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海のひつじを忘れないようです
203
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:12:39 ID:sRmmAC9s0
まだこどものままであったそいつが震える手で、その刃をつかむ。
こわごわと、両手で握りしめてもなおやまぬ震えを抑えつけながら。
そして、そばへと寄る。四肢を縛り付けられ、台へと寝かされたその女性の前へ。
その決心を待っていたかのように、怪物の一体が、女性の顔にかけられた布を、剥がした。
やめろ。
そいつが息を呑むその瞬間と、“完全に”同調していた。
手の震えが止まらない。そいつのものも、俺のものも、ひどく震えて、動かせない。
手だけではない。肩も、足も、震えて、震えて、動かせない。
動かせなかった。動かすことが、できなかった。
怪物の一体が、そいつの腕を、つかんだ。
そいつの腕をつかんで、その行先を、誘導する。
縛り付けられた女性の、その指先へと、そいつの手が近づく。
その手に持つ刃が、その先端が、触れる。
怪物は、誘導し、支える以上のことはしてこなかった。
ただ、無言で圧を、課せられた義務のその重石を、幼い背中に背負わせた。
これが、お前の儀式だと。お前が呑み込む、生そのものなのだと。
震え、目を閉じていたそいつが――まぶたを、開いた。
やめてくれ。
台の上で、抑えた吐息が、漏れた。
204
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:13:05 ID:sRmmAC9s0
耐えることのできる感触ではなかった。
実際にそいつは、その場で吐き出し始めていた。
しかし怪物は、無言でそいつを監視していた。
励ましも、恫喝もないまま、無言で、ただ見つめていた。
逃げ出すことなど、不可能だった。
儀式を終わらせる。それ以外には。
そいつにはもう、刃を滑らせる以外の選択肢は、なかった。
脂にまみれた刃は、いくらでも交換できるように、いくらでも用意されていた。
どんなに時間をかけようと、どんなに手間をかけようと、問題はひとつもなかった。
すべてはあらかじめ、整えられていた。
ただ、ただ、手を動かした。手を動かすしかなかった。
その度に、少しずつ、少しずつ彼女は、小さくなっていった。
少しずつ、少しずつ彼女は、削られていった。
彼女はもう、人の形を保ってはいなかった。
205
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:13:25 ID:sRmmAC9s0
それでも彼女は生きていた。そのような手順で、刻んでいったから。
まだ、まだ、最後まで、やらなければならなかったから。
彼女に残された部位は少なくとも、まだ、刃を入れられるところは残っていたから。
彼女は、そいつを見ていた。
そいつも、彼女を見ていた。
そいつと、彼女の視線が、その一瞬、交錯した。
交錯したことを、俺は、覚えている。
そして、その後。その直後。
そいつは、俺は、その視線を断ち切るように、刃を、手の中の刃を、
彼女の顔の、切れ長なくぼみの、そこに収まる球体へと、
その中心へと、手を、刃を――。
私だってほんとは、他の誰にも見られたくなんかないんですよ。
206
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:13:58 ID:sRmmAC9s0
それ以上、立っていられなかった。座り込んでいた。
座り込んで、俺は、泣いていた。涙が溢れて溢れて、止まらなかった。
漏れ出る嗚咽を抑えられず、意味をなさないうめきを上げた。
蠕動するのどに爪を立て、激しく、激しく掻き毟っていた。
こんなこと、あの日以来だった。
通過儀礼を果たした、あの日以来だった。
トソンが死んだ、あの日以来だった。
トソンを殺した、あの日以来だった。
トソン。俺には、無理だ。
こんな重たいもの、背負えない。
こんな十字架を背負うなんて、できない。
俺には、無理だ。
無理、なんだ。
すまない。トソン。
すまない――。
.
207
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:14:23 ID:sRmmAC9s0
異音が、俺を現実へと引き戻した。
ちりん、ちりんと、弱々しく鳴り響く金属の音色。
それは俺のすぐそばから聞こえてきた。
のどに突き刺さったゆびを抜き、手探りに辺りを探す。
それはすぐに見つかった。それは、小さなベルだった。
いつかどこかで拾ったベル。だれかの持ち物だったようにも思えるが、
記憶が茫洋とあやふやで、どうしても思い出すことができない。
いや、いま思い出すべきは、そんなことではない。
爪の間にたまった肉と脂の滓をさっと落とし、俺はベルをつまみ上げた。
そして、おぼろげな記憶を頼りに、だれかが、かつて出会った何者かがそうしたように、
立ち上がり、腕を伸ばして、静かにそのベルを振った。
金属の軽く澄んだ音が、空間を震わせて残響した。
音が、返ってきた。
もう一度、振る。音は再び返ってきた。
同じ方向、同じ場所から。俺はベルを鳴らしながら、
一歩一歩、音の返ってくる方角に向かって歩みを進める。
俺の振るうベルの音は、意図せず拍を打ちリズムを刻みだしていた。
その律動に、別の音が乗った。
それは、声だった。それは、歌だった。
208
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:14:47 ID:sRmmAC9s0
歌は俺の向かう、その先から聞こえてきた。
思わず早めそうになる足を、意識的に抑える。
打ち鳴らすベルのリズムが狂わぬよう、慎重に歩む。
音と音との調和が壊れぬよう、注意を払う。
二度と手放さないために。
もう二度と、失わないために。
ああ。いまはもう、はっきり聞こえる。
一日たりとて忘れることのなかった歌声が。
かつて俺を包んでくれた、あの歌声が。
トソンの、歌声が――。
ただいま、トソン。
.
209
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:15:20 ID:sRmmAC9s0
6
しぃは、ひつじだ。
しぃは、歌う。
父に合わせて。
ぼくに合わせて。
歌を、歌う。
曲に合わせて、歌を、歌う。
しぃは、ひつじだ。
しぃは、ひつじだった。
ひつじは歌っていた。人の声で。一人で。
朗々と。ぼくの知っているその曲を。
ぼくの知らないところで。ぼくとは無関係に。ぼく抜きで。
首が、いやに、軽い。
胸の前が、真空の、ようだ。
ぼくは、ひつじに、触れた。
歌うひつじ。真白いひつじ。
その白。
その白い扉。
その白い扉を、くぐる。
歌うひつじを、くぐる。
210
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:15:43 ID:sRmmAC9s0
海
.
211
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:16:22 ID:sRmmAC9s0
海で、満ちていた。
海で満ちた、宇宙だった。
宇宙に、人が、二人いた。
ローブのこども。
光の人。
光の人が、包容していた。
ローブのこどもを、抱きしめていた。
二人はまるで、ひとつだった。
まるで元から、ひとつだった。
212
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:16:45 ID:sRmmAC9s0
ローブのこどもが、こちらに気づいた。
ローブに隠れたその顔が、こちらを見ていた。
フードを脱いだショボンの顔が、こちらを見ていた。
こちらを見て、微笑んだ。
微笑みが、崩れ去った。
泡となって、消え去った。
那由多の気泡が、浮かび上がった。
213
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:17:08 ID:sRmmAC9s0
そこにショボンは、いなかった。
光の人も、いなかった。
極小の光る気泡が。
ショボンだったものが。
光の人だったものが。
合わさって。
分かちがたく。
無量にして。
ひとつの意味となり。
宇宙の。
暗き深淵の。
その彼方へ。
その彼方へと。
沈んで。
沈んで。
沈んで、いった。
.
214
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:17:33 ID:sRmmAC9s0
ああ、やはり、そうなのか。
.
215
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:18:02 ID:sRmmAC9s0
しぃは、ひつじだ。
しぃは、歌う。
父に合わせて。
ぼくに合わせて。
歌を、歌う。
曲に合わせて、歌を、歌う。
しぃは、ひつじだ。
しぃは、ひつじだった。
しぃは、ひつじじゃなくなった。
しぃは、沈んだ。
しぃは、沈む、気泡になった。
しぃは、気泡になった。
そして、ぼくも。
ぼくも、このまま――。
.
216
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:18:29 ID:sRmmAC9s0
何かが、ぼくに、ぶつかった。
何かが、ぼくを、抱きとめた。
何かには、腕が、あった。
何かは、腕を、伸ばしていた。
何かの、指先には、何かが、あった。
小さな、金属の、ベルがあった。
ベルが、鳴った。
ベルが、鳴って。
気泡に、なった。
ベルの、気泡が、沈んでいった。
誰かの、伸ばした、腕を、呑んで。
腕を、伸ばした、誰かを、呑んで。
泡が、泡の群れが、沈んでいった。
沈んでいく、気泡を、ぼくは、眺めた。
ただ、ただ、眺めていた。
ずっと、ずっと、眺めていた――
.
217
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:18:54 ID:sRmmAC9s0
気づけばぼくは、廊下に転がっていた。
光の人も、歌うひつじも、そこにはいない。
もはや親しみすら覚え始めている変哲のない教会の廊下で、ぼくは寝転がっていた。
額に手を当てる。痛みはない。
触れて見た限りでは、怪我の一つもない。
気持ち悪さも歪んだ視界も、なにもかも元通りになっていた。
まるで先程までのすべてが、幻であったかのように。
けれどあれは、現実だったはずだ。
水の宇宙で見たもの。感じたもの。思ったこと。
あれは、すべて、現実だった。気泡となった――だれかも、
一つに合わさった光も。最後に、ぼくを抱きとめた、何かも。
218
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:19:18 ID:sRmmAC9s0
その時になってようやくぼくは、すぐそばにだれかが立っていることに気がついた。
その人影は微動だにすることなく、じっと、自分のてのひらを見つめていた。
人影は、小旦那様、その人だった。
「小旦那様……?」
鐘が、響き出した。
教会中に幸いを告げる、その鐘が。
けれど小旦那様は身体を震わせるほどに大きなその鐘の音も聞こえない様子で、
とにかくただじっと、何も持たない自身のてのひらを見つめていた。
空のてのひらを、じっと、じっと――――
.
219
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:19:58 ID:sRmmAC9s0
『三章 踊るひつじ』へつづく
.
220
:
名無しさん
:2017/08/20(日) 22:20:22 ID:sRmmAC9s0
今日はここまで
221
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:39:21 ID:vG2lH35Y0
0
「ぼくは罪人なんです」
人から罪の告白を受けるのは、これが二度目だった。
感情を交えず淡々と、事実だけを伝えるまだこどものものであるその口を、
俺は黙って見続けていた。そしてその口が完全に閉じきった後、
俺はかつてのその時と同じ感情を、目の前のこの少年に対しても募らせていた。
お前は何も悪くない。
生まれも、環境も、どこで育ち、どこで暮らし、だれに囲まれ、教わり、
見せられ、聞かされ、感じさせられ、行わせられ――。
全部、お前が選んだわけじゃない。お前に責任なんてない。
お前にそれを押し付けたのは、大人だ。
悪いのは、全部、大人だ。
お前に罪なんか、ないよ。
俺とは違う。
222
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:39:46 ID:vG2lH35Y0
大人。
大人とは、なんなのか。
いつかあいつへ尋ねた問に、未だ答えを見いだせずにいる。
大人。大人とこども。その境界。こどもはいつ、大人になるのか。
年齢で切り替わるのか。世間が認めた時か。それとも自然となるものなのか。
大人はこどもと、何が違うのか。大人はこどもと、同じ人類種なのか。
人は、必ず、大人になるのか。
生きていれば。生きていさえすれば。
生き伸びてしまったならば。
ならば、俺は。
俺は今……どちらなのか。
.
223
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:40:18 ID:vG2lH35Y0
「どういうつもりだ」
「……質問の意味がわからんな」
「とぼけるな!」
悠然と構える兄の前に、書類を叩きつける。
派手な音が木製の机から鳴り響いたが、
兄はまるで意に介した様子を見せなかった。
その態度に、興奮が余計に昂ぶる。
「何をそんなに騒ぎ立てている。
いつも通り、不良品を処分するだけのことじゃないか」
「リストがおかしいと言ってるんだ! オサムにもビロードにも商品価値はある。
他の奴らも同様だ。結論を下すのは早計に過ぎる!」
「お前、いつから商品を名前で呼ぶようになった?」
一瞬、言葉に詰まった。
「……とにかく、俺は断固反対だ。
たしかにハンデを背負っているやつらもいるが、屠殺だなんて現実的じゃない。
最後まで面倒を見てやるべきだ」
「あのハーモニカの小僧もか」
224
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:40:49 ID:vG2lH35Y0
俺は、答えなかった。何も答えず、ただ、兄を睨んでいた。
兄にはそれで十分だった。兄は俺のことを、よく理解していた。
「どうやらお前は、大人になりきれなかったらしい」
兄が立ち上がる。細長く、まだ成長途上な俺より遥かに長身なその身体が、
野生動物のようなしなやかさで伸びた。見下ろしていたはずの頭が、
遥か高いところへと浮かび上がり、見上げなければならなくなる。
「だったらどうする。檻に閉じ込めて、あいつらと一緒に俺のことも陳列するか」
「そんな非合理なことはしない」
精一杯の虚勢はいともたやすくいなされた。
結局のところ、俺と兄との力関係は昔から何も変わっていない。
兄はいつでも、俺を縛り上げ、己の意のままに強制することができる。
父が俺へ、そうしたように。
変わっていない。こどもの頃から、何一つ。
「どうせなら、あれがいいか」
窓辺に立った兄が、窓の外を眺めながらつぶやいた。
俺の位置からでは、兄が具体的に何を見ているのかまではわからない。
しかし、その視線の先に何があるのか、建っているのかは、知っている。
225
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:41:13 ID:vG2lH35Y0
「なんの話だよ」
「お前のお気に入りを使うことにする」
嫌な予感がしていた。兄の視線の先には、
うちの商品――奴隷として売られる予定のこどもたち――を収容している隷舎がある。
隷舎を見て、兄は何かを物色している。思案している。
何を?
予感は、確信へと変わりつつあった。
その確信を払拭しようと叫んだ俺の声は、もうほとんど覇気を失い、悲鳴と化していた。
「だから、なんの――」
「お前にはもう一度、“通過儀礼”を受けてもらう」
トソンの顔が、思い浮かんだ。
歌い、ほほえみ、時には厳しくもあったが、
いつも同じ目線で語り、同じ程度のバカをして、
同じ時間を共有してくれた、トソンの顔。
俺が壊し尽くした、トソンの顔。
226
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:41:36 ID:vG2lH35Y0
「思えば前回の通過儀礼、あれは不完全なものだった。
あのときの道具は最後まで悲鳴のひとつもあげず、命乞いもしなかった。
それではダメだ。それでは通過儀礼にならない。あれは、失敗だった」
兄につかみかかっていた――いや、違う。俺は兄に、しがみついていた。
そうしてしがみついていないと、すぐにも崩折れてしまいそうだったから。
そのまま全部、なくしてしまいそうだったから。
俺は、兄を見上げた。かつてこどもだったその人を。
クソガキで、問題ばかり起こして、父を憎みいつか街を出て
一旗揚げてやると気炎を吐いていた、フォックス、その人を。
俺の知っているフォックスは、そこに、いなかった。
「お前は……トソンの犠牲を、なんだと――」
兄が、首を傾げた。
「あれは、そんな名だったか?」
.
227
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:42:00 ID:vG2lH35Y0
兄はまだ何か話していたが、俺にはもう、何も聞こえなくなっていた。
俺はその時、本当の意味で理解した。これが、大人なのだ、と。
大人という、意味。
大人という、実存。
大人という、現象。
そうか。大人とは、大人とは――
罪の継承によって原生せしめ続けるこの現し世の在り方そのもの……なのか。
ならば、この世界は。
ならば、楽園は。
ならば、俺は。
俺は――。
.
228
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:42:33 ID:vG2lH35Y0
「起きろ、――」
星のない曇天の夜の下、ぼくは肩を揺られて目を覚ました。
そこここからかすかな寝息が聞こえてくる。まだ、深夜だ。
起こされたばかりのぼくもまだ眠気が取れず、意識は朦朧としていた。
が、直後。ぼくの曖昧だった意識は、即座に覚醒した。
そこには、小旦那様がいた。片膝をついた格好で、そこにいた。
別におかしなところのない、いつもの、ごく当たり前の小旦那様だった。
全身が、血にまみれていること以外は。
「小旦那様……?」
小旦那様の腕が、ぼくへと伸びていた。
ぼくは差し出されたその手を見て、ついで、逆側の手を見た。
そこには小旦那様がいつも携帯している、奇妙な紋様の浮かぶ短刀が握られている。
いつもは汚れのひとつもない静謐な気配を漂わせているそれが、
いまは、その本来の用途を存分に感じさせる修飾を施されている。赤い、修飾。
その姿は、ぼくが待ち続けていたものに酷似していた。
.
229
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:42:56 ID:vG2lH35Y0
迷うことはなかった。ぼくは彼の、血にまみれた手をつかんだ。
少し気難しさを感じさせる彼の顔が、わずかな悲しみを含んで、
その口を静かに、静かに動かした。
――、お前を楽園へ連れて行く。
.
230
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:43:27 ID:vG2lH35Y0
三章 踊るひつじ
1
「おはよう、ハイン」
「……おはよう、ナベ」
目を覚ましたら、ナベの顔があった。いつもと同じように。
そしてこれもまたいつもと同じように、ナベの指があたしの目元をぬぐった。
その指先に、水滴が付着している。その水滴の曲面に、
丸く歪曲したあたしの顔が映っていた。目元を腫らした、あたしの顔。
「あたし、また、泣いてた?」
「いいんだよ」
ナベの顔がさらに近づく。額が、鼻が接触する。
「あなたが見たのはただの夢。思い出すことなんて、何もない」
231
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:43:51 ID:vG2lH35Y0
ナベが口を開く度、その息遣いが伝わってくる。
それがなんだか幸福なような、さみしいような、たまらない感情を呼び起こす。
私は生きている。ナベは生きている。
そのことが、なんだかとても、胸に来る。
「何もないんだよ……」
ナベの声は、とてもやさしい。暖かくて、心地いい。
そのぬくもりに、おぼろげな夢がさらに薄れた。もう何も覚えてはいない。
自分が何に泣いていたのかも、何を思っていたのかも。
だからきっと、それは思い出す必要がないことなのだろう。
ナベの言うとおり、あたしが見たのはただの夢。遠い、遠い世界のただの夢。
いつか忘れた、夢の足跡。
.
232
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:44:13 ID:vG2lH35Y0
「吹けないんだ」
「そんなことない。すぐ上手くなるよ」
「違うんだ」
それは、抑揚のない声だった。
「忘れちゃうんだ」
いつもの彼の声ではなかった。
「ぼくはジョルジュなのに……。みんなに愛されなくちゃ、
一番愛されてなくちゃ、ママに見てもらえないのに……」
銀のハーモニカに映る彼の顔は、能面のように無表情だった。
「愛されなくちゃ、ジョルジュじゃないのに……」
まるで自分自身を亡失したかのようなジョルジュに対して、
あたしはそれ以上掛ける言葉を見つけられなかった。
そばに座って抱きしめても、ジョルジュは何の反応も示さない。
ただただハーモニカを見つめて、吹けない、吹けないとつぶやいていた。
.
233
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:45:10 ID:vG2lH35Y0
何かがおかしくなっていた。
何も変わっていないはずなのに、何かがずれているような違和感。
座りの悪さに落ち着かず、気持ちが悪く、なのにその正体だけは
どうしてもつかめないもどかしさが、教会中を覆っていた。
ぞわぞわとした不安が背中を這っているかのようだった。
それでもあたしたちには――あたしには、日々を過ごす以外の選択肢はなかった。
日々を過ごす以外のことを考える必要もなかったし、
それがなにより幸せなことだとあたしたちは知っていた。
だってここは、こどもの楽園なのだから。
「そうそう、みんなぴょんぴょんがぐるりるしてて上手だよ〜」
こどもたちの間を巡るナベが、そのよく通る声でみんなを褒めている。
ナベはおっとりとした話し方の割に意外と機敏で、面倒見もいい。
時々擬音語だらけの言葉に首を傾げそうになるけれど、
それもまた、彼女の味だと思う。
あたしたちは毎日こうして、小さな子たちに踊りを教えている。
だれが言い出したのかは忘れてしまったけれど、
あたしとナベのダンスを見て自分も踊ってみたい、
教えてほしいとお願いされたのがきっかけだった――気がする。
あたしも小さい子たちの面倒を見るのは嫌いじゃなかったし、
みんなで踊れる日が来たら素敵だなと思ったので、懇願には快く応じた覚えがある。
それに、自分の踊りに誰かが感動してくれたという事実が、とてもうれしかったから。
234
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:45:42 ID:vG2lH35Y0
「いいよいいよ〜。そこでぱんっぱんっ、ぱぱぱぱっ!」
だからだろうか。日課となったこのレッスンは、
あたしにとって毎日の楽しみになっていた。
つたないながらも一生懸命練習に励むこどもたちを見るのは、
自分の身体を動かすのとはまた異なる赴があった。満ち足りた幸せを感じた。
いつもは、そうだった。
「アニジャ〜、それにオトジャ〜。どうして言うとおりにやってくれないの〜?」
「やらないのではない。できないのだ」
「しないのではない。わからないのだ」
「わからない〜?」
「ナベの言葉は、理解できない」
「ナベの教授は、確知できない」
「む〜?」
「ハインがいい。ハインの教えは、わかりやすい」
「ハインがいい。ハインの手本は、つかみやすい」
「む〜〜〜〜?」
235
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:46:12 ID:vG2lH35Y0
ほほを膨らませたナベが、のんびりした口調とは
相反するずんずんとした大股で近寄ってくる。
そして腰を下ろした格好のあたしの前に立つと、
上半身をひねるようにして覗き込んできた。
「ハ〜インっ。ご指名だよ〜」
むすっとした膨れ顔が、あたしの目の前に現れる。本心ではない。
そういう態度を演じているのだとわかる、本気ではないその顔。
その顔が、あたしを見て、怪訝そうに曇りを帯びる。
「ハイン?」
「……え、あ、ああ、うん」
あたしは慌てて立ち上がる。
なぜだかわからないけれど、ぼんやりと輪郭の崩れたナベの顔から目を背けて。
ナベだけではない。目に映るものすべてが、なんだかぼやっと見えづらかった。
目をこする。視界の異常は、すぐに治った。
「ごめんごめん。あたしってば、ちょっと寝てたみたい」
苦笑いでごまかす。
それでも心配そうにしているナベの肩をぽんぽん叩き、
あたしはアニジャとオトジャの前に躍り出た。
236
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:46:54 ID:vG2lH35Y0
「さ、どこから教えて欲しい?」
「初めから頼む、ハイン先生」
「一から願う、ハイン師匠」
二人の答えに忍び笑いを漏らしたあたしは、
ナベの視線に口を閉じ、ついでにどんっと、胸を叩き、
「お姉ちゃんに任せなさい!」
アニジャとオトジャの前で、ステップを踏み出した。
初歩的で、基本的な足さばき。アニジャとオトジャ、
それに他の子たちもあたしを中心に輪を作って
ふんふんうなづいたり目を輝かせたりしている。
こうして自分の培ってきた技を教えるのは、楽しい。気持ちいい。
そのはずなのに。
237
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:47:26 ID:vG2lH35Y0
何度目だっただろうか。彼らにこのステップを教えるのは。
もうずっと、長いこと、何ヶ月か、それとも何年か。
とにかく長い時間を掛けて、あたしは同じことを、
基礎の基礎となる部分を教えてきた気がする。
けれど彼らは、何も覚えなかった。
ひとつも上達しなかった。不真面目なわけではない。
彼らは真面目に、それに楽しんでこのレッスンに参加している。
心から楽しんでいると、あたしにもわかる。
なのに彼らは、上達しない。成長しない。
どうして?
吹けない、吹けない――。
.
238
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:47:57 ID:vG2lH35Y0
「ハイン!」
叫んで手を伸ばすナベの姿が、斜めに傾いていた。
違う。斜めになっているのは、あたしだ。あたしは倒れかけていた。
いけない、踏ん張らなきゃ。
とっさに足へと力を込め――ようとしたが、それは叶わなかった。
足が、動かない。
そう思った直後、あたしは肩をしたたか地面に打ち付け倒れていた。
みんなの駆け寄ってくるぱたぱたとした足音が、重層的に鳴り響いている。
「ハイン、大丈夫か」
「ハイン、平気か」
心配して掛けてくれた声に、しかしあたしは反応できずにいた。
声そのものは聞こえていたけれど、言葉の意味が脳まで届いてこない。
あたしの意識は、自分の足。動かなかった足に集中していた。
無意識に、手を伸ばしていた。足に、触れていた。
足を、動かせた。
239
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:48:21 ID:vG2lH35Y0
「……ごめん。お姉ちゃん、どじっちった」
ぺろっと舌を出して、茶化したふうに謝罪する。
緊張していた場の空気が、一気に緩和していった。
あたしがナベの手を借りて立ち上がると、
みんなは人騒がせだとか怪我がなくて良かったとか思い思いのことを言いながら、
何事もなかったかのようにあたしの側から離れていった。
「……ちょっと捻ったみたい。医務室に行ってくる」
周りに聞こえないよう、ナベに耳打ちする。
ナベが何かを言おうとしたがそれを指で塞ぎ、さらに言葉を続けた。
「レッスンのつづき、お願いな」
それだけ言って、ナベから離れる。
しばらくは問い詰めるような視線を背中に感じていたけれど、
やがていつもの明るく間延びした声が、部屋の中に響き渡った。
その声に安心して、あたしは部屋を出る。部屋を出て、医務室に向かう。
240
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:48:44 ID:vG2lH35Y0
正直な所、痛みはほとんどなかった。足は普通に動かせたし、
打ち付けた肩も違和感はあるものの放っておけば治る程度のものだ。
それでも部屋を出たのは、なんとなくあの場を離れたくなったから。
そうしないといけない、そんな気がしたから。
それに、医務室に行けばこの捉えがたい気持ちにも
何らかの解決策を得られるような、そんな気もしていた。
医務室には誰かが常駐していた。達観したしゃべり方が特徴的な、
みんなのまとめ役だっただれかが。こどもの心を持ちながら、
大人の知識を用いることのできた何者かが。
おかしな記憶だと思う。
そんな誰かなんて、出会ったこともないはずなのに。
物語の登場人物と混同しているのだろうか。
それとも幻か、単なる記憶違いか。もしくは夢の中の人物だったりして。
それともあたしが、忘れているだけ?
