つまり、叙述修飾句の分詞は動詞の不定形を用いる。
Mi rigardis akvon falanti sur la straton.
私は水が路上に落ちつつあるのを見た。
Mi rigardis akvon falantan sur la straton.
私は路上に落ちつつある水を見た。

14ladio:2006/11/03(金) 18:38:01
Esperanto 2.0b
2.4 分詞動詞(2.3 能動分詞を破棄)
分詞動詞を作ることができる。
能動分詞動詞は-anti,-inti,-ontiを
受動分詞動詞は-ati,-iti,-otiを語尾に持つ。

E: La bebo estas dormanta.
E-2.0: La bebo dormantas.
日本語:赤ちゃんは眠っている。

E: Mi estas invitata.
E-2.0: Mi invitatas.
日本語:私は招待されています。

問題点:一つの単語で2つの時制を表さなければならない。
ただ、受動分詞動詞ではほとんどの場合、2つの時制は一致するので、問題ないと思われる。

15Kanva:2006/11/03(金) 21:17:50
そういえば、JoMoの"Suno sunu !"という曲の歌詞の最後に、
"esperantu"という命令法があるのを聞きました。
他にそういう特殊な用例をご存知の方は?

16エスペロ:2006/11/04(土) 06:45:56
>>14
La bebo dormantas. Mi invitatas.

この言い方は、Monato誌にはよく出てきます。やはり、estiが2音節で冗長
なので、estiを使いたくないという心理が働くのでしょうね・・・

17ladio:2006/11/04(土) 11:53:17
分詞動詞は使われているんですね。
私にとって、そっちの方が使いやすそうなので良かったです。
と言うか、最初に分詞について学んだとき、これは動詞として使うものだと思いこんでいました。

18松戸彩苑:2006/11/11(土) 23:36:18
「改造」のうちに入るのかどうか判りませんけど、エスペラントの単語(あるいは
語根)には、長すぎるものがあると思うんですね。

で、そういうものは合成語をつくるのにも不便だと思いますので、短い語形が
あると良いと思います。

たとえば

pantalono → panto
au'skulti → au'ski
trankvila → tranka
cirkonstanco → cirkono
impertinenta → imperta

のようにです。

19ladio:2006/11/14(火) 20:19:01
ノシロでは、単語の文字数はなるべく少なくなるようにしているみたいです。
単語が短いと合成語作りに便利なだけでなく、単語の視認性も向上しますね。

20ladio:2006/11/17(金) 18:32:31
http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/nutrlg.html
良いこといってます。(もしかしたら皆さんご存じかも知れませんが)
私はほぼ同意です。

特に、「
http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/trmnr.html
エスペラントでは、「生物学」「同音異義語」などの高級語を安易にラテン語からとっている。
造語法で作れるものは造語法でとことん作るべきだ。

と言う、意見です。一番下には、造語法による高級語が列挙されています。

21Nemaldekstremistocxjo:2006/11/17(金) 21:01:05
ladioさんの斬新な発想は大好きですが、ノシロのような失敗した人工言語を参考にされる意味は、まだ私にはよく分かりません。

22Nemaldekstremistocxjo:2006/11/17(金) 21:09:30
追伸
>>20
もちろん、私もこのページはお気に入りです。この中にもいらっしゃったり(笑)

23ladio:2006/11/18(土) 17:07:37
>>21
ノシロなどは失敗したのではなく、ただ広まらなかったのです。
あらゆる人口言語は大事な遺産であり、良いところは取り入れるべきだと思います。
新しい発想はなかなかでませんので、過去の優秀な人の思いつきをパクってしまいます。

24松戸彩苑:2006/11/26(日) 02:15:48
エスペラントというのは基本的に「書き言葉」として発達したものなので、「耳で聞いただ
けでは区別しにくい」という単語が、けっこうあるように思います。
できれば、そういうものも改善したほうが良いと思ってるんですが。

具体的に言いますと、matura と natura、multa と muta といったものです。
これらは「目で見る」場合にはまず間違えないのですが、「耳で聞く」場合には、かなり
紛らわしいと思うんですね。

で、私は matura を mjura としたら良いんじゃないかと考えています。
これはフランス語の m&ucirc;r を参考にしたものです。
ほんとは mju なんて発音じゃないほうが良いんですが、mira や mura とするわけには
いかないので、こういう語形になったわけです。
スペイン語ふうに madura とすることも考えましたが、インドネシアには「マドゥラ族(人)」
という人たちがいますので、これも不採用としました。

それから muta は mjuta としたら良いと思います。
これは言うまでもなく、英語の mute の発音を参考にしています。

しかし笑い話のようですが、結局 mjura と mjuta も似てしまってますね。
これは最終的には、しばらく試験的に(話し言葉として)使ってみないことには、「改良」に
なってるのか、それとも「改悪」なのかが判断できませんね。
こういったことを考えますと、むしろ multa のほうをイタリア語ふうに変更して molta とす
るほうが良いのかもしれません。

こういった単語のペアはたくさんありまして、ほかにも ses と sep なんかが気になるとこ
ろです。
sep をギリシア語ふうに hep あるいは ep とするのは、どうでしょうか。

それから vidi と vivi というのも、耳で聞いた場合には、区別しにくいように思います。
私は今のところ vidi を vjui とするということを考えています。

ほかにも sama-sana、ankau'-antau'、al-au'、jam-iam、se-sed、mi-ni、el-en、sub-sur
なんかも気になっているのですが、これらについては、なかなか良い代案が思いつきま
せん。
今のところは「ゆっくりと丁寧に発音する」ということを心がけるしかないでしょう。

25松戸彩苑:2006/12/09(土) 09:46:10
エスペラントに対する批判や不満のひとつに「語彙が欧米中心である」という事が
ありますね。

もちろんエスペラントは、もともとフランス語やラテン語をもとに作ってあるので
「基礎的な部分」が欧米的なのはやむを得ないのですが、しかし「基礎的な部分」
以外の語彙に、もう少し、欧米以外のものがあっても良いのではないでしょうか。

欧米以外の文明で重要なものとしては、中国を中心とした極東文明、インド文明、
それにイスラム文明などがあると思うのですが、ここでは我々にとって最も身近
な「極東文明」に由来する語彙を提案してみたいと思います。

エスペラントにおいて「漢字」を表わすさいに最もよく使われるのは cxina ide-
ogramo という表現です。
しかし、言語学にくわしい一部の人たちからは「漢字は ideogramo ではなく logo-
gramo である」という指摘がなされています。
また、このほかにも cxina litero とか cxina signo という言い方もあるわけ
ですが、しかし考えてみれば、漢字というのは、現在、十数億人が使っている
文字なのです。
こういうことを考えれば、固有の語根で表わしても良いのではないでしょうか。

ということで、「hanzo = 漢字」という語根を提案してみようと思います。
これは、中国語の hanzi(漢字) から作ったものです。

26松戸彩苑:2006/12/09(土) 10:14:09
>>25
hanzo(漢字) という語根があれば、「日本で作られた漢字」という表現も
hanzo elpensita en Japanio と表現することが出来ます。

従来の表現方法ですと、cxina ideogramo(litero, signo) elpensita en Japanio
「日本で作られた中国文字」という、少々おかしな表現になってしまいますね。

なお余談ですが、かつてのベトナムでも、ベトナム独自の漢字が使われていました
し、また朝鮮にも、朝鮮独自の漢字があるらしいです。

それから「漢字の辞書(あるいは字書)」も hanzaro と表現することが出来ますね。

27松戸彩苑:2006/12/09(土) 13:00:21
>>26 で elpensita en Japanio と書きましたが、elpensita de japano のほうが
良いかもしれませんね。

あと、>>25 で出てきた ideogramo は「表意文字」、logogramo は「表語文字」という
意味です。

28松戸彩苑:2006/12/09(土) 16:08:03
>>24 で「耳で聞いただけでは区別しにくい単語が、けっこうある」と書きました
が、そういう例は、ほかにもあります。

それは、enlitigxi と ellitigxi のような例です。
この「en〜igxi」と「el〜igxi」というのが、なんとも紛らわしいと思いますね。

それで私は「en〜igxi」のほうを「〜enigxi」に換えたら良いのではないかと
考えてるんですね。
「liten」に「igxi」をつけて「litenigxi」とするわけです。
litenigxi と ellitigxi であれば、見た目も、発音も、適度に違っていて、区別
しやすいと思うのです。

もっとも、「el〜igxi」のほうを「de〜igxi」に換えるという方法もありますが、
私は上記の方法のほうが良いように思います。

29Kia-kablo-mi-estu:2006/12/11(月) 22:37:02
松戸さんのいう事には一理ありますが、耳を慣らすことが一番の方法だと思います。
エス語の単語には音韻論的には、一子韻の違いでその意味を区別する単語がたくさんあります。
例として、
bato, dato, fato, kato, rato, k.a.
これは、発話の「省エネ化」傾向から考えるとなるべく文の単位である意味を表す最小単位の
形態素を出来る限り短くする必要から来ています。お手本となる「自然言語」がそういう傾向で
「進化?」してきているのです。

実際、特に話し言葉(言語の本源)の場合は、発声器官に掛かる負担の軽減とその代償となる
意味の不明瞭化との攻め合いで決まるものなのですね。

この省エネ化のエス語の身近な例としては、人称代名詞の mi, vi, li, sxi などがそうでしょう。
これらは多くの印欧語にある動詞の活用の不規則性が学習を難しくしている事から導入された
ものでしたが、その代償として、時として情報の不正確さをもたらすものでもあります。
エス語を聞くのが不慣れな人にとっては、時として主語がはっきりと聞き取れないこともありますね。
それに反して、活用の違いが残っている言語(例えば、スペイン語、イタリア語等)では
主語を省略しても動詞を耳にしただけで主語(人称の違い)が明瞭です。

この例のように言語を学びやすくするためには、規則性と共に簡潔さも一つの要素となりますが、
場合によっては意味は不確実になる場合もあるということだと思います。
ところで、'en-litigxi'と'el-litigxi'も確かに耳で聞いた場合には区別しにくい語だと思います。
これが改められないでいるということは、実際にはTLO(tempo, loko, okazo)でその区別を理解して
いるか、あまり実際場面では使う機会がそれほど(修正が必要なほど)も今のところはない、
という事でしょうか。denaskaj esperantistoj に伺ってみなければなりませんな。。。

30Kia-kablo-mi-estu:2006/12/12(火) 07:23:19
エスペラントにとってマイナスのような書き方をしましたが、実は、発話の
省エネ化傾向にブレーキをかけて来たのが書き言葉なんですね。正書法とか
伝統文法の様な権力による強制がなければ、話し言葉は所詮前回に述べた様に
意味の不正確という対価を払わなくても一定の共同体の中では、ダーウィンの
自然淘汰説を待つまでもなく落ち着くところに落ち着いたわけですね。
特に英語なんかは、長期に渡ってどちらかというと被支配者たちの言語傾向が
強かったので(今とは大違い)割と省エネ化が進んでいるんですね。

ザメンホフもエスペラントの創作には英語が大いに参考になったと語っていっている
位ですから。その代償として綴りとの乖離が矯正不可能な程となってしまいましたけど。
もう一つの例として、「民族的統一」を比較的早く行ったにも関わらず常に
ゲルマン言語の影響を受けやすかったフランス語の場合は権力により正書法等の
厳格な統制が長らくありましたしその傾向は今も続いたいます。にも拘らずですよ、
話し言葉では省エネ化が例外なく進んでいます。動詞の活用などは厳密に残っているのは
書き言葉においてだけで、話し言葉では単複の一、二人称の区別に縮小しています。

そういった意味で考えるとはザメンホフは天才でしたね。現在の科学としての言語学的
見解を先取りしているのですから。
時間がなくなりましたのでこの続きはまたの機会に述べさせていただきますが、
en-litigxi, el-litigxiの違いは話すときには、ハイフンで分けたようにelとen
の次の語との間に少し時間を入れるようです。具体的には所謂「曖昧母音」を間に
入れるようです。かなで書けばエヌリティージ、エレリティージのようになります。
en-iri, el-iriの場合は、文法書に書いてある通りというより、むしろ離さないで
話したほうがむしろ分かりやすいですね。

31Kia-kablo-mi-estu:2006/12/12(火) 07:37:33
重要な事を書き忘れました。
何も印欧語に真似なくても日本語や中国語には人称による動詞の活用は存在しませんね。
しかも主語というか主題というか、その提示は義務的ではありません。
それに対しては論理的にどうのこうのと批判めいた事を言う人がおりますが、
話し言葉でも、実際その使用場面では不便を感じた事は少なくとも私には
ありませんでした。
上述の「むしろ、はなさないではなしたほうが.....」もTLOを考えれば誤解を
生じないでしょう。

32胡人:2006/12/12(火) 11:00:20
先日新しく出版された藤本達夫さんの「エスペラント語の入門書」を読みました。
長年、世界中の高名なエスペランチスト達と交流のある彼なりの、文法等の感じ方捉え方が、分かりやすく多くの例文で示され、大変面白かったです。正直、Enkonduka;入門書とは言えないと思いますが(^^)

彼が良く言われるのは、2,3時間外国の空港で耳を澄ませていると、必ず言葉として聞こえて来る、中には内容が分かって来る言葉もある。本当にそう思います。私はちゃんとした文章を書くのは苦手ですが、会話で苦労した事はあまりありません。

本当の初心者の時、往復2時間くらい、ロシア人エスペラチスト2人を人足替りにピアノを運んだ時、運転しながらだったのもあり、母音も聞き取れず、初めは彼らが何を言っているのか全くわかりませんでしたが、帰りの1時間は結構分かる様になりました。その場で「cxf-」という言葉を理解し覚える事が出来ました。私はその様にトニカク習うより慣れろという事と思わされました。

私が習った Gvidanto は良い意味で、いわゆる16か条というモノは、エスペラントを宣伝するための、ザメンホフの天才的宣伝用のキャッチコピーという言い方をされています。

以前、Ladio さんが 字上符の方法、ri 使用について等を改造と書いておられましたが、藤本さんや私の Gvidanto 的には改造ではなく、それがエスペラント採用されるかどうかは、その使用頻度(使用者による自然淘汰・自然選択的)だという考え方です。

33Kia-kablo-mi-estu:2006/12/12(火) 21:44:46
胡人さんの見解に概ね賛成です。
ただ私たちが心に留めておかねばならないのは、残念な事ですが人には個人差が
有るという事です。これを言うと直ぐ差別主義のように言う人もおりますが、
これは厳然たることで、エスペラントの聞き取りになれるのに要する時間は、人に
よってかなりの差が有ります。
私も含めて、私たちが陥りやすい傾向として仮に「言語学習に於けるエリート主義」
とでも言いましょうか。そういったものにかぶれないよう注意する事ですね。
ザメンホフの16ヶ条の文法ルールをを読んで直ぐに使いこなせるようになった
人達は、相当のインテリだったと思います。
我々(日本のエスペランティスト)の殆んどもすでに英語の洗礼を受けていたと
言うことには大いに留意すべき事だと思います。
私も小学生にエスペラントを教えた経験がありますが、とりわけ日本人であって、
平均的能力の持ち主にとっては英語の学習と同じく、エス語の習得は至難の技だ
と思っております。
主要な自然言語(歴史的に現代文明の持つ知識十分に耐えうる機能を全て有して
いるという意味で)が持っているあらゆる基本的素材を包含した言語には語彙や
その統語法において例外なくミニマム量が有るという事ですから。。。。

34松戸彩苑:2006/12/13(水) 05:10:59
>>29-31
ご意見、ありがとうございます。

「bato, dato, fato, kato, rato」の例ですが、たしかに一音の違いで意味を区別
するケースが多いのは事実です。
しかしですね、同じ一音の違いでも「聞き分けやすい」ものと「聞き分けにくい」
ものとがあると思うんですね。
私は「聞き分けにくい」と思われるものだけを挙げたつもりなんですけどね。

35Kia-kablo-mi-estu:2006/12/13(水) 07:28:45
松戸さんの挙げた ses と sep なんかは、典型的な例ですね。最後に子音のみで終わるもの。
私は ses はむしろ最終的には英語の six を参考に sis に換えたほうが良いのでは、とも
思いますが、これはfundamento に抵触する事なので宣伝はしません。しかし、私と違って所謂「改造論者」
の人達が敢えて意識的に使い多くの esperantistoj がそれに習うようになれば、それはそれで
言語的進化だと言えるでしょうね。

36Kanva:2006/12/13(水) 08:57:44
梵語等を参考に ses を sxas に換える、或いは露語等を参考に sxes に、
というのはどうでしょう。

37Kia-kablo-mi-estu:2006/12/13(水) 20:38:34
Kanva さんへ
結局、この問題は将来、エスペラントで生活する人達の判断で決まる問題でしょう。
すでにエスペラントの存在は少数の恣意的所有物というような物からとっくに離れた
ものとなっていますから。
言ってみれば、誕生は創作言語として、現状としてはすでに殆んど「自然言語」として
存在しているわけです。

38松戸彩苑:2006/12/13(水) 20:51:07
今まで私は、改造や新語根について論じてきましたが、今回は新しい合成語の話をし
ようと思います。

東京、ニューヨーク、ロンドンなどの大都市は「区」に分かれています。
この「区」をエスペラントでどう表わすかということを考えてみたいのですが、『日本語エ
スペラント辞典』の kvartalo の項の(2)を見ると

(2)【地理】〔大都市の行政上の区分〕区〔東京などの〕:la Latina K〜o 〔パリの〕カル
チェラタン.

と書いてあります。
これでめでたしめでたし…と言いたいところですが、じつは問題が2つあるのです。

1つ目は、そもそもパリのカルチェラタンは「行政上の区」では無いということです。
ご存知の方も多いと思いますが、パリ市は20の区に分かれており、1区、2区…という
ふうに呼ばれています。これが「行政上の区」です。
で、カルチェラタンというのは、パリ大学の周辺部のことを言うわけですね。行政上の区
で言いますと、5区から6区あたりになるそうです。
ということで、パリのカルチェラタンは『日本語エスペラント辞典』の kvartalo の項の(1)
にある

(1)〔都市・町の特定の〕区域、地区、市区、界隈(かいわい):

というのに相当するものなのです。

で、2つ目の問題は、Nova PIV の kvartalo の項を見てみますと、『日本語エスペラント
辞典』とは違って、定義が1つだけだということです。
つまり『日本語エスペラント辞典』の(1)の意味しか書いていないのです。
そして、ここにも la Latina K〜o が載っていました。もちろん、これは正しいわけです。

念のため、旧版のPIV の kvartalo の項も見てみましたが、やはり『日本語エスペラント
辞典』の(1)の意味しか書いてありませんでした。

ということで、Nova PIV(および旧版の PIV)と『日本語エスペラント辞典』とでは定義が
違っているということが判りました。
もちろん、kvartalo が「行政上の区」の意味で国際的に使われている、つまり『日本語エ
スペラント辞典』のほうが詳しくて Nova PIV のほうが不十分だという疑いもあるわけで
すが、私の場合、kvartalo を「行政上の区」の意味で使っている例は、日本人が書いた
エス文のなかでしか見たことが無いように思います。

また、Wikipedia エスペラント版の kvartalo の項には

Kvartalo

Kvartalo estas parto de urbo, sed gxi ne estas administra distrikto. Gxi estas ia ka-
rakteriza parto de la urbo ekz.: komerca kvartalo; la latina (studenta) kvartalo; cxina
kvartalo.

と書いてあります(原文では字上符を用いているが、筆者が代用表記に改めた)。

ということで、どうやら kvartalo には「行政上の区」の意味は無いみたいだって事になる
わけですが、しかし、これで一件落着というわけにはいきません。
「行政上の区」を表わす表現がないと困るわけです。

フランスの「区」は arrondissement というのですが、Nova PIV や『日本語エスペラント
辞典』にも arondismento という語根が収録されています。
しかし、ほとんど見かけることがないですし、また、この単語には「区」のほかに「郡」の
意味もあるらしいんですね(パリ、リヨン、マルセイユのような大都市の「区」と、それ以
外の地域の「郡」の両方を、ひとつの語で表わしてるみたいです)。
ということで、なんとか「区」を合成語によって表現できないかって考えたわけです。

で、私が最初に考えたのは urbero というものでした。
町をいくつかに分割したものだから urb-ero だというわけです。
で、けっこう良いかなって思ったんですが、しばらくして urbeto と(音声的に)似すぎて
いるということに気づいたんですね。
ほんとに困ってしまったんですが、でもそのうちに、そもそも区というものは大都市にし
かないということに気がついて、今度は urbegero というのを考え出しました。
我ながら名案だと思ったんですが、しかし、意味的には正確ではあるものの、音声的に
はあまり魅力的ではないですね。

みなさんは、どのようにお考えでしょうか。
もちろん「kvartalo に2つの意味があっても構わない」「言葉は少しずつ変わっていくもの
だ」といった考え方もあると思いますが、これはじっくりと考えてみるべき問題だと思いま
す。(完)

39Kia-kablo-mi-estu:2006/12/13(水) 21:52:21
所謂、Quartier latin ですか。懐かしいですね。日本にも「学生街の喫茶店」
という曲がガロの歌でヒットしましたが。
有名なSorbonne 大学がある界隈ですね。

>『日本語エスペラント辞典』の kvartalo の項の(1)
にある(1)〔都市・町の特定の〕区域、地区、市区、界隈(かいわい):

PIV より確かに親切ですね。
でも詳しく定義分けをすることで誤解も生じるという事でしょう。
文脈で、所詮、語の正確な意味が決まるわけですから、PIV の定義の方がより
「安全」といえるでしょうね。

それから行政区画を正確に表す必要に迫られた場合は(政治や法律等の関係文書以外
あまりないと思いますが)、何も無理に一語の単語を作る必要はなく、
la distrikto, Minato, とか Minato-distrikto といえば行政区画ということは
分かると思いますが。
どうしても kvartalo を使いたければ、administr(aci)a kvartalo で良いと思います。
最もあなたのお考えになった合成語を使いたければ、それは一向に構わない事です。
「便利だ」と多くの人に受け入れられれば、おのずと広まっていくでしょう。

40りょほう:2006/12/13(水) 22:11:07
松戸彩苑さんへ

私はエスペラント版ウィキペディアでkvartaloを「行政上の区」の意味で使い、既に記事を幾つか作っています。
kvartalo には「行政上の区」の意味がないってことはわかっていたんですが、かといって他に使えそうな単語があるわけでもなし・・・当然選択肢は無く使うことに。
ああ、こうやって使うことで1つの単語にどんどんいろんな意味が追加されていくんだなあって、しみじみ思いました。

http://eo.wikipedia.org/wiki/Curumi-kvartalo_%28Jokohamo%29
http://eo.wikipedia.org/wiki/Setagaja-kvartalo

41松戸彩苑:2006/12/16(土) 08:31:36
「行政上の区」のことですが、新たな発見がありました。

Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』の borough の項は、
次のようになっています。

borough, (district), (urbo)distrikto; (Br:chartered town), municipo

また Erich-Dieter Krause(編)『W&ouml;rterbuch Deutsch-Esperanto』の Bezirk の項にも
urba distrikto という表現が載っています。

ということで「行政上の区」を表わすには urbo-distrikto あるいは urba distrikto という
表現が使えると言って良いようですね。
distrikto だけですと、市町村よりも大きいのか小さいのか、ハッキリしないと思われます。

…ということで、この問題は一件落着と言いたいところなのですが、しかしここで問題提
起をしてみようと思います。
問題とは、たかが「行政上の区」といった程度の表現を見つけることが、エスペラントで
はかなり大変だという事です。
また、どうして大変なのかと言えば、この程度の表現がハッキリとは決まっていないか
らなのです。

歴史をひもといてみれば、東京、大阪、京都などに区が設けられたのは、1878年のこ
とです。
欧米においては、もっと以前から区があったことでしょう。
そういう、エスペラントが発表されるよりも前からあり、文明国のふつうの住民なら誰でも
知ってるはずの「行政上の区」を表わす表現が、エスペラントではいまだにすんなりとは
出てこないということは、大問題だと思うのですね。
また、エスペラント界では、語彙・表現は「自然に決まる」ものとされていますが、この
「神話」にも疑問を感じざるを得ないわけです。

私は以前から痛感していたのですが、エスペランティストは「日常生活に必要な語彙」と
いうものに、ほとんど関心をもっていないという事があると思うのです。
たとえば「腕立て伏せ」「腹筋運動」「懸垂」といった表現を、エスペラントですんなりと表
現できるでしょうか?
英語ですと「腕立て伏せ」は push-up(米)、press-up(英)、「腹筋運動」は sit-up、「懸
垂」は chin-up、pull-up などというように、簡単に調べることが出来ます。

しかし、エスペラントでは、これがなかなか簡単には出てこないのです。
『日本語エスペラント辞典(第二版)』を見ると、次のようになっていました。

うでたてふせ【腕立て伏せ】 〜をする sin subteni per brakoj kaj piedoj.
ふっきん【腹筋】 〔解〕 abdomenaj muskoloj.
けんすい【懸垂】 pendado. 〜運動 pendgimnastiko. 〔鉄棒体操〕 rekgimnastiko. 〜線
katenario.

つまり「腕立て伏せ」で出てくるのは、地面に四つんばいになるポーズを表わすだけの表
現であって「動き」が表現されていません。
「懸垂」にしても、ぶら下がるだけで、ここにも「動き」は表現されておらず、「腹筋運動」に
至っては、まったく載っていません。

42松戸彩苑:2006/12/16(土) 08:32:29
>>41 の続き)

Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』を見てみると、push
の項にある push-up(腕立て伏せ)には lev-pusxo という訳語が与えられています。
また chin の項にある chin-up(懸垂)には mentonumo、mentonumi sin という訳語がつ
いています。このような表現は、新旧どちらの PIV の mentono の項にも載っていません。
press-up は収録されておらず、また sit-up、pull-up の項はありますが、運動を意味す
るものは載っていませんでした。

これが、エスペラントの実態なのです。
しかし、こういう話をしても、従来の考え方に染まりきったエスペランティストたちであれば
「大した問題ではない」「そのうちに自然に決まる」と考えることが出来るものなのでしょう。

このあたりのことがいい加減だから、エスペラントは発表から120年もたっているのに
Tok Pisin にも劣る二流の言語にとどまっているのだと、私は思うのです。
今のままでも、日常生活に必要な表現を「大ざっぱ」には表現できるのですが「正確」に
は表現できないのです。
そういうことに気づかない理由は、やはり「日常生活に必要な語彙というものに、ほとんど
関心をもっていない(詩をつくったり、抽象的な話をしたりすることだけが好きだから)」と
いうことと「(大部分のエスペランティストは母語でも使うことのないような)学術用語がた
くさんあるということで満足してしまっている」ということと「自然に決まるという神話がある」
ことなんかが原因なのだと思います。

エスペラント界には英語などの外国語が堪能な方が多いんですけど、そういう方たちは、
エスペラントがほんとうに他の民族語と比べて遜色ないと思っておられるんでしょうか?
私なんかは大して英語はできないんですけど、その私から見ても、遜色ありまくりなん
ですけどね。

また私は、周囲にいる人たちにエスペラントを勧めたことが一度もありません。
理由は、日常生活に必要な語彙でさえ不足しているので、他人に勧める気にはとてもな
れないからです。
専門家しか知らないような単語が無いのは許せますが、日常生活に必要な単語がアイ
マイなのでは、他人に勧めようが無いのです。

もちろん私は「エスペラントはもうダメだ」と言ってるのではなく、「日常生活に必要な語彙
を、みんなで整備していく必要がある」「それは可能だ」と言ってるのです。(終)

43胡人:2006/12/16(土) 12:08:19
「行政上の組織」の表現は、各々の国、地域によって結構違いがあり、それらはその歴史的文化的な背景からくるものです。

東洋においては、漢字を使用するため、かえって間違い易い点の一つとも言えます。例えば、韓国における、市、洞、里、中国の郡、県など、漢字を使いながらも、それぞれ基準が全く異なります。

そのためエスペラントは、橋渡し言語として、ヨーロッパだけではなく世界中に様々な言い方がある以上、世界的基準を勝手に決めない方が良いと思います。

urbo,vilagxo,kvartalo,bloko,gubernio等を,例えばkvartalo;"KU"(区)と表記し、注釈において説明するのが一番良いと私は思います。

44松戸彩苑:2006/12/16(土) 13:30:50
>>43
まぁ、国によってバラツキがあるということと、原語を添えるというのは、よく
判ります。

でも、どの国でも、英語で説明するときのために「訳語」が決まっていると思う
んですよね。
たとえば、日本の「区」は ward って訳されますよね。
(ニューヨークやロンドンの区は borough なんですけど、どうして日本の区だけ
ward って訳されるのか、よく判りませんね)

また、大都市の「区」くらいは、国際的に通用する語があっても良いように思っ
たんですけどね。

45樂々:2006/12/18(月) 20:55:11
「自然に決まる」はウソでしょう。百年かかっても決まらなかったんですから。

46胡人:2006/12/19(火) 07:07:50
正直、決める必要は?
公文書に記入の時は、urbo等大まかな表現で良いし、また必要なら"Ku"等注意書きで良いし。
郵便等は配達作業者が理解できる様に書くのが基本だし、様々な基準が本当に必要であれば決まるしょうが…

少なくとも現在までは必要がなかったのが本当のところでしょう(^^)V
必要な時には、決まるでしょうし決めるでしょう必要なところが…決め、発表する事になると思います。

47松戸彩苑:2006/12/24(日) 12:57:51
「エスペラントは、日常生活に関する用語でさえも不足・混乱している」という私の持論を、
さらに詳しく説明してみようと思います。

まず最初に「分割払い」と「割り勘」という表現をエスペラントでどう表わすかについて調
べてみます。
どちらも「分けて支払う」ということなので、よく考えて造語しないと区別がつかなくなって
しまうわけですが、結論から言いますと、やっぱり混乱してるんですよね。

『日本語エスペラント辞典』では

ぶんかつ【分割】 (中略) 〜払い partopago. 〜払いする partopagi. (後略)
わりかん【割勘】 〜で払った Cxiu kotizis; Cxiu pagis sian parton.

となっていました。
「割り勘」のほうは、これでは「みんなが支払った」ということしか判らないので、良い表現
だとは思えません。
しかし「分割払い」のほうは、これで良さそうな気がしますね。

次に『エスペラント日本語辞典』の pagi の項を見ると

partopago 手付け(金);分割払い(金)

となっています。
つまり、ここでは「分割払い(金)」の意味だけではなく「手付け(金)」の意味もあるんだと
いうことになってました。
しかし考えてみると「手付け(金)」と「分割払い(金)」の表現が一緒というのは、混乱しな
いでしょうか?

そんなことを考えながら Nova PIV の pagi の項を見てみると

parto〜o. Parta 〜o, farita kiel garantio de la pli malfrue pagota sumo: (後略)

と書いてありました。
つまり「手付け(金)」の意味しか無いというのです。
さらに、念のために旧版の PIV を見てみますと、parto〜e という副詞のかたちで副見出
しになっていて

Kiel ek〜o: (f) nur unu kiseton, parto〜e de nia edzigxo!

とあり、文末に z マークが付いています。
つまり、ザメンホフが使った用法なのですが、たしかにこれは「手付け」の意味だと思わ
れます。
Nova PIV も、このザメンホフの用法を踏襲しているわけです。

話をもとに戻しますが、どうやら『エスペラント日本語辞典』では、Nova PIV には書いて
なかった「分割払い(金)」の意味を付け加えたらしいのです。
まぁ、実際に使われているから付け加えたのでしょうか、しかし、先に述べたように「手付
け(金)」と「分割払い(金)」の両方を partopago という同一の表現で表わすというのは、
やはり問題だと思います。

ちなみに Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』の install-
ment(分割払い) の項には partopago が載っています。
つまり『日本語エスペラント辞典』と同じで、Nova PIV とは違っているというわけです。
また、この辞書の go Dutch(割り勘にする) のところには iri mempage と書いてありま
すが、この表現もやはり「自腹で支払う」という意味しかないと思います。

48松戸彩苑:2006/12/24(日) 12:59:27
>>47 の続き)

このように、いくつかの辞書を見てきたわけですが、ここまで来れば、これらの表現をも
っと明確に表わす方法はないだろうかと考えるわけです。
まずは「割り勘」ですが、いろいろと考えて思いついたのは egala pago という表現でした。
みんなで同額を支払うことなので egala を付けてみたわけです。

次に「分割払い」ですが、lau'grada pago あるいは grada pago というのはどうでしょうか。
po-parta(po-ioma、po-era) pago とか、「分割払い」を直訳した divid-pago なんてのも
考えたんですが、これらは「割り勘」と誤解される危険があるかもしれませんね。
---

次に「逆立ち」をエスペラントでどう言うかについて考えてみようと思います。

英語では handstand と言うらしいので、これを参考にして man-stari あるいは brak-
stari などと言えば良いと思われます。
さらに「逆立ちした状態で歩く」というのは man-pasxi、man-marsxi、man-iri (あるいは
man- の代わりに brak- としても良い)で表わすことが出来るでしょう。

このように考えていくと何でもないような気がしますが、しかし実際には man-star(ad)o
という表現が載っているのは(私が知るかぎりでは) Esperanta Bildvortaro くらいのも
のなのです(同書278−24)。

『エスペラント日本語辞典』の kapo の項にある surkape という副見出しのところには
「stari sur〜e 逆立ちしている」というのが載っています。
これはどうやら、ドイツ語の Kopfstehen、Kopfstand などの影響をうけたもののようです
が(英語にも headstand という表現がありますが)、しかし細かいことをいうと、頭を地面
につけるタイプの逆立ちならば良いでしょうが、頭をつけない場合にも surkape と言うの
はどうかなと思います。
もっとも「慣用句だ」と言われれば、それまでですが。

『日本語エスペラント辞典』を見ると

さかだち【逆立ち】 〜する starigxi kapmalsupren. 〔頭をつけて〕starigxi kappiede. 〜し
て歩く pasxi per manoj. (後略)

となっています。
「逆立ちして歩く」だけはすんなりと処理していますが、「逆立ち」のほうは、かなり難しい
表現をしています。
pasxi per manoj を参考にすれば starigxi per manoj という表現がつくれると思うのです
が、なぜかそうしていません。
---

このように、エスペラントを勉強していきますと、日常生活に関する用語の不足・混乱とい
うものが嫌でも目につくという事があるわけです。

一部の専門家しか知らないような単語は、無くても仕方がないと思いますが、いわゆる文
明社会の一般人なら誰でも知っているような事物を表わす単語・表現が無い(あるいは混
乱している)というのは、大問題だと思います。

もちろん、こういうものは、割合から言えば、ひじょうに小さいものですが、しかし「使ってる
うちに自然に決まる」と信じて、こういったものを放ったらかしにしておくのは良くないだろう
と思うのです。

(終わり)

49松戸彩苑:2007/01/04(木) 12:53:10
「上下が逆」「左右が逆」「前後が逆」「表裏(おもてうら)が反対」ってのを、エスペラントで
はどのように表現するんでしょうかね?

英語だと upside down(上下が逆)とか inside out(表裏が反対)のように言いますね。
(英語で「左右が逆」と「前後が逆」をどう言うのか知らないんですけど、ここではどうでも
良いことです)

自分で考えてみたんですが supro-sube、dekstro-live、antau'o-poste、interno-ekstere
なんてのはダメですかね?

50松戸彩苑:2007/01/06(土) 12:29:02
>>49 で「表裏が反対 = interno-ekstere」と書きましたが、これは洋服や手袋や靴下な
どの表裏(= 内側と外側)のことを念頭においたものですね。

紙やシートといった薄いものの裏表の場合ですと fronto-dorse とでも言えば良いんでし
ょうか?

また、こういった表現の仲間として「タテとヨコが逆」というのもあると思うんですが、これ
はどのように言えば良いのか、私には思いつきません。
---

私は、エスペラントを始めて3年くらい経ったころから、自分の身の回りにあるものを見て
「これはエスペラントでなんと言うのだろう?」と思うことがたびたびありました。

で、判らない場合は和エス辞典を引くわけですが、首をかしげるような訳語が載っていた
り、あるいは、まったく載っていなかったりということがよくあったのです。

もちろん、新しい事物であるとか、昔はあったが今は無いものとか、日本独自のものだと
か、民族語においても一部の人しか知らないようなものなどであれば、エスペラントの表
現が無いのは理解できます。

しかし、昔からあって、現代の文明社会に住んでいるふつうの人間であれば誰でも知っ
ているような、ごくごく日常的な事物なのに、訳語が無かったり、あるいは有っても、訳語
があまり適切だとは思えなかったり、または長すぎて使いにくそうだといったことに頻繁
に出くわしますと、現在のエスペラントのありかたそのものに疑問がわいてくるわけです。
---

たとえば「キャッチボール」をエスペラントでどう言うんだろう?と思って『日本語エスペラ
ント辞典』を見ても、まったく出てきません。

「キャッチボール」という見出しはありませんし、「キャッチ」と「ボール」の項はありますが、
キャッチボールは載っていません。

私はいろいろと考えて、自力で inter-jxetado という表現を考え出しましたが、このときに
思ったのは「このような合成語というのは、ふだんからみんなで作って発表していかない
とダメだ」ということでした。

少なくとも私は、ある表現が必要になったとき、即座にその表現を考え出せるほど、頭が
良くありません。
---

エスペラントはこのような状態だから、理論的には便利な言葉であるはずなのに、現実
には、理論上考えられるほど便利な言葉とはなっていないのだと、私は考えるのです。

また、eterna komencanto や、数年でやめてしまう人がたくさん発生するのも、これが一
因だと思います。
だいたい「学習容易」なはずの言葉なのに、身の回りの事物を表現するのがしばしば困
難なのでは、どうしようもないではないですか。

それから、エスペラント界には「エスペラントはすでに、政治・経済・学術などといった高度
な活動に使用することが出来るんだ」などと考えている人がいるようですが、私はかなり
危険だと思います。

もちろん、エスペラント界の内部で「試験的に使用」することは大事であり必須であるとさ
え思いますが、しかし、現在のエスペラントを過大評価するのは、やはりマズイと思うの
です。

>>47 で論じたことですが、現在のエスペラントは partopago に「手付け」と「分割払い」の
2つの意味があるような混乱した状態だということを忘れないでいただきたいのです。

こういうことは今のところ起こりうるとは思えませんが、もしも、どこかの会社でエスペラン
トを使って取引をすることになったのは良かったが、表現のマズさから大きな損害が発生
してしまった、などということが起こると困るわけです。

たとえエスペラント界に賠償が来なかったとしても、エスペラントの信用はがた落ちになる
でしょう。

世界中どこに行っても「あぁ、あの大損の元になった言葉か」と言われることになると思う
のです。

私が「日常生活」や「娯楽」のために使うことを奨励しているのは、そういったトラブルが起
きにくいだろうと考えたからです。

またそもそも、世間の人たちが、エスペラントを「高度な、失敗すると損害が大きい」ような
分野で採用することは、まずありえないと考えたからでもあります。
---

ということで、私は「日常生活に関する表現が不足・混乱している」ということを、エスペラン
ト運動の根幹の問題だと考えております。

これを読んで「単なる揚げ足とりだ」とか「くだらない」とか「そのうち自然に決まる」などと思
われる方もいらっしゃるかもしれませんが、けっしてそうではないのです。

「社会の問題」には敏感だが、「エスペラントの問題」には鈍感だというのでは、やはり困る
のです。

(終わり)

51松戸彩苑:2007/01/08(月) 12:00:53
mon-kolekto という表現がありますが、『エスペラント日本語辞典』の kolekti の項を見る
と「募金」という訳語がつけられています。

また Nova PIV で mon-kolekto を調べてみますと、この表現を「募金」の意味で使った
のはザメンホフだということが判ります。

でも考えてみると、世の中には「集金」ってものもあるんですよね。

「募金」は慈善事業のために集められるもので、絶対に出さなければならないという義務
はありませんが、「集金」は純然たる経済活動の一つであって、支払う義務のあるもので
す。

また英語でも、募金は fund-raise、fund-raising、whip-round などと言うのに対して、集
金は bill collecting、bill collection などと言って、両者を区別しているようです。

ということで、この2つの概念は区別したほうが良さそうですね。
ところが『エスペラント小辞典』の mon-kolekto の項には「募金」と「集金」の両方が訳語
としてあげてあったりします。

私の考えでは mon-kolekto を「集金」の意味に使い、「募金」は kvesti を使って表現す
るのが良いと思います。

もちろん、ザメンホフの用法を尊重して mon-kolekto を「募金」の意味で使っても良いの
ですが、その場合には「集金」を表わす表現を考え出さないといけません。
私には、そういう表現が思いつかないので「mon-kolekto = 集金」「kvesti = 募金」の
ほうが良いと考えたわけです。

Nova PIV で kvesti を調べてみると Grabowski が使ったということが判りますが、おそら
く「募金」を mon-kolekto で表わしたのでは「集金」と区別できないということに気がつい
て、これと区別するために新語根を導入したのでしょう。
---

『日本語エスペラント辞典』で「手抜き」の項を見てみますと

てぬき【手抜き】 〔意識的な〕 neglekto; saboto. 〔不注意による〕 forgeso. 〜をする
neglekti; saboti. 工事に〜が発見された Oni trovis (intence) preterlasitan parton en
la laboro.

となっています。
かなり頑張ってはいるのですが、しかし残念ながらイマイチな感じがします。

ということで、もっと良い表現はないだろうかと考えて、最初に思いついたのが malsincere
farita あるいは malsincera という表現でした。
「手抜きの仕事」を malsincera laboro のように表わそうというわけです。

しかし、もっと適切で短い表現はないだろうかと考えました。
「ラクをしよう、かんたんにしようとして不正をする」ということだなと考えて、facil-umi とか
simpl-umi などとすれば良いのかなと思ったりもしました。

しかしそのうちに sxpari に「出し惜しむ」という意味があることに気がついたので、sxpar-
umi あるいは sxpar-acxi といった表現で表わすことが出来るのではないかと思いました。

「sxpar-umi (あるいは sxpar-acxi) = fari ion kun tro da sxparemo de mono, peno kaj/
au' tempo」とでも説明しておけば、理解してもらえるでしょう。

もっと良い表現があるかもしれませんが、もしも思いつかれた方がおられましたらご教示
をねがいます。
---

先日、駅前を歩いていたら、目の前にハトが舞い降りてきたんですが、それを見て「(鳥が)
舞い降りる」ってエスペラントでどう表現するんだろう?と思いました。

『日本語エスペラント辞典』には「舞い降りる」の見出しは無く、「舞う」「舞い」「降りる」の項
にも「舞い降りる」はありませんでした。

「舞い降りる」は英語だと to swoop というらしいので、これを Peter Benson(編)『Compre-
hensive English-Esperanto Dictionary』で調べてみると、fal-flugi という表現が載ってい
ました。

fali は「落ちる」とか「倒れる」という意味があるのでイマイチかな?とも思いましたが、まぁ
「下にむかって飛ぶ」ってことだから、こんなものなのかなとも考えました。
でも、ひょっとすると、この fal-flugi という表現は「鳥が、地上にいる獲物をつかまえるた
めに急降下する」って意味なのかもしれないな、とも思ったのですが、実際のところはどう
なんでしょうか。

ちなみに fal-flugi は Nova PIV にも旧版の PIV にも載っていません。
Wells の辞書には載っています(英エスの部の swoop)。

私も自力でいろいろと考えたんですが、flugil-bat(ant)e al-ter-igxi くらいしか思いつきま
せんでした。
「羽ばたきながら着地する」ということですが、なんとも長ったらしく、ぎこちない表現ですね。
なんとかして「フワッと降りてくる」というニュアンスを簡潔に表現したいものだなと思ってい
るのですが…。

52松戸彩苑:2007/01/08(月) 12:01:58
>>51 の続き)

野良イヌ・野良ネコをエスペラントでどういうのか?と思って『日本語エスペラント辞典』を
引いてみると

のら【野良】 (中略) 〜イヌ sovagxhundo. 〔駄犬〕 hundacxo. 〜ネコ sovagxkato.

