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日本茶掲示板同窓会

1匿名:2014/07/28(月) 04:40:24
告知失礼します
スレ立てしました
2chなので匿名で良いと思うので(もちろんHN付きでも可)来て下さい


日本茶掲示板同窓会
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/kova/1405456563/

2新八:2014/07/28(月) 20:33:26
覗いてみたが、とても参加できるような雰囲気じゃないね。
どういう意図があるか知らないが、あれじゃ誰も来ないよ。

3キラーカーン:2014/08/02(土) 23:33:39
確かに日本茶同窓会というよりも小林よしのり論といった趣

4Emmanuel Chanel !ninja ◆YgrwY/6wqs:2014/08/10(日) 22:54:24
小林よしのり論をディープにやられても、ここにいる旧日本茶系の興味から離れています
しねえ…私も入り込みにくいです。まあ、期待されていないかも知れませんし、言及されて
いないので、そのままの方がいい感じでもありますけど。

5キラーカーン:2014/08/29(金) 23:09:51
結局、小林よしのり論がひと段落すると誰も書き込まなくなった

6キラーカーン:2017/02/12(日) 00:06:13
「歴史認識論争」に端を発する2002年以前のネット上のウヨサヨ論争については、書籍はおろか、ネット上においても言及されることが少ないため、当時の記憶が残っているうちに、「回顧録」的にまとめている原稿の草稿を「チラシの裏」ではありませんが、掲示板のコメントとしてネット上に残しておきます(これで、理論上は「全世界に公開」となります)
まだ、草稿の全体像は書き上げてはいませんが、せめて、2002年までの回顧録は何とかアップできると思います


1. はじめに
 昨今、「ネトウヨ」という語が人口に膾炙している。「ネトウヨ」とは「ネット右翼」の略称或いは別称(蔑称)というのが一般的な解釈であるが、その「ネトウヨ」の指す内容について必ずしも統一性が無いように思われる。極端な例を挙げれば、神原元弁護士が「極左ネトウヨ」 という「右翼」と「左翼」が同居している統語法上「あり得ない」(文法上は間違いではないが、文として意味をなさない用法。ネットスラングでいえば「一行で矛盾している」)用法を駆使した例がある。
 本稿では、このような背景をもつ「ネトウヨ」という語が生じた背景を探り、
①  「ネット右翼」という言葉がかつて存在していたが、現在使われている「ネトウヨ」はその「ネット右翼」の単純な略称ではなく、かつて使われていた「嫌韓厨」の後継用語としての色彩が強いこと。
②  上記①の理由として、「ネット右翼」と「嫌韓厨」は同一ではないが、その存在は近接或いは一部重複しており相互に影響を及ぼす関係にあった事が挙げられる。そのため、両者の総称として、「ネット右翼」やそれに類する言葉が使われた時期もあった。
③  発生論的には「ネット右翼」と「嫌韓厨」は所謂「歴史認識(論争)」を媒介とする近縁種であるとは言えるが、同一ではない。
④  「ネット右翼」と「嫌韓厨」両者の関係が決定的に変化する契機となったのが、日韓サッカーW杯及び小泉首相の北朝鮮訪問と一部拉致被害者の帰国という事象が生起した)2002年であった。
 これらの事象を契機として、リアル、ネットを問わず、反朝鮮半島的言説に対する「タブー」が崩壊し「ネット右翼」と「嫌韓厨」との力関係が決定的に変化し、「ネット右翼」が「嫌韓厨」に事実上吸収された。そのため、「ネット右翼」と「嫌韓厨」の総称が「ネトウヨ」という語で語られるようになった。
⑤ 「ネット右翼」が「嫌韓厨」に吸収された主な理由として、
A)2002年以後、韓国を中心とする周辺諸国の「反日姿勢」が我が国でも報じられるようになり、それらの国々の「反日」に対抗する理論的根拠として、従来からの「ネット右翼」が用いてきた言説が流用された。この結果、「ネット右翼」より「嫌韓厨」の方が目立つようになったため
B)歴史認識論争の主戦場であった「慰安婦問題」の事実問題について「強制連行否定派」の勝利で事実上決着がついたこと、及び、もう一つの主戦場であった「南京大虐殺」問題でも、事実上「大虐殺説」が崩壊したという一応の目的を達成したことから、歴史認識論争を主とする「ネット右翼」が可視化されにくくなった。
 しかし、南北朝鮮の「反日」的傾向は依然として継続しており、その「反日」の根拠として「歴史」を理由としているため、「歴史認識論争」が南北朝鮮発の「反日」への防御・反撃という性格へ変化したこと
⑥ 「ネット右翼」ではなく「ネトウヨ」と表記され、人口に膾炙したのは、語呂が良いこと(日本語でよくみられる四音節の短縮形)及び「サヨク」に対する意趣返しという意味がある。
ということを明らかにする。
 そして、この両者が可視化されるきっかけとして、①「インターネットの普及」、②「戦後の終わり」(あるいは「短い二十世紀の終わり」)、というものがあったということも併せて明らかにする。
なお、本稿は「通史」的な小論であるが、筆者は、西暦2000年前後にNC4の掲示板に出入りしていたことがあるので、知見に偏りがある事はご容赦願いたい。また、当時の掲示板・ホームページ等で現在では閉鎖されて閲覧可能であるものは少なく、また、閲覧可能であったとしても、当時の書き込み等は消去されている場合もあるため、現時点で確認をとることが困難であり、記憶に頼るところが極めて大きい 。このため、本稿は「回顧録」的なものとして読んで頂ければ幸いである。