241
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:49:10 ID:vG2lH35Y0
……まさか、ね。
自分で自分の想像を打ち消そうとする。
ありえない、と。ありえない、ありえない。
そう言い聞かせながら、あたしは妙な期待を抑えられずにいた。
その“だれか”は、本当にここにいるんじゃないか。
医務室の扉を開いたら、隅っこに置かれた小さな机に腰掛けたその人物が、
メガネのズレを直しながらこちらへ振り向くのではないか。
その人があたしに、このもやもやを解消する何らかの答えを与えてくれるのではないか――。
そんな想像が、いやに具体的に想起できる。
医務室の扉に手を掛ける。いるわけがない。でも、もしかしたら。
背反するふたつの気持ちにせめぎ合いながら、あたしはとにかく、扉を開いた。
ジョルジュがするように、開け放った扉が壁と衝突するくらい勢い良く。
そこには、ギコがいた。
242
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:49:40 ID:vG2lH35Y0
「……よっ」
軽く手を上げて挨拶したあたしに、ギコが会釈を返す。
あたしはベッドに腰掛けているギコのすぐ隣に、自分も腰を下ろした。
ふたりぶんの重みで沈んだベッドが、中央付近でくの字に曲がる。
「転んだか? ぶつけたか? おねえちゃんが手当しようか?」
覗き込んで、話しかける。ギコは反応しなかった。
うつむいて、どこかここではない虚空に視線を漂わせている。
その胸には、なにもない。本来彼が身につけているはずの楽器は、そこにない。
おかしいといえば、ギコの様子もおかしかった。
元々おとなしい子ではあったけれど、
ちっちゃなこどもたちには好かれていたし、他の子とも普通に交流をしていた。
でも、いまは。彼は自分から孤立しようとしていた。
少なくともあたしには、そう見えた。人を遠ざけて、誰とも触れ合おうとしなかった。
まるで、そう。あの、車椅子の魔女、みたいに。
いったい彼に、何があったのだろう。
存在するべきものの存在しない胸の前を、あたしは見つめる。
243
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:50:06 ID:vG2lH35Y0
「会いに来たんだ」
とうとつな彼の声に、あたしはわずかに驚いた。
驚きながら、彼がせっかく放ってくれたその言葉に応答し、問い返す。
「会いに来たって、だれに?」
「だれか」
だれか。その言葉に、どきりとする。
「だれかって、だれ?」
「……わからない。でもぼくは、その人のことが苦手だった気がする」
「苦手なのに、会いに来たのか?」
「どうして苦手なのか、わかったから」
「……わかった?」
「似ていたんだ。ぼくの、大切な人に。だけど……」
244
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:50:30 ID:vG2lH35Y0
ここまで話して初めて、ギコの顔に表情が現れた。
けれどギコの心中へ浮かんだそれは、決して良い感情ではなかったのだろう。
何かを歯噛みするような苦悶の顔のまま、ギコは目を伏せている。
「その誰かを、思い出せない?」
ギコはうなづかなかった。否定もしなかった。
「あたしもさ、誰かに会おうと思ってここに来たんだ。
知らないはずなのに、知ってる誰かをさ」
努めて明るく、茶化すように話をする。
「なんだかこれってさ、ジョルジュが鳴き真似する動物みたいだよな。
ほんとはいないはずなのに、なんだかいるような気がして、
実はほんとにいたんじゃないかって思い込みそうになるとこなんか、さ」
ギコがあたしを見つめていた。その目はわずかにうるんでいて、
あたしは自分が見当違いのことを言っているとその時ようやく気がついた。
ギコの口が、ためらいがちに、開いた。
ちがう、と。
ギコが、いった。
大切な人が誰だったのか、思い出せないんだ、と。
245
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:51:01 ID:vG2lH35Y0
おねえちゃん――!
.
246
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:52:15 ID:vG2lH35Y0
鈍痛が頭を襲った。頭を抱え、荒い息を吐く。
心臓が早鐘を打ち、皮膚の上にさらに
何層もの皮膚が移植されたかのように重たく鈍い。
なに、これ。
あたし、いま。
なにかが。
みえて――。
身体を押さえて、とにかく波をやり過ごした。
やり過ごして、やり過ごして……そうしてどれだけの時が経ったのか、
鼓動も、呼吸も、いくぶんか静まってきた。深く息を吐いて、呼吸を整える。
247
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:52:49 ID:vG2lH35Y0
隣を見た。そこにはすでに、ギコの姿はなかった。
ギコの姿はなかったが、ギコの座っていた場所に、何かが置かれていた。
それを手に持つ。それは、短刀だった。鞘を抜くと、
奇妙な波模様の浮かぶ刀身が目に映った。
吸い込まれそうなその紋様から目を離し、鞘に収める。
届けなくちゃ。
――届けなくちゃ。
額を抑える。鈍痛が、再び顔を覗かせている。
けれどだいじょうぶ、さっきほどじゃない。立ち上がり、医務室から出る。
ギコがどこへ行ったのか。それはわからなかったけれど、
なぜだか足が勝手に動いていた。進むべき方向を予め、
あたし自身が知っているかのようだった。
あたしは裏庭へと出ていた。
揃えられた石畳の上を歩き、そこで止まらず、ついには下生えへと足を踏み入れる。
先にはもう、森しかなかった。
248
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:53:21 ID:vG2lH35Y0
森。
頭がひどく痛む。
あたしの中の何かが、この先へ進むことを拒んでいる。
絶対に入ってはならないと、警鐘を鳴らしている。
森の向こうへ行ってはいけない。
そう言っていたのは、だれだったっけ。
ナベだった気もするし、ジョルジュだった気もするし、他の誰かであった気もする。
森には、入っちゃ、いけないんだって。
でも。
この先に、いる気がする。
あの人が、いる気がする。
あの人が。
気づけば、森の中にいた。
乱れる呼吸を省みることもなく、あたしは木々を折って前進していた。
前へ、前へと歩を進めていった。そして、あたしは、見つけた。
森の奥へと進むギコと――彼女、車椅子の魔女の姿を、見つけた。
.
249
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:54:18 ID:vG2lH35Y0
2
「あなたに頼みたいことはひとつだけ。向こうへもどったら、
このノートに書かれた内容をすべて世間に公表してほしい」
この時をどれだけ待ち侘びたことだろう。
私がここへ来てから、どれだけの月日が過ぎ去ったのか。
長くここに居過ぎたせいで、もはや時間の概念が失せている。
次々と消えていく同胞を横目に、老いる事も成長することもなく、
ただただ書き続けてきた日々。まるでそう、
魔導書をつづることだけに執心した魔女、そのもののように。
魔女と呼ばれた、私。
「この森を抜けたその先に、この幽世と現し世との境界がある。
あなたが生きるべき現実へと架けられた橋が」
指を差し、彼に進むべき方向を示す。
森は深く暗く、目の前に潜むは闇しかないように思える。
しかしその先には、必ずある。この停滞した死の世界から逃れ、
生へと至るべく開かれた道が。
250
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:54:50 ID:vG2lH35Y0
「ここにいる限り、誰もが同じ末路を辿る。いずれはみんな、泡になる」
ノートを持ったまま静止した彼に声をかける。
彼。彼であって、彼でない少年。幼さを残した顔も、
ほんのりと丸みを帯びた輪郭も、人の良さそうなその目元も、私は全部、知っている。
ずっと、ずうっと見てきたその顔を、私はいまも覚えている。
その声も、その名も、全部、全部。
だから、どうしようもなく、腹が立つ。
あの日交わした約束を、思い出してしまって。
「あなたはハーモニカを吹きたいと言った」
彼と交わした、あの日の約束。
「あの時の覚悟を、うそだとは言わせない」
理解している。この子が彼でないことくらい。
それでも私には許せなかったのだ。この子がこの世界へ来ているという、その事実が。
この子は帰らなければならない。彼のためにも。私にためにも。
……でなければ、私のこれまでが余りにも、余りにも無為になってしまうから。
だというのに、この子は。
251
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:55:22 ID:vG2lH35Y0
「どうして……」
どうしてこの子は、歩きだしては、くれないのか。
「私には時間がない。それにたぶん、あなたにも」
彼の名を、呼ぶ。
彼の服をつかみ、引っ張る。
「いまを逃せば、あなたはきっと忘れてしまう。私の言葉も、私のことも」
彼の足を動かそうと、力を込める。
けれど車椅子の私には――私には、彼を動かすだけの力がない。
彼は大地に根を張ったかのように、動かない。
「その果てに何が待っているのか、それはあなたも見たのでしょう?」
力を込めながら、彼の顔を見上げた。
見上げた彼の顔は、私の顔を見下ろしていた。
何かを問いたげな、いまにも泣き出しそうな、
小さな、ほんの小さなこどもの顔をしていた。
助けを求める顔をしていた。
252
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:55:47 ID:vG2lH35Y0
「なのに、どうして、あなたは……」
「簡単なことだ」
木々のこすれる音が、すぐそばで響いた。
車椅子を旋回させる余裕もなく、首だけで音の聞こえた方へ振り向く。
そこには、人がいた。気配もなく、音もなく、
まるで初めからそこに存在していたかのように突如として出現した少年。
彼の主。小旦那様。
彼の小旦那様が、さざめく森そのもののように、その深く静謐な声を震わせた。
「それがこいつの望みだからだ」
.
253
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:56:30 ID:vG2lH35Y0
3
「ここにいることが、彼の望みだというの?」
「そうだ」
彼の主がどうしてここにいるのか。
私と彼がここへ来ていることを知っていたのか。その方法は定かではない。
けれど理由は明確だ。この男は、彼を連れ戻すためにやってきた。
二度とは戻れぬあの、永久の夢の檻へと連れ戻すために。
彼を見る。不安そうな面持ちで、茫漠とした視線を私たちに向けている。
たぶん、そうなのだ。彼が足を動かさなかった理由。
目の前のこの人物こそが彼の心の拠り所にして
――彼の足をつなぎとめる最終最後の枷、そのもの。
うそよ、と、私は彼の主を否定する。
――私はまだ、諦めてはいない。諦める訳にはいかない。
「彼はハーモニカを吹きたいと言った。その気持ちは本心だったはずよ」
「そこに偽りはない。しかし心とは、単層単色の一枚絵とは違う」
彼の主が、彼の抱える私のノートに触れた。
途端、すべてのノートが一斉に、ひらひらと宙を舞い始めた。
まるで空を泳ぐ羽根のように。魔術が如きその光景に、我を忘れる。
「自我の一片すら残さぬ自己の完全なる消滅。それが“ギコ”の望みだ」
254
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:57:12 ID:vG2lH35Y0
彼の主が口にした“その名”に反応し、現実を思い出す。
可能な限りの敵意を込めて、彼の主を睨みつける。
「彼は“ギコ”じゃない。そんなこと、あなただって知っているはず」
「然り。だがそれ故に苦しむ。背反する願望を御しきれず」
睨みながら私は、違和感を抱いていた。
何かが違う。何かがおかしい、と。
「ギコが本当の意味でギコになること。
それ以外にこの惑いし魂を救済する術はない」
私は彼らのことを見てきた。
彼らがここへ来てからの短くない時間を、可能な限り観察してきた。
彼らが何を思い、何を悩み、何を求めて行動したのかを詳察してきた。
だから彼のことも、彼の主の人となりもすでに把握している。
彼の、彼の主への依存も、またその逆も。
故に感じる違和感。決定的な、その一事。
「ギコは、ギコなのだ」
彼の主は、彼を、ギコとは呼ばない。
いや、呼べない。本来ならば。
255
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:57:43 ID:vG2lH35Y0
「あなたは、だれなの……?」
腕の内のノートから解放され力なく座り込んだ彼に、彼の主がそっと手を添えた。
二人のその関係はもはや一欠片の対等性も保持してはいなかった。
主と従者のように。父と子のように。守護者と庇護者のように。
そして――羊飼いと、ひつじのように。
この暗がりの森において、彼の主だけがいやにはっきりと、
その存在をこの場に示している。薄い燐光に包まれたその身体が、
暗がりを越えてかくあれとこの三次空間上に立脚している。
だというのにその顔だけが、その顔だけが曖昧に、
曖昧にその詳細をぼやかしていた。まるで、そう、まるであの光輝の塊。
牧師、その人のように――。
「あなたも、“接触”を――」
「お前はなぜ、ここにいる」
256
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:58:38 ID:vG2lH35Y0
「わた、し?」
話の矛先が私へと向けられたことに、狼狽する。
その燐光を放つ指先が、私を捉える。心臓を射抜かれたように、動けなくなる。
視線すらも、動かせない。
「なぜ逃げ出さなかった。なぜ森を越えなかった。なぜ一人でも帰ろうとしなかった。
ひつじの教会の、その在り方を唾棄しつつ出ていかなかったのはなぜだ。
時間がなかったからとは言うまい。機会はいくらでもあったはずだ。
それだけの時を、お前はここで過ごしてきたのだから」
「それは……」
のどが乾いて、声が出せなかった。何も言えなかった。
彼の主の言葉はいちいちもっともで、それ故に私の言葉が入り込む隙間がなかった。
私には、答えられなかった。
「答えられまい。お前には答えられまい。
心の悲鳴に目を背け、凝り固まった妄念に捕らわれてきたお前には。
故に代わりに答えよう。お前がここにいた理由。ここから出ていかなかった理由。
それは――」
彼の主が次に放つ言葉が、私には聞くまでもなく、わかった。
「誰よりお前が、現実を恐れる“こども”だからだ」
.
257
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:59:17 ID:vG2lH35Y0
「ちがう!」
と、そう叫ぶ他、私にできることはない。
否定しなければ。これだけは絶対に否定しなければ。
だって私はまだ、諦めてはいないのだから。
彼にノートを持ち帰ってもらわなければならないのだから。
彼に元の世界へもどってもらわなければならないのだから。
だから彼に現実を恐れさせるようなことは
――私が現実を恐れているだなんて事実、明かしては、ならない。
ならないのに、彼の主は、追求を止めない。
「ならば答えられるはずだ。表せるはずだ。
お前が現実を拒絶していないのならば、
お前の生まれを、お前の父を、お前の母を、お前の半生を、
お前の拠り所を、お前の罪を、そして――お前の、名を」
血の気が引く。この男は知っている。明らかに。
私の秘密を。ひた隠しに隠してきた、現実の私を。私の現実を。
瞬間、現実を、想起した。
.
258
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:59:37 ID:vG2lH35Y0
「見よ!」
自由を奪われた私の身体が、男の一声によって意志とは無関係に動かされた。
私は振り返り、背後の木々へと目を向けた。
「これこそがお前の、偽らざるお前自身の心象だ!」
木々が、葉が、蔦がみちみちと蠢き、絡み合っていた。
絡みひしめきあったそれは一個の生命のように穴隙なく重なり、
厚く、固く、重く強く痛々しく私の目の前で顕現した。
それは、壁だった。外界を閉ざす、絶対の壁。拒絶の証。
私、そのもの。
「わ、わたし、は……」
違う、私は。
そう言おうとするも、声が出ない。あいつが行使する魔術によって
――ではない。私自身が、声を、殺したのだ。私自身が、もう、認めてしまったのだ。
259
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 21:59:58 ID:vG2lH35Y0
気づかぬ内に、彼と、目があっていた。彼が私を見ていた。
彼の目に、私はどう映っているだろうか。あの時のままだろうか。
それとも、あの時よりもひどいだろうか。
ああちがう、そうじゃない。彼は彼じゃない。別人だ。そんなこと、わかってるんだ。
彼がここにいるってことは、つまり、そういうことなんだって、わかってるんだ。
それでも、私は。
私は、まだ。
私は、まだ、約束を――
彼が、私を見て、言った。
「きみは、だれなの?」
.
260
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:00:26 ID:vG2lH35Y0
その音が、あらゆる呪縛を解いた。
私と彼が、音のした方向へ視線を向ける。
草木がこすれた、その音のした方向へ。
「ご、ごめん。盗み聞きするつもりじゃ、なかったんだ」
そこにはハインがいた。どうしてハインがこんなところに。
疑問の答えが与えられるよりも先に、ハインが動き出した。
ふらふらと、異様に弱々しく、危なっかしい足取り。
その覚束ない足取りでハインが歩を進めたのは、彼の下、だった。
直後、ハインが倒れた――ように、私には見えた。
座ったままの彼へと覆いかぶさるようにして、
その華奢な体躯を空中へと投げ出す。いつもの彼女とは違う、軽やかさも、
力強さもない動きで。彼が飛び込んできたハインを受け止める。
「これ、大切なものなんだろう? 忘れちゃ、だめじゃないか」
彼の胸に頭を預けた格好のまま、ハインが何かを持ち上げる。
それは、短刀だった。鞘に収まった短刀。彼の主の持ち物であったもの。
彼がハインの手から、その譲渡された刃を受け取る。忌み、恐れるような慎重さで。
261
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:01:57 ID:vG2lH35Y0
ごめん、もう消えるな。
その言葉とは裏腹に、ハインは彼にもたれたまま動かなかった。
息をしているのかすら危ぶむほど、完全に停止しているハイン。
その顔は彼の胸に隠れ、見えない。
「あたしは、だれなの?」
動きのない森の中で、声だけが、響いた。
「教えてよ、“おねえちゃん”……」
彼女の声が“ハイン”には在るまじき幼さを帯びている。
己が存在のすべてを預けきろうとする童子じみた、頼りのない力なさ。
定義されるべき本来の意味どおりの、こども。
ああ、そうか。あなたも、そうなのね。
あなたも、思い出してしまったのね。
その、罪の記憶を――。
.
262
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:02:24 ID:vG2lH35Y0
「なんて、な。冗談だよ、冗談」
ハインが機敏に顔を上げ、快活に笑った。
その笑顔はいつもの彼女と比べてもなんら遜色なく、
ともすればその冗談という言い分を信じてしまいそうな説得力を有している。
だからこそ、危うい。
私はハインだと主張する彼女は、とても危うい。
彼女が彼から離れ、立ち上がろうとする。
そのか細く矮小な、アニジャやオトジャとくらべても小さい、
背を伸ばしても座ったままの彼とほとんど変わりのない、その小さな小さな身体で。
その小さな小さな身体が、立ち上がると同時に、よろめいた。
彼が、彼女の名を叫んだ。
ハインが――いや、自分がハインでないことに気づいていしまった少女が、目を見開いた。
ハインの殻を破った彼女が――“ミセリ”の首が、天に向かってのけぞった。
.
263
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:02:48 ID:vG2lH35Y0
4
いやだ。
痛いのは、いやだ。
殴らないで。
ぶたないで。
パパ。
やめて。
やだよ。
痛いのは、やだよ。
どうして殴るの。
どうしてぶつの。
どうしたら、ぶたないでくれるの。
どうしたら、乱暴されないですむの。
乱暴されないですむなら。
わたし、なんでもする。
おもちゃもいらない。
お洋服もいらない。
お花も、わんこも、ママも。
自分も。
全部、全部いらない。
友達だって。
友達、だって――。
.
264
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:03:17 ID:vG2lH35Y0
いまになってどうして、あの頃のことを思い出すのだろう。
忌まわしい記憶。忌まわしい生活と、忌まわしい父。
そして、忌まわしい、自分。
ハイン。
ハインとなった、あの子。
ミセリ。
あの子へのつぐない。それがわたしの生きる意味。存在する理由。
だからわたしは、あの子に尽くす。あの子を守り、あの子を導き
――あの子に、ミセリであることを思い出させない。
それだけが、私の望み。
――望み、だったのに。
.
265
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:03:47 ID:vG2lH35Y0
一人にさせるべきではなかった。目を離すべきではなかった。
あの子の異変には気づいていた。あの還泡式の日、あのハーモニカの演奏を聞いて以来、
彼女がギコに惹かれ始めていることには気がついていた。
ギコがハーモニカを手放して以降、
異変が急速に進行していることにもわたしは気がついていた。
それなのにわたしは、何の対策も取らずにいた。
下手に刺激して彼女の記憶をこじ開けてしまうかもしれないと思うと、
怖くて何もできなかった。何もせず、ただ、
あなたはハインだとささやくことしかしなかった。
その結果が、これだ。
レッスンを早くに切り上げ、彼女を探していたわたしの耳に、
鼓膜に、それは轟いた。悲鳴。彼女の。“ミセリ”の。
考える間もなく駆け出していた。悲鳴は森の奥から聞こえた。
どうしてそんなところに。森に入ってはいけないと、あんなに言っておいたのに。
何度も何度も覚えさせたのに。息せき切って走る私は、
自分の失態を棚上げして、彼女を責めた。責めて、そして、
自分にそんな資格がないことにすぐに気づく。
考えるのは、後。
いまはとにかく、ミセリの下へ駆けつけなければ。
あの子が完全に自分を取り戻す、その前に。
森へと飛び込み、枝葉をかき分け、前へと進む。
走って、走って、そして私は、ついに見つけた。
266
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:04:08 ID:vG2lH35Y0
ミセリが、ギコに、抱きしめられていた。
ミセリは、ぴくりとも、動かなかった。
.
267
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:04:31 ID:vG2lH35Y0
「返してよ……」
ミセリへと、歩み寄る。
その小さく華奢な矮躯に、その小さく華奢な矮躯を抱える男の下に、歩み寄る。
「“ハイン”を、返してよ……!」
奪い取り、抱きしめた。軽い。とても、軽い。なのに重い。
いっさいの力が失われた人の身体は、例えそれが小さなこどものそれであっても、
支えきろうとするには、とても、重い。
ミセリにはまだ息があった。
衰弱して、いまにも途切れそうなか弱い呼吸ではあったけれど、
とにかく彼女は、生きていた。
帰らなきゃ、教会に。
だって、ここは、場所が悪い。
彼女を抱えて立ち上がろうとする。けれど、やはり、重かった。
わたしが抱えるには重くて重くて、それにどうしてか、
力を込めようとしてもまったく身体が言うことを聞かなかった。
腕にも腰にも頭にも、まるで血が通っていないみたいだった。
268
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:04:56 ID:vG2lH35Y0
「貸せ」
目の前に、手が差し伸べられた。少年の手が。
自分と、ミセリと、ギコ以外の人間がここにいたことに、
私はこの時初めて気がついた。そこにはあの車椅子の魔女と、
ギコの主の姿も存在していた。ギコの主が、わたしに手を差し伸べていた。
わたしからミセリを奪おうと、その手を伸ばしていた。
「だれが……!」
力なくうなだれるミセリの身体を、強く抱きしめる。
その身を少しでも隠せるように、敵の視界から見えなくなるように、と。
お前も同類だ。
ギコや、車椅子の魔女と同じ。わたしたちの平穏を喰い荒らそうとする敵だ。
それを今更どのような了見で、味方面を振る舞おうというのか。
ミセリは、わたしが、守るんだ。
そのような思いで、敵を睨んだ。
睨んだ、はずだった。
269
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:05:29 ID:vG2lH35Y0
奇妙な感情が、わたしの中を駆け巡っていた。
敵意を向けた眼の前の男から受け取った、予想とは異なる感覚。
それはけして、嫌悪感や恐怖感といったマイナスの感覚ではない。
もっと大きく、絶対的で、揺るぎのない存在感。
言葉にするならば、あえてするならば、それは、おそらく――安心?
気づけばわたしは、ミセリを彼に預けていた。
彼の手はあくまでやさしく、ミセリを抱え、包容していた。
その身体から、全身から、光のような、
暖かさのような力が放射されているみたいだった。
彼はわたしの知らない、かつて出会ったことのない存在だった。
「魔女よ、見ろ」
彼が、魔女に向き直った。
魔女は、彼の腕の中のミセリを見つめていた。
「これが“ギコ”を棄てた時の姿だ」
それだけいうと、彼は魔女に背を向け歩きだした。
教会に向かい、その重力を感じさせない足取りで。
わたしはその後を追おうとして進めかけた歩を、一度、止めた。
振り返る。閉じた森のその暗がりに、魔女と、ギコがいる。
暗がりで佇む魔女とギコに――ギコに、告げる。
もう二度と、“ハイン”に近付かないで。
.
270
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:05:53 ID:vG2lH35Y0
彼の後を追い、彼の腕の中で死んだように眠るミセリを見つめる。
その寝顔に語りかける。
だいじょうぶだよ。
あなたが見たのはただの夢。
怖いことも、つらいことも、全部、全部ただの夢。
目を覚ませば消えてなくなる、あぶくのようなただの夢。
思い出すことなんて、何もない。
思い出さなきゃいけない記憶なんて、何もない。
何も、ないんだよ。
だから、いまは、すべてを忘れて――。
おやすみなさい、ミセリ。
.
271
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:06:16 ID:vG2lH35Y0
5
おねえちゃん、どこへ行くの?
どうしてあたしを置いていくの?
いやだよ、おねえちゃん。
おねえちゃんがいないと、あたし、生きていけないよ。
もう、だれもいないんだよ。
あたし、一人になっちゃったんだよ。
一人じゃ踊れないよ。
何も見えないよ。
暗いよ。
怖いよ。
会いたいよ。
おねえちゃん。
おねえちゃん……。
おねえちゃんは、もういない。
.
272
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:06:39 ID:vG2lH35Y0
「おはよう、ハイン」
目を覚ましたら、ナベの顔があった。いつもと同じように。
そしてこれもまたいつもと同じように、ナベの指があたしの目元をぬぐった。
その指先に、水滴が付着している。その水滴の曲面に、
丸く歪曲したあたしの顔が映っていた。目元を腫らした、あたしの顔。
あたしの、幼い顔。
「ハイン……?」
ナベの顔が不安に曇る。あたしがいつまでも答えないでいるから。
ごめんね、ナベ。あなたを心配させるなんて、あたし、悪い子だ。
あたしが目覚めるまで心細い思いをさせてしまったであろう彼女に、
あたしはあたしに可能な限りの微笑みを演じて返す。
「おはよう、ナベ」
彼女の安心が、肌を通して伝わった。
「ところでナベ」
「あ、ハイン、だめ〜。まだ、寝てなくちゃ〜」
「ううん、だいじょうぶ。それよりも、何かあったのか? ずいぶん静かだけど」
273
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:07:04 ID:vG2lH35Y0
上半身を起こして、耳をそばだてる。
いつもは叫び声や怒声に満ち溢れた教会の中が、今日はいやに静かだった。
時が凍りついたような静けさは、何か薄ら寒いものを想起せざるにいられない。
「いま、還泡式をしているの〜」
「還泡式? だれの?」
「それよりも、体調はどう〜?
ぽんぽん痛かったり、頭あっちっちだったりしない〜?」
質問に答えることなく、ナベがあたしの額に手を当ててくる。
ナベはいつも通りだった。間延びした話し方に、独特の擬音。温和な表情。
あたしのことを思ってしてくれる、掛けてくれる言葉と行動。
ナベはいつも通りだった。余りにも、いつも通りだった。
274
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:07:28 ID:vG2lH35Y0
「あのな、ナベ、あたし……」
あたしを案じてくれているからこその、いつも通り。
「お腹が、すごく空いてる」
「待ってて!」
ナベが嬉しそうに飛び上がって、部屋から出ていった。
お腹が空いたというあたしのウソを、真に受けて。
彼女の足音が完全に聞こえなくなってから、
あたしは自分自身に向かっておねえちゃんのようにつぶやいた。
お前は本当に、悪い子だなあ。
.
275
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:07:53 ID:vG2lH35Y0
思った通り、足はまともに動かず立ち上がるのも困難だった。
それでも壁に寄りかかって時間さえかければ、何とか移動することはできる。
そういえばここへ来た時も、こんなふうに寄りかかっていたんだっけ。
森の外から、ここへ来た時。
どうして忘れていたのかな。
あたしが、あたしだっていうこと。
あたしの、大切な人のこと。
おねえちゃんのこと。
考えている内に、目的地へと到着した。
還泡式が行われている広間。けれどそこへ来てもなお、
こどもたちの喧騒は聞こえなかった。だれもいないわけではない。
確かにみんな揃っている。なのにみんな、どこか居心地悪そうに、
騒ぐこと、楽しむことを躊躇していた。
壇上では、ジョルジュがハーモニカを吹いていた。
いや、吹こうとして、吹けていない。不揃いな音が
断続的に羅列されているだけで、それはけっして
一個のメロディーとはなりえなかった。
ジョルジュはまるでジョルジュではない顔をして、
泣きそうになりながらハーモニカを吹こうとしていたけれど、
でも、焦れば焦るほど、うまくやろうとすればするほど、
彼の努力はから回って、余計に音は、意味をなさない騒音となっていった。
胸が苦しくなった。
276
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:08:15 ID:vG2lH35Y0
ハーモニカが止まった。
めぇという、ひつじの鳴き声を境に。
いつの間にかひつじが、歌うひつじが広間へと入ってきていた。
海を割るように、こどもたちが道を開ける。
その間をひつじが歩く。ふわふわな羊毛を揺らしながら、
やさしい足取りで歩いて行く。還泡式の主役の下へ。
光に導かれた、幸運なこどもの下へ。
ひつじの足が止まった。
目の前には、一人の少女。
陶器のように美しい肌をした、大人びた女の子。
誰とも交わらず、孤高を貫いていた人物。
畏れと嫌悪を、一身に請け負っていた者。
アイスブルーの瞳。
人を惑わす魔の女。
車椅子の、魔女。
ひつじの前には、彼女がいた。
彼女の前で、ひつじが座った。
277
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:08:35 ID:vG2lH35Y0
「魔女よ」
しんと静まり返った場内に、少年の声がエコーした。
声の主は、ギコの小旦那様。ひつじの傍らに佇む彼が、
魔女に向かって問いかける。
「最後に言い残すことは?」
「私、は……」
広間中の視線が、一斉に彼女へと集まった。
車椅子の車輪が、わずかに後退する。
「私は……私は……」
しぼりだすような彼女の声も、物音一つない広間では隅々にまで響き渡った。
その大きさに本人自身が狼狽するかのようにのどを抑える仕草をした後、
さらに小さく、か細い声を上げる。
「わた、しは……わたし、は……わたし、わたし、は……
わ、わたし、は……わたしは、わたしは……わたしは………………」
278
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:09:02 ID:vG2lH35Y0
私は。
最後にその言葉を放った彼女は、
何かをつかむかのように伸ばしていた手を収め、口を閉じ、そのままうつむいた。
そして彼女はとうとう、閉ざした口を二度とは開かなくなる。
ひつじが一声鳴いた。
「ジョルジュ。彼女を連れて行ってやれ」
ギコの小旦那様からとつぜんの指名を受けたジョルジュは、
ぽかんとした顔をして、しばらくそのまま動かなかった。
「ママがお前を待っている」
ジョルジュがこくんとうなづいた。
そして車椅子の取っ手を掴み、魔女と共に前を行くひつじを追った。
部屋を出る時、あたしとひつじ、それに魔女とジョルジュはすれ違った。
魔女は、魔女ではなかった。
うつむいて、打ちのめされたただの女の子が、そこにいた。
ジョルジュは無表情だった。心なしか視点も定まらず、
彼の操る車椅子の軌道も左右に蛇行していた。
あたしは、何もできずに、彼らを見送った。
279
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:09:27 ID:vG2lH35Y0
彼らがいなくなった広間は、張り詰めていた緊張が一気に解放されたのだろう、
くつろいだ空気がそこかしこに充満していた。あたしが思っている以上に、
車椅子の魔女を苦手としている子は多かったようだ。
弛緩したこどもたちの輪。あたしはその輪には加わらなかった。
どうしても話をしなければならないあの子の姿が、
ここには見当たらなかったから。
広間から離れる。行くべき場所は、きっとあそこ。
あの人はきっと、あそこにいる。
壁に肩をもたせて、足を引きずり進んでいく。
裏庭へと出る。目的地は、この向こう。このすぐ先。
けれど困ったことに、ここには壁がない。支えになるものがない。
何かに頼ることはできない。
あたしたちは、自分の力で歩まなければならない。
.