と書いてありますが、どう考えても sovagxhundo、sovagxkato は「野生のイヌ・ネコ」だと
思います。

私はどこかで sen-mastra hundo という表現を見たことがありますが、これのほうが良い
と思います。

このほかに私は vag-hundo とか nenies-hundo といった表現を考えたんですが、最近に
なって梶弘和(編)『和エス辞典』に vaganta hundo、sen-hejma hundo という表現が載っ
ていることを知りました。

長さという点から、私は vag-hundo がいちばん気に入っているのですが、みなさんはど
のように思われるでしょうか。
---

「ゴミを捨てる」のでも、「社会のルールにしたがって捨てる」こともあれば「ポイ捨て」や
「不法投棄」というのもあります。
こういった表現も、訳し分けることが出来ないと、環境問題について語ることが困難にな
ってしまいます。

『日本語エスペラント辞典』には「ポイ捨て」「ポイ」「捨て」の項は無く、また「捨てる」のとこ
ろにも「ポイ捨て」は載っていません。

「ポイ捨てする」を英語では to litter というので、Peter Benson(編)『Comprehensive
English-Esperanto Dictionary』を見てみると dis-rubi という表現が載っていました。

この表現は、Nova PIV にも、旧版の PIV にも、Wells の辞書にも載っていません。
これは Peter Benson 氏が自分で考え出したのでしょうか、それとも、どこかで使われて
いるのを見て収録したのでしょうか。
いずれにせよ、注目すべきだと思います。

「不法投棄」については、『日本語エスペラント辞典』の「投棄」の項ではシンプルに kont-
rau'legxe forjxeti と書いてあります。
私見では、一般人がゴミを捨てるのとは違って、大量に捨てるということを表現したほうが
良いと思うんですが、そうは言っても、なかなか良い表現が浮かびませんね。
---

今まで私が問題にしてきたものは、すべて、ごくごく日常的なものばかりです。
こういった言葉を母語で知らない人は、まずいないと思うんですね。
ですから、こういったことがすんなりと表現できないというのは、たいへん大きな問題だと
私は思うのです。

こういった日常的な表現について考えることは、大型のエスペラント辞典の何割かを占め
ている、エスペランティストの90%以上は母語でも知らないような専門用語なんかよりも
ずっと大事だと、私は考えています。

さらにここで強調しておきたいのは、こういったものも、本気で考えれば、かなりのていど
解決するんですよね。
ですから私は「現在のエスペラントには問題がある」とは言っておりますが、同時に「それ
は解決できるんだ」と言ってるわけであって、けっして「エスペラントは永遠にダメだ」など
と言ってるわけではないということをご理解ねがいたいわけです。

こういった例をつうじて「日常生活に必要な表現をナメてはいけないのだ」ということを身に
しみて感じていただきたいと思うのです。
---

それから、エスペラント界には「neologismo 論争」というのがありますが、私に言わせれば、
あれは完全にピントが外れているんですね。

neologismo 論争においては「文学的な表現のための新語根導入の是非」ということを論じ
ているわけですが、そもそもエスペラントは「日常生活に必要な表現が不足・混乱している」
のです。

もっとも私も neologismo をめぐる議論から多くのことを学んだわけですので、ああいった
議論がまったくのムダだとは考えていないのですが、しかし neologismo に賛成する人た
ちも、反対派も、いちばん大事なことが判っていないのだと思われてならないんですね。

私の立場はかんたんで「日常生活に必要な表現を確立することが大事であって、その作
業をしていくうちに新語根が必要だということが判れば新語根を導入するし、既存の語根
で表わすことが出来るのであれば新語根は必要ないということになる」というものです。

また、日常生活に必要な表現が十二分に確立されれば、わざわざ「文学」のためだけに新
語根を導入しようなどと考える人は、ほとんどいなくなるのではないかと思うのです。

(終わり)

53りょほう:2007/01/09(火) 22:30:17
松戸彩苑さんへ
私もエスペラントには日常生活に必要な表現が不足していることを痛感しています。

「使ってるうちに自然に表現が決まる」では結局ほったらかし。
ならば「使ってもらえるような表現を決める」ぐらいな方が良い。(たとえ決めた表現が定着しなくとも・・・)
で、この松戸彩苑さんの話の流れだと、この次には「辞書に不足している表現を決めて広めるにはどうするか・・・?」 っていう問題が出てくると思います。

ウィキペディアの姉妹サイトにウィキショナリーという「フリーの辞書をつくる」サイトがあるのですが、使用法によってはこれを「エスペラントに不足しているしている表現を作り出す場」としても活用できるのではないかと考えています。

1.参加者は辞書に不足している表現をウィキショナリーのサイト上で募集する。
2.不足した表現に適切な合成語や新語を、ノートでの話し合いで決める。
3.その結果は辞書という形で残り、無料でインターネット上で公開されだれでも使える。
4.その表現が不適切だと思うなら参加者は再度ノートで話し合い、適切な表現を決める。

まあ、現在エスペラント版ウィキショナリーは参加者が不足して全く機能していないので、私の計画は机上の空論に過ぎません。
http://eo.wiktionary.org/

54松戸彩苑:2007/01/11(木) 21:53:21
>>53
拙文を読んでくださって、ありがとうございます。

たしかに「どうやって決めていくか」について考えることも必要だと思います。
でも、今はネットがありますからね、私はこれについては、それほど心配して
ないんですよね。(考えが甘いかもしれませんが)

今はやはり「現在のエスペラントは、日常生活に関する表現が不足・混乱している」
ということを、具体例をあげて説明して、そこそこエスペラントができる人たち
によく知ってもらうことが大事だと思っております。

また、問題の具体例をたくさん見ていくことで、「問題とはどういうものなのか」
が判るようになり、その解決方法を考えるさいにも大いに役立つと私は考えて
おります。

ということで、今は、そういった例をあげていくのが良いんじゃないかなと思っ
ております。

しかし考えてみれば、今まで多くのエスペランティストたちが「言語問題」について
論じてきたわけですが、当のエスペラントそのものに深刻な「言語問題」がある
ことには、まったく気づいていなかったというのは、皮肉としか言いようがあり
ませんね。

55Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/13(土) 13:16:17
松戸彩苑さんへ
エスペラントには、日常生活に関する「共通の」表現が不足していることは、確かです。
さらに、EUの公用語を目指すべくその資格においては、実際問題として法律用語を始め
として政治経済社会に関する専門用語の充実とその細部に亘る正確な定義づけ等は
緊急の課題かと思われます。

ただ、私の経験から申し上げますと、あなたの言う二つの「言語問題」のうち、
「全く気づいていない(?)」と言う方はそれ程深刻とは思えません。
むしろ、あなたも言うところの

>今まで多くのエスペランティストたちが「言語問題」について論じてきた

その問題の方がエスペラントには優先課題なのです。

その理由として、エスペラントは、日常の営みを起源とする民族語とは異なっている
事がまず挙げられます。

我々が生まれてから順に獲得していく用語を考えてみてください。最初の用語としては、
「ママ」、「まんま(飯)」でしょうか。そのうち「オシッコ」とか「ウンチ」
に行きまして、自分自身を呼ぶ「僕、私、俺等」までの長い道のりがありますね。
そして、家庭外の遊び仲間、そして学校という具合に我等の生活範囲が空間的、
そして後を追いかけるように時間的にも広がっていく、その過程で沢山の語彙を
獲得していきます。

この過程は人間として生まれた以上は避けられない、極論すると、死活問題なのですよ。

そして最終的に獲得可能な母語としての語彙数の限界は、その母語である民族語が
使用されている我々個々人を含む社会のこれまでの時間的空間的な営みに規定される
のですね。

換言すれば、個人にせよ、社会にせよ、その発達段階において語彙の総体数が決まる。
我々の社会における営みが増えるたびに暫時不足している語が追加されていく。

わが国では、広辞苑にある「国語」として公に定まった(定められた)語彙に
代表されます。
勿論、この中には「社会的に認知された」新語も含まれます。反面、社会的に
不要になったと考えられる語の多くも所謂「文化的遺産」として含まれていますね。

エスペラントの場合は、民族語と違い当初から使用目的が定められていました。
それは、母語(民族語)の獲得が個人の成長をなぞるようなものであるとすれば、
全く逆で成長した個々人が意識的に獲得しなければならないものです。勿論denaska
という方もごく少数ながらおりますが、例外中の例外でしょう。

そして重要なことですが、その獲得の有無は、所謂、「少なくとも当面は」死活問題では
ないのです。(続く)

56Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/13(土) 21:03:41
denaskaj esperant-parolantojにとっては、成長過程のある時期において
死活問題と言うことも、勿論あるでしょうが、エスペラントに関しては、
まだ「残念ながら」そのような真剣な問題を引き起こすことはまれでしょう。

残念ながらといったのは、エスペラントの理想である共通語として、人が(たとえ
denaskaであったとしても)家庭を離れてもその学習の継続を余儀なくされる
共同体(民族・国家の枠をを超えた社会)がまだ実現されていないという意味に
おいてです。平たく言えばエスペラントには人が社会生活を営むために不断に
その習得を無条件で押し付け得る環境が自然的には未だ存在していないのです。

長くなりましたが、あなたが言う所の「日常用語の不足」と言うより用語が
定まっていないのは、私が上述したことを踏まえて解決策を考えて見ることのほうが
良いのではないでしょうか。

当然、放っておいてすむ問題ではありませんが、他の民族語にあるのにエスペラント
にはないからといって不足用語を沢山作り出せば済むといった問題でもありません。
勿論、国際共通語としてすべての民族語をカヴァーする語彙が必要であることは論を
待たないことです。

しかし、今私が思うに、問題は二つあります。
まず誰が不足語を作り出すかと言うことと、どのような過程を経てそれが今の
エスペラント界で認知されるかと言うことです。
(続く)

57りょほう:2007/01/14(日) 00:27:15
>>54
レスありがとうございます。

私も「日常生活の語彙と表現の不足」の現状認識について論じ、問題がいかに深刻なのかを訴えることはとてもいいことだと思います。

でも、私はそれと平行して「具体的な解決法」を論じるべきだと思います。

具体的な解決法を論じることは、実際に問題を解決するのに有益なのは言うまでもありません。
が、それよりも大きな問題があります。
もし議論が問題提起だけでストップしてしまった場合、
「エスペラントには日常生活の語彙と表現の不足という問題がある」という問題だけが残ってしまいます。
そして・・・「具体的な解決法が示せない」→「やっぱり自然に決まるのを待つしかないんだなあ」→「やっぱエスペラントはだめだ」
という変な方向にいってしまう心配があります。

もちろん私は問題提起が不要と言っているわけではありません。ただ、そろそろ具体的な解決法を論じないと問題提起だけで終わってしまうのが心配なだけです。
決して「松戸さんはエスペラントの欠点を挙げているだけ」と言っているわけではありませんので誤解のないようにお願いします。

あと、もし具体的な解決法の案をお持ちでしたら、聞かせていただければ幸いです。

58Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/14(日) 21:10:04
私が「日常生活の語彙不足」に括弧を付ける訳は、数少ないdenaskaj
esperant-parolantojの育った家庭に於ける当事者から語彙不足と言う様な話は
これまで耳にしたことがないからです。

それはお前の情報不足だ、と言われればそれまでですが、もしそういう情報が
日常的にエスペラントを使用している方々から具体的な話があったなら教えてください。

もっとも親達の方はそれぞれの母語(この場合は民族語)で育った方がほとんど
ですから不足を感じた場合はとっさに彼女または彼の母語を使用したかも知れませんし、
後に辞書で用語の確認を行ったかもしれない。またはエス語の潜在的造語力で
取り敢えずその家庭独自の新語を使用するようにしたかも知れません。

何れにせよ、そのことについてエスペラント界で重大な論議となったことはないと
思いますが。

勿論、欧州などでは、子供を含めて家族単位の参加が多いinternaciaj renkontigxoj
等の催しが一週間くらいに渡って行われていますから、そういった問題も、もしかして
話し合われているのかもしれません。

私は、当の会合にこれまで参加した事がありませんから断言できませんが、少なくとも、
今のエス界では「日常生活の用語不足」が緊急の解決事項とはなっていません。

まあ、切が無いのでやめますが、はっきり申し上げますと、失礼な言い方ですが重箱の
隅を突付くような語彙の詮索をする前にやるべきことがもっと他に在るでしょうと
私は、言いたいのです。
(続く)

59Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/15(月) 19:52:43
Fundamentoにあるように「不足語」を作り出す方法は二通りあります。

勿論、その前に自分が表現したい事柄を表す用語が本当に無いのかどうか、確認する
必要があるでしょう。この作業が結構難しい。現在最も権威ある辞書であるPIV
が近年更新されましたが、この更新作業を毎年行うには、エスぺラント界はまだ
まだ力不足です。

従って、世界で有力なエスペラント団体や個人等が出版した最新でしかも最も包括的だ
と思われる辞書を一冊ならず参照することになります。この作業はそう容易い事では
ないでしょう。

ただ、最初に言及した「不足語」の補足うちneologismoを作ることは、慎重を
要しますが、既存のvorto-elementojを使用してkunmetita vortoを「作る」事は、
それが論理的にkomunikeblaであるならば、誰にも認められていることです。
意外とkomenc/ant/int/ojの方が成る程なぁとベテランを唸らせる「新語」を用い
たりすることがあります。丁度denaskaの子供たちがベテランの親たちを唸らせるように。
最もその語が誰にも使われたことのない新語かどうかは、当面は、分かる術が
ありませんけど。

何れにせよ、その語がエスペラント界で市民権を持つためには幾つかの過程を経る
必要があるでしょう。
(続く)

60松戸彩苑:2007/01/20(土) 15:35:35
>>59 の末尾に「続く」と書いてあったので続きを待っていたのですが、いまだに書かれな
いようなので、私のほうから書かせていただきます。

まず最初に、私がねばり強く(あるいは、しつこく)エスペラントにおいて日常生活に関する
表現が不足・混乱していることを示すような実例をとりあげる理由について、説明すること
にします。

そもそもエスペラント界では「エスペラントはすでに一人前の言語になっている」というの
が通説となっているわけです。

そしてあとは、日々新たに現われる新しい製品や概念を表わす用語であるとか、専門用
語であるとか、または文学的な表現などだけが問題であると考えられているわけです。

私がやってるのは、このような通説を、実例をあげて批判するということです。
---

もっとも、Kia-kablo-mi-estu? さんがお書きになってるように、「現在のエスペラント界にお
いては、これらの表現が必要になることはあまり多くない」というのは事実でしょう。

また、エスペラントが発表されてから120年ものあいだ使われてきて、数万点の書籍と、
多数の定期刊行物が刊行されてきたわけですから、そんなにレベルが低いわけがないと
考える人が多いのは、当然といえば当然でしょうね。

これについては、日常生活に関する表現は、文明社会に住んでいるふつうの成人であれ
ば誰でも知っているということで「認知度」は高いのですが、実際に必要となる「頻度」はそ
んなに高くない、ということがあると私は考えております。

また、表現したいんだが、うまく表現できないという場合には

(1) 正確に表現するのをあきらめて、大ざっぱな表現をする。
(2) (エスエス辞書の記述のように)長々と説明する。
(3) その部分だけ、英語などの単語を交える。
(4) 絵に描いて説明する。

などという方法がありますし、また、同じ場所にいる場合には

(5) 実物を指さす。
(6) ジェスチャーで表わす。

などということも出来るわけです。

61松戸彩苑:2007/01/20(土) 15:36:42
>>60 の続き)

そして、こういう経験を何度かしても「自分の勉強が足りないんじゃないか」とか「そのうち
に自然に決まるんだろう」などと考えてしまえば、エスペラントにおける重大な問題に気が
つくこともないのでしょう。

しかし、どう考えても、現在のエスペラントに問題が無いということにはなりませんし、日常
生活に関する表現が不足・混乱していることを実例をあげて説明することが「重箱の隅を
つつく」ようなつまらない問題だということにはならないと思います。

だいたい、このような表現が不足・混乱していたのでは、気軽な会話や、文通やネットでの
やりとりをする際にも支障が出る可能性があります。
エスペラントに幻滅する人も出てくるかもしれません。

また、りょほうさんは、ウィキペディアの記事をエスペラントで書いたりする際に、ひじょうな
困難を感じておられるようだという事実もあるわけです。

こういったことを考えると、どうでもいい問題なわけがありません。

>>58 に「語彙の詮索をする前にやるべきことがもっと他に在るでしょう」と書いておられま
すが、「やるべきこと」とは具体的にはどんな事でしょうか。
ぜひとも、教えていただきたいものです。
---

そもそも、「エスペラントはすでに一人前の言語になっている」という前提があるから「エス
ペラントによって世界の言語問題を解決することが出来るんだ」という話になっているので
す。
つまり、エスペラントという「具体物」が、世界の言語問題の解決という「理念」を支えてい
るという構図になっているわけです。

その前提があやしいと言っている(そして、この問題を克服することは可能だとも言ってい
る)にも関わらず、つまらないことだと思ってしまうというのは困ったものです。

エスペラントという「具体物」に問題があるのに、「理念」を実現することが出来るとでも考え
ておられるのでしょうか。

「理論」と「現実」とが食い違っていた場合に「理論」を信じて「現実」を無視するというのは、
きわめてありふれた間違いですが、エスペランティストもこの種の間違いに陥っているよう
にしか、私には見えないのです。

すでに何度もくり返しましたが「日常生活に関する表現」を無視しないでいただきたいと思う
のです。

(終わり)

62Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/21(日) 15:36:58
大変、ご無沙汰いたしました。
松戸さんへ
優先順位としてやるべきことについて、申し上げましょう。
ただし、これは私の場合であって、一般化するには少し抵抗のある方もおられる
かも知れません。
市井の一エスペランチストとしてですの誤解の無いようお願いします。

1.言語の運用力を高める。
(私の場合はまずは、独学でした。エスペラント4週間を使いました。学生という
地位を利用させていただきましたので、謳い文句の通り4週間で読みきりました。
大学書林の4週間、五週間シリーズで私の頭でやれるのは、エスペラントだけ思い
ました。と同時に他の言語に関して言えば、並みの頭では4,5週間では読める訳は
ないし、ましてマスターなど到底出来るものでは無いと思いました。)
 ついで言わせて頂きますと、本の内容は古くなりましたが、私は今でも推薦したい
本の一つです。独学用としては、日本語で書かれている書としてあれ以上の本には、
めぐり合っていません。

2.エスペランチストやその組織と接触する。
(学習会に参加したり、文通を始めたりしました。先輩からエスペラント運動の歴史を
学んだことも大変有益でした。)

3.幾つかの組織に加入し活動の一翼を担うよう勤める。
(加入して約一年半後に講習会のGvidanto をやりました。おっかなびっくりでしたが、
文法および会話力が飛躍的に向上しました。会話力を身に付けるためには、耳の訓練が
大事と悟り聞くことにそれ以降は力を入れています。今の所、加入組織としては、UEA,
JEI,KLEG等です。)

4.エスペラントのみを使用する、または使用を余儀なくされる合宿や国際大会に
参加する。
(この経験はそんなに多くありませんので、大きなことは、言えませんが。日本における合宿
や日本人の参加者の多いUKでは、どうしても日本語が出てしまうので、アメリカや
オーストラリアの夏期講習に参加することを考えています。)

ざっと書きましたが、答えになっているでしょうか。
勿論、上記は順番通りと言うことにはならないと思います。たいていの場合1から3
の過程はダブったり重複したりするのが普通でしょう。私の場合は講師をやる前に
外国からのGasto を一人で案内する破目(Bonsxancoだったかも)になりました。

松戸さんがどれだけの経験をお持ちですか分かりませんが、私はあなたの提起している
問題を軽視しているのではありません。
ただ、私のエスペラント経歴から考えれば、まずエスペラント界を拡大する事が何よりも
優先して考えるべきだと思いましたので、敢えて異を唱えた次第です(もしこの掲示板に
イデオロギーの違いは別として少しでもエスペラントの宣伝に寄与する目的で存在価値を
見出していればこそ)。

上述した少ない参加の合宿で、一般の日常用語で分からない言葉も後で大きな和エス辞書を
引くと大抵載っておりました。従って「不足語」というより「実定着」、「未開拓」の
用語という方がむしろ相応しいと思っています。

>「具体物」が、世界の言語問題の解決という「理念」を支えてい
るという構図になっているわけです。
上記に最も近い言語はむしろ英語でしょう。
Fundamentoが採択された1905年の段階で「日常用語」をすべてカヴァー出来ましたかしら。
それが不足しているという理由が主で第一次大戦後の国際連盟でエスペラントが受け入れられ
無かったのかしら。

私の文通相手とのやり取りでも「不足」を感じたことはありません(むしろ語学力の不足を感じます)。

もしあなたが、私が考えているだけの事かも知れませんが、細かい問題に立ち入りたいのなら、
この掲示板を読んでいる非エスペランチストに誤解(エスペラントは欠陥品だという)を与えないよう、
他の専門のエス掲示板で問題提起をして頂きたいと願っています。
願っています。

私事ですが、今年になって貧乏暇なしで余裕がありません。
この次は水曜日以降に書かせていただきます。
Kia-kablo-mi-estu? Mi devas esti la kablo kun -pa- kaj -ul-.
Nun mi ne estas kapablulo, sed nur kablo.

63松戸彩苑:2007/01/25(木) 06:09:53
>>62
レスありがとうございます。

たしかに1〜4は、どれも大事なことばかりだと思います。
しかし、私と Kia-kablo-mi-estu? さんとでは、考え方が少々違うようですね。

私の場合「日常生活に関する表現を整備する」ことと「エスペラント界を拡大する」
ことを同時並行的に行なうべきだと考えているですが、それに対して Kia-kablo-mi-
estu? さんは、後者が大事で、前者は後回しで良いと考えておられるように思われ
ます。

しかし、それは良くないと思います。

例えば、りょほうさんは、エスペラントを始められて3年くらいだと、この掲示板
のどこかに書いてあったと思いますが、そういう人でも、すでに日常生活に関する
表現の不足を感じておられるのです。

考えてみれば私じしんも、そのくらいで(エスペラントを始めて3年くらいで)、
日常生活に関する表現の不足・混乱に気づいたものでした。
---

そもそも、今どきエスペラントをやろうなどと思うのは、ひとえに「エスペラント
ならば、自由自在に会話や文通ができそうだ」と考えるからではないでしょうか。

エスペラントの文献の量は、英語だけではなく、中国語・フランス語・ドイツ語・
スペイン語・日本語・ロシア語などと比べても、ケタ違いに少ないわけです。

これは、話者の数がケタ違いに少ないので止むを得ないのですが、それでもエスペ
ラントをやろうと考えるのは、やはり「自由自在に会話や文通ができるのではない
か」と考えるからでしょう。

どう考えても「エスペラントで文学作品や科学論文を読む(あるいは書く)」など
ということを第一目標としてエスペラントを始める人は、ほとんどいないと思う
のです。

となると、やはり「日常生活に関する表現の不足・混乱」は看過することが出来
ないと思うのです。

64松戸彩苑:2007/01/25(木) 07:54:03
>>57
りょほうさんが >>53 に書かれたような方法で良いんじゃないかと思います。
(もちろん Wiki 以外の場所でやっても良いわけですが)

しかし、今はとにかく「日常生活に関する表現の不足・混乱」を実例をあげて説明
して、この問題に対する正しい認識を持ってもらうということが必要ではない
でしょうか。

「日常生活に関する表現の不足・混乱というものが、エスペラントの潜在的な可能
性をどれだけ損なっているのか」、また「エスペラント界の力を結集すれば、十二
分に克服できる」といったことを判ってもらわないと、なかなか先には進まない
と思います。

65松戸彩苑:2007/01/25(木) 08:01:00
>>64 への補足ですが、私はこういった問題について10年以上前から気がついて
いたので、慣れっこになってしまってるんですよね。

こういう問題があっても、実際に必要になる機会はあんまり無いということも
知っているので、りょほうさんから見ると、ノンビリしているように見えるに
違いありません。

今は時間がないので、ここまでにします。

66Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/25(木) 09:52:37
松戸さんへ
ご指摘は、よく分かります。
確かに、見解の違いでしょう。
「自然言語」にある「ある成長期(ほぼ学齢期)」まで到達した人が使用する
一般の日常用語について言えば、エスペラントでも用語はほぼ定着していると
思います。
問題は、エスペランチストが実際に交流する語彙の頻度からいって余り使用されない
「日常語」と言うか「生活用語」でしょう。例えば、学齢期に至る前によく使われる
私が以前にあげた幼児語とか特に家族内部や夫婦特有の会話などでしょう。

私は、エスペラントの優位性を語学的観点から診てむしろ使い慣れない「日常語用語」
なども基本語彙と接尾辞を上手に使うことにより殆ど表現可能だということです。
より正確にいうと、諸民族語のような用語が決まって(定着して)いる「自然言語」
における日常用語(日常用語に限りませんが)と違って使用者が論理的に考案した語を
「表現可能」という受動的なものではなく、むしろ十分にそのような語の使用権を
有していると言うことです。

母語においては、用語や使用法が間違っているということで、親や学校の先生、または
物知りの友人や先輩から「正しい」用語の使い方を教えられますね。そしてその「正しい」
用語は云わば「定着した」ものですから社会的にその使用を余儀なくされるものです。
民族語に多数存在する、歴史的またはその言語を使用する文化圏特有の生活史から生じた
慣用句などはその良い例ですね。

また私の経験を持ち出して申し訳ありませんが、前述したようにむしろ論理的使用を
前提とするエスペラントの運用力、所謂、習得のレベルの方が重要であると言いたいのです。
その証拠には、以前にもdenaskulojの例でも言いましたように彼らは用意に「新語」を
作り出せます。
といっても、我々の様に第二言語としてエスペラントを学んでいる者にとってはそのような
運用力を完全に習得することは大変難しいでしょう。英語の様に学校で6年間も勉強できれば、
別ですがね。
そうは言っても、普通の「自然言語」に特有のすでに定着してしまっている用語や慣用句を
ほぼ暗記しなければ実用的には満足に使用することも出来ない諸民族語と違ってエスペラントは
遥かに容易な言語といえるでしょう。

>「日常生活に関する表現の不足・混乱というものが、エスペラントの潜在的な可能
性をどれだけ損なっているのか」、また「エスペラント界の力を結集すれば、十二
分に克服できる」

むしろ「エスペラント界の力を拡大(レベルアップも含めて)し結集していくこと」
の方が第一義的課題であって、それを通じてエスペラントの潜在力も十分に開花されて
いくものだと私は考えています。

用語の不足と混乱に関して敢えて指摘するならば、EUの公文書を全てカヴァー出来る
ように(必要によってはneologismoの採用も含めて)不足している専門用語の
供給とそれらの選定がさしあたって緊急課題かなとは思います。

67胡人:2007/01/25(木) 10:58:28
> 用語の不足と混乱に関して敢えて指摘するならば、EUの公文書を全てカヴァー出来るように(必要によってはneologismoの採用も含めて)不足している専門用語の供給とそれらの選定がさしあたって緊急課題かなとは思います。

先日、お聞きしたのですが、既に、EU議長国フィンランド(今年?昨年?)において、公用語問題の一環で、議長国の負担で、エスペラント語でのEUの公的議事録を作成しているそうです。

その意味でEU自体でエスペラントはその公文書をカバーする事は出来るという実験をしている段階の様ですが…

また日常語に関して、私は、やはり何も心配していません。
日常語は文語と異なって、一部文学作品を除いて口語中心だと思いますので、初心者時から(今での初心者ですが)今まで外国のエスペランチストとの交流で困った経験はないからです。

それよりも、ついつい難しい単語をより使いたがる傾向の方が私は心配です。

英語でも、日常語はドイツ英語系語源の単語中心で話され、逆に大学、役所等へ提出書類は、ラテン語系語源の単語を使用しなければ及第出来ないと言われている様に…

せっかく簡単な言葉として生まれたエスペラントが…
やはり500〜1000語の範囲ですべてが理解できる文章、その表現をより学んでいきたいと私は思います。
文学的表現、美しい表現はその言語としての存在文化として重要ですが、一方あらゆる段階での理解し易さを失くしてしまっては意味が無いとも思えるからです。

68松戸彩苑:2007/01/26(金) 02:04:17
私の言ってることを唯一100%理解してくれてるらしいりょほうさん、この
やりとりを見て、どう思われますか?

こういう問題は、判る人には判るんですが、そうでない人にちゃんと理解して
もらうのは、なかなか難しいのです。

私が予想していたように、エスペラント界全体に、この問題の意味を正しく浸透
させるのは、そう簡単なことではないみたいですね。

まぁ、これからも、今までにあげたような実例をあげていこうと思ってるんです
が、それ以外にどんなことをやれば良いんでしょうかね?

69りょほう:2007/01/26(金) 21:50:05
>>68
私に振ってきましたか・・・。振られてもね・・・。(ふっう・・・)
一応、「私は100%なんて理解してません。」と釘を刺しておきます。

Kia-kablo-mi-estu?さんが>>62で述べたこと(「エスペラント界を拡大する事」)と「日常生活に関する表現の解決」のどちらが大事なのかって話になっているような気がするんだけど、どちらが大事かなんて優劣を競う問題じゃないと思います。どちらも大事です。やりとりをみても「そりゃどっちも大事だよな・・・」ぐらいにしか思いません。

>私が予想していたように、エスペラント界全体に、この問題の意味を正しく浸透させるのは、そう簡単なことではないみたいですね

「この問題の意味を正しく浸透させる」の意味が、問題の重要性の順位において「生活に関する表現の解決」を「エスペラント界を拡大する事」よりも上位にもってくることだったら、それはやるべきではないと思います。

「エスペラント界を拡大する事」に重きを置くKia-kablo-mi-estu?さんのような人だって、別に辞書作り自体には否定的であるわけではない。ただ重要度の順位が松戸さんと違うだけです。
むしろKia-kablo-mi-estu?さんは「エスペラント界を拡大する事」とセットで辞書作りに協力してくれる人じゃないかと思います。そういう辞書作成予備軍に向かって、わざわざ「『生活に関する表現の解決』の方が大事だ!」なんて声高に叫ぶなんて逆効果だと思いませんか?

ここは素直に「みんなで辞書作りを一緒にやりませんか?」とさそってみるのが一番ではないでしょうか? 
もちろん、実際にやるとしたらコスト、時間、作業範囲の設定、作業場所の確保、作業方法など問題があるわけで、そういうのを踏まえたうえでみんなが参加してくれそうなプランを出す必要があります。

70松戸彩苑:2007/01/27(土) 02:48:59
>>69
レスありがとうございます。

まず最初に言っておかなければならないと思うんですが、私は >>63

> 私の場合「日常生活に関する表現を整備する」ことと「エスペラント界を拡大する」
> ことを同時並行的に行なうべきだと考えている

と書いております。
これは「どちらも大事」だということです。
---

それから >>67 で「フィンランドが、エスペラントでEUの公的議事録を作成して
いる」という話でしたが、現在のエスペラントでも議事録くらいは作れるのかも
しれません。

しかし、そもそも外交というのは、国際的な問題について、あれこれ議論すると
いうことだけではないんですね。

大使館や公使館などでは、しばしばパーティーを催したり、文化交流を行なったり
しているわけですけど、こういうことも大事な仕事なわけです。
つまり「私的な雑談」というのも必要になってくるわけです。

こういったことを考えれば、議事録を作成するというレベルであれば大丈夫かも
しれないのですが、外交の分野で本格的にエスペラントが使用されるようになる
と、「日常生活に関する表現の不足・混乱」が足を引っぱることになると思うの
です。

要するに、今の状態のままで、エスペラントが使われる分野が広がっていけば、
遅かれ早かれつまづくことになるだろうと思われるのです。

で、それはエスペラント運動にとってマズイことだと思うので、今のうちから
行動を起こすべきだろうと申し上げているわけです。

71松戸彩苑:2007/01/27(土) 09:10:23
>>70 でちょっとカン違いをしてたので、訂正させていただきますね。

EUにいるのは「議員」であって「外交官」ではないんですよね。
ですから、EUの議員と外交には、直接的な関係はありませんね。

もっともEUの議員たちも、国際的なパーティーを開いたり、文化交流のための
活動を行なったりしてるのかもしれません。
また、EUの議員たちにとっても「私的な雑談」は重要なのではないでしょうか。

それから

> 外交の分野で本格的にエスペラントが使用されるようになると、「日常生活
> に関する表現の不足・混乱」が足を引っぱることになる

というのは、まったく訂正する必要はありません。

要するに、以上の話は、厳密に言えば間違いがあるが、大ざっぱに見れば間違っ
ていないということです。
---

それから私が「日常生活に関する表現の不足・混乱」を放置しておくことに反対
する理由がもう一つあります。

それは、現在エスペラント界は「エスペラントは、ありとあらゆることに使えるんだ」
と言っていますが、それがウソだという事になってしまうからです。
やっぱりウソはマズイでしょう。

>>63 でも論じたように、今どきエスペラントをやろうなどと思う人たちは「自由
自在に話したり、文章を書いたりしたい」ということが動機になってると思うん
ですね。

ですから、短期間(3年くらい)でそういう目標が達成されないと、やめてしまう
だろうと思うんですね。
また、そういう目的でエスペラントを始めた初学者に、社会運動をおしつけたり、
あるいは詩を読ませようとしたりしても、やっぱり嫌がられると思います。

こういう人たちにとって必要なのは、やはり「日常生活に関する表現」のほう
だと思うのです。
--

そもそも、外交や学術などの難しいことには使えるが、日常生活に関する表現は
不足・混乱している言語というのは、ほとんどありません。

もちろん、まったく無いわけではなく、かつての国際語としてのラテン語や、
東アジアの共通語であった漢文なんかは、そういうタイプの言語でした。
また、ここに人工語のインテルリングァを入れても良いでしょう。

しかし21世紀において、こういうタイプの言語がもてはやされるとは、とても
考えられないのです。

交通や通信の技術が発達し、ふつうの人どうしが気軽に会ったり、ネットを介して
会話を楽しんだりできる時代に、どうして、日常生活に関する表現が不足・混乱
しているような言葉を使わなければならないのでしょうか。

72Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/28(日) 23:06:14
>そもそも、外交や学術などの難しいことには使えるが、日常生活に関する表現は
不足・混乱している言語というのは、ほとんどありません。

「不足・混乱」という松戸さんの認識が事実を正確に表現する用語としては不適切
なんですよ。

私が前にも申し上げたように「使用頻度の関連から未だ未定着」といった方が
余計な誤解を生まないで済む。

また、「自然言語」と全く同じようにエスペラントを鑑定し評価しようというのにも
無理があります。

言語の使用目的が違うのですから。
未来の人類が民族語の代わりに全面的にエスペラントを母語として使用するようになれば
話は違ってきますがね。

あなたが言われる様に困難(混乱ではない)は残るでしょう。
これまでの母語を介さない日常会話の機会というのは、一部の人達(denaskulojやUEAの
事務局員等)を除いては低頻度で、しかも特定の期間しかなかったわけで、その時の会話で
使用する用語はどうしても文化や個人の趣味や運動の現状紹介や情報の交換といったものに
偏りがちでした。
これからは、ネットを介して気楽に個人的会話を楽しむ機会も増えていくと思われますので
感情表現を始めとして日常の雑談に使われる用語の頻度が増してくるものと期待しています。

それにしても、今の私にはエスペラントのレベルアップの方が切実な問題です。

73松戸彩苑:2007/01/30(火) 02:08:55
Kia-kablo-mi-estu? さんに質問します。

>>62 の1〜4というのはたしかに大事なことですが、考えてみれば、こういった
ことは今までにも行なわれてきたわけです。

でも、日本をふくめ先進国といわれる地域では、エスペラント運動は衰退しつつ
あります。
ですから、今までと同じことをやっていたのではダメなのではないかと思うの
ですが、この点についてはどのようにお考えでしょうか。

74Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/30(火) 08:18:21
松戸さんのご心配は、よく分かります。
エスペラントを広めようとする運動はそれが世に出て以来、発展と衰退の波の繰り返しでした。
大まかに言って、最初の盛り上がりは、その発表から第一次世界大戦まで。戦後の立ち直りは
速いものでしたが社会主義運動とのかかわりで、運動の統一性はかなり削がれてしまいました。

そして、エスペラント運動における最初で最後とも思われる大弾圧は第二次世界大戦前後を
通じた時期に行われました。スターリン体制とナチス等による全体主義によるものです。
この弾圧は思想的には勿論、エスペラント活動家に対する肉体的抹殺という恐ろしいものでした。
この壊滅的な国家主義による弾圧は第一次世界大戦後ような運動の急速な復活を
望むべくものではありませんでした。それでもエスペラントの理念は消えることは
ありませんでした。東西冷戦にも拘らず、まず西側でそしてスターリンの死と共に
東側でも少しずつではありますが、エスペラントは息を吹き返してきました。
そして、その頂点は、皮肉にも冷戦の終結直前とも言える1987年のワルシャワ
UK でした。
その後は、皆様のご存知の通り米国の圧倒的な力の下でのグローバル化で英語の、
特に旧ソ連圏での、伸張は著しいものがあります。エスペラントの力はそれに反比例
するかのように衰退してきていました。

これからは私の考えですが、このように世界史的に見るとエスペラント運動の運命は
大きく地球上の国家や民族やその文化等というセクショナリズムの強弱という不規則
リズムに大きく依拠していると思います。
従って別な面から見てみると、地球人たちがセクショナリズムをいかにして克服して
いくかという人類史に大きくかかわっている問題提起がエスペラント運動を進める上で
当然必要になってくるものと思います。
(続く)

75胡人:2007/01/30(火) 11:42:01
すみません、私にも意見を言わせてください。

> 日本をふくめ先進国といわれる地域では、エスペラント運動は衰退しつつあります。ですから、今までと同じことをやっていたのではダメなのではないかと思うのですが、この点についてはどのようにお考えでしょうか。

この点では現在、「エスペラント」と、アインシュタインが世界に提唱し、日本では湯川秀樹、尾崎行雄が中心となって推進した「世界連邦運動」と同じ様な傾向があると思います。

戦後の焼け野原の中、日本では二度と悲惨な戦争をすまいと世界連邦運動に日本中の都市がその平和都市宣言をし、活動し盛り上がった時があります。国会議員連盟もあり百数十人の議員連盟を付くっていますし、全国の自治体を基とした組織があります。また昨年には国会決議もされました(ほとんど知られていませんが)。

その運動が現在国を挙げて盛んなのは、なんとリビアであり、また元ソ連連邦の諸国です。つまり戦争等(冷戦もその一種?)の悲惨さを味わった国の人々が、明るい平和な未来を目指して理想に燃えて活動しているわけです。

否応無く巻き込まれる戦争等の、或る意味人災を、幸せにも長年体験せずにすんできた日本や、自国での直接的な戦争を体験せずに済んできた先進国といわれる地域では、その恵まれた環境の故、人類全体の幸せを目指すという段階から、個人の幸せ(利益)を求める事が出来る段階になっているのは確かです。

その意味で、松戸さんのおっしゃっているように今までと同じやっていたのでは、日本国内では難しいと思います。

少なくとも日本では、「楽しく簡単な一般教養としての国際補助語を身に着けて、個性ある国際交流をしよう!自分自身で世界を知ろう!」という個々の人生を豊かに過ごすという観点を、より大きくしていかなくてはならないと思いますし、その方向でしか輪を広げて行く事は難しいと思います。輪を広げることが嫌いな人もいるのでしょうが…

76胡人:2007/01/30(火) 11:56:24
書き込んでから、Kia-kablo-mi-estu?さんが書き込まれて事がわかりました。
さすがに方向性に若干相違があります(^^)V

付け加えますが、私はエスペラントも世界連邦運動も、人として大切にしていきたい活動と思っています。
それと同様の方々もおられるでしょうし、まったく異なる方々もおられると思います。
それらすべてが現状であり、その正義感同士の戦いではなく、相互の認知の上での活動でなくては明るい未来というものは無いと思います。

77Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/30(火) 18:45:38
まずセクショナリズムというものが何故維持されてきているのでしょう。
それは、国家なり民族なり、またそれを超えた文化圏(それを束ねる代表的な
ものが宗教と言語)というものが、その構成員である「多数派」の人達の生活
の精神的な拠り所となっているからです。
現代社会では、特に国家がその中心的役割を担うものとして益々大きな存在と
為ってきています。国際連合という組織も国家の意志を無視してそれを超える運営を
行うことは殆ど出来ません。それどころか国連は主に大国の利害を巡っての外交戦の
場と言っても過言ではないでしょう。
私は、別に国家の役割を否定するものではありません。
国家が地球規模で人類の共存共栄を目指す役割を積極的に担うようになれば、
地球規模での平和が実現されるはずです。

ところが現在に至るまで国家がそういう役割を担うどころか、そういう流れに
ブレーキをかけることがしばしばでした。何故でしょうか。

そこで、国家というものの本質的属性の研究が重要と為ってくるのですが、
この続きは、「エスペラントの思想と国家権力」のスレッドで書きます。
(続く)

78松戸彩苑:2007/02/03(土) 10:06:37
私は >>47-48 で「割り勘」を表わす表現について論じたのですが、藤本達生(著)『エスペ
ラントはこうして話す』の78ページに

Jes, jes, tamen nun cxiu pagu sian trinkajxon!
ええ、ええ。でも今日は割り勘にしましょう。

という文章があることに気がつきました。
これは >>47 であげた、『日本語エスペラント辞典』に載っている Cxiu pagis sian parton.
という表現によく似てるんですよね。

しかし私には、これらの表現は「めいめいが自分じしんの分だけ支払う」というふうにしか
読めないんですよね。
みなさんは、どのように思われますでしょうか。

それから気になるのは「この表現は、日本だけでなく、世界的に通用しているものなのか」
ということです。

著者の藤本氏は、エスペラント会話歴50年という人ですから、この表現は少なくとも「日本」
では通用するのだと予想されます。
しかし、この表現は「世界」的に定着しているものなのでしょうか?
こういった点が気になります。

藤本氏に直接問い合わせても良いかなとは思っているのですが、みなさんはどのように思
われますか。

79りょほう:2007/02/03(土) 15:11:41
>>78
こんな表現見つけました。
鶴ヶ島エスペラントクルーボ
http://www2u.biglobe.ne.jp/~fukuto/kotowaza.htm

「ところで、酒を飲みに行きお勘定の段になって、割り勘することがありますが、これを頭割りにするといいますね。
これは、 dividi koston lau^kape  まさにその通りという感じ。」

これは「払う」ことではなく、「割る」ことを重視した表現ですね。

「この表現は、日本だけでなく、世界的に通用しているものなのか」が気になるのでしたら、日本人に聞くより、外国のエスペランティストで辞書を編集している人に聞いた方がいいとおもいます。
例えば、ReVoの編集者とか・・・

私の場合、エスペラント版ウィキペディアに「割り勘」の記事をつくって、ノートに意見を書いてもらうという手もありますが・・・
「割り勘」の記事を書くのは結構時間がかかりそうです。

80松戸彩苑:2007/02/04(日) 11:52:40
>>79
レスありがとうございます。

dividi koston lau'kape ですが、『日本語エスペラント辞典』の「あたま(頭)」の項の4に載
ってますね。
これなら、すんなりと通じそうですね。

ところで、もしウィキに記事を書くのであれば、英語の to split the bill(割り勘にする)であ
るとか、少し古い表現ですが to go Dutch(同上)といった表現をつけ加えておくと、理解し
てもらいやすいと思います。

81りょほう:2007/02/04(日) 12:21:16
>>80
英語版に載っている英語での用法と由来も載せるつもりです。
翻訳に時間がちょっとかかりそうです。

実際に作る場合、記事名は名詞にした方が記事をつくりやすいので、"Lauxkapa divido de kosto"あたりを考えています。

82胡人:2007/02/05(月) 09:02:57
> 78 松戸さま
それから気になるのは「この表現は、日本だけでなく、世界的に通用しているものなのか」
ということです。
著者の藤本氏は、エスペラント会話歴50年という人ですから、この表現は少なくとも「日本」
では通用するのだと予想されます。
しかし、この表現は「世界」的に定着しているものなのでしょうか?
こういった点が気になります。

私が思うに、藤本さんは日本語よりエスペラントの方がかえって、流暢に話される方だと思います(^^)
また、UEAの役員もしておられましたし(病気で辞任)海外体験は豊富です。日本より海外での評価の方が高いかもしれませんね。

その表現が定着しているかは難しいですが、少なくとも世界で能力有る有名なエスペランチスト達(言語学者、科学者、文学者、外交官等等)の中では通用する表現の様です。決して使って恥ずかしい表現ではないと思います。

また彼はエスペラントを一々日本語に置き直す事よりも、エスペラントをエスペラントで考えながら使用する方で、そうでないとスピードある会話の中でウィットある会話は難しいし、こっちからも切り替えさんと本当の会話にはならんと良く言っています。
世界中の有名なトップクラスの方々と話すうちに、そうかこのフレーズはこの様な意味で使用しているのか〜っと、日本語的にはこういう意味になるのかなぁ?というふうに思うんですよっと言っておられました。

彼から聞いた使用法で、へ〜、と思ったのは、
ある有名な魅力あるアメリカの婦人が"Bonvolu tre bele saluti al〜" って彼にある人の事を言っておられたので、なるほどこれは日本語で言う「〜さんにくれぐれも宜しく」という事なのかなぁ?と思ってその様に使用してみたところ、正しくその様で良かった様に思われる。と言っておられました。

かと言って彼は欧米中心主義者ではありません。地域地域のエスペラントがあって当然、自然だろうという考えだと思います。
ちなみに彼のあの本は韓国ですぐにエスペラント(韓国語版)出版されました。

83胡人:2007/02/05(月) 09:17:25
"Bonvolu saluti al〜" が「〜さんに宜しく」というのは海外のエスペランチストとの文通、メールでは当たり前ですが、
そのなかの「くれぐれも」という意味での強調表現について、その使用法の中で"tre bele"或いは"belege"がという意味です。

案外、魅力的な方が使用すると世界中に広がるかもしれないって笑っていました(^^)

84松戸彩苑:2007/02/05(月) 20:59:37
>>82-83
カキコありがとうございます。

藤本氏が国際的に活躍されている方だということは、私も多少は存じ上げている
のですが、しかし >>78 でも述べたように「cxiu pagu sian trinkajxon!」という
表現は、どう考えても「めいめいが自分じしんの分だけ支払う」という意味にしか
取れないんですよね。

どうしてこれが「割り勘にしましょう」になるのか、私にはよく判らないんですよね。

85りょほう:2007/02/05(月) 21:55:10
とりあえず、スタブ記事つくりました。
http://eo.wikipedia.org/wiki/La%C5%ADkapa_divido_de_kosto
みんなで内容を加えていきましょう。

>>84
gooの国語辞典(三省堂)で「割り勘」で調べると、
『〔「割り前勘定」の略〕費用を各自が均等に分担すること。また、各自が自分の勘定を払うこと。』
で2通りの意味が書いてありました。
新明解でも『何人かで食事などをした場合に、各自が△均等に(注文した分に応じて)代金を支払うこと。』
で意味は2通り。

つまり、藤本氏は「割り勘」を後者の意味で使っていて、2通りの使い方があることを知らなかった可能性が高いと思います。

86松戸彩苑:2007/02/06(火) 06:52:17
>>85
「割り勘」を「各自が自分の勘定を払うこと」の意味で使うことがあるんですね!

私もひょっとすると、「割り勘」を違う意味で使うことがあるのかな?と思って
『広辞苑』第4版を引いたりしてたんですが、ここには

わりかん【割り勘】(割前勘定の略)勘定を各人に平均に割り当てて支払うこと。

としか書いてなかったんですよね。
でも、ふつう「割り勘」と言ったら、こっちの意味ですよね。

藤本氏も、『日本語エスペラント辞典』を編纂した宮本氏も、関西の人ですので、
割り勘を「各自が自分の勘定を払うこと」の意味で使うのは関西弁なのかもしれ
ませんね。

いろいろと調べてくださって、ありがとうございますね。
ほんとに勉強になりますよ。

87りょほう:2007/02/06(火) 21:02:26
>>86
私は関西に住んでいますが、「勘定を人数で平均する」の意味で使っています。

「割り勘」で検索するとウェブ上では、やっぱり「平均する」の意味が圧倒的ですね。
ただ意味がどちらともとれないのも多い。

意外と、ウェブを使わないような年上の方が「各自が自分の勘定を払うこと」の意味で使っているのではないかと疑っています。
機会があったら、古い国語辞典やビジネスの用語辞典を調べてみるつもりです。

ちなみに私のお気に入りの「ジーニアス和英辞典」では「割り勘にする」でひくと・・・
『go Dutch (with O)《略式》各自が自分の金額を払う,(人と)割り勘にする;split the bill』
2つの意味が載っていました。

他の辞書はどうなっているのでしょうか?

88松戸彩苑:2007/02/07(水) 05:58:38
>>87
いずれにしても、藤本氏にこのことを教えておいたほうが良いでしょうね。

89胡人:2007/02/07(水) 09:07:24
私は友達同士でよく様々な小説や評論の中の難しい日本語表現を各々訳してみて、その千差万別の捉え方、訳し方を楽しんでいます。

毎回の様に、思わず国語辞典、漢字字典、ことわざ辞典など引いて自分なりに消化し、また地域独特の使いまわしに気づく事も大変多いです(^^)

あの本の日本語を見て、エスペラント訳への利用はあまり良い方法とはおもえません。
あくまでも、実際に良く使われる表現を、あくまで参考として日本語訳を併記してあると私は理解しています。
だからあの中の日本語文を読み拾うと、日本語で同じ表現なのに、様々なエスペラント訳となっています。
あの本の中心は、エスペラントでの会話表現で、特別、和エス的な使用方法とはなっていないように思われます。

あの本の書評が下記「Nova Vojo」誌の21頁の中に載っています、ご参考まで。
http://www.epa.jp/NV/2007/NV-0702.pdf

90胡人:2007/02/07(水) 10:47:48
辞書を使用する感覚が国によって結構違うのに気が付いた時があります。
日本は辞書をまるで聖書の様に使いますが、案外欧米では、あくまでも指針の一つでの様です。
ですから辞書は、ほぼ毎年更新されていきます。
日本での辞書の更新年に開きがあるのを聞いたドイツ人がとても不思議な事の様に言っていました。
言葉は生きているのに、なんで変わっていかないのか?と。

また最新版の辞書は著作者の意図が感じられ私はあまり好きではないとか、○○氏の辞書は結構好きだとか。
そんなものだと思います。辞書によっては、意味づけ自体が偏向していることもあるでしょう(^^)

とにかく辞書は万能ではなく、比べる事は難しいですが、自分で掴む事の方が結局良いと思います。

91樂々:2007/02/28(水) 12:13:21
Libere Folioで"na-ismo"が取り上げられてますが、どんなものなのでしょう。
どなたかご存知なら教えてください。

92胡人:2007/02/28(水) 18:36:47
私も興味深々で例文を見てみたら、
Mi lernas Esperanton. = Mi lernas na Esperanto.
となっていました。

目的格の「+n」使いを前置詞「na」使用にしようという改造案の様に思いました(^^)
違っていたら教えてくださいm(_ _)m

でそこに、もう終わってしまった「riismo」って書いてありましたね。
4、5年前くらいだったか結構、大きく主張されている方々が日本にもいたけど、結局世界的にはもう終わったんですね〜
いやはや〜(^^);

93樂々:2007/02/28(水) 22:33:28
>>92
対格の前置詞と書いてあるからそんなことなんでしょうけど、わからないのは
その理由なんです。riismoはその点、明解なんですが。

94松戸彩苑:2007/03/01(木) 05:13:34
>>93
na を導入する理由は、たしか

(1) エスペラント化されていない固有名詞は対格形にしにくいが、na があれば、そういう
    問題は無くなる。

(2) 〜ajn 〜ajn 〜ojn という語尾は、単調で、しかも長すぎる。
   na を導入すれば、こういう組み合わせは無くなる。

という事だったと思います。

95Kanva:2007/03/02(金) 14:10:13
他に私が理解したことは、
(3) 「A-o de B-o」という名詞句で、A-oが動作名詞、B-oがその
   意味上の直接目的語である場合、「A-o na B-o」という表現にして、
   意味構造を明確にする。
(4) 対格を含む名詞句全体を対格化するときに生じる<二重対格>を
   防ぐ。即ち、句全体を"na 〜"で対格化し、句内の対格は-n語尾にする。
(5) 無変化の代名詞(ambaŭなど)の対格の明示。
といったことです。

それから、松戸様投稿94での(1)ですが、ここで言う固有名詞とは、
単に人名・地名等だけでなく、書籍や映画の題名、特定の発言や表現の
引用など、それ自体を語形変化させたくない<固有名詞>を想定している
ように思われました。
そして、-o語幹普通名詞は自然な限り-n対格を維持し、-n対格を廃止は
しない、ということではないかと。

私の勘違いがあるかもしれませんが。

96Kanva:2007/03/02(金) 14:30:01
上記95の(4)ですが、この日本語文を例文にして言いますと、
’対格を含む名詞句全体’という表現は対格を含む名詞句で、
’対格を含む名詞句全体を’となると、その名詞句全体を対格にしている
わけです。
更に、’対格を含む名詞句全体を対格化するときに生じる<二重対格>’
は二重対格を内に含む名詞句で、
’対格を含む名詞句全体を対格化するときに生じる<二重対格>を’は
さらにそれを対格にしています。
こういう入れ子構造の理解を分かりやすくしよう、というのが(4)の
意図です。

97Kanva:2007/03/02(金) 14:50:23
「対格を示す場合にも、前置詞jeを使えばいいではないか」というのが、
反論の一つのようです。
そこで『エスペラント日本語辞典』p.493の"je"の項を見ましたら、
四番目の語義に、「動詞語幹から作られた名詞の意味上の目的語」と
あり、六番目の語義に「対象,その他」とあります。
その他の語義と紛れなければ、"je"を使っていいのでしょうが、初心者
なのでよく分かりません。

98樂々:2007/03/03(土) 07:21:28
naismoで書かれたテキストはネットで読めますか?

99松戸彩苑:2007/03/05(月) 20:12:36
『エスペラント日本語辞典』の klaso の項には

  (3) 〔学校の〕クラス,学級;学年: Mi kaj sxi lernis en la sama 〜o. 私と彼女は同じ
  クラスで学んだ / lernantoj de [el] pli alta 〜o 上級生.

と書いてあるんですが、考えてみれば「学年」と「学級」というのは、まったく別のものなん
ですよね。
英語でも「学年」は grade、「学級」は class と区別しています。

そこで、NPIVの klaso の項を見てみますと

  (3) Aro de cxiuj lernantoj, kiuj sekvas la saman kurson: la unua, dua, tria 〜o
  (kalkulitaj, lau' la landoj, de supre au' de malsupre); lernejkamaradoj el pli alta 〜o;
  (analoge) fari siajn klasikajn 〜ojn.

と書いてあります(原文では、3つの用例すべてに小さなZマークがついています)。
この定義と用例を見ると、明らかに「klaso = 学年」なんですね。
(旧版のPIVでも同様)

しかし、NPIV(および旧版のPIV)にこう書いてあるからといって『エスペラント日本語辞典』
の記述が間違っていると判断するわけには行きません。

泉幸男(著)『3分間エスペラント会話』の101ページを見てみますと

  > klaso には「学年」という意味と「学級」という意味とがあります。「彼は1年1組にい
  ます」は、訳せば、Li lernas en la klaso N-ro 1 de la 1-a klaso. ということになるでし
  ょう。

と書いてあります。
こういうことから判断しますと、おそらく klaso は実際に「学年」と「学級」の両方の意味で
使われているのでしょう。

しかし、これは要するに「混乱している」という事ではないでしょうか?
私には、そうとしか思えないのです。

だいたい、klaso が「学年」と「学級」の両方を表わすということになりますと、samklasano
という合成語は「同じ学年の人」と「同じ学級の人」の両方を表わすということになってしま
います。

また、『エスペラント日本語辞典』には klasanaro という合成語が載っていて「クラスの全
員」という訳語が与えられていますが、「klaso = 学年」と考えれば「ある学年の全員」を
も表わすことになるはずです。

100松戸彩苑:2007/03/05(月) 20:13:22
>>99 の続き)

おそらくは

(1) ザメンホフは klaso を「学年」という意味で使ったが、「学級」を表わす単語は提案し
    なかった。

(2) 英語の class は「学級」という意味なので、エスペラントの klaso を「学級」の意味で
    使う人間が少なくなかった。

ということで混乱してしまったのではないでしょうか?

私の考えでは、この問題を解決するには、まず最初に(英語のほかに)フランス語、ドイツ
語、スペイン語、ロシア語などといった主要な欧米語で「学年」と「学級」をどのように表現
しているのかを調べることが必要だと思います。

それらを参考にしながら、エスペラントでの表現方法を考えるということです。

残念ながら、私の語学力や、私のもっている外国語の辞書では、こういった事はよく判り
ませんので、これらの言葉を母語とするエスペランティストに訊ねてみると良いと思います。
---

klaso をふくめて、今までの議論から

(1) 現在のエスペラントは、この程度の表現でさえもアヤフヤである。
(2) 「使っているうちに発展する」という話を信じる気にはなれない。
(3) この程度の表現でさえもアヤフヤなのだから、文通や会話をするのにも支障が出る
    のは当然である。
(4) 日常生活に関する語彙・表現をなめてはいけない。

といったことは、もう言うまでもないでしょうね。
しかし、これとは反対に

(5) (1)〜(4)のような問題はあっても、すでにエスペラントはかなりのレベルに達してい
    るので、こういった問題をしらみつぶしに解決していけば、今以上に役に立つ、素晴ら
    しい言語になると考えられる。

ということも言えますので、頑張っていきましょう。

(終わり)

101松戸彩苑:2007/03/07(水) 04:16:15
『エスペラント日本語辞典』の lerni の項には、mezlernejo という合成語が副見出し語とし
て載っています。

  mez/lern/ej/o 中学校、高等学校、= mez(grad)a 〜ejo 〔mez〜ejo は中等教育機関
  のことで、日本の中学校・高等学校どちらにも使える。必要があれば、中学を mal-
  supera mez〜ejo、高校を supera mez〜ejo と言えばよい〕。

と書いてあります。

また、泉幸男(著)『3分間エスペラント会話』にも、日本の(というよりは、アメリカ式の教育
システムにおける)「高校」をエスペラントでどう言うかについての議論があります。
かなり長いのですが、たいへん参考になりますので、全文を引用しておきます。

  supera mezlernejo 高等学校。「より上級の中等教育機関」ということ。筆者の私が、か
  ねて提唱している、日本の「高校」のエスペラント訳語です。

  「高校生」は、lernanto de supera mezlernejo と、随分長々とした言い方になりますが、
  文脈で「高校生」と分かれば、2度目からは単に lernanto といえばいいのですから、
  問題はないでしょう。supermezlernejano というような仰々しい造語は、いただけません。

  「高等学校」なのだから、altlernejo でよいではないか、というのは暴論です。altlernejo
  は、「高等教育機関」ということですから、「(単科)大学」および「専門学校」を指します。
  高等学校は、名前は「高等」でも、教育の分類としてはあくまで、中学校と同様に中等
  教育の場です。ちなみに中国語で"高校"といえば、エスペラントの altlernejo と同じく
  「大学・専門学校」を指します。日本語でいう「高校」のことは中国語では"高級中学"、
  略して"高中"といいます。

  日本の高校がちょうどフランスの「リセ」に相当するので、エスペラントでも「高校」のこ
  とを liceo といったらよい、という意見もあります。これだと「高校生」は liceano となり、
  随分スマートな感じです。しかし、エスペラントにおいて、liceo というのは純粋な普通
  名詞とは言いがたく、あくまでフランスの教育制度上の学校の呼び名です。いやしくも
  日本の学校をフランス流に liceo と呼ぶのは、まるで日本がフランスの植民地になっ
  てしまったみたいで、ちょっと筆者の私には耐えられないことです。
  (同書40〜41ページ)

  > 実は、「高校」を supera mezlernejo としたことについては、ドイツ人から「言わんと
  するところは、よく分かるが、同じ lernejo が meza でもあり supera でもある、というの
  はおかしいと思う」というコメントをもらいました。ではどうすればよいのか…は、残念な
  がら教えてもらえませんでしたが。

  ドイツでは、大学進学予定者は、いわば「中高一貫教育」の7年制のギムナジウム
  (gimnazio)にはいり、それ以外の生徒は中卒の段階で職業学校(profesia lernejo)に
  進学します。このドイツの制度では、日本のように「中等教育の第2段階を担当する学
  校」のことを何と呼べばよいか、と悩む必要はないわけです。

  さて、「高校」を supera mezlernejo と訳したのは、ロシア語で povysennaja srednaja
  skola (plialtigita meza lernejo)と訳しているのを参考にしました。

  あとで知ったのですが、イタリアでは実際に「高校」のことを、liceo[リチェーオ]ともい
  い、scuola media superiore (lernejo meza supera)ともいうのだそうで、後者はまさに
  supera mezlernejo ですね。supera mezlernejo が適切な言い方であることが証明され
  たような気がして、筆者の私もいささかうれしくなりました。

  とはいえ、supera mezlernejo というのは、耳慣れない表現のはずですから、Kio estas
  supera mezlernejo?と聞かれたら、Gxi estas japana liceo.「日本のリセです」と答えて
  おけばよいでしょう。ただし、スペイン語で liceo[リセーオ]は、チリでは「中学校」、メキ
  シコでは「小学校」のことなのだそうです。ご留意のほどを。

  「中学校」は、mezlernejo だけでも十分でしょうが、強いて「高校」と対照・区別する必要
  のあるときには baza mezlernejo といえばよいでしょう。イタリア語では、単に scuola
  media (meza lernejo)ともいい、scuola media inferiore (lernejo meza malsupera)とも
  いう由。
  (同書100〜101ページ)

102松戸彩苑:2007/03/07(水) 04:18:53
>>101 の続き)

ずいぶん長い文章でしたが、たいへん参考になったと思います。
ところで、これらの引用文から、私(=松戸彩苑)は何を言おうとしているのか。

私の考えでは、supera mezlernejo というのは、たしかに意味的には「正確」だと思います。
しかし「高校」というのは日常的によく使われる言葉ですから、これでは「長すぎて不便だ
ろう」と思うのですね。

  「高校生」は、lernanto de supera mezlernejo と、随分長々とした言い方になりますが、
  文脈で「高校生」と分かれば、2度目からは単に lernanto といえばいいのですから、
  問題はないでしょう。

と泉氏は書いておられますが、現実には、教育問題について書いたり語ったりすれば、
小学生・中学生・高校生・大学生といった単語が、ランダムに何回も出てくることだってあ
るわけです。
そのような場合には、とても

  文脈で「高校生」と分かれば、2度目からは単にlernanto といえばいい

などといったやりかたで対応できるとは思えないのです。

また考えてみれば、英語では high school または high ですし、日本語では「コーコー」
と言いますし、中国語では「高級中学」を略して「高中(gao zhong)」と言うわけです。
やはり、日常的によく使われる言葉ですので、たいへんに短いわけです。

一方、先の引用文中に、ロシア語の povysennaja srednaja skola とか、イタリア語の
scuola media superiore といった表現が出てきましたが、私の予想では、これは日常的
に使われている名称ではないのだと思います。
もちろん、これらは間違いなく通じる表現なのですが、しかし、こんな長ったらしい単語を
日常的に使っているとは、とても思えないのです。

先に述べたように、「中学」「高校」というのは、アメリカ式の教育システムにもとづいた学
校であるわけです。
世界中のどのくらいの国や地域で、アメリカ式の教育システムを採用しているのか、私
はよく知りませんが、しかし決して「一部の地域の特殊な習慣」などではありません。
要するに、私の言う「現在の文明社会に住んでいる成人であれば、誰でも知っている概
念」なわけです。
そういうものを簡潔に表わすことが出来ないというのは、やはり困ったことだと思うんです
ね。
---

ということで「supera mezlernejo は長すぎて不便じゃないか」という私の意見はよく判った
と思いますが、しかしそうなると当然「では、何と言えば良いのか?」という話になってきま
す。

これだけ批判をしてきて、こんなことを言うのも何なんですが、「いろいろ考えてみたが、今
のところ、自信をもって勧められるような訳語は見つかっていない」と言わねばなりません。

しかし、私の問題意識そのものは間違っていないと思いますし、このように問題提起をし
ておけば、いつか誰かが、適切な訳語を考え出してくれるかもしれません。
逆に、問題提起をしなければ、いつまでたっても解決されることは無いでしょう。

103松戸彩苑:2007/03/07(水) 04:21:55
>>102 の続き)

このような言いわけをしておいてから、私が考えたことを述べていきたいと思います。
結局は失敗だらけなんですが、それでも参考にはなると思います。

かつて私は、日本語の「高校」「高」や、英語の high (school) という表現から、alt-ejo と
してしまったら良いんじゃないかと考えたことがありました。

私は以前から痛感していたのですが、エスペラントというのは、略語がほとんど出来ない
言葉なんですよね。
エスペラントで略語ができるのは、エスペラント運動に関する語彙だけだという印象があり
ます。
エスペラント運動以外の分野の語彙について大胆な略語を提案した人というのは、(ほか
にもいるのかもしれませんが)私の知るかぎりではR&uuml;diger Eichholz 氏と Karolo Picx 氏
くらいしかいません。

話を元にもどしますが、「高校」というのは日常的な語彙であり、なんとしてでも短くなけれ
ばならないから、altejo のような破格的な表現でも許されるんじゃないかと考えたわけです。

辞書で調べてみたところ、altejo = altajxo(高い所、高地、丘)とありましたが、altejo の
ほうは空見出し語になっており一般的ではないらしいので、altejo を「高校」の意味で使っ
ても大丈夫かな?と思ったのでした。

しかししばらくして、altejo は、発音のうえで「al TEJO」と区別がつかないということに気が
つきました。
ということで、この表現はまったくダメだと思ったわけです。
---

それから、supera mezlernejo から略して superejo ではどうかとも思いました。

「中学校」は malsupera mezlernejo ですが、これを略して malsuperejo としたのでは耳で
聞いたときに superejo と区別がつきにくいと考えたので、sub か infre を使って subejo か
infrejo とすることを考えました。

まぁ、「superejo = 高校」「subejo、infrejo = 中学校」というのは変だといえば変なんです
が、このくらい短くないと会話がスムースにいかないのではないかと思うんですよね。

なお、旧版のPIVには infre が収録されていたのですが、NPIVでは無くなって、その代わ
りに infra- という接辞として収録されています。
infre もあったほうが、今後、合成語を作っていくうえで便利なんじゃないかと思うんですけ
どね。
---

これでもダメだと言うのなら、いっそのこと hajo という新語根を導入しても良いんじゃない
かとも思っています。

「gimnazio とか liceo とかは固有の語根があるのに、どうして high school だけは supera
mezlernejo などという長ったらしい表現をしなければならないんだろう?」と考えれば、
high school を表わす語根を導入しても構わないような気がするんですけどね。

私が考えたのは、こういったことです。
ほかの人が考えれば、また違った案も出てくることでしょう。

104松戸彩苑:2007/03/07(水) 04:23:30
>>103 の続き)

つぎに「塾」について考えてみたいと思いますが、泉幸男(著)『3分間エスペラント会話』
の56〜57ページに

  vespera intensa kurso 塾。「夜間の集中講座」ということ。「塾」のことを簡潔に説明す
  るには、こう言うのが一番いいと思います。

  『日エス』には、privata lernejo 「私立学校」という訳が出ていますが、残念ながらこの
  テキストのような文脈では使いものになりませんね。「私立学校にいくために塾に通っ
  ています」などということもあるわけですから。

と書いてあります。

ということで、もちろん vespera intensa kurso でも良いと思うのですが、私は krom-
lernejo という言い方もできると思います。
krom- には「副次的な」という意味がありますので、krom-lernejo で「補助的な学校」とい
う意味になるわけです。
もちろん「なるべく短くしたい」という私の好みから言えば、これも kromejo としたいところ
です。

なお『日本語エスペラント辞典』の「予備」の項には

  〜校 propedeu'tika lernejo; prepar-lernejo.

と書いてありますが、この後者の prepar-lernejo という表現は、しっかり定義しておけば、
使えそうだと思います。
---

「日常よく使われる語彙は、短くなければならない」という観点から見れば、「小学校」を表
わす elementa lernejo なども長すぎるわけです。
ということで私が考えたのが elemo という略語でした。
小学校は bazlernejo と言われることもありますが、これを短くすれば bazejo となります。

また「大学」のことをドイツ語では Uni と略しますし、英語でも uni と言うことがあるようです。
そこでエスペラントの universitato を短くすることを考えるわけですが、uno では「国連」と
同じになってしまいますし、unio もすでにあります。
ということで univo ならOKだろうと思ったんですが、発音してみると unio と聞き分けにくい
ということが判りました。
ということで univeo ではどうかと思ったんですが、いかがでしょうか?

また instruisto というのも長すぎると思ったので、inso という形を考えてみました。

なんでもかんでも無闇やたらと短くしてるみたいですが、このくらい短くしないと会話がは
ずまないのではないかと思うのです。
たとえば「あなたは高校の先生ですか?」「いいえ、私は、高校生を教える塾の講師をして
るんですよ」というような会話は、私が提案した短い単語を使えば

Cxu vi estas inso de superejo?
Ne, mi estas inso de kromejo por superejanoj.

となりますが、正統的なエスペラントで言いますと

Cxu vi estas instruisto de supera mezlernejo?
Ne, mi estas instruisto de vespera intensa kurso por lernantoj de supera mezlernejo.

となります。

もちろん「こういった単語を今日から使え」などと言うつもりはありませんが、いろいろと考え
てみることが必要だと、私は思うのです。

(終わり)

105松戸彩苑:2007/03/11(日) 09:24:57
さて、今まで「学校」に関する語彙・表現について論じてきたわけですが、このほかにも
「入学」「卒業」「退学・中退・放校」…といった表現もあるわけです。

そこで今回は、『日本語エスペラント辞典』で、こういった表現にどんなエス訳が与えられ
ているのか調べてみることにします。

とくに問題なのは「退学・中退・放校」「休学」「停学」「早引け・早退」といった表現でしょう。
どれも「学業を中断する」という意味があるので、気をつけてエス訳を決めないと、区別が
つかなくなるおそれがあります。

  にゅうがく【入学】 lernantigxo. 〔大学の〕 studentigxo. 〜する esti akceptita de lern-
  ejo.

  そつぎょう【卒業】 la fino de la tuta kurso 〔studo〕; diplomigxo. 〜する fini la kursojn
  〔studon〕.

  たいがく【退学】 〔自分から〕 ekslernantigxo. 〔大学を〕 eksstudentigxo; forlaso de
  lernejo 〔universitato〕. 〔学校から〕 forpelo el lernejo 〔universitato〕. 〜処分にする
  (なる) forpeli (esti forpelita) de lernejo. 中途〜する interrompi la studon 〔lernadon〕.

  ちゅうたい【中退】 大学を〜する rompi sian studon en universitato; lasi universitaton
  sen finstudi; ne fini la kurson de universitato.

  ほうこう【放校】 forpelo 〔elpelo〕 de lernejo.

  きゅうがく【休学】 interrompo (de studo). 2年間〜する interrompi studon dum 2 jaroj.

  ていがく【停学】 3月間の〜 trimonata suspendo. 〜処分 suspendo.

  はやびけ【早引け】 〜する forlasi laboron 〔oficejon; laborejon; lernejon〕 antau' la
  regula horo.

  そうたい【早退】 ⇒ はやびけ

  ふくがく【復学】 〜する reveni al lernejo 〔klaso〕.

「退学」と「休学」の両方に interrompi が出てくるのが、ちょっとヤバイかなと思います。

  しんがく【進学】 〔大学への〕 studentigxo. 〔上級校への〕 enlasigxo en pli altan lern-
  ejon. 〜する esti akceptita 〔enlasita〕 de lernejo.

  しんきゅう【進級】 〜する avanci.

  りゅうねん【留年】 〜する resti en sama jarklaso.

  (侍の浪人などは省く)
  ろうにん【浪人】 student-aspiranto. 〜する malsukcesi en ekzameno kaj atendi la
  sekvantan. 目下〜中です Mi malsukcesis en enlasa ekzameno. 2年間〜する mal-
  sukcesi enlasajn ekzamenojn dum 2 jaroj.

「飛び級」は無し。

  とうこう【登校】 vizito al lernejo. 〜する viziti lernejon.

  げこう【下校】 〜する reiri de lernejo.

  きゅうこう【休校】 fermo (de lernejo).

  たんにん【担任】 ⇒ たんとう(担当). 〜である esti sxargxita 〔okupita〕 per io. 
  クラス〜の先生 instruist(in)o respondeca pri klaso.

106松戸彩苑:2007/03/11(日) 09:26:19
>>105 の続き)

ところで「放課後(に)」というのは、どのように言えば良いのでしょうか?
『日本語エスペラント辞典』の「放課」の項は、次のようになっています。

  ほうか【放課】 fino de lecionoj. 〜後 post la fino de kursoj 〔lecionoj〕.

「放課後(に)」は、英語では after school、フランス語では apr&egrave;s la classe、ドイツ語で
は nach der Schule ですので、これを

Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』
Jacques Le Puil、Jean-Pierre Danvy(編)『Grand Dictionnaire Fran&ccedil;ais-Esp&eacute;ranto』
Erich-Dieter Krause(編)『W&ouml;rterbuch Deutsch-Esperanto』

で調べてみることにしました。

ところが調べてみたところ、これらの辞書に after school、apr&egrave;s la classe、nach der
Schule という表現が載っていないということが判りました。

そこで、Carlo Minnaja(編)『Vocabolario Italiano-Esperanto』で doposcuola の項を見て
みると「postleciona tempo, postlernejo」と書いてありました。

さらに調べてみたところ、postlerneja という表現が、旧版のPIV、NPIV、そして『エスペラ
ント日本語辞典』の lerni の項に載ってることが判りました。
(postleciona という見出し語は、旧版のPIV、NPIV、『エスペラント日本語辞典』のいずれ
にも無し)

ということで「放課後(に)」のエス訳は postlerneje で良いのかな?と思ったのですが、み
なさんはどのように思われるでしょうか。

いずれにしても「放課後(に)」のような、ごくごく簡単な表現でさえも、いまひとつハッキリ
しなかったり、あるいはまったく調べられなかったりという状態だということが、お判りにな
ったことと思います。

(終わり)

107松戸彩苑:2007/03/11(日) 12:14:59
『エスペラント日本語辞典』の trajno の項に

  regiona[distrikta]〜o ローカル列車

と書いてあります。
一見すると、これで問題ないように思えますが、私の考えでは、これは間違ってると思うの
です。

この regiona trajno という表現は、NPIVに載っているものです。
NPIVの trajno の項の2に

  ekspres〜o, rapid〜o, regiona 〜o, koneksa 〜o, sxangxi 〜on.

と書いてあります。
しかしこれだけでは、やっぱり『エスペラント日本語辞典』の訳で正しいように思えますね。

ところがです。
旧版のPIVの当該部分を見てみますと、次のようになっているのです(3番目の表現に注
目してください)。

  ekspresa, rapida, omnibusa, ekstra 〜o; konekta 〜o.

さらに、旧版のPIVの Suplemento にも trajno の項があって

  ekspresa 〜o, rapid〜, ordinara 〜o, koneksa 〜o, sxangxi 〜on.

となっているのです。
これでは判りにくいと思いますので、時系列にそって並べ替えてみますと、次のようにな
ります。

  ekspresa, rapida, omnibusa, ekstra 〜o; konekta 〜o. (旧版のPIV)

  ekspresa 〜o, rapid〜, ordinara 〜o, koneksa 〜o, sxangxi 〜on. (旧版のPIVの補遺)

  ekspres〜o, rapid〜o, regiona 〜o, koneksa 〜o, sxangxi 〜on. (NPIV)

これを見れば判るように、3番目の表現だけが omnibusa → ordinara → regiona と、コロ
コロと変わってるんですね。
ところで、この3番目の表現は、いったい何を表わしているのでしょうか?

私の考えでは、これは「各駅停車の列車」のことだと思います。
「各駅停車の列車」のことを、フランス語では train omnibus と言い、またイギリス英語でも
omnibus train と言うんですね。
それで、旧版のPIVに omnibusa trajno という表現が載ってたわけです。

しかし、おそらくこの表現は、フランスやイギリス以外の人たちからは「判りにくい」というこ
とで評判が悪かったのでしょう。
そこで旧版のPIVの補遺では、われわれ日本人にも判りやすい ordinara trajno という表現
が収録されたのでしょう。

しかし、どういうわけだかNPIVではさらに変更されて regiona trajno という表現になりました。
これは、アメリカ英語の local train などを参考にして作られた表現だと思います。

で、『エスペラント日本語辞典』の編者は、こういった事情に気づかずに、regiona trajno に
「ローカル列車」という訳語を当ててしまったというわけです。

日本語の「ローカル列車」という表現は、人口の少ない地域を走る列車のことです。
1両とか2両だけで走ったり、あるいは、1日に数本しか走らないといった鉄道のことですね。
一方、アメリカ英語の local train というのは、各駅停車であれば、たとえ大都会のなかを
走っていても良いんですね。
私の予想では、regiona trajno というのも、そういう列車を表わしているのだと思います。

108松戸彩苑:2007/03/11(日) 12:16:43
>>107 の続き)

ところで、旧版のPIVの補遺には載っていたのに、なぜかNPIVでは変更されてしまった
ordinara trajno ですが、おそらく「臨時列車」に対する「通常ダイヤの列車」と区別がつか
ないのではないかということから変更されたのではないでしょうか?
もっとも、Erich-Dieter Krause(編)『Gro&szlig;es W&ouml;rterbuch Esperanto-Deutsch』の trajno
の項には、regula trajno という表現が「通常ダイヤの列車(fahrplanm&auml;&szlig;iger Zug)」を表わ
す表現として載ってるんですけどね。

この「各駅停車の列車」を表わすエスペラント訳語は、ほかにも幾つかあります。
たとえば『日本語エスペラント辞典』の「鈍行」の項には

  どんこう【鈍行】 〜列車 cxiehalta 〔malrapida〕 trajno. 〜で行く veturi cxiehalte.

とあります。

また、Carlo Minnaja(編)『Vocabolario Italiano-Esperanto』の tr&egrave;no の項には「loka
trajno」があります。
イタリア語でも「各駅停車の列車」のことを tr&egrave;no locale って言うんですね。

もちろん、「各駅停車の列車」を表わす表現が複数あっても構わないとは思うんですけれ
ども、誤解を生じるようではダメなわけですね。
---

補足になりますが、『日本語エスペラント辞典』の「普通」と「列車」の項には「普通列車 om-
nibusa trajno」が、また「停車」の項には「各駅〜の列車 ordinara trajno」が載っていました。

あと、これは日本語に関することなんですが、一般的には「各駅停車の列車」のことを「普
通列車」と言いますが、JRでは「普通列車」というのは急行券や特急券を必要としない列車
すべてを表わすので、各駅停車であるとは限らないんだそうです。

(終わり)

109松戸彩苑:2007/03/11(日) 12:31:55
>>107-108 への補足)

Erich-Dieter Krause(編)『W&ouml;rterbuch Deutsch-Esperanto』の Personenzug (各駅停車
の列車)の項には、「ordinara (あるいは cxiustacia) [pasagxer]trajno」という記述があり
ました。

110松戸彩苑:2007/03/11(日) 12:32:10
>>107-108 への補足)

Erich-Dieter Krause(編)『W&ouml;rterbuch Deutsch-Esperanto』の Personenzug (各駅停車
の列車)の項には、「ordinara (あるいは cxiustacia) [pasagxer]trajno」という記述があり
ました。

111りょほう:2007/03/11(日) 15:10:32
>>105
「飛び級」ですが、「進級する」promociiĝis を使ってこのように表現したことがあります。松戸さんならどう表現しますか?
Mihama Chiyo promociiĝis de 5-a grado de elementa lernejo al 1-a grado de altlernejo je 5 gradoj.

gradoは「学年」の意味、altlernejoは「高校」の意味で使っています。

112りょほう:2007/03/12(月) 19:04:50
しばらく留守にします。

113松戸彩苑:2007/03/13(火) 03:25:38
>>111
なるほど。
文脈から「飛び級」だということが判りますので、とりあえずはそれで良いんじゃないでしょ
うかね?

しかし、その表現方法だと、「〜年から〜年に」という部分がないと「飛び級」だということが
判らないんですよね。

ですから将来的には、日本語の「飛び級」や、英語の grade-skipping を真似て、(「学年
= grado」だとした場合ですが) grado-salto とか salti 〜 gradojn のように表現したほう
が良いと思いますね。

114松戸彩苑:2007/03/13(火) 21:25:57
今回は、『エスペラント日本語辞典』を見ていて気になったことについて、書いてみたいと
思います。
---

『エスペラント日本語辞典』の kesto の項に posxt-kesto が副見出し語として収録されて
いますが、ここには「郵便箱,ポスト; 〔門・戸口の〕 郵便受け; 郵便私書箱」という訳が
添えられています。

言うまでもなく「ポスト」「郵便受け」「私書箱」は、まったく異なるものです。

この記述は、おそらく三宅史平(編)『エスペラント小辞典』の posxt-kesto の項をそのま
ま受けついだのでしょう。

NPIVでは

  (kesto の項) posxt〜o. Granda 〜o, en kiun la publiko enmetas la ekspedotajn
  leterojn ks.

  (kesto の項) leter〜o. 〜o, cxe la pordo au' enirejo de domo, kien la posxtisto
  demetas la leterojn paketojn ks. SIN. leterskatolo.

  (fako の項) posxt〜o. Unu el la specialaj kestoj, signitaj per numero k instalitaj
  en posxtoficejo, de kiu firmoj au' privatuloj venas preni mem siajn korespondajxojn:
  posxt〜o 32.

となっています。
要するに「ポスト = posxtkesto」「郵便受け = leterkesto, leterskatolo」「私書箱 =
posxtfako」というふうに、完全に区別ができてるんですね。
---

ところがです。
旧版のPIVでは次のようになっていたのです。

  (letero の項) 〜kesto. Publika kesto diversforma, en kiun oni metas la deirantajn
  〜ojn, poste kolektotajn de posxtisto.

  (letero の項) 〜skatolo. Privata skatolo cxe dompordo au' vestiblo, en kiun 〜por-
  tisto metas la alvenantajn 〜ojn.

  (skatolo の項) leter〜o. 〜o, cxe la pordo au' enirejo de domo, kien la posxtisto
  demetas la leterojn, paketojn ks. ☞ posxtkesto.

  (kesto の項) posxt〜o. Unu el la specialaj 〜oj, signitaj per numero k instalitaj en
  posxtoficejo, de kiuj firmoj au' privatuloj venas preni mem siajn korespondajxojn:
  posxt〜o 32.

  (posxto の項) 〜kesto. Granda, diversforma kesto, kien la publiko enmetas la
  ekspedotajn leterojn ks. ☞ leterskatolo

整理しますと、PIVでは leterkesto が「ポスト」(NPIVでは leterkesto は「郵便受け」)、そ
して letero と skatolo の両方の項にある leterskatolo は「郵便受け」(NPIVでも同じ)で、
これは良いのですが、posxtkesto は kesto の項では「私書箱」、posxto の項では「ポス
ト」となっていたのです。

115松戸彩苑:2007/03/13(火) 21:27:09
>>114 の続き)

このような混乱があったため、PIVの Suplemento には

(1) posxto の項に posxtfako 「私書箱」を追加。
(2) posxto の項から posxtkesto を削除。「ポスト」は leterkesto。

という指示が載っています。

これに従えば、leterkesto が「ポスト」(NPIVでは leterkesto は「郵便受け」)、 leterskatolo
は「郵便受け」(NPIVでも同じ)、そして posxtfako が「私書箱」(NPIVでも同じ)ということに
なりました。

これで解決と言いたいところですが、kesto の項にある「posxtkesto = 私書箱」(NPIVでは
「ポスト」)という記述については、削除・変更の指示がまったくありません。
これについては、削除しわすれたのか、それとも、このままで良いと考えたのか、私には判
断できません。
このままで良いと考えたのであれば、わざわざ posxtfako 「私書箱」を追加する必要はな
かったように思うのですが、さて、どうだったのでしょうか。

ところが、この posxtkesto が、NPIVで再び「ポスト」を表わす唯一の表現として復活し、そ
の一方で、1970年以来「ポスト」を表わしていた leterkesto は leterskatolo と同じく「郵便
受け」を表わすことになったのです。

理由はよく判らないのですが、私の予想では、旧版のPIVの posxto の項に載っていた
「posxtkesto = ポスト」がすでに広まっていたので、補遺で削除しても効果がなかったの
ではないでしょうかね。
---

ということで、この頭のなかが混乱しそうな話は終わりですが、考えてみると、読んだあとの
手紙や葉書を入れておく「状差し」というのもあるんですよね。

で、『エスペラント日本語辞典』を見てみると、skatolo の項にある leter-skatolo に「書状差
し,文箱(ふばこ)」という訳がついてるんですよね。

あれっ、旧版のPIVやNPIVでは leterskatolo は「郵便受け」だったのに…。

ちなみに『日本語エスペラント辞典』の「状差し」の項には leterujo、そして「文箱」の項には
leterskatolo が挙げられています。

いつになったら、国際的に統一されるんでしょうかね。

(終わり)

116Bonsano:2007/03/16(金) 10:15:22
>いつになったら、国際的に統一されるんでしょうかね。

必要は発明の母という諺がありますが、エスペラントの日常使用者の多くが実感しないと
無理でしょう。
今のところは、用語の統一よりむしろエスペラントの表現力を駆使して説明するか、
話者たちの置かれている状況や会話の脈略で充分説明の用を足せるようです。
従って、Kia-kablo-mi-estu?さんの言うとおり多くのエスペラントの話者達にとって
緊急性を要するという認識はなさそうです。

それ以上にEsperantujoの停滞をどう打破していくかの方が緊急課題であると思います。
決して松戸さんの言うとおり日常用語の不備という不安がエスペラントの広まりにブレーキを
掛けているのではありません。
むしろEUの公用語問題を含めてエスペラントの拡大に全力を傾けるべきです。
エスペラントの使用領域の増大に伴っておのずとNeologismoや用語の統一やその定義
といった問題は解決されて行ったことは、例えば第一次大戦後の所謂社会主義の本質を
巡る論議等で語彙の深化が図られたことは既にエスペラントの歴史を通してに多くの事例を
見つけることが出来ます。

117樂々:2007/03/17(土) 07:42:39
>>116
松戸彩苑さんはエスペラント拡大の努力を否定されてませんし、日常語を整備
しさえしたらエスペラントが拡大するともおっしゃってませんが。
なぜ、"緊急課題"以外のことを語ってはいけないのですか。Bonsano さんが
興味をお持ちでないなら無視すればいいだけじゃないですか。
そもそもBonsano さんは"Esperantujoの停滞の打破""エスペラントの拡大"を
どうして実現しようとお考えなのですか。従来の運動や組織で充分だ、足らないのは
努力だけだとお考えなのですか。

118松戸彩苑:2007/03/17(土) 17:42:37
>>116
要するに「宣伝」と「学習」をどうすれば良いのかって事ですね。

そういった事については、私は「大衆迎合なエスペラント運動を考える」というスレにいろい
ろと書いておいたんですが(http://jbbs.livedoor.jp/study/7882/#5)、ここでかんたんに説
明しておきましょうか。
---

まず「宣伝」ですが、今までのような「理念や理論を説明する」というやり方では、エスペラ
ンティストの家族や知人でさえも納得しない、ということを知らなければなりません。

「言語の平等」なんてことは、いちど説明されれば、誰にでも判ることです。
それなのに、エスペランティストの家族や知人でさえもエスペラントをやろうとしないのは、
「カネにならない」「楽しそうに見えない」「世間から誉められない」からです。

人間というのは「カネになる」「楽しい」「世間から誉められる」ことくらいしかやらないものな
のですね。
もっとも、「世の中の役に立ちたい」という気持ちも無いわけではないのですが、そう思う人
は、環境問題だとか介護だとかといった、世間ですでに認められている活動のほうに行く
わけで、エスペラント運動のほうに来る人は、ほとんどいません。

それどころか、立川健二氏のように社会問題の解決のことしか考えていない人物なんか
ですと、エスペランティストの前で「もうエスペラントは絶対に広まらないんだから、そんな
ムダなことはやめて、もっと直接的に社会を良くするような活動をやるべきだ」などと言っ
たりしてるわけです。

また、エスペランティストでオーストリーの大統領になったフランツ・ヨナスという人がいまし
たが、この人は大統領になっても「エスペラントを学校で教えるようにする」といった事はし
ませんでした。
いくら大統領だとはいっても、国会議員や国民の支持を得られないようなことを強引に推し
進めることは出来ないからです。

エスペラントができる大統領でさえもこれですから、エスペラントのできない政治家にそれ
以上のことを期待するのは、現実的ではありません。
---

これでは完全に八方ふさがりのようですが、けっしてそうではありません。

たとえば和田誠一氏は、ふつうの人たちがエスペラントで会話している光景を見て、エスペ
ランティストになりました。

またサーノ葉子氏は、じつの父親からエスペラントを教えられたりしたにも関わらず、エス
ペラントに対してはむしろ反感をもっておられたようですが、さまざまな経験をへて、エスペ
ラントを「面白そう」だと感じてから、熱心に活動をされるようになったようです。

ということで、エスペラントの宣伝には

(1) 実際に、エスペラントを活き活きと使っているところを見せる。
    しかし、そういう機会はなかなか無いので、「エスペラントでこんな事をやっています」
    ということを話したり、あるいは文章にして読んでもらったりする。

(2) 「面白そう」「楽しそう」だと思ってもらえるようにする。

ということが大事だと思うのです。

はっきりいって世間では、エスペラントは、UFOや幽霊の話よりも見聞きする機会が少ない
のです。
そういう状態であるのに関わらず、理念や理論ばかりを滔々と論じても、世間の人はおろか、
自分の家族や知人でさえも、納得してはくれないと思います。
---

つぎに「学習」について考えてみますが、学習においてもっとも大事なのは「本人のやる気」
なんですね。

とくにエスペラントの場合は、勉強してもカネにはなりませんし、世間から誉められることも
少ないわけですから、「やる気を維持する」ということを最優先にしなければなりません。

もちろん、最初は初等教科書で勉強するしかないわけですが、これを終えたら、できれば
学習者のやりたいことに合わせて勉強できれば、やる気を維持しつつエスペラントの能力
をつけることが出来るのではないかと思うんですね。

今までは「本人のやる気」というものをあまり考慮せず、初等教科書を終えたら、いきなり
文学作品を読ませるなどという事をやってたわけですが、文学が好きな人であればそれ
でも良いのでしょうが、そういう人ばかりではないわけですので、このあたりを変える必要
があると思いますね。

119松戸彩苑:2007/03/17(土) 17:43:30
>>118 の続き)

このように考えてくると、どうしても「日常生活に関する語彙・表現の不足・混乱」というもの
は、看過できないわけです。

日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱していたのでは、先に私が述べたような宣伝・
学習方法はうまく行かないんですよね。

それにそもそも、発表されてから120年もたつのに「文明社会に住んでいるふつうの成人
であれば誰でも知っているような語彙・表現」が大量に不足・混乱しているというのは、これ
までのエスペラント界の常識が間違っていたということであって、大問題なわけです。

はっきり言ってしまえば、ザメンホフの見通しが甘かったという事なのです。
---

さて、Bonsano さんは「たしかに日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱しているかもし
れないが、それよりも宣伝や学習を熱心にやるべきではないか」と考えておられるようです
ね。

しかし私は「日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱しているから、宣伝や学習がうまく
行かないのだ」と考えているわけです。

私はエスペラントを始めてから十年以上たちますが、これまで一度もエスペラントを他人に
勧めたことがありません。
理由は「日常生活に関する語彙・表現があまりにも不足・混乱しているので、とてもじゃない
が勧められない」からです。

現在のエスペラントは、30年くらい前のパソコンみたいなものだと思っています。
当時のパソコンは、箱のなかにパーツ一式が入っているだけというものであって、自分で組
み立てなければならず、また、気軽に使えるソフトもありませんでした。
要するに、電子パーツやプログラミング言語と悪戦苦闘するのが楽しくて仕方がないと思え
るような、特殊な人でないと使いこなせなかったのです。

現在のエスペラントも、使いこなせるようになる人は限られています。
JEIには毎年、数十〜百数十人もの人が入会していますが、そのなかのかなり多くの人は
数年でやめてしまいます。
また、やめない人でも、自分で満足できるようなエスペラント能力がつかない人も少なくな
いわけです。

一部のマニアにしか使いこなせなかったパソコンは、どんどん改良されて、一般人でも使
いこなせるものになりましたが、エスペラント運動もこれと同じように、一般人の能力や嗜
好に合わせる必要があるわけです。
だいたい、パソコンを使いこなす能力は30年前でも世間で評価されていましたが、エスペ
ラントの場合は、かなりのていど普及・発展しないと、使いこなす能力は世間から評価され
ないと考えられますので、一般人の能力や嗜好に合わせることが、きわめて大事なのです。

それをやらなかったから、欧米で(また日本でも)エスペラントが見捨てられてしまったのだ
と、私は考えているのです。
---

ということで、現状を打破するには、やはり「日常生活に関する語彙・表現」を確立していく
こと(および、それらを楽に身につけられるような教材を開発すること)が必要不可欠だと思
うのです。

こういった活動によって、まず最初に、われわれのような現在すでにエスペラントを使って
いる人たちの言語活動のレベルが上がります。
エスペラントが、今まで以上に役に立つようになるという事です。

そうすれば、エスペランティストの家族や知人が、エスペラントを見直すことでしょう。
うまく行けば、そういう人たちのなかからエスペラントをやる人が出てくるかもしれません。

このように、自分の家族や知人のあいだに広まるようでないと、ぜったいに世間には広まら
ないと、私は思うのです。

自分の家族や知人が、揃いも揃ってバカだらけで「言語の平等」なんて理解できないとか、
あるいは全員英語が堪能で、英語にはまったく不自由しないとかいうのであればエスペラン
トが見向きもされないのも仕方がないのですが、そういうことはめったにないと思います。

「けっしてバカでもなく、英語が堪能なわけでもない自分の家族や知人が、エスペラントを見
直したり、あるいはエスペラントを学習したりするようにするには、どうしたら良いのか」という
ことを考えるべきなのです。

自分の家族や知人でさえも理解できないような理屈を、世間の人たちが理解してくれること
を期待すべきではないと、私は思います。

そろそろ酔いがまわってきましたので、このへんで終わりにしますが、できれば「大衆迎合
なエスペラント運動を考える」というスレもご覧になってください。

(終わり)

120松戸彩苑:2007/03/17(土) 18:55:10
>>118-119 に補足しますと、たしかに私が問題視するような語彙・表現というのは、誰でも
知ってるものですが、使用頻度のほうはそんなに高くないわけです。
ですから、文章を書いたり、会話をしたりする際には、それほど問題にならないのでしょう。

しかしそうは言っても、こういった語彙・表現があったほうが、よりレベルの高い言語活動
ができると思うんですよね。

それに、エスペラントは「英語から国際共通語の地位を奪い取る」ことを目標にしているの
ですから、こういう語彙・表現があいまいだというのは、とってもマズイわけです。

私が思うに、現在のエスペランティストというのは「人工語のわりにはスゴイ」というレベル
で感動しているみたいなのですが、英語に取って代わろうと考えているのであれば、日常
生活に関する語彙・表現の不足・混乱は、由々しき問題であるはずなのです。

私は「英語」や「世間」や「日常生活に関する語彙・表現」をナメてはいけないと思うのです
が、間違っているでしょうか?

121松戸彩苑:2007/03/18(日) 11:17:30
過去に「割り勘」を表わす表現について論じましたが、竹内義一(著)『エスペラント会話教
室 [新版]』(1999年)の81ページに、次のようなダイアローグが載っていました。

  Ha, cxu? Ni jam ekiru. Slipon mi petas.
  そうかね? もう行こうよ。伝票をちょうだい。

  Ne gxenu vin, sed lasu min pagi.
  心配するな。僕に払わせろよ。

  Ne, vi ne povas. Cxar kiu invitis, estas mi.
  それはいかんよ。さそったのは僕だから。

  Do, cxiu el ni zorgu nur sian pagon.
  じゃあ、割り勘でいこう。

これに加えて、この部分には補足がしてあって

  ここも簡単にするなら "Do, nur sian pagon." とか "(pagu) cxiu por si." でいいだろう。
  "Hodiau' cxiu trinku je sia kosto (posxo)." 「今日はそれぞれ、自前で飲もうよ」と、は
  じめに宣言する手もある。

と書いてあります。

上のダイアローグだけを見ると、ふつうの均等に支払う「割り勘」のようにも見えますが、し
かし、補足のほうに

  "Hodiau' cxiu trinku je sia kosto (posxo)." 「今日はそれぞれ、自前で飲もうよ」と、は
  じめに宣言する手もある。

と書いてあるのを見ると、「めいめいが自分の飲み食いした分を支払う」という意味のような
んですよね。

ということは、上のダイアローグでは、結局「自分の分を自分で支払った」ってことになるの
でしょうか。
それならば、たしかに「Do, cxiu el ni zorgu nur sian pagon.」という文章とも合ってきますね。
---

ところがです。
私のもっている『コンサイス和仏辞典』と『コンサイス和独辞典(第2版)』(ともに三省堂)で
「割り勘」を調べてみると

  わりかん 割勘 〜で飲む chacun paye son verre. 〜にしよう Partageons la note. 
  今夜は〜だぞ Ce soir, chacun pour soi.

  warikan 割勘 →warimae / 割勘にする getrennte Kasse f&uuml;hren / 割勘にしよう
  getrennte Rechnung! | Jeder bezahlt f&uuml;r sich.

となっているのです。

122松戸彩苑:2007/03/18(日) 11:19:25
>>121 の続き)

まずフランス語のほうから見ていきますが、「割り勘で飲む chacun paye son verre.」のフ
ランス語の部分をエスペラントに直訳しますと Cxiu pagas sian glason です。
「割り勘にしよう Partageons la note.」は Ni dividu la fakturon で、「今夜は割り勘だぞ Ce
soir, chacun pour soi.」は Cxi-vespere, cxiu por si です。

つまり、2番目の「割り勘にしよう Partageons la note.」だけは「均等に支払う割り勘」だとい
うことがハッキリしているのですが、それ以外の2つの文章は、そうなっていません。
「自分じしんの分だけを支払う」と言ってるように見えますね。

つぎにドイツ語のほうですが、「割勘にする getrennte Kasse f&uuml;hren」をエスペラントに直
訳すると dividitan kason konduki、「割勘にしよう」の1番目の「getrennte Rechnung!」は
dividita(n) fakturo(n)!、「割勘にしよう」の2番目の「Jeder bezahlt f&uuml;r sich.」は Cxiu
pagas por si です。

こちらの場合には、1番目と2番目の文章は「均等に支払う」ということが判りますが、3番
目の表現は、これまた「各自が自分の分だけ支払う」ような表現なんですよね。

これらの表現を見て、私は、フランス語やドイツ語には「割り勘」を cxiu (pagas) por si の
ように表わす習慣があって、それがエスペラントにも入ってきているのではないかと思っ
たのです。

しかしそうだとすると、実際に「各自が自分の分だけ支払う」ということを表現したい場合も
あるわけですが、それと区別がつかなくなってしまうという問題が出てくるわけですね。

考えてみれば、エスペラントというのは合理性を重視しているわけですから、いくらフラン
ス語やドイツ語などで使われている表現であろうとも、判りにくい表現は導入すべきでは
ないと思うのです。

とは言うものの、すでに定着しているのかもしれないわけですが、「各自が自分の分だけ
支払う」というのと区別はできてるんでしょうか?

dividi lau'kape とか egala pago といった表現のほうが合理的だと、私は思うのですが。
---

そもそも日本語の「割り勘」という言葉にも問題があったわけですが、昭和10〜11年に
平凡社から出版され、昭和49年に復刻された『大辭典』という国語辞典の「割り勘」の項
は、次のようになっています。

  ワリカン 割勘 二人以上の失費の總勘定を人數に應じた頭割(あたまわり)に支拂ふ
  こと。又その支拂。

やはり、われわれが使っているのと、まったく同じ意味なんですよね。
---

今までに判ったのは、こんなところです。

しかし、ほんとにややこしいですね。
まさか日本語で悩むことになるとは、思ってもみませんでしたよ。

(終わり)

123胡人:2007/03/18(日) 18:40:57
 母国を持たない言語は、結局母体となる文化を持たない言語とも言えるわけで、それは同時に2つの面を持つことになると思われます。
 松戸さまのご提案ご意見を述べられる事は、あくまでも日本文化を基として正しく翻訳する時は、という事だと思われます。例えば、国によって割り勘という習慣がない場合もあれば、また建物の階数の数え方の違いもあり、学校制度の違い、行政制度から各種法律の違いまで様々あると思います。
 これが例えば英語(米語?)の様にある一定の文化を基にすれば簡単に翻訳できますし、また簡単に、そんな表現は英語ではありえない!という事も出来ます。

 そういった意味で、エスペラントは様々な表現方法を用いて(語順も)伝えたい事柄を自分なりに翻訳する事ができるアイテムと言える様に思われます。またエスペラントで様々な地域の方々と会話する、情報交換するという事は、それ自体が様々な文化、価値観の交換という事でもあり、国際共通語としての意味するものの共通化、ひいては統一化は行き着くところ、文化の共通化統一化という事になるかもしれません。

 母国語があっての文化でもあり、エスペラントは、やはり国際共通語というよりも国際語、国際補助語(良いネーミングが無いでしょうか?)としての道を行くべきだと思います。すみませんチョッと変な方向に行ったでしょうか?

124Bonsano:2007/03/19(月) 16:40:58
国際共通補助語がエスペラントに対する「今のところ」正式な呼び名であり位置づけです。
正式なと言う表現を使ったのは「将来はいざ知らず」という意味ですが、敢えて率直に
言いますが、補助語として使われているうちに、はるか未来の地球市民がそれを母語として
選択することも充分考えられます。
それについては機会があったら述べてみたいと思いますが、言葉は悪いのですが民族語を
駆逐してしまう状況が世界的に生まれることもエスペラントの合理性を真髄まで実感する民衆の
力がその方向への大きな原動力となるかもしれません。
それに至る過程で松戸さんの指摘する問題が具体的解決へと動き出すでしょう。

松戸さんのご努力には、敬服いたしますが、胡人さんの言うとおり自然言語と比べて
語彙などの面で不確定要素がたくさんあることは確かです。これは国際補助語としての
宿命的なところであり、民族語と同じ次元では考えることには無理があると思います。

ただ私が言いたいのは、松戸さんがこの掲示板で指摘していることをその分量の大きさからみても
新来者が読んだらエスペラントについてどのような思いを抱くでしょうか。

楽々さんの言うところの「余計な口出し」もしたくなります。
この掲示板は主としてエスペラントの欠陥を論うような印象をもたれては
ならないと思いますが。。。

125Kia-kabalo-mi-estu?:2007/03/19(月) 18:10:08
私もBonsanoさんと同意見です。「なんでも」掲示板といってもエスペラントの言語としての
有用性に対する批判的論文がこうも最初方のスレに集中するのは、いかがなものかと。。。

そこでです。出来れば松戸さんが新たに掲示板を立ち上げ、エスペラントの日常用語に関する語彙不足や
不確定的現状について提案なさったらいかがでしょうか。

せっかくの研究ですから本を出されても大いに結構だと思います。
私どものように仕事を抱え、しかもエスペラント運動にどっぷり浸かっているものには、
考える余裕もありませんので、松戸さんがエスペラント運動に貢献する意思がお在りで
これまで御書きになったエスペラントの語彙についての欠陥提示による問題提起が自分の
エスペラント運動に対する最も効率の良い貢献であるとお考えならば、それは人それぞれの
役割分担に値すべき行為と考えるべきものでしょう。

もちろん、松戸さんの仰る問題提起が、さほど差し迫った問題として俎上に上げる緊急性を
感じない、例えば、私なんかがその都度反論できる時間的余裕がないのも問題ではありますがね。

その都度反論できる

126Kanva:2007/03/19(月) 23:28:45
私は初心者で、まだどっぷり浸かっていませんから、松戸彩苑さんの議論を
ずっと興味深く拝読しております。
いろんな議論が平行して行われることが、こうした形式の掲示板の長所で
あって、拡散されてしまうと面倒だな、と思いました。浅慮と叱られるかも
しれませんが、声をあげておきます。

127Kia-kabalo-mi-estu?:2007/03/20(火) 05:58:42
Kanvaさんへ
早速の反応に感謝いたします。
まさにKanvaさんのような初心者にお聞きしたいのですが、これまでの議論を読んで
エスペラントにどういう(好または悪)印象をもたれましたか。出来ればお聞かせ願いたいのですが。
もちろん初心者の段階もいろいろありますので、また、それぞれに印象もことなってくるとは
思いますが。。。

128樂々:2007/03/20(火) 12:10:39
松戸彩苑さんのお話もっと聞きたいです。邪魔をしないでください。
Kia-kabalo-mi-estu?さんには『エスペラントの思想』の続きを
お願いします。

129Kanva:2007/03/20(火) 15:15:41
>Kia-kablo-mi-estu?様

私は、エスペラント界と関わってまだ一年程の者です。
ですのである程度、概要の知識を持って読んでいますから、松戸さんの
ご投稿によって特に不安を抱かされる、ということはありません。
不安は、高齢化の進行する地域のエス会の様子、講習会を企画しても人が
集まらない様子など、経験は浅いながらも、他の所から肌に直接にやって
来ます。
松戸さんのご意見は、従来の活動のあり方の行き詰まりの原因について
考察するものですから、かえって一筋の光明に見えます。

130Kia-kabalo-mi-estu?:2007/03/21(水) 08:30:16
楽々さん。Kanvaさん。
わかりました。私の意見は当分控えさせていただきます。
松戸さんのお話がエスペラント運動の更なる発展の契機となることを祈ります。

131Kia-kabalo-mi-estu?:2007/03/21(水) 08:30:36
楽々さん。Kanvaさん。
わかりました。私の意見は当分控えさせていただきます。
松戸さんのお話がエスペラント運動の更なる発展の契機となることを祈ります。

132松戸彩苑:2007/03/29(木) 21:29:36
みなさん、お久しぶりです。
最近、忙しかったり、体調がいまいちだったりという事があって、書き込む気になれなかっ
たのです。

Kanva さんの >>129 の書き込みを見て、私はたいへん勇気づけられました。

考えてみれば、現在エスペラントをやろうと思うような人たちは、みんな「どうしてエスペラ
ントは広まってないんだろうか」という疑問をもってるはずなんですよね。

実際、私じしんもそうでした。
それで、エスペラントを勉強しながら、その原因を見つけ出そうと頑張ってきたわけです。

私の書き込みを見て、ベテランの方たちが心配するのもよく判るんですが、しかし、こうい
う話ができる場所が、どこかには必要だと思うんですよね。
「自分のサイトを作って…」という話もありましたが、私は、確実にみんなが読んでくれてい
るということが確認できないと、やる気が起きないんですよ。

133松戸彩苑:2007/04/01(日) 18:36:44
私は今まで『エスペラント日本語辞典』をさんざん批判してきましたが、たまには良い点を
指摘してみましょうか。

私は「使い捨ての〜」という表現をエスペラントではどう言えば良いのかについて調べたこ
とがあるんですが、『日本語エスペラント辞典』には載っていませんでした。
細かく言いますと、「使い捨て」の項はなく、「使う」「捨てる」の項に「使い捨て」はありませ
んでした。

そこで Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』を調べたので
すが、この辞書には disposable の項がありませんでした。

また Erich-Dieter Krause(編)『W&ouml;rterbuch Deutsch-Esperanto』を調べましたが、この
辞書には、ドイツ語で「使い捨ての」を表わす einmal-、einweg-、wegwerf- といった表現
は載っていませんでした。

そして Jacques Le Puil & Jean-Pierre Danvy(編)『Grand Dictionnnaire Fran&ccedil;ais-
Esp&eacute;ranto』を調べたところ、jetable(使い捨ての)という項はあったのですが、eljxetota
という、あまり適当ではないと思われる訳語しか載っていませんでした。

このような惨憺たる結果を見て、エスペラントでは「使い捨て」ていどの表現さえも簡単には
見つけられないのか、と思ったのですが、しかし、ある日『エスペラント日本語辞典』を見て
いて、偶然に「使い捨ての」に相当するエスペラント訳語を見つけたのです。

それは、uzi の項にある unu-uza という副見出し語でした。

ためしにNPIVや旧版のPIVを調べてみましたが、これらには unu-uza という表現は載ってい
ませんでした。

なお、イタリア語では usa e getta というのですが、Carlo Minnaja(編)『Vocabolario Italiano-
Esperanto』の usa e getta の項には unu-nur-uza という表現が載っています。

134松戸彩苑:2007/05/02(水) 14:47:31
最近はほかのことに関心があって、こっちのほうがお留守になってたんですけど、久しぶ
りに書き込んでみますね。

『エスペラント日本語辞典』の grado の項を見ますと

  du/a/grad/a (1)第二級の;中級の;二流の: dua〜a brulvundo 第二度の火傷 /
  dua〜a kurso 中級講座 / Tio havas nur dua〜an gravecon. それには二次的な重要
  性しかない.類> sekundara.(2)〖数〗2次の: dua〜a ekvacio [funkcio] 2次方程
  式 [関数].

  tri/a/grad/a 第三級の;三流の.

  unu/a/gra/da (1)第一級の,最高級の,= unuaklasa: unua〜a artisto 一流の芸術
  家.(2)初等の: unua〜a lernejo 小学校〔= elementa lernejo〕.類> primara.
  (3)〖数〗1次の.