280
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:09:51 ID:vG2lH35Y0
壁から離れ、一歩を踏み出した。身体が大きく傾ぐ。
そのままバランスを保てず、倒れた。石垣に手をついて、身体を起こす。
そしてまた、一歩踏み出す。踏み出して、倒れて、起き上がって、
それを何度も繰り返して、何度も何度も繰り返して、近くて遠いその場所へ、
遥かな遠いその場所へ、あたしはわずかに、着実に、近づいていった。
そしてあたしは、その入口へとたどり着いた。
森。
あたしたちを囲う森。
あたしたちを守る森。
きっと彼は、ここにいる。
どうしていいか、わからずに。
あの時のあたしと、同じように。
だから、あたしは、行く。
さらなる一歩を、踏み出して。
枯れた枝を踏みしめる感触が、足の裏に広がった。
.
281
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:10:26 ID:vG2lH35Y0
6
「よっ」
声を掛けられ、振り向いた。彼女が、ハインが、そこにいた。
長大な年月を感じさせるしっかりとした樹木に寄りかかった格好で、
気安い感じに掲げた手で挨拶している。そして彼女は、
ちょっとした散歩でもするような歩調で一歩、こちらへと足を踏み出した。
「だ、だめ! 来ちゃダメだ!」
「どうして? ナベに言われたから?」
静止の声にも耳を貸さず、彼女はぴょんぴょん跳ねるように近づいてくる。
その身体が、大きく傾いだ。以前にも見た光景。
手に持っていたノートを放り投げ、慌てて彼女へと駆け寄る。
間一髪、彼女が地面と激突する前に受け止めることができた。
腕の中の小柄な体躯が、もぞっと動いた。彼女の顔が、真上を向く。
すなわち彼女を見下ろすぼくの顔と、正対する。
彼女は目を凝らすようにぼくの顔を眺め回した後、大きく、大きく胸を膨らませた。
282
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:10:50 ID:vG2lH35Y0
「あたし、ミセリだった!」
振動で、森の木々がさざめいた。木々だけではない。
至近距離で彼女の叫びを受け止めたぼくの身体も、内側から波打っている。
少しだけ、頭もくらっとする。しかし当の本人は悪びれる様子もまるでなく、
にいっと、いたずらっ子の笑みを浮かべていた。
「だから、平気でしょ?」
幼い身体に、幼い声。幼い顔。
なのに彼女の表情は妙に大人びていて、その歪さがなんだか妙に、胸を苦しくさせた。
彼女はハインで、ミセリだった。
「ごめん……」
「どうして謝るのさ」
「だってきみは、ぼくのせいで……」
口に指を当てられた。強制的に話を止められる。
彼女がにこっと笑った。口に当てられていた指が移動を始め、別の場所を差す。
その先には先程ぼくが放り投げたノートが、
地面に根を這った木々のふしくれに引っかかっていた。
魔女が記した、魔法のノート。
283
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:11:24 ID:vG2lH35Y0
「あれ、持ってきてくれる?」
ミセリが指の先を曲げて引っ張り寄せるようなジェスチャーを行う。
けれどぼくはミセリの意図がわからず、それにこの小さな身体から
手を離してしまってよいものなのかもわからず、動くに動けなかった。
そんなぼくに、彼女がもう一度催促する。大丈夫だからと、付け加えて。
結局、彼女の言葉に従った。「お願い」とつぶやいた彼女の、
その妙にさみしそうな声色に負けて。彼女の身体を、手近な木にもたせかけ、
放り投げたノートを再び拾う。開いていたページに付着した緑を払い、彼女に手渡す。
ノートを受け取った彼女は、その開いたページに顔を近づけた。
まつげと紙とが触れそうなくらいな、至近距離にまで。
まるでそうしないと、書かれている文字が読み取れないかのように。
まるで視力が、ほとんどないかのように。
彼女の隣に座る。彼女からノートを取り上げる。
彼女が少し驚いたようにぼくを見た。
吐息のかかる距離で。生を感じる、その距離で。
叫び声は必要なかった。ささやき声で、十分だった。
ノートを開き、読み上げる。そこに書かれた文言を。
魔女の残した魔法の呪文を。長い、長い時間を掛けて、
ぼくはその一個の物語を読み上げていった。秘めたる魔女の内面を唄っていった。
彼女は黙って聞いていた。目をつむって、森の一部と化したように静止していた。
静止しながら、それでも彼女は生きていた。ぼくが最後のページを読み終えた時、
彼女の閉じた目元から、涙が一筋こぼれ落ちた。
284
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:12:08 ID:vG2lH35Y0
「全部、そうなんだよね?」
瞳を森から隠したままに、彼女がたずねてきた。
ぼくはこくんとうなづく。魔女が残したノートは、この一冊だけではない。
数えるのも気が遠くなるような膨大な冊数を、魔女はいままで書いてきた。
記し、残してきた。
「ここに来て、良かったよ」
目を開いた彼女が、ぼくを見ていった。
明かされた瞳はうるんでいたけれど、その顔は、笑顔だった。
「あたしね、あなたのことが好き。おんなじ意味で、あの子のことも好き」
ぼくは彼女から顔を背ける。その真っ直ぐな笑顔から。
「好きっていわれるのは嫌い?」
「……ぼくは、罪人だ」
「だから幸せになっちゃいけない?」
声を出さずに、うなづく。
「だからハーモニカを手放した?」
285
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:12:31 ID:vG2lH35Y0
うなづくことは、しなかった。
肩に重みがのしかかってきた。
ちょうどこどもの、頭ひとつぶん程度の重みが。
「ねえ、覚えてる? あなたがここへ来た日のこと。
あなたがあたしに、どこから来たのか尋ねたこと」
ぼくは答えない。
肩にかかる重みが増した。
「ハインはね、あたしのおねえちゃんだったんだ。
綺麗で格好良くて、あたしの憧れだったおねえちゃん――」
そっぽを向いたままのぼくへと、彼女はもたせかけた頭を通じて話し始めた。
ハイン――そして、ミセリという少女が辿った物語を。
.
286
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:12:53 ID:vG2lH35Y0
ミセリは貴族家の流れを汲む一族の男女の下、
一男三女の四番目の子として生を受けた。
しかし彼女は、望まれて生まれたこどもではなかった。
没落して久しいミセリの家では
貴族であった時代の蓄えなど些かも残ってはおらず、貧窮に喘いでいた。
それ故ミセリの両親は手間ばかりがかかる赤ん坊のミセリを疎ましく思い、
井戸の中へ投げ捨ててしまおうかと本気で画策したことすらあったらしい。
両親の気まぐれによりなんとか一命を取り留めたミセリだったが、
その生活は当然恵まれたものではなかった。彼女は他の兄弟と明確に差別されて育った。
同じ食卓につくことは許されず、食事は家族の残り物や
腐って廃棄するしかなくなった食べ物とも言えないようなものしか与えらなかった。
寝床も牛馬の臭い漂う藁をかき集めるしかなく、それすら意味もなく取り上げられ、
土の上で眠るしかない日も少なくなかった。
自分はいらない子なんだろうな。
ミセリは両親の意を、直に言われるまでもなく汲み取っていた。
私は、生まれちゃいけなかったんだな、と。希望はなかった。
その代わり、絶望もなかった。これが当たり前だと思っていたから。
兄や姉が潰した虫を見て、自分もいつか、
こんなふうに潰されて死ぬんだろうなと漠然と思っていた。
287
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:13:21 ID:vG2lH35Y0
「そんなあたしの運命を変えてくれたのがおねえちゃん――ハインなんだ」
ミセリが誰にも祝われない五歳の誕生日を迎えた数日後、
彼女は新しい家族としてミセリの家へやってきた。
彼女は綺麗で、洗練されていて、なにより身体中から溢れ出した
活き活きとしたエネルギーのようなものが、とてもまぶしい女性だった。
事前にどのようなやり取りが成されていたのかは判然としないけれど、
ミセリの両親は当初、彼女の来訪に難色を示していた。
ハインの家とミセリの家には遠い血縁関係が在るらしかったものの、
碌な交流もなく、ミセリの両親にとってみればハインはただの他人に過ぎなかった。
どこの誰とも知らない娘を引き取る余裕などうちにはないと、
両親は長い旅の果てにここまでやってきたハインを、その場で追い返そうとした。
けれど両親は、ハインが持参したものを見るとすぐさま態度を変えた。
ハインが持ってきたもの。それは宝石だった。色とりどりの宝石。
慌てて持ってきたので価値があるのかどうかわからないけれどとハインは言っていたが、
父がいまの生活を死ぬまで続けてもこの中の
たった一つであろうと手に入れられないことは明白だった。
288
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:14:13 ID:vG2lH35Y0
そんなわけで、ハインはミセリの家に快く迎え入れられた。
両親だけでなく、兄や姉たちにも好意的に受け入れられていた。
彼女はいつも快活で、思ったよりも口が悪く、けれど面倒見は良く、
親しみやすく、遊ぶ時は誰より全力で、だけど肝心なところはきちんと見守ってくれる、
やさしいおねえちゃんだった。
ハインはみんなのおねえちゃんだった。
「でもね、最初はあたし、おねえちゃんのこと好きじゃなかったんだ」
ハインが来たことで自分の居場所が
本当になくなってしまうのではないかという危惧が、彼女を悩ませた。
ただでさえいらない子である自分なのに、あんなになんでもできてしまう人が来たら、
今度こそあたしは捨てられてしまうのではないか。
不安に息苦しくて、牛馬の臭いがする
藁の上で身体を丸めても、すんなりと寝入ることができなくなった。
そのせいで、寝坊した。
289
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:14:43 ID:vG2lH35Y0
ミセリは両親から複数の仕事を課せられていたが、
その中のひとつに家族が目覚める前に井戸から
水を汲んでこなければならないというものがあった。
井戸は家から一キロ近く離れている上に、
ミセリが運べる量では何度も往復しなければならない。
いつもはミミズクが鳴く頃には目を覚ますのに、
今日はすでに、地平線から日が差していた。
涙目になって井戸へと走った。
桶いっぱいに水を汲んで、また走って家までもどる。
息なんて、とっくの昔に切れていた。それでもミセリは走った。走るしかなかった。
いやだ、いやだ、いやだ。
怒られるのは、いやだ。
捨てられるのは、いやだ。
踏み潰されるのは、いやだ。
いらない子になるのは、やっぱり、いやだ。
290
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:15:12 ID:vG2lH35Y0
転んで、桶の中身をぶちまけた。
ぶちまけられた水が染み込んでいく地面に、顔から突っ込んだ。
泥化していく土が、目鼻の形に変形していく。ミセリは顔を上げなかった。
泥の中へと沈みながらミセリは、泣いた。嗚咽を漏らして、か細く叫んだ。
何がとか、ではなく。
なんだかもう、全部、いやだった。
沈みに沈んで、そのまま自分も泥になってしまいたかった。
このままずっと、眠ってしまいたかった。
その時だった。
ミセリの前に、彼女が現れたのは。
「起きれるか?」
涙でにじんだ視界に、いま一番会いたくない人の顔が映った。
ハイン。その人はミセリが起き上がろうとしないのを見て取ると、
強引に身体を抱え、持ち上げてしまった。
ミセリのぼろとは違う上質な衣服に、ぐじゃぐじゃに溶けきった泥が付着する。
けれどハインはそんな汚れなどまるで気にする様子なく、
ミセリに向かってその屈託のない笑みを向けた。
291
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:15:45 ID:vG2lH35Y0
「どっちがいっぱい運べるか、競争な!」
言うなりハインが駆け出した。
ミセリではとうてい持ち運ぶことのできない、大きな桶を片手に担いで。
ミセリは呆気にとられながらも、涙を拭い、
転んだ時に手放してし桶を手にハインの後を追った。
水汲みはあっという間に終わった。まだ日も明けきっていない。
深夜に起きて一人で汲んできたときと比べても早くに終わった。
そでをまくり満足げな笑顔を浮かべているハインの、
彼女のおかげであるのは明白だった。
けれどミセリは、素直に喜ぶことができなかった。
彼女が何を考えているのか、ぜんぜんわからなかったから。
いきなり怒られるんじゃないかとか、石投げの的にされるんじゃないかとか、
そんな疑いしか思い浮かばなかった。
「あの、ごめんなさい、あたし、その……」
だからとにかく、謝った。
謝れば多少の手心が加えられることもあると、ミセリは経験として知っていたから。
けれどハインは、他の家族とは違った
292
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:16:09 ID:vG2lH35Y0
「ミセリはさ、すごく丈夫な脚を持ってるんだな」
ハインの言葉の意味がわからず、あたしはとりあえずもう一度謝った。
そんなあたしを一笑に付して、ハインはあたしとの距離を取った。
そしてハインは、踊りだした。
.
初めて目にする舞踏というものに、ミセリは目を奪われた。
それは幻想的な光景だった。言ってしまえばただ人が一人踊っているだけだというのに、
たったそれだけのことで空気が、空間が別世界になっていた。
草木も、土も、風も雲も虫も、
そこにあるすべての存在が彼女の味方となり、彼女を輝かせていた。
彼女を取り巻くその一帯のすべてが、光り輝く神話の世界に変貌していた。
彼女の脚が、止まった。自然が、空間が、現実の時間へともどっていく。
けして急激にではなく、徐々に、徐々に、
浸透した余韻を世界中へ分散させていくように。
それが自分の中へも潜り込んできたことを、ミセリも確かに感じ取っていた。
玉汗を浮かべたハインが、笑いかけてきた。
293
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:17:05 ID:vG2lH35Y0
「やってみ?」
ぶんぶんと首を振る。
「む、無理だよ……」
偽りなく、素直にそう思った。
あんなこと、彼女以外にできるとは思えない。ましてや自分なんかには。
「そんなことないさ」
だというのにハインは、あたしの手足を取って無理矢理にステップを踏ませてきた。
彼女の指示に従い足を動かす。けれど当然ミセリの動きはハインの模倣とは成らず、
しなやかさに欠けたぎこちのないものになる。
そうこうしているうちに、日が完全に昇っていた。
水汲みが終わっても、やらなければならない仕事はたくさんあった。
そのことを遠慮がちに、ハインへと告げる。するとハインは、こういった。
「それじゃ、続きは明日だな!」
294
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:17:57 ID:vG2lH35Y0
この日から、水汲みの後のレッスンがミセリの日課になった。
このレッスンが、ミセリはいやだった。どうせ自分には不可能だと思っていたから。
だからこんなレッスンなど無意味だと思っていたし、
疲れを残して仕事に支障をきたしたら、父や母になにをされるかわからなかった。
それでもハインに従っていたのは、ハインが水汲みを手伝ってくれていたから。
もしレッスンを断ったら、井戸までの往復行をまた深夜に
一人で繰り返さなけれならなくなるかもしれない。それは避けたかった。
幸いハインは、急に怒鳴りだすような理不尽な先生ではなかった。
ミセリが何度ミスをしても上達しなくとも見捨てることなく、
時間いっぱいに見守っていた。
ただ一箇所だけ、ハインの顔が曇る瞬間があった。
見よう見真似で行うミセリの踊りはもちろんハインのように
洗練されたものにはなり得なかったが、
それでもそれらしい型をこなせる程度には身体が踊りを記憶した。
しかしミセリは、いつも必ず同じ場所でステップを間違えた。
その場所は腕と脚とのバランスが取りづらく、
前後の動きも合わせて他の箇所と比べてもむつかしい技術を要求されていた。
295
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:18:50 ID:vG2lH35Y0
ミセリにはどうしても、この時の動き方が理解できなかった。
そしてこの箇所でミセリが失敗をごまかすような動きをすると、
ハインは決まって顔を曇らせた。それがいやで、仕方なかった。
けれど、どうしようもなかった。できないのだから。
それにハインは、それでも笑っていた。
けれどその日は違った。目が覚めて、水汲みに向かうときから違っていた。
ハインはむつかしい顔をして、妙に言葉少なだった。
こちらの視線に気づくと笑顔を浮かべたけれどその笑顔にも元気がなく、
目を離すとまたすぐに消沈していた。
レッスンが始まっても、それは変わらなかった。
どこか心ここにあらずといった様子で、
ミセリのことを視界に入れてはいても、見てはいなかった。
なんだかとても、いやだった。
自分が余りにもダメだから、
愛想を尽かされてしまったのではないかと、後ろ向きな疑念が思い浮かんだ。
296
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:19:15 ID:vG2lH35Y0
そんな自分自身が生み出した妄想に囚われると、無意味だと思っていた
この時間を失いたくないという強い気持ちが、胸の奥から奥から押し寄せてきた。
うまくやらなきゃ、失敗しないようにしなきゃと、そんな思いが強まった。
けれど焦れば焦るほど身体は意志を離れ、
ぎくしゃくとレッスンを始める以前の状態へともどっていってしまった。
そして、あの箇所。どうしてもうまくできないあのステップに、挑戦した。
結果はやはり、変わりなかった。
ハインの目が失望に染まった――気がした。
もうダメだと思った。ハインはあたしを見限ってしまったと、そう思った。
そう思うと全身から力が抜けて、そのまま座り込んでしまいそうになった。
座り込んでしまいそうになりながら、ミセリは思い出していた。
ハインが初めて踊ってみせてくれた日のことを、思い出していた。
もう一度見たかったなと、思った。
確かこんなふうだったなと思い返しながら、
記憶の中のハインを自分の身体を使って辿ってみた。踊ってみた。
何も考えず、ただ彼女の動きを真似した。そうしたらなんだか、
身体がとても軽くなっていた。ミセリは軽快に踊っていた。
あんなにつまづいていたあの箇所も、あっさりとこなしていた。
297
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:19:39 ID:vG2lH35Y0
ミセリがそのことに気がついたのは、踊り終わった後だった。
あれ、あたし、なんか……できちゃった。感慨に耽るでもなく
他人事のようにそう思っていたミセリに、強い衝撃が襲ってきた。
ハインが、抱きついてきていた。ハインはなぜか、泣いていた。
ぽろぽろと泣きながら、泣きながら彼女は、笑っていた。
「なあ、ミセリ。何かができるようになるのって、すっげー気持ちいいだろ?」
彼女がなぜ泣いていたのかも、どうして抱きついてきたのかも、
その時のミセリにはわからなかった。けれど確かなこととして、自分はできた、
自分はできるようになったんだという実感が、身体の内から沸いてくるのを感じた。
その感情に身を任せているとなぜだか涙が溢れてきた。
止めようとしても、それは止まらなかった。のどがひくつくのを止められなかった。
ミセリは泣き出した。ハインと一緒に、わんわん泣いた。
その日から、ミセリはハインをおねえちゃんと呼ぶようになった。
.
298
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:20:01 ID:vG2lH35Y0
毎日が楽しくなった。
相変わらず両親からは虐げられていたし、
仕事は大変だったけれど、苦しくはなかった。おねえちゃんがいたから。
おねえちゃんと、おねえちゃんから教わった踊りがあったから。
「どうしてあの時泣いていたの?」
レッスンを終えて一休みしている間に、
ミセリはずっと気になっていたことを聞いてみた。
ミセリがハインをおねえちゃんと呼ぶきっかけになったあの日のあの時。
ハインがなぜ泣いていたのか、ミセリはまだその理由を知らずにいた。
それにいつも同じ箇所で失敗するミセリに、顔を曇らせていた理由も。
ハインが自分のいうことを聞かれなかったり踊れなかったくらいで
気分を害するような女性でないことは、いまのミセリには十分わかっていた。
だから、聞いてみた。
ハインの答えは、単純だった。
自分も昔、同じ箇所で苦戦していたからだ、と。
299
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:20:27 ID:vG2lH35Y0
「それだけ?」
つっこんで聞いてみるとハインは少し困ったような顔をしたけれど、
やがて静かにその本当の理由を、そして自分の生い立ちを語りだしてくれた。
ハインの家は特別な役職を与えられた王家付きの一族で、
彼女の父もその技でもって時の王に仕えていたらしい。
けれどそんな彼女の父も、王政打倒を掲げた市民革命に
巻き込まれたことで暴徒に捕まり、処刑されてしまう。
残された彼女や彼女の兄弟も懸賞金を掛けられ、
散り散りに逃亡するしかなかったそうだ。
逃げた先でも――つまりミセリの家へ着いてからもハインは、
父やそれ以前から受け継がれてきた家の技を鈍らせることなく磨いてきた。
すなわち、舞踏の技を。逃げていった他の兄弟も同じように技を磨いているはずだと、
ハインは語った。そのはずだったと。
「でもな、あの日、弟が捕まって死んだ」
300
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:21:16 ID:vG2lH35Y0
正確にはその訃報が届けられたと、
それがなんでもないことかのように彼女は言い直した。
彼女はあくまで淡々と話した。弟の死を聞かされた時に思ったこと。
それは、自分たちは極刑を免れぬほどの罪を犯していたのだろうか、という問いだった。
王の膝下で踊り継いできたこと。
それは世を生きる多くの人々にとって隠れ住むことすら許されぬ暴威であり、
引きずり出してでも処分せねばならぬ悪徳であったのだろうか。
あたしたちは世の中にとって、いない方がよい存在なのだろうか。
繰り返されるハインの問いを聞いたミセリは、彼女が自分と同じであることを知った。
あたしはいらない子。だれからも必要とされず、むしろ疎まれ、いなくなれ、
死んでしまえと石を投げられた存在。彼女はあたしと、同じだった。
「だから、悲しくて泣いたの?」
自然と声が涙で震えた。存在を認めてもらえないそのつらさを、
ミセリはよく知っていたから。彼女の負ったつらさが、ミセリにもよく理解できたから。
けれどハインは笑って首を振った。
そしてしゃくりあげだしたミセリの頭を、やさしくなでる。
301
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:21:41 ID:vG2lH35Y0
「あたしが泣いたのは、お前が踊ってくれたからだよ」
ハインの言葉に、ミセリはきょとんとする。
「ミセリがちゃんと踊ってくれたから、あたしはあたしが、
あたしたちが間違っていなかったって思えたんだ。
ミセリの踊りが、あたしを救ってくれたんだ。だから、泣いたんだよ」
近づいてきたハインの額が、あたしのそれと接触した。
まつげが、鼻が、くっついた。
「ありがとな、ミセリ」
なんだかとても、恥ずかしくなった。
むずがゆくて、じっとしていられなくて、ミセリは飛ぶようにハインから離れた。
嬉しいのだけれど、その嬉しさをどう表現していいのかわからなくて、
どうしようもなくて、ミセリはハインに背を向けたまま、無意味に叫んだ。
全力で、のどがさけても構わないとばかりの大声で、叫び声を上げた。
驚いた鳥が数羽、空の向こうへと逃げていった。
その逃げゆく鳥を見ながらミセリはひとつ、名案を思いついた。
302
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:22:05 ID:vG2lH35Y0
「旅に出ようよ」
振り返ってもう一度、ハインにいった。
世界中を旅しようと。
「それで世界中の人に、おねえちゃんの踊りを見てもらうんだ。
みんな知らないから、怖いだけなんだよ。
知ったらみんな、おねえちゃんを好きになるよ」
それからミセリは、目を伏せて、
「それで、なんだけど……おねえちゃんさえよければ、
あたしも連れて行って欲しいなって。二人で踊れたら素敵だなって。
あたしなんかぜんぜんだし、足手まといにしかならないだろうけど、
でも、雑用とかならできるし、料理も覚えるし、それに――」
「ミセリ」
意味なくまくしたてるミセリの言葉を、ハインの一言が遮った。
真剣な顔をして、ミセリを見つめている。
照れくささや言葉に出来ない感情が渦巻いて、目をそらしたくなった。
でも、そらさなかった。
降り注ぐ朝日を浴びるハインの姿が、とても綺麗だったから。
ハインが、笑いかけてきた。
「お前はあたしの、自慢の妹だよ」
.
303
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:22:28 ID:vG2lH35Y0
約束をした。
二人で旅に出ると。
世界中のいろんな国々を巡って。
いろいろな人に二人の踊りを見てもらおうと。
なにがあっても絶対に忘れないで。
いつか必ず、この夢を叶えようと――。
夢は、叶わなかった。
.
304
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:23:07 ID:vG2lH35Y0
ハインの事情を正確に理解し始めていた両親は、
ハインのことを疎みだしていた。彼女を匿っていては、
自分たちにまで危害が及ぶかもしれない。
彼女を家から追い出さなければ。だが、どうやって?
両親はハインを売った。言葉通り、金銭のやり取りをして。
手際よく行われたその売買はよくわからないうちに始まって、
理解の及ばない間に終わった。時間にして一○分も掛からなかっただろう。
そのわずかな時間で、ハインはこの家から消えた。
ハインが、いなくなった。
.
305
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:23:38 ID:vG2lH35Y0
それはもちろん、ショックな出来事だった。
けれどミセリは過度に落ち込むことはしなかった。
両親に課せられた仕事の量は未だに膨大だったし、
なにより落ち込んでいる暇があるなら、その分だけ舞踏の技を磨きたかった。
約束をした。その一事が、ミセリの支えだった。
必ず夢を叶えると、絶対に忘れないと約束した。
だからミセリは、踊った。踊って、踊って、
ハインと再会した時に恥ずかしくないよう、自らを洗練させた。
その生活すらも、長くは続かなかった。
ミセリが住むこの町、この地域に住まう人々はその当時、極貧に喘いでいた。
王政に代わり台頭した民主主義を扱いきれなかったせいか、
野放図に行われた粛清の結果か、あるいはただそういう時代であったのか、
人々の多くはほとんど水と変わりのないスープで飢えをしのぎ、
一個のパンをも奪い合うような有様だった。
ミセリの両親がミセリを疎んでいたのもこの貧困が原因であったが、
しかし彼らはハインの土産を得た。町全体が貧しさにもがく渦中において、
彼らだけは裕福であることを堪能していた。しかも彼らはそれらを誇示するように、
上等な衣服を買い込み、肉や野菜も好きなだけ食卓に並べた。
かつての栄華を再現するかのように、華やかな生活を送った。
とうぜん彼らは、恨みを買った。
町の人々は会合を開き、ミセリの両親を糾弾する正当な理由を探した。
そして彼らは、納得できる答えを見つけ出すことに成功した。
306
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:24:08 ID:vG2lH35Y0
やつらはかつて貴族だった。
やつらが豊かなのは、貴族時代の蓄えを残していたからに違いない。
つまりやつらは、王政主義者だ。
王政主義者の財産は、俺達のものだ。
奪われたものを、取り返せ。
市民の痛みを、思い知らせてやれ。
.