と書いてあります。

なにも問題が無いように思えるかもしれませんが、しかし、よく考えてみると「初級」「中級」
「上級」というのと「一流」「二流」「三流」というのは意味が違うわけです。

もっと具体的に言いますと、unuagrada lernejo という表現に「小学校(=初級の学校)」と
いう和訳がついていますが、unuagrada には「一流の」という意味もあることになっている
のですから、unuagrada lernejo は「一流の学校」という意味にも取れるはずなんですね。

ちなみにNPIVでは

  dua〜a. Estanta de la dua 〜o: dua〜a kurso, brulvundo. ☞ sekundara.

  tria〜a. Estanta de la tria 〜o: ☞ terciara.

  unua〜a. Estanta de la unua 〜o: unua〜a lernejo. ☞ primara.

と書いてあります(旧版のPIVでも、ほぼ同様)。

定義の部分ではよく判りませんが、用例のほうで判断しますと「初級」「中級」「上級」とか、
医学の「一級」「二級」「三級」といった意味であって、「一流」「二流」「三流」という意味では
ないようです。

また考えてみれば「一流」「二流」「三流」を表わす表現として unua-klasa とか unua-ranga
といったものが有るわけですね。
ですから unua-grada と区別したほうが良いように思われます。

とは言っても、べつに『エスペラント日本語辞典』の編者が間違ったわけではなく、おそらく
実際に unua-grada が「一流の」と「初級の」の両方の意味で使われているのでしょう。

つまり「自然に発展するがままに任せていると、統一されないことがある」という事だと思う
のです。
ですから、エスペラントの「ありのままの姿」というものを100%信頼するのではなく、問題
があると思われるものは指摘して、みんなで考えて解決すべきだと、私は考えています。
---

似たような問題は、ほかにも有ります。
『エスペラント日本語辞典』の kultivi の項には、副見出しとして

  du/kultiv/o 二毛作

  plur/kultiv/o 多毛作

という表現が載ってるんですね。

で、これだけなら良いんですが、この辞書には unu-kultivo という表現も載っています。
誰しも「一毛作かな?」と思われるでしょうが、そうではなく「単一作物栽培」と書いてあるん
ですね。
つまり、欧米の植民地だった地域などで問題になっている「モノカルチャー」の事になって
るんですね。
でも、「一毛作」はどう表現すれば良いんでしょうか?

NPIVを見ますと、unu-kultivo は「単一作物栽培、モノカルチャー」、plur-kultivo は多毛作
ではなく「複数の作物を栽培すること」となっていて、du-kultivo の項はありません。
「一毛作」「二毛作」…を表わす表現は、NPIVにも有るのかもしれませんが、どこに有るの
か判りませんし、まったく無いのかもしれません。

ひょっとすると専門用語の辞書などでは、これらをちゃんと区別できる表現が載ってるのか
もしれませんが、NPIVや『エスペラント日本語辞典』ではこの程度なんですね。

『日本語エスペラント辞典』の「一毛作」の項には unufoja kultivo (dum jaro)、「二毛作」の
項には dufoja rikolto en jaro とあります。
たしかに間違ってはいないのですが、しかし日本語の「一毛作」「二毛作」や、英語の
single cropping、double cropping などと比べると、ずいぶん長い感じがしますね。

135松戸彩苑:2007/05/02(水) 14:49:04
>>134 の続き)

『エスペラント日本語辞典』の tuko の項には

  lav/tuk/o ぞうきん;食器洗いの布.

  visx/tuk/o ふきん,ぞうきん.

という副見出しがあります。
もうお判りだと思いますが、たいていの人は「ふきん」と「ぞうきん」を区別してると思います
ので、これではダメなわけです。

NPIVを見ますと、visx-tuko は家具や黒板をふく布となっていますので、これは「ぞうきん」
でしょうね。
lav-tuko という表現は、NPIVには載っていません。
で、「ふきん」を表わす語として teler-tuko という表現が載っています(これは『エスペラント
日本語辞典』にも収められています)。

それからNPIVには teler-tuketo 「食事のときに使う、小さな布」ってのが載ってるんですね。
黒い星印がついていますので、Fundamento de Esperanto にある表現だということになり
ます。
で、調べてみたところ、Ekzercaro の第34章の9番目の文章のなかにちゃんと出てくるん
ですね。

  Oni metis antau' mi mangxilaron, kiu konsistis el telero, kulero, trancxilo, forko,
  glaseto por brando, glaso por vino kaj telertuketo.

それは良いんですが、これはテーブルで使うナプキンですかね?
欧米の食事作法に詳しくないので、かんじんの意味がよく判らないですね。
---

『エスペラント日本語辞典』の lombardi の項を見ますと「(1)質に入れる」と「(2)〔質を取っ
て〕金を貸す」と書いてあります。

しかしこれでは、質入れしてカネを借りた側も、カネを貸した側も「私は lombardi した」と言
うことになってしまい、おかしいと思いますね。

NPIVでも、旧版のPIVでも、「質に入れる」の意味しか載っていません。

もっとも、確かに lombardisto が行なうことは「〔質を取って〕金を貸す」ことです。
それで『エスペラント日本語辞典』に「lombardi = 〔質を取って〕金を貸す」という記述があ
るのでしょう。

しかし、エスペラントには akusxisto (助産師) という表現があります。
akusxi は「分娩する」という意味ですが、べつに akusxisto (助産師) じしんが分娩するわ
けではありません。
そうではなく、他人の akusxo を手助けする専門家なので、自分じしんは akusxi しないの
ですが akusxisto と表現しているわけですね。
ということで、lombardi が「質に入れる」という意味であっても「質屋 = lombardisto」で構わ
ないわけです。

しかし「lombardi = 質に入れる」なのは良いんですが、それでは「〔質を取って〕金を貸す」
ことはどうやって表わすのかが問題になってきます。
これについては、私も今は思いつきません。
---

と言うことで、ひじょうに些細な話だと思われたかもしれませんが、こういうものをしっかりと
決めておかないと、いつまでたっても日常生活に関しては大ざっぱなことしか表現できない
と思いますので、あえて苦言を呈した次第です。

(終わり)

136松戸彩苑:2007/05/05(土) 16:17:53
エスペラントには digo という単語がありますが、『エスペラント日本語辞典』を見ると「堤
防,土手;ダム,堰(せき)」と書いてあります。

しかし考えてみれば「堤防,土手」と「ダム,堰」というのは別のものではないでしょうか。
「堤防,土手」というのは川の両脇にあるものであり、一方の「ダム,堰」は川を横切るかた
ちで作るものです。

NPIVを見てみますと(1)と(2)に分かれていて

  (1)Remparo, starigita por sxirmi lokon kontrau' inundo de rivero au' maro: la neder-
  landa interna maro estas limigita per fortikaj 〜oj; (f) la 〜o estus for, k la torento
  de liaj deziroj povos pli lebere fluegi!【Z】; ilia sango estas tro bolanta, rompanta
  ofte 〜on de prudento【Z】.

  (2)Transversa muro, konstruita en riveroj, por provizore haltigi, au' malakceli, la
  fluon, au' reguligi la nivelon.

と書いてあります。
読めば判るように、(1)が「堤防」、(2)が「ダム」の説明になっています。

どうしてこんな事になってしまったのかを考えるために、Universala Vortaro の digo の項
を見てみることにしましょう。
ここには

  digue / embank / Damm / плотина(plotina) / tama

と書いてあります。
ただし英語の部分は、1920年代に発表された Akademiaj Korektoj de Universala Vort-
aro においては embankment, dike に改められています。

ということで、ますフランス語の部分から見ていきましょう。
フランス語の項にある digue は、エスペラントの digo の元になった単語ですが、digue に
は「堤防、防波堤」という意味しかありません。
フランス語では「ダム」のことは barrage と言うようです。

また英語の embankment や dike には「堤防」の意味しかありません。

ところが辞書によると、ドイツ語の Damm という単語には「堤防」と「ダム」の両方の意味が
あるらしいのです!
それだけでなく、ロシア語の плотина やポーランド語の tama も「堤防」と「ダム」
の両方を表わすらしいのです。

ということで、どうやらこれが原因だろうと思われるわけです。
つまり、民族語の良くない部分が、エスペラントに持ち込まれてしまったのでしょう。

ところで、ザメンホフは digo をどういう意味で使っていたのでしょうか?
先に見たようにNPIVにおいては、(1)のほうにザメンホフの用例が2つ挙げられているの
ですが、これらが本当に「堤防」の意味で使われているのか、疑問に思われます。

いずれにしても、「堤防」と「ダム」の両方を digo という一つの単語で表わすことになってし
まったために、これらを区別するのがかなり面倒くさくなってしまいました。

たとえば、Duden のエスペラント版である『Esperanta Bildvortaro』においては、「ダム」を
表わすのに val-digo という表現を用いています(同書 212/57-64)。

また『エスペラント日本語辞典』の bari の項には

  val/bar/ajx/o 〔渓谷に設けられた水利〕ダム.

という表現が収められています。
しかし、そのすぐ上に

  akv/o/bar/ajx/o 〖建〗堰(せき);堤防,ダム

というのが載ってるんですが、ここでも「堤防」と「ダム」の両方を表わすことになってしまっ
ています。
NPIVの bari の項を見てみますと akvo-barajxo が副見出し語として載ってるんですが、
ここには

  〜ajxo en rivero, por reteni la akvon cxe certa nivelo.

と書いてあります。
「川のなかにあって、水量を一定にたもつ」と書いてあるのですから、これはどう見ても「ダ
ム」のことであって「堤防」ではありませんね。

ちなみに言っておきますと、NPI Vには val-digo と val-barajxo は載っておりません。

ということで、「堤防」と「ダム」の区別がちゃんと出来るように、みんなで議論していく必要が
あるだろうと思います。

(終わり)

137松戸彩苑:2007/05/05(土) 17:16:23
『エスペラント日本語辞典』の incendio の項を見ると「火災,火事」と書いてあります。
それは良いんですが、この項にある incendii という副見出し語には「放火する」という訳が
与えられているんですね。

考えてみれば「火事」と「放火」というのも厳密に区別しなければならないわけです。
というのも、すべての「火事」が「放火」によるもの、というわけではないからです。
日本語でも区別してますし、英語でも fire と arson とを区別しています。

ということで「incendio = 火事」「incendii = 放火する」というのは紛らわしすぎると思うん
ですが、しかしこれはNPIVや旧版のPIVにも載ってるものなんですね。

また『日本語エスペラント辞典』を調べてみても

  かじ 【火事】 brul(eg)o; fajr(eg)o; incendio. (後略)

  ほうか 【放火】 bruligo; fajrigo; incendiado. 〜する bruligi; meti fajron; incendii. 
  (後略)

となっています。
いちおう区別はしてあるんですが、しかし、やっぱり判りにくいですね。

だいたい「放火」の項にある bruligo、fajrigo、bruligi、meti fajron という表現は、犯罪性の
ない、ふつうの「燃やすこと」や「火をつけること」を表わすものだと思います。

そこで Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』の arson の項
を見てみますと krimbruligo という表現が載っていました。

また Erich-Dieter Krause(編)『W&ouml;rterbuch Deutsch-Esperanto』で Brandstiftung(放火)
を調べますと brulofaro、krimbruligo と書いてあります。

そして Jacques Le Puil & Jean-Pierre Danvy(編)『Grand Dictionnnaire Fran&ccedil;ais-
Esp&eacute;ranto』の incendier(放火する)の項には incendii、brulatenci とありました。

こういった表現を参考にして、「火事」と「放火」とを明確に区別できるようになれば良いなと
思いますね。

(終わり)

138松戸彩苑:2007/05/06(日) 13:04:30
「日本語学校」と「日本人学校」、それに「英会話学校」と「アメリカンスクール」を、簡潔な
表現で、ちゃんと区別できるでしょうか?

「日本語学校」を直訳しますと japan-lingva lernejo となって、これで良いように思えるん
ですが、しかし「日本人学校」も日本語で教える学校だというので japan-lingva lernejo
と訳してしまって誤解を招くということも、十二分にありうるでしょう(angla-lingva lernejo
も同様)。

ですので、あらかじめよく考えておく必要があると思うのです。
---

まず最初に「日本語学校」と「日本人学校」について考えてみますが

  「日本語学校」 lernejo de la japana (kiel fremda lingvo)
  「日本人学校」 lernejo por japanoj (ekster Japanio)

とでもすれば良いでしょう。
カッコ内はあったほうが明確になりますが、「日本語学校 = lernejo de la japana」「日本
人学校 = lernejo por japanoj」というのが広く定着すれば、必要なさそうです。

それから japana lernejo という表現も考えられます。
これは基本的には「日本にある、日本語話者の子供たちのための学校」ってことになりそ
うですが、しかし japana lernejo en Nov-Jorko となっていれば「NYの日本人学校」という
感じになりますよね(そして「NYの日本語学校」には見えませんね)。

また japana lernejo en eksterlando とか eksterlanda japana lernejo といった表現も通じ
そうです。
---

つぎに「英会話学校」「アメリカンスクール」について考えてみますが、「英会話学校」は
lernejo de la angla で良さそうですが、「アメリカンスクール」に通うのは、アメリカ人やイ
ギリス人の子供だけではないみたいです(私は詳しくは知らないんですが)。

ですから lernejo por angla-lingvanoj (en ne-angla-lingva lando)とでもしないといけな
いと思います(しかし、ちょっと長すぎますね)。

ところで世間には「インターナショナルスクール」というのもありますが、ネットで調べてみ
たところ「アメリカンスクール」とは違うもののようですね。

これは直訳して internacia lernejo とすれば良いでしょう。
---

それから「〜語で教える学校」というのは、〜e instrua lernejo という形で表現することも
出来るかもしれません。
ということで

  「日本人学校」 japane instrua lernejo
  「アメリカンスクール」 angle instrua lernejo

と表現することも考えられます。
もっとも、教えるのは「人」であって「学校」ではない、だから

  lernejo, en kiu oni instruas japane

とは言えるが

  japane instrua lernejo

とは言えないなんて可能性もありますので、結局は、先にあげた表現のほうが無難かもし
れませんね。
---

ということで、いろいろ考えてみましたが、これらは一つの試みに過ぎません。
いずれにしても、これらを簡潔な表現でしっかりと区別できるように、前もって決めておく必
要があると思うわけです。

(終わり)

139松戸彩苑:2007/05/12(土) 12:54:54
今回は、犯罪に関する表現について考えてみようと思います。
---

まずは「痴漢」です。

『日本語エスペラント辞典』には

  ちかん 【痴漢】 〔ばか者〕malsagxulo; idioto; stultulo. 〔変態性欲者〕perversulo. 
  〔好色漢〕erotikulo; erotomaniulo; obscenulo; satiruso.

と書いてあります。
我々が検討すべきなのは perversulo 以下の5つの表現ですが、どうもイマイチという感
じがしますね。
と言うのも、いずれも「変態」という意味であって、「痴漢」行為そのものを表わしてはいな
いように思われるからです。

私は palpi に acx をつけて palpacxi とすれば、「痴漢」は palpacxulo とか palpacxinto
と表現できると考えたのですが、いかがでしょうか。
---

「つきまとい、ストーキング」は sekvacxi で通じると思います。

Benson の英エス辞典の stalk の項には sxtel-sekvi、sxtel-cxasi、gvat-sekvi といった
表現が載っていて、もちろんこれでも良いのですが、sekvacxi のほうが簡潔で良いよう
に思います。
---

「露出狂」については ekshibicii という語があります。
たしかに国際的で学術的な表現ではあるんですが、ちょっと長すぎますし、また難しすぎ
るようにも思います。

ということで montracxi とすれば良いと思います。

もっとも、acx はたいへん便利なんですが、「音声的に ajx に似ている」という欠点があり
ます。
ですので、そこのところを気をつけないといけないと思います。
---

「のぞき」を表わす語として skopofilii というのがあるんですが、これも長くて難しいと思い
ます。

acx を使って rigardacxi としたいところですが、これはすでに「じろじろ見る」という意味で
辞書に載っています。

そこで vuajerismo という語から vuajeri という動詞を作れば良いのではないでしょうか。

まったく個人的な印象なんですが、kasx-rigardi とか sxtel-rigardi ですと、あんまり犯罪
的な感じがしないような気がします。
---

「いたずら電話」は、友達どうしの害の無いものなら petolajxo per telefono などとすれば
良いでしょうが、悪質なものは gxenado per telefono などと言うべきでしょう。
(動詞は telefone gxeni)

なんだかとっても簡単なように見えますが、「いたずら電話」という表現も、辞書にはまった
く載ってないんですよね。

私は「いたずら電話」を『日本語エスペラント辞典』で、prank call を Benson の英エス辞典
で、canular t&eacute;l&eacute;phonique を Le Puil & Danvy の仏エス辞典で、そして Telefonstreich を
Krause の独エス辞典で調べてみたんですが、収録されていませんでした。

余談ですが、「留守番電話」はどう言えば良いのでしょうか。

『エスペラント日本語辞典』の respondi の項に respondilo という副見出しがあり、ここに
au'tomata respondilo というのが載っています。
ちなみにNPIVでは未収録です。

au'tomata respondilo ではちょっと長すぎるので respondilo で良いんじゃないかと思った
んですが、respondilo には「回答用紙」の意味もあるんですね。
もっと短い言い回しは無いだろうかと思うのですが、今のところは思いつきません。

140松戸彩苑:2007/05/12(土) 12:57:59
>>139 の続き)

「ひき逃げ」ですが、『エスペラント日本語辞典』の fugxi の項に「akcident/o/fugx/o =
ひき逃げ」「kolizi/fugx/int/o = ひき逃げ犯」というのが載っています。
NPIVには kolizi-fugxinto だけが収録されています。

これらは問題なさそうですね。
---

あとは、すでに定着しているものを、いくつか上げておきましょうか。

「恐喝」は cxantagxo、「強姦」は seks-atenco、「横領」は malversacio ですね。

「盗撮」は、静止画のカメラの場合は kasx-foti か sxtel-foti、ビデオカメラの場合は
kasx-kamerai か sxtel-kamerai あたりになるんでしょうね。

「万引き」は butik-sxteli か magazen-sxteli と言うようですが、var-sxteli とは言えない
でしょうかね?
---

今までは、適当なエス訳が見つかったもののみを上げてきましたが、ここで、適訳の見つ
からないものを紹介してみましょうか。
それは「置き引き」と「ひったくり」です。

『日本語エスペラント辞典』では

  おきびき 【置引】 sxtelo per kamuflajxo

  ひったくる 【引っ手繰る】 forrabi; elrabi; derabi; perforte rabi.

となっているんですが、どうして「置き引き」が sxtelo per kamuflajxo となるのか、よく判り
ません。
それから「引ったくる」の項には rabi から派生させた合成語がいくつか並んでいますが、
いずれの表現もハッキリと「引ったくり」だと判るものではなく、単に rabi (強盗をする) の
派生形にしか見えないように思いますね。

なお英語では「置き引き」のことを baggage thief とか luggage lifting、そして「引ったくり」
のことを bag-snatching と言うそうです。

エスペラントの造語力の素晴らしさを信じて疑わない方がたくさんいらっしゃるようですが、
これらの概念について、ぜひとも適切で簡潔なエス訳語を考えていただきたいものだと思
います。
---

最後に余談を一つ。

『エスペラント日本語辞典』の enketo の項の(3)に「予審,予審尋問;捜査,= antau'-
esploro」と書いてあるんですが、「予審,予審尋問」と「捜査」は別のものであり、しっかり区
別しないと誤解を招くのではないでしょうか。

日本語でも区別してますし、英語でも「予審」は preliminary trial とか preliminary hearing
とする一方で、「捜査」は investigation とか search(ing) などと言って区別しているようで
す。

なお antau'esploro は『エスペラント日本語辞典』では「予審,予審手続き」となっています。

(終わり)

141松戸彩苑:2007/05/19(土) 17:12:09
今回は、いつもと違って lumpio という単語について書いてみますね。

NPIVや『エスペラント日本語辞典』を見ますと lumpio って単語が収録されてるんですね。
どちらにも意味は「春巻き」だって書いてあるんですが、だいたい、こんな単語は見たこと
ないですよね。
中国の標準語では、春巻きは「春巻 chunjuan」で、ぜんぜん違うんですよね。

ということで、そもそも何語かさえも判らなかったんですが、最近「Wiki とかネットを使えば
判るかもしれない」と思って調べてみましたら、ちゃんと判ったんですね。
それで、それをお教えしたくて、ここに書くことにしたわけです。

インドネシアやフィリピンでは、春巻きのことを lumpia って言うんだそうです。
これは、もともとは客家語の「潤餅 lun-pia」から来ているそうです。
つまり、インドネシアやフィリピンに移住した客家人が伝えたもののようですね。

それを、インドネシアを植民地支配していたオランダ人が母国に伝えたんだそうです。
オランダ語でも loempia (発音は「ルンピア」) と言うんだそうです。
で、それがエスペラントの辞書にも入ったわけですね。

しかし、こういう新しい単語は、語源を書いておいてほしいですよね。

142樂々:2007/05/19(土) 21:02:05
age

143松戸彩苑:2007/05/20(日) 03:36:13
>>141 で「客家語」と書きましたが、原文では Hokkien dialect と書いてありましたから、
客家語ではなく「福建語」ですね。

「客家語」「客家人」を「福建語」「福建人」に訂正させていただきます。

144Kanva:2007/06/16(土) 20:40:56
改造の思いつきの話を。

接尾辞-ejsx- :自動詞・他動詞から使役動詞を作る。
       〔kauxzi〜((他の何かが)〜する原因となる)の意。〕
接尾辞-ert- :自動詞!・他動詞から受動動詞を作る。
       〔(他の何かが)〜することの影響を被る、の意。
        アスペクト(継続・完了・未然)に中立な、アオリスト
        受動態。〕

主格語尾-r (-or,-ojr,/-ar,-ajr):主語にだけ付加して、SCVやSCOVの
       構文を明確にする。
       La ordemajr knabojr iliaj lernantoj estos.

145松戸彩苑:2007/06/17(日) 11:07:00
最近エスペラント界では「digxita と cifereca のどちらにすべきか」なんてことが問題にな
ってるらしいですが、私に言わせれば、こんなものは問題でも何でもありません。
両方使えば良いじゃないですか。

考えてみれば、エスペラントには「大学の講師」を表わす表現が3つあります。
docento と lektoro と lekciisto です。
docento と lektoro はザメンホフが使ったものらしいんですが、今では docento のほうが
rekomendi されていて、NPIVの lektoro の項には (ark.) と書いてあります。

で、lekciisto ですが、これはおそらく英語の lecturer の直訳だと思われます。
NPIVなどでは lekcio が主見出しになっていて、副見出し語として 〜i が収録されている
だけで、lekciisto という語は載っておりません。
しかし現実には、たまに見かけるんですよね。

また「ブドウ」はふつう vinbero と言いますが、uvo とか vito などという語根もあります。
もっとも厳密に言いますと、uvo は vinbero(ブドウの実)で、vito は vinberujo(ブドウの木)
のことらしいです。
まぁ現実には uvo や vito という語根はほとんど使われていないんですけど、それにして
も、ブドウを表わす表現がどうしてこうたくさんあるのか、不思議に思います。

このように「ひとつの物事に対して複数の言い方がある」などということは、エスペラントで
は珍しくもなんとも無いんですね。
で、digxita と cifereca ですが、digxita は「西欧でほぼ共通の言い方」である digital に由
来しているわけです。

Wiki などで調べましたところ、英・独・西・葡・伊・蘭・スウェーデン・フィンランド・ハンガリー・
チェコ・セルビア語などで digital に由来する単語を使っているらしいですね。
ただしフランス語では、digital がもともと「指に関する」という意味で使われていた(たとえば
「指紋」のことを empreinte digitale)せいか、デジタルのことは num&eacute;rique というらしいで
す。

また欧米語だけではなく、日本語・韓国語・インドネシア語・トルコ語などでも digital に由来
する語をそのまま使っています。

そして、もう一方の cifereca は「エスペラントの既存の語根を利用して作られた合成語」な
わけです。
フランス語の例はすでに見ましたが、ロシア語ではдигитальный(digital'nyj)という語と
цифровой(cifrovoj)という語の両方が使われてるみたいですから、エスペラントでも2種
類あって構わないように思います。

かつて「コンピューター」をどう表わすかということが問題になったときは、よく使われるもの
だけで3種類あり、そのほかの言い方もあったという状態でしたので、これはたしかに問題
だったと言えるでしょうけど、「デジタル」に関しては、西欧的な言い方が1つと、固有語の合
成による言い方が1つあるだけなのですから、べつに問題では無いと思いますね。

むしろ問題なのは、「デジタル」を表わす表現が複数あることには過剰に反応するのに、「大
学の講師」とか「ブドウ」といった表現が複数あることは問題視しない、という点だと私は思う
んですね。

要するにこれは、学術や文学に関するものには興味を示すが、日常生活に関するものには
興味を示さないという、エスペラント界にありがちな(あるいは、インテリにありがちな)選り好
みのようにしか見えないのです。

このように、日常生活に関する語彙・表現の不足・混乱にはまったく気づかす(あるいは、た
とえ気づいても、まったく関心を示さず)、デジタルのような、どうでもいい事だけが問題に思
えてしまうようでは、エスペラントの将来は暗いと言わざるを得ません。

146松戸彩苑:2007/06/17(日) 11:48:10
>>144
-ejsx- と -ert- を使った例文をあげていただけると、判りやすくなって有難いと思います。

それから主格語尾 -r ですが、たしかにエスペラントは語順が自由なので、どっちが主語
で、どっちが補語なのか判らなくなることも有りえるんですよね。

Ido では、そういう場合には、補語のほうに前置詞 ye をつけるか、あるいは補語のほうを
対格にするんだったと思います。

機械翻訳をする際などには、こういった点を区別したほうが好都合かもしれませんね。

147Kanva:2007/06/18(月) 05:13:36
「数量副詞+da分格」の形が名詞句として働くのは、その句が何格なのかも
分からないし、文法的に見てもおかしい。
この数量副詞は実は<数量代名詞>になっている、ということにするべき。

ということで、数量副詞を転用した代名詞が主格であることを明示するのに
-(i)rを、対格であることを明示するのに-(i)nを、付加することを許す。

"Kiomir da homoj vidis lin tiam ?"
"La armeo batis kelken da senrezistaj popolanoj cxi tie."

>>144への補足はまた後で行います。

148松戸彩苑:2007/06/18(月) 21:08:06
>>145 で「ブドウ」を表わす語根について書きましたが、この他にも trau'bo(=vinbero)っ
てのもあるんですよね。

それから rebo という語根もあって、『エスペラント日本語辞典』には「(ぶどうの)苗株;(ぶ
どうの)茎,幹」、NPIVには「trunko de vinberujo」という説明があります。

たしかに欧米人にとって、ブドウは身近で重要なものだとは思うんですけど、どうしてこん
なにたくさんあるのでしょうか?

また、どうして誰も問題視しないんでしょうか?
---

>>147

たしかに、kelke da とか multe da といった表現は、主格なのか対格なのか判らなくて、な
んとも頼りない感じがしますよね。

でも、そういう場合には kelko(n) da とか multo(n) da という形に変えるということが、現実
に行なわれているんですよね。

149Kanva:2007/06/19(火) 00:15:12
>>149
なるほど。名詞的に-o語尾にするのは自然だと思いますが、数量副詞全てに
ついて-o語尾化が可能でしょうか。可能ならそれでいいですね。
ならばまず、kiomo(n)/tiomo(n)/iomo(n)...という系列が使われます、と。

それで、kiomaが「何番目の」の意味になるのが気にかかって、序数詞もそう
ですけれど、数量系列から順序を作る接尾辞が、本来は形容詞化の-a語尾で
は不自然だと思います。
順序を問題にする系列、例えばkiota/tiota/iotaみたいなのが別にあって
いいし、序数詞も、unuta/duta/trita/kvarta...の、今は音程に使っている
系列を使えたらよかったのにな、と。音程(度)は、unuima/duima/triima/
kvarima/でも何でも、別の系列に逃げていれば。

150Kanva:2007/06/19(火) 12:18:02
序数詞系列の別形の思いつき

相関詞語尾 -iosxa
序数詞接尾辞 -sxa (unusxa,dusxa,trisxa,kvarsxa,kvinsxa,sessxa,
          sepsxa,oksxa,nauxsxa,deksxa,centsxa,milsxa)

151Kanva:2007/06/20(水) 21:44:34
七つの字母の追加と、字母順の変更案

原則として各字一音を維持し、例えば/X/の字は、無声有気軟口蓋破裂音で、
"Kh"に相当する。
その他、/Q/の字は無声口蓋垂破裂音、/Ž/の字は有声歯茎破擦音など。
また、追加された字母は、文法的要素乃至派生力の高い接辞に使うことを
禁じ、固有名詞や各国固有の産物を表わす語根に限って用いられる。

Aa Ee Ii Yy Uu Oo Ŭŭ Qq Kk Xx Gg Ĉĉ Ĝĝ Tt Θθ Dd Cc Žž Nn Pp Фф Bb
Mm Jj Rr Ll Ww Ĥĥ Ŝŝ Ĵĵ Ss Zz Ff Vv Hh

152Kanva:2007/06/20(水) 23:22:55
>>151

その他、
/Y/は円唇前舌狭母音。
/Θ/は無声有気歯茎破裂音。
/Ф/は無声有気両唇破裂音。
/W/は有声硬口蓋摩擦音(アラビア語のガイン)。

全体として、ギリシア語やセム系言語の音をより書き分けやすく。

字母名の改変
A E I Yŝ U O Eŭ Qaf Ko Xi Go Ĉe Ĝe To Θi Do Cu Žu No Po Фi Bo
Mo Jo Re Lo Waj Ĥa Ŝu Ĵu So Zo Fo Vo Ho
子音字に母音の違いをつけ、聞き違いの起こりにくいようにする。

153Kanva:2007/06/21(木) 00:09:21
>>152

歌う場合は、最後に",estas ĉiuj leteroj."などとつけて締めくくる。

>>144,>>146

要はまず、現状、能動態には、単純時制と、分詞を使ったアスペクトを含む
時制とがあるわけです。しかし、受動態には、分詞を使う言い方しかでき
ないのではないでしょうか。言わば、能動態には四つのアスペクトが可能
なのに、受動態には三つしかなく、非対称的になっています。
態によってアスペクトの種類が変わるのは、あまり美しくないことです。
そこで、より対称的にしたいというのが、提案理由の一つです。

fermi(閉じること)→fermerti(閉じられること)
↓→fermiĝi(閉まること)→fermiĝerti(閉まられること)
↓→fermejŝi(閉まらしめること)→fermejŝerti(閉まらしめられること)
↓→fermigi(閉めさせること)→fermigerti(閉めさせられること)
で、時制やアスペクトを絡めずに、どこまでも態の関係を回していきます。

私は、他動・自動を含む能動や、再帰、受動の他に、使役や使役受動も
「態」の一種と位置づけています(主語と動詞語根の示す動作との関係)。
言語によっては、使役や使役受動も、助動詞との複合形を使わずに、動詞の
活用・派生で表わしますが、それに倣うものです。

154Kanva:2007/06/21(木) 00:27:59
>>145,>>148

民族言語(自然言語)を学ぶのに難しいことの一つが、使い分けの境界の
判然としない類義語群が層を成していることですね。サンスクリット等でも、
日常的な語彙の多くが幾つもの類義語を抱えていて、それを全部覚えていか
ないといけません。
日本語でも、「太陽」「お日様」「お天道様」といったところでもそうです
し、「母」「お母さん」「おふくろ」「ママ」「かあちゃん」なんかでも
そうですが、理詰めで分けられないのが厄介なわけですよね。
それに対して、人工(計画)言語としてのエスペラントでは、文法の規則性や
造語法の明示性の他に、語彙自体の整然としていることが売りであるはずです。
ブドウの種類によって明晰に使い分けられるなら別ですが、樹と房と実と、
そんなことで別語根を覚えさせられるのであれば、民族言語と選ぶところが
ないわけです。

かといって、一度重要な作品に使われでもすれば、簡単に辞書から外すこと
もためらわれるのでしょうね。

155松戸彩苑:2007/06/22(金) 22:21:59
>>153
どうなんでしょうね、そこまで細かく区別する必要があるのか?って思ってしまいますね。

たしかに私も、初めてエスペラントの表現法を見たときは「ずいぶん頼りないな」「この程
度でちゃんと区別できるのかな」と思ったものですが、しかし、現状でもけっこう平気なん
ですよね。
---

私が気になっているのは、合成時ですね。
あるいは言い換えれば「エスペラントでは esti と組み合わせた表現が多すぎる」というこ
とです。

つまり estas(-is, -os) 〜ata(-ita,-ota) で受動を表わすわけですが、ぜんぶで9通りあ
るわけです。

それに加えて、能動を表わす estas(-is, -os) 〜anta(-inta,-onta) というのもあるわけ
です。

これらの18通りの表現で、能動-受動、進行形、完了形といったものをすべて表わすわ
けです。
一見するときわめて合理的なように思えますが、しかし、どれもこれも似たり寄ったりなの
で、なんとも区別がつきにくいんですよね。

エスペラントの教科書を見ますと「estas(-is, -os) 〜anta(-inta,-onta) のような表現は、
あまり使わないこと」などと書いてあります。
たしかに、乱用しますときわめて判りにくくなるので、これはこれで賢明な忠告だとは思い
ますが、しかしこれは要するに「エスペラントの現在のシステムは、あまりうまく出来てい
ない」ってことなんですよね。
この点をちゃんと指摘しておかないといけないと思いますね。

欧米語においては、進行形は英語だけですけれども、完了形はきわめてふつうの表現で
あって、これがすんなりと表現できないなんて言葉は、すくなくとも欧米のメジャーな言語
には無いはずです。

ですから、完了形をあまり使ってはいけないことになっているエスペラントは、やはり、うま
く出来ていないって事になるんですね。

イド語には、完了を表わす接辞 -ab- というのがあります。

La kato manjabas muso. (=La kato estas mangxinta muson.)

これを流用するというのも手ですし、あるいは接辞ではなく、完了を表わす「副詞」を作ると
いうやり方もあるでしょう。
---

さらにエスペラントでは、どういうわけだか仮定法に時制が無いんですよね。
ですから時制が必要なときには、またもや esti のお世話になって estus 〜inta とするか、
あるいは 〜intus などとするって事になってるわけですね。

ロシア語ですと、動詞に бы という単語を添えると仮定法になるわけですから、エスペラント
にもそんな単語があったら便利だろうなぁと思うわけです。

もちろん、接辞でも良いわけなんですが。

156Kanva:2007/06/23(土) 00:13:46
>>155

動詞estiですが、語源の印欧語が強語幹es-/弱語幹s-なのに、わざわざ
更に強化した語形est-が全時制・法にわたって使われているわけですよね。
ラテン語で"est"と言えば直説法現在三人称単数とまで分かるところを、
エスペラントでは「ある」という語根部分を伝えているのに過ぎません。
頻用語として冗長で、実用的に見て複合時制の助動詞に適していないのは
明白だと、私も思っています。
イド語でesarでしたっけ、語根を短くしたことには、それはそうだろうと
共感しています。

英語のbeにせよ、ラテン語のesseにせよ、起源の違う語根が一つの動詞に
合流して「不規則」を呈していますが、それによって、短くとも、時制が
一目瞭然に分かるわけです。最初は覚えにくいけれども、覚えてみれば
使い勝手がいい、というのが、自然言語の特徴ですね。

基本的な時制や法や態について、「重苦しい上に分かりづらいから、文法上
可能だけれどもできるだけ使うな」なんて、言って欲しくありません。
文法書の記述を見なかったことにしたい気分でいっぱいです。

157Kanva:2007/06/23(土) 08:56:59
別の思いつき。

副詞を修飾する副詞の語尾を新設し、その品詞語尾を-auxとする。

不定詞主語に対する補語が副詞だったりするので、形容詞や主動詞にかかる
副詞と、その副詞をさらに修飾する副詞を語尾で区別して明確にする。

158松戸彩苑:2007/06/23(土) 10:24:23
estas、estis というのは使用頻度がきわめて高いのに長すぎると思いましたので、もっと
短くしたら良いんじゃないかと思って、あれこれ考えてたんですね。

そして数年前に、estas を ja:s、estis を i:s のように発音したら良いんじゃないかと思った
わけです。

(短くするのは、使用頻度の高い現在形と過去形だけで充分だと思いました)

それ以来、本を音読する際には、そのように発音してるんですけど、やはり、かなり発音
しやすいんですね。

とは言うものの、言葉というのは「発音しやすさ」だけではなく「聴きとりやすさ」も大事なわ
けです。
これについては、話し相手がいない私には、ちょっと判らないんですね。

で、私は「ほかの動詞も短くしたら良いんじゃないか」と考えて

havas → ha:s  havis → hajs
povas → poas  povis → pojs
devas → deas  devis → dejs

というのも考えて、これらも試しに使ってたんですが、そのうちに ha:s(havas) と ja:s
(estas) を聴き分けるのは難しいかもしれない、ということに気づいたんですね。

それに、フランス語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語などを母語としている人たちは
h を発音するのが苦手だということもあるんですよね。

こういったことを考えますと、ja:s と ha:s という語を共存させるのはダメかな?という感じ
がしてくるわけです。

ということで、現在は「どうしようかな」と思ってるわけなんですが、こういうことは何年も
考えないと、なかなか良いアイディアは出てこないですね。
---

それから >>157 の案ですが、私は

〜i estas 〜e.

という表現は、他の民族語と同じように

〜i estas 〜a.

とすべきだと考えてるんですね。
どう考えても、そのほうが表現が明確になるからです。

そして副詞のほうは、現状のままで良いと思います。

もっとも「〜i estas 〜e.」だけならば今のままでも良いんですが、現実には、動詞のほう
にも副詞のほうにもさらに副詞がつくということが、ごくごく普通にあるわけです。
そうすると

〜e 〜i estas 〜e 〜e.

となるわけです。
でも、これだけならばまだまだ明確なんですが、エスペラントの場合、語順が変わって
〜e 〜i が後ろに来て

Estas 〜e 〜e 〜e 〜i.

みたいになる事がよくあるわけですね。
こうなると、かなり判りにくくなるわけです。

これでは判りにくいというので

Estas 〜e 〜e, 〜e 〜i.

としたり、あるいは文章をちょっと変えて

Estas 〜e 〜a afero 〜e 〜i.

のようにしたりするというのが慣例になってるわけですが、こんなものは

Estas 〜e 〜a 〜e 〜i.

とすれば簡単に解決すると思います。

あと bele! や bone! のように、形容詞を感嘆詞として使う場合には、これも副詞にしな
いといけないという事になっていますが、これについても私は、形容詞のままで良いと思っ
ています。

159Kanva:2007/06/23(土) 20:08:23
>>158

逆に、不定詞が主語の場合だけでなく、estiを受ける補語を軒並み-e語尾に
してしまう発想もできます。estiの直前に来るときには、同音連続のため、
その-eを落としていいことにします。

Tiuj floroj tiam specialaux bele(/bel') estis.
Mi kaj miaj frato laboriste(/laborist') estas.

印欧語の発想からすると奇妙奇天烈ですが、「補語は動詞estiを修飾して
いる副詞的要素なのであって、主語と同格なのではない」という発想です。

日本語の「なり活用」「たり活用」及び形容詞の語尾「かり・かる」等の
起源を考えると、動詞「あり」に掛かる部分は連用形乃至は副詞的な形を
しています。
「静かに」+「あり」→「静かなり」
「堂々と」+「あり」→「堂々たり」
「高く」+「あり」+「き」→「高かりき」

こちらの方向で筋を通すと大混乱でしょうけれど、でも、面白そう^^。

160Kanva:2007/06/23(土) 20:10:23
訂正:
×Mi kaj miaj frato laboriste(/laborist') estas.
○Mi kaj miaj fratoj...

161松戸彩苑:2007/06/29(金) 22:18:25
>>155 で言及した仮定法のことですけど、フランス語なんかでは、現在形・過去形・現在
完了形・過去完了形があるんですよね。

エスペラントでも、その程度は必要だと思いますね。

162松戸彩苑:2007/07/07(土) 23:54:35
エスペラントで「釣り銭」「お釣り」のことを何というのかと思って、いろいろと調べてみます
と、rest(o)mono という表現があることが判ります。

この表現は

(1) 『エスペラント日本語辞典』の mono の項の副見出し。

(2) 『エスペラント小辞典』の和エスの部の「つり」の項。(ただし、この辞書のエス和の
    部には restmono の項はありません)

(3) 1921年に出版された Fulcher & Long の英エス辞典の change の項。

(4) Wells の辞書の英エスの部の change の項。

(5) 竹内義一(著)『エスペラント会話教室[新版]』(1999年)の42ページにも

   12) Ne forgesu doni restomonon.
    12) つり銭を忘れないでね。

   とあります。

ということで、この表現はそれなりに広まってるようです。

しかしよく考えてみると、世間には「残金」という概念もあるんですよね。
念のために『広辞苑』(第4版)で「残金」を調べてみますと

  ざんきん【残金】(1)手元に残っている金銭。残高。(2)未払いの金。「―はなくなった」

と書いてあります。
これは明らかに「お釣り」とは違いますね。
で、エスペラントにおいて「お釣り」と「残金」とがちゃんと区別できてるのかが気になります。

それから、NPIVにも旧版のPIVにも rest(o)mono が収録されていないという事もあります。
---

そこで今度は『日本語エスペラント辞典』を調べてみますと、「つり(釣)」の項の2に apunto
と supersumo という表現が出ています。

ここには rest(o)mono はまったく出てきません。
先行の辞書の多くに収録されている rest(o)mono が載ってないのは、意図的に避けたと
考えたほうが自然だと思います。

(なお、この辞書の「残金」の項には restsumo、resto という語があげてあります)

で、この apunto という見慣れない単語ですが、『エスペラント日本語辞典』の apunto の
項にも「小銭,釣り銭」と書いてあるので、これで良いのかな?と思ってしまいそうですが、
しかしこれが、なかなかの難物なのです。

まず最初にNPIVの apunto の項を見てみますと

  apunt/o Kelko da malgrandaj moneroj, necesaj por fari ronda nerondan sumon: la
  pasagxeroj devas mem havigi la 〜on, acxetante sian bileton.

と書いてあります(旧版のPIVの記述もまったく同じ)。
定義の部分を見ますと「端数のある額の端数を無くすために必要な、いくつかの小額の
コイン」といったことが書いてあって、やっぱりお釣りのことのように思えるわけです。

ところがです、例文のほうを見てみると「乗客は、切符を買うさいに自分じしんで apunto
を払わないといけない」と書いてあるんですね。
「apunto = お釣り」と考えると、どうもヘンなんですね。

これは語源にさかのぼって調べないといけないと思い、ヤマサキセイコー氏編纂の『エス
ペラント語原小辞典 (非縮約版)』(私が参照したのは1991年に出版されたもの)を見て
みますと、語源はフランス語・ドイツ語の appoint だと書いてあります。

で、図書館で、いくつかの仏和辞典・独和辞典を調べてみたのですが、『小学館ロベール
仏和大辞典』の appoint の項には、このように書いてあったんですね。

  appoint (総額中の)端数の金額,小銭. Pour r■gler cette somme, il faut un billet
  de 100F et un 〜 de 8F. この支払いをするには100フラン札1枚と8フランの小銭が
  いる.
  (中略)
  faire l'〜 端数を小銭で払う,釣銭の要らないように払う. Le public est tenu de faire
  l'〜. 釣銭の要らないようにお支払いください.

ということで、appoint は「お釣り」ではないみたいなんですね。
これならば、先ほどのNPIVの例文の意味も、つじつまが合うわけです。

163松戸彩苑:2007/07/07(土) 23:57:45
>>162
r■gler → r&eacute;gler

164松戸彩苑:2007/07/07(土) 23:59:34
>>162 の続き)

しかし、さらに Benson の英エス辞典の change の項を見てみますと、ここにも apunto が
出てくるんですね(そして「お釣り」を表わす表現としては restmono も、それ以外の表現も
載ってません)。
ここには次のように書いてあります。

  change, (中略) (coins and/or bills to round a sum), apunto (e.g.: give $5 for a $ 3.74
  purchase and receive $1.26 in change: doni $5 por acxeto de $3.74 kaj ricevi apunton
  de $1.26; please have exact change: bonvolu havi precizan apunton) [cp "cash"];
  (後略)

ネット上では太字やイタリックが使えないので、ひじょうに見にくいとは思いますが、ここに
は2つの例文があげられているわけです。

で、1つ目は、完全に「お釣り」の意味で使われています。
2番目の文章のほうは、英語を母語としているわけでない私には、こういう表現をどういう
場面で使うのかがよく判らないのですが、予想では、先にあげた『小学館ロベール仏和大
辞典』の「釣銭の要らないようにお支払いください」というのと同様の意味であるように思わ
れます。
とすると、ここで考え直さなければならないわけです。

端数のある金額(たとえば1200円)の商品を購入する場合を考えてみると、

(1) 客が2000円出したときに店員が返す800円のこと。
(2) 客が1000円札1枚と100円玉2枚を出したときの、100円玉2枚のこと。

のうち、1を日本語では「お釣り」と言うわけです。
で、『小学館ロベール仏和大辞典』の説明では、appoint は2のことだと書いてあったわけ
です。
しかし、Benson の辞書の change の項にある apunto の2つの例文は、1と2の両方の意
味を表わすと書いてるように見えるわけです。
つまり端数であれば、客が出そうと、店員が出そうと、どっちも apunto なんだということを
意味している可能性があるわけですね。

ここで思い出さないといけないことが一つあります。
日本では、お釣りを出す場合には「客の出した金額(2000円)」−「商品の値段(1200
円)」=「お釣り(800円)」と考えますが、欧米の場合は「商品の値段(1200円)」に小銭
を足していって「客の出した金額(2000円)」にするわけですね。

つまり欧米では、端数は、1の場合でも、2の場合でも「足して出す」ものなんですね。
このような習慣が、影響をおよぼしてるかもしれませんね。

これ以上のことは、私の能力では判りません。
しかし少なくとも、辞書によってマチマチだということはお判りいただけたと思います。
皆さまのご教示をお待ちしております。
---

さて、今度は『日本語エスペラント辞典』の「つり」の項の2に apunto とともに載っていた
supersumo について考えてみましょう。

supersumo のほうにはアステリスク(*)が付されていますが、これは、この辞書のⅣペ
ージに

  なお,既存の語で先例のない(と思われる)使い方をした場合,*印をつけて提案的に
  示したものもある.またP.V.あるいはP.I.V.の解釈が,少くとも日本の現状から余
  りにもかけ離れていて,しかもそれを適当とした場合にも*印をつけて採用した.

と書いてあります。
私が調べたかぎりでは、PVにもPIVにも supersumo という表現はありませんので、他の
意味で使われたことがある表現を、それまでとは異なった意味で使ったもののようですね。

たしかにこの表現は論理的であるとは思いますが、少なくとも私の場合、この辞書のこの
記述以外では見たことがありません。
---

かつて私は、とある人から、お釣りというのは「差額」のことだから diferenco と言うのだと
言われたことがあるんですが、NPIVにも『エスペラント日本語辞典』にも、この用法は載っ
てません。
それ以外の辞書や文章のなかでも、見た記憶が無いんですね。

それに「差額」と「お釣り」も区別できたほうが良いんじゃないかとも思います。
これらが区別できないと、これまた問題があるのではないかと思うのですが、心配しすぎ
でしょうか?

165松戸彩苑:2007/07/08(日) 00:00:13
>>164 の続き)

ということで、「お釣り」という誰でも知ってる表現にしても、エスペラントでは何となく不安が
あるんじゃないかって思うんですね。

で、私も「お釣り」を表わす新表現をいろいろと考えてみたのですが、revenajxo とか retro-
sumo などといった表現では長すぎるだろうと思っていたところ、ふと思いついたのが reajxo
という表現でした。
re と ajx を直接つなげたものですが、このくらい大ざっぱに表現しないと、むやみやたらと
長ったらしい言い方ばかりになってしまうと思います。

こういった事についても、エスペラント界全体で考えていけば、もっと使い勝手のよい言語
になるのではないかと私は考えるのです。

また、エスペラントの世界では「エスペラントでは、ある表現が必要になったら、ただちに合
成して表わすことが出来るんだ」などと言われていますが、そううまく行くとは限らないとい
うこともお判りいただけたと思います。

(終わり)

166松戸彩苑:2007/09/20(木) 02:02:13
私はこれまで、このスレにおいて「エスペラントは、日常生活に関する語彙・表現が不足・
混乱している」と主張し、実例もあげてきました。

しかし、こういうものを見せられても「今まで何十年かエスペラントをやってきたが、必要に
なったことは無い。そんなに心配する必要はないのではないか」などと思う人もいるのか
もしれません。

こう考えたくなるのはよく判るのですが、しかし世間の人たちも、これとまったく同じように
「今まで何十年か生きてきたが、エスペラントが必要になったことは無い。だから、エスペ
ラントみたいなものは必要ないのではないか」と考えてるに違いないんですね。

つまり、エスペランティストも、世間の人たちも、考えてることのレベルが似たり寄ったりな
のではないかと思われるのです。
そして、考えてることのレベルが同じならば、人数の多いほうが勝つに決まっています。

「自分にとって必要ないものは、社会全体にとっても必要ない」という短絡的な考えが、エ
スペランティストのあいだでも、世間の人たちのあいだでも、はびこっていて、これがエス
ペラントの普及・発展を妨げているように私には思われますね。

167だにょ:2007/09/23(日) 17:37:28
▼こういうFAQを沢山つくるといいにょ。ひとつひとつ実戦的にやろうにょ。実戦的に!
>>164

問:私はスーパーを経営しています。エスペランティストのお客さんが店に来ることはないと思いますが、念のため基本的な接客用語を教えてください。
答:次の通りです。
▽8大接客用語
・いらっしゃいませ
・はい、かしこまりました
・少々お待ちくださいませ
・お待たせいたしました
・ありがとございます
・申し訳ございません
・恐れ入ります
・失礼いたします

▽金額の読み方:
1円、5円、10円、50円、100円、500円、1000円、2000円、5000円、10000円

▽例文
「いらっしゃいませ。合計で1980円になります」
「2000円お預かりします」
「20円のお釣りになります。ありがとうございました」

168松戸彩苑:2007/10/07(日) 12:11:50
>>167
ずいぶん遅くなりましたが、だにょさん、こんにちわ。

だにょさんは、ひょっとすると、この(↓)掲示板の80と82の書き込みをされた方ですか?
http://www.vastalto.com/bbs/

さて、8大接客用語ですが、欧米語では、店員だといっても特殊なかしこまった言葉を使う
わけではないようですね。
ふつうの丁寧な表現で良いみたいですので

・いらっしゃいませ → Bonan tagon!など
・はい、かしこまりました → Konsentite. Volonte. Mi komprenis.
・少々お待ちくださいませ → Bonvolu atendi.
・お待たせいたしました → Mi pardonpetas al vi ke mi atendigis vin.
・ありがとうございます → Koran dankon.
・申し訳ございません → Mi pardonpetas al vi.
・失礼いたします → Pardonu min.

「恐れ入ります」は、日本語ではいろんな意味で使われているということがあって、訳し分け
る必要があるみたいですね。

『日本語エスペラント辞典』によりますと

おそれいります〔感謝〕 Mi dankas. Mi restas tre danka.
おほめに預かりましておそれいります Mi ne meritas vian laŭdon.
おそれいりますが、大会会場はどちらでしょうか
  Pardonu〔Permesu〕 min demandi, kie okazos la kongreso?

などとなっています。

で、「金額の読み方」はまったく問題が無いので省略します。

それから「例文」ですが、欧米語では「〜お預かりします」なんてことを言うんでしょうかね?
私は何回か海外旅行をしたことがあるんですけど、そういうことを言われた記憶が無いんで
すよね。
「お釣り」については >>162-165 で述べたとおりですね。

169松戸彩苑:2007/10/08(月) 12:31:27
私はこれまで

  現在のエスペラント(辞典)には、一般人は母語でも一生使うことの無いような、特殊な
  専門用語が多すぎる。
  そして、その一方で、現代の文明社会のふつうの成人ならば誰でも知っているような
  日常的な物・事を表わす語彙・表現が不足・混乱していたり、あるいは長すぎたりする。

と論じてきました。
これだけを見ると、私はすべての専門用語に反対しているように見えますが、しかし決して
そうではないんですね。

というのも、一般的には「専門用語」だと考えられているものであっても、分野によっては、
現代の文明社会の一般人のあいだでも広く知られているものもあるからです。

今回は、そういったことについて考えてみたいと思います。
---

まず「医学用語」についてですが、私の考えでは、医学用語はけっこう必要なものだと思
いますね。

というのも、人は必ず何らかの原因で死ぬわけですし、また、一生のあいだにさまざまな
病気にかかるのが普通だからです。

新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・書籍・ネットなどを見ても、病気に関する話がふつうに出てき
ますし、われわれの私的な生活のなかでも病気に関する話というのは珍しくないものでし
ょう。

とすれば、エスペラント界においても、民族語を使う社会と同じ程度には、医学用語が必
要だということになると私は考えるのです。

花粉症(polenozo)、外反母趾(valga halukso)、口内炎(stomatito)、骨粗鬆症(osteopor-
ozo)などといった単語は、たしかに難しいですが、しかし文明社会の人間であれば誰でも
知ってるでしょうし、またエスペラントで会話しているときに必要となる可能性もあるわけで
すね。
---

それでは次に「数学用語」はどうでしょうか?

考えてみれば、現代の文明社会においては、大多数の人たちが高校までの教育を受けて
いるわけですから、その程度の数学用語が必須だということになりそうです。

しかし、さらに考えてみますと、学生時代にはずいぶん難しい数学を勉強していても、社会
に出てからは、まず使わないんですよね。

平行四辺形(paralelogramo)なんてものは小学校で習うわけですから、成人は全員知って
ることになるんですが、社会に出てからは、まず使わないですね。
菱形(rombo)は言いますけど、台形(trapezo)もまず使わないですね。

denominatoro(分母)、numeratoro(分子)、la plej granda komuna devizoro(最大公約数)、
la plej malgranda komuna oblo(最小公倍数)、ortanto(垂線)、tanĝanto(接線)などとい
う概念も、義務教育のなかで教えられているものですが、社会人になってからはほとんど
使いませんね。

先にあげた医学用語と比べてみれば、こういった数学用語よりも医学用語のほうが役に立
ちそうだというのが理解できると思います。

ということで数学用語は、知ってる人が多いにも関わらず、社会生活においてはほとんど
必要とはならないので、数学が好きな人や、数学が必要な人をのぞけば、あまり憶える必
要は無いんじゃないかということになります。

ただし、数学用語のなかにも、社会においてもよく使われるものもあります。
たとえば「四捨五入」「切り上げ」「切り捨て」といったものです。
で、これに相当するエスペラント訳語を調べてみたのですが、どうやら「四捨五入」を簡潔
に表わすことが出来ないみたいなんですよね。

『エスペラント日本語辞典』の rondo の項のなかにある rondigi のところに

  〜igi la ciferon supren 〔malsupren〕 端数を切り上げる〔切り捨てる〕

というのがありますから、supren-rondigo、malsupren-rondigo とすれば名詞化することも
出来るわけです。

しかし、問題なのは「四捨五入」です。

『日本語エスペラント辞典』の「四捨五入」の項には

  〜する rondigi; kalkuli frakcion 0.5 aŭ pli kiel unuon kaj forlasi la ceterajn.

と書いてありますが、rondigi だけでは「端数を丸める」ということしか判りませんし、また後
者の表現は、四捨五入を「説明」したものであって、四捨五入という表現のエスペラント訳
語ではありませんね。

こういうのが私の言う「日常生活に関する語彙・表現の不足・混乱」なわけですね。

170松戸彩苑:2007/10/08(月) 12:33:05
>>169 の続き)

次に「動植物名」について考えてみますが、これがなかなかの難物なんですよね。
というのも

(1) 国や地域によって、分布している種がまったく違う。

(2) 一部のものはよく知られているが、それ以外のものは専門家でないと知らないといっ
    たことがある。

(3) 民族によって、関心の度合いがまったく違う。
    たとえば、日本人は魚介類を食べますので、これらをキッチリと表わすことが出来た
    ほうが都合が良いわけですが、世界には、海に面していても魚介類をほとんど食べ
    ないような民族もいる。

といったことがあるからなんですね。

また、動植物には「学名」というのが付いていて、エスペラント名もこれを参考にしているわ
けですが、長くて判りにくいということがあります。
もともと学名というのは、動植物を「学術的に分類する」ためのものであって、日常生活の
なかで使うことを目的とはしていないので仕方が無いのですが、エスペラントにとっては、
ちょっと都合が悪い。

ということがありますので、これは世界各国のエスペランティストが協力しないといけない
んじゃないかと思いますね。

つまり、世界各国のエスペランティストが、自分の国においてよく知られている動植物の学
名・エスペラント名(さらには現地での呼び名)と、その動植物がその国で知られている理
由(たとえば「食用」「観賞用」「身近に分布している」といったこと)を報告して、それをまと
めて「憶えておくべき動植物名」を定めておくと良いのではないかと思います。
---

エスペラントの辞書をザッと見ていきますと「化学物質」の名称がずいぶんたくさん載って
いますが、一般人には必要ないものが多いような気がします。

とは言っても、なかには一般人でも知ってるようなものもあるでしょうから、そういうものは
必要だということになりますね。

20世紀前半においては英語・ドイツ語・フランス語の力が拮抗していたので、学術論文も
この3つの言語で書かれることが多く、その結果、エスペラントが学術世界の共通語とし
て使われることを夢見る人も少なくなかったわけです。
また、もともと学術用語というのは論理的に作られていますし、欧米語においてはかなり
のていど共通していたので、エスペラント化するのも困難ではなかったようです。

そういったことがあって、エスペラントの辞書には学術用語が氾濫することになったわけで
すが、それから何十年かたった現在では、フランスのパスツール研究所も、ドイツのマッ
クス・プランク研究所も、英語で書かれた論文以外はいっさい受け付けなくなっています。

ということで、もう完全に「英語で書かれていなければ学術論文とは言えない」という感じに
なってるんですね。
つまり皮肉なことに、言語差別がいちばんひどいのは、学術の世界(理数系の分野)だと
いうことになってるんですね。
---

不愉快なことではありますが、しかし、現在のエスペラントの実力を考えると、これに真っ
向から対決することは出来ないんですね。

ということで我々は、現在エスペラントを学ぼうと思っているごく少数の人たちを対象にし
て、日常生活のなかで使えるようなエスペラントを身につけてもらって、エスペラントが出
来る人間を増やし、さらなる質・量の向上を図るしかないんですね。

そのために「娯楽」を利用すべきだし、また「日常生活に関する語彙・表現の不足・混乱・
冗長さ」といったものを改善していかないといけないわけです。

(終わり)

171松戸彩苑:2007/10/21(日) 20:34:03
あと「スポーツ用語」なんかも必要だと思いますね。

世界各国のエスペランティストたちが、ネットを介して、サッカーの話で盛り上がったりでき
れば、とても良いと思います。

とは言うものの、私はあんまりスポーツに詳しくないんですよね。
で、これはどうやらエスペラント界全体でも同様らしくて、スポーツに詳しい人ってあんまり
いないらしいですね。
やはり、現時点でエスペラントをやるような人間というのは、本を読むのが好きで、体を動
かすのはあんまり好きじゃないみたいです。

でも、世間では知ってる人が多いわけですから、こういった分野の用語も徐々に作ってお
かないといけないと思いますね。

172松戸彩苑:2007/10/28(日) 14:16:58
>>169 で「四捨五入」に相当する表現がないと書きましたが、それからいろいろと考えて
みたんですけど、最初に思いついたのが ambaŭ-direkta rondigo というものでした。
5以上であれば supren rondigi し、5未満であれば malsupren rondigi するということで
ambaŭ-direkta rondigo ということなんですが、どうも長すぎますよね。

で、次に考えたのが ordinara (あるいは komuna) rondigo というものでした。

それからさらに kvin-rondigo というのも考えたんですね。
これは、四捨五入においては、5以上であれば切り上げ、5未満であれば切り捨てるとい
うことで「5」というのが基準になってるわけです。
ですから、そこに着目して kvin-rondigo としてみたわけですが、いかがでしょうか?

私としては、長さという点から kvin-rondigo というのが気に入っているのですが。
---

話は変わりますが、『エスペラント日本語辞典』の kalkuli の項に retrokalkuli というのが
副見出しとして載っているんですが、これには「逆計算する」という訳語がついてるんです
ね。

しかし、PIVやNPIVの kalkuli の項にある retrokalkuli という副見出しには

  〜i en la inversa ordo: la retro〜ado de raketekbruligo.

と書いてあります。
つまり「カウントダウン」のことのようなんですね。

どうしてこんな事になるかと言うと、kalkuli という単語に「数をかぞえる」と「計算する」の2
つの意味があるからなんですね。
ですから「逆方向にかぞえる」と「逆方向に計算する」の2つの意味が出てきてしまうわけ
です。

しかし、これでは困ってしまうので、「数をかぞえる」のほうはすべて nombri で表わすよう
にして、kalkuli は「計算する」のみを表わすということにすべきだと思うんですね。

実際、Wells の辞書の count の項にある count-down には

  ĝis-, retro-nombrado

と書いてあります。

それから『エスペラント日本語辞典』の kalkuli の項には

  ĝiskalkulo 〔ボクシング審判などの〕カウント:ĝis〜o ĝis nulo 〔ゼロへの〕カウントダウン.

などと書いてあります。
おそらくこれも実例があるんでしょうけれども、どうなんでしょうね。
少なくとも、PIVやNPIVには収録されておりません。

私見では ĝis-(または retro-)nombrado のほうが良いと思うのですが。
---

こういったことも、「自然の発展」なんかに任せていたのでは、いつまでたっても決まらないと
いうことが、よく判ると思います。

(終わり)

173松戸彩苑:2007/11/10(土) 16:15:23
エスペラントで「引き分け」を何と言うのかが知りたくて『日本語エスペラント辞典』を見たと
ころ

  ひきわけ【引き分け】 〔試合〕 matĉo sen rezulto. 試合は3対3の〜に終った La matĉo
  finiĝis senrezulte, 3 kontraŭ 3.

と書いてありました。

次に Benson の英エスで draw を見てみると

  (tie in game, contest, etc.), egalvenko;

tie を見てみると

  (in game, contest, etc.), egalgajno, egalvenko;

となってるんですね。
ということで、まったく違ったことが書いてあったんですね。
---

で、日・英以外の言語で「引き分け」を何というのかが知りたかったので、日本語版 Wiki-
pedia の「引き分け」の記事を見たんですが、エスペラントの記事にもリンクが貼ってあっ
たので、当然押してみたわけです。

すると、remiso という(私にとっては)見慣れない語が見出し語になってたんですね。
この記事によりますと、フランス語の remis というチェス用語が語源なんだそうです。

そこで私は、NPIVと旧版のPIV(& Suplemento)を調べてみたのですが、remiso などと
いう語根は収録されていませんでした。
『エスペラント日本語辞典』も調べてみたのですが、remiso は載っていません。

『Neologisma glosaro』を見ますと remisa が載っており、また『Nepivaj vortoj』を見ますと
remia = remisa というのが載っています。
---

「引き分け」のことをドイツ語では Unentschieden、Gleichstand、Remis と言うそうなので
Krause の独エスを見てみますと、unentschieden の項には sendecida という訳語があり、
das Spiel endete 〜 1:1(試合は1対1の引き分けに終わった)という例文に対しては

  La maĉo finiĝis [kun la] sendecida [rezulto] unu per unu

というエス文が付けられています。

また Remis の項には remio と書いてあって、Gleichstand は見出し語がありませんでした。
---

フランス語では「引き分け」のことを match nul、partie nulle、r&eacute;sultat nul などと言うそうで
すので、これらを Le Puil と Danvy の仏エスで調べてみましたが、nul の項に partie nulle
が載っており vana partio という訳語が与えられていました。

エスペラントの partio には「試合」「勝負」という意味もあるんだそうですが、またまた新しい
表現法が出てきたわけですね。

なお、match nul と r&eacute;sultat nul は載っていませんでした。
---

イタリア語では pareggio と言うそうですが、Carlo Minnaja の伊エスを見てみますと egal-
stato, vana partio という訳語があげてあり、le due squadre hanno fatto un pareggio(そ
の2つのチームは引き分けた)という例文に

  la du teamoj konkludis la partion egalstate

という訳が与えられています。
また pareggio の動詞形である pareggiare の項には egali en matĉo、fari vanan partion
という表現があります。

174松戸彩苑:2007/11/10(土) 16:16:34
>>173 の続き)

スウェーデン語では oavgjort と言うそうですが、Vilborg のスウェーデン・エス辞典を見て
みますと oavgjord というのが載っており nedecidita という訳語がついています。
そして、この項のなかに

  spela oavgjort(おそらく「引き分ける」の意味) ludi nedecide [egale]

  oavgjort parti(引き分け) vana partio

という用例が載っています。

また、チェスの「引き分け」のことは remi と言うらしいんですが、この辞書で調べてみます
と vana partio となっています。
---

ということで、さまざまな言語のさまざまな辞書を使って「引き分け」の表現方法を調べて
みたわけですが、ずいぶんいろいろな表現が載ってることが判ります。
要するに「てんでバラバラ」なわけですね。

Wikipedia には remiso というNPIVにも載ってないような表現が見出し語にされています
が、これも、これまでの表現がマチマチで、しかもどれもイマイチだと判断されたので、
やむなく採用されたのではないでしょうか。

「引き分け」などというごくごく基本的な表現が、このようにマチマチだというのは問題だと
思いますし、また「使っているうちに自然に発展する」などという話にしても、とても信じら
れないわけです。
また、このような状態なのに「エスペラントはどんな分野の表現でも可能なほどに発展し
ている」などと考えているのは、エスペラント運動にとってマズイと思うのですね。

たしかにエスペラントというのは、かなり多くの語彙・表現をもっており、そのおかげで(人
工語としては)大量の文献をもっているわけですが、しかし「引き分け」のように基本的な
表現なのにハッキリ決まっていないという問題もあるわけです。
そのせいでエスペラントは、本来発揮するはずの能力を十二分に発揮できないように、私
には見えるのです。

つまり「基本的なコンセプトは正しいのに、残念ながらバグの多いソフト」みたいなものな
んですね。

ですから、こういった問題をしらみつぶしに解決していく必要があると、私は考えているわ
けです。

また逆に言えば、こういった問題を解決していけば、今以上の成果が得られるのだと、私
は言いたいのです。
---

最後に「引き分け」という表現に対する私の考えを述べますと、egal-finiĝo と表現すれば、
誰にでも判るのではないかと思いますね。

また(おそらくフランス語の partie nulle に由来すると思われる)vana partio という表現が
よく載っているということが判りましたが、これを利用して

  la matĉo finiĝis vana-partie.

とか

  la matĉo vana-partiiĝis.

などと表現することも出来るかなと思いました。

とは言っても、私には remiso に反対する気はまったくありません。
これまでにも述べてきたように、私は「現代の文明社会に住んでいるふつうの成人であれ
ば誰でも知っているような語彙・表現」の確立が大事なのであって、それの達成のためな
らば、合成によるものであっても、新語根であっても、どちらでも構わないという立場だか
らです。

(終わり)

175松戸彩苑:2007/11/14(水) 03:03:31
>>173-174 に補足します。

vana partio という表現は、旧版のPIVの partio の項の4に、すでに載ってたんですね。
NPIVでは partio の項の5に載っています。

また Middelkoop のエス蘭&蘭エス辞典の蘭エスの部の remise の項には (bij spel)
nedecidita partio とあり、de partij eindigde in ― (その試合は引き分けに終わった)とい
う例文に la partio finiĝis nedecidite. というエス文が添えられていました。

それから、『エスペラント日本語辞典』の matĉo の項には

  La matĉo finiĝis senrezulte. 試合は引き分けに終わった。

という用例が載っています。
この表現法は(私の知るかぎりでは)『日本語エスペラント辞典』にしか載っていないもの
です。
---

それから remiso ですけれども、この語根を使えば「その試合は引き分けに終わった」を
La matĉo remisis と簡潔に表わすことが出来て、とても良いなと思ったんですね。

しかし、しばらくしてから remisis は re-misis (再びミスした)と同じだなってことに気づい
たんですね。

それに気づいたので、remis' よりも remi' のほうが良いのかなと思ったんですが、しかし
remiis にしても、耳で聞いた場合には re-misis と似ていてまぎらわしいかもしれないと
思いました。

176松戸彩苑:2007/11/14(水) 03:23:36
私の考えでは「ひとつの概念に対して、複数の言い方がある」ことは、それほど問題では
ないのです。

問題なのは「エスペラント界全体で通じるような表現が無いかもしれない」って点にあるん
ですね。
「辞書に載ってるのに、外国のエスペランティストには通じなかった」というのでは困ると思
うのです。

177松戸彩苑:2007/11/17(土) 15:45:33
エスペラントには「作曲家(komponisto)」を表わす表現はあるんですが、「作詞家」を表わ
す表現がしっかりと決まってないみたいなんですね。

『日本語エスペラント辞典』の「作詞」の項をみると

  〜者 versisto ; poeto ; aŭtoro.

と書いてあります。
厳密に言えば「作詞家」と「作詞者」は違うんですけど(前者は必ずプロであるが、後者は
シロウトの場合もありうる)、まぁこうなってるわけです。
---

英語では (song)lyricist とか metrist、metricist、metrician などと言うみたいなんですが、
Benson の英エスを調べてみますと lyricist の項だけあって lirikisto となっています。

ただし英語の lyricist には「抒情詩人」という意味もあるんですね。
また、エスペラントの lirikisto ですと「抒情詩人」の意味しかありません(NPIVを参照)。
ですから、これが「作詞家」の意味である可能性は低いですね。
---

フランス語で「作詞家」のことを parolier と言うらしいんですが、Le Puil & Danvy の仏エス
を見てみますと kanzonaŭtoro, tekstisto と書いてあります。

歌詞のことを teksto と言うということは、旧版のPIVやNPIVの teksto の項の3や、『エス
ペラント日本語辞典』の teksto の項の4などに載っています。

ですから「作詞家 = tekstisto」となるわけですが、これまであんまり見たことがなかった
ように思います。
(これまであんまり使われなかったので『日本語エスペラント辞典』の「作詞」の項にも載っ
ていなかったのでしょう)
---

ドイツ語では Liedtexter とか Textdichter などと言うみたいですが、Krause の(1993年
に Langenscheidt から出た)独エスを見てみますと、Liedtexter が載っていない代わりに
Liederdichter というのが載っており kantofaristo ; lirika poeto と書いてあります。

後者は明らかに「叙情詩人」ですので関係ないんですが、前者が「作詞家」なんでしょうか
ね?
いまいちよく判りません。

この辞書には Textdichter も載っており、こちらには tekst[far]isto というのが載っていま
す。
これはたぶん「作詞家」のことでしょう。
---

イタリア語で「作詞家」のことを paroliere と言うそうですが、Minnaja の伊エスを見てみま
すと vort(overk)isto となっています。

ということで、これまた新しい表現が登場したわけです。

この辞書の編纂者の Minnaja 氏は denaska Esperantisto なんですが、その人でさえ、こ
んな新しい表現を提案してるのですから、やはり「作詞家」に相当する決まった表現がエス
ペラントには無いんだなぁと判断せざるを得ません。
---

これ以外の民族語における「作詞家」に相当する語が私には判りませんので、これで終わ
りなんですが、エスペラントには、いまだにこういう問題があるのです。

178松戸彩苑:2007/11/18(日) 12:02:38
これまで私は「こんな表現が無い」ということを書いてきましたが、今回は「こんな表現を
作りましたよ」というのを書いてみようと思います。
---

「ダダをこねる」は plend-aĉi とすれば良いのではないでしょうか。

『日本語エスペラント辞典』の「だだ」の項には

  〜をこねる dorlotiĝi.

と書いてありますが、これは「甘える」といった意味だと思います。

また plor-plendi でも良さそうな感じがするかもしれませんが、これだと「泣いて訴える」み
たいですし、また「ダダをこねる」というのは必ずしも泣くとは限らないわけですから、これ
はあまり良くないかもしれませんね。
---

「やじうま」は spekt-aĉ-ulo とすれば良いと思います。

『日本語エスペラント辞典』の「やじうま」の項には

  kraĉemulo ; bruemulo. 〔好奇心の強い人〕 scivolemulo.

などとありますが、どれもイマイチだと思いますね。
---

「ナンパする」は in-ĉasi で良いと思います。

余談ですが、日本では「ガールハント」という言葉が使われたことがありましたが、これは
和製英語なんですね。
でも、英語でも job hunt (就職活動をする)などとは言いますから、「ガールハント」という
のは和製英語にしては、けっこう出来が良かったような気がしますね。
---

PV、旧版のPIV、NPIV、そして『エスペラント日本語辞典』の afranko の項には

  ne sufiĉe afrankita letero 料金不足の手紙

という表現が載ってるんですが、これは単純に afranko-manka letero としたほうがスッキ
リしていると思います。
---

「ブロイラー」と「地鶏」は、説明的に表わせば

  koko bredita en kaĝo
  koko bredita en korto

ですが、これを短くして kaĝo-koko、korto-koko、さらに短くして kaĝulo と kortulo として
も良いように思います。
---

「さばを読む(年齢をごまかす)」はふつうに表現すれば mensogi pri sia aĝo となるでしょ
うが、rabati sian aĝon (あるいは rabati al si la aĝon)とか、さらにはこれを名詞化して
aĝo-rabato などと表現すると面白さが出るかもしれません。

『日本語エスペラント辞典』の「サバ」の項には false deklari sin pli juna と書いてあります。
もちろん間違ってはいないのですが、説明的な表現だと思いますね。
---

『エスペラント日本語辞典』の marŝo の項に protest-marŝo(〔反対運動の〕デモ行進)とい
う表現が載ってるんですが、私はこれを見て

  protest-sido 坐り込み
  protest-fasto ハンスト
  protest-kuŝo ダイ・イン

という表現を作ることが出来るな、と思いました。

なお、「ダイ・イン」という表現のなかには die(死ぬ)という単語が入っていますが、だからと
いって protest-morto などとしてしまうと「死んで抗議すること」になってしまうので、意味が
変わってしまうと思いますね。
ですから、kuŝo くらいにしておくのが良いのではないでしょうか。

179松戸彩苑:2007/11/25(日) 10:10:41
エスペラントには ekspliki (説明する) という語根がありますが、この語根が提案される
以前には klar-igi (直訳すれば「明らかにする」)という合成語で「説明する」を表わしてい
ました。

一見するとこれで問題ないみたいですが、しかし「説明をしたが(相手にとっては)明らか
にはならなかった」という事もあるので、klarigi を「説明する」の意味で使うのは不適当だ、
という議論があったんですね。

つまり「説明」して「理解される = (相手にとって)明らかになる」というところまで行かない
と klarigi とは言えないだろう、だから「理解される = (相手にとって)明らかになる」かど
うか判らない時点での動作でしかない「説明する」を klarigi と表現するわけには行かない
んじゃないかって事なんですね。

だから「説明する」は ekspliki で表わそう、と提案した人がいたわけです。

で、こういうことに敏感で、新語根に抵抗のない人たちは ekspliki を使い、新語根に抵抗
がある人たちは klarigi を使うという事になってるわけです。
---

「ふーん」って感じですけど、じつは、同じような問題をかかえた表現は、ほかにもたくさん
あるんですね。

たとえば「(洗濯物などを)干す」というのをエスペラントでどう表わすのかを調べてみます
と sek-igi が出てきます。
しかし「干したけれども乾かなかった」という事もありますので、これではマズイんですね。

これも klarigi とまったく同じタイプの問題だということがお判りになると思います。

それから「釣りをする」を調べてみますと fiŝkapti とか fiŝhoki などという表現が出てきま
すが、これも実際に釣れたときのことを表わす表現であって「釣りをしたが、一匹も釣れな
かった」という場合には不適当なわけですね。

さらに「ダイエットする(痩せるための努力をする)」を svelt-igo としてしまうと「ダイエットを
したが痩せなかった」というのを表現できなくなるわけです。
---

これらはみんな、まったく同じ問題であるということが判っていただけたと思います。
で、これを解決する方法として、いくつかのやりかたが考えられます。

(1) ekspliki のように、新しい語根を導入して解決するというもの。
    すでに「釣りをする」に当たる新語として peski というのを使う人がいます。
    (もっともこの語根はNPIVにも『neologisma glosaro』にも『Nepivaj vortoj』にも収録さ
    れていませんが)

    とは言うものの、同じタイプの問題がこれだけあるのですから、一つ一つに新語根を
    与えるというのは、かなり不経済な感じがします。

(2) ということで「接辞」を使って表わすということを考えるわけですね。
    いちばん簡単なのは -um をつけて表わすというやりかたです。
    すでに -um を使った別の表現がある場合にはダメなんですが、そうでなければ問題
    ないわけですね。

    -um 以外の接辞で表わすことも考えましたが、これはなかなか良いものが思い浮か
    びません。

(3) もうこうなったら、こういう問題を一律に解決するために「新しい接辞」を導入しても良い
    んじゃないか、などと考えたりもしてみました。

    とは言っても、具体的な案(語形)があるというわけではないんですが。

みなさんにも、この問題について、ぜひとも考えていただきたいと思います。

180なつ:2007/12/03(月) 00:15:02
語彙は増やすべきではないと思います。
上級者やヨーロッパ人はそれを忘れがちになると思います。

181Kamelio Japana:2007/12/03(月) 06:54:20
松戸様。
これまでの様々な提案を拝見し、そのご努力には感謝いたしております。

ただ、松戸さんの見解は私どもが以前にこのForumoに参加していたときよりも後退しているように
思われます。

即ち、松戸様が「執拗に」に仰り続けている「日常用語の未整備」等の問題は確かに存在しますが、
私は、実践の場面で他の外国語を話すことに比べると、E を話す方が遥かに自分の有している語彙で
表現可能なことを実感しております。

例えば、英語で話す場面では、英語を母国語とする話者がどういう表現をするかと言う思惑が常に
付きまとい、たちまち失語症Afazioに陥ってしまいます。

民族語には論理的、非論理的表現かどうかにかかわらず常に固定または慣用的表現が定まっていて、
母国語の話者が使うのと同じ表現で話すことが常に圧力となっていますし、その度合いで言語能力の
評価が常に問われます。それが結局個人の社会的ステータスの問題にもなっていく場合も多いのです。
そして残念なことに母国語のレベルの達することは、現地で長年生活していても殆ど不可能なこと
なのですね。ましてや日本の準義務教育を含めて6年間の学習だけでは何をかいわんやです。

対して、Eの場合には、ある程度の語彙と接辞Afiksojを容易に駆使できるまでの学習をつめば、
容易にとまでは云いませんが、Afaziuloになることは殆どありません。それはEでは論理的表現で
あれば、説明的必要性からそれが長短になるかは別としてどんな言い方でもお互いにその使用が
了解されているからです。
そして、この事は初心者、上級者の区別無く当然のことながら認められています。

従って、問題はむしろ、E-isto個々人のEの運用能力を如何に高めるか、そのためには、
どのような効果的学習が考えられるのかと言った問題のほうが肝心なのです。

そして、Kia-kablo-mi-estu?やBonsanoがかねてから主張しているようにこのような会話を
必要とする日常的場面を増やすこと、換言すればEspetantujoの拡大の方がむしろ遥かに
優先課題なのだと思います。

また日常表現的用語を一方的方向で確定するすることは、むしろ「なつ」様も云われるように
E学習者にとっては負担を増すことになりかねない、と言う意見もうなずけます。

Eがあくまで国際共通補助語であることをお忘れなく。もとより民族語とは当然異なる使用方式
があるのです。

従って、緊急性を要するのは国際的に正確かつ即決な理解が要求される学術用語や政治・経済・法律
社会学的用語の整理の方がEUの公用語を目指す観点からも現実味を帯びた優先課題であると思います。

それから、松戸さんの指摘される問題は、それはそれで重要なことですから、辞書編纂の
タタキ台として松戸さんがお住まいの近くのE組織に参加して機関紙等に発表されては、
いかかでしょうか。
そうすれば、また、JEIやKLEGの機関紙等での発表の機会も得られると思いますが。

E-istoであるならばE使用の実践経験による裏づけが何よりも説得力のあるものとなるわけ
ですから。人工言語の作成を楽しむ人たちとはこの点で大きな違いがあるのですね。

最後に、これはどの民族語の辞書でもそうですが、Eの場合は特に云える事ですが、
あくまで辞書は参考事例なのです。最も重要なことはPIVの様な権威ある辞書の語彙の
正確な定義に従ってEによる表現を臨機応変に創造し使いこなすことです。

182りょほう:2007/12/04(火) 00:01:35
>>179
難しすぎです・・・。
そこまで単語の意味を厳密にすると、難しくて使えません。

私はそういう問題があっても、klarigi を使う方でいいです。
「説明をしたが(相手にとっては)明らかにはならなかった」
なら、Mi provis klarigi tion, sed li(sxi) ne komprenis mian klarigon.
で済ませます。

183松戸彩苑:2007/12/04(火) 04:48:34
>>180
なつさん、はじめまして。

> 語彙は増やすべきではないと思います。

具体的には、どれのことなんでしょう?

私は最初「新語根を採用すべきでない」って意味なのかなって思ったんですが、しかし考
えてみると、このスレにおける私の提案の8割くらいは、既存の語根を組み合わせて作っ
た合成語なんですよね。

増やすべきでない「語彙」というのは、合成語も含まれるんでしょうか?
---

>>181
> Espetantujo の拡大の方がむしろ遥かに優先課題なのだと思います。

もちろん、エスペランティストを増やすのは大事なことなんですが、しかし具体的にはどう
いう方法で増やそうと考えておられるのでしょうか?

なにか新しい手があるのか、それとも今までと同じことをこれからも続けようと言うのか。


> 緊急性を要するのは国際的に正確かつ即決な理解が要求される学術用語や政治・経
> 済・法律社会学的用語の整理の方がEUの公用語を目指す観点からも現実味を帯びた
> 優先課題であると思います。

そもそも「学術用語や政治・経済・法律社会学的用語」はあるけれども「日常生活に関す
る語彙」は不足している、なんて言葉が、EUの公用語として採用されるでしょうか?
ふつうの人なら「そんな中途半端な言葉を使うくらいなら、英語やフランス語を使ったほう
が安心だ」って考えると思うんですが。

また、日常生活において必要となるような語彙・表現が不足・混乱しているから、エスペラ
ントはいつまでたっても一般人のあいだに定着しないのだと私は考えているのですね。

だいたい我々も、英語を勉強したり、あるいは英語を使ったりする必要にせまられたりしま
すけれども、「学術用語や政治・経済・法律社会学的用語」なんてものが必要になるなん
てことは、あんまり無いと思うんですよね。
知らなくて困るのは、やはり日常生活に関するものが多いと思うんですよね。


> 最も重要なことはPIVの様な権威ある辞書の語彙の正確な定義に従ってEによる表現を
> 臨機応変に創造し使いこなすことです。

私が批判してきたのは、まさにこの「必要な表現が無いときには、その場で臨機応変に作
りだせるんだ」という神話なんですね。

これはザメンホフが言い出したことですが、こんな泥縄式のやりかたで必ずうまく行くとい
う根拠なんかは、まったくありません。

だいたい、必ずうまく行くのであれば、私がこのスレで論じてきたような問題が発生するわ
けが無いんですね。

それでも「いや、臨機応変に作り出すことが出来るんだ」とおっしゃるのであれば、このスレ
>>140 で「適当なエス訳が無い」と論じておいた「置き引き」と「ひったくり」に相当する表
現を臨機応変に作り出していただきたいものだと思います。


> それから、松戸さんの指摘される問題は、それはそれで重要なことですから、辞書編纂
> のタタキ台として松戸さんがお住まいの近くのE組織に参加して機関紙等に発表されて
> は、いかかでしょうか。

この掲示板に書いてきた文章を、ブログか何かにまとめようとは思っています。

エスペラント団体の機関紙というのは「初心者」や「これからエスペラントを始めるかもしれ
ない」という人向けのものだと思いますので、こういったものに掲載すべきではないと思い
ます。
また、そもそも分量がものすごく多いので、掲載しきれないと思います。

184松戸彩苑:2007/12/04(火) 04:53:38
>>182
もちろん klarigi でちゃんと通じるんですが、しかし ekspliki もけっこう使われてますね。

185松戸彩苑:2007/12/04(火) 05:50:04
>>181
よく考えてみれば

> Kia-kablo-mi-estu? や Bonsano がかねてから主張しているようにこのような会話を必
> 要とする日常的場面を増やすこと、換言すれば Espetantujo の拡大の方がむしろ遥か
> に優先課題なのだと思います。

というのと

> また日常表現的用語を一方的方向で確定するすることは、むしろ「なつ」様も云われる
> ようにE学習者にとっては負担を増すことになりかねない、と言う意見もうなずけます。
>
> Eがあくまで国際共通補助語であることをお忘れなく。もとより民族語とは当然異なる使
> 用方式があるのです。
>
> 従って、緊急性を要するのは国際的に正確かつ即決な理解が要求される学術用語や
> 政治・経済・法律社会学的用語の整理の方がEUの公用語を目指す観点からも現実味
> を帯びた優先課題であると思います。

というのは矛盾してませんか?

前者では「エスペラントで会話できる機会を増やそう」と言ってるのに対して、後者では「エ
スペラントは民族語と違う。日常生活に必要な語彙・表現よりも専門用語を作ることのほう
が優先されるべきだ」と言ってるわけですね。

ひょっとするとこれは「エスペラントで会話できる機会は増やすべきだが、その会話の内容
は日常生活のような下世話なものでなく、高度に専門的なものであるべきだ」ってことなん
ですかね?


それから

> 最後に、これはどの民族語の辞書でもそうですが、Eの場合は特に云える事ですが、あ
> くまで辞書は参考事例なのです。最も重要なことはPIVの様な権威ある辞書の語彙の正
> 確な定義に従ってEによる表現を臨機応変に創造し使いこなすことです。

と書いてありますが、これは「PIVやNPIVのようなエスエス辞典は信頼できるが、民族語と
の対訳になったエスペラント辞典は、あくまでも参考事例にすぎない」って事ですよね。

しかし考えてみれば、民族語との対訳になったエスペラント辞典を編纂した人だって、そう
とう実力のあるエスペランティストなんですよね。
そういう人たちの作った表現にさえもダメなものがあるというのでは、要するに「臨機応変に
作り出すことが出来る」というやりかたで、いつでもうまく行くわけではないって事じゃないで
すか。

それに、民族語との対訳になったエスペラント辞典を編纂した人でさえも「Eによる表現を臨
機応変に創造する」なんて事がうまく出来てないのに、それを並レベルのエスペランティスト
に要求するというのも、あまりにも無茶だと思うんですけどね。

結局 >>183 にも書きましたが、この点でも「ザメンホフの見通しが甘かった」ということだと
思うんですよね。

186松戸彩苑:2007/12/04(火) 06:58:37
>>185 の上半分ですが、これは撤回させていただきます。

Kamelio Japana さんの考えでは「たしかに日常生活に関する用語には問題もあるが、し
かし実際に会話をしていても不都合なことはほとんど無い。だから今は、専門用語の確立
のほうが優先されるべきなんだ」ってことですね。

言わんとしていることは判ったんですが、しかし、それでも反論したいことがありますね。

まず最初に、たしかに今の状態でも、楽しく会話をすることは可能だと思います。
しかし、私があげたような問題を解決したほうが、より楽しめると思うんですね。

この「会話を今以上に楽しめる」ということが大事だと思うんですよね。
それは、エスペラントの学習者にとっても学習の励みになると思いますし、また、エスペラ
ントをやっていない人たちに対しても、良い宣伝になると思うんですね。

それから私も、専門用語の確立じたいは必要だと思っていますが、しかし私にはそういう
分野の知識があんまり無いので、残念ながら協力できないって事もあるんですね。
誰に頼めば良いんでしょうかね?

187KamelioJapana:2007/12/05(水) 05:33:54
>「PIVやNPIVのようなエスエス辞典は信頼できるが、民族語と
の対訳になったエスペラント辞典は、あくまでも参考事例にすぎない」って事ですよね。

PIVはエスエス辞書であり「こんにち」では民族語に翻訳されたものとは比較対照するには本質的に
無理があります。
「こんにち」と書いたのは、Zamenhofが当初出したUnua Libroはロシア語やポーランド語等それに
続く数編の民族語版からなるため、E単語の意味の定義は各民族語のそれによる比較で行うしかなく
そのデノテーションには多少のずれがあるのは、否めないことでした。

E単語のデノテーションの範囲が粗正確になるためには、Zamenhofの手から異なる民族語を母語とする
多くのE-istojの質量ともに十分な用例の積み上げ(まさにEの実践的使用)が要求されました。
こう言った歴史経過の上に立ってPIVが出来たのですね。

PIVが最も権威ある辞書と言うのはこういった意味です(勿論、編纂者のE-istojはその時代
における第一線の人たちとは言え、人間のすること故、過ちからは完全には逃れ得ないことは
云うまでもありません)。

しかしこの後は殆どの「E-民族語辞書」は先ずPIVを参考に作られるようになります。

188KamelioJapana:2007/12/05(水) 05:58:07
>それに、民族語との対訳になったエスペラント辞典を編纂した人でさえも「Eによる表現を臨
機応変に創造する」なんて事がうまく出来てないのに、それを並レベルのエスペランティスト
に要求するというのも、あまりにも無茶だと思うんですけどね。

松戸様はE-istojと実際にどれだけ交流された、または、されているのでしょうか。
また、Radio Polonja等でEを長年使用している人たちのEでの流暢なやり取りをお聞きになった
ことが無いのでしょうか。

それから、松戸様はEに対する思い入れが相当強いのか、Eに何か完全性、と言うか完成性を
求めすぎているのではないでしょうか。
自然言語はもとより計画言語であっても人間の思考や心を完全に映し出し、且つ「人間が使用できる」言語を
生み出すことは殆ど不可能に近いのです。

仮令、完成度が高いコンピューター言語のようなものであっても、現段階ではそのことを追求すればするほど
人間性の「何か」を置き去りにしなければならないのです。もとより、そうなれば人間の使用に耐えるもの
からは益々、ほど遠くなります。

189KamelioJapana:2007/12/05(水) 06:15:01
>「たしかに日常生活に関する用語には問題もあるが、し
かし実際に会話をしていても不都合なことはほとんど無い。だから今は、専門用語の確立
のほうが優先されるべきなんだ」ってことですね。

少し、違う様な気がします。

国際共通補助語としてのEを取り囲む現代の世界情勢から考えての優先度のことを言っているのです。

例えば、近年Inter-retoによるE-isto同士の国境を越えた交流が大変盛んになってきています。
そうなれば、そのために要求される語彙の正確な定義と用語に関しても足らざるところは、当然、
補う必要が出てきます。Eはこのことに於いても十分に実用に耐える創造性と柔軟性を証明して
きていますね。

専門用語云々というのは主にEUにおける橋渡し言語として期待されるEの役割を念頭においているからです。

190papageno:2007/12/05(水) 20:44:42
ブログでも取り上げましたが、
http://ameblo.jp/esperanto2/entry-10047949998.html
エスペラントで「音叉」を表す言葉は「日本語エスペラント辞典」では tonforko; sonforketo; agordilo; agordoforko; diapazono の5つもあるんですね。普通一つの言語に一つです。英語なら tuningu fork フランス語なら diapson というように。音叉ごときに5つもあるなんて、それだけでエスペラントが欠陥言語であると言われても仕方ないんじゃないですか? 

また、それをどれか一つに決める手段がありません。英語圏の人は tonforko か agordoforko を使い続けるだろうし、フランス人やスペイン人なら多分 diapazono でしょう。自然に任せたって、多分決まらないでしょう。
また、それをどれか一つに決める手段がありません。英語圏の人は tonforko か agordoforko を使い続けるだろうし、フランス人やスペイン人なら多分 diapazono でしょう。自然に任せたって、多分決まらないでしょう。

191papageno:2007/12/05(水) 20:51:25
>>190訂正
tuningu fork → tuning fork

また下2行重複してしまいました。

192KamelioJapana:2007/12/05(水) 21:55:37
>papageno様

お待ちしておりました。
あなたのブログは総て読ませていただいております。
そして、それらの多くはあなたの認識不測から知識の偏りが感じられます。

>欠陥言語であると言われても仕方ないんじゃないですか? 

先ず、云っておきたいことは、欠陥と言う用語の使い方です。
これは、ある意味では欠陥とも言えるのですが、松戸様が指摘されている様に
語彙の未整理の問題であり、「欠陥」と言う語は、聞く人によってはEに対し大変
否定的なニュアンスを与えることになるでしょう。

勿論、あなたが、意図的にその言い回しを用いているなら別ですが。。。

この問題に関してはEの自然語的発展の歴史を考えれば当然のことです。
Kandidatojが適度に存在することは民主的でさえあります。
「音叉」という語が大衆の中でなくても多くの専門家や音声学者によって
多く使われるように成れば、これまでの歴史の通りおのずと候補者は絞られて
いくものと思われます。

また、専門家でなくても合成語の場合、博識ある話者がその話題のコンテクストの中で
どういった語を用いようとも、多くの場合、複数の語を使えば説明に事足りることです。

>自然に任せたって、多分決まらないでしょう。

Eの場合は逆に殆どの「E-istojが実験的に用いる語は民族のエゴ」とは無縁ですので、
一つに絞れない場合もありますが、極少数の候補に落ち着くことはEの歴史が証明しています。

勿論、Eに限らず民族語においても当初は用語の選定が一つに定まらないことは、多くあること
ですね。

193KamelioJapana:2007/12/05(水) 22:05:57
日本語を例に採ると、
その中には、多くの場合「大和ことば」と漢語の併用が存在します。
これは、欠陥なのでしょうかね。

また、「音叉」という語はそもそも母語で話をする人同士で専門家以外の
人で即座に理解できる人はどれだけいるのでしょうかね。

私の場合は、あなたの挙げたEの幾つかの単語のお蔭でどういうものか、「音叉」
と言う日本語よりもイメージがより鮮明に脳の中に現れましたが。

194KamelioJapana:2007/12/06(木) 06:49:02
当然のことですが、Esperantujoに占める専門分野別のDemografioがKandidatoの絞込みと粗
相関関係にあるように見えます。

例えば、「碁」をあらわすE単語として、中国産のVejcxioと日本産のGooとでは、Gooが市民権を
得たようです。

まだ、定まらないと言うかむしろ住み分けて共存している語の例としては、国名に使われる-i-と
本来は入れものをあらわす-uj-があります。

Japanujo - Japanio  Koreujo - Koreio Cxinujo - Cxinio 等々。

これらを意識して使い分ける場合もありますね。
例えば、私はLa Japana Konstitucio とは云わず常にLa Japania Konstitucioを
使っています。

ずっと以前の話ですが、日本の左派勢力の一部には当時の認識を反映して、北朝鮮を示す用語には
Koreioを韓国を示すのにはKoreujoを使うことを提唱した人もおりました。

今では、それぞれNorda Koreio、Suda Koreioが一般的です。

尤も、Cxina Radio Internmaciaでは政府の思い入れかどうかは分かりませんが、
それぞれ、Koreio、Korea Respublikoを用いています。

そういえば、HxinoやHxinujoの用語は殆どArkaismoになりましたね。

195papageno:2007/12/06(木) 11:45:50
>>192-194
待たれていたとは知りませんでした(笑)。それにブログを読んでいただきありがとうございます。

さて、私は絵ー仏英辞典というのを持っていまして、これはカナダで発行されたものなのですが、人間生活に関するありとあらゆるものがイラストで描かれていて、それぞれの絵に相当するフランス語と英語が横に書かれてあるのですが、ほとんどが一つの語しかありません。音叉ももちろんあるのですが、diapason(仏)とtuning fork(英)だけです。たまに2つある場合もあるのですが、5つも書かれてあるなんてことはありません。

KamelioJapanaさんが絵ーエス辞典を作るとして、その時音叉の絵の横に何と書かれますか? まさか5つもずらずらと並べるなんてことはしませんよね?