307
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:24:33 ID:vG2lH35Y0
父も、母も、三人の兄や姉も、全員が殺された。
ミセリだけが逃げ延びた。他の家族と違いぼろをまとっていたミセリは、
暴徒と化した町人の目をごまかすことができた。けれどそれも、一時しのぎに過ぎなかった。
貴族の血を引くミセリも例外なく、彼らにとっての標的だった。
ミセリは逃げた。町を越え、それでも追跡を止めない追っ手を振り切り、逃げた。
こどもの足ではいずれ捕まるであろうことは明白で、状況は絶望的だった。
それでもミセリは諦めなかった。諦めなかったし、前を向いていた。
これがあたしの、旅の始まりなんだ。
そう、ミセリは自分に思い込ませた。
悲劇なんかじゃないと。
いまこそ約束を、夢を叶える時なのだと。
だから、行く場所は決まっている。
おねえちゃん。
おねえちゃんに、会いに行く。
おねえちゃんに会いに行く時が、来たのだ。
308
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:25:24 ID:vG2lH35Y0
ハインがどこにいるのか正確な場所は知らなかったけれど、当てならあった。
父と取引してハインを買ったほほの傷跡が特徴的な男と、男が乗っていった馬車。
馬車にごてごてとした装飾と共に書かれていた『シベリアンヌ』という文字。
シベリアンヌはともかく、シベリアという名前には聞き覚えがあった。
それは、土地の名前だったはずだった。ミセリの住んでいた町から数えて隣町の、
そのまた隣町を越えた、その先にある土地。目的地は、そこだ。
楽な道程ではなかった。
正体を明かすわけにはいかなかったからだれに頼ることもできなかったし、
周囲を警戒していなければならなかったため眠りは浅く、常に寝不足で頭痛がした。
盗みも働いた。そうしなければ、生きていけなかったから。
生きて、ハインのところへたどり着くことができなかったから。
そしてミセリは数週間に及ぶ強行軍の果て、シベリアに入った。
シベリアはミセリの住んでいた町よりも遥かに巨大な都会で建物も多く、
通りは人でごった返していた。この中からハインを、
ハインの送られた『シベリアンヌ』を見つけ出さなければならない。
捜索は難航したが、ミセリは逃げなかった。
物乞いをしながら、罵声を浴びせかけられたり、
時には蹴られたりしながらも、ハインを探し続けた。
ミセリにはもう、それしかなかった。
309
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:25:47 ID:vG2lH35Y0
その甲斐あってか、ミセリはハインにつながる手がかりを見つけ出すことに成功する。
あの男。ハインを連れ去っていったほほに傷のあるあの男を、見つだした。
ミセリは男を尾行した。朝も夜も関係なく付け回し、
どんなヒントも見逃すまいと追跡し続けた。
そして、ミセリはついに見つけた。『シベリアンヌ』を。
『シベリアンヌ』は裏通りに居を構える何かの店舗らしかった。
けばけばしい色使いと卑猥なペイントに嫌悪感を覚えたけれど、
立ち止まるわけにはいかなかった。
ここに、おねえちゃんがいる。
中の人間に気づかれないよう、姿勢を低くして潜り込んだ。
『シベリアンヌ』には多くの部屋があり、そこには必ず大きめのベッドが置かれていた。
ベッドの中に誰かが潜っている部屋もいくつかあった。
そこからは時折声というかうめきのようなものが漏れ出してきて、
その音を聞くとなぜかいやな気分になった。
本当に、こんなところにおねえちゃんがいるのだろうか。
その心配は、杞憂だった。
ハインは確かに、そこにいた。
310
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:26:17 ID:vG2lH35Y0
「おねえちゃん!」
ハインは肩と胸を大きく露出した、ひらひらのついているドレスを着ていた。
あまり似合ってはいなかった。でも、そんなのどうでもいいことだ。
おねえちゃんがいた。おねえちゃんに会えた。
うれしさと安堵感が一挙に押し寄せてきて、
限界をとうに超えていた足腰が立たなくなった。
膝から床に、ぺたりと座り込んだ。
「ハインのお知り合い〜?」
ハインのそばに座っていた女の子が、ミセリを見ながら声を上げた。
彼女もハインと同じ格好をしている。年も同じくらいに見える。
やさしそうな顔つきで、話し方からものんびりした性格であることが伺えた。
おねえちゃんのお友達なのかもしれないと、ミセリは思った。
だけどそれも、いま気にすることではなかった。
大切なのは、おねえちゃん。おねえちゃんに会えたというその一事。
脚に自由が利かず、もどかしかった。いますぐ姉の下へと駆け寄りたいのに、
それができないことがとてももどかしかった。
そのもどかしさを、ミセリは腕を伸ばすことで補おうとした。
最愛の姉へ届かんと、距離を無視してその手を伸ばした。
その手が、宙空で止まった。
311
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:26:59 ID:vG2lH35Y0
「知らねえよ、こんなガキ」
.
312
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:27:50 ID:vG2lH35Y0
……おねえちゃん?
冷たい声をしていた。姉の声だったけれど、姉の声ではなかった。
それはむしろ、父や母が自分に向かって吐き捨てたときのような、
峻厳な拒絶の声色に近かった。ハインのことを、もう一度呼んだ。
ハインは、こちらを見ることすらしなかった。
「おねえちゃん、あ、あたしだよ……。
ミセリだよ、おねえちゃんの妹の、ミセリだよ……」
話したいことはたくさんあった。
聞いて欲しいことがたくさんあった。
毎日練習を欠かさなかったことを知ってほしかった。
上達した踊りの腕前を見てほしかった。
一日だって忘れたことはなかったと言いたかった。
――自慢の妹だって、もう一度言ってほしかった。
「あれ? でも、この子……」
「だから、約束を――」
313
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:28:13 ID:vG2lH35Y0
「ぐだぐだうるせえんだよ!」
ハインが立ち上がった。
見たことのない怒りの形相を浮かべて。小さな悲鳴が、のどから漏れた。
「お前なんか知らねえ! さっさと出てけ!」
どうして、どうしてという疑問を口にしようとするも、言葉が声に乗らなかった。
おねえちゃん。どうして。おねえちゃん。あたしを忘れたの。おねえちゃん。
約束を。おねえちゃん。夢を。おねえちゃん。おねえちゃん。おねえちゃん――。
やっぱりあたしは、いらない子なの?
.
314
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:28:36 ID:vG2lH35Y0
「出て行け!」
ハインが壁を叩いた。それがスイッチとなった。
動かないはずの脚が、動き出した。意志なんかとは無関係に
しっちゃかめっちゃか好き放題に走って、走って、走り回って、
気づくとミセリは、森の入口に立っていた。深く暗く、死を匂わせる森。
躊躇なく、足を踏み入れた。
死のう、と思った。
だってあたしは、いらない子。
いなくなっても、悲しむ人はいない。
だれも。
だれも――。
けれどミセリは、死ななかった。
緩慢に腐り行きつつも、かすかなその生を手放すことはなかった。
彼女は、生きていた。
生きていたから、その声も聞こえた。
自分を呼ぶその声が、聞こえた。
315
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:29:00 ID:vG2lH35Y0
「ミセリ!」
どうしてという疑問が、真っ先に思い浮かんだ。ハインがいた。
ハインが森のなかにいて、叫んでいた。ミセリの名を叫んでいた。
どうして。なんで。だって、あたしは、いらない子のはずじゃない。
どうしておねえちゃんが、ここにいるの。
「いるんだろミセリ! 頼むから返事をしてくれ!」
悲痛な色を帯びたハインの声は、
ミセリの知っているハインのそれと変わりなかった。
けれどミセリは、飛び出していくことができなかった。
「怒るのも当然だよな。信用出来ないのも当たり前だよな。
あたしだってそう思うよ。あんな……あんなひどいこと言ってさぁ!」
だって、また捨てられるかもしれない。
だって、またいらない子にされてしまうかもしれない。
忘れられてしまうかもしれない。
それは、いやだった。
いやだったから――。
「でも、でもあの時はああするほか、お前を――」
その躊躇が、永遠を別った。
316
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:29:25 ID:vG2lH35Y0
ハインが倒れた。うつぶせに。
その背に何か、細長い棒状のものを生やして。
棒状のものが、さらに増えた。背中だけでなく、
足や、腕や、頭にも、それは刺さった。
うつぶせたハインの身体から、血が流れ出していた。
うつぶせたハインの身体が、血溜まりに沈んだ。
.
317
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:29:52 ID:vG2lH35Y0
ミセリは、駆け出していた。
駆け出して、動かないハインの身体に飛びついた。
次の瞬間、視界が真っ暗になった。何か布のようなものを頭から被せられていた。
組み伏せられ、動けなくなった。果物のような香りが鼻の奥に滑り込んできた。
急速に、眠気が襲ってきた。
男たちの声が、聞こえた。
あーあ、もったいねえ。
こうなったら、美人も形無しだな。
まったく、なに考えてんのかね。
勝手に逃げだしゃこうなるなんて、わかってただろうによ。
そんなに大切だったのかねぇ、このちびすけが。
死んだらぜんぶ、おしまいだっつーのにな。
俺、お気に入りだったんだけどなぁ。
俺も。
俺もだ。
……ちっ。
318
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:30:17 ID:vG2lH35Y0
麻痺したほほを、叩かれた。
生ぬるい空気が、被せられた布越しに耳へとかかった。
男が、耳元でささやいた。
おねえちゃんは、おまえのせいで死んだよ。
.
319
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:30:56 ID:vG2lH35Y0
目が覚めると、足が折れていた。
関節が反対に曲がっているだけでなく、骨や肉がありえない方向を向いて、
足全体ががたがたな形に変形していた。痛みはなかった。ただ、感覚もなかった。
ハインが褒めてくれたミセリの脚は、もはや脚としての機能を失っていた。
男が二人いた。男たちは何かを話し合っていた。
どちらも聞き覚えのある声をしていた。
男たちは取り分がどうとか、もっと交渉するべきだとか話していた。
「あ、店長」
誰かが部屋に入ってきた。その顔には、見覚えが合った。
ほほに特徴的な傷のある男。もともと部屋にいた二人が、傷の男を前にかしこまった。
男が完全に部屋へと入ると、その陰に隠れていた
もう一人の人物がその存在を露わにした。その姿にも、見覚えが合った。
肩と胸を大きく露出させた格好。ハインと一緒にいた、あのやさしげな顔をした女の子。
女の子は、部屋の入口で固まっていた。
口に手を当てて、こちらを凝視していた。ミセリのことを震える目つきで見ていた。
傷の男が、女の子を呼んだ。女の子は動かなかった。
男が、もう一度女の子を呼んだ。女の子はやはり動かなかった。
男が、女の子をつかんだ。
女の子の目が、怯えるように男を見た。
320
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:31:20 ID:vG2lH35Y0
「こ、こんなことするなんて、わたし、わたし知らなかった……
知ってたら、知ってたらわたしだって、わたしだって……」
女の子が、殴られた。殴られて、倒れた。倒れたその身体に、男が蹴りを入れた。
一度ではない。何度も、何度も蹴り、踏みつけていた。
部屋にいた二人の男が止めるまで、それは続いた。
興奮した様子で息を荒げていた傷の男が、
ミセリがその光景を見ていることに気がついた。
大股で、近づいてきた。手近にあった何かをつかみ、腕を振り上げた。
頭を強く、殴られた。
その一撃で、視力も失った。
.
321
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:31:50 ID:vG2lH35Y0
おねえちゃんのことばかり考えていた。
やさしかったおねえちゃん。
綺麗だったおねえちゃん。
格好良くて、力強かったおねえちゃん。
あたしを認めてくれたおねえちゃん。
おねえちゃんは、もういない。
あたしのせいで。
あたしが尋ねていったから。
あたしが信じきれなかったから。
あたしと出会ってしまったから
あたしがあたしだったから。
あたしがいなければ、おねえちゃんは死ななかった。
あたしは、いらない子。
ミセリは、いらない子。
ミセリは――
.
322
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:32:21 ID:vG2lH35Y0
「気づいたら、ここにいた。自分をおねえちゃん――ハインと思い込んで」
長い、長い物語を語り終えたミセリが、
少し疲れたように寄りかかる力を強めた。
肩にかかる重みが増す。その重みは、
彼女が辿った人生の重みそのものなのかもしれない。
「きっとね、自分の罪を受け止めきれなかった防衛反応だったんだと思う。
あたしはおねえちゃんを殺したミセリじゃないし、
そもそもあたしがハインなんだから、
ミセリの犯した罪そのものがなかったことになるんだって」
事実そのものを消し去ることによる罪からの解放。
それがきっと、『ひつじの教会』の本質なのだろう。
だからここに住むこどもたちは過去に犯した罪の記憶を忘れ、
やがてはその根源となる自分自身をすら忘却する。魂を、救済する。
「あたし、それが間違ってたとは言わない。
でも、正しかったとも思わない。だから――」
ささやくように森の葉を揺らしていたミセリの声が、
明確にぼくへと向かい、放たれた。
323
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:33:03 ID:vG2lH35Y0
「ギコ、今度はあなたの番。あなたの罪を、あたしに教えて」
ぼくの罪。
告白するならば。
ぼくはミセリの話を聞いて、彼女に罪があるとは思わなかった。
悪いのは環境や、時代や、あるいは運程度なもので、彼女には非などなにひとつない。
彼女は被害者だ。彼女は愛され、幸せになるべき良き人だ。
けれど、ぼくは、違う。
ぼくは、ぼくの意志で、罪を犯した。
彼女とは、違う。ぼくは、罪人だ。
ぼくは、焼かれ、叩かれ、引き裂かれるべき罪人だ。ぼくは――
「言葉にしなきゃ、ダメだよ」
頭を、つかまれた。
強制的に、振り向かされた。
「言葉にしないと、きっとあなたは前にも後ろにも進めない」
目の前に、ミセリの顔があった。額が、まつげが、鼻が触れ合う真正面に。
彼女の目が、ぼくの目をじっと見つめていた。
視力の失せた薄濁りの瞳が、それでもぼくを見つめていた。
324
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:33:43 ID:vG2lH35Y0
しぃ。
目をつむるといつでも思い浮かぶひつじの姿。
ぼくの罪。罰の象徴。そして――最愛の、兄弟。
「ぼくは――」
.
325
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:34:05 ID:vG2lH35Y0
7
ミセリのように不幸な生まれというわけではない。
むしろ、恵まれていたと思う。山岳と海に挟まれた小さな田舎町で、
働き者の父とやさしい母の下にぼくは生まれた。
兄弟はいなかったけれど、さみしくはなかった。
人間の兄弟よりもっと大切で、仲の良い兄弟がいたから。
それが、しぃだった。
しぃは父が雇われている牧場で暮らすひつじの中の一匹で、
ぼくが生まれた年に生まれた、つまりは同い年の女の子だった。
しぃは父に懐いて離れたがらず、父も雇い主から
ずいぶん信用されていたようである程度自由にしぃの面倒をみることができたらしい。
だからぼくとしぃは一緒に駆け回ることもできたし、
時には朝まで同じ寝床にいることもできた。
ふわふわのしぃを抱いて眠るのは、とても心地よかった。
しぃは他のひつじにはない彼女だけの特技を持っていた。その特技とは、歌うこと。
声はもちろんめぇめぇというひつじの鳴き方ではあったけれども、
節も拍も取った鳴き声はでたらめなものではなく、きちんとしたメロディになっていた。
なにより歌っている時の彼女はとても楽しそうで、幸せそうだった。
326
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:34:33 ID:vG2lH35Y0
「ただね、しぃが歌うにはひとつ条件があったんだ」
彼女は一人では歌わなかった。
彼女が歌う時には必ず、父がそばにいた。
しぃは、父のハーモニカに合わせて歌っていた。
父のハーモニカはとても上手なものだった――と、思う。
少なくともぼくは父のハーモニカが好きだったし、
ハーモニカに合わせて歌うしぃのことももちろん好きだった。
それに、ちょっと悔しかった。
ぼくもその環に加わりたくて、父からよくハーモニカを借りた。
「ぜんぜんうまくいかなくて、よくふくれていたけどね」
けれど吹くこと自体をやめようとはしなかった。
やめたいと思ったこともなかった。ハーモニカの演奏は、楽しかった。
それに、しぃもいた。
度々つっかえたり全然違う音を出してしまうぼくの演奏にも、
しぃは一緒に歌ってくれた。むしろうまくいかないもどかしさで憤るぼくを、
自身の歌で教え、導いてくれているようだった。いや、導いてくれていた。
朝から晩までしぃと一緒にいた。時には寝るのも一緒だった。
いつも一緒で、いつでも歌っていた。ぼくらはいつも一緒だった。
ぼくらは兄弟だった。
327
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:35:03 ID:vG2lH35Y0
「幸せだった。ずっとこんな毎日が続くんだと思ってた」
父が海難事故に遭い、帰らぬ人となった。
父を雇っていた農場主と共に。
何か大きな商談があり、農場主は父にも同行を頼んだらしい。
父はその依頼を受け、現地へと移動する船に乗った。
三日もすれば目的地に到着するはずだったその船は嵐に見舞われ、
航海二日目の夜、海の藻屑となった。だから、遺体は見つからなかった。
父は海に沈んだ。
ぼくは父が好きだった。
明るくて。
冗談好きで。
ちょっといかめしい顔をしていたけれど。
実はかわいいものに目がない、
ハーモニカを吹く父が好きだった。
328
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:35:27 ID:vG2lH35Y0
父が船に乗る前夜、ぼくと父は約束をしていた。
父さんがいない間、母さんとしぃのことは頼んだぞ、と。
そういって父は、いつも身につけていたハーモニカをぼくに預けてくれた。
約束を、守らなければいけなかった。
しぃを、母を守る。父のように。
父のように、ぼくはなる。
それがぼくの使命だった。
母が豹変した。
.
329
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:35:52 ID:vG2lH35Y0
「あいつは初めから、私を愛してなんかいなかった!」
母は酒を呑んで、泣いて、近くにあるものを手当たり次第に壊すようになった。
瓶や、食器や、時には壁の一部を壊しながら、母は父を悪し様に罵った。
罵倒しない日はなかった。毎日、毎日、ぼくが好きだった父の特徴を、
ひとつずつ、丁寧に丁寧に母は否定していった。
父は母を愛していた。
でも、それは伝わっていなかった。
母は、父を憎んでいた。
そして、父の血を継ぐ、ぼくのことも。
手近に壊せるものがなくなると、母はぼくを叩くようになった。
ぼくは父譲りに頑丈だったから、壊れることはなかった。
けれど父譲りに頑丈だから、母の怒りは更に燃え上がった。
壊そうとして、壊せない。その度に母は、ぼくに向かってこう叫んだ。
お前なんか、生むんじゃなかった。
.
330
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:36:14 ID:vG2lH35Y0
ぼくにはしぃしかいなかった。
しぃは変わらなかった。
相変わらずふわふわで、ハーモニカが好きで、一緒に歌ってくれた。
しぃといる時だけは、昔と変わりのない時間が流れた。
変わったのは、環境だった。
父と共に帰らぬ人となった農場主には、一人息子がいた。
彼は父である農場主とは折り合いが悪く
いままで仕事を手伝ったこともなかったそうだが、父の死後はその権限を受け継ぎ、
新たな農場主となった。
彼は、農場のことなどどうでもよかった。欲しかったのは、その土地だけ。
彼は自身が興したい新たな事業のため、農場を急速に縮小させていった。
売れるものはなんでも売り払い、その価値すらないものは次々と処分していった。
それは物だけでなく、命ある動物たちも同様だった。
そして、しぃの屠殺が決まった。
.
331
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:36:38 ID:vG2lH35Y0
農場の中は知り尽くしていた。
どこに何があって、どの動物がどこで暮らしているのか、全部知っていた。
しぃを助けなければならなかった。しぃがいなくなるなど、認められなかった。
父との約束を守らなければならなかった。なによりしぃは、兄弟だった。
しぃは狭い檻の中で、他の動物達と一緒に閉じ込められていた。
ぼくが来るとしぃはすぐに気がついて、柵越しに鼻をくっつけてきた。
しぃの感触、温かみ。それを感じると、とても安らかな気持ちになる。
けれどいまは、感慨に耽っている場合ではない。
檻には鍵がついていた。針金を使ってなんとかこじ開けようとする。
しぃが見守ってくれていた。しぃ以外の動物たちが、狂ったように鳴き喚いていた。
針金を左右に回す。鍵は開かなかった。上下に引っ掛ける。鍵は開かなかった。
折り曲げて、めちゃくちゃに動かす。鍵は開かなかった。
どうしても、鍵は開かなかった。
人の気配を感じた。針金を鍵から取り出し、慌てて物陰に隠れる。
現れたのは、新しい牧場主と、ぼくとも顔見知りの
昔から働いている従業員のおじさんだった。新しい牧場主の生気に満ちた顔とは違い、
おじさんはとても疲れた顔をしていた。疲れた顔をしたおじさんが、
檻に手をかけた。鍵が解かれた。
332
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:37:04 ID:vG2lH35Y0
その時ぼくは、残酷なことを願っていた。
どうか別の子にしてください。
牛でも豚でも、なんでもいいから。
これから一生、お肉も牛乳も食べられなくなったって構わないから。
だから、お願いです。
お願いだから。
しぃを連れて行かないで。
ぼくからしぃを、奪わないで。
ぼくの兄弟を、殺さないで。
願いは叶わなかった。
檻から出されたのは、しぃだった。
333
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:37:35 ID:vG2lH35Y0
すぐに飛び出せば、しぃを助けられたかもしれない。
理由を話せば、おじさんが手を打ってくれたかもしれない。
売れ残ったフォークを持って、牧場主をやっつけてしまえばよかったのかもしれない。
他にもいろいろなことが思い浮かんで、
そのうちのどれとも決めないまま、ぼくは飛び出そうとした。
しぃを助けようとした。それは、本当だった。
でも、実際には、ぼくは物陰でただ隠れていただけだった。
母の声が、聞こえた気がしたから。
母が父を、父によく似たぼくを罵倒する声が、すぐそばで爆発した気がしたから。
お前なんか生むんじゃなかったと、言われたから。
ぼくは、怖くなった。怖くて、動けなくなった。
物陰に隠れて、じっと、連れて行かれるしぃの背中を見続けていた。
しぃが、振り返った。
目が、合った。
しぃの口が、わずかに開いた。
しぃが、鳴いた。
.
334
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:37:57 ID:vG2lH35Y0
気づくと、浜辺にいた。
海を向いて、立っていた。
ぼくの身体から、何かが飛んでいった。
ひつじの毛だった。
ひつじの毛がふわふわと空を飛び、
やがて、海に落ちた。
水を吸って、沈んでいった。
あぶくを上げて、沈んでいった。
あぶくになって、沈んでいった。
泡になって、沈んでいった。
しぃは、泡になった。
.
335
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:38:27 ID:vG2lH35Y0
「しぃはもう、考えない」
だからぼくも、考えない。
「しぃはもう、笑わない」
だからぼくも、笑わない。
「しぃはもう、歌わない」
だからぼくも、歌わない。
「しぃはもう……生きてない」
だから、ぼくも――
336
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:38:52 ID:vG2lH35Y0
「だからあなたは、ギコ<ひつじの名>を名乗った」
ミセリが、ぼくの言葉を引き継いだ。
「彼女と同じ、泡になるため」
ぼくは立ち上がっていた。
樹木にもたれた彼女から離れて。
「ぼくは、きみとは違う」
罪人を騙る彼女。
でも、彼女に罪なんてない。彼女は被害者だ。ぼくは違う。
「ぼくは助けられるはずのしぃを見殺しにした。
最愛の、誰より、何より大切だったはずの兄弟を。
……ぼくは罪人だ。だからぼくは、何も望んでなんかいない。
望んで泡になるんじゃない。望まない死で、罰せられなければいけない。
だから、ぼくは――」
「生きて、ハーモニカを吹きたいんだね」
337
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:39:28 ID:vG2lH35Y0
彼女の言葉に、時が止まった。
「なによりの望みを奪われること。
それが最大の罰だと、あなたは知っていたから」
幸せだった、あの頃。
「しぃは、めぇって鳴いたんだ……」
父がいて、母がいて、しぃがいた、あの時。
「助けてって、鳴いたんだ……」
一緒に歌った、あの時間。
「なのにぼくは、助けなかった……」
それを壊したのは、だれだ。
「ぼくはしぃを、見殺しにしたんだ……」
それを壊したのは、お前だ。
「そんな、そんなぼくが、ぼくみたいなやつが……」
悪いのは、全部、お前だ。
338
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:39:55 ID:vG2lH35Y0
「安らぎとか、幸せとか、愛情なんかを求めるわけにはいかない。求めちゃいけない。
ぼくには資格がない。そんなものを受け取る資格なんか、ぼくにはない。
認められちゃいけない、褒められちゃいけない、愛されちゃいけない。
苦しんで、苦しんで、苦しんで泡にならなきゃいけない!
泡になって、ぼくは、消えなきゃ、だれからも忘れられなきゃいけないんだ!」
声が、震えた。
「じゃなきゃ、しぃが報われない……」
.
339
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:40:26 ID:vG2lH35Y0
涙が溢れてきていた。ふざけるな。
お前には、泣く資格だってない。思ったり、感じたり、
考えたりする権利なんか、お前にはない。そうだろうが、この、兄弟殺し。
道は示された。やはりぼくは、小旦那様の後ろを歩く。
小旦那様は、ぼくの思った通りの人だった。ぼくが願った通りの人になった。
ぼくは、小旦那様のひつじ。
そして小旦那様が、ぼくの、屠殺人。
340
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:40:57 ID:vG2lH35Y0
「ねえギコ、どうしてあたし、死ななかったと思う?」
目尻を拭う。ミセリを見る。
ミセリが言っているのはきっと、自分の過去についての話だろう。
姉に棄てられたと思い、樹海へと入った、あの時の。
自分はいらない子。
そう思ったミセリは、一度は本気で死のうとした。
「……死ぬのが怖かった?」
「もちろん、死ぬのは怖かった。考えるだけでも。
でもね、怖いだけなら、あたしは死ねた」
ミセリが脚を抱き寄せた。
本来の姿を取り戻した、その脚としての機能を失った脚を。
「あたしが死ななかったのはね、
それがおねえちゃんとの時間を否定することになるって、そう思ったから」
341
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:41:24 ID:vG2lH35Y0
彼女の言葉に、鼓動が早まった。
「あたしがあたしを殺すことは、
おねえちゃんがあたしにくれたものを忘れてしまうのと同じだって、思ったから」
これ以上聞いてはいけない予感がした。
「よく聞いて、ギコ」
耳を塞ごうとした。
「ううん。ギコじゃない、あなた」
走って逃げようとした。
「しぃはほんとに、『助けて』って言ったのかな。
『死にたくない』って叫んだのかな」
叫んでかき消そうとした。
「あたしには違う気がするんだ。
しぃは、しぃはさ、本当は――」
母の声を反芻させようとした。
「あなたに――」
――ぼくは、何もしなかった。
342
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:42:15 ID:vG2lH35Y0
『吹いて』って、伝えたかったんじゃないかな――
.
343
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:42:56 ID:vG2lH35Y0
しぃは、いつも一緒にいてくれた。
「あたしはしぃを知らない」
一緒に眠って。
「だから間違ってるかもしれない」
一緒に歌って。
「でもね」
悲しい時も。
「あなたのしぃは、あなたの苦しみを喜ぶような子だった?」
嬉しい時も。
「あなたのしぃは、あなたの幸せを望んでいなかった?」
しぃは、ぼくのそばで。
「あなたのしぃは、あなたをどう思ってくれていた?」
ぼくを、ぼくを――
愛してくれていた。
344
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:43:21 ID:vG2lH35Y0
否定しようとした。なにもかも間違っていると。
ミセリの言葉は憶測に過ぎなくて、ぼくは裁かれなければならない
罪人なのだと反論しようとした。けれど、できなかった。言葉が出なかった。
出てくるのは、嗚咽だけだった。ぼくは、泣いていた。
涙が溢れて、止まらなかった。前が見えなかった。
頭を抱えられた。抱き寄せられた。温かい感触が伝わってきた。
その暖かさに、もう、我慢できなくなった。ぼくは、泣いた。
ミセリの胸を借りて、泣いた。声を上げて、泣き続けた――。
.