196papageno:2007/12/06(木) 11:48:51
あ、ところでこの辞典のエスペラント版作ってみたらどうでしょう? 私の持っているのは1992年版の古いものですが、今調べたら最新のはなんと仏・英・西・独・伊の5カ国語(日本語版では6カ国語)に増えているんですね。
http://www.amazon.ca/Nouveau-Dictionnaire-Visuel-multilingue-Collectif/dp/2764408137
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4095050810%3ftag=i16jp-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=D2E5ETG5CGB5DD/ref=nosim

197papageno:2007/12/06(木) 11:49:25
CD版もあります。日本語版のCDはまだのようですが。
http://www.ledictionnairevisuel.com/Index.htm
CD版は基本は仏・英語なのですが、それにオプションで西・伊・独のどれかまたは全部を付けられるようになっているそうです。
http://www.ledictionnairevisuel.com/langues/index.htm
これにエスペランティストの方でエスペラント版を用意してオプションで選べるようにしたらいいのではないでしょうか?

この辞典を作っているうちに、音叉の言い方に5つもあるようなアホウなことも解決して行くかもしれません。解決できずに頓挫するかもしれませんが。

198papageno:2007/12/06(木) 12:18:25
>>195-197
上の書き込み、3つに分けたのはエラーメッセージが出たからです。どうやらリンクを4つも貼ったのがスパムと判断されたようで。

ところで松戸彩苑さん、スレタイの「エスペラント改造論」から離れているようなので、別に「エスペラントの日常語の不足・混乱に付いて(仮称)」などというスレを作られたらどうでしょうか?

199松戸彩苑:2007/12/07(金) 02:54:52
KamelioJapana さんの >>181 の書き込みのなかに

> E-isto 個々人のEの運用能力を如何に高めるか、そのためには、どのような効果的学
> 習が考えられるのかと言った問題のほうが肝心なのです。

とあります。

私ももちろん「効率の良い学習方法」があれば良いなとは思うのですが、しかし Kamelio-
Japana さんには、そういったものの具体的なアイディアはあるのでしょうか?
あるのであれば、この掲示板のなかに「エスペラントの学習法」というスレがありますので、
ここに書き込んでいただけないでしょうかね?

私もそのスレに、そういったものを書き込んでみようと思っております。
もっとも私の考える学習法というのは、一人で勉強する方法であり、また desubismo 的な
ものとなります。
というのも、私はこれまで一度も講習会を受けたことが無いので、講師が生徒を指導する
方法というのがまったく判らないからであり、また私は desuprismo 的なやりかたでエスペ
ラントが普及するとは、とても思えないからです。


>>188
> それから、松戸様はEに対する思い入れが相当強いのか、Eに何か完全性、と言うか完
> 成性を求めすぎているのではないでしょうか。

「エスペラントをEUの公用語にしよう」と考えておられる方にこのようなことを言われるとは
思ってもみませんでした。

私が指摘しているのは、現在のエスペラントでは「鈍行列車」を表わす表現でさえも辞書に
よってマチマチで、ほんとにスンナリと通じるのか疑わしい、といったことです(>>107-109
を参照)。
こんなものは文明社会で使われている民族語であれば必ずキチンと表現できてるはずで
あって、べつに「完全性」とか「完成性」などといった次元の話ではありません。

「鈍行」と「急行」との区別は、それこそ世界中でなされており、現代の文明社会に住んで
いるふつうの人なら誰でも知ってるわけですね。
またエスペラント界では、エスペラントを使って海外旅行をする人が多いわけですが、そう
いう場合にも「鈍行列車」という表現が必要になるはずなのです。
それから、翻訳・通訳をする場合にも、あるいはエスペラントで小説や記事などを書く場合
にも、必要になることがあると思います。
さらにいえば、ザメンホフが生きていた時代にも、当時の鉄道網の規模から想像しますと、
すでに「鈍行」と「急行」の区別くらいはあったんじゃないかと思われます。

そういうものであるのに、なぜかエスペラントでは今でもシッカリとは決まってないようなの
です。
これは明らかにおかしいし、また困ったことなのではないでしょうか。

私が思うに、どうもこれは「エスペラントでは、必要な表現が無いということが判ったら、た
だちに既存の語根を組み合わせて、それで必要な表現を作り出すことができるんだ」とい
うザメンホフの語った「神話」の影響なのではないでしょうか。
しかし、私は「そうそううまく行くものではない」と主張し、この神話を批判してきました。
それに調べてみますと、ザメンホフというのは、ふつうのエスペランティストが想像している
以上に、新語根を気安く導入する人でもあったわけです(Waringhien が書いた本に書いて
あります)。

> Radio Polonja 等でEを長年使用している人たちのEでの流暢なやり取りをお聞きになった
> ことが無いのでしょうか。

もちろん私も、エスペラントを流暢に話す人と会ったことがありますよ。
だいたい欧米には denaska esperantisto だっているくらいですからね。

しかし、そういったことと、先に述べた「日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱している」
ということとは、まったく別の話です。
流暢に話すことができる人がいるんだから「鈍行列車」という表現がアイマイでも構わない、
という事にはならないと思います。

200松戸彩苑:2007/12/07(金) 03:50:05
>>190
原則から言いますと、エスペラントでは「意味が明確かつ論理的であれば、すべて良しと
される」ということがあるので、数が多いからといってダメだとは言えないってことがあるん
ですよね。

しかし現実には、あまりにも多いと問題だと感じる人が出てくるらしくて、NPIVとか『エスペ
ラント日本語辞典』などを見ますと、agordo-forko に統一しようとしてるようです。

なお、NPIVの diapazono の項を見ますと、この語を「音叉」の意味で使うのは避けるべき
だと書いてありますね。
「音叉」は agordo-forko で表わして、diapazono は

(1) 〔記譜上でなく実際の音の〕音域

(2) 〔オクターブに含まれるすべての音から成る〕音列

という意味で使うというのが、NPIVや『エスペラント日本語辞典』の記述です。

エスペラント界では「エスペラントは使われているうちに、自然に発展し、かつ統一される」
と言われてるんですね。
これはザメンホフが言い出したことなんですが、しかし実際には、そううまく発展したり統一
されたりするとは限らないんですね。
現実には、辞書編纂者が苦しまぎれに(?)新語を作り出したり、あるいは少々強引に統一
したりということもありまして、またそういうことがあるから発展や統一がなんとか行なわれ
ているということも言えるわけです。

201松戸彩苑:2007/12/07(金) 04:10:02
>>195-198
エスペラントの世界には、すでに(旧版の)『Duden 図解辞典』のエスペラント版というのが
あるんですよね。
エスペラント版の書名は Esperanta Bildvortaro と言うんですが、25000もの項目がある
んだそうです。

このエスペラント版の編纂には、25ヵ国の143人の方が協力したんだそうです。
このプロジェクトを発案・主宰したのは、ドイツ生まれでカナダに移住した R@diger Eichholz
(1922年〜2000年)という人で、この仕事を1964年に始めて、完成したのが24年後の
1988年でした。

で、私の感想ですが、たしかに大変な労作なんですが、しかし私の求めているものとはちょ
っと違うと考えています。

当然のことなんですが、こういう辞典では「絵に描けないもの」はまったく取り上げることが
出来ないんですよね。
抽象名詞や法律・制度、歴史的な事象といったものがそうですし、また病気の名前なんか
もそうですね。

また、ある名詞には、それとともに使われることの多い動詞・形容詞というのがあります。
いわゆる「コロケーション collocation」というもので、大型の辞書にはそういうものが載って
るわけですが、図解辞典では、そういったものを収録するわけにはいきません。

具体的に言えば、カメラというものがあって、これを構成するパーツがあるわけです。
こういったものは絵に描けるわけですが、しかし「カメラの操作の仕方」であるとか「写真を
撮るときのテクニック」といったことを表わす表現がいろいろとあるわけですが、こういった
ものは、当然まったく扱うことができないんですね。

また、動植物は絵に描くことはできますが、しかし、ものすごく種類が多いわけですから、
これをいちいち絵に描くというのは効率が悪いわけです。

それから『Duden 図解辞典』というのは、一般人はほとんど知らないような、かなり専門的
な分野を取り上げていたりするんですよね。
もっとも、シロウトが見ると「〜はこうやって作ってたのか!」と思うこともあるわけです。

想像するに、もともとこの辞書は、ドイツの一般人に、さまざまな分野の初歩的な(ドイツ語
の)専門用語を教えることが目的だったのでしょう。
しかし、そういう本ですから、「エスペラントの基礎的な語彙を提示する」というのには、ちょ
っと向いていなかったように思います。

ということで、かなり批判めいたことを書いてきましたが、しかし、このエスペラント版はきわ
めて大変な著作なんですね。
私が、エスペラントの語彙・表現の問題を考えるうえで、きわめて参考になった本です。

私としては、絵に描ける・描けないに関わらず、現代の文明社会に住んでいるふつうの成人
ならば誰でも知っている事物すべてを対象にしていきたいと考えております。

とは言うものの、そういうことをしようと考えている私にとっても、papageno さんが教えてくだ
さった図解辞典は、大いに参考になるのではないかと思われますね。
良い本を教えてくださってありがとうございました。

202松戸彩苑:2007/12/07(金) 04:13:03
>>201 の7行目
× R@diger Eichholz
○ R&uuml;diger Eichholz

203KamelioJapana:2007/12/07(金) 10:04:53
松戸さんの詳しい研究には頭が下がります。

何度も私が認めているように日常用語ばかりでなく、あらゆる分野に亘って用語の不足
や未整理の問題は存在します。

現代科学の最前線においては、用語の補充・整理統合に際して人材不足は量的、質的にも
否めません。

しかし、Zamenhofがどのような言葉で表現したかは、分かりませんが、
「エスペラントは使われているうちに、自然に発展し、かつ統一される」と云う言い方が
あるのだとしても日常的に使われる「自然」の意味とは趣を異にします。

自然といっても、この目標を達成する前提条件としてEsperantujoの質的な拡大が求められるわけです。
勿論、それにはある程度絶対的な量的発展と、それに伴うべくE-istoj間の国際交流の進展が必要と
されます。

もし、Zamenhofの見通しが甘かったとしたら、前提条件の進展の度合いが見通しどうりに行かなかった
ということでしょうか。尤も、Zamenhofがいつの時点でEの勝利を見越していたのかは、定かでは
ありませんから、Zamenhofの見通しが甘かったとか、ましてや間違っていたと言われても、私としては
そう決め付けるには未だ早計のような気がします。

実は、ここに私が常に優先順序を強調する意味合いがあります。

私の意見では、Esperantujoは質量共に未だに発展途上にあります。松戸様は「ではいつになったら」
と反論されるかも知れませんが、Eの最終的勝利(これも意見が分かれるところですが)
である「国際共通補助語であると世界的権威機関が公式に認め第二言語として義務教育でEの授業が
開始」されるようになったとしても、松戸様が望んでいることは当分不可能なことというのが
私の見解です。

デノテーションはもとよりコノテーションの問題は民族や国家の文化や伝統によってはかなり異なった
様相を呈しておりますから、地球的規模でのKomeuna Kuturoと言った物がある程度明瞭に形成
されない限り、特に日常用語の整理・統一などということは民族間の橋渡し言語としてのEには無理
とは言わないまでも永遠の課題といってもかまわないでしょう。

私見ですが、Eに限らず民族語のレベルに於いても用語の不足や統一などということは
日進月歩で進歩(この語に異存のある方には変化という語が宜しいでしょうか)する
現代世界においては不可能なことだし、それを強引にやろうとしたら権力的手段の介入を
招くという観点からも好ましいものとは思われません。

続く

204KamelioJapana:2007/12/08(土) 06:41:36
私は、松戸様がE-istoであると認めた上で議論に加わっていることを先ず申し
上げておきます。

勿論、この定義はBoulogne-sur-Merでの第一回国際大会での定義です。

従って、その定義によればどのような目的でEを使おうとそれは個人の自由です。
もとより言語自体には意志などありませんから、それ自体に文化も思想もあり
ません。それらは言語の使用者が齎すものです。
Eを使用してEsperantujoの拡大を、意図的か非意図的かは別にして、結果的に
阻止しようとする人も勿論含まれます。

それは、英語を母語とする人でも彼や彼女の抱く思想には、母語である英語自体の
世界における使用領域をこれまで築き上げた地位から引きずり降ろそうと意図的に
行っている人も存在しているようなものです。
英語を母語とするE-istojの多くがそういった人に該当するでしょう。

私が松戸様に対して疑問を抱くのは、この掲示板でのこれまでの議論を拝見していると
「Eにおける日常用語の不足や未整理という問題」のほかにも様々な面でEならびに
Esperantujoの批判に重点を置かれている事です。

この掲示板に書き込む人の多くは現実のEsperantujoとある程度積極的に関わりを持っている
方は、私を含めて極少数に思われます。松戸様も今はもう組織に係わってはいないご様子です。
しかも、松戸様のご意見がこの掲示板に占める割合はダントツと言ってもいいでしょう。

そのご意見がEならびにEsperantujoに対する否定的見解に傾いていることは、
世間に満ち溢れているEに対する無知や誤解を益々助長するようなもので如何な
ものかなと思います。

松戸様の意図をはっきりお聞かせ頂けないでしょうか。

数多くの先輩E-istojを差し置いて、私がここに参加しいるいるのは、はっきり
申し上げて、これからEを学ぼうとしている方やEを学び始めたが未だEの組織
(この言い方に抵抗を感じる方にはグループ)とは接触を持っておられない方は、
この掲示板の多くの意見を参照して、粗100%、Eに否定的見解を持ってしまうと
危惧したからです。

この掲示板の看板にエスペラントの文字を冠しているにも拘らず、Eに興味関心を
持たれている方が、たまたまこの掲示板にヒットするとむしろEに批判的見解に思いが
傾いてしまうでしょう。

多くの先輩Esperantistojの方がこの掲示板で松戸様の見解に反論されることに
越したことはありませんが、私のいつも言うE運動における優先課題からしても
忙しい中その時間を割り振り出来る方は少ないものと推察しております。

私自身、この掲示板への係わる度合いにも拠りますが、ここでの議論に参加する事は、
Esperantujoで占めるべき私の優先課題をある程度犠牲にしなければならない訳ですから。
尤も、私の妻以外身近にEsperantistojの存在しないところに近年居を構えたから
幾分時間を割けるのかも知れませんが。。。

205KamelioJapana:2007/12/08(土) 06:47:56
訂正です。

第一回国際大会

第一回世界大会

206外の人:2007/12/09(日) 02:09:07
>世間に満ち溢れているEに対する無知や誤解

だってそれが現実なんだもの。
仮に一億万歩譲って、エスペラントに対する世間の考えが「無知や誤解」だとしましょう。
では、それを貴方様が一から十まですべて洗い出して、皆様に教えていただけませんか?
それが「当初から交わされてきた無知・偏見」なのか否かを確認したいので。

>意図
松戸氏の意図は、「一生懸命、現実的な考えでエスペラントを広めようとなさっている方」であると
外の人である私は認識しています。

逆に、貴方様は「一生懸命、非現実的な考えでエスペラントを潰そうとなさっている方」であると
外の人である私は認識しています。

外部の人間にとって、松戸氏のような考え方のほうが受け入れられやすいであろうということです。

まぁ、ザッと言ってしまえば「保守派」よりも「革新派」や「急進派」のほうが魅力あるということです。
(ああ、貴方様のことだから一応断っておきますが、統計データを求めたり、
厳密な定義や確固たる論拠などを求めないでくださいね。ここはそういうおカタいとこじゃないでしょうし)

松戸さんのように現実的かつ建設的にエスペラントを広めようという向きは、
もっと広がるべきだと私は思います。

現状では、古典的エスペラント運動のようなザメンホフ氏の意思を真摯に継いだ、
「Zamenhofチルドレン」のような(しかも当初のそれとは恐らく大分違うであろう)、
――つまり貴方様のような――方々が大部分を占めていて、空気が淀んでいると思われるので。

新鮮な空気を取り込むのも、エスペラントにとっては大分良いことと私は思います。


以上、外の人でした。

207KamelioJapana:2007/12/09(日) 08:41:01
「外の人」様

ご意見ありがとうございました。

特に、
>ああ、貴方様のことだから一応断っておきますが、統計データを求めたり、
厳密な定義や確固たる論拠などを求めないでくださいね。ここはそういう
おカタいとこじゃないでしょうし

そう言って頂ければ、私も暇な時に気楽に書き込ませてもらえます。

208papageno:2007/12/09(日) 14:00:17
ここは「エスペラント改造論」スレなので、本来の話題に戻しますが、2ちゃんねるのエスペラント関連スレなどでもよく見かけることですが、やはり根っからのヨーロッパ語であるエスペラントを少しでも「国際語」にするにはどんどん非ヨーロッパ語の語彙を取り入れて行くのも一つの方法かもしれません。

確かに着物とかカラオケとか俳句とか日本語のいくつかはエスペラントに取り入れられていますが、これらはエスペラントでなくてもいろんな言語で使われているものです。またこれらはすべて名詞です。そこでエスペラントに日本語の動詞を取り入れるのもいいかもしれません。例えば「食べる」。

Mi taberas nattoon.

とか、「しゃべる」

Ĉu vi ŝaberas Esperanton?

なんていかがですか?

209松戸彩苑:2007/12/09(日) 15:10:10
>>204
まさか私が「エスペラント運動の邪魔をしている」と思われてるとは思いませんでした。

たしかに私は、現在のエスペラント運動に対していろいろな批判を行なっておりますが、し
かしこれはあくまでも「現在のエスペラント運動のありかた」を批判しているのであって「エ
スペラントの存在意義」なんかを否定してるわけではないんですね。

だいたいエスペラントの存在意義を否定したいのであれば、わざわざ「エスペラントの辞書
を何冊も調べる」なんていう面倒くさいことをするわけが無いじゃないですか。

私が現在、エスペラントの団体にまったく所属していなかったり、エスペラントの雑誌をまっ
たく購読していなかったりするのは、自分の考えに集中するためなんですね。
編集に携わっておられる方たちにはたいへん申し訳ないのですが、私の場合、エスペラン
トの雑誌がチマチマと送られてくると、そっちに気が取られてしまって、自分の考えに集中
できないんですね。

それで、ここ数年はそういったものをすべて絶ってるという事であって、そのうちに再入会し
ても良いとは思ってるんですよ。

210松戸彩苑:2007/12/09(日) 15:11:30
>>209 の続き)

もっとも「批判は判るんだが、しかし日本語で書かれるのは迷惑だ」という考え方があるの
は、私にもよく判ります。
私も何ヶ月か前まではそのように考えていたのですが、しかし最近では、そうではないと考
えるようになりました。

KamelioJapana さんは「この掲示板の多くの意見を参照して、粗100%、Eに否定的見解
を持ってしまうと危惧」しておられるようですが、しかしあっさり言いますと、世間の人たち
はもともと、エスペラントに対して「肯定的見解」なんか持っていません。

それは「週刊金曜日」でさえも、UK横浜大会に関する記事をまったく載せなかったりといっ
た事からも判ることです。
これは要するに「週刊金曜日」の編集部の人たちでさえも「エスペラントの現在的な意義」
というものを認めていないという事なのだと思います。
認めたくはないでしょうが、これが現実です。

世間一般というのは、基本的にそういったものなのですが、しかしそういう世間のなかにも、
ときにはエスペラントに興味を覚えて、インターネットで検索する人もいるわけですね。
で、そういう人たちが、この掲示板にやってくる事もあるわけです。
この人たちがこの掲示板の書き込みを見て、どう思うでしょうか?

もちろん、人によっても違うでしょうけれども、彼らの多くは「エスペラントは昔は盛んだっ
たが、今は無くなった」と思っている場合が多いので、「意外と使用者がいるんだ」と思うの
ではないでしょうか。

それから、この「エスペラント改造論」のスレを見れば「エスペラントの表現力が予想以上
に高い」ということに気づいて驚くのではないでしょうか。
というのも、世間の人たちはエスペラントのことを「Basic English に毛が生えた程度のも
のだ」くらいに思ってるようだからです。
エスペラントをやったことのない人には「エスペラントの表現力がどの程度あるのか」なん
てことは判るわけがありません。
「エスペランティストたちはエスペラントのことを、学習容易でレベルも高いんだ、なんて言
ってるけど、そんなに良い事づくめであるならば、もっと使用者がたくさんいるはずだ」「広
まってないんだから、どうせ嘘なんだろう」くらいに思われてるのだと私は思うのですが、
「エスペラント改造論」のスレを見れば、日常生活で必要となる語彙・表現を網羅しようとし
ていることが判りますので、そういった誤解はかなり無くなると思うんですね。

むしろ、世間の人たちがこの掲示板を見て最も失望するのは、エスペランティストが「これ
までのやりかたは100%正しいんだ」と書いてることなんだろうと思いますね。

これまでにも何回も書いてきたことですが、エスペラントというのは世間においては、UFO
や幽霊に関する話よりも見聞きすることが少ないものなんですね。
だから世間の人たちからは「完全に失敗した」と思われてるわけですし、「週刊金曜日」の
編集者のような人たちからも相手にされないわけなんですが、そういった現実にまったく
気づかずに「これまでのやりかたは100%正しい」などと言ってるのでは、誰だって「お先
真っ暗だな」としか思わないと私は思うんですね。

エスペランティストたちは、エスペラントの世界にドップリと浸かっていて、日常的にエスペ
ラントの文章を読み、たまにはエスペランティストと会ったりするという生活を何(十)年も
続けていますので、そういう世間の感覚が完全に判らなくなってるわけですが、それでは
世間の人たちと話をしても噛み合わないんですね。

自画自賛みたいになってしまいますが、私は「エスペラントというのは、それなりによく出来
てるように思われるのに、どうして普及しないんだろうか」という疑問をいだきつつエスペラ
ントを勉強してましたので、エスペラント界の常識に単純に染まらないように注意していま
した。
それで、エスペラントの世界にも通じつつ、世間の人たちの感覚も保持する、ということが
出来たのだと思います。

ということで、今では私は、この掲示板において日本語でエスペラント批判を展開しても大
丈夫だろうと考えております。

(終わり)

211松戸彩苑:2007/12/09(日) 16:58:13
>>206
外の人さん、はじめまして。

エスペラントをやっておられない方のようですが、そういう方が私の文章を読んでくださっ
ているというのは、なんとも不思議な感じがしますね。

私も大いに励まされました。

212KamelioJapana:2007/12/09(日) 21:48:06
松戸様がEの有効性を認めていることを知って安堵しております。
今後も世間一般とE運動とを公平に見ていただいてコメントを頂けるものと期待して
おります。

そこで、私の意見と反論を少々述べさせていただきたいと思います。
まず、
>私の場合、エスペラントの雑誌がチマチマと送られてくると、そっちに気が取られてしまって、
自分の考えに集中できないんですね。

私も様々なEの機関紙や雑誌に埋もれており、時にはそれらが厭わしく思うこともあります。
殆どのものは、目を通すだけで、気に入ったり重要だと思われる記事の拾い読みだけで精一杯です。
購読会員の反対の非購読会員(年一回くらいの報告だけで雑誌は送らない)の様な類のものが
あってもいいと思ったりもします。
しかし、E運動へ私なりの出来るだけの貢献の一つということで、溜まっていく雑誌を横目で
見ながら、様々な会員資格を維持しております。

そこで、松戸様への提案ですが、UEAには年鑑会員(機関紙はなくて年鑑のみ配布)という
制度がありますが、そういった会員になっていただければ幸いに存じます。
すでに会員でおられるかも知れませんが。。。

次に、
>世間の人たちはもともと、エスペラントに対して「肯定的見解」なんか持っていません。
という言及ですが、
これは、誤解を生む表現、と言うより実態を反映していないものだと思います。
そこで次の様に言い換えては、如何でしょうか。

(世間の人たちはもともと、エスペラントに対して「肯定的見解」、「否定的見解」
を持つどころか、その前にその存在すら知らない人が多い。)

私がEについて話をした範囲では、そういう方が、特に若い方たちには圧倒的に多かったです。
そして、彼らの殆どは、Eについての説明を聞いて、これまた圧倒的に肯定的に受け止めて
くれた方が多かったです。

すなわち、この掲示板を訪れる人のことですが、私が言及したのはEにあくまで
「肯定的」な方のことです。何故って、これから学習しようとする人や、学習に
入ったばかりの人ですから。単に「Eはどうなったか。」という世間一般の一部の人のこと
ではありません。
それは、Kontekstoをお読みになれば、よくお分かりかと思います。

また、「Eはどうなったか。」という類の人が、この掲示板を読んでEを学習する気に
なる方は、まずいないでしょう。
勿論、これは、松戸様と私の感じ方の違いなのかも知れませんが。。。

213KamelioJapana:2007/12/09(日) 23:32:11
>>208
papageno様。
お気持ちは分かりますが、受け入れられるのは無理でしょう。
日本人以外の殆どの人には、文脈が無ければ理解されないでしょう。
また、文脈を把握できる人は敢えて特定民族で使われている動詞を新たに使用
することは、物好きか、余程、日本びいきの人で無い限り現れないでしょう。

でも発想は愉快ですね。

むしろ、日本特有の表現に限り広めるが好いでしょう。
例えば、 motajnas

Fordoni restajxon de la mangxajxo motajnas.

Estas motajne, ke oni mendas pli multe da sakeo ol efektive trinkas.

214松戸彩苑:2007/12/10(月) 01:07:11
>>212
> (世間の人たちはもともと、エスペラントに対して「肯定的見解」、「否定的見解」を持つど
> ころか、その前にその存在すら知らない人が多い。)
>
> 私がEについて話をした範囲では、そういう方が、特に若い方たちには圧倒的に多かった
> です。
> そして、彼らの殆どは、Eについての説明を聞いて、これまた圧倒的に肯定的に受け止
> めてくれた方が多かったです。

まぁ確かに、若い人たちの場合は「そもそも知らない」ということが多いでしょうね。
それは認めますよ。
しかし、年配者の場合は、けっこう知ってると思うんですよね。

たとえば「週刊金曜日」の場合ですと、2005年には、本多勝一氏とエスペランティストの
木村護郎クリストフ氏との対談が何回にもわたって掲載されてるんですよね。
これは本多氏が同誌に連載している「貧困なる精神」の枠内で実現したものですが、これ
は本多氏が熱心なエスペラント支持者であることから実現したわけですよね。
また「週刊金曜日」の編集委員のなかでは、佐高信氏もエスペラントの応援をしてるわけ
ですね。

そういうことがあるわけですから、「週刊金曜日」の編集部員もエスペラントを知らないわけ
ではないわけです。
(もっとも、最近、編集部員になった人だと知らないかもしれませんが、しかしそんなにゴッ
ソリと人が入れ替わるとも思えません)
しかしそれにも関わらず、UK横浜大会の記事は出なかったんですね。

「週刊金曜日」の編集委員のなかでも、筑紫哲也氏は、エスペラントに懐疑的な発言をした
ことがあります。
椎名誠氏の場合は、おじさんにエスペラントをやってた人がいたはずですが、本人がエス
ペラントについてどう思っているのかは判りません。
落合恵子氏の場合は、長谷川テルに言及したというのを確かRO誌で見たような記憶があ
るんですが、自信はありません。
石坂啓氏の場合は、エスペラントに言及したという話を見た記憶はありません。

また、RO誌には、日本国内の新聞・雑誌・書籍などに載ったエスペラントに関する記述を
集めた「El la japana gazetaro」というコーナーがありますが(今でもあると思いますが)、こ
れなんかを見ていても、「理想は素晴らしかったが、非現実的すぎて失敗した」ものの喩え
としてエスペラントが使われている事がけっこうあるんですね。
ということは、やはり年配者のあいだでは、それなりに知られているのだろうと思います。

また、最近私が読んだ『宗教学キーワード』(有斐閣 2006年)という本のなかにも

> エスペラントという「国際語」があった。この言語は、諸国民が平等の立場で交流すると
> いう理想を担って19世紀につくられた。いまや英語が事実上の国際語であるが、このこ
> とは、英語が母国語である人に有利過ぎ、また英語以外の母国語をもつ人にとって不利
> 過ぎる。こうした疑問をもった人が昔にもいたのだ。

(同書84ページ)

と書いてあります。
なお、この文章を書いた葛西賢太氏は1966年生まれだそうです。

また、1985年3月7日のニュースステーションにおいて「消えたエスペラントの謎」というの
を流したこともありましたしね。

それから忘れてならないのは「エスペランティストの家族や知人が、エスペラントに好意を
示してくれない」ということがごくごく普通にあるって事ですね。
彼らの場合は、はっきりと「知っているのに支持していない」わけです。

ということで、知らない人が多いのは事実ですが、しかし「知らないから支持してくれないの
だ」としか考えないというのは、はっきり間違ってると思いますね。

215松戸彩苑:2007/12/10(月) 01:14:36
>>212
私だって「エスペラントはすでに、かなりのレベルに達している」ことはちゃんと認めたうえ
で議論しているわけですよ。

それは、このスレにも折にふれて書いてきたと思うのですけどね。

216KamelioJapana:2007/12/10(月) 06:49:57
松戸さま。
仮令、どちらかと云うと左派的で理想主義に燃える人でもある程度の年齢までに
Eを実践する機会が無ければ、世界の現況から云って、肯定的にはなれないですよ。

勿論、極少数の例外は、常にありますかが。。。

それから、Eがいくら易しいと言っても大多数の民族語同様に現代社会において、
使用に耐える条件を満たしているものなら、易しさも程度問題ですから、一定の職業に
ついてしまってからは、殆どの人は火の中の栗を拾う行冒険はしないでしょうね。

私の知り合いの多くの人が、かっては、社会主義の理想に燃えてた方でも、リップサーヴィス
だけで、Eを学習することなど思いも寄らないことなのです。

それでも、若い人の中では、その係わり方しだいでEを始める人も出てきます。
こちらから、打って出るためには、その有効性を例証するために相当の時間を
費やす覚悟が要りますがね。
私の妻や娘がそうでした。

そういう訳で、兎に角、1にも2にも少しずつでも良いからEsperantujoの量的、質的
な拡大のみです。時代によって、また人の意識も変わってきますから。。。

世界や日本の政治も、昨今、変わりつつあります。そのうちEにとって良い兆候も
現れて来るでしょう。世間の移り変わりの激しい表面的様相に惑わされてぶれない
ことも必要です。

217papageno:2007/12/11(火) 18:01:59
まあよく考えてみれば、ほぼ100%ヨーロッパ語であるエスペラント自身を「国際化」できもしないくせに、エスペラントを国際共通語にしようなんて、おこがましいと思いませんか?

218Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/13(木) 15:38:31
はたからみて思ったものの、ここってあまりコンテンツ創造とかする人がいませんね。
読み物を書いたり、絵を書いたり、まとめサイトっぽいものや英訳とか。
そもそもひたすらエスペラント掲示板なのに「ひたすらエスペラントで話すスレ」がないのも、
やっぱり、言語自体に需要がないことの証左かなと思ったり。

(エ)konjekte, humanoj en la afis^ejo pensas polemiko de teologio havas pli valora ol polemiko de lingvistiko.
  推量するに, 人間ら 中 the 掲示板 考える 議論 の 神学 持つ より 価値 よりも 議論 の 言語学

(英)The humans in this BBS seem to think that a theological argument has value than the linguistic argument.

(ア)lun kaen slei tu os-e mirs e mirfol van mirs e eldfol av-e xad in
  人間 での 掲示板 これ 考-る 議論 の 神学 > 議論 の 言語学 持-つ 価値 らしい

(日)この掲示板における人間らは神学の議論が言語学の議論よりも価値を持つと考えるらしい。

>>217
そういう人はノシロがお勧め。逆に分かりにくくて驚くかも。

219Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/13(木) 16:02:13
(エ)atmosfero de la Nos^ilo similas al la Esperanto c^ar c^i tio estas lingvo internatia.
(英)the atmosphere of Noxilo resembles Esperanto because it is an international language.
(ア)xalte e Noxilo et kik al Esperanto man tu et kadrakeld.
国際語だからノシロの雰囲気はエスペラントに似ている。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~noxilo/

どちらもなんとなく胡散臭い宗教臭が・・・・・・・。

まぁ、アルカも遊びのわりに宗教臭はするけど。
arka@wiki http://www33.atwiki.jp/kakis/

人工言語一般の議論はこちら
人工言語憩いの場 http://yy59.60.kg/conlang/

220Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/13(木) 16:05:49
ちなみにノシロ語の掲示板はこっち http://6713.teacup.com/xangaaukeet/bbs

221KamelioJapana:2007/12/14(金) 10:14:21
>ここってあまりコンテンツ創造とかする人がいませんね。

この掲示板の役割はある程度限定されたものです。
Kakis様がお知りにならない音楽から文芸に至るまでEのサイトは沢山存在しています。

それに今の処は、機関紙や文芸誌がそのような分野をカヴァーしています。

222KamelioJapana:2007/12/14(金) 10:47:00
>それに今の処は、機関紙や文芸誌がそのような分野をカヴァーしています。

大変、失礼な書き込みをしてしまいました。
機関紙や文芸誌、それからE書籍等があくまでCxefrolajxojです。

223Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/14(金) 22:36:14
Cxefrolajxojといっても素人はどこが区切りめだか分からなかったり。
たぶんメインコンテンツという意味だと思いますが。

北海道エスペラント連盟のアイヌ神話のエスペラント訳は評価できる活動だと思いました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~hel/jukaroj.htm

224papageno:2007/12/14(金) 23:37:43
>>217
プラハ宣言で、「エスペラントの共同体にとっては、言語の多様性は尽きることなく欠くことのできない豊かさの源泉である。」と高々と謳(うた)っておきながら、
http://www.jei.or.jp/hp/materialo/prago_j.htm
エスペラントの基本的語彙に非ヨーロッパの言語を取り入れようというような話は全く聞いたことがありません。

この宣言に一体何の意味があるんでしょうね?

225papageno:2007/12/15(土) 03:08:22
>>224
自己レスですが、改変不可の「エスペラントの基礎」には文法だけでなく基本語彙も含まれるんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AE%E5%9F%BA%E7%A4%8E

これではエスペラントを非ヨーロッパ化するのは難しいですね。「憲法改正」が必要かも。

226Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/15(土) 10:22:15
>>225
新語を自由に幾らでも作って使ってもいいですよ。根本的に勘違いして
らっしゃるようですね。

227papageno:2007/12/15(土) 17:38:41
>>226
新語じゃないんですよ。たとえば「顔」は vizagxo で、これは「エスペラントの基礎」(Fundamento de Esperanto)で定められた改変不可の単語ですが、これをたとえば日本語の kao に置き換えようということです。
私は改変不可なのは文法だけだと思っていたのですが、「エスペラントの基礎」にある基本語彙も改変不可なんですね。

228Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/15(土) 21:23:46
>>227
お好きなようになさったらいいのです。誰の許可も要りません。

229papageno:2007/12/15(土) 21:44:30
>>228
>誰の許可も要りません。

確かにその通りですね(笑)。

230Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/15(土) 21:56:53
エスペラントは、別に非欧米化の必要はないと思いますが。
いろいろ混ぜても混乱しますし。っていうか現状でもかなり混ぜすぎという感じがします。
どうせならゲルマン系とスラブ系は排除して、ラテン系語彙だけでやってくれたほうが統一感があります。
混ぜれば確かに、日本語由来語も増えますが、
どちらかというとスワヒリ語やナヴァホ語やスー語などのよく分からない言葉が多すぎて日本人にとっても、
欧米人にとっても、アフリカ人にとっても分かりにくいことに。
どの民族にとっても分からない語彙が99%というのは、もはや暗号と同じです。
それに、言語の数は1万近くあるわけで、全てをカヴァーするのは不可能に近いものです。
混合されてない言語の話者にとっては逆に不公平感が増して訴えられますし。
それに、世界中の言語の単語を入れようとすると母音の数は5では足りずに20以上要りますし、
子音も100近く、それに声調も強弱でなく8パターンあって、クリック音などのレア音も出るなど凄まじいカオスに。
それだったら、現状のそこそこ統一感のある語彙体系でいくか、
全て自然言語に由来しないオリジナルの単語で作られた人工言語を作るかの2つに一つ。

と、セレン氏のノシロ批判を思い出しながら書いてみる。

231Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/15(土) 22:04:04
不満があるときは、自分で作るのが一番早いらしい。

人工言語の作り方 http://lanxante.higoyomi.com/rcp.html

232なつ:2007/12/16(日) 04:58:29
父をpatricxoとするのは憲法違反にあたるんでしょうかね?
それとも許容範囲なんですかね?

233KamelioJapana:2007/12/16(日) 06:49:07
Kakais様。
私は、貴方の知識を高く評価いたしております。
が、行く道が違うのでしょうね。
まあ、お好きに書いてください。

人口言語の完成品を追い求めるのも好いのですがね。
現実の世界では、不可能に近いことですよ。ソモソモ、人間自体お互いの不完全
さの中で大多数の人たちは相対主義的に生きているのですから。。。

でも、あなたの師事(それとも支持の方かな)するセレン氏は、なるほど、アルカ
の創作という点では類稀な発想を示したかも知れませんが、人間的には私は許せませんね。

彼の私に対する以下の言動で彼の作品の評価は将来性において致命的打撃を被ったと
思いますよ。

以下、長くなりますが彼の言葉の引用です。
「>Kamelio 投稿者:セレン 投稿日:2007年11月 6日(火)22時29分3秒
あと、Kamelio。
まだこの板に張り付いているだろうから言っておく。

この場所はお前にとって不利だ。正直言ってここでお前を叩くのはフェアじゃない。
気に喰わない。
だから、続きがやりたいなら場所を移せ。そして真っ向から俺狙いで来い。
その代わり黒田さんたちの憩いの場を壊すな。

俺は喧嘩早いが、喧嘩する相手は常に男だ。しらんだろうが俺はKakisさんや黒田さんとも
派手に喧嘩したことがある。特に前者。
でも喧嘩したのは相手を対等に見ているからだ。実生活でもネットでも見事に一致していて、
俺は一度やりあった相手じゃないと仲良くなれないようでね。

その観点からいえばお前は喧嘩の相手にならない。はっきりと見下してるからな。
でもそれは俺だけじゃないと思う。お前のその態度じゃどこにいっても同じだよ。
周りがこれ読んで反論すればと色々教えてくれてるのにさ、お前は一度も聞かなかったよね。
それで自分の好きな玩具を手にとって「ほら見てよ見てよ」って、そんなに誰が見る?
お前、画面の向こうでそうやって暮らしてるのか?それでエスに流れ着いたのか?

違うだろ、そのやりかた。少なくとも合ってはないだろ。
今のお前じゃ俺はおろかここにいる人間からみて喧嘩相手にすらならない。
だがここ2週間くらいの付き合いで何となく情が移ってしまったから、忠告しておく。

別にエスをどう言おうと、本質的にここの人間は否定しないと思うよ。
問題は人のレスを反映しないことや人の言うことを聞かない態度にある。
これ以上お前がその態度を続けるなら、エスももうお前のことは面汚しにしか思わない
だろうし、こちらも見下げ果てるだけだ。そうなったらお前は名前を捨てて
どこかへ行くのか?それでいいのかよ、カメリオ。よくねえだろ。
考えろ。自分の曖昧さや甘さに辟易するが、俺はお前が歩み寄りを見せれば受け入れてやる、
今度は敵としてな。以上。」

独りよがりは、セレン氏自身ですね。私について、ネット以外でどのような情報を
得ているのか知らないが、自己中もいいとこですな。
まあ、kakis様以外この掲示板の参加者には前後の脈絡がないので分からないと
思いますが。。。
少なくとも、突然予告もなくこういう言動をする人がアルカ語の将来を担って
いけるのでしょうか。
尤も、他のkasxnomoで似たような言動があった様ですけど。。。

234松戸彩苑:2007/12/16(日) 07:26:26
>>232
別に構わないように思いますね。
もっとも、エスペラントがよく出来る人にはスンナリと通じるでしょうが、初心者だと判らない
と思いますが。

しかし、patr- に -iĉo を付けるのは「性差別を減らすのに役立つ」とお考えになってるの
でしょうけれども、そういうことを考えるのであれば、そもそも「母」という概念を表わすのに
patr-(父)という語根を使っているという時点ですでにダメだと思うんですよね。

それから、「男性形から女性形を派生させる」というのは、別にエスペラントに限ったことで
はなく、ドイツ語やフランス語などでもそうなんですね。
もっとも、さすがに「母」を「父」から派生させる、などという事はありませんが、日本語であ
れば男女に関係なく「学生」というところでも、ドイツ語では Sch&uuml;ler(男子学生)、Sch&uuml;lerin
(女子学生)、フランス語では &eacute;tudiant(男子学生)、&eacute;tudiante(女子学生)と必ず区別して
いるんですね。
ということで、この点では、日本語のほうがドイツ語やフランス語よりも「性差別が少ない」
という事になりますが、しかしだからといって、日本と比べてドイツやフランスのほうが性差
別が激しいというわけでも無いんですね。

もちろん私も、エスペラントにおいて、必要なとき以外は、性別を表わさないようにしたほう
が良いとは思っています。
要するに、student-ino のような言い方は、必要なとき以外はしないという事です。
しかし、こういったことに過剰にこだわるというのも、どうなのかな、と思うんですね。

235松戸彩苑:2007/12/16(日) 08:01:31
  papageno さんへ

「エスペラントの基礎的な部分を、日本語から採用した単語と取り替えたらどうか」というお
話ですけど、しかし、そのように考えるのであれば、どうして中国語・ヒンディー語・アラビア
語・ベンガル語・インドネシア語などからは単語を採用しないのかと思いますね。

Kakis Erl Sax さんが >>218

> そういう人はノシロがお勧め。

と書いておられますが、私もノシロが papageno さんの主張に近い言語だと思いますね。
ノシロなら、世界各国の言葉から単語を採用していますし、また語順も、日本語式・英語式
の両方が使えるんですね。
また「語尾が変化する」ということも無いみたいですから、きわめて合理的だと思うんですよ
ね。

ここでノシロに対する私の意見を紹介しておきますと、(単語の憶えやすさは別として)コン
セプト自体はかなり優れていると思うんですよね。
しかし困ったことに、創始者である水田氏が、ノシロで書いた文章を発表しないんですね。
水田氏がノシロの文章をどんどん発表すれば、それなりに支持者が出てくるんじゃないか
と思うんですが、そういう事をするつもりは無いみたいですね。

私は以前、この掲示板に「いろんなタイプの人工語があったほうが良い」と書いたことがあ
ったんですが、それは、人工語に求める要素というのは人それぞれであり、これを統一す
ることは絶対に不可能だと考えているからなんですね。

もちろん、エスペラントの改造について論じること自体がいけないわけではないんですが、
しかし papageno さんの主張を実現するという場合には、エスペラントを改造するというの
は、かなり効率が悪いことのような気がします。

236papageno:2007/12/16(日) 09:23:40
>>235
>どうして中国語・ヒンディー語・アラビア
語・ベンガル語・インドネシア語などからは単語を採用しないのかと思いますね。

いや、単に私が日本語と多少の韓国語以外知らないというだけの話で。それと
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1167391996/584
に書いたように、日本人にとっては、エスペラントの基本語彙に日本語の語彙が入っていたらもっとエスペラントに親しみが持てるのではないかと思って提案しているのであり、より優れた人工言語を作ろうという発想で言っているのではありません。エスペラント以外の人工言語に今の所特に興味はありません。

それとそもそもは2ちゃんねるのエスペラント関連スレ(これは私にとって「尽きることなく欠くことのできない豊かさの源泉」ですが)でいろんな人が言っていることの受け売りにすぎません。例えばこの辺りとか
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gogaku/1187078117/113-117

さらにノシロよりもずっと前にこのような非ヨーロッパ系の言語を取り入れた人工言語案はありました。1927年にチェコスロヴァキアのミルネルという牧師が「コスマン」という言語案を発表しましたが、それは語彙の30%を中国語、アラビア語、ヒンディー語から採用したということです(二木紘三「国際語の歴史と思想」より)。

237松戸彩苑:2007/12/16(日) 11:15:13
>>236
> 世界中の非ヨーロッパ人エスペランティストが、自分の民族語を取り入れたエスペラント
> を作って、共通エスペラントと併用してみる。そのうち各エスペラント方言から共通エスペ
> ラントにいろいろな語彙が採用されるようになって、やがていろんな言語が程よく配合さ
> れたミックスジュースができるかもしれません。

ノシロなんかは「いろんな言語が程よく配合されたミックスジュース」だと思うんですけどね。
どこが違うんでしょうかね?

言語について勉強すると判るのですが(もっとも、私もシロウトなんですが)、標準語という
のは、自然に出来たり、あるいは自然に広まったりはしないものなんですね。

日本語だけではなく、英語・ドイツ語・フランス語・中国語なんかの標準語も、かなりのてい
ど人為的につくられたものであるらしいです。

また、社会には政治的・経済的・文化的な優劣というものがありますが、優位にある言語
が劣位にある言語を駆逐・破壊しつつ、広まったり統一されたりするんですね。
逆に、そういった優劣が無い(あるいは少ない)と、統一されずにバラバラなままなんですね。

もっとも、エスペラントの世界でも、このあたりのことが判ってない人が多いんですね。
ですから、いまだに「エスペラントは自然に発展し、統一もされていくんだ」などと信じられ
ているんですが、実際には、そううまくは行ってないんですよね。

そもそも、こんなことを言い出したのはザメンホフなんですが、結局ザメンホフ自身が誤解
してたって事なんですね。
でも、ザメンホフは19世紀なかばに生まれて20世紀初頭に亡くなった人ですので仕方が
ないのでしょうが、21世紀を生きてる人たちが、こんなことを信じていてはいけないと思い
ます。
---

ところで現在でも「日本独自のものを表わす単語をエスペラント化する」というのは認めら
れているわけですね。
こういったことは(中国文化圏・インド文化圏・アラビア文化圏などに特有な事物のエスペ
ラント化と同時並行的に)どんどんやっていくべきなんですね。

たとえば「コタツ」を表わす単語として kotaco という新語根が提案されていたりするわけで
す。
こういうのは、あんまり使われてはいないわけですが、しかしその一方で、批判する人も
(ほとんど)いません。

で、私も「やっぱり kotaco って言い方しか無いんだろう」と思っていたんですね。
しかし最近、Wikipedia で各国語の「コタツ」の表現法を調べていたんですが、中国語のペ
ージに「暖卓」って書いてあるのを見て hejt-tablo と表わすことが出来るということに気づ
いたんですね。

とは言っても、私は「kotaco を使うべきではない」とまでは思いません。
hejt-tablo と kotaco の両方を使えば良いと思います。

(終わり)

238松戸彩苑:2007/12/16(日) 11:59:06
>>237 に補足しますが、中国にはコタツは無いみたいですね。
「暖卓」というのは、あくまでも日本のコタツを表わす表現として作り出されたもののようで
す。

239なつ:2007/12/17(月) 03:36:35
母語の語が少し入って親しみがわくからって理由だけでノシロみたいな
しろものは語が覚えづらいだけですね。
しかも語が採用されない母語話者は必ずいるもので、
ノシロはそれを考慮していず逆に差別を生んでいると思います。
エスペラントが素人がヨーロッパしか考慮せず作ったおかげで
逆に統一性があるし、
インド・ヨーロッパ語族の母語話者、第一外国語学習者が
より容易に覚えることができます。
もちろん我々日本人も英語を学んでいるので、
フィリピン語やアラビア語の要素のないエスペラント
をむしろより容易に覚えることができるのです。

240KamelioJapana:2007/12/17(月) 06:57:08
>>239
簡潔で分かりやすいです。

まさに英語は、諸刃の剣で、皮肉なことにEの普及の下地作りには貢献しているわけです。

241Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/18(火) 00:16:06
前後の脈略というと以下のurlの2007年10月18日(木)05時17分58秒以降の記述をご覧ください。
http://8511.teacup.com/conlangarchitect/bbs?OF=1200&amp;BD=2&amp;CH=5&amp;REV=1&amp;REV=1

それの前段階として、エスペラントよろず掲示板のキャッシュをみると分かりやすいようです。
http://www33.atwiki.jp/kakis/archive/20071022/f439316f18cb0c7d33cb76e621526a0e
http://www33.atwiki.jp/kakis/archive/20071022/0aca6ed2f92b1702d75d37790d327c38

→相当都合が悪いと思われる通時論発言が削除されたキャッシュ。
http://www33.atwiki.jp/kakis/archive/20071023/0aca6ed2f92b1702d75d37790d327c38

たぶん、この発言が真理過ぎて禁句だったらしい。
よくよく考えると、人工言語はプログラム言語やシソーラスや分類法の素地となる
近代科学技術の素地となったオカルトチックな魔法技術だというのに気付いている人は少ないようです。
そして、錬金術のように未だに水銀と硫黄で金を作ろうとしているのが国際補助語運動だとか・・・・・・。
国際補助語目的というのは人工言語としての用途が間違っているというのが、新生人工言語論の主張。

>錬金術は金を生み出しませんでしたが、様々な化学物質と近代化学を生み出し、
>人類に大いなる恵みをもたらしました。
>人工言語はアダムの言語・普遍言語・国際補助語を生み出しませんでしたが、
>シソーラスと図書館分類法とプログラム言語を生み出しした。
>人工言語は錬金術と同じく近代科学を生み出したオカルト的な事物。
>錬金術は科学者からは、水銀と硫黄と血液なんかで金を作れるものかと
>冷笑されてもフィクションの世界で生き残り、
>人工言語も軍事力も財力もなしに普及できるものかと、
>言語はすべからく変化するもので統一は速やかに損なわれると、
>文化や語法の厳密な設定なしに誤解のないコミュニケーションが出来るものかと
>言語学者に冷笑されつつも映画・テレビ・小説などのフィクションの世界で輝きを放っています。

242なつ:2007/12/18(火) 01:25:34
>>241
あなたが何をしたいのか分かりかねるが?

243なつ:2007/12/18(火) 01:39:06
>>242
は申し訳ない。削除します。

244Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/18(火) 12:07:08
>>242
とりあえず、暇つぶしがしたいと思っているかも。
この手の神学論争は好物なので。
いろいろ争いの種をばら撒いた方が、人工言語界もエスペラント陣営も盛り上がって、
読んでいて楽しいので。

命数法みたいに批判記事みたいなのを書いて、それが誤解だったら、
その説明のレスが付いたりして、勉強になって面白いというのもあります。

245松戸彩苑:2008/01/19(土) 17:25:59
私は >>178 に「girl hunt は和製英語」と書きましたが、長村キット(著)『こんなときどう言
う英会話辞典』(1999年 講談社)という本の163ページに

  ナンパする Look for action. Go trolling. (Girl hunt という表現はもうふるくさい言い方
  です)

と書いてありました。
つまり girl hunt という表現は「かつては英語圏で使われていた」が「今では使われていな
い」ものだったんですね。

この本の著者は、ブラウン大学を卒業したアメリカ人女性で、日本の大学で英語の講師を
したり、英字新聞に寄稿したりしているらしいので、信頼できると思います。

246松戸彩苑:2008/02/11(月) 16:19:57
私はかつて >>24 において「ses と sep は耳で聞いて区別しにくいから、sep を hep か ep
にしたらどうか」と書きましたが、ついさっき『エスペラント日本語辞典』を見てましたら、偶然
に次のような記述を見つけたんですね。

  sepen (数)(俗) 七 〔本来の sep(七)が ses(六)と聞き誤りやすい場合に区別するた
  めに用いる〕.

で、NPIVを調べますと、やはりあったんですね。

  sepen ≪Sep≫ en la slango de la radioamatoroj, uzata por ke la aŭdanto ne konfuzu
  kun ses.

ひょっとすると旧版のPIVにも載っていたのかな?と思って調べてみましたが、旧版のPIVと
その補遺には収録されていませんでした。

また、『Neologisma glosaro』(第2版)と『Nepivaj vortoj』(第1版)も調べてみましたが、これ
にも載っていませんでした。

247松戸彩苑:2008/02/23(土) 03:30:28
みなさんは -enzo という接尾辞をご存知でしょうか?
これは kolor-ig-enzo(着色料)のように使われます。
つまり -enzo は「〜する薬物」という意味なんですね。

今までですと kolor-ig-ilo あるいは kolor-ig-anto のように言うこともあったわけですが、
これだと「着色する際に用いる道具(たとえば刷毛やスプレーなど)」や「着色している人」
と区別がつかないという問題がありました。
ですから、それらとの混同を避けるために、新しい接尾辞を導入したってことなんですね。

この接尾辞はまだあまり使われていなくてNPIVや『エスペラント日本語辞典』にも収録され
ていませんが、しかし私は、とても役に立つものであると考えています。

だいたい「着色料」なんてものは(文明社会に住んでいるふつうの成人ならば)誰でも知っ
てるわけですし、これがすんなり表現できないと、食の安全について話すことも出来ないわ
けですからね。
---

この -enzo という接尾辞が提案されたのはかなり以前のことらしくて、私の知るかぎりで
は1988年に出版された『Esperanta Bildvortaro』に載ってるものがいちばん古いんですね。
(しかし初めて提案されたのは、もっと前だと思います)

巻末の索引を見てみますと、ここには kolorigenzo も載ってますし、それ以外にも

mal-varm-ig-enzo  冷媒
aglomer-enzo  (アスファルト舗装をするための機械のなかで使うものらしいですが、それ
           以上のことは判りません) 196/53
blank-ig-enzo  漂白剤
buŝ-freŝ-ig-enzo  洗口液
dilu-enzo  希釈液、薄め液、シンナー
kontraŭ-lik-enzo  (正式な名称は判りませんが)ガス漏れを防ぐための薬物 148/60
makul-for-ig-enzo  しみ抜きのための薬品
moder-ig-enzo  減速剤
rivel-ad-halt-ig-enzo  現像停止液
sen-infekt-ig-enzo  消毒薬、殺菌剤
tip-pur-ig-enzo  タイプライターの活字をきれいにするための薬品
ungo-lak-for-ig-enzo  除光液、ネイルリムーバー
veld-enzo  (正式な名称は判りませんが)溶接に使う薬物 135/45
vulkaniz-enzo  加硫剤
oksid-enzo  酸化剤
solv-enzo  溶剤

といったものが載っています。

一般人でも知ってるものもあれば、専門家以外には必要が無さそうなものもありますね。
---

それから『Akademiaj Studoj 1988-1990』の276〜300ページに収められている Doug Po-
rtmann(執筆)「Listo de novaj terminoj ― precipe kemiaj ― uzataj en projekto "ĜOBK"」
という化学用語のエス訳語を提案する論文のなかにも -enzo を使った用語がいくつか出て
きます。

adher-enzo  接着剤、粘着剤
adstring-enzo  収斂剤
desinfekt-enzo  消毒薬、殺菌剤
for-pel-enzo  防虫剤
frid-ig-enzo  冷媒
humid-ig-enzo  湿潤剤
indik-enzo  指示薬
inhib-enzo  防止剤、阻止剤
mal-streĉ-enzo  弛緩薬、緩下薬
oksid-iĝ-inhib-enzo  酸化防止剤
polu-enzo  汚染物質
re-ag-enzo  試薬
solv-enzo  溶剤
trac-enzo  トレーサー
kataliz-enzo  触媒
konserv-enzo  保存料
dilat-enzo  拡張薬
frost-ig-enzo  保冷剤

やはりこちらは、一般人には馴染みのないものが多いですね。

248松戸彩苑:2008/02/23(土) 03:35:48
>>247 の続き)

また、1995年に出版された Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dic-
tionary』の巻末には、この辞書において新たに導入された新語をまとめて紹介しているペ
ージがあるんですが、このなかに -enzo があります。

  -enzo, (nacilingve, "-ence" k.s.), teknika sufikso indikanta substancon kiu plenumas
  la agon de la radiko (ekz-e: halucinenzo, solvenzo, rivelenzo)

  (同書599ページ)
---

考えてみれば、食品に添加されてるのは「着色料」「保存料」「酸化防止剤」だけではない
んですね。
この他にも、調べてみますと「乳化剤」「pH調整剤」「増粘剤」「発色剤」なんてものも入って
たりするんですね。

『エスペラント日本語辞典』を調べてみますと「乳化剤」については emulsiilo というのが載っ
ています。
しかしこれも emulsi-enzo としたほうが良いように思いますね。

この辞書には、残りの「pH調整剤」「増粘剤」「発色剤」は載っていません。
---

また、大きなドラッグストアやホームセンターなどに行きますと、実にさまざまな化学製品が
並んでいるわけです。

思いつくものを挙げてみても「整髪料」「育毛剤」「入浴剤」「入れ歯安定剤」… などがある
わけですね。

「整髪料」は har-aranĝ-enzo、「育毛剤」は har-nutr-enzo とでもすれば良いと思います。

しかし「入浴剤」「入れ歯安定剤」は何と表現すれば良いですかね?
ちなみに英語では bath additive、denture adhesive と言うらしいですが。
---

いずれにしましても、-enzo という接尾辞はNPIVや『エスペラント日本語辞典』には載って
いませんが、しかしすでに複数の文献において使われてるものであり、また実際に役に立
つものだということがお判りになったことと思います。

現代の文明社会においては、さまざまな化学製品が日常生活のすみずみにまで入り込ん
でいますから、-enzo のような接尾辞も必要だというわけですね。

なお、先述の『Akademiaj Studoj 1988-1990』所収の Doug Portmann 氏の論文には -ezo
という接尾辞も出てくるんですね。
これは、-enzo が「〜する薬物」を表わすのに対して、「〜される薬物」を表わすんだそうで
す(同書295ページ)。
ここには -ezo を使った語は solv-ezo(溶質)しか載っていませんが、こういう表現も専門
家には必要なのだろうと思われます。

(終わり)

249松戸彩苑:2008/03/09(日) 11:59:36
今回は、私がいかにして「エスペラントにおいて不足・混乱している語彙・表現」を見つけだ
しているのか、ということについてお話してみようと思います。
---

とは言っても、それは簡単です。

たとえば街を歩いていて電光掲示板があるのに気づいたら「電光掲示板ってエスペラント
ではどう言うんだろう?」と考えるわけです。
で、判らなかったら、あとで調べるために、メモ帳に「電光掲示板」と書いておくわけです。
また、そのときに自己流の造語が思いついたら、それも当然メモしておくんですね。

このほかにも、街のなかで見かけた言葉や文章、あるいは通りすがりの人たちの会話の
なかなどにも「これはエスペラントでどう表現するのか?」と思わせるようなものがあります
ので、そういうものをメモしておいて、あとで調べたり、自分だったらどう表現するかといっ
たことを考えたりするんですね。

当然のことながら、そういったものは私がつねづね申し上げているような「現代の文明社会
に住んでいるふつうの成人であれば、誰でも知っているような物・事を表わす語彙・表現」
を最優先にすべきなんですね。
そういうものであるかどうかということを考える必要があります。

それからいちおう言っておきますと、こういった作業を生真面目にやっていたのでは、日常
生活ができなくなりますから、時間のあるときに、たまたま気づいたものだけをメモしていけ
ば良いんですね。

私は「現代の文明社会に住んでいるふつうの成人であれば、誰でも知っているような物・
事を表わす語彙・表現」を整備すべきであると申し上げてはおりますが、べつに、こういった
語彙・表現を「すべて」作ろうだなどとは考えてないんですね。

ひとりひとりの出来る範囲内でやれば、それで最善を尽くしたと言えるだろうし、その程度で
あってもエスペラントの発展におおいに寄与すると思うんですよね。

ということで私は10年以上にわたって、つねにA6判(文庫本サイズ)のノートと、黒・赤・青
のボールペンを持ち歩いています。
---

このほかにも、エスペラントの本を読んだり、あるいはエスペラントで誰かと話をしているとき
などに、エスペラントの問題に気づくことがあります。

たとえば、例はちょっと古いのですが、たまたま私の手元にある「El Popola Ĉinio」1990年
8月号の36〜37ページに「Hejmo de pentristoj」という記事があります。

この記事は、中国のとある芸術家が、詩人・画家・書道家などのためのセンターを作ろうと
思い立って努力した結果、数百人の芸術家が集まって活動するようになったという内容なん
ですが、このなかに

  Poste, ili kunlabore kun aliaj eldonis la bildlibron kun poeziaĵo "Granda Muro".

って書いてあったんですね。

で、私は最初「絵本を出版したのか」って思ったんですが、しかしよく考えてみますと「万里の
長城という詩が載っている bildlibro」って書いてありますので、これは子供むけの「絵本」では
なく「(書)画集」のことなのかなぁって気もしたんですね。

この本が実際にはどっちなのかは判らないのですが、しかし少なくとも、エスペラントでは「絵
本」と「画集」との区別がアイマイなのではないかということは判ったわけです。
---

ということで、こういった作業をみんなで(できる範囲内で)やっていけば良いと思いますね。

(終わり)

250松戸彩苑:2008/03/09(日) 14:02:37
エスペラント界の常識には、よく考えてみると、おかしいものがたくさんあります。

たとえば、最近では「民族語の標準語には、あるていど人為的に作られた部分がある」と
言われるようになりました。
これは事実であって、言語学の本などを見ても、そういったことが書いてあったりします。

一方、エスペラント界では昔から「エスペラントというのは、使っているうちに自然に発展し
ていく」と言われてるんですね。

で、この2つの説を組み合わせると、おかしなことになります。
つまり

  自然語(の標準語)には人為的に作られた部分があるのに、人工語(であるエスペラン
  ト)は自然に発展する。

もっと単純化しますと

  自然語には人工的な部分があるのに、人工語は自然に発展する。

ということになってしまって、何ともヘンなわけです。

で、どちらかがおかしいという事になるわけですが、これはもちろん「エスペラントは自然に
発展する」というほうが間違ってるんですね。

エスペラントの歴史をみてみれば、エスペラントというのは(ザメンホフをはじめとする)欧米
の主要言語とエスペラントに堪能な人たちによって「人為的に」作られてきたものなんです
ね。

そもそもエスペラントというのは、合成語をつくるにしても、新語根を導入するにしても(民族
語とは違って)「論理性」とか「国際性」といったものを考慮しないといけないわけですから、
民族語の標準語以上に人為的に作っていかないと、とても「論理性」や「国際性」を維持し
ながら発展させることは出来ないわけです。

こういう事にまったく気づかないまま、エスペランティストたちは今でも「エスペラントは使って
いるうちに自然に発展していくんです」などと宣伝しているわけですが、言語学者がこれを見
聞きすれば「やっぱりシロウトだな」「これじゃあダメだ」と思うでしょうし、また一般の人たち
にしても「人工語は自然に発展する」という理屈に何となく胡散くささを感じるのではないでし
ょうか。

(終わり)

251松戸彩苑:2008/03/29(土) 12:16:52
『エスペラント日本語辞典』の dividi の副見出しのところに labor-divido という合成語が載
っていまして「分業、作業分担、ワークシェアリング」という訳がついています。

一見しますとこれで良いように思われるかもしれませんが、しかし考えてみますと「分業」と
「ワークシェアリング」というのはまったく異なるものなんですね。

分業というのは「能率を上げるために、一人一人の仕事の内容を特化する」ということです。
一方、ワークシェアリングは「一人あたりの労働時間と賃金を少しずつ減らして、雇用の機
会を増やす」ことなんですね。

英語では「分業」は division of labo(u)r、「ワークシェアリング」は work-sharing、フランス語
では「分業」は division du travail、「ワークシェアリング」は travail partag@、そしてドイツ語
では「分業」は Arbeitsteilung、「ワークシェアリング」は Arbeitsaufteilung または Arbeits-
umverteilung と言うようです。

つまり、英・仏・独語(そして日本語)においては「分業」と「ワークシェアリング」を異なる表
現で表わしているんですね。
こういったことを考えますと、やはりエスペラントにおいてもこれらを区別しておいてほうが
良いと思います。

しかし今のところ、私にも適当な案はありません。
ふだん「エスペラントの造語力」を力説されている方が良いアイディアを出してくださることを
期待しております。

(なお、NPIVには labor-divido は収録されていません)

252松戸彩苑:2008/03/29(土) 12:19:05
>>251 に訂正。

travail partag@ → travail partag&eacute;

253松戸彩苑:2008/03/29(土) 12:56:03
『エスペラント日本語辞典』の verŝi を見てみますと「つぐ、そそぐ、こぼす、流す」と書いて
あります。
しかし、よく考えてみますと「つぐ」と「こぼす」はぜんぜん違うものなんですよね。
やろうとしてることは同じなんですが、結果が徹底的に違うわけです。

エスペラントって「つぐ」と「こぼす」の区別もつかないのか?と思いながら、今度は Benson
の英エス辞典で pour と spill を調べてみたところ、pour のところには verŝi と書いてある
んですが、spill のほうには dis-verŝi と書いてあるんですね。

私はアレっと思って、次に Wells の辞書の英エスの部の pour と spill の項を見てみたんで
すが、やはり同じなんですね。

で、最後にNPIVを見てみますと、verŝi のほうには「〜i vinon el botelo en glason」「〜i bo-
lantan akvon sur teon」といった用例が載っているのに対して、dis-verŝi の項には「dis〜i
inkon sur paperojn」「dis〜i saŭcon sur tablotukon」といった用例が添えられているんです
ね。

ということで、どうやら国際的には「つぐ = verŝi」「こぼす = dis-verŝi」というのが定着し
ているのに、日本のエスペランティストはそれに気づいていないらしいということが判りまし
た。

ちなみに『エスペラント日本語辞典』にも dis-verŝi は収録されているのですが「〈液体を〉
まき散らす」となっています。

たしかに細かいニュアンスは、なかなか判りにくいだろうとは思います。
しかし私に言わせれば、「つぐ」と「こぼす」というものはまったく違うということくらいには気
づいても良かったんじゃないかと思うんですね。

254松戸彩苑:2008/03/29(土) 13:00:39
>>253 に訂正。

4行目の「やろうとしてることは同じなんですが、結果が徹底的に違うわけです」を削除しま
す。

「つごうとして失敗する」ことを念頭においていたためこのように書いたわけですが、しかし
「うっかりぶつけてぶちまける」ということもあるんですよね。

255松戸彩苑:2008/04/19(土) 14:19:52
「興ざめだ」というのをエスペラントでどう言うのだろうと思って『日本語エスペラント辞典』を
引いてみますと

  きょうざめ 【興醒め】 malintereso; seninteresiĝo; malamuzo. まったく〜だ Estas kom-
  plete malinterese. (後略)

と書いてあります。

「まぁこんなものかな?」とも思いましたが、しかしよく考えてみますと malintereso は「興味
深くないこと」、seninteresiĝo は「興味が無くなること」、そして malamuzo は「面白くないこ
と」といった程度の意味しか無いように思われるんですね。

つまり「興ざめ」という言葉のエス訳語としては、どれもイマイチだって感じがするんですね。

で、私が最近考え出したのが etos-rompo という表現なんですね。
これならば「興ざめだ」を Kia etos-rompo! と言えますし、「その場の雰囲気を台無しにす
る人」のことを etos-romp-ulo あるいは etos-romp-anto などと言うことも出来ます。

自画自賛になってしまいますが、『日本語エスペラント辞典』に載ってる表現よりもはるかに
正確で良いと思います。

ひょっとしたら etos-rompo という表現を、すでに誰かが作っているかもしれないとも思いま
したが、NPIVや『エスペラント日本語辞典』にも載っていませんし、また Google で「etos-
romp」「etosromp」で検索してみましたが、まったくヒットしませんでした。
---

この『日本語エスペラント辞典』というのは、UEAの文芸コンクールで賞を取ったこともある
宮本正男氏が執筆し、それを数名のベテランの日本人エスペランティストが原稿の段階で
通読して、助言を与えて成立したというものなんですね。

でも、この「興ざめ」という表現に関しては、私のほうが良かったりするわけです。

もちろんこれは、私のほうがエスペラントの能力が高かったり、あるいは頭が良かったりす
るってわけではないんですね。

結局、こういう表現というのは、よく考えればけっこう良いものが出来たりするんですが、し
かし、かなりの時間をかけて考えないと、なかなか出来ないって事なんですね。

256松戸彩苑:2008/04/19(土) 14:22:11
>>255 の続き)

私は以前から気になっていたのですが、このように私が合成によって新しい語彙・表現を
作ってみせても、「ほら、やっぱり合成でうまく行ったじゃないか」「だから、今までのエスペ
ラントの理論は正しいんだ」などとカン違いしてしまう人がいるんじゃないかと思うんですが、
こういった誤解を無くすための説明が必要だと思います。

このような誤解をする人たちというのは

  etos-rompo という表現は、etos' や romp' という語根が存在しはじめた時から、すでに
  「エスペラントに内在していた」。

というような考え方をしているのではないでしょうか。

ですから、私がさんざん頭を悩まして作りだした etos-rompo という表現も、ただ単に「大昔
からエスペラントに内在していたものを運よく掘り当てた」くらいにしか思わないのではない
でしょうか。

でもこれは明らかに間違った考え方なんですね。

新語根に反対する人たちは「安易な新語根導入に反対する」と言ってるわけですが、この
人たちの言うとおりであって、新語根の導入というのは「安易」「簡単」なことなんですね。

逆に、合成によって必要な語彙・表現を作りだすのは、はるかに「困難」なことなんですね。

ですから私は「今のうちから日常生活に関する語彙・表現を整備していかないとマズイです
よ」と言ってるわけです。
---

また、こういう例を出せば判りやすいかも知れません。

日本語には「電話」という表現がありますが、Wiktionary によりますと

  1876年ベルによる発明の翌年には、日本に「伝話」と訳され紹介されたが、1883年頃に
  工部省電信局において、telephoneの訳語として「電話」の語が作られた。

  http://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%BB%E8%A9%B1

んだそうです。

ご存じの方も多いと思いますが、telephone の tele というのはギリシャ語で「遠い」という意
味で、phone というのは「声」ですから、「電話」という表現は telephone の単純な「なぞり」
によって出来たものではないんですね。
つまり、ネーミングの上手な人物による、かなり独創的な訳語なんですね。

そういうものが日本だけでなく、中国語や韓国語にまで入って使われているというのは大し
たものだと思います。

で、考えてみますと「電」も「話」も2000年以上前からある文字ですが、しかし

  「電話」という表現は、2000年以上前から漢字のなかに内在していた。

などとは誰も考えないでしょう。

合成によって新しい語彙・表現を作りだすときの苦労というものがまったく判らない人たちが、
出来あがった表現だけを見ると、ただ単に「誰でも知ってる2つの漢字(あるいは語根)をくっ
つけただけ」みたいに見えてしまうのでしょうが、決してそういうものではないのですね。

(終わり)

257松戸彩苑:2008/04/20(日) 20:29:06
  tri anguloj
  trianguloj

上のほうは「3つの角」で、下のほうは「(複数の)三角形」ですね。
これらは字で書いてある場合は、混同される可能性は無いんですが、しかし口頭で発音し
ますと、どちらも tri an gu loj ということになって区別がつかないんですよね。

こういうのを見ますと、やはり「エスペラントというのは民族語とは違って、書き言葉として発
展してきたんだなぁ」ということを痛感せずにはいられません。

エスペラントを数学の分野で利用するという方が少数ながらいらっしゃいますが、こういった
問題に気づいた人が、これまでまったくいなかったんでしょうかね?
なんだか不思議な感じがします。

このままでは、エスペラントで数学を教える学校ができた場合に、授業が混乱することは目
に見えていますので、私は「3つの角」のほうを trio da anguloj と言えば良いんじゃないか
と思ってるんですね。

(あるいは「3つの角」 tri anguloj はそのままにして、「三角形」のほうを tri-angul-aĵo ある
いは tri-angul-umo のように表現するという方法もありますが)

これでこの問題はなんとか解決しそうなんですが、しかし、この問題というのは要するに

  「数詞」が先頭にくるような合成語は、場合によっては紛らわしいことがある。

ってことなんですね。
---

また、この他にもこんな例があります。

  kun laborantoj
  kunlaborantoj

上は「労働者たちと一緒に」という意味で、下は「協力者たち」という意味ですね。
これも、ゆっくり丁寧に発音すれば区別できますが、早口ですと区別がつかなくなりそうです。

つまり

  「前置詞」が先頭にくるような合成語は、場合によっては紛らわしいことがある。

ということもあるわけですね。

現在のエスペラントには前置詞が先頭にくる合成語がたくさんありますが、私は以上のよう
な理由から、前置詞が先頭にくるような合成語をできるだけ作らないように心がけています。

(終わり)

258Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/04/22(火) 22:30:49
>>255
松戸彩苑さんのほうが宮本正男より絶対に頭がいいですよ。
宮本には逢ったことがありますが、知的レベルの低さに
呆れました。

259松戸彩苑:2008/04/26(土) 11:17:50
>>258
拙文を読んでくださってありがとうございます。

260松戸彩苑:2008/04/26(土) 12:01:36
>>257 で tri anguloj と trianguloj について論じましたが、これに関してさらに考えたことが
ありますので、続きを書くことにします。

  dek tri anguloj 「13個の角」
  dek trianguloj  「10個の三角形」
  dektrianguloj  「(複数の)十三角形」

これらも発音では区別することが出来ないんですね。

で、>>257 で「三角形」を tri-angul-aĵo あるいは tri-angul-umo とするということを提案し
ましたが、これだと

  dek triangul-aĵoj、dek triangul-umoj 「10個の三角形」
  dektriangul-aĵoj、dektriangul-umoj  「(複数の)十三角形」

となってしまって、やはり口頭では区別がつかないんですね。
(ですから、この提案は撤回いたします)

ということで「〜o da 〜」という表現法を使って

  dek trio da anguloj 「13個の角」
  deko da trianguloj  「10個の三角形」
  dektrianguloj     「(複数の)十三角形」

とすれば、口頭でも区別ができるわけですね。
---

これでめでたしめでたし … と言いたいところですが、よく考えてみますと deko da というの
は「10個くらい」という概数を表わす表現としてすでに定着してるんですよね。
ですから deko da trianguloj では「10個くらいの三角形」という意味になってしまいます。

しかし私は dek-ĝusto da 「10個ちょうどの」という表現を考えだしたんですね。
これを使えば、問題が解決すると思います。
---

余談になりますが、「10代の(10〜19の)」というのを表わすのに dek-plusa という表現を
使えば良いんじゃないかと私は考えました。

この表現を使えば「10代の人」は dek-plus-ulo となりますし、「30代の人20人」は du-
dek-ĝusto da tri-dek-plus-uloj と言うことが出来るわけですね。
---

さて、angulo というのが「角」と「〜角形」の両方の意味で使われるために、これまで説明し
てきたような混乱が生じるわけですが、このほかにも

  latero 「辺、〜辺形」
  edro  「面、〜面体」

というのも同様の問題を抱えているんですね。
ですから

  kvar lateroj 「4つの辺」
  kvarlateroj  「(複数の)四辺形」

とか

  dek du edroj 「12の面」
  dekduedroj  「十二面体」

のようになってしまいます。

これらも、上のほうを「〜o da 〜」という形にして区別すべきだと思います。

(終わり)

261松戸彩苑:2008/04/26(土) 13:35:46
私がこのスレをつうじて主張しているのは

(1) エスペラントは本来「宝石」のように素晴らしいものであるが、まだ磨き方が足りなく
    て、能力をフルに発揮できるようにはなっていない。

(2) だから、みんなで磨いていこう。

ということなんですね。

「エスペラントはすでに民族語に匹敵するだけのレベルに達している」という宣伝文句を鵜
呑みにしている大部分のエスペランティストたちにとっては、私の書き込みは「マイナス面
だけを見ている」もののように感じられるのでしょうが、決してそうではありません。

私は、コンピューターの世界で言うところの「デバッグ」をしているわけなんですね。

「専門家しか知らない物・事」や「一部の地域の人しか知らない物・事」などはエスペラント
で表現できなくても仕方がないと思いますが、

  現在の文明社会に住んでいるふつうの成人であれば誰でも知っているような物・事

については、すんなりと表現できないとダメだと私は考えるのです。

また、発表以来120年もたっているのに今のようなレベルだということは、今までのような
事をやっていたのではダメだろうとも思うわけです。

262松戸彩苑:2008/06/04(水) 20:56:08
英語の baseball、basketball、volleyball といった単語には「野球」「バスケットボール」「バレ
ーボール」といった意味のほかに「野球のボール」…という意味もあるんですね。

ですから「野球のボールを投げる」は to throw a baseball と言うらしいです。

「球技名」と「その球技で用いられるボール」とが一緒というのは、日本人の感覚からすると
少しヘンなんですが、まぁ英語ではそうなってるんですね。

で、英語はどうでも良いんですが、問題はエスペラントです。
エスペラントでは「野球のボール」をどう言うのか?

NPIVの pilko の項を見てみますと 〜pilko という合成語がいくつか載ってるんですが、定義
を見ますと、すべて sporto のことなんですね。
『エス日』の pilko の項も、やはりそうなっています。

じゃあ「野球のボール」は baz-pilka pilko になるのかな?とも思ったんですが、そういったこ
とはNPIVや『エス日』を見てもまったく判らないんですね。

「さすが、エスペラント界はスポーツに関心のない人間が集まってるだけあって、120年たっ
てもこんなことが決まってないのか」と思ったんですが、思い直して『Esperanta Bildvortaro』
を調べてみたところ、275/54 に野球のボールの絵がありまして bazo-pilko という訳語が与
えられていたんですね。

また 276/47 にはバレーボールのボールの絵が描いてあって、ここには flug-pilko と書い
てありました。

つまり『Esperanta Bildvortaro』では英語式になってたんですね。
---

しかし考えてみますと、そもそもエスペラントにおいて「球技名」が 〜pilko となっているとい
うあたりからしてすでにおかしいのではないか?英語では良いだろうが、エスペラントでは
おかしくないか?という気もしてくるんですね。

実際、ヨーロッパのエスペラント辞典を調べますと、baz-pilk-ludo あるいは baz-pilk-ado の
ような表現が載ってることがあります。

この表現を使えば「球技名」と「ボール」とを区別することが出来たりもするんですが、とにか
くエスペラント界というのはスポーツには関心がないみたいで、こういった提案もあんまり注
目されてないように思われます。
まぁ「長すぎる」ということもあるんでしょうけどね。

(終わり)

263松戸彩苑:2008/06/06(金) 03:29:17
今回はいつもと違って、かなり長めの文章を掲載します。
---

「1905年に Fundamento de Esperanto が採択され、これによってエスペラントの改造が
禁止された」

このような解釈が現在にいたるまで「エスペラント界の常識」になってるわけですが、しか
し、この解釈ではどうにも説明できない事があるんですね。

それは、ザメンホフの著作や、いとうかんじ氏のザメンホフ研究書を読んだことのある人で
あれば「ザメンホフ自身が1905年以降にエスペラントの改造案を何度も発表している」と
いう事実をご存じだと思いますが、この理由がまったく説明できないわけです。

このうち、1906年1月18日づけで Javal に送った改造案(pvz 06-13)と、同年11月22
日づけで Boirac に送った改造案(06-115)については、「Javal に気に入られるようにと
考えて送ったものだ」という説があります。

また、1907年12月20日づけの改造案(07-133)にしても、「Ido の支持者に少し妥協し
て、騒動を収めるためにしたことだ」という解釈があります。

しかし、1909年1月5日づけで言語委員会に送った改造案(09-05)や、1915年に執筆
されたと推測されている「Porĉiama revizio de Esperanto」(15-11)については、どのように
解釈したら良いのでしょうか。
---

結論から言ってしまえば、Fundamento de Esperanto の序文には「変更」はいけないが
「改良」は出来る、と書いてあるんですね。

こんなことを言われても、どういう意味だか判らないだろうと思いますが、Fundamento de
Esperanto の後ろのほうに、こんなふうに書いてあるんですね。

  「たとえ明らかな誤りがあったとしても、我われの言語の基礎にはぜったいに手を触れ
  てはならない」と、私は述べた。こう言うと、我われの言語はきわめて硬直的で、発展
  の余地がないと思う人もいることだろう。……とんでもない。基礎は厳重に不可侵であ
  るが、たえず内容を充実させるだけでなく、たえず改良し完成へ向かう可能性がじゅう
  ぶんあるのだ。

  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』153ページ)

これだけを読みますと「たしかに改良と書いてあるが、これは新語根の導入のことなんじゃ
ないか」と思われるかもしれません。
たしかに新語根の導入も「改良」の一方法ではあるんですが、しかし先に引用した箇所の
すこし後に、こんなふうに書いてあります。

  二、「我われの言語のうちある種の単語や規則があまりに不都合だ」と、権威ある中央
  機関が認めた場合は、それをただちに取り除いたり変えたりしないで、新しい語形を提
  案し、古い語形と並行して用いるように勧告すればよい。時間とともに新しい語形は古い
  語形を徐々に排除し、古い語形は死語となるだろう。あらゆる自然言語でも起こってい
  ることだ。ただし、こういう古語は、もともと『エスペラントの基礎』の一部となっているの
  で、まったく捨て去られることはなく、新しい語形と並んで学習書や辞書に掲載される。
  このようにすれば、言語がもっとも完成した段階でも、エスペラントの統一が損なわれる
  ことはなく、最初期のエスペラント作品といえども後世の人びとによってその価値を失わ
  ず、よく理解されると、確信してもよい。

  (同書154〜155ページ)

この引用文のなかで注目すべきなのは

  ただし、こういう古語は、もともと『エスペラントの基礎』の一部となっているので

という部分です。

これは要するに「Fundamento de Esperanto の一部分であるところの Universala Vortaro
に含まれている語根であっても、これに代わる新しい語形を提案することが出来る」ってこ
となんですね。

そのように解釈しないと、この部分がまったく理解できないわけです。
ですから、そのように解釈すべきだと私は思います。

264松戸彩苑:2008/06/06(金) 03:32:00
>>263 の続き)

しかし当然のことながら、このように言っても、まだ疑問は残るわけですね。
「じゃあ、Fundamento de Esperanto の前半部分でエスペラントの改造をさんざん批判して
たのは何なんだよ?」という問いが当然出てくることと思います。

先の引用文のなかには

  「我われの言語のうちある種の単語や規則があまりに不都合だ」と、権威ある中央機関
  が認めた場合は、それをただちに取り除いたり変えたりしないで、新しい語形を提案し、
  古い語形と並行して用いるように勧告すればよい。

と書いてありましたが、ザメンホフが批判していたのは、この

  不都合な単語や規則があった場合に「ただちに取り除いたり変えたりする」

ことなんですね。
これが彼の言う「改造」「破壊」「変更」であり、絶対にやってはいけない事なのです。
逆に、彼が勧めていたのは

  不都合な単語や規則があった場合には

  (1) 権威ある中央機関が、新しい語形を提案し、古い語形と並行して用いるように勧
      告する。

  (2) 時間とともに新しい語形は古い語形を徐々に排除し、古い語形は死語となる。

  (3) ただし古い語形は、新しい語形と並んで学習書や辞書に収録しなければならない。

という方法だったわけです。

つまり、ザメンホフは「手続き」にこだわってたってだけなんですね。
後者のちゃんとした手続きさえ踏めば、たとえ Universala Vortaro に含まれている語根で
あっても、それに代わる新しい語形を提案することが出来るが、前者のようなやりかたは
絶対にダメなんだということを言ってただけだと私は解釈しております。
---

これまでの話を判りやすく具体的に言えば、語根Aがあるのだが、なんらかの理由で都合
が悪いので語根Bを提案するというのは良いんですが、この時にいきなり「これからは語
根Bを使うから、語根Aを使うことは一切まかりならん」と言ってしまって、さらには辞書から
も語根Aの記述を削除してしまう、みたいなことをすると混乱するのでダメなわけです。

だから「語根Bを使いましょう」と勧告しつつ、しばらくのあいだ「試用期間」を設けて、両方
を併用しようって事なんですね。
語根Bがエスペラント界全体に広まるのに多少時間がかかるということの他に、しばらく使
ってるうちに、語根Bのほうに不都合な点が見つかるかもしれないわけですから、併用す
る期間も必要だろうと考えたのでしょう。

で、語根Bをしばらく使ってみて「やっぱり語根Bのほうが良いな」という事がみんなに判れ
ば、語根Aのほうが使われなくなって死語になっていくわけです。

しかし、辞書から語根Aの項目が無くなってしまいますと、語根Bしか知らない人たちには
理解することが出来なくなりますので、「かつて語根Aというのが使われていた」という情報
をちゃんと残しておいてくださいよ、とザメンホフは言ったわけなんですね。

で、こういうふうにするのであれば、Universala Vortaro に含まれている語根であっても、
別の語形を提案することが出来るということなんですね。
---

しかし、ここまで論じても、まだまだ疑問は無くならないのが当然だと思います。

たとえば『Lingvaj respondoj』の54(pvz 04-50)には「ŝipo という語根がすでにあるから、
ŝipo の代わりに navo などという語根を提案してはいけない」と書いてたではないか、と
おっしゃる方がおられるかもしれませんね。

しかし、この文を注意ぶかく読んでみると判るのですが「ŝipo という語が《気に入らない》
という理由で navo を提案するのはダメ」ということなんですね。

ですから、もっとマトモな理由があって、そして先述の正しい手続きにしたがうのであれば、
ŝipo の代わりに navo を導入しても構わないはずなんですね。

265松戸彩苑:2008/06/06(金) 03:36:26
>>264 の続き)

これだけ説明すれば、ザメンホフが1905年以降に改造案を何度も送ったことも不思議で
はないという事になるのではないでしょうか。

先の引用文のなかに「権威ある中央機関」というのが出てきましたが、1905年に言語委
員会(Lingva Komitato)が発足してるんですね。

これが彼の言う「権威ある中央機関」ですので、ザメンホフは1905年以降、言語委員会
に対して改造案を送ったということなんですね。

このように考えていけば、ザメンホフの言動と行動にはなんら矛盾が無いということになる
はずです。

そもそもザメンホフは、1887年に発表した時点で「エスペラントは将来、改造しなければな
らない」と考えていたわけです。

それは1887年に出版した『国際語』(『第一書』)のなかに「改造すべき点について教えて
ほしい」と書いていたことでも判るんですが、私の推測では、それだけではないんですね。

原エスペラント(pra-Esperanto)というのがありますが、あれを見ますと、民族語から単語を
採用しているんですが、かなり単語を短くしてるんですね。

一方、1887年に発表した現在のエスペラントは、欧州各国語から単語を採用しています
が、名詞・動詞・形容詞などについては、ほとんど元の語形のままなんですね。

私はこれを見て

  ザメンホフは最初「発音しやすい人工語を作ろう」と努力していたが、しかしそのために
  単語を短くすると、発音は容易になるが、憶えるのがかえって困難になるということに
  気がついた。

  これでは「学習しやすい人工語」ではなくなってしまう。

  この時にザメンホフは「ラテン語が変化して、ロマンス諸語ができていった」ということを
  思い出したのではないでしょうか。
  そして、それを思い出したとき「最初っから発音しやすい言葉をつくる必要は無いんだな」
  と考えたはずです。

  「少々発音は困難になるかもしれないが、最初は、民族語で使われている単語をその
  まま採用することにしよう。そのほうが学習も容易なので、話者が増えやすいだろうし」
  「で、あとで徐々に、みんなの意見も参考にして、より発音しやすく改良していこう」と考
  えたのではないでしょうか。

  このように方針を大転換して、単語をほとんど元の語形のままで採用することにして出
  来たのがエスペラントだった。

という事なのではないかと想像したのですが、このように考えていたのであれば、1905年
以降に改造案を何度も提出したのも当然だと思うんですね。
---

これで納得していただけたのではないかと思うんですが、しかしそうしますと「どうして Fun-
damento de Esperanto は判りにくいのか」という点が不思議に思えてきます。

これはまったくの推測なんですが、ザメンホフは「わざと判りにくく書いた」のではないでしょ
うか。

ザメンホフとしては、本気で改造案を提案しようと思っていて、そのために1905年に言語
委員会も発足させたわけですが、しかしその少し前からテオフィル・カールという人物に、
ザメンホフが導入した新語根を批判されてたんですね。

このカールは新語根にさえ猛反対するくらいですから、改造案なんかに賛成するわけが絶
対に無いわけです。

しかし改造案を出さなければエスペラントは発展していかないと考えているザメンホフは、
なんとしてでも「正しい手順をとりさえすれば、改造は可能である」ということを訴える必要
があったわけです。

またザメンホフにしても「安易な改造」については禁止しておきたかったわけです。

そういう事情があったので、Fundamento de Esperanto は判りにくく書かれざるを得なかっ
たのだと私は思います。

266松戸彩苑:2008/06/06(金) 03:37:57
>>265 の続き)

Fundamento de Esperanto の前半部分を読みますと「かなり極端なことを言ってるなぁ」と
いう印象を受けます。

「絶対不可侵」を謳うのはまだ判るのですが、しかし Universala Vortaro の民族語訳に誤
りが多いことを承知のうえで、しかしなおかつ「絶対不可侵だから直さない」などと言ってる
のには、ちょっと付いていけないって感じがしますね。

これは、カールのような人物を安心させるために、わざと極端に書いているのではないか
とさえ私には思えたのですが、みなさんはどう思われますでしょうか。

そして、前半部分で不自然なほどに「絶対不可侵」を謳っておいてさんざん目くらましをした
あとで、先に引用した「しかし改良は可能だ」というのをこっそり持ち出すんですね。

そして、この部分の解釈は、先に述べたとおりなんですが、よくよく注意ぶかく読まないと
絶対に誤解するように書いてあったわけです。

ザメンホフもだますつもりは無かったのかもしれませんが、正面から理論的に説明しても、
納得してはくれないだろうなぁと考えて、こんな判りにくい書き方をしたのではないでしょう
かね。
---

で、何はともあれ Fundamento de Esperanto が採択され、言語委員会も発足したので、
ザメンホフは(一個人の資格で)言語委員会に何度も改造案を送ったのですが、当然の
ことながら理解されなかったわけです。

Fundamento de Esperanto をふつうに読めば「基礎的な語根は絶対に改造できない」とし
か読めないわけですから、当然なんですね。
ザメンホフは、カールのような人物を煙にまくために極端なまでに絶対不可侵を強調した
のですが、それが裏目に出てしまったのだと私は思います。

もっとも、ザメンホフの言わんとしたことを理解した人もいたのかもしれません。
たとえば言語委員会の委員長になった Boirac という人は哲学の先生だったそうですから、
たぶん Fundamento de Esperanto の序文のほんとうの意味を理解できたんじゃないかと
私は勝手に想像してるんですが、しかし彼は、理解はしたが、拒否したのではないかと思い
ますね。

ということでザメンホフは、自分の改造案が受け入れられないまま亡くなりました。
そして、これまで「ザメンホフが1905年以降に、改造案を何度も出していた」という事実が
謎とされてきたわけです。
(もっとも、大部分のエスペランティストは、こんな歴史的事実さえ、まったく知らないのでし
ょうが)

私は10年ほど前に、この謎を解明するために3巻ものの pvz を買いまして、重要な文章を
読んで、あれこれ考えて、これまでに述べたようなことを思いついたわけです。
100%正しいかどうかは判りませんが、しかしかなりの程度ツジツマが合っているのでは
ないかと自負しております。

私はこれまで、このスレにおいて「場合によっては Universala Vortaro に含まれているよ
うな語根についても、新しい語形を提案しても良いのではないか」と論じてきましたが、この
ような大胆なことを自信をもって主張することが出来たのは、ここに書いてきたようなことを
考えていたからです。

今まで「松戸彩苑は Fundamento de Esperanto の不可侵性を無視するつもりなのか」とい
ぶかっておられた方も少なくないと思いますが、これで(それなりに)納得していただけたの
ではないかと思います。

今後、やる気と時間があれば、ザメンホフが提案した新語根について詳しく見ていくような
文章を書くつもりです。

(終わり)

267松戸彩苑:2008/06/07(土) 14:14:33
>>263-266 に対する補足なのですが、「ザメンホフは改造を認めていた」ということを証明
する文章がありましたので、以下に引用します。

1908年にドレスデンで開かれた第4回UKでの演説のなかで、ザメンホフは Ido 騒動につ
いて話しているのですが、そこで次のように言っています。

  この件のいきさつについては、お話ししたくありません。ただ、次のように言うだけにいた
  します。「我われはみな国際語思想の代表者だ。その思想はめいめいが思いどおりに
  扱ってもよろしいが、とにかく誠実に振る舞おう。我われの行動については未来が厳しく
  裁くということを、覚えておこう。エスペラントは誰の所有物でもない。エスペランチストは、
  慎重・誠実に互いの合意を得たうえならば、エスペラントを思いどおりに扱ってもよいこと
  を、覚えておこう。ただ、個々の人間の恣意的行為によって言語が混乱に陥らないため
  に、エスペラントには、公平に選出され有能な人物を会員とする言語委員会がある。この
  委員会は、いかなる個人の意向によっても左右されず、あらゆる問題を検討し、これにつ
  いてエスペラント界全体の裁可を求める権利と権限を有している。『ブーローニュ宣言』は、
  個々の人間が言語を恣意的に破壊することを禁じているだけだ。言語委員会の設置は、
  エスペラントの連続性というきわめて重要な要件を保証するためにすぎない。君たちのう
  ちエスペラントの改良案をもつ人がいたら、言語委員会に要望を提出してもらいたい。委
  員会が保守的すぎると思うかもしれないが、この委員会はいろいろな個人的思いつきの
  実現ではなく、エスペランチスト全体の利益を守るために存在することを、思い出してもら
  いたい。委員会は、エスペラント運動に有害なことを軽率にやるくらいなら、むしろ何もや
  らないほうがましだ。君たちは、エスペラントは本質的に妥当であり、細部の議論が残っ
  ているだけだと認めている。それならば、役に立つこと、ほんとうに必要なことを、誠実な
  方法により仲良く平和のうちに実現することもごく容易ではないだろうか」。

  「自分の要望をエスペランチスト全体に押しつけようとする人びとは、自分たちにはすば
  らしいアイデアがあり、エスペランチストの大多数もきっと賛同するはずなのに、頭株の
  やつらが聴く耳をもたず、そのアイデアを検討のため提案することすら許さないと、ふつ
  う言っている。だが、それはうそだ。君たちも知っているように、我われの言語委員会が
  共同の票決で採択した新しい規約によれば、誰でも委員会に提案する権利があり、そ
  の提案がたとえごく些細な内容であっても、委員会の百人の委員のうちわずか五人の
  賛成があれば、委員会はその提案を検討しなければならないことになっている。だから、
  聴く耳をもたないとか、頭株のやつらが気に入った議題しか票決に付さないとかいう不
  満が出る余地がないのは、君たちだって知っているではないか」。

  「『あらゆる手段を用いてむりやりに君たちの不満を駆り立てようとしているのなら、何も
  かもぶちこわさなければならない』と君たちに言う者がいたら、目的を達成する唯一の道
  である統一の道から君たちをはずれさせようとする者がいたら、そのときには用心したま
  え! そのときには、何千という人びとが長年の辛抱強い努力のすえに偉大な全人類的
  理想のためになし遂げてきたすべての成果がめちゃめちゃになってしまうのだと、承知し
  てもらいたい」。

  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』247〜250ページ)

この引用文のなかでもっとも注目すべきなのは、なんと言っても

  君たちのうちエスペラントの改良案をもつ人がいたら、言語委員会に要望を提出してもら
  いたい。

という部分ですね。
こういうことを、よりによって Ido 騒動の余韻がまだ残っている時期に、UKで公言してたんで
すね。

268松戸彩苑:2008/06/07(土) 14:16:16
>>267 の続き)

それから、1900年ごろに執筆されたと予想されている「国際語思想の本質と将来」のなか
にも、次のような箇所がありました。

  もっと便利な形にした方がよい単語がいくつかあるのは事実だ。だが、そういう単語はご
  く少数だ。エスペラント以後に現れた多くの言語案のどれ一つを取っても、語彙の少なく
  とも六〇パーセントはエスペラントと同じ形になっていることを見れば、この点がよく分か
  る。さらに、付け加えれば、残りの四〇パーセントの単語がエスペラントと形が違ってい
  るのも、言語案の作者が国際語の種々の重要原則に留意しなかったとか、まったく必要
  もないのに語形を変えたとかいう理由によるにすぎない。だから、容易に出て来る結論
  としては、もっと便利な形にするためエスペラントとは異なる語形になった単語の実際の
  数は一〇パーセント前後を越えることはないと言える。だが、このようにエスペラントの
  文法はほとんど変える必要がなく、語彙も一〇パーセント程度変えればすむとしたら、か
  りに新人工語が創造され、あらゆる分野で実用に役立つとして、そういう新しい人工語は
  いったいどんな姿となるのだろうか。そういう言語は、じつは新言語ではなく少し修正した
  エスペラントにすぎないことになるのではないか。したがって、国際語の将来に関する問
  題は、エスペラントを変更なしに採用するか、それともいくぶん修正を加えて採用するか
  という選択の問題にほかならなくなるだろう。だが、こういう問題は、エスペランチストに
  とっては、もはやまったく意味がない。彼らは、個々の人間が思いつきで勝手にエスペラ
  ントを変えることに反対しているだけなのだ。だから、権威ある会議や学士院のような機
  関がエスペラントに部分的修正を加える決定をしたら、エスペランチストはその決定を歓
  迎しても何も損にはならない。そうなっても、新しい難しい言語をはじめから学び直す必
  要はなく、一日か長くても数日かけて修正部分を習得するだけですむのだ。

  我われエスペランチストは、自分たちの言語がぜったいに完璧で、それよりすぐれた言語
  は存在するはずがないなどとは、まったく主張していない。事実はその反対だ。権威ある
  会議が開催され、その決定が全世界に効力を有することが分かれば、エスペランチスト
  たちは、言語全体の見直しや有益な改良を任務とする委員会の設置を、みずから進んで
  その会議に提案するであろう。そのけっか、エスペラントが原型をとどめないほどに変更
  されても、異議はないのだ。だが、そういう委員会にその仕事が果たしてできるのか、際
  限もなく長い年月がかかるのではないか、委員の合意によって首尾よく決着がつくのか、
  できあがった言語は実際に役に立つかなどについては、まったく予想がつかないのが現
  状である。したがって、もしその委員会が事実上あらゆる点で完結し試験ずみのげんに
  ある言語をしりぞけ、問題の多い将来の言語を採用するとしたら、もちろん、それは愚か
  で許しがたい行為だ。だから、エスペラントは不適当だという結論に達したとしても、選定
  会議が決定できることは、たかが知れている。つまり、さしあたってエスペラントをいまの
  ままの形で採用し、これと並行して委員会を任命して、エスペラントの完成か、またはもっ
  と理想的な新言語の作成にあたらせる。そして、委員会の作業が首尾よく終わり、できあ
  がった言語がいろいろと試してみてじゅうぶん役に立つと分かったときに、そのとき初めて
  「現在の形の国際語は時代おくれだから、その代わりに新しい形の言語が登場した」と発
  表できるのだ。選定会議はもっぱらこのように運営されるべきだということに、良識ある人
  なら誰でも同意するだろう。したがって、未来の世代の言語がエスペラントではなく、これ
  から作成される言語になるとしても、その新言語はかならずエスペラントを経由して作られ
  るはずなのだ。

  (同書85〜89ページ)

269松戸彩苑:2008/06/07(土) 14:18:31
>>268 の続き)

このなかで目を引くのは

  権威ある会議が開催され、その決定が全世界に効力を有することが分かれば、エスペラン
  チストたちは、言語全体の見直しや有益な改良を任務とする委員会の設置を、みずから進
  んでその会議に提案するであろう。そのけっか、エスペラントが原型をとどめないほどに変
  更されても、異議はないのだ。

という部分と

  だから、権威ある会議や学士院のような機関がエスペラントに部分的修正を加える決定を
  したら、エスペランチストはその決定を歓迎しても何も損にはならない。そうなっても、新し
  い難しい言語をはじめから学び直す必要はなく、一日か長くても数日かけて修正部分を習
  得するだけですむのだ。

という箇所だと思います。

ということで、ザメンホフは終始一貫して「決められた手順を踏んだ改造」について論じていた
んですね。
こういったことを知っていれば、>>263 で言及したザメンホフじしんによる改造案についても、
なんらおかしくないということが納得できると思いますね。

(終わり)

270松戸彩苑:2008/06/07(土) 16:22:11
これまでの話に、さらに補足をさせていただきます。

1910年にワシントンで開催された第6回UKでの演説のなかでも、ザメンホフは「エスペラ
ントの改良」について長々と論じていました。

  さて、国際語問題の決定のために、虚構ではなく現実的かつ強大な実力をもつ委員会
  が設置されたと、しましょう。すでに述べたように、そういう委員会が自分の決定をまっ
  たく無価値に終わらせたくないのなら、エスペラントかエスペラントによく似た言語を採
  択するほかはありません。きっといまのままの形のエスペラントを採択するはずだと、す
  でに申しあげました。そこで、委員会がそういう決定をしたくない場合を考えてみましょ
  う。ほかにどんな行動を取るでしょうか。委員会は、「生存能力のある言語の創造のた
  めには、学識ある人がいて、「じゃあ、作ってみよう」と言うだけでは不十分で、注文に
  応じて数週間のうちに仕立てることはできず、長期にわたる熱心な献身的な愛情のこ
  もった努力や実験や感情移入が必要なことを」よく理解するようになるでしょう。また、
  委員会は、「多くの人びとが久しい以前から尽力し、長年の歴史と完全な生命をもつ言
  語があること、この言語はりっぱに機能し、問題点はごくわずかしかないこと」を知るよう
  になるでしょう。そういうわけで、もし委員会がこの課題を真剣に取り扱うとすれば、ぜん
  ぜん新しい言語をあえて創造したり、存続できるかどうかもまだわからない言語案を採
  用したり、この問題でこれまで尽力してきた人びとに対し無用で軽率な反対行動に出る
  ような態度を取らず、エスペラントを採択し、必要な改変をほどこすことでしょう。

  では、委員会は、誰にこの改変を委託するのでしょうか。はじめの準備期間の段階では、
  どんな言語を選ぶべきかという問題を原則的に決定する必要があります。この段階では、
  委員会は、その決定を誰にまかせてもよろしい。ただし、無党派の良識人で、引き受け
  た責任をじゅうぶん認識している人を選ぶように配慮しなければなりません。しかし、採
  用すべき言語が選定され、改変をほどこす決定がなされたら、その仕事について誰の
  助言を求めたらよいのでしょうか。少しでも良識があり、学問的方法を理解している人な
  ら、「そういう仕事では、外部にあってその言語を知っている人ではなく、まず何よりも内
  部にあってその言語を知っている人に助言を求めるべきである。つまり、その言語のた
  めに最も尽力し、最もよく実用に使い、したがって最も経験が深く、実際上の不備を最も
  よく知っている人のことだ」と、言うでしょう、誰でもよくわかっていることですが、言語に
  改変をほどこす際に、ただ外見を目安にするだけで、その言語を熟知する人の助言を求
  めないのは、じつに愚かな行為です。委員会は、その課題を真剣に扱う気があり、陰謀
  をたくらむ人びとにそそのかされたのでなければ、そんなことはけっしてできないはずで
  す。

  そこで、委員たちがエスペラントに改変をほどこす決定をした場合には、どこを改変した
  らよいのでしょうか。たとえば、「この単語は一千万人が話す言語から採用したものだ
  から不採用にして、一億二千万人が話す言語から単語を採用しよう」とか、「実際には
  よく役に立つ"estas"(「〜である」)という単語は気に入らないから、"esas"に代えよう」
  などと委員たちが言うとしたら、それはまったく愚かなことで、真剣な人びとはきっと容認
  しないでしょう。長年のあいだ存続している言語に、単なる思いつきや、理屈にばかりこ
  だわり実際にはぜんぜん無価値な動機から大量の単語を改変するのは無意味なこと
  だと知っているからです。委員たちの役目は理屈をもてあそぶ言葉の遊びではなく、実
  際的な仕事だということを念頭におけば、改変を加えるべき単語や語形も、おのずから
  限定されてくるはずです。つまり、それ自体が無条件に不適切で、言語を使用する人び
  とにひじょうに不都合な単語や語形のことです。

271松戸彩苑:2008/06/07(土) 16:23:12
>>270 の続き)

  過去二三年間にエスペラントに対してさまざまな批判がなされてきました。何千という人
  たちがエスペラントに批判を加え、どんなに小さな欠点も残らず明らかになっています。
  しかし、そういう批判に目を通してみると、その大部分は個人的思いつきによっているこ
  とがわかります。ほんとうに実用的価値のある改変の提案はごく少数で、全部ならべて
  も一枚の紙切れにおさまり、半時間もあれば覚えることができるでしょう。しかも、このご
  く少数の改変提案のうち、最も重要な提案は一見すると改良のようですが、よく考えて
  みるとじつは改悪となるかも知れないのです。たとえば、学習者の悩みを取り除き普及
  を促進するために字上符や対格語尾を廃止したらどうかという提案があります。これは、
  すでに一六年前に私が提案し、げんに改革論者の大部分も要求しているものです。し
  かし、現在の時点で、しかも政府が設置し、したがって権限を有するはずの委員会の立
  場からは、こういう提案はまったく容認すべきではありません。なぜなら、それは、外部
  の傍観者の機嫌をとるためにエスペラントの内的価値を損ない、必要かつ重要な音声
  や自由な語順や明晰性を取り去ることになるからです。しかも、その理由といえば、印
  刷屋がいくらか経費の節約になり、初学者が多少てまがはぶけるというだけなのです。

  私たちに反対する人たちがエスペラントの信用を落とすためにエスペラントで書いた論
  文を見ると、ほとんどいつも気がつくことが一つだけあります。複数語尾の"j"が大量に
  使われていることです。この不幸な"j"は、美しいギリシア語にあってもあえて文句をつ
  ける人はいませんが、私たちに反対する人たちに言わせれば、エスペラントでは諸悪
  の根源になっているのです!