345
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:44:01 ID:vG2lH35Y0
「どうするか、決められた?」
「……まだ、よくわからない」
泣き止むまで貸してくれていたミセリの胸から離れ、彼女の瞳を見つめる。
光の失せた薄濁りの瞳。なにより澄んだ、その瞳。
「でも、あのハーモニカはぼくのだから。だから、ぼくは、行くよ」
「うん」
立ち上がる。それだけのことで、ぼくにもはっきり、理解できた。
どうしてこんなことにも気が付かなかったのだろう。
胸に、手を当てる。
ハーモニカをかけない首は、ぼくにはちょっと、軽すぎる。
346
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:44:22 ID:vG2lH35Y0
「ギコじゃない誰かさん」
ミセリが、ぼくを見上げていた。
「あたしにも、いつか教えてくれる?」
少し悲しそうな、幼い微笑みで。
「あなたの名前」
ぼくはこの時初めて、“ミセリ”を見た気がした。
“ハイン”ではない、“ミセリ”を。
「必ず」
教会に向かって走る。
心がしぼんでしまわないように。
いまのこの気持ちを、二度と忘れないように。
ぼくがぼくになるために、走る。
しぃと共に、走る――。
.
347
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:44:59 ID:vG2lH35Y0
彼は行った。あたしを置いて。
こうなることを望んでいたとはいえ、それでもやはり、さみしかった。
走れる彼が、羨ましかった。
「ナベ、いるんでしょ?」
森の一部が、ゆらいだ。ゆらいだ辺りに、視線を向ける。
あたしはそのまま、視線を外さなかった。しばらくの間、
そうして止まっていた。木々が、割れた。そこから人影が現れた。
ぼやけた視界の中では、それが誰なのか判別できない。
けれど、気配でわかる。そこにいたのはやはり、ナベだった。
「……いいの?」
なんのこと?
と、あたしは知らないふりをして返す。
「だって、あなただって、ほんとは……」
わかってる。あなたの言うとおりだって、あたし自身にも。
あたしだって、もどれるものならもどりたい。帰れるものなら帰りたい。
あの頃に。おねえちゃんがいた、あの時に。彼のように。だけど――。
「あたしはもう、踊れないから」
348
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:45:30 ID:vG2lH35Y0
あたしの脚は、治らない。
歩くくらいのことはできても、走ったり、踊ったりすることはできない。
姉から授かったものを、あたしはもう、取りこぼしてしまった。
二度とは拾えぬ、その思い出を。
「ごめん……」
視界の中のナベが、わずかに震えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
謝る声が、かすれていた。
ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す彼女の声は
、間延びなんてぜんぜんしていなくて、ふつうの、
なんてことのないふつうの女の子の声をしていた。
ナベも、自分を偽って生きてきた。
偽らなければ生きていけない、切実な事情があった。
彼女自身にはどうすることもできない、生まれというものにつきまとう事情が。
そのことを、あたしは知っている。知った上で責め立てるなんてこと、
あたしには、とてもできない。
349
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:45:54 ID:vG2lH35Y0
「ナベ、あたしの手を取ってくれる?」
ぼやけたナベの虚像が、ぶんぶんと首を振る。
あたしにはその資格はない。あなたに触れる資格なんて。
そう言っているかのように。
「あたしね、とても大事なことを思い出したんだ」
ナベの首振りが、止まった。
「あたしをここへ連れてきてくれたのは、ナベ、あなただったんだね」
鎖を外してくれたのも。店から逃してくれたのも。
何度も倒れかけたあたしを、支えてくれたのも。
「あなたがあたしにかけてくれた言葉を、
あたし、覚えてる。思い出した」
伸ばした手を、あたしはけして降ろさない。
彼女があたしを、見捨てなかった時のように。
「『あなたが一人で踊れないなら、わたしも一緒に踊るから』」
あたしを、救ってくれた時のように。
350
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:46:15 ID:vG2lH35Y0
「ナベ、あたしね。いま、とても踊りたいんだ」
ぼやけたナベの虚像が、ためらいがちに近寄ってきた。
一人では立つことすらまともにできない、あたしの前へ。
あたしは彼女をつかむように、さらに遠くへ、ぼやけて消えてしまいそうな彼方の世界へ、
腕を、まだあたしのものであるその腕を、伸ばして、伸ばして、伸ばした。
「だから、お願い」
彼女の手が、あたしの手と、触れた。
初めて姉に踊りを教わった日のことを思い出した。
姉を真似て踊ってはみたものの、まるでうまくいかなかったあの日の思い出。
いまのあたしは、あの時よりもまともに踊れているだろうか。
それとも、もっと下手くそになってしまっただろうか。
どっちでも構わなかった。楽しかったから。踊ることは、楽しかった。
たぶん、きっと。姉があたしに教えてくれたのは、単純に、そういうことだったんだと思う。
彼が彼の父や、ひつじのしぃからそれを教わったのと同じように。
351
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:46:43 ID:vG2lH35Y0
風が吹いた。風など吹くはずのない、この場所で。
森が揺れて、空を、何かが通った。ぼやけた視界には、
それが何かはわからなかった。でも、あたしにはそれが、鳥のように見えた。
大きな白い鳥が、空を横切っていったように見えた。
良いものなのか悪いものなのか、それもわからなかった。
ただあたしは、きれいだなと、思った。
ぎゅっと抱きしめたナベの感触に安心しながら、
ただただきれいだなと、そう、思った――。
.
352
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:47:06 ID:vG2lH35Y0
『終章 海のひつじ』へつづく
.
353
:
名無しさん
:2017/08/21(月) 22:47:36 ID:vG2lH35Y0
今日はここまで
354
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:30:09 ID:LGcY6s6M0
乙
話も長さもえげつないな……
355
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:47:20 ID:AKaoAE960
0
兄が父と母を殺した。ぼくのために。
そう、彼は言った。
彼は続けて言った。
ぼくという存在はその連鎖性を欠いた。もはやぼくは、以前のぼくにはもどれない。
かつてぼくと自称していた己とは、異なる自己へと変貌してしまった、と。
更に彼は語る。
きっと一人は一人でできているわけじゃない。
一人は大勢によって構成されている。一人の背後には無量の亡霊が顔を覗かせている。
親、兄弟、親類。友人、仲間、教師。それに……敵。
それら背後に立つ者たちが、一人の意識在る者を組み立てていく。
それだけじゃない。軸は横だけでなく、縦にも積み重なる。
時の重みが、十年、百年と堆積したものが、千年、万年と凝縮されたものが、
そしておそらく、生命というものが芽生えて以降に起こったありとあらゆる現象が、
いまこの時代に生きるただ一人に受け継がれている。
356
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:47:46 ID:AKaoAE960
いまこの時代に生きているすべての人が、
膨大な過去の積み重なりによって『私』を決定づけられているのだと思う。
それがたぶん、この世界の在り方なんだと思う。
だからたぶん、『私』に自由はないのだと思う。
だからたぶん、一人がいなくなっても、世界が大きく変わることはないのだと思う。
だから、そう。
いまこの国がこんな状況になっているのは、だれか一人が悪かったとか
そういうわかりやすくて明確な原因があったわけじゃなく、
そうなるべくして長い間積み重ねられてきたものの結果が、
些細な事象を切っ掛けに表出してしまっただけなのだと、そう、ぼくは、思う。
.
357
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:48:21 ID:AKaoAE960
彼の言葉はむつかしくて、私にはよくわからない。
『私』がどうとかいう哲学に、興味を持ったことはない。
それなのに彼はよく、こんなふうに難解な話題を私に話して聞かせた。
おにいさんの影響らしい。博識で、神童と呼ばれたおにいさんの。
だけど彼自身は、自分が話している言葉の意味などちっともわかっちゃいないのだ。
彼はただ、尊敬するおにいさんの真似をしたいだけだった。
だからちょっと突っ込むと彼はすぐにしどろもどろになったし、
私は私で楽しくもなんともない
哲学を聞かされるのはいやだったから、すぐに話を遮っていた。
いつもは、そうしていた。
今日は、止めなかった。
別に、どんな話でも構わなかったから。話なんてなくてもよかったから。
ただ彼に、ここにいてほしかった。ずっと、ここにいてほしかったから。
それに、なにより――彼の顔がとても、苦しそうだったから。
だから私は、死のうと言った。
358
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:48:49 ID:AKaoAE960
彼は話すのを止めた。彼が私を見る。私も彼を見る。
日に焼けた健康的な肌が、いまは少しだけ白い。
部屋の外から波の音が、わずかに聞こえてきた。
せめて死ぬときとくらい、海を見たいな。
自分では手の届かない位置に開けられた窓の、その向こう。
あそこから落下すれば、地面に激突するまでの短い間くらいは、
海を見ていられるだろうか。いやなことなんてひとつもない
世界の果てのその向こうまで、飛んで行くことができるだろうか。
ごめん、と、彼が小さく謝った。
どうしてと、私は問いかける。
彼は、生きるからと、簡潔に答えた。首へかけた銀のハーモニカに触れながら。
おにいさんから託された、最後の宝物を握りしめながら。
359
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:49:19 ID:AKaoAE960
勝手だと思った。
私を置いて、私の行けない場所へ行こうとする彼を、とても勝手だと思った。
だから、そう言った。あなたは勝手だと言った。口汚く罵ったし、
思いつく限りの罵詈雑言を吐いた。そうすれば彼が思い直してくれるんじゃないかと、
たぶん、そんなことを期待して。
願いは叶わないなんてこと、よく知っていたはずなのに。
従者が扉を開いた。それが、別れの合図だった。
さよならもなかった。彼が、部屋から出ていこうとした。
遠い場所へ、私の手の届かない場所へ、彼が行ってしまう。
二度と会えなくなってしまう。もう、二度と。
いやだ、と、私は叫んだ。
彼と、彼を送ろうとしていた従者が立ち止まった。
振り向いたその顔に、私はありったけの言葉をぶつける。
いままで生きて、学んで、覚えてきた、つまらなくて仕方のなかった彼の話も駆使して、
とにかく、とにかく言葉をぶつけた。言葉の音は、多様になった。
だけどその意味するところは、結局同じ。究極一語の、「いかないで」。
ぼくだって……!
絞り出された彼の声。ぼくだって、なに?
ぼくだって。その言葉のつづきは?
言葉を待つ。私の期待する、その言葉を。
360
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:49:45 ID:AKaoAE960
でも、と、彼は続けた。
ぼくは、生きるから、と。
私は、彼を見た。彼も、私を見ていた。
その瞳には、かつての彼にはなかった、男性そのものの昏さが湛えられていた。
私はようやく、理解した。
彼はすでに、私とは違うところへ辿りついてしまっていたのだと。
もはやなにもかも、手遅れだったのだ。なぜなら彼は、大人だった。
彼を止める言葉を、こどもの私は持っていなかった。
従者が彼を急かした。もう時間がないのだ。私にも、彼にも。
だからこれが、最後。本当に、本当の、最後の、最後。
お願いをした。
ある、ひとつのお願いを。
彼は、約束してくれた。
いつか必ず、絶対に叶えると、そう、約束してくれた。
.
361
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:50:11 ID:AKaoAE960
彼が亡命してから二ヶ月後、私はここ、『ひつじの教会』へやってきた。
そこで私は、見続けてきた。多くのこどもたちを。
こどもたちが生を諦める、その瞬間を。
唯一無二のその存在が、あらゆる因果から消滅せしめるその瞬間を。
何人も、何人も、何人も。
魔女と呼ばれ、忌み嫌われようとも観続けることを止めなかった。
何人も、何人も、何人も、何人も。
いつかの約束が果たされる、その日その時を夢見て。
何人も、何人も、何人も、何人も、何人も、何人も、何人も、何人も……。
しかし彼は、約束を違えた。
私はついに出会ってしまった。
現世に背を向けた、そのこどもと。
泡と化し、消え去ることを望むそのこどもと。
生きると言って去った彼――あの人の、そのこどもと。
.
362
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:50:51 ID:AKaoAE960
終章 海のひつじ
1
これは必然だ。
破綻していたのだ。彼がここへ来た時には、すでに。
彼は彼であって、あの人ではない。そんなこと初めからわかっていたというのに。
遠い日の約束を忘れられず――いや、長い時をかけて築いた己の軌跡が
無意味であったと認める勇気を持てず、彼に代わりを求めた。求めてしまった。
別人であると、知っていたくせに。
だからこれは、必然だ。
彼の主の言うとおりだ。現実は、怖い。現実へなど、本当は帰りたくない。
あんな罪と苦痛にまみれた世界になど、二度ともどりたくはない。
痛いのも苦しいのも、本当は嫌いだ。
実際の所、私はどうしたかったのだろう。約束を果たしたかった気持ちは、本物だ。
そのための準備も進めてきた。けれど彼の主は、その準備に費やしてきた時間こそが
現実を忌避する私の逃避行動であると看破した。
私は初めから、約束を果たすつもりなどなかったのではないだろうか。
そう、初めの、初めから……。
だからこの結果は、必然だ。
363
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:51:13 ID:AKaoAE960
もはや何を考えても手遅れだ。私は諦めてしまった。
いままで私が観察してきたこどもたちと同じように。その証拠が、この身体。
燐光放つ、粒子の崩壊。泡へと還元されるための、最終行程。
ベルが鳴る。手に持たされた、小さなベル。無数に分かれし生命の波の、その象徴。
かすかに震える大気の波動。私とは、何か。私とは、これだ。
私とは結局、この三次元空間を刹那に揺らすベルの音に等しいのだ。
もう、それで、いいじゃないか。
「ジョルジュは、ジョルジュだ……ジョルジュは、ジョルジュだ……
ジョルジュは、ジョルジュだ……ジョルジュは――」
車椅子の背後から、変わらぬ言葉がつぶやかれ続けている。
うつろな目をしたジョルジュ。その目は前を行くひつじを捉えているようで、
どこか虚空を見つめている。
「そうよ、あなたはジョルジュ。ジョルジュでいいの」
彼に変化はない。変わらず彼が彼で居続けるための呪文を唱え、
自己の崩壊を防ぐことに必死でいる。私の声など、聞こえてはいないだろう。
それでも私は、言わずにはいられなかった。あなたはジョルジュだ、と。
364
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:51:37 ID:AKaoAE960
ジョルジュには申し訳ないことをしてしまった。
ここへ来てまだ間もない頃、私はモララーと協力して
この謎だらけの教会の真実を探ったことがある。
そしてその時に、牧師と“接触”した。それ以来私は、少し視えるようになった。
こどもたちがここへと到るまでの、その経緯が。
おそらくはみな、それとなく肌で感じ取っていたのだろう。
ほじくり返されたくない罪を覗き見る女がいると。魔女という名の蔑称。
それは必ずしも、無根拠なものではない。
みんなが私から離れるのは、当然の道理と言えた。
けれど彼は、ジョルジュはむしろ私に近づいてきた。
おそらくは単純に、見てもらえているという事実が嬉しかったのだろう。
自分を見てくれる人、愛してくれる人を、ジョルジュは求めていた。
求めて、私を見つけて、それで、懐いた。
私も、情が移ってしまった。観察者としての本分を忘れ、おせっかいを焼き、
いらぬアドバイスも何度か送った。それがジョルジュのためになると思って。
けれどその挙句が、これだ。私の行いは、ジョルジュを苦しめただけだった。
故に私には、彼を肯定する義務がある。
例えそれが彼の耳にまで届かなかろうと、私は伝える。
あなたの動物も、あなたのママも、あなた自身も本物であると、肯定する。
あなたは、ジョルジュだと。
ひつじが、足を止めた。
歌の海が、世界を満たし始めた。
365
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:52:13 ID:AKaoAE960
「ありがとう、ジョルジュ。あとは自分で行けるわ」
車椅子をつかんでいた彼の手に触れ、強張ったその指を静かにはがす。
その間もジョルジュは私を一瞥することもなく、
自己を固着させる文言を唱え続けていた。
ジョルジュから離れる。ひつじに近づく。そこにあるのは、私の消失。
痛みも苦しみも……罪も含めた、自己の完全なる分解。
それはきっと、安らかなことなのだろう。泡となり、より大きなものの
ひとつとなるその瞬間、こどもたちはみな、笑っていたのだから。
いつかあの人の言っていたことを思い出す。
『私』に自由などなく、それ故に、『私』がいなくなっても
世界に大きな変化などない、という言葉。私がいなくなっても、
きっと、何も変わりはしない。
もはや躊躇う理由はない。この手を伸ばし、触れるだけでいい。
それだけで後は、何も考えずに済む。だから、行け。
お前はもう、諦めたのだから。早く、早く、早く――。
生まれた罪を、清算するのだ。
.
366
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:53:04 ID:AKaoAE960
手が、触れた。
私のものではない。
ひつじに触れた、その手。
その手の主は、彼。
ジョルジュだった。
ジョルジュがひつじを、つかんでいた。
「ぼく、いい子だったんだよ……?」
ジョルジュが、ひつじをゆさぶった。
「お掃除だっていっぱいしたし、お野菜だってちゃんと食べた」
やわらかな羊毛が、くしゃりと形を変える。
「みんなのことも、いっぱい笑わせた。
みんな、すごく喜んでくれた。ぼくを好きって言ってくれた」
367
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:53:35 ID:AKaoAE960
歌うことを止めたひつじが、横目でジョルジュを見ている。
「ぼくは、ジョルジュなんだ。みんなに愛されるジョルジュなんだ。
ママのジョルジュなんだ。だから、だから……」
ジョルジュの身体が大きく、のけぞった。
「開けて、開けてよママ! ぼくを見て! ぼくを撫でて!
ぼくを褒めて! ぼくを愛して! ぼくを、ぼくを――」
捨てないでっ!
.
368
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:54:06 ID:AKaoAE960
足音が、聞こえた。
ジョルジュではない。ひつじでもない。私のものでも、もちろんない。
果てなく続くこの無間回廊のその更に奥から、
高らかなる跫然が『我はここに在り』と謳い、参上した。
私が見る。
ひつじが見る。
ジョルジュが見る。
三様の視線が集うその収束点に――彼がいた。
あの人。
彼ではない、彼。
生きることを諦めた、彼。
けれど。
何かが、違う。
彼の何かが、いままでとは違っている。
見た目や、声や、ただ歳を重ねるだけで得られる何かとは違う。
もっと根源的で、絶対的な、以前とは異なる魂の飛躍。
その変化を、私は知っている。
その変化を、私はいつか目の当たりにしたことがある。
369
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:54:32 ID:AKaoAE960
「きみが」
ジョルジュが、ひつじから離れた。
「きみが、来たからだ」
ジョルジュが、ふらりと身体を揺らす。
「きみが来たから、ぼくは捨てられた」
揺れた身体で、彼へと近づく。
「そこはぼくの場所だったんだ」
抑揚のない声で、彼へと迫る。
「返せよ」
力のない瞳で、彼を睨む。
「返してよ」
失った何かを求めるかのように、腕を伸ばす。
「ママを、返せ」
そしてジョルジュは、愛の代わりに首をつかんだ。
敵の、仇の、彼の、首を。
370
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:54:57 ID:AKaoAE960
「ジョルジュ!」
私は叫ぶ。けれどジョルジュの耳に、もはや私の声など届きようもない。
ジョルジュの細い腕が、その細さながらに筋肉で張る。
いまにも張り裂けそうな血管が隆々と脈打つ。
彼の首は、無数の皺を描いていた。
みちりという音がここまで聞こえてきそうな、容赦のない締め方を成されている。
血流を止められているのだろう。彼の顔から、みるみると血の気が失せていった。
けれど彼は、苦しむ素振りを見せなかった。
薄く開いた目で自分を殺そうとする幼い魂を見ていた。
見ながら、その手に持った何かを掲げた。短刀。
刀身に奇妙な波模様の浮かぶ、彼の主の、執着物。
その研ぎ澄まされた凶器に、彼の顔が反射していた。
反射した彼の顔、そのほほに、一筋の涙が流れた。
彼が、声ならぬ声で、それをささやいた。
ごめん、“ヒッキー”。
そして、“ジョルジュ”が壊された。
.
371
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:55:32 ID:AKaoAE960
「ぼくじゃ、ない……ぼくは、ぼくじゃ……」
ひざをついてうずくまったジョルジュ――ヒッキーが、自らの手を見つめていた。
その手は血にまみれている。手だけではない。顔にも身体にもその鮮血は降り注ぎ、
彼を赤く染め上げている。しかし、ヒッキーには傷一つない。
その血はヒッキーのものではない。その血は彼、あの人の息子のものだった。
床に転がった短刀が、金属的な甲高い音を立てる。
痛みに顔を歪ませる彼の手には、深い刀傷が刻まれている。
自分自身でつけた傷だ。ジョルジュの……ヒッキーの、
触れ得ざる過去を再現させるために刻まれた、傷。
「ぼくは、ジョルジュだから……ぼくじゃ、ない……
ママを殺したのは、ぼくじゃ……」
彼が、うずくまるヒッキーに触れる。
触れられていることにも気がついていないのだろう。
ヒッキーは無抵抗なまま、覚醒した自我の否定に躍起になっていた。
その間に、彼は取り返した。ジョルジュの首にかかっていたそれを。
彼の、銀のハーモニカを。
あの人のハーモニカを。
彼が己の首に、あるべきものをかけ直す。
その姿は、本当に。
あの人と、瓜二つで。
372
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:56:08 ID:AKaoAE960
「どうするつもり?」
けれど彼は、あの人ではない。
「まだ迷っているのね」
彼はまだ、大人ではない。
私と同じように。
「きみこそ、どうするの?」
私は大人ではない。私は大人にはなれなかった。それが私の運命。
抗ってはみたけれど、その壁を壊す力を、私は持っていなかった。
私はもう、疲れた。戦うことにも、生きることにも。
夢を見ることにも。私は、私はもう――。
「私はもう、諦めた。なにもかもどうでもいい。だからこのまま泡になる。
私にはもう、この世への未練なんて、ない――」
「うそだ」
373
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:56:37 ID:AKaoAE960
彼が私を否定する。間髪おかずに。そのことが、いやに癇に障る。
あの人の顔で、あの人の声で、私を否定する彼に、強い苛立ちを覚える。
「私のこと、なんにも知らないくせに」
「きみのノートを読んだ」
私のノート。忘れようとしていた記憶の欠片が、存在を主張しだす。
「きみが何を観て、それにどれだけの時間を費やしてきたのか、ぼくは知った。
片手間で成せることではないきみの偉業を、ぼくは目にした。
それがまだ、未完成であることも」
「未完成?」
「ここに置いてあるだけでは片手落ちだってことだよ。
そしてそれはきみ自身も理解しているはずだ。
わかっていたからこそ、ぼくに公表することを頼んだんでしょ?」
374
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:56:57 ID:AKaoAE960
「それは……」
「きみが何のためにノートを書き続けていたのか、それはぼくにはわからない。
でも、中途半端な気持ちで始めたわけじゃないってことくらい、読めばわかるよ。
見れば、わかるよ」
「それはあなたの主観よ。私はただ、古い約束を守ろうとしただけ。
その約束が果たされないと知ったいまでは、あんなノートなんて、
もはや紙くずに等しい――」
「本当に、それだけ?」
彼は、引かなかった。
「きみにだって本当は、向こうへ帰るだけの理由があるんじゃないの?」
私は、答えない。
「それにぼくはまだ、答えをもらっちゃいない」
彼が、取り戻したばかりの形見に触れながら、言った。
「『きみは、だれなの?』」
.
375
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:57:24 ID:AKaoAE960
私は叫んだ。
床に転がっていたはずの短刀が、見当たらなかった。
うつろに唱えられていた文言が、止まっていた。
血にまみれたその身体が、消え去っていた。
彼の背後に、立っていた。
「後ろっ!」
彼が、振り返った。
ヒッキーが、短刀を振り上げ――振り下ろした。
.
376
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:57:51 ID:AKaoAE960
「ぼくは……ぼくじゃない……」
彼の身体が、崩れ落ちた。
鮮血を、撒き散らしながら。
「ぼくが……ぼくじゃないなら……」
のどから下腹部にかけて、ぱっくりと裂かれている。
口からも、ごぷりと血を漏らしている。
「だれかが……ぼくだ……」
それでも彼は、息をしていた。
焦点の合わせないうつろな顔で、ぜいぜいと呼吸していた。
「ぼくの……だれか……」
ヒッキーが、瀕死の彼の肩をつかんだ。
そして、もはや波模様など見えないほどに汚れたその短刀を、再び振り上げた。
「だれかは……お前だ……!」
とどめを、刺すために。
377
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:58:18 ID:AKaoAE960
「――――っ!!」
彼の名を叫び、車椅子から、飛び出した。
振り下ろされんとする刃と倒れた彼の、その間に向かって。
腕を伸ばして。
身体を伸ばして。
だけど、届かない。
距離も、時間も。
私には、遠い。
なにもできない私には。
投げ出された私の身体が、地面に落ちた。
床に這いつくばった、その格好で。
私は、見た。
ヒッキーの、凶刃が。
頭蓋を貫き砕く、その瞬間を。
私は、見た。
歌うひつじの頭蓋が砕かれる、その瞬間を。
.
378
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:58:41 ID:AKaoAE960
そして世界は、海へ落ちた。
.
379
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:59:08 ID:AKaoAE960
2
「ママ……?」
それは、幻想的な光景だった。
「ねえ、ママ……」
すべてのものが、気泡を上げていた。床も、柱も、壁も――。
「ママ……起きてよママ……」
私も、ヒッキーも、彼も。すべてのものが例外なく、気泡を上げていた。
光り輝く泡と化していた。もはや身躯にまとう燐光は私だけの特権ではなく、
ありとあらゆるものが海へと還元されつつあった。
彼を庇ってジョルジュの凶刃を受けたひつじの、その傷口から漏れ出した海へと。
世界は、いまや、海だった。
380
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 17:59:38 ID:AKaoAE960
「ママ……ママ……」
海を吐きしぼんでいくひつじにジョルジュが力なく寄り添い、
抜け殻と化していくその羊毛ばかりが残った皮を揺すっている。
自らの過ちを、自らが最愛の生命を奪ったという事実を、
受け入れることができずに。その地点から、一歩たりとも動くことができずに。
動けないのは、彼もだった。
ジョルジュの一撃によってひざを折った格好のまま、彼は動かなかった。
首から下腹に掛けて裂かれた肉体は、いまも多量の血を流している。
けれど意識が朦朧としているわけではない。彼は明確に、ある一点を見つめていた。
砕かれたひつじの頭部。彼の方を向いたその顔を、見つめていた。
さらに海を吐くひつじの頭が、もぞりと、動いた。
彼の身体が、反射的に強張ったのが見て取れた。
息荒く、それでも目が離せないといった様子で、彼はひつじを見つめていた。
ひつじの口が、動いた。
めぇ
.
381
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:00:00 ID:AKaoAE960
彼の目が、見開かれ――
.
382
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:00:43 ID:AKaoAE960
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛
う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛!!!!
.
383
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:01:16 ID:AKaoAE960
この世のものとは思えない咆哮が、
彼の固く食いしばられた歯と歯の間から漏れ出した。
彼の歯はその隙間を埋め尽くさん程に血まみれで、
それがのどから吐き出されたものなのか、それとも力を込めすぎて
破れた歯茎から噴出したものなのか、もはや判別できない有様だった。
痛みが、形を為していた。
彼が、口を開いた。口内に溜まった血液が吐き出された。
吐き出されたそれが、世界を満たす海に溶けて、色を失った。
血液すらも、泡となった。怒りも、悲しみも、心も、すべてが泡となって消えていく。
彼が、立ち上がった。何も言わずに。
ひつじと、ひつじに被さるヒッキーを見下ろし、
そして、そこから、視線を外した。
彼は、私を見ていた。私も、彼を見ていた。
その瞳には、かつての彼にはなかった、男性そのものの昏さが湛えられていた。
彼が、私をつかんだ。つかんで、抱き上げた。
傷口から止め処もなく湧き上がる赤い気泡を気にする様子もなく、
彼はそのまま、走り出した。ひつじに背を向け、駆けていった。
.
384
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:01:51 ID:AKaoAE960
現象は、廊下だけに収まっているわけではやはりなかった。
すべてが、この世界のすべてが海に落ち、泡と化していく。
鐘が鳴っていた。教会を揺らし、心を揺らし、魂を揺らし、世界を揺らして。
波となって、世界の果てから果てまでその振動を響かせていた。
その振動に合わせて、こどもたちが歌っていた。
歌は、みなみな好き勝手に歌ってばらばらだった。
歌は、まるでひとつの調べを奏でているかのように調和していた。
独唱でもあり、合唱でもある、不思議な響き。
歌のための、歌。
その根幹を成す、鐘の音の律動。
生命が生命と生る以前の、根源。
無量へと分かたれる以前の、一。
ありとあらゆる魂が等しく有する、遺伝子に刻まれた鼓動。
原初の波。
.
385
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:02:24 ID:AKaoAE960
始原の波動へと、回帰する。
分かたれたものが、一へと還っていく。
生命が、生命と生る以前の淵源と同化する。
こどもたちが、泡となって、形を失う。
一人、また一人と、自己を失う。
幸せそうな顔をして。
一人、また一人。
歓びの笑みを浮かべて。
一人、また一人。
生命を、諦めていく。
一人、また一人。
ついにひとつへ戻る時を迎えた双子も。
一人、また一人。
抱き合い踊る、二人の少女も。
一人、また一人。
消えて、消えて、消えていく。
一人、また一人。
一人、また一人。
一人、また一人――。
.
386
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:03:15 ID:AKaoAE960
もはや教会とは呼べないほどに形を失ったその跡地から抜け出し、
私たちは森へと入った。向かう先は、森の向こう。
この幽世と現し世を結ぶ境界の地。それがどんな場所なのかはわからない。
けれどそれがあることは、はっきりしている。魂がその存在を告げている。
でも、本当に、いいのだろうか。
彼は、走る。私は抱いて。ヒッキーにつけられた傷はすでに、半ば以上塞がっている。
この世界の理。傷つかず、覚えず、そして、成長しない。
変わらないこと。不変であること。それは本当に、悪いことなのだろうか。
一度はこの世界に抗しようとしたモララーも、
結局は安寧を受け入れ私とも袂を分かった。
間違っていたのはモララーだろうか。それとも――。
387
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:03:52 ID:AKaoAE960
視界がちらつく。こどもたちの幻想で。
泡となって消える時、より大きなもののひとつとなる時、
こどもたちはみな、笑顔だった。
視界がちらつく。こどもたちの現実で。
ここへ到るまでの彼らはみな、辛酸に顔を歪め、
自らの犯した罪に戦き苦しんでいた。
そして、私の現実。
私には本当に、その覚悟があるのか。
あの世界へ、あんな、罪しかない世界へ帰る覚悟が。
この、私に。
本当に――本当に。
388
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:04:17 ID:AKaoAE960
「あっ」
彼が小さく声を上げた。前方で、何かを見つけたらしい。
彼に抱えられた格好のまま、私も首をひねる。
彼の見つけた何かを、私も見る。
「……下ろして」
まだ樹木としての役割を担えている木々が寄り集まって絡み合い、壁を形成していく。
外へと、現実へとつづく道を拒絶する、私の心の反映が、目の前に象られていく。
彼は私の頼みを聞いてくれた。
緑の香り漂う地面へ下ろされた私は、それへと手を伸ばした。
それは触れた途端、かろうじて保っていた形を放棄して泡へと還っていった。
別のそれへも、手を伸ばす。それもまた、泡になる。
次も、その次も、そのまた次も、そうだった。
それはどうしようもなく、泡になっていった。
それが――私のノートが、私の記した記録が、残らず、一つ残らず泡となっていった。
「……あの」
彼が何かを言いかけて、結局口を閉じた。言葉が見つからなかったのだろう。
私も同じだ。私にも、言葉はなかった。すべてが、私のこれまでが、
記した記録が失われていく様を、ただ黙って見届けるしかなかった。
手を触れても手中には残らない、それらを。
389
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:05:05 ID:AKaoAE960
……でも。
見上げる。彼方の根源へと飛び立つ泡の群れを。その一粒一粒を。
その一粒に描かれた膨大なる一言一句を、私は見つめる。
思い出す。いや、覚えている。
安寧の幸福へと消えていく彼らを、私は、覚えている。
私だけが、覚えている。
なら――。
「……だれに頼ることもできない」
このまま全部なかったことにして、
なにもかも忘れ去ってしまうことが私の望みか?
「それが私の望みなら」
否。私は喪失を望んではいない。
「私が見つけた、私だけの望みであるならば」
彼らの喪失を、私は望んでいない。
390
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:05:40 ID:AKaoAE960
「あなたに……」
例えそれがエゴの発露による願望であろうとも。
「私の知る旧き友人ではないあなたに、誓う」
多くの者の意に沿わぬ欲動であろうとも。
「『きみは、だれ?』」
それを望んでしまった以上、私は立たなければならない。
「私は私を知らない」
自らの脚によって、立たなければならない。
「故にあなたの問に対する回答を、私は持たない」
391
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:06:11 ID:AKaoAE960
私は、立つ。生まれて初めて、自らの脚で。
「いまの、私には」
右足を、踏みしめ、
「いまのままの、私では」
左足を、踏みしめ、
「だから、私――」
――そして私は、拒絶の壁<私自身>に告げる。
生きるわ。
.
392
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:06:34 ID:AKaoAE960
絡み合った木々が、解けた。
三千海里のその果てまで伸びる現実への道が、次々と開かれていく。
任を解かれた心の樹木が、海気に浴して自己を崩壊させていく。
その泡の道を、私は歩いた。
出口まで労なく抱えられるのではなく、自らの脚で、歩いた。
彼に支えてもらいながらでも、自分の脚で、歩いた。
彼も、私も、燐光を放ち、光る泡となりかけながらも、
先を、向こうを、現実を目指して、歩いて、歩いて、歩いた。
そして私たちは、辿り着いた。海洋地帯の終着点。
海が終わるところ。幽世と現し世をつなぐ境界の、その浜辺へと。
彼の主が、そこにいた。
.
393
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:07:09 ID:AKaoAE960
3
「あいつは俺を、よく理解していた」
砂浜に腰を下ろし、彼の主が彼方を見つめていた。
世界の彼方。彼方たるここではない、現実の、私達が生きるべき生の世界を。
「いや、やはり理解できてはいなかったのかもしれない」
「小旦那様――」
彼が脚を踏み出した。己が主の下に向かって。
彼の肩を借りていた私も、連動して一歩踏み込む。
「だから俺は、ここにいる」
その瞬間、それは起こった。
「お前は死ぬ」
394
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:07:42 ID:AKaoAE960
目を、網膜を、視覚を飛び越えて、何かが私の内を蹂躙した。
光の反射ではありえぬ何かが、私の意識にその光景を投射し始めた。
「フォックスは脱走者を許さない。お前は逃げられず、再び檻へともどされる」
それは、屍だった。
「そして、生きたままその身を削がれるだろう」
生きたまま身を削がれた屍だった。
「死ぬまで」
生きたまま身を削がれた屍の山だった。
粛々と、非人間的に、その行為は、その儀式は行われていく。
手足を縛られた者たちが、細かな肉片へと切り刻まれていく。
男、女、こども、老人。
395
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:08:08 ID:AKaoAE960
泣き叫び、懇願し、あるいは恍惚の顔を浮かべ現実を手放したその顔、顔、顔は、
どれも、みな、一貫性無く、まるで、誰であろうと、私であろうと、
その台に、その祭壇に、くくりつけられても、おかしくはないという、錯覚を、覚える。
そして、それはきっと、錯覚ではない。
裂かれる者と、裂く者。裂く者の顔も、みな、違った。
けれどこちらには、共通点が合った。彼らはみな、こどもだった。
正確には、こどもを終えようとしている、最後の少年たちだった。
そしてその顔はみな、どこかしら、似ていた。
それは、歴史だった。何代も何代も、親から子へ、
子から孫へと受け継がれていった真実の歴史。
家という型によって連綿と受け継がれてきた狂気の歴史。
変化を厭い未来へと受け継がれていく固定された明日の歴史。
“現実”の歴史。
396
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:08:40 ID:AKaoAE960
「仮に」
儀式が終わり、輝く白の帳が降りてきた。
傷一つない純然たる光の白。意識の視界を覆う白い闇。
「仮に生き延びたとして、その先に何がある」
闇に、亀裂が走った。
「無窮無数に裁断されたまま不完全な固着を果たした原生の大地に、何の希望が持てる」
縦に走った初めの亀裂を、横薙ぎの亀裂が二分する。
そこへ更に新たな線が走る。線は無数に光を刻み、
“世界”は乗数倍にその数を増やしていく。
かつてひとつであった那由多が、元の姿を“忘失”する。
「ここにはすべてがある。生命が分化される以前のすべてが。
完全にして一なる原初の波が」
397
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:09:16 ID:AKaoAE960
ぎちぎちと互いに擦れて悲鳴を上げる無辺の世界群から、
痛みと苦しみの証たる朱き生命の粘液がこぼれ落ちる。
時代、生命、界、目、種、国、街、村、集落、家、
兄弟、男、女、『私』。『私』の内の肉と、魂と、霊。
「どこへ行く必要もない」
連鎖性を切り離した空疎から、それは流れでる。
止め処もなく流れ出していく。そして光の熱を失った世界は、冷え固まって膠着する。
もはやそこに、輝きはない。昏く薄汚れ、荒廃した“成れの果て”だけが蠢いている。
寸断された『私』が、蠢いている。
――それは、すなわち、『私』の死。
「お前はすでに、“ここに在る”」
.
398
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:09:44 ID:AKaoAE960
空が剥げ落ちた。闇も、悲鳴も、後には何も残らず、
そこには当たり前のように砂浜が広がっていた。
彼の主は変わらず砂浜に腰を下ろした格好のまま、彼方を見つめている。
私は、ひざを折っていた。身体の芯から怖気がして、知らず自身を抱きしめていた。
彼は、まだ立っていた。かろうじて、といった様子で。
彼もまた、同じものを知覚<観た>のだろう。その顔は青白く、血の気がない。
何かを言おうとするも言葉にならないのか、
その口が声の開閉を弱々しく繰り返している。
ママ……。
砂を踏む足音が、聞こえた。ママ、ママ、とささやくその声と共に、聞こえてきた。
ヒッキーが、そこにいた。泡を拭き上げ、失いかけたその身体を
左右にふらふら揺らしながら、ヒッキーがそこに、現れた。
その手に危うく持ちながら。奇妙な波模様が浮かぶ、あの短刀を持ちながら。
399
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:10:12 ID:AKaoAE960
「迷子なんだ」
ヒッキーが、私の前を通り過ぎた。
「ママが、いないんだ」
ヒッキーが、彼の前を通り過ぎた。
「ぼくが、いないんだ」
ヒッキーは、何も見てはいなかった。
「ママがいないから、ぼくがいないの?」
ヒッキーは、自分も見てはいなかった。
「ぼくがいないから、ママがいないの?」
ヒッキーは、失った自己にさまよっていた。
「いる」
400
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:10:40 ID:AKaoAE960
その言葉は、ヒッキーの口から吐き出されたものではなかった。
私も、彼も、ヒッキーですらも、声のした場所に視線を向けていた。
彼の主が、立ち上がっていた。視線は変わらず彼方へ送っていたものの、
その顔は真剣で険しく、感情的だった。
「お前も、お前の母も、ここに在る」
彼の主が振り向き、そして、空を仰いだ。
「ここに」
天より、光が降り注いできた。
それは、無数の泡。それは、無数の輝き。それは、無数の生命。
泡へと還元されたこの世界のすべてがその一点へと凝縮され、やがて人の形を象る。
波打つ鐘のその鼓動に合わせて、世界そのものが形を成す。
生命の根源。顔のない光。牧師。
.
401
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:11:12 ID:AKaoAE960
「あっ」
ヒッキーが小さく声を上げた。
放心したような顔で、とつじょ現れた牧師を見つめていた。
そして、その顔が、怯えに歪んだ。ヒッキーは牧師から離れるように後ずさりすると、
いま初めて気がついたかのように、手の中の短刀に目をやった。
ヒッキーは短刀を捨てようとした。しかし短刀は、彼の手から離れなかった。
皮膚そのものと同化したように、それは強く、固く、ヒッキーと結びついていた。
ヒッキーが自由な手で、短刀を引き剥がそうとする。引き剥がせない。
どんなに強く引っ張ろうとも、短刀は手から離れない。
「ちがう……」
爪を立て、肉ごと抉り出そうとする。ぽろぽろと皮膚が剥がれ落ちる。
肉がこそげ落ちる。しかし、短刀は落ちない。離れない。
牧師が、ヒッキーに触れた。
402
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:11:40 ID:AKaoAE960
「あ、あ、あ……!」
ヒッキーが飛び退いて、そのまま尻餅をついた。
それを追うように、牧師が身体を屈める。
「ああああ! うあああああ!」
半狂乱の叫びを上げて、ジョルジュが短刀を振り回す。
それは極まった感情が導き出した原始的な防衛反応に過ぎず、
何かを傷つけようといった明確な悪意や敵意は一切そこに介在していなかった。
けれどそこに意志があろうとなかろうと、凶器は凶器なのだ。
牧師は引かなかった。
引かず、その身でジョルジュの凶刃を受け止めた。
弾けたように、大量の気泡が空中<海中>へ浮かんだ。
牧師は、悲鳴を上げなかった。
ヒッキーは、叫びを止めた。
放心した様子で、牧師を見上げていた。
403
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:12:04 ID:AKaoAE960
「ごめんなさい……」
その顔が、くしゃりとゆがんだ。
「ぼくが、やりました……」
嗚咽が漏れ出していた。
「ぼくがやりました、ぼくがやりました、ぼくが、ぼくがぁ……!」
.
404
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:12:37 ID:AKaoAE960
目尻から玉となった涙が飛散する。のどを涸らす泣き声が、海を揺らす。
ヒッキーは、泣いて、泣いて、泣いた。取り返しのつかない過ちを、
目を背け続けてきた自らの罪過と直面した苦痛に耐えきれず、泣いて、泣いて、泣いた。
そのすべてを、牧師が抱きとめた。
ヒッキーの小さな身体が、牧師の腕の中に収まった。
涙は、流れていた。
けれどもう、泣いてはいなかった。
“母”の胸の中で、ヒッキーは安らかな顔を浮かべた。
目をつむり、そのまま眠ってしまいそうな穏やかさで彼はほほえみ、言った。
ママ――
想い続けた願いへとたどり着いた彼は、ついにママを知った。
そして、彼も、泡と消えた。
主を失った短刀が、浜辺の砂に埋れた。
.
405
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:13:07 ID:AKaoAE960
牧師は消えなかった。
世界の揺らぎに連動しているのか、現界した肉体は所々が薄く不安定に透けており、
いまにも無量の泡粒へと散逸しそうな危うさを漂わせている。
しかしその光輝は、輝きは、些かも衰えることなくその存在の絶対性を主張している。
光、すなわち生命そのもの。
人の形を成した生命が、腕を広げた。
彼に、向かって。
「受け入れろ、“ギコ”」
牧師は、自ら動くことはしなかった。腕を広げ、待っている。
手放した愛し子を再び受け入れその光と愛で包み込む瞬間を、
ただ、ただ待っている。
「己を“ひつじ”と受け入れろ。唯一それだけが、お前の救い」
判断は彼に委ねられていた。
その愛を受け入れるか突き放すかの、その判断は。すなわちそれは――
「成長も変化も、思考も感情も不要だ。必要なのは“母の子”で在り続けること。
それ以外に、罪の災禍を逃れる術はない。ギコよ――」
地獄に堕ちるか。
「完全なる静止の永遠。それこそが“楽園”なんだ」
楽園に留まるか。
406
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:14:07 ID:AKaoAE960
彼は、動かなかった。動けないでいるようだった。
彼は戸惑っているようだった。自ら選択するという、その行為自体に。
失うものの、その余りの大きさに。その気持ちが、私にはよくわかる。
“望まぬ世界へ産み落とされた我々”のだれもがきっと、彼の気持ちを理解できる。
だから、私は、叫んだ。
彼の名を。ギコではない。彼の、本当の名を。
「……私は、何も言わない」
首にかかった銀のハーモニカが、彼に遅れて振り向いた。
「憎みもしない。呪いもしない。あなたが留まることを選んでも」
私たちは利己的な生き物だ。
あるいはすべての生物が遺伝子という名の
利己性に支配されている存在なのかもしれない。生物としての必要条件。
奪いたい、犯したい、殺したい。助けたい、喜ばせたい、幸せにしたい。
モラルの有無は関係ない。善悪や是や非の問題でもない。
何かを望むということ。それこそが利己性の――生命の本質。
407
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:14:56 ID:AKaoAE960
「あなたがどうしようと、どうなろうと、私は生きる。生きるから。だから――」
立場が上の者に命じられたから。慣習で決まっていることだから。
規則だから。法だから。……それが歴史の、必然だったから。
『私』を超越して要請される強権者の理不尽。
でも、それでも。その要請を受けたのは『私』だ。
受けることを選んだのは『私』だ。受ける結果と受けない結果を比べ、
利己的に判断を下したのは、他ならぬ『私自身』だ。
その判断基準が環境によって大きく狭められていたとしても、
最後の決定を行うのは、『私』の意志だ。
例えそれが、『自分』か『相手』のどちらかを
殺さなければならないという極限の問であったとしても。
引き金を引くのは、『私』だ。
人はみな、母の一部だった。でも、人は生まれて、母から分断される。
『私』と『あなた』は違うと、教えられる。それでも私たちは、
自他を同一視しようとする。他人を自己の延長のように考える。
きっと、すべてが一つだった時代<母体内>の穏やかな郷愁にかられて。
408
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:15:27 ID:AKaoAE960
だからこそ、気づかなければならない。
『私』は『私』という利己的生命体の一であることに。
私は十ではない。私は百ではない。私は千の、万の、
億の兆の京の垓の……無量で割ることの一ではない。
私は一の一。その行いも、責任も、伸し掛かる罪過の重みも、私の一。
私が負うべき一の一。きっと、たぶん、それこそが――。
「あなたが選んで、あなたが決めて」
彼が、背を向けた。
そして、踏み出す。
腕を広げ、我が子の帰りを待つ『母』の下へ。
牧師<『母』>と彼<『子』>が正対する。
穏やかな光はすでに彼を包み込もうとしている。
その暖かさを前にして、彼は、さらに、もう一歩、足を踏み出し、そして――
彼“が”、牧師“を”、抱きしめた。
.
409
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:16:13 ID:AKaoAE960
静かな声が、波紋を生む。
「……もう大丈夫です。あなたがいなくても、ぼくはもう一人で歩けます。
ぼくはもう、あなたじゃないから。だから、母なる人よ――」
彼が、笑った。
「いままでありがとう。そして……さようなら」
一度だけ。
ただ、一度だけ。
牧師の手が、光のその手が、彼の頭を、撫ぜた。
それで、終わりだった。
人の形は消え、生命の泡が弾けた。
散逸した光が泡なる泡を、
生命なる生命を呑み込んで、
そして――
――たぶん、きっと、それこそが。
『私』が『私』であると自覚することこそが。
“大人”になる条件だと、私は思うから。
――そして、鐘の音が、止まった。
海が、凪いだ。
.
410
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:16:43 ID:AKaoAE960
4
「それがお前の答えか」
彼の主が、問いかける。
「なにがあろうと生きる。それがお前の選択か」
彼が、うなづいて応える。
「ならば――」
彼の主の腕が上がる。
同じように、彼の腕も上がる。
その手の先には、何かが握られていた。
彼の手の先には、短刀が握られていた。
刀身に奇妙な波模様の浮かんだ、あの短刀。
彼の主の――彼の主の譲り受けた、あの、短刀。
「その証を、俺に示せ」
411
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:17:12 ID:AKaoAE960
私は知っている。
二人の間で起こることを。
それを私は知っている。
だから私は、何も言わない。手出しをしない。
それは私の試練ではないから。
それは彼の試練だから。
“通過儀礼”だから。
私はただ、見守る。彼の、選択を。
――そして、彼が、選択する。
412
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:17:33 ID:AKaoAE960
短刀が、彼の主のその胸へ、迷うことなく刺し込まれた。
.
413
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:17:53 ID:AKaoAE960
「――その感触を、忘れるな」
.
414
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:18:17 ID:AKaoAE960
血は流れなかった。
彼の主のその胸から流れ出したのは、羽根だった。
純白の鳥の羽根が、止め処もなく溢れ出してきた。
羽根が溢れれば溢れるほど、彼の主はその人としての形を失い、
透過した身体が背後の風景を透かしだした。
その半透明な彼の主の身体のうちに、
彼の手放した短刀が呑み込まれていった。
奥の、一番奥の、まだ内側を見通せないその色のついた部分まで。
彼の主の口が開いた。
そのぽっかりと空いた口腔から、何かがゆっくりと這い出してきた。
それは、葉っぱだった。オリーブの葉。奇妙な波模様の浮かんだ、
見たことのないオリーブの葉。その葉を巻き込んで、彼の主が飛んだ。
虚空の羽根と化した彼の主が、飛んでいった。凪いだ海を、
無数の一で成り立つ一羽の鳥が影を作り、飛んでいった――。
.
415
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:18:47 ID:AKaoAE960
「後悔していない?」
彼と並んだ立つ。
浜辺の際、幽世と現し世の境、この世界の外縁で。
私達の現実がよく見える、この場所で。
「……わからない」
彼は正直だった。その顔には楽観も悲観もない。
ただあるがままを、そこで待つ現実を見つめている。
「そうよね」
私も同じような顔をしているだろうか。
世界に左右されない『私』でいられているだろうか。
そうであったなら、いい。
416
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:19:14 ID:AKaoAE960
「あなたはきっと、忘れてしまう」
前を向いたままの彼にささやく。
私もまた、前だけを見つめながら。
「ここで起きたことも、ここで出会った人のことも、
ここの記憶、そのものも」
きっと彼はもう、忘れ始めている。
モララーのことも、ショボンのことも、
ワタナベや、ハインのことも。
「だからこそ、あなたに覚えていてほしい。
ただひとつ、これだけ、覚えておいてほしい」
彼の主のことも、それに、私のことも。彼は全部、忘れるだろう。全部、全部。
……それで構わない。いまは、それで、構わない。
「『ソウサク』。この言葉を、忘れないで欲しい」
彼がうなづいたのが、わかった。
それだけで十分だった。
417
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:19:46 ID:AKaoAE960
私たちはかつてひとつだった。
それが分かたれた事実は、確かに悲しいことなのかもしれない。
でも、それは悲しいだけじゃない。
『私』がいるから、『あなた』がいる。『あなた』がいるから、『私』がいる。
例えそれこそが争いの直因であろうとも、私は他者を否定しない。
人は孤独な生き物だ。
『私』を恐れて逃げ出しても、『私』はいつもそこに在る。
『私』は私を苛んで、逃げても逃げても追い続ける。
恐れを呑んで向き合い始める、その時まで。
その戦いに、他者が手を出すことはできない。
『私』は『私』にしか見えないから。
418
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:20:34 ID:AKaoAE960
けれど、共有することはできる。
『あなた』と戦う『あなた』と支え合うことはできる。関係し合うことはできる。
『あなた』というその存在が確かに存在すると、信じることができる。
『私』は生きている。
『あなた』も生きている。
だから私は、踏み出せる。
生きるための、その一歩を。
『私』と向き合う、私の一歩を。
だから、だから私は、私は――
.
419
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:21:01 ID:AKaoAE960
外へ――
.
420
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:22:00 ID:AKaoAE960
∞
<やはりここにいたのですね>
……。
<あなたは悩むと、いつもここ>
……親父に言われて来たのか?
<まさか>
……いたんだな、お前も、ここに。
<いましたよ。だから、全部見てました。
あなたの思いも、あなたの葛藤も>
失望しただろう。
<どうしてそう思うのですか?>
……俺はお前が思っているような男じゃない。
俺はただの、臆病者だ。
421
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:22:26 ID:AKaoAE960
<……あなたの心はいまも、罪に囚われているのですね>
……俺の罪。
俺はお前を殺した。父や兄よりも身近にいてくれたお前を。
だが、それは罪の半面に過ぎない。
残された罪の半面にして己が本質をまだ、俺は……
俺は……
<剥き出された私の身の内の肉を“恐ろしい”と思ったこと。
あなたはそれを、いまなお気に病んでいる>
……。
<そうなんですね?>
……そうだ。
422
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:23:02 ID:AKaoAE960
<……ふふ>
……なにを、笑う。
<だってあなたが、あまりに変わらないから>
……。
<ええ。出会った頃から変わらない。
やっぱりあなたは、私が思った通りの人>
……俺は、ただの臆病者だ。
<約束を破ったのはなぜ?>
……。
<私の遺体を、どうして海へ流したのですか。
恐ろしいはずの私の残骸を、お父様やお兄様の
目を盗んでまで流したのは、なぜ?>
423
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:23:37 ID:AKaoAE960
……それは。
<あなたは本当に、やさしい人>
……俺は、やさしくなど。
<行いが証明しています。あなたはやさしい人です。
だから『牧人』になったのでしょう?
光に導かれ泡となることもできたのに。
誰よりもそれを望んでいたというのに>
……現実が数多の生命を蔑ろにする世界である以上、楽園は必要だ。
“迷える仔羊”を導き匿う、安息の地が。その役目を果たし終える、その時まで。
<途方もない歳月になりますよ>
それでも。
<果てはないかもしれませんよ>
それでも。
その時まで、俺は、俺でいる。
魂の救済を告げる鐘が鳴り終え止まる、その時まで。
俺は、俺で在り続ける。
424
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:24:08 ID:AKaoAE960
<……なら>
……。
<……なら、私も、そばにいます>
……。
<……その時が訪れるまで、私もあなたのそばにいます>
……それは、ダメだ。
<聞きません>
……生は、苦痛だ。
<聞きませんよ>
お前に必要なのは安息だ。
俺の生に付き合う必要など、もう、お前には……。
<もう主従もないでしょう?>
……。
<だからこれは、私のわがまま>
……。
<だってここは、楽園だから>
425
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:24:33 ID:AKaoAE960
……勝手にしろ。
<はい、勝手にします。だから、ねえ、――>
……。
<私の名前も、呼んでもらえますか?>
……。
<あの時、みたいに……>
……。――。
<……ふふっ>
426
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:24:58 ID:AKaoAE960
……鐘の音が、響き始めた。
<小さな魂がまたひとつ、母へ……>
歌ってくれるか。あの魂が二度と迷わぬように。
<はい。海のひつじと、“楽園”のために>
……そうだ。
その歌を、俺は待ち続けていた。
長い間、忘れていた。
“俺の楽園”には、お前の歌が必要だと――。
.