  簡単に言えば、みなさんがすぐわかるように、政府が設置する委員会がエスペラントに
  改変を加えることになり、その委員会が真剣に任務にとりくむとしたら、改変すべきとこ
  ろはごく、ごくわずかしかありません。委員会の改変を受けたあとのエスペラントは、そ
  れ以前のエスペラントと言語としてはまったく同じです。ただ現在の語形のいくつかが
  古語となり、もっと便利な語形に取替えられるかも知れませんが、それによって言語の
  連続性が断絶したり、これまで達成した成果の価値が無に帰することはけっしてありま
  せん。これは、私たちがそうなって欲しいと思っているからではなく、ひたすら論理と良
  識の当然の帰結です。これに対しては、本気でやる気がある委員会としては、その仕
  事の実際的成果が皆無になることを望まなければ、あえて反対しないことでしょう。

  さて、ここで、お話ししたことをまとめてみましょう。この問題を論理的に検討したけっか、
  結論は次のとおりとなります。

  一、国際語は、エスペラント以外にはあり得ない。

  二、おそらくエスペラントの発展は、その他の言語と同様に、自然の成り行きにしたがっ
     て、すなわち新語と古語の交替という不断の過程に則して、おこなわれてゆくだろう。

  三、しょうらいエスペラントに改変を加える必要が生じたときは、その改変は互いの合意
     のうえでエスペランチスト自身がおこなうか、またはエスペランチストと完全な合意の
     うえで有力な機関がおこなう。

  四、しょうらいエスペランチスト自身か、または有力な外部機関がエスペラントに改変を
     加える決定をした場合は、その改変はきわめて小規模にとどめ、これまでの我われ
     の成果との連続性を損なったり、過去・現在・未来にわたる我われの努力を無に帰
     するものであっては、けっしてならない。

  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』266〜272ページ)

272松戸彩苑:2008/06/07(土) 16:27:21
>>271 の続き)

まず最初に言っておくべきなのは、このむやみに長い話が、UKの開会演説のなかでなされ
たという事です。

史上初のアメリカでのUKということで、みんな大いに盛り上がっていたと思うんですが、なぜ
かザメンホフは、こんな「エスペラントの改造に関する話」を長々としてるんですね。

1910年といいますと、Ido 騒動にウンザリしている人も少なくなかったはずなのに、こんな話
をしてるんですから、これはどう考えても「ザメンホフじしんが新しい語形を導入したがってい
た」と判断するしかないんですね。

引用文のなかに

  ほんとうに実用的価値のある改変の提案はごく少数で、全部ならべても一枚の紙切れに
  おさまり、半時間もあれば覚えることができるでしょう。

と書いてありますが、これが、ザメンホフが提案した改造案のことなのだろうと私は推測して
おります。

(終わり)

273松戸彩苑:2008/07/19(土) 07:06:26
エスペラントには intern-ulo(寄宿生、医学研修生)という表現があります。

これは英語の intern やフランス語の interne などと見かけが似ているのでとっても憶えや
すいのですが、しかしよく考えてみますと、英語で言うところの insider(内部の人間)をどう
やって表わせば良いんだろう?という疑問がわいてきます。

本来ならば、こっちのほうが intern-ulo と表現されるべきではないですか。
実際「insider、内部の人間」の反対語である「部外者」は ekster-ulo と言うんですよね。

Peter Benson の『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』を見てみますと、inside
の項に insider が載っていて intern-ulo が訳語になっています。

つまり Benson 氏は intern-ulo に第3の意味をつけ加えようと提案しているのだと思いま
すが、しかし一つの表現にあまりにも多くの意味を与えますと、どの意味で使っているのか
判らなくて困るんじゃないかと思うんですね。

そこで私は「insider、内部の人間」を en-ulo としたら良いんじゃないかと考えました。
---

この他にも、「中身」とか「食品などの具」のことを en-aĵo と表わすこともできますね。

また「トッピング」のことは sur-aĵo と言うことができるでしょう。
Benson の辞書の top の項のなかに topping があり、sur(verŝ)aĵo という訳語が与えられ
ていますが、sur-aĵo で充分だと思います。

274松戸彩苑:2008/07/19(土) 09:47:39
ombrelo(傘)という単語があるのは良いんですが、考えてみますと「傘をさす」というのを
どう表わすのかが判らなかったりします。

で、『日エス』の「かさ【傘】」のところを見ますと sin @irmi per ombrelo と書いてありました。
もちろん間違ってはいないと思うんですが、しかし直訳しますと「傘で自らを覆う」ということ
であって、少し重苦しく、長ったらしいような気もします。

『エス日』の ombrelo の項を見ますと

  kun 〜o 傘を差して

というのが載ってるんですが、しかし、これが「傘を持って」である可能性は無いんでしょう
か。
また「彼は傘をさしている」は Li estas kun la ombrelo. と言えば良いんでしょうか。

それから、同じところに

  malfermi 〜on 傘を開く

というのも載っていますが、「傘を開く」と「傘をさす」とではちょっと違うわけですね。
「傘を開いたけど、ささない」ということもあるわけですから。

それからNPIVの ombrelo の項を見ましたが、ここには「傘をさす」に相当する表現はまった
く載っていませんでした。

このようにエスペラントというのは、日常生活に必要なモノを表わす単語はあったとしても、
「傘をさす」といったコロケーションになると、とたんに怪しくなるんですね。
こういった点がしっかりしていないせいで、エスペラントは本来持っていて良いはずの能力
を発揮できないでいるのだと思います。
また逆に言えば、こういう点を直していけば、今以上に役に立つ言葉になるに違いないん
ですね。

こういう問題を「大したことではない」「使っているうちに自然にできる」などと考えていたの
では、エスペラント運動が今以上に盛り上がることは無いでしょうし、また、まかり間違って
エスペラントが世間で大々的に実用されることになれば、こういった簡単な表現がアイマイ
なせいで大弱りをすることになると思うんですね。

ですから、そうならないように、今のうちから少しずつ考えておく必要があるわけです。

私も「傘をさす」を表わす簡潔な表現についていろいろと考えてはおりますが、この問題に
ついては皆さんにも考えていただきたいと思いますので、私の案は書かないことにします。

(終わり)

275松戸彩苑:2008/07/19(土) 09:49:13
>>274 の3行目

@irmi を ŝirmi に訂正。

276松戸彩苑:2008/07/19(土) 17:26:42
エスペラントで「見ること」は vid(ad)o ですが、それでは「見られること」はどのように表現す
れば良いのでしょうか?

日本語ですと「見ること」「見られること」、英語ですと「seeing」「being seen」と簡単に表現
できるんですが、意外なことにエスペラントでは簡単に表わすことができないんですね。

vid-at-ado ではヘンですし、vid-at-eco というのも苦しいわけです。

vid-iĝo で良いのかなとも思いましたが、『エス日』を見ますと vid-iĝi は「現れる」の意味だ
と書いてあります。

さんざん考えて ago esti vid-ata なら良いのかなと思いましたが、しかしよく考えますと「見る
こと」は「動作」ですが「見られること」は「動作」ではなく「状態」なのではないかと思いました。

ということで最終的に stato esti vid-ata という表現が得られたわけですが、皆さんは「見ら
れること」をどのように表現したら良いと思われますでしょうか。

人によっては「vid-at-ado も許容できる」とお考えになるかもしれませんね。

(終わり)

277松戸彩苑:2008/07/23(水) 00:07:35
>>276 の補足ですが、考えてみれば「見ること」は vidi という動詞の不定形のかたちでも
表わすことができるんですよね。

そうすると「見られること」は当然 esti vid-ata で良いということになります。

「見られること」を 〜o というかたちでは表わすことが出来なくても、esti vid-ata でありとあ
らゆる場合に対応できるというのであれば問題ないわけですが、どうなんでしょうかね。

278松戸彩苑:2008/07/26(土) 17:06:40
「色白の人」をエスペラントでどう表現すれば良いんでしょうかね?

エスペラントには blank-ulo とか blank-haŭt-ulo といった表現がありますが、どちらも「白
人」の意味で使われてると思うんですよね。

「色白の人」という表現は、日本語にかぎらず、黄色人種や白色人種が使う言語にはある
と思われますので、エスペラントにも必要だと思うんですが、今のところエスペラントには無
いみたいですね。

pal-ulo とすれば良いのかな?と思ったんですが、考えてみると pal-ulo には「青白い人」
という否定的なニュアンスがあるんですよね。
昔だと俗に「うらなり」と言ってたのに相当するんだと思うんですね。

これとは違って「色白の人」という場合には、むしろ称賛の意味が込められているように思
われますので pal-ulo とは区別したいなぁと思いましたが、しかし残念ながら具体的な案は
ありません。

(終わり)

279松戸彩苑:2008/08/30(土) 13:26:06
エスペラントで「オートマ車」「マニュアル車」のことをどう表現すれば良いのでしょうか。

おそらく「オートマ車」は

  aŭto kun aŭtomata transmisi-ilo (または rapid-umo)

「マニュアル車」は

  aŭto kun (per)mana transmisi-ilo (または rapid-umo)

とでも言えば良いのでしょうが、しかし考えてみると、あまりにも長いんですよね。
これでは、車について気軽に会話をすることも出来ません。

ですから私は「オートマ車」は aŭtomata transmisi-ilo の頭文字のATをとって AT-aŭto(発
音は「アタウト」)あるいは aŭtomata rapid-umo から AR-aŭto(発音は「アラウト」)のように
して、「マニュアル車」のほうは man-aŭto(発音は「マナウト」)とでもすれば良いんじゃない
かと考えています。

ずいぶん乱暴な短縮方法だと私じしんも思いますが、しかしこのくらい思いきって短くしない
と、気軽に会話ができる言葉にはならないと思いますね。
もちろん、もっと良い短縮方法があるかもしれませんが。
---

「縦列駐車」をエスペラントで何というんだろうと思って『日エス』を調べてみたんですが、「縦
列駐車」の項はありませんし「縦列」「駐車」の項には「縦列駐車」は載ってないんですね。

そこで英語で何というのか調べてみましたら parallel parking って言うんですね。
ですから、これをなぞって paralela parkado とでも言えば良いのかなと思いました。

(ちなみに Benson の英エス辞典の parallel と park の項を調べてみましたが、parallel
parking は載っていませんでした)
---

しかしつらつら考えてみますと、エスペラント界においては、こういった単語・表現をどんどん
決めていこうという発想がほとんど無いんだなぁと痛感せざるを得ません。

自動車なんてものは、先進国であれば個人で所有していることが多いわけでして、何十年も
前から完全に一般人の日常生活のなかに入っているものです。
それなのに、エスペラント界というのは、こういった単語や表現を整備していこうという気がま
るで感じられないわけです。

結局エスペランティストというのは、こういった単語や表現がまったく必要とならないレベルで
の言語活動しかしていないってことなんでしょうか。

そういや前から気になっていたんですが、エスペラントでは「自動車のハンドル」のことを stir-
rado ということが多いですね。
これは英語の steering wheel などと同様の表現ですのでまったく問題ないように思われます
が、しかしよく考えてみますと stir-ado と発音がよく似ているんですよね。
ですから私は stir-rado よりも stir-ilo のほうが良いんじゃないかなと思っているんですが、い
かがでしょうか。

(終わり)

280松戸彩苑:2008/08/31(日) 13:42:11
>>18 や他のところでも少しふれましたが、私は「長すぎる語根や表現を短くする」というこ
とに挑戦してるんですね。

私は不思議に思うんですが、どうしてエスペランティストというのは長ったらしい語根や表現
が好きなんでしょうか?
また、どうして短くしたり略語を作ったりしようとは思わないんでしょうか?

私が考えた短い語形をいくつか紹介してみます。

agrikulturo → agriko (agrik-ilo 農機具、 agrik-aĵo 農作物)
biblioteko → biblo (bibl-isto 図書館員)
sekretario → sekro
diskriminacio → diskrimo
okcidenta → okcia
orienta → oria
bi-ciklo → bico
motor-ciklo → moco
medikamento → mediko
maksimumo → makso
frekventi → freki
renkonti → renki

281松戸彩苑:2008/09/14(日) 10:41:32
「テスター(回路計)」のことをエスペラントで何と言うんだろうと思って『日エス』を調べたん
ですが kontrolilo、ekzamenilo って書いてあるんですね。

「ほんとにこんなので通じるのかな?」と思ったので、今度は英エス辞典で調べるために、
英語で「テスター」を何と言うのかを Wikipedia で調べてみたんですね。
そうしたら multimeter と書いてありました。

で、試しに他の言語も調べてみたんですけれども、フランス語 multim&egrave;tre、ドイツ語 Multi-
meter、スペイン語 mult&iacute;metro、イタリア語 multimetro、ロシア語 мультиметр と、
欧米各国語では共通なんですね。

だったらエスペラントでも multimetro として良さそうなんですが、こういう単語は、NPIVにも
『Nepivaj Vortoj』にも『Neologisma Glosaro』にも収録されていません。

また Benson の英エス辞典、Jacques Le Puil と Jean-Pierre Danvy の仏エス辞典、Krause
の『W&ouml;rterbuch Deutsch-Esperanto』(独エス辞典)、Minnaja の伊エス辞典も調べてみまし
たが、いずれの辞書にも収録されていませんでした。

考えてみれば、テスターなんてものは、電気関係の仕事をする人ならみんな持ってるでしょ
うし、学校の理科の実験なんかでも使うもののはずなんですよね。
そういう身近なものであるにも関わらず、辞書に載ってないというのは困ったことだと思いま
した。
欧米人や欧米語に堪能な人であれば困らないんでしょうが、そうでない人にとっては不便
なわけです。
---

「かなしばり」のエス訳はあるかな?と思って『日エス』を引いたんですが、「かなしばり」の
項はあったものの「起きようとしても動けなくなる」というのに相当するエスペラントの表現は
載ってなかったんですね。

そこで Wikipedia を調べてみましたら、英語では sleep paralysis と言うんですね。

それから他の言語の記事を見てみたんですが、フランス語 paralysie du sommeil、ドイツ語
Bewegungsunf&auml;higkeit im Schlaf、スペイン語 par&aacute;lisis del sue&ntilde;o ということで、どの言語
でも「寝ているときの麻痺」みたいな言い方をするということが判りました。(ドイツ語の場合
はちょっと違って「寝ているときの運動不能」みたいな言い方になってますが)

ですからエスペラントでも dormo-paralizo と言えば良いんだと思うんですね。

282松戸彩苑:2008/09/21(日) 10:45:46
英語には to slurp 「ズルズルと音をたててすする」という単語があるんですが、これに相当
するエスペラント訳語はあるのかな?と思って Benson の英エス辞典を引いてみたんです
が、slurp の項が無いんですよね。

Wells の辞書の英エスの部や Fulcher&Long の英エス辞典なんかも見てみたんですが、
これらにも slurp の項がありませんでした。

それで今度は『日エス』で「すする」を調べてみたんですが、そこには suĉi、trink-eti、lek-
trinki といった訳語がならんでいました。

suĉi は「吸う」、trinketi は「ちびちび飲む」、lektrinki は「犬・猫のように舌で舐めるように
して飲む」という意味ですね。
ということで、どうも「ズルズルと音をたててすする」というのにピッタリの訳語が無いという
ことになります。

これじゃあ自分で作るしかなさそうだなと思っていたんですが、あるとき、こんなふうに考え
たんですね。
まず最初に zum-ante suĉi という表現を思いついて、次に zume suĉi でも良いなと思った
あとで、最終的に zum-suĉi だと思いました。

これならば「ズルズルと音をたててすする」というのを正確に表わすことが出来ていると思い
ました。

出来てしまえば当たり前のようですが、いわゆる「コロンブスの卵」というやつでして、思いつ
くまでが大変なのです。

283松戸彩苑:2008/09/21(日) 12:16:13
私は、脇山怜(著)『改訂版 海外・暮らしの用語事典』(1983年 ジャパンタイムズ)とい
う本を持ってるんですが、これは日常生活で必要となるような英語の単語・表現を集めた
本なんですね。

この本の「まえがき」には次のように書かれています。

  海外生活に辞書は欠かせませんが、ふつうの和英辞典だけでは不十分な場合がかな
  りあります。私も日々の暮らしの中で、どれだけ辞書を繰っても出ていない単語、学校
  で習わなかった単語にしばしばぶつかり、もどかしさを感じたものでした。

  そこで生活に根ざした単語を8000語ほど集めて『海外・暮らしの用語事典』を編んだの
  ですが、初版からすでに4年、さらに2000語を加え、またあらたに「学校教育」の項を設
  け、ここに改訂版を出すことになりました。

ということで、日常生活に必要な語が10000語ほど収録されてるんですけれども、この
10000の単語が次のように分類されているんですね。

  第1章  住まい
   1 住宅・不動産   2 家具・インテリア   3 寝室・寝具   4 バスルーム
   5 庭・園芸(樹と花の名前)   6 雑貨・住まいの手入れ

  第2章  食生活
   1 調理器具   2 食器   3 料理の動作   4 料理の名前   5 デザート・
   パン(お菓子)   6 飲みもの   7 肉類(牛肉 豚肉 家禽)   8 魚介類・海草
   9 野菜・果物・穀類   10 乳製品(チーズの種類 ミルク・乳製品)   11 調味料
   12 和食・中華の料理名(日本式の切り方いろいろ)

  第3章  衣類
   1 婦人服・紳士服   2 下着・靴下   3 生地・柄・色   4 洋裁・手芸
   5 装飾品   6 衣服の手入れ   7 ヘアスタイル   8 美容・化粧品

  第4章  育児
   1 育児・子供服(おもちゃ・遊び)   2 学校教育・文房具(青少年活動)

  第5章  病気
   1 内科   2 小児科   3 外科・整形外科   4 産婦人科   5 泌尿器科
   6 耳鼻咽喉科   7 眼科   8 皮膚科   9 神経科・精神科   10 歯科
   11 医薬品

  第6章  交通
   1 交通規則・免許   2 車の構造・修理   3 公共交通機関・旅行(エンタテイメ
   ント)

  第7章  通信・銀行・買物
   1 郵便・電話   2 銀行・買物

こういうのを見ても「日常生活に必要な語彙・表現というのは、ずいぶん多いものだなぁ」と
いうことがよく判ると思います。

それに加えて「私がこれまでにこのスレで論じてきたものの中には、この分類には収まらな
いものもけっこうある」ということにも気づいていただきたいんですね。

そういったことがあるから私は「日常生活に必要な語彙・表現を、みんなで少しずつ作って
いくことが必要なんだ」と主張しているわけですね。
---

最近になって気がついたんですが、「日常生活に必要な語彙・表現」という言葉を聞きます
と、多くの人は「海外旅行をしたりする際に必要となるような、必要最小限の外国語の知識」
のことだと思ってしまうみたいですね。

しかし私がエスペラント運動のありかたについて語る際に言っている「日常生活に必要な語
彙・表現」というのは、当然のことながら、そういうものではないんですね。

私が言ってるのは「外国語を使う場合の日常会話」というレベルではなく「母語を使う場合の
日常会話」のレベルのことなんですね。

たとえ教養のない人であっても、日常生活のなかで母語を使う際には、それなりに多種多様
なことを言ってるはずなんですね。

私はそういうレベルのことを言ってるわけですので、誤解の無いようにお願いいたします。

284松戸彩苑:2008/09/21(日) 14:45:48
私が「日常生活に必要な語彙・表現」を整備することの重要性を訴えつづけても、いまひと
つ判っていただけない理由がほかにもありましたので、説明しておきます。

私の見るところでは、人間というのは「難しい」ことが出来るようになると「簡単」なことをバ
カにするようなメンタリティを持ってしまうことが多いと思うんですね。

エスペランティストというのは高学歴の方が多く、難しいことが大好きな人たちばかりです
ので、それが災いして「日常生活に必要な語彙・表現」みたいなものはどうでもいいや、み
たいな感じになってるのではないでしょうか。

しかし、そんなことをやっているから、現代ヘブライ語やトク・ピシンにも負けてしまうんだと
思いますね。

やはり、誰もが知っている「日常生活に必要な語彙・表現」を整備することというのが、きわ
めて大切だと思いますね。

285松戸彩苑:2008/09/21(日) 15:51:18
なぜ私が「日常生活に必要な語彙・表現」を重視するかというと

  多くの人たちにとって必要となる可能性が高い。

ということもありますが、このほかにも

  エスペラントで書かれたレベルの高い文献があんまり無い。
  また、こういう文献が短期間に増えるという可能性もまったく無い。

  だから「高度な会話のための言語」として使えるようにして、支持者を増やしていくしか
  ない。

と考えてるということもあるんですね。
---

英語を始めとして、フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語・日本語…といった言語ですと、
それこそ多種多様な文献が大量にあるわけです。

そういったものと比べますと、エスペラントの文献というのは(当然のことなんですが)質・量
ともにきわめて貧弱だと言わざるを得ないんですね。

エスペラントの文献の多くは、エスペラントの学習教材であるとか、エスペラント運動関係の
ものでして、エスペラントやエスペラント運動に興味のある人以外には価値の無いものです。

また(止むを得ないことではあるのですが)学術的な文献はほとんどありませんし、文学作
品はありますが、これだって文学に関心のある人以外にはどうでもいいものだったりします。

もちろん私だって、多くのエスペランティストがたいへんな苦労をして文献を増やしてきたこ
とはよく知っています。
しかし、そういったことを抜きにして、世間の人たちとまったく同じように考えてみますと、や
はりエスペラントの文献にはあまり魅力が無いだろうと言わざるを得ないんですね。

ということがありますから、英語・フランス語・ドイツ語…とは違って「文献の魅力」で世間の
人たちを引きつけることは出来ないということになります。

ですから、その代わりとなるような魅力が無いといけないわけですが、私は「高度な会話の
ための言語」として使えるようにすれば、文献の貧弱さをカバーすることが出来るのではな
いかと思ったんですね。
---

もちろん現在でも、エスペラントで会話をすることは可能です。

しかし、母語なみに話すことが出来るようになってないと、ブロークン・イングリッシュに太刀
打ちできないだろうと思うんですね。

「エスペラントって、ブロークン・イングリッシュよりも、ずっと役に立つんだな」ということが世
間の人たちにもはっきりと判るくらいのレベルになってないと、世間の人たちから認められ
ることは無いと私は考えておりますので、「日常生活に必要な語彙・表現」を整備することの
重要性を再三強調しているわけです。

「もうすぐエスペラントがEUなどに認められて採用されるんだ」「そうなれば、エスペラントの
語彙・表現の整備や、エスペラントの教育なんかも、みんな政府や国際機関がやってくれる
んだ」などといったことを本気で信じることが出来れば、こんな七面倒くさいことをする必要は
無いと思えるのでしょうが、私はそういう可能性はまず無いと思っていますので、こういうこ
とを言ってるわけなんですね。

(終わり)

286松戸彩苑:2008/09/21(日) 18:54:08
ところで話は変わりますが、関西エスペラント連盟のサイトのなかに、「La Movado」の毎号
の主な内容について書いてあるページがありますよね。

これによりますと、今年の4月号から、最近になって日本社会で多用されるようになった単
語・表現のエス訳語を集めた「Kurantaj vortoj」という連載が始まったらしいんですが、10
月号に「シックハウス症候群」が取り上げられたと書いてあります。

で、この「シックハウス症候群」に相当するエス訳語は、いったいどんなものだったんでしょ
うか?
私は「La Movado」を取ってないので判りませんので、教えていただけると幸いです。

ちなみに私は domo-toksiĝo あるいは domo-veneniĝo というのを考えてたんですが。

287松戸彩苑:2008/09/23(火) 12:27:32
>>285 に補足したいのですが、「読むための言語」としての英語の地位は、当分のあいだ
は揺るがないだろうと思うんですね。

英語を母語とする人が4億人くらいいて、さまざまな分野の最先端・最重要な情報が英語で
書かれているわけです。

また、多少なりとも英語を学んだことのある人も何十億人といますし、それに加えて、英語に
由来する単語は、世界中の言葉に入っているわけです。

こういった明白なる事実をあっさりと無視してしまって、唐突に「英語に代わってエスペラント
を」などと叫んでも、世間の革新派の人たちからも相手にされないわけです。

世間の革新派の人たちや、知識人や、自分の家族や知人でさえも認めてくれないようなこ
とを言っていても仕方が無いので、もっと現実的に考えて、この厳しい状況のなかで何とか
して社会のなかに根を張るように努力すべきだと思いますね。

でないと、このまま衰退していくしかないだろうと思います。

288松戸彩苑:2008/11/03(月) 13:22:02
(1) どうしてエスペラントにおいては日常生活に関する語彙・表現が混乱しているのか。

(2) また、どうして日常生活に関する語彙・表現の混乱に気づいたり、これを問題視する
    人がほとんど居ないのか。

と言いますと

  エスペラントを日常的に使う社会が存在しない。

という事があるからなんですね。(ほかにも理由はありますが)

この点が、現代ヘブライ語やトク・ピシンなどとも決定的に違うところであり、むしろ(現代の)
ラテン語などに似ている点なんですね。

そして、私たちは「エスペラントを日常的に使う社会」というものを持たない状態で、日常生
活に関する語彙・表現を整備していかなければならないわけです。

289松戸彩苑:2009/03/14(土) 13:50:31
>>247-248 で -enzo という接辞について論じましたが、これに関して補足をします。

『エスペラント日本語辞典』の estingi の項のなかに

  fajr/esting/ilo 消火器;消火剤.

という副見出しがありますが、「消火器」と「消火剤」の区別ができないというのでは困りま
すね。

やはり、このような場合には -enzo を使って

  fajr-esting-ilo 消火器
  fajr-esting-enzo 消火剤

として両者を区別すべきだろうと思いました。

290松戸彩苑:2009/03/15(日) 08:01:23
すでに書いたかもしれませんが(調べるのも困難ですので)いちおう書いておきます。

私はこれまで「日常生活に関する語彙・表現」のエスペラントによる訳語を提案してきました。

しかし当然のことながら「エスペラントの新しい語彙・表現」と「日本語の訳語」だけでは、日
本語を知らない海外の人には理解してもらえません。

ですから

(1) エスペラントによる丁寧な説明文。

(2) 世界各国語による訳語をつける。
    (やはり英語がメインとなる)

といったものも添える必要があるでしょう。

こういった情報をネット上に置いておけば、世界中のエスペランティストが利用することが
できるわけです。

291松戸彩苑:2009/04/29(水) 11:58:44
エスペラントの語彙の問題ですが、現在はこちら(↓)のスレに書いています。

http://yy67.60.kg/test/read.cgi/jinkogoplus/1228036613/

関心がございましたら、ぜひともお越しください。

292松戸彩苑:2009/08/10(月) 20:30:02
最近、とある有名芸能人が覚醒剤を所持していたというので逮捕されましたが、この「覚醒
剤」はエスペラントでは何と言うのでしょうか。

『日本語エスペラント辞典』の「かくせい【覚醒】」の項を見ますと「〜剤 ekscitilo」と書いてあ
ります。

しかし英語やフランス語では「覚醒剤」のことを stimulant、ドイツ語では Stimulans、スペイ
ン語・ポルトガル語では estimulante と言うようですので、エスペラントでは stimul-enzo と
するのが良いと思います。

293松戸彩苑:2009/08/10(月) 23:12:39
>>292 に補足します。

Peter Benson の英エス辞典の stimulate の項のなかに stimulnt(stimulant の誤植)という
副見出しがあり、ここに stimulenzo が載っています。

294松戸彩苑:2009/10/17(土) 01:01:08
ESEN&Ccedil;O CAJ ESTONTE&Ccedil;O DE LA IDEO DE LINGVO INTERNA&Ccedil;IA

I
Ĉiuj ideoj, quiuj estas ludontaj gravan rolon en la historio de la homaro,
havas ĉiam tiun saman egalan sorton: quiam ili ecaperas, la samtempuloj
rencontas ilin ne sole cun rimarcinde obstina malconfido, sed eĉ cun ia
neclarigebla malamice&ccedil;o; la pioniroj de tiuj ĉi ideoj devas multe batali caj
multe suferi; oni rigardas ilin quiel homojn freneşajn, infane malsaĝajn, aŭ
fine eĉ recte quiel homojn tre malutilajn. Dum la homoj, quiuj ocupas sin je
ĉia plej sen&ccedil;ela caj senutila sensen&ccedil;aĵo, se ĝi nur estas en modo caj conforma
al la rutinaj ideoj de la amaso, ĝuas ne sole ĉiujn bonojn de la vivo, sed ancaŭ
la honoran nomon de “instruituloj” aŭ “utilaj publicaj agantoj”, la pioniroj de
novaj ideoj rencontas nenion crom mocoj caj atacoj; la unua rencontita tre
malmulte lerninta bubo rigardas ilin de alte caj diras al ili, que ili ocupas sin
je malsaĝaĵoj; la unua rencontita gaşeta felietonisto scribas pri ili “spritajn”
articolojn caj notojn, ne preninte sur sin la laboron almenaŭ iom ecs&ccedil;ii, super
quio ili propre laboras; caj la publico, quiu ĉiam iras quiel anaro da ŝafoj post
la criemuloj, ridas caj ridegas caj eĉ por unu minuto ne faras al si la
demandon, ĉu existas eĉ guto da sen&ccedil;o caj logico en ĉiuj tiuj ĉi “spritaj” mocoj.
Pri tiuj ĉi ideoj “estas modo” paroli ne alie, ol cun ironia caj malestima rideto,
tial tiel agas ancaŭ A caj B caj C, caj ĉiu el ili timas enpensiĝi serioşe eĉ unu
minuton pri la mocata ideo, ĉar li “s&ccedil;ias antaŭe”, que “ĝi crom malsaĝaĵo
enhavas ja nenion”, caj li timas, que oni iel alcalculos lin mem al la nombro
de “tiuj malsaĝuloj”, se li eĉ en la daŭro de unu minuto provos rilati serioşe al
tiu ĉi malsaĝaĵo. La homoj miras, “quiamaniere en nia practica tempo povas
aperi tiaj malsaĝaj fantaşiuloj caj quial oni ne metas ilin en la domojn por
freneşuloj”.

295松戸彩苑:2009/10/17(土) 01:13:04

この文章について説明します。

私は以前から「エスペラントの文章は、見た目が硬すぎる」と思ってたんですね。
で、いろいろと考えてみたんですが、どうやらKの字が多いからだろうと思ったんですね。
そこで、エスペラントのKをCに変えようと思ったわけです。

もちろんエスペラントではすでにCの字を使っていますから、これは&Ccedil;で表わすことにしまし
た。

しかし、これだけですと相関詞の ki- のつく語が cio、ciu … になるんですが、これらは ĉio、
ĉiu … と紛らわしいんですね。
ki- のつく語は目立たないといけないと思いましたので、ロマンス語ふうにして quio、quiu …
としました。
それから ke も ce となるんですが、これも ĉe と似すぎていて良くないので que とすること
にしました。
---

このほかにも、Zも硬い印象を与えますので、Şにしました。

また teksto とか ekzameno のように民族語においてはXを使っている単語がありますが、こ
れはエスペラントでも texto、exameno のようにしたら良いと思いました。
不規則が増えることにはなりますが ekskluziva が excluşiva、そして ekskurso が excurso
となって、見た目がかなりスッキリすると思うんですが。
---

この書記法をしばらく個人的に使ってみて、不都合がないかどうか調べてみようと思っていま
す。

私の掲示板では字上符つきの文字が使えませんので、ここを使わさせていただきました。

296松戸彩苑:2009/10/17(土) 11:01:45
>>294 の続き)

Sed pasas celca tempo. Post longa vi&ccedil;o da batalado caj suferoj la
“buboj-fantaşiuloj” atingis la &ccedil;elon. La homaro fariĝis pli riĉa per unu nova
grava aciro caj eltiras el ĝi la plej vastan caj diversforman utilon. Tiam la
&ccedil;irconstan&ccedil;oj ŝanĝiĝas. La jam fortiĝinta nova afero ŝajnas al la homoj tiel
simpla, tiel “comprenebla per si mem”, que la homoj ne comprenas,
quiamaniere oni povis tutajn miljarojn vivi sen ĝi. Quiam la posteuloj legas
la racontojn pri tio, quiel sin tenis contraŭ la dirita ideo la samtempuloj de
ĝia nasciĝo, ili absolute ne volas credi caj pensas, que ĉion tion ĉi elpensis la
historioscribantoj pro mocado je la foririntaj genera&ccedil;ioj. “Ĉu efective”, ili
diras, “la tuta mondo tiam consistis el idiotoj? Ĉu efective existis homoj,
quiuj elpaŝadis contraŭ la pioniroj cun tiaj sensen&ccedil;aj contraŭparoloj, caj la
&ccedil;eteraj homoj silentadis, caj la unua rencontita cvinjara infano ne diradis al
tiuj criticantoj: “Sinjoroj, vi ja parolas teruran, sur nenio fonditan
sensen&ccedil;aĵon, quies rebato sin trovas ja tuj antaŭ via naşo!”? Absolute
necompreneble! La historiistoj &ccedil;erte trograndigas!”

297松戸彩苑:2009/10/17(土) 11:14:09
この表記法は、k や z といった硬い感じのする文字がないのは良いんですが、そのかわり
に補助記号つきの文字が多くなってしまうという欠陥があります。

日本語のローマ字でも

  「訓令式」  規則的・合理的だが、見た目が硬い。
          (訓令式では「チ」「チャ」「ジャ」が ti、tya、zya であるのに対して、ヘボン式
          では chi、cha、ja となる)

  「ヘボン式」 見た目は柔らかいが、不規則な点がある。
          (訓令式では「タ」「チ」「ツ」「テ」「ト」が ta ti tu te to であるのに対して、ヘ
          ボン式では ta chi tsu te to となる)

ということがありますが、これと似たようなものだと思います。

298ベダウリンデ:2009/10/23(金) 13:53:23
松戸さんの計画言語掲示板で紹介されてましたので、見てみました。
下に埋もれてないで、どうせならあげましょうよ。

文字の改革、ですか・・・文字はね、言語のジャンルの中でも最も表層の部分ですから、
手を付けるのも簡単だし、いざ変えるとなっても、簡単に変えられるでしょうね。
改革の中では楽ちんな方ですね。

四角い物より丸い物の方が、商品としてよく売れるらしいので、「見た目を丸く」はいい発想ですが、
文字って、そんなに「丸さ」重要かな?と思います。
丸い文字ならビルマ文字とかが丸っこいと思う。でも、角い文字だって風格あってステキですよ。
どっちがいいとは、一概には言えないと思う。
それに、KやZは、ラテン文字使用国では一般的に広く使われてると思う。IPAでも使われてるし。
それを敢えてへそ曲がりで、違う表記にする意味が分からない。
今でさえ不評の特殊文字がさらに増えるし・・・Cのバリエーションが多すぎるし・・・
どうせなら、総とっかえして、新人工文字を作ればいいと思う。ビルマ文字以上に超丸っこいのを。

299ベダウリンデ:2009/10/23(金) 14:29:45
>この書記法をしばらく個人的に使ってみて、不都合がないかどうか
テキストを単純に置換すればよいだけなので、不都合が生じるはずありませんが、
これをエスペラントとして初めて接する人が分かりやすいかどうか、が問題です。
初心者にわかりにくくてもいいんだ、とおっしゃるならそれでよいですが。

s=サ、ş=ザ、ŝ=シャで、c=カなら、&ccedil;=ガ、ĉ=キャかな?と思ったら、&ccedil;=ツァ、ĉ=チ?
少なくとも、符号と音声の整合性をとってほしいですね。

300ベダウリンデ:2009/10/24(土) 08:11:30
松戸さんがKとZを嫌う理由は、「ラテン語にはKとZが無いから」ではないですか?
ラテン語にKとZが無いのは、古代ローマ人が「丸い字の方がKawaiiから」と思ったからではなくて、
偶然の結果だったみたいですよ。Zが無いのはラテン語にはZの音が無かったから。
Zは借用ギリシャ語を表記する時のみ使用した、とあります。
アルファベットは系統樹的に発展してて、フェニキア文字から、ギリシア文字、エトルリア文字、ラテン文字と受け継がれたようです。
ギリシア文字にはKとZがありました。
エトルリアにはg音が無かったので、ギリシャ語でg音を表してた文字(Γ)をk音として使用し、Kは用いられなくなった。
ΓはCに形を変えて、ラテン語ではCをk音で使用する事を受け継いだ。
でもラテン語にはg音があったから困った。それで新しくG(Cにちょっと付け足した)という文字を作った。

このように、ラテン語でKやZを用いないのは(習慣にからんだ)特殊な事情があったからで、
KやZという文字そのものはラテン文字のアルファベット表に残っていたため(Γは消されちゃいましたが)、
直接のラテン系民族以外では、ギリシャ系のむしろ正当な文字として、KやZを憚りなく使うのだと思う。
(そうするとCは余るので、民族により色々な使い方ができる事となる)

つまり、言いたいのは、エスペラントでKやZを廃する理由は、
アルファベットの歴史から見たら、全く正当性が無い、という事です。
(アルファベットなんか無視していいんだ、人工語なんだから、とおっしゃるのであれば、かまいませんが)

301ベダウリンデ:2009/10/27(火) 11:18:01
松戸さんの文字改革案の問題点は
①特殊文字(符号付きのアルファベット)が増える。
②なお且つその使い方が「アルファベットの常識」を超えている。
です。
でも「見た目を丸くかわいくして人気を得よう」というコンセプトは面白いと思うので、
それをどうやったら実現できるか考えてみると面白いと思います。
もちろん、①②の問題をクリアして、さらには、エスペラントの法則(?)である
一文字一音の原則は守り抜いて・・・・・

自然言語は、まずコトバがあって、それに準じて文字体系が作られる。
人工語では、文字と音韻体系はワンセットで考案されるのだと思う。
エスペラントの場合、音韻体系そのものがかなりスラブ寄りです。
一言で言うと子音が多様すぎる。ツォとかチェとかヂとかが存在する。
k音やz音も、独立の音として(*1)存在する。
これを一文字一音でやろうとすると、今のような文字体系にならざるを得ないです。
Zはツォ音に使えるけど、エスペラントにはザズィズゼゾもちゃんとあるからZは使えない。
Cもツォ音に使える。もしCをk音で使うと、ツォ音を表す文字を新たに作らねばならない。
やっぱCはツォ音だな。と、なるでしょう。
ただでさえ多い子音なので、KやZを省くなんて、不可能なのです。

なので、これをラテン語風の丸い文字だけに制限するなら、まず音韻体系を変えないと不可能だ思う。
一言で言うと子音の数を減らす。子音の数を減らして今までのエスペラント単語を表現する。
そうすると、不都合が生じないように、単語全体を厳密にチェックしなければならない。
大変だと思いますが、その過程で「不必要な語彙」とか発見してくれたら嬉しいですね。NEPOに役立てます。

(*1)ドイツ語やロマンス諸語では、z音もあるけど、ある条件でs音が濁音化したものとしての扱いみたいですね。
だから文字ではSになる。これらの言語では単独で独立したz音が無いのかもしれないです。
ca,ci,cu,ce,coは、ラテン語ではカキクケコでいいのですが、
英語やフランス語ではカシクセコ、イタリア語やルーマニア語ではカチクチェコって読む。
カキクケコって言えないから、ka,ki,ku,ke,koで表記できないんだと思う。
ロマンス諸語はk音やz音が独立の音として存在しない音韻体系なのでKやZが現れない、のでしょう。(自説)

302なつ:2009/10/30(金) 18:54:56
松戸さんの思想信条という根本的問題点は
丸みを帯びたものを善と思う価値観であり、
角があるものを悪と思う価値観を基礎とした考え方であるということです。
○→美、善
□→醜、悪
なんで?なんで?なんで?なんで?
完全なる偏った見方すなわち偏見に満ちた潜在的差別主義に凝り固まっている頭であるということです。
違いますかな?
下衆の勘ぐりをいたしますと、
戦前の カタカナ表記+画数の多い旧字体 →潜在的忌み嫌うべき戦前軍国主義の象徴
戦後の ひらかな表記+新字体の常用漢字のみ →戦後民主主義万歳
という潜在意識なのですかな。
まず大前提である
○→美、善、優
□→醜、悪、劣
という考えを持っている理由をきちんと述べるべきである。
偏見ではないし潜在的差別主義者ではないという理屈をね。
一事が万事、全てにおいて理由のない偏見による優劣を付ける癖がおありではないのかな。

303なつ:2009/10/30(金) 19:07:25
松戸氏の考え方の
前提が理解できないので内容にいくまでもないですが、内容についてあえて言うならば・・・

kioは間違いであり、正書法はquioであるのだ!
が、quinoは間違いであり、正書法はkinoであるのだ!
理由は俺様がこう書いたほうがかっこいいかなっと思ったからだ!理由はそれだけだ!
なんですね。へええええええええ

textoのxはksと発音しなければ間違いであるが、
examenoのxはkzと発音しなければ間違いである!!
ksかkzかは、覚えるのだ!これぐらいアジア人でも覚えられるだろ?ケケケ
なんですね。へええええええええ

初心者や非欧米人に、不利に不利に、とっつきにくく、とっつきにくく、
不規則なほうへ、不規則なほうへ、覚えることを多く、多く、
廃れるように、廃れるように・・・・・

ですかね。クレージーな考えと思う僕のほうがクレージーなんですかね。

304なつ:2009/10/30(金) 19:20:55
kやzを廃止したい偏見は、よりラテン語(系?)に近づけたい偏見からなのかな。
ベダウリンデさんの言うようにラテン語にアルファベットとしてはkやzはありますが、
ギリシア語由来のものしか使いません。kはカレンダー(ついたちの意味)のkくらいにしか使わない。
その証拠に、xは硬い感じがするからイヤというはずなのにむしろ逆に取り入れようとしている。

305:2009/10/31(土) 11:20:56
kをそのままqで置換すれば?

306なつ:2009/10/31(土) 18:19:05
訂正
kioは間違いであり、正書法はquioであるのだ!
が、quinoは間違いであり、正書法はcinoであるのだ!

307ベダウリンデ:2009/11/02(月) 17:10:57
計画言語の掲示板で松戸さんが書いていたのですが、「個人的な」「遊び半分」の改造案だという事です。
改造案は誰でも気楽に作っていいと思うし、気楽な案から「瓢箪から駒」の場合もあるだろうけど、
本気でやるなら「方向性」って大事だなーと思った。何を目的として改造するか、ですよね。
だた「自分はこうの方がいいから」では説得力が無いな。と。

308なつ:2009/11/07(土) 23:25:22
こういう綴りのほうがかっこいいという非理論的な個人的のみの価値観は用いるべきではありませんね。

309:2009/11/29(日) 15:33:11
>非理論的な個人的のみの価値観

欧米崇拝とか言って噛み付くのも非論理的ですね

310なつ:2009/11/29(日) 17:56:26
*さん
僕の書き込みの引用は

>非理論的な個人的のみの価値観

であるわけですよね。
この引用の内容は、「欧米崇拝」云々は一切ありませんよね。
ですから、あなたがもしもちゃんとした日本人であるのなら、
僕が、誰にどこでどのように「欧米崇拝と言って噛み付いた」のが「非論理的」なのか、
引用あるいはご指摘をお願いします。あなた、日本人ですか?

311なつ:2009/11/29(日) 18:01:35
*さん
あと、もうひとつ。
僕の「欧米崇拝だと非論理的に噛み付いた」ことはさておき、
>>こういう綴りのほうがかっこいいという非理論的な個人的のみの価値観は用いるべきではありませんね。
というのには少なくとも批判なさらないということですね。
ありがとうございます。

312だにょ:2009/12/06(日) 21:32:44
中国製? 改良は、きりがなかったりして。

大通語
http://www.mondlango.com/jp.htm

313なつ:2009/12/10(木) 21:11:02
>>312
中国人も作るんですねえ。
日本では(日本語では)探しても人工言語は数える程度なんですが、
英語で探せば無限にどんどん溢れてきます。百花繚乱
それを凌駕(?)するには、特別なコンセプトその他がなければならないわけです。
この大通語もエスペラントの語彙選択を英語よりプラス中国語の要素を加味したみたいですね。
IDOはフランス語の語彙と文法を少々加味したみたいなものです。
このように英語で調べればあふれ出てくる99.9%の人工語、改造エスペラントが、ただ好きな言語に傾けただけだったり、つづり発音などを変えただけだったり、
まあよくいっても、欧米の価値観の言語で無尽蔵に共通欧米語彙を取り入れたりといったものばかりです。
プロパガンダ次第で、そういう「コンセプトのない」恣意的なだけの改造エスペラント、あるいは、欧米の価値観に頼っているだけの改造欧米言語に、ガツンと一石投じると思ったからこそ、
NEPOに、僕は、乗っかりました。ガツンと一石投じたい。


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