427
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:25:55 ID:AKaoAE960
――よ。もはやお前は俺を忘れただろうか。
お前を外へと送り出して本当に良かったのか、俺にはいまもわからない。
力づくでも押し留め、母へと回帰させるべきだったのではないかと
思い悩まぬ日々はない。牧羊者として、最後までお前を導くべきだったのではないかと。
しかし、お前は外へ出た。自らの意志、自らの脚によって。
お前は俺から巣立った。
だから俺は祝福しよう。
母の庇護を越え、ただ己によって生き始めた光輝なる人の姿に。
茨敷かれし苦難の道を歩まんとする、お前の姿に。
人の内にあらんとする神代の姿に。
――よ。世界は変わらない。
いつか俺の到達した結論を、お前が否定する日が来たならば。
お前の世界こそが楽園だと呼べるその時が来たならば。
その時再び、俺たちは見えよう。その時こそ俺は、お前を送り出した己を許そう。
だから――よ。かつて俺のひつじで在ろうとした者よ。
その時が訪れる遥けき彼方まで、俺はここに在る。
ここに在って、導き続ける。
迷える仔羊を。かつてのお前を。
いまも、そう、ここで、見つけたように。
428
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:26:21 ID:AKaoAE960
きみよ、安心しろ。
もう大丈夫だ。
怖いことも、辛いことも、ここにはない。
悲しみも、苦しみも、ここにはない。
お前の居場所は、ここに在る。
お前の安らぎは、ここに在る。
だから、おいで。
ここがお前の、安息だよ。
ここがお前の、楽園だよ――
.
429
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:26:51 ID:AKaoAE960
波の音に、目覚めた。
目を開けると、一面が、砂浜だった。
胸に、触れる。
首から掛かったものを、握りしめる。
そして――そして、泣いた。
声を限りに、泣いた。
赤児のように、泣きじゃくった――
.
430
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:27:15 ID:AKaoAE960
『外章 あなたのひつじ』へつづく
.
431
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:28:03 ID:AKaoAE960
0
父は楽園を求めていた。
私の故郷に伝わる伝承。
海より生まれ出でたものは、その死を境に海へと還る。
すべての生命は、やがて母なる海とひとつになる。
そこには一切の悲も苦もなく、始原の波に揺蕩う安寧に満ちている。
父は母を愛していた。だから、母の死に耐えられなかった。
母を失くした現実を受け入れられず、そして、伝承に頼った。
伝承の楽園を求めて、海へ出た。海の男であった父は自らの船を駆り、
まだ言葉も満足に話せぬ幼い私を連れて故郷を捨てた。
多くの国、多くの街を巡った。扱う言語も、肌の色も違う人々の間を縫い歩いた。
騙され、煙たがれ、時には直接的な危険に晒さることもあったが、楽園は見つからなかった。
父は諦めなかった。諦めず、昼夜を問わず調べ通し、そして、病に倒れた。
432
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:28:35 ID:AKaoAE960
頭の病気だった。まず、よく転ぶようになった。
生傷が絶えなくなり、いくら包帯を巻いても追いつかなかった。
次いで、一人で食事が摂れなくなった。なにを口に入れてもぼろぼろとこぼすようになった。
固いものも柔らかいものもそうだった。のどの奥まで、私が指で押し込んだ。
苦しみえずいた父は、よく私の指を噛んだ。私の手も、傷だらけになった。
病態は日々悪化していった。
末期には下の用も満足に足せなくなり、全部私が面倒を見なければならなくなった。
そして最終的に寝たきりとなった父は、うわごとのように母の名を繰り返していた。
父の口から出て来るのは、母の名だけだった。
私は父が好きだった。
それが例え父という閉じた世界しか知らなかったという理由であったとしても、
理由は感情の妨げにはならない。私は父が好きだった。だからこんな状態でも、
父には生きていてほしかった。父のために、稼がなければならなかった。
私は歌を歌った。故郷の歌。母の歌。母のことは、ほとんど記憶にない。
物心つくよりも前に亡くなってしまったから。
けれど母が、ぐずる自分をあやすために歌ってくれたことは、かすかに覚えている。
母は覚えていなくとも、その音、そのメロディ、その響きは強く心に残っている。
私にとって母とは、歌だった。私は母を歌っていた。
433
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:29:14 ID:AKaoAE960
歌は言語の壁を越えた。言葉は通じなくとも、少なくない人が私の歌に耳を傾け、
足を止め、施しの銭を投げてよこしてくれた。その金でパンを買えた。スープをもらえた。
贅沢とまではいわないまでも、生きていくだけの食事を賄うことはできた。
一人なら。
母の名を呼ぶ父ののどにふやかしたパンを押し込み、スープで流し込んだ。
咳き込んだ父は当然の防御反応として、私の指を強く噛んだ。
指を噛まれた私は止血もしないまま、再び街路へ歌いに走った。
そんな日々を長い間続けたある日、水を飲みに街外れの川まで出歩いた時、気づいた。
水面に映る自分の顔が、自分の知っている顔からかけ離れたものとなっていたことに。
その顔は、まるで死人のような――記憶の深層で蘇る、
海へと流された母のような冷たい色をしていた。
このままだと死ぬ。そう思った。
それでも私は、生活を変えなかった。
他のやり方など知らなかったし、それにやはり、私は父が好きだった。
父のために死んだら、もしかしたら一度くらい、私の名を呼んでくれるかもしれない。
そんな期待も、あったから。
だから私は歌った。痩せてしまったからか声は思うように出せず、
朦朧とした意識では自分が正しい音程を響かせているのかも判別できなかったけれど、
とにかく歌った。歌って、歌って、歌って……そうしたら、声を掛けられた。
434
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:29:42 ID:AKaoAE960
恰幅のいい男性が、何事か話しかけてきた。私には馴染みのない言語。
けれど数ヶ月の滞在によって、なんとか意味を読み取るくらいのことはできた。
男は言っていた。うちで働かないか、と。
こんなところで通行人を相手にせずとも、食うには困らないようにしてやる、と。
降って湧いた幸運に、私は混乱しつつすぐにも飛びつこうとした。
男は私に、もう飢える必要はないと言っていたのだ。それは天の恵みにも等しかった。
けれど私は、素直にうんとは返せなかった。男の言葉に、続きがあったから。
男が、いった。
『お前は孤児か?』
孤児でなかったら、どうだというのか。
孤児でなかったら、連れて行かないというのか。
孤児でなかったら、置き去りにされてしまうのだろうか。
私が、孤児でなかったら。
男は旅の行商人だった。もう間もなくしたらこの街を離れ、
次の街へと向かうらしい。準備はすでに整っている。
だから返事は、この場でもらいたい。そう、いわれた。
435
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:30:12 ID:AKaoAE960
選択しなければならなかった。
父か、自分か。
私は父が好きだった。物静かで、海の男であった父が。
たくましく、母に一途な父のことが私は好きだった。
けれど、父は、一度も私を呼んではくれなかった。
父は、母しか見ていなかった。
私は。
私は――。
.
436
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:31:09 ID:AKaoAE960
この国では、遺体は土葬される。私の介護を失った父は、早晩餓死するだろう。
そして、埋められる。母の送られた海ではなく、冷たく、暗い、土の下へ。
父はもう母とは会えない。あんなにも求め焦がれた母と、
その死後ですら再会すること叶わない。海と大地に分かたれてしまったから。
厚く遠い黄泉の壁によって隔絶されてしまったから。
私が父を、見捨ててしまったから――。
.
437
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:31:49 ID:AKaoAE960
「これが、私の罪……。私が犯した、私の罪です」
話し終えると同時に、船体が大きく傾いだ。
このまま転覆するのではないかと危ぶむも、
瀬戸際のところで船はバランスを取り戻した。
けれどそれも、わずかな延命にすぎない。
強い揺り返しが、身体を揺する。
大きな力に翻弄されて、気分が悪くなる。
雷の凄まじい稲光が、外界から遮断されたはずの船倉にまで届く。
もはや船が船としての機能を失っているのだろう。
彼が言うには、船はその中腹を基点として真っ二つに折れてしまったらしいのだから。
船に乗っていた人も、どれだけ生き残っているのかしれない。
彼も揺れる船内を為す術もなく転がるうち、ここまでたどり着いたそうだから。
彼。名も顔も知らぬ男性。
横転した貨物に隔てられて彼がどのような人物か確かめることはできなかったけれど、
声から察するに私よりずっと年のいった中年男性のように思われた。
その声色には威圧的なところや、不快なものはまったく混じっていない。
……少しだけ、記憶の中の父に似ていた。
438
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:32:21 ID:AKaoAE960
荒れ狂う嵐の下、私達人間風情にできることなど何もなかった。
いずれ訪れる死を待つこと、それ以外には。そしてそれが私の罪に対する罰であるのなら、
甘んじて受け入れなければならない。死を。あの日先延ばしにした、私の死を。
そのことへの躊躇など、いまさら抱こうはずもなかった。
ただ、申し訳なかった。海へ還れてしまうことが。
父があんなにも求めていた海での死を、奪ってしまった私が。
「次はあなたの番。教えてください、あなたが犯した罪を。
あなたが罰せられなければならない、その理由を」
話のバトンを彼へと渡す。私たちにできることは何もなかった。
死を待つこと以外には。だから私たちは残された時間で、この理不尽に訪れる死が、
確かな因果の下に巡ってきた罰であると確認する作業に費やすと決めた。
どちらからともなく……いや、どちらかといえば私が、
そうなるように話を誘導したのかもしれない。私は告解したかったのだろう。
この、少し父に似た声を持つ男性に。父に。顔を合わせぬままに。
「私の罪は……」そう言ったきり、男性は押し黙った。私は待った。
待つ以外のことはできなかったし、言いよどむその気持ちもわかる気がしたから。
だから私は待った。
439
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:33:14 ID:AKaoAE960
……けれど彼からの告白は、いつまで経っても続かなかった。
次第に不安になる。聞こえるのは波が船を叩き、しなりすぎた木板が悲鳴を上げる音ばかり。
まさか、いなくなってしまったのではないか。傾く船の傾斜に流されて。
あるいは、私からは見えない逃げ道を見つけて。
私は彼を呼ぼうとした。その矢先だった。彼
の声が聞こえてきたのは。彼は短く、こういった。
「あった」、と。
積み重なった貨物の壁を越え、何かが飛んできた。
それは私の足元へ、正確に落着する。折りたたまれたそれを、私は広げた。
木綿とコルクで組み合わせれたライフ・ジャケット。救命胴衣。
「これは……」
手に取り、瞬時に思う。絶対ではない。でも、もしかしたら。
あるいはこれを身に着けていれば、助かるかもしれない。
生命をつなぎとめることができるかもしれない。
……けれど、助かったとして私はどこへ?
440
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:33:35 ID:AKaoAE960
それに、疑問もあった。彼は返事をしない間、
おそらくはこれを探していたのだろう。ずいぶんと長い時間を掛けて。
そしてようやく発見した分を私に寄越してくれたのだろうが、
でも、それなら――。
「あなたの分は……」
「『罪なき者こそ恐ろしい。無垢なる彼らは己が正義を疑わぬから。
罪とは外より去来するものではない。熱した金によって刻印されるものでもない。
己が裡より芽生えるものである。罪深き者とは善悪を知る者であり、
最も神に親しい者である』。かつて私が師と仰いだ者の残した言葉です」
彼は私の問に答えなかった。不安が確信に変わる。声が震える。
「ないんですね……?」
「……あなたはやさしい人だ」
441
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:34:03 ID:AKaoAE960
投げ返そうとした。私には権利などなかったから。他者を排して生き残る権利など。
一度きりのその権利は、もう使ってしまっていたから。
だから私は、この与えられたタイトロープを彼の手へ返還しようとした。
けれど、そうはならなかった。一際大きな波が、船を横から持ち上げた。
煽られた船の動きに同調して、船倉内も天地を失う。積荷がでたらめに転がって、
頭や肩に容赦なくぶつかってきた。
気づけば、自分を失っていた。
ばらまかれた積荷に押しつぶされ、酷く不自由な格好を強いられている。
どうやら浸水もしているらしく、脚と腰が冷たかった。
船倉どころか、自分の周囲がどうなっているのかも把握できなかった。
だというのに、私はそれを手放さなかった。彼が寄越した救命胴衣を、胸に抱えていた。
「どうして!」
どこへいるのかも、まだこの船倉内にいるのかも不明な彼に向かって叫ぶ。
いや、彼に向かって叫んだのかも私にはわからなくなっていた。
私を取り巻くすべてに。これまで辿ってきた過去の軌跡に。
あるいは罪人となってまで生き延びてきた自分自身に。生まれたことに。
これらがないまぜになったものへの憤りが噴出した結果としての言葉が、
「どうして」という、疑問の一語であるのかもしれなかった。
442
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:34:33 ID:AKaoAE960
「私はあなたの歌に救われたことがあります」
声が、思いの外近くから聞こえてきた。
「あなたは私を知らないでしょう。けれど私はあなたを知っています。
裸足で街路に立っていたあなたを、私は知っています。
異国の歌を歌っていたあなたの姿を、私は知っています」
ごん、ごんという、何かを叩く音が、近くで聞こえた。
「あなたは私を救ってくれました。悩み苦しんでいた私の心を、
あなたの歌が救ってくれた。けれど当時の私は余裕がなく、
あなたの救いに何も返すことができませんでした。
……ようやく、恩を返せます」
音は外からではなく、内から聞こえていた。
一定の調子で叩かれるその音は、何かを壊そうとしているかのように力強かった。
「あなたの罪。それは他の誰が許そうとも、
あなた自身が背負い続ける宿星なのでしょう。そのことについて、私は何も言えない。
手出しできない。けれど罪を負ったあなただからこそ、
何を伝え、何を残さないか選ぶことができる」
「選ぶ……?」
443
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:34:58 ID:AKaoAE960
リズミカルに叩かれていた音に、異音が交じる。
ぎちぎちと、耳障りな音。木の板が軋む、悲鳴。
「罪を知ったあなただからこそ、何が善きことで、
何が悪しきことかの判断がつくはずです。無論、
一方にとっての善が他方にとっての悪という場合も多々あるでしょう。
善いと信じた行動が、とてつもない被害を及ぼしてしまうこともあるでしょう」
板の軋む音が、いよいよ極限を迎えていた。
さらに傾いていく船の影響を受け、積み重なった荷が揺れ動いて散らばった。
「それでも私たちは、何を伝え、何を残さないか選択し続けるべきだと私は思います。
でなければ、世界は不変のままだから。小さな、けれど重大な一歩の積み重ねが、
世界を善くするものだと私は信じているから。
遠き過去より連綿とつづいてきた無数の選択に、
無駄なものなどなかったと私は信じたいから。
そしていつか。すべての選択が真の実りを迎えたその福音の時こそ、私たちは――」
彼の顔が、一瞬、ほんの一瞬、目に入った。
この世界こそが楽園であったと、気付けるはずだから。
.
444
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:35:26 ID:AKaoAE960
板が、砕けた。同時に、身体が吸い込まれた。
比喩的な意味ではなく、物理的に身体が流れ込んできた水流に呑み込まれていた。
息ができず、目も開けられない状況下で、私は救命胴衣を握りしめていた。
なぜかは自分でもわからない。
彼の話に何かを感じたからかもしれないし、直面した死の暴威に臆したからかもしれない。
もしかしたら、ただの反射だったのかもしれない。理由はわからない。
とにかく私は、救命胴衣を抱きしめたまま、流されて、流されて、
そして、流されていった――。
.
445
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:35:46 ID:AKaoAE960
目を覚ますと、私の上で誰かが泣いていた。
少年。おそらくは、私よりもいくつか年下の。
彼の目から止め処もなく溢れる涙が、私の顔に降り注いでいた。
「なぜ泣いているのですか……?」
言葉を発した私に、少年は驚いた様子で目を見開いた。
その目に魅入られる。少年とは思えぬ深い悲しみに彩られた、その目に。
その目が閉じて、切られた涙がこぼれ、そして、開いた。
「だって、死ぬのは、悲しいじゃないか……」
ああ、そうか。
とても当たり前で、だからこそ忘れてしまった部分を、突かれた気がした。
そして、感じ取った。この少年も、罪を知っているのだと。
死の意味を、理解してしまったのだと。
少年が、ぐいっと目元を拭った。
446
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:36:13 ID:AKaoAE960
「おまえ、名前は」
名前。
久しく呼ばれることもなく、自分でも口にすることのなかった私の名前。
とっくの昔に忘れていた気がしたそれを、けれど私は、覚えていた。
まだ、かろうじて、私は私を覚えていた。
私は彼に伝える。数年ぶりに思い出した、その響きを。
私の響きを受け取った彼は、上向いて、口をもごもごと動かし始めた。
その口が、閉じる。そして、彼の顔が、私の顔に、一層、接近した。
「生きててよかった、トソン……」
言うなり、彼の目から再び涙が溢れ出した。
彼の涙が、再び私の顔を濡らす。でも、今度は、彼だけではなかった。
私も、泣いていた。私の目からも、涙が溢れて、止まらなかった。
447
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:36:33 ID:AKaoAE960
涙を流しながら、私は歌った。故郷の歌。思い出の歌。
何が悪いことで、何が善いことかなんて、私にはわからなかった。
ただ、私は歌が好きだった。
歌うことが好きだった。
母から教わったこの歌を歌うことが好きだった。
だから私は歌った。歌った。私は母を、歌った――。
.
448
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:37:05 ID:AKaoAE960
外章 あなたのひつじ
1
ぼくは農場へ売られた。シナーという男が経営する農場へ。
海を越え、遠く言葉も異なる国――ヴィップで拓かれたその大農場では、
奴隷はただの消耗品として扱われていた。
ただ労働が過酷なだけではない。
ここの農場主シナーは、毎夜奴隷を私室へと連れ込み、
豊富に取り揃えた数々の器具を用いて奴隷に苦痛を与えることを日課としていた。
拷問そのものが目的に行われるその狂事は、
明け方よりも前に終わることは決してなかった。
拷問を受けた奴隷は一睡もすることなく、
抉られ、焼かれ、潰された身体のまま労働に駆り出された。
少しでも身体を休めようとすれば、監督官の鞭が容赦なく唸りを上げた。
449
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:37:36 ID:AKaoAE960
無理をしてでも、働かざるを得なかった。無理をするから、体を壊した。
体を壊しても、休むことは許されなかった。
そうして、少なからぬ奴隷が死んでいった。
ぼくがここへ来た夜に、先輩の奴隷から忠告を受けた。
ここは地獄だぞ、と。その先輩も死んだ。ぼく自身も、何度も死の危機に瀕した。
心身ともに摩耗し、おかしくなりかけたことも一度や二度ではなかった。
それでもぼくは、自分は幸運だと信じていた。
なぜなら、生きているから。
450
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:38:00 ID:AKaoAE960
あの日、あの時。
あの浜辺で目を覚ました後、ぼくは近所に住む老夫婦に保護された。
ハーモニカを抱えて泣きじゃくる得体の知れないこどもであるぼくに、
老夫婦は温かいスープを振る舞い、柔らかなベッドを提供し、
やさしい言葉をかけてくれた。
そしてその上で、街長に通報した。
街長は直接、人身売買を営む街の名士、フォックスに連絡した。
為す術もなく連行され、閉じ込められた。元いた場所、奴隷の檻へと。
フォックスの処断は迅速だった。ぼくは他の奴隷たちの前で、
見せしめとして処刑されることとなった。
しかしぼくは死ななかった。幸運が、ぼくを延命させた。
異国ヴィップで拓かれた大農場の主シナーが、ぼくを引き取ると言い出したのだ。
シナーは商談のためにこの街へ訪れており、
用を終えるとすぐに帰国するつもりだったのだが、
商談相手に誘われ“それとなく”奴隷市場を覗いてみたらしい。
そして、ぼくの何かが彼のお眼鏡に適った。
451
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:38:20 ID:AKaoAE960
フォックスは当初、シナーの提案に渋る様子を見せていた。
市場の長としての面子もあったのだろう。
脱走者の処刑という筋を通すことに、やはり彼はこだわっていた。
しかし最終的には、ぼくの引き渡しを受けた。
裏でどのような取引が行われたのか、それはわからない。
けれどとにかくぼくは、シナーのおかげで生き残ることができた。
シナーが帰国するまでの三日間、ぼくは檻の中で周囲の様子を眺めていた。
何も変わりはないはずだった。ぼくがここを脱走する前と、後で。
なのに、何かが欠落している気がした。何かが足りない。
絶対的にそこに存在していたはずの、何かが。
でも、それが何なのか、ぼくにはどうしてもわからなかった。
その正体を得られぬまま、ぼくはこの街を、この国を出た。
そこにあったはずの何かを、痛切に思いながら。
.
452
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:38:49 ID:AKaoAE960
その日シナーに選ばれたのは、ぼくだった。
いつ終わるとも知れない苦痛の夜が、間断なく襲い掛かってくる。
皮膚の外も、内も、肉の外も、内も、骨の外も、内も、
痛みの下では隔てなく、平等に、蹂躙される弱者であった。
拘束され動くこと叶わぬぼくは、そのままの格好で思う。
このまま気を失うことができれば――いや、このまま死んでしまえれば、
この苦しみから解放される。助かりたい。なくなりたい。死にたい。
何度も、何度もそう思いかけた。
けれどその度に、てのひらが熱くなった。
熱く、何か、忘れてはいけない感触がよみがえってきた。
何かを奪った感触。何かを奪ってまでも、生き延びた感触。罪の実感。
放棄するわけにはいかない。
生命を。
そう、思った。
.
453
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:39:35 ID:AKaoAE960
「お前はなぜ、生きている」
彼方で昇りかける朝日が、窓から差し込んできていた。
今日の拷問を乗り切れたことに安堵する。そこに、声を掛けられた。
はじめは、自分に向かって放たれた言葉だとは思わなかった。
シナーが奴隷に話しかける場面など、一度も見たことはなかったから。
けれどいまこの部屋には、ぼくとシナーしかいなかった。
「なぜだ」
いまやシナーがぼくへ話しかけていることは明らかだった。
シナーの声は案外とやわらかで、ただ、感情に乏しい印象を受けた。
彼は奴隷を拷問している時も、何か機械的に義務を遂行しているような態度で、
楽しいとか、愉快だとかの感情を表に表すことはなかった。
彼が笑っているところを、ぼくは見たことがなかった。
無表情、無感動な彼の顔。その顔に向かって、ぼくは質問の答えを返す。
ぼくの答えは、決まっていた。明確な、ただひとつの答え。
「ハーモニカを、吹くんです」
.
454
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:39:59 ID:AKaoAE960
ぼくの答えをどう受け取ったのか、
シナーはやはり感情を出さぬ表情のまま、部屋から出て行ってしまった。
部屋の中で一人放置される。
身体中が、拷問の傷で痛む。拘束もきつい。
不自由な格好のまま固定されているため、関節が外れそうになっている。
ぼくはシナーの目がないのをいいことに、拘束だけでも緩められないかと身をよじった。
「お前はこの先も、生き続けるんだろうな」
音もなく扉が開き、シナーが姿を現した。
自分の勝手な行動を見られたのではないかと恐怖心に駆られかけたが、
シナーは何も言わなかった。それにぼくも、それどころではなくなった。
シナーの手に握られていたものを見て。
シナーが、ぼくのハーモニカを握っていた。
ここへ来た時に没収された、ぼくのハーモニカを。
455
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:40:26 ID:AKaoAE960
シナーがハーモニカを握ったまま、接近してくる。
感情の読めない目で、ぼくを見下ろしている。しばらく、そのまま動かなかった。
ぼくも、シナーも。シナーの顔は朝日を浴びて、
少し、少しだけ、悲しむような影を作っているようにも見えた。
「うらやましいよ、お前が」
激痛が、脇腹に走った。拷問でつけられた傷口が開いていた。
開いたその傷口に、何かが突き刺さっていた。
傷口に、ハーモニカが突き刺さっていた。
痛みにのたうつ。
ハーモニカは深く差し込まれていたわけではないらしく、すぐに腹から落下した。
それでも痛みは収まらず、ぼくは泡を吹いて拘束された身体を暴れさせた。
身体が、倒れた。思った程きつく締められていなかったのか、
それともこれまで被害を受けてきた奴隷たちの念がそうせたのか、
拘束はあっさりと解けた。拘束が解けてからもすぐには動くことができず、
床に倒れてからも息荒くその場でうずくまっていた。
気づけば、シナーがいなくなっていた。
456
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:40:47 ID:AKaoAE960
そして、銃声が、轟いた。それも一発や二発ではない。
組織的に重ねられた、一斉射撃。なんだ。訝しむ間もなく、さらに銃声。
傷を押さえて這いずり、窓に近づく。朝日とは違う、
もっと赤々と暴力的な明るさが窓ガラスに反射している。
いったい、なんなんだ。身を乗り出し、窓から外を見た。
農場中に、火が放たれていた。
無理やり従わされたとはいえ長年付き合い育ててきた農場の葉々が
ことごとく焼かれていた。焼けた葉から立ち込める臭いと煙で、頭がくらくらとする。
思わずむせて、咳き込んだ。
しかし、悠長に咳き込んでいる余裕などなかった。
風に煽られた炎が意志持つ者のように形を為し、
まだ距離の離れたぼくのほほまで焦がさんとうねり狂っている。
火の燃え広がり方は早く、シナーの屋敷――つまりいまぼくがいる
この場所にまでその手が届くのも、時間の問題だった。
457
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:41:14 ID:AKaoAE960
ハーモニカを持って、駆け出した。むろん、身体は痛む。
まともに走れるような状態ではないから、片足で飛び、転がるような無様な移動になる。
移動する度に身体を壁や柱にぶつけて、その度に激痛でのたうちそうになる。
けれどぼくは歯を食いしばり、とにかく一刻も早く屋敷から抜け出ることに専心した。
生きなければ。その思い、ひとつで。
火あぶりにされる直前に何とか屋敷から転がりでたぼくは、
呆然とした様子でこの状況を眺めている奴隷たちの下へ向かった。
奴隷の一人に肩を借り、ぼくも彼らとともに燃える農場を眺めた。
シナーの農場の、その終焉を、眺めていた。
458
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:41:42 ID:AKaoAE960
「諸君!」
火の勢いが弱まり、残火が炭の内でくすぶり初めていた頃、
その人物はようやく現れた。栗毛の馬にまたがり馬上から
語りかけてきたその人物は、自分を騎兵隊の隊長であると名乗った。
そして奴隷解放令の発令により、諸君らを解放しにやって来たと。
「諸君! 諸君らはすでに自由である!
我らがヴィップの誇る自由と博愛の精神を胸に、
どこへなりとも好きなところへ行くがよかろう!」
それだけ言うと騎兵隊の隊長とやらは馬を走らせ、
瞬く間にその姿を消してしまった。そんなわけで、
ぼくらは自分たちの身に何が起こったのかもよくわからないまま、
とうとつに自由を与えられた。
ぼくがこの国へ送られてから十年の歳月が過ぎた、ある日のことだった。
.
459
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:42:36 ID:AKaoAE960
2
ヴィップの治安は悪化の一途を辿っていた。
解放され、行き場を失った元奴隷たちが徒党を組んで略奪を繰り返しているからだ。
彼らは確かに自由になった。しかし自由で日々の糧を得られる者は、
わずかな数に限られていた。席は、いつでも有限だったから。
彼らの多くは、自由を忌み嫌った。
自ら考えることを放棄し、鉄の鎖とともに与えられるパンを望んだ。
自分たちから奴隷になる権利を奪うなと叫んだ。
が、その願いが聞き届けられることはなかった。
故に、彼らは奪った。
奪うことでしか、生きる術を見いだせなかったから。
ぼくは彼らの仲間にはならなかった。
何とか口にのりをするだけの特技を持っていたから。
ぼくは、ハーモニカを吹いた。
460
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:42:57 ID:AKaoAE960
元奴隷たちの蛮行も相まって、
この国の国民が移民に抱く感情はけして良好なものではなかった。
けれど、それでも、ぼくの演奏に耳を傾けてくれる人はいた。
少なくない人がぼくのハーモニカに聞き入り、賞賛の言葉とともに、
その人にとっても貴重であろう賃金の一部を分けてくれた。
その事実がなんだかとても、胸を締め付けた。
ぼくは毎日ハーモニカを吹いた。吹かない日はなかった。
ハーモニカはぼくにとっての歓びであり、
その演奏を楽しんでくれる人と出会うことは、ぼくにとっての至福だった。
これこそがぼくの長年求めていた生き方そのものだった。
……そのはず、だった。
461
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:43:17 ID:AKaoAE960
何かが、欠けていた。
何か、とても大事な、何か。
けして忘れてはいけないはずだった、何かが。
ぼくは確かに、幸せだ。
この生活に不満はない。
でも、本当にこれで良かったのだろうか。
ぼくは、なぜ、生きている。
ぼくは、なぜ、生きられた。
ぼくは、何に、助けられてきた。
ぼくは、何を、踏み潰してきた。
ぼくは、ぼくは――
幸せのためだけに、生きようとしたのだったろうか?
.
462
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:43:49 ID:AKaoAE960
その日から、図書館に通い始めた。
言語としてのヴィップ語は理解できたが、
文字としてのヴィップ語は知らなかった。
だからまず、読み書きから学んだ。
鍵は言葉だった。ぼくの中で欠けた何か。
その実像はいくら掘り返そうとしても手の中をするりと抜けてしまったけれど、
ただひとつ、強く、強くぼくの核を刺激する言葉を思い出せた。
『ソウサク』
この言葉が何を意味するのか、それはぼくにもわからない。
食物か、人名か、それともスポーツや格闘技に使われる名称なのか。
皆目検討がつかない。けれどこの言葉が、
ぼくの失われた欠片に結びつくピースであることだけは、何故か確信していた。
この言葉が、『ぼく』を『ぼく』へと導く唯一の手がかりだと、ぼくは信じた。
463
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:44:20 ID:AKaoAE960
ハーモニカを吹き、吹いていない時は図書館に通い、
図書館にいない時はハーモニカを吹くという生活を続けた。
そうしているうちに、ヴィップの環境にも変化が訪れていた。
治安は良くなっていた。
特設された移民取締法とその法を執行する官憲の手によって。
徒党を汲んで略奪を働いていた元奴隷たちも鳴りを潜め、
移民による被害件数は激減していた。
もしかしたら居場所をなくした彼らは国境を越え、
周辺諸国へと散らばっていったのかもしれない。
とはいえ、それは一面的な視点に過ぎない。
罪のない移民が捕まる冤罪も多発した。ぼく自身も何度か、
謂れのない罪で検挙されかけたことがある。
ぼくの演奏を熱心に聞いてくれていた人の口添えなどで
何とか無実を証明することはできたものの、疑われるぼくの方が悪いという
態度を取られていたことは明らかだった。
464
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:44:43 ID:AKaoAE960
ヴィップはぼくにとって、あまり居心地の良い国ではなくなっていた。
それでもぼくは、生活を変えなかった。ハーモニカを吹き、図書館に通った。
何日も、何ヶ月も、何年も、そうした。そして、ついに見つけた。
『ソウサク』という言葉の、その意味するものを。
ソウサクとは、ヴイップとは海を隔てた大陸に位置するシタラバ地方の、
その一部を国土とする小国の名称だった。情報によると数十年前までは王
政による統治が成されていたらしいけれど、団結した市民の蹶起によって王政は打倒され、
現在は議会制民主主義を採択しているそうだ。
何かを、思い出しそうだった。けれど、それが何かはやはりわからない。
ただひとつはっきしりしているのは、行けばわかるという揺るぎのない確信が、
ぼくの胸を占拠しているという事実だけだった。
支度に時間は掛からなかった。必要最低限の生活用品とこのハーモニカが、
ぼくの持ち物のすべてだったから。そしてぼくは翌日の朝、
長い間世話になってきたこのヴィップの国に別れを告げ、旅に出た。
ソウサクへの旅に。欠けたものを取り戻しに行く為の旅に。
.
465
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:45:09 ID:AKaoAE960
旅は過酷だったが、つらいばかりではなかった。
旅先では様々な人々と出会った。街とともに生きる人。
人を治める義務を負った人。人というしがらみを恐れ、もがき苦しむ人。
彼らは人の中に在った。人の中に在り、好悪とは関係なく相互に干渉しあっていた。
油断のならない人もいた。騙し、奪い、陥れることを生業とする人々。
しかしそういう人々ですらも――いや、あるいはそういう人々だからこそ、
他者を必要としていた。彼らは生に執着していた。
生きるための手段として、彼らは人に依存していた。
ぼくと同じように旅をする人とも出会った。商機を逃すまいと奔走する商人がいた。
当てのない放浪に身を宿す者もいた。自らを試し鍛えることを旨とする修行者もいた。
彼らもまた、一人ではなかった。旅の間は一人でも、どこかで人と関わった。
生きるためには、人が必要だった。
466
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:45:35 ID:AKaoAE960
ぼくも、そうだった。街から街へ、国から国へと渡り歩くぼくもまた、
多くの人に支えられ、守られ、生かされていた。
ハーモニカを吹くしかできないぼくを生かしてくれたのは、彼らだった。
彼らがいなければ、ぼくはとっくの昔に死んでいた。
だからぼくも、ぼくにできる限りの演奏を返した。
仲間もできた。過酷な旅路を共に切り抜ける仲間が。
彼はぼくよりも幾分か年若い女性的な顔つきをした若者で、
その華奢な見た目とは裏腹に息を呑むような力強い踊りの技を持っていた。
彼が舞うと空気や景色そのものが色めき立ち、まるで太古の、
神話の時代がその場に顕現したかのように世界が変化した。
彼は素晴らしい踊り手だった。その彼がぼくの演奏に合わせて踊る。
これもまたぼくにとって、かつて感じたことのない歓びとなった。
467
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:46:04 ID:AKaoAE960
「姉を探しているんです」
彼は自分の過去について、詳しく話すことを控えている様子だった。
ただ、彼の技が代々受け継がれてきたものであること。
家族で暮らせなくなる事情があったこと。兄から直接踊りを教わったこと。
その兄が、自分のために死んでしまったことは、話してくれた。
そしてまた、生きていればいまもまだ踊っているであろう姉がいることも。
彼にとっての踊りとは、家族へとつながる最後の絆でもあった。
けれど、と、彼はつづける。
例えこの旅の果てに姉がいなくとも、ぼくは踊り続けます、と。
「例え束の間の気休めに過ぎなくとも、ぼくの踊りで救われる人がいたなら……
それはそのまま、ぼくの生きた意味となりますから。遠き過去から
ぼくへと続くその血脈が、無駄ではなかったとの証明になりますから……」
兄もきっと、生きていたらそうしたはずだと思いますから。
最後にそう言いきった彼は、以後、自身の過去について口を開くことはなかった。
468
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:46:28 ID:AKaoAE960
世界には、多くの人が生きていた。
多くの営みがあり、多くの争いがあり、多くの寄り添いがあった。多くの生命があった。
そのすべてに過去が、歴史があった。幸福な歴史ばかりではない。
辛く、悲しい歴史の方が、むしろ多かった。歴史を抱えて生きていた。
ぼくは、どうだ。
彼とは別れた。行き先が違ったから。
欠けたものが見つかるようお互いの幸運を祈り、ぼくらは再びそれぞれの旅路へと着いた。
一人になってからもぼくの生き方は変わらなかった。
ただ、うら寂しい気持ちになることが増えた。人と人との結びつきを見ると、
胸苦しくなることが増えた。起こった変化は、その程度だった。
吹いて、歩いて、歩いて、吹いて。何年も、何年もそうして生きてきた。
そして、今日、この日。ヴィップを出立してから十二年余の歳月が過ぎ去ったこの時。
ぼくはついに、到着した。
ソウサクへ。記憶の欠片の、その国へ。
.
469
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:47:04 ID:AKaoAE960
3
この国の異常な構造には、入ってすぐに気がついた。
この国の人々は、奇妙によそよそしかった。目を合わせようとせず、口数も極端に少ない。
特にある一定以上の年代では、その傾向が顕著に表れていた。
初めはぼくが余所者だからだとも思ったが、実際は違った。
人々は、共に暮らし住まう人々にも同様の視線を向けていた。
人が人を、信用していなかった。ここで何があったのか。
それを知る手がかりも、この街の人々からは教えてもらえなかった。
ただ、ある程度の察しはついた。
かつて栄華を誇ったのであろう貴人の宮殿が、
塊となった怒りをぶつけられたそのままの姿に放置され、廃墟と化していたから。
そんな廃墟がこの街には、この国には、いくつも残されていた。
何かが機能せぬまま、時が止まっていた。
廃墟を巡り、ハーモニカを吹いた。そこで暮らしていた何者かへと送るように。
ただの自己満足だとは思いながらも、そうせずにはいられなかった。
過去の、“踏み潰された者”を思うと。
470
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:47:35 ID:AKaoAE960
「もし、よろしいか」
廃墟の前でハーモニカを吹いていたある日、一人の老人に声を掛けられた。
老人はぼくに忠告をしに来たらしかった。そんなことをしていると、
『王党派』としてあらぬ嫌疑をかけられますぞ、と。
ぼくは老人の心遣いに感謝の意を示しつつ、それでも止めるつもりはないと断言した。
老人がたずねる。何故か、と。
ぼくは答える。その理由を見つけるために、と。
老人はそれ以上、ぼくを止めようとはしてこなかった。
ただ一曲、一曲だけ、私の前で吹いてほしいと頼まれた。断る理由はなかった。
ぼくは老人の厚意に報いるためにも、心を込めた演奏を彼へ、この滅びた廃墟へと送った。
ハーモニカから、口を離す。腰掛け、
目をつむっていた老人が、そのままの格好で手をたたき、口を開いた。
名を、呼ばれた。
老人が背筋を伸ばして立ち上がり、恭しく腰を曲げた。
まるで貴族か何かに向かって礼を示すかのように。
初めて受けるそのような態度にぼくは戸惑うばかりであったが、
老人は気にする様子なくぼくの目を見つめ、
そして、ぼくの名を呼んだその口を再び開いた。
「“お嬢様”がお待ちです――」
.
471
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:48:15 ID:AKaoAE960
“お嬢様”は八年前に亡くなったと、老人
――シラヒーゲと名乗るその老人は、語った。
従者として見守り続けてきた彼女のその生と生の終わりまでを、彼は語り始めた。
彼女――“お嬢様”は、ソウサクを治める王とその第二王妃との間に、
正当な王家の血を受け継ぐ存在として生誕した。
すでに数人の兄弟姉妹がいたため政治的にそこまで
大きな意味を有しているわけではなかったが、
その誕生は真に天下万民に祝福されうるものだった。
本来ならば。
彼女は、生まれながらに不具であった。
脚は右も左も膝ほどまでしかなく、腕も奇妙に萎縮していた。
さらに母の胎から産み落とされた際、彼女は一声も泣かず、すなわち呼吸をしていなかった。
青白い肌がぬらりとした血液にまみれている姿を見たものは、
誰もがこれは死産であると判断した。
なお悪いことに、彼女の母は分娩の痛みによってか、
あるいは死んだ子を産んでしまったことによる心痛によってか、
精神を不安定にさせてしまった。そして彼女の母は壊れた心を癒やす間もなく、
窓から飛び降りて死んだ。彼女が生まれてから、一週間後のことだった。
472
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:48:45 ID:AKaoAE960
生まれたばかりの彼女に、罪などあろうはずもなかった。
しかし王は、彼女を許せなかった。何とか息を吹き返し
そのか弱い心臓を動かし始めた彼女を、王は人里離れた場所で放棄された
うらさびしい塔の最上階へと送り、ベッドを置いたらそれで
一杯になってしまうような広さの部屋に幽閉した。
そして名を与え、しかし、その名を名乗ること、
そして他の誰にも、その名を口にすることを禁じた。
彼女は生まれた瞬間に、その存在をこの世から抹消された。
.
473
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:49:31 ID:AKaoAE960
彼女は父王に幽閉されていたが、
しかし仮に自由の身であっても行動範囲に変化はなかっただろう。
彼女は身体が弱かった。わずかに動いただけで、心臓が悲鳴を上げた。
それだけでなく、ただじっとしているだけでも脂汗を流し、
痛みに耐えていなければならなかった。
欠損は、外側だけではなかった。身体の内側。
臓器のいくつかにも異常が有り、必要なものの多くが欠けていた。
ただ生きることが、彼女には大変な難行だった。
彼女にとっての生とは、そのまま苦痛を意味した。
十まで生きることはないだろう。それが医師の見解だった。
彼女は一日の大半を寝て過ごした。
身体にかかる疲労が、睡眠を要求した。
時には数ヶ月間も覚醒することなく、そのまま死を
迎えるのではないかと危ぶまれる時もあった。それも、一度や二度ではなかった。
だが、眠っていようとも彼女の苦痛が収まることはなかった。
彼女の寝顔は、とても安らかと言えるようなものではなかった。
夢の中でも彼女は苦しんでいた。寝ていようと、起きていようと、
彼女が苦しみから逃れる術はなかった。
ただ待つことしか、彼女にはできなかった。
死を、待つことしか。
474
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:50:04 ID:AKaoAE960
そして、その日が訪れた。いつになく深い昏睡。
苦痛すら感じさせぬ死相を浮かばせて、彼女は深く意識を失った。
遠くない内に彼女は死ぬと、だれもが思った。
シラヒーゲは思った。死を控えたいまくらい、
彼女も父の愛を受けえるべきではないのかと。
その死を見届けてもらう程度の権利は、彼女にもあるのではないかと、そう、思った。
従者の本分を越えた願いであることは間違いなかった。
それでもシラヒーゲは、湧き上がるこの哀れな少女に対する
同情の念を禁じ得ることができなかった。
結論から言えば、シラヒーゲの望みが叶うことはなかった。
王が提言を聞き入れなかったから――ではない。
時代が、その小さな望みを蹂躙したのだ。
王は、すでに死んでいた。ソウサクで起こった市民革命によって。
475
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:50:33 ID:AKaoAE960
ソウサクで起こった市民革命は、他国に比しても過激なものだった。
結託した市民は、王政に与する者に対していかなる暴力も厭わなかった。
王は断頭台にて処刑された。王の血を継ぐ者も、残らず殺された。
ただ、彼女を除いて。幸か不幸かいかなる書からもその存在を抹消されていた彼女は、
生贄を求める革命派の目に留まることなく、その生を永らえることができた。
父王が亡くなったその時も、彼女は眠り続けていた。
彼女は死ななかった。眠りながらも、生きていた。
シラヒーゲは彼女の身柄を預かり、『シラナイワ』という仮の名を与え、
孫という扱いの下で眠る彼女の世話をすることに決めた。
彼女の死、あるいは目覚めのその時まで。
時代は移り変わっていった。
王政打倒の功労者たるメンバーによって組織された臨時政権は、
政治を知らない素人の集団に過ぎなかった。やること成すことが裏目に出た。
周辺諸国との連携も途絶え、国家の血となる金や物資が
心臓部で留まったままになったソウサクでは、国という体制の機能が完全にマヒしていた。
飢えと貧困に苦しむ市民は政府に不満を抱き、
その中には王政時代を懐かしむ者まで現れ始めた。
臨時政権の瓦解は、もはや秒読み段階であった。
しかし、彼らも後には引けなかった。
引けば、今度は自分たちが処刑されるかもしれないからだ。
かつて、王を殺した時のように。
476
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:51:00 ID:AKaoAE960
彼らは打開策を探った。答えは簡単に見つかった。
生き残った貴族を中心として結成され、
現政権に不満を持つ者の支持を急速に集めつつある野党の存在。
彼らは、すべての罪をこの野党に被せた。
野党を王政復古を狙う王党派だと糾弾し、
ソウサクを市民の手から再び奪い去るためにあらゆる手段を使って
現政権の妨害をしているのだと訴えたのだ。
そして市民の中にも、王党派のスパイは紛れ込んでいると。
敵は王党派だ。これが彼らのスローガンとなった。
初めに一人、処刑された。
国会に召喚されたその男は自分が王党派のスパイであると告白し、
自分がどのような工作を働いたか、
市井にどれだけのスパイが紛れ込んでいるかを事細かに語った。
野党は当然その証言を否定した。与党の雇った役者である。
それが野党の言い分だった。だが、その真偽が明かされることはその後もなかった。
スパイと名乗ったその男が、本当に処刑されてしまったから。
男は首と胴が寸断されるその直前、大勢の聴衆の前で最後にこう叫んだ。
約束が違う、と。
477
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:51:22 ID:AKaoAE960
現政権は、密告を奨励した。
どころか告発をしない者には、スパイの嫌疑を掛けた。
スパイと断定された者は、容赦なく処刑された。人々は自分、
あるいは家族を守るために、無実の他者を告発した。
自分たちが生き残るための、生贄のひつじとして。
現政権は、長くは持たなかった。しかしその爪痕は深く、暗く、この国に禍根を残した。
人々の間には疑念と、そして負いきることのできぬ罪の重みが残された。
その痛みはいまもまだ、この国に重い影を落としている。
これらの惨劇を見ずに済んだ彼女は、あるいは幸運だったのかもしれない。
ある日、彼女はとつぜん目を覚ました。彼女が眠りに落ちてからすでに、
三○年近くの月日が過ぎ去った日のことだった。
呼吸もままならず、衰えた筋肉を動かせないため
痛みにあえぐこともできない様子の彼女が、それでも何かを訴えていた。
シラヒーゲはかすかに動く彼女の口元に、耳を近づける。彼女はいっていた。
ほとんど息しか漏れていない声で、それでも力強く、繰り返していた。
ペンと、紙を、と。
478
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:51:48 ID:AKaoAE960
「これが、お嬢様の残したものです」
案内されたその蔵書子には、同じ装丁の書物が幾冊も並んでいた。
数十、いや数百はあるだろうか。しっかりとした革の表紙に製本された書物には、
どれも『シラナイワ』という著者名が記されている。
「何も言わず、ここに置かれた本をすべて読んで頂きたいのです」
静かに扉を閉めたシラヒーゲが、頭を下げた。
「お嬢様からあなた様への、最後の願い故に」
ぼくがうなづき返すその時まで、シラヒーゲは頭を上げなかった。
.
479
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:52:14 ID:AKaoAE960
それは、物語だった。
数多くの物語。
人生の縮図たる物語。
――こどもたちの、物語。
こどもたちは、誰もが現実という名の過酷な運命に晒されていた。
ある者は人質とされた弟を逃がすため望まぬ虐殺に加担させられ、
ある者は父の暴行を避けるため自分を捨てた憎むべき女の真似をし、
ある者は自分を物として扱う養母の愛を求め進んで見世物となった。
誰もが地獄に生きていた。誰もが現実を生きていた。
誰もが生きるために戦っていた。そして、誰もが罪を負っていた。
彼らは大人になれなかった。
その小さな背にかかる重みは、彼らが一人で耐えきれるものではなかった。
生は苦しみだった。もはや忍ぶことはできなかった。彼らは生を諦め、そして、
最果ての楽園――海の消失点へと辿り着き、ついにその自己から解放された。
480
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:52:54 ID:AKaoAE960
これは、悲しみの物語だった。
これは、苦しみの物語だった。
これは、現実の物語だった。
この世界で当たり前に繰り返される、
あえて語られることのない物語――。
でも。
彼らの諦めたその生は、無意味なものだったのだろうか
失われた彼らの歴史は、無価値なものだったのだろうか。
そうは、思えなかった。
彼らは、生きていた。
この世界に、生きていた。
ただ、その事実が。ただ、その事実を。
失くしてしまいたくないと、ぼくは思った。
忘れたくないと、そう、思った。
481
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:53:33 ID:AKaoAE960
千冊にも及ぶ彼女の著作を読み終わった時、
ぼくはさらに二つほど年を取っていた。けれどぼくの中には、
二年という歳月では計り知れないほど膨大で、遠大なものが蓄積されていた。
ぼくの中に、多くの人生が宿っていた。ぼくの背後に、多くの生命が感じられた。
ぼくはもはや、ぼくだけで生きてはいなかった。
「お嬢様の書は、多く批判を持って迎えられました」
彼女の書籍は発行され、ソウサクのみならず言語の通じる
周辺諸国にも流通されていったらしい。しかしシラヒーゲが言うとおり、
市場の反応は芳しくなかったようだ。その理由は、ぼくにもわかった。
彼女の物語は、現実を扱っていた。現実の場所、現実の国、そして現実に生きる人々を。
非道な行いを名も伏せられぬまま書かれた者が存在した。
すでに亡くなった家族の名誉を傷つけられたと憤慨する者もいた。
そして彼らがなにより怒り狂ったのは、これが創作であったから。
記憶にも記録にもない、ただの想像の産物によって陥れられるのは不当だと、彼らは訴えた。
482
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:53:54 ID:AKaoAE960
存在しないこどもたちの物語。しかし物語は虚構を越え、現実に侵食した。
彼らの存在を、現に信ずる者たちが現れた。自身の境涯を義憤にかき混ぜ、
非道を行う者が現れた。痛ましい事件が、何度か起こされた。
彼女への非難は日に日に強まっていった。
いつしか彼女は、一部の者にこう呼ばれるようになっていた。
人心を惑わし、いたずらに社会を混乱させる『魔女』、と。
シラヒーゲにも、彼女の行いが果たして正しいものであるのか否か、判別できなかった。
彼女を訴える者たちの言葉には正当性があった。
彼女の言葉は、現実に根ざした正当性を含んでいるようには見えなかった。
せめて名を伏せてみてはどうか。シラヒーゲは、そう提言した。
物語の大枠は変えず、舞台や人物を架空のものにしてみるのもよいのではないかと話した。
しかし、彼女は首を縦には振らなかった。もはや一語を発することすら
困難なほどに衰弱していた彼女は、筆談で、シラヒーゲにこう告げた。
それでは意味がない、と。
483
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:54:19 ID:AKaoAE960
その文を見せる彼女の手は、震えていた。
その震えを見た時、シラヒーゲは彼女を信じることに決めた。
彼女は、気にしていないわけではなかった。
自分が起こした影響が災禍を呼んでいることを理解した上で、
それでも書くことを望んでいた。最後まで書ききることを。
誰かの何かを、奪おうとも。
そして彼女は、書ききった。
本当に最後の、生命が尽きるその瞬間までをも使い果たして。
「これが、その最後の書になります」
そう言ってシラヒーゲが手渡してきた書は、
他の書籍のように立派な装丁のなされた本ではなかった。
それは、本ですらなかった。それは一冊のノートだった。
変哲のない、どこででも見かけることのできるノート。
どこかで見た覚えのある、ノート。
484
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:54:52 ID:AKaoAE960
ノートを開く。中は、白紙だった。
次のページを開く。そこも白紙だった。
さらにめくる。次を、次の次を。
一枚一枚、時間を掛け、そこにあるはずのものを見る。
ページをめくる音だけが響く。
紙の中に、彼女の痕跡を探す。
そして、ついに、最後のページに到達した。
――文字が、書かれていた。
.
485
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:55:21 ID:AKaoAE960
ツン=デレは、生きた
.
486
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:55:51 ID:AKaoAE960
アイスブルーの、その瞳。
文字が、にじんだ。文字の上に、水滴が落ちた。
ページの余白が、次々と円状の染みを作り始めていた。ぼくは、泣いていた。
涙が止まらなかった。そこに書かれたたった一○文字が、すなわち彼女そのものだった。
ツン=デレこそが、ぼくへと到る鍵だった。
「お嬢様はとある少年と約束を交わされておりました」
シラヒーゲの目が、ぼくの胸を、ぼくのハーモニカを見つめた。
「その少年も、あなたと同じようにハーモニカを嗜んでおられました」
シラヒーゲの目が、ぼくの顔を、ぼくの瞳を見つめた。
「亡命の折に名を変えられたそうですが、当時の彼は、
お嬢様からこう呼ばれておりました。彼は、彼の名は……」
シラヒーゲが、その名を口にした。
ぼくのルーツ足る、その名を。
その人の名を。
487
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:56:34 ID:AKaoAE960
彼。
そして。
ぼく。
彼の名は。
そして。
ぼくの名は。
ぼくらは。
ぼくらは――
.
488
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:57:15 ID:AKaoAE960
4
ぼくらはひつじを飼っている。
罪のひつじを。
贄のひつじを。
屍のひつじを。
一頭、十頭、百頭、千頭――
どれだけいるかは定かじゃない。
けれどいつも、感じてる。
彼らの鼓動に悔悟する。
ぼくは、歩く。
命に焼かれた背中を負って、
一歩一歩と、歩いてく。
歩いて歩いて、歩いて歩く。
海知る丘の、その先へ。
彼女が焦がれた、その場所へ。
数多の変遷、思いつつ。
遥けき軌跡を、描きつつ――
489
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:57:55 ID:AKaoAE960
過去を。罪を。生命を。
圧し掛かる重みを捨て去ることができれば、どんなに楽だろう。
吐く息ひとつが重い。まぶたを開くことすら重い。
知らなけれ、感じなければ、捨て去ってさえしまえれば。
こんな想いを抱かずに済むのだろう。
すべてを忘れてしまえば。
それでもぼくは、忘れられない。
忘れたくない。
.
490
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:58:18 ID:AKaoAE960
父を、母を、しぃを。
モララーを、ショボンを。
アニジャを、オトジャを。
ワタナベを、ミセリを、ヒッキーを。
小旦那様――ドクオを。
彼女――ツン=デレを。
自分を。
ぼくは、忘れない。
ぼくは、ぼくは――
.
491
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:58:40 ID:AKaoAE960
( ^ω^)「海のひつじを、忘れない」
.
492
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:59:27 ID:AKaoAE960
彼女の墓は、丘の上に建てられていた。
かつて彼女が閉じ込められていた塔の跡地。
海を見渡せる、その丘に。
その丘で、ぼくは、ハーモニカを吹く。
この世界に生まれ、そして去っていった、
すべてのひつじ<あなた>のために。
この世界に生まれ、そしていずれ去っていく、
すべてのひつじ飼い<あなた>のために。
ぼくは、吹き続けた。
この音色が、<あなた>まで届くように――
.
493
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 18:59:54 ID:AKaoAE960
.
494
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 19:00:20 ID:AKaoAE960
ねえ、約束してくれる?
.
495
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 19:01:19 ID:AKaoAE960
いつかもし、私が大人になれたなら。
ねえ、もう一度。もう一度だけ。
あなた<ブーン>のハーモニカを
私<ツン=デレ>に聴かせてください――
.
496
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 19:01:59 ID:AKaoAE960
海のひつじを忘れないようです ―― 完 ――
.
497
:
◆JrLrwtG8mk
:2017/08/22(火) 19:03:10 ID:AKaoAE960
以上で完結です。ここまでお読み下さり、真にありがとうございました
498
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 20:38:43 ID:Iy27fOgQ0
おつ
息が止まる位、のめり込んで読んだわ
499
:
名無しさん
:2017/08/23(水) 00:07:13 ID:dSWWk4jQ0
AAが無かったのは色々伏線があったんだな…… 独特の世界観が良かった 乙です
500
:
名無しさん
:2017/08/23(水) 19:08:36 ID:atWpKGuE0
乙
>>325
あたりと
>>355
照らし合わせたらわからなくなってきたんだが、ギコ=ブーンって訳ではないのか?
501
:
◆TflJu3mvXc
:2017/08/27(日) 00:44:42 ID:Y3bx3Les0
【業務連絡】
主催より業務連絡です。
只今をもって、こちらの作品の投下を締め切ります。
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【
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】
【
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/21864/1500044449/295
】
502
:
名無しさん
:2017/08/30(水) 19:21:30 ID:pITprL5g0
やっと読み終えた……でも読み切って良かった
ツンの生き様が本当に好き。乙
503
:
名無しさん
:2017/09/01(金) 20:53:08 ID:8ECJZC860
乙です
ぜんぶ読み終えた後、涙があふれて止まらなかった
キャラの現実の時代背景が少しずつつながっているんだね、考察したらとんでもない事になりそう
504
:
名無しさん
:2017/09/05(火) 05:33:49 ID:rcRb8/mw0
車椅子=ツン、ギコ=ブーンだと思いつつうそーんと思ったりする
が引き込まれる話だった
505
:
名無しさん
:2017/09/05(火) 05:35:19 ID:rcRb8/mw0
なぜならギコの父と車椅子に関わりがあったっぽいけど塔に幽閉されてるなら関わりがあるとは思えない的なあれだが
506
:
名無しさん
:2017/09/18(月) 01:39:26 ID:acSFundo0
今読み終わった
涙が止まらん
507
:
名無しさん
:2017/10/05(木) 00:15:03 ID:WMkCbb1I0
理解できないところも多かったけど面白かった
登場人物の相関図作りたくなるなこれ
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