7キラーカーン:2017/02/12(日) 00:08:09

2. ネトウヨ前史(「論壇右翼」の時代:昭和時代=冷戦終結前)
 「1 はじめに」で述べたように、「ネトウヨ」という語が「ネット右翼」を基にして作られたということについては異論が見られない。つまり、本来、ネトウヨとは「(インター)ネット上で右翼的な言説を開陳する人々」という意味であった。そのことは、その右翼的な言説はインターネットが普及する前から存在していることを意味する。
 では、その「右翼的」な言説とは何かということになる。これについては、ある程度明確な基準線がある。それは、林房雄氏の「大東亜戦争肯定論」に代表される「東京裁判史観」の否定であり、次のような言説をとる傾向がある。
① 「太平洋戦争」とはいわず「大東亜戦争」という語を使用する
② 日本は欧米とは「対等」の戦争を行った(我が国だけが「侵略国」と言われる筋合いはない)
③ 第二次大戦は欧米支配から植民地解放戦争である(アジア主義)
④ 反米自主防衛論者
このような、先の「侵略か自衛か」をはじめとする我が国が戦った先の大戦の性質については、戦後、総合雑誌等の論壇において議論されてきている戦後論壇における「定番」の論題でもある。ただし、戦後復興・高度成長、及び日米安保体制の中、この議論が一般社会・生活に影響を及ぼすことは殆ど無く、わずかに教科書検定を巡る問題として間欠的に噴出する程度であった 。
 この時代は、当然ながらインターネットというものは存在しておらず、このような立場に立つ論者は、単に「保守派」、「右派」、「右翼」と呼ばれ、「ネット右翼」とは言われていない。しかし、この時代の議論を基礎として「ネット右翼」あるいは「ネトウヨ」と呼ばれる層の議論が形作られることとなるので、その意味において、その立場に立ってネット上で議論或いは自説を開陳する者が「右翼」或いは「右」という色彩を帯びるのは仕方の無いことであった。

8キラーカーン:2017/02/12(日) 00:12:11
3. 「ネット右翼」(ネトウヨではない)の時代(1990〜2002年)
3.1. 概論
インターネットは普及する前(当時は「パソコン通信」といっていた)から、我が国にはnifty-serveのフォーラムに代表される、ネット環境で行う議論空間というものが存在していた。しかし、筆者はこの時代にはネット上で政治的な議論をしたことが無いため、この時代の「ネット右翼」のことについては全く以て知見がない。但し、出入りしていたnifty-serveのフォーラムの参加者から、それらしいイベントの誘いを一度だけ受けたことがあるだけである(しかし、そのフォーラムは、そのような歴史認識論争とは無関係な議論を行うフォーラムであった)。現在でも、ネットでの書き込みを見ると、偶に、この時代の「思い出話」に出会わせることもある。
その後、WINDOWS95をはじめとするパソコンのOSが正式にインターネット接続をサポートし始めた1990年代半ばからインターネットが一般に普及した 。これを契機に、インターネットの「掲示板」で議論を行われ始めた。
当然のことながら、「ネット右翼」という語が使われ出すのはインターネットが普及し始めた1990年代半ば以後のことである。パソコン通信時代の「フォーラム」あるいは「会議室(BBS)」は限られた参加者(会員)で行う議論であったが、インターネット上では「誰でも」参加が可能な「開かれた」議論の場である。このことから、これまで「論壇」という限られた空間・参加者で行われてきた議論が一般大衆も行う基盤が整った。
当初、左派の側も、冷戦終結とソ連崩壊による左派の低迷からの盛り返しの起爆剤としてインターネットは市民勢力の結集に活用できるとして、インターネットの普及を自派の勢力拡大の好機であると肯定的に捉えていた。しかし、冷戦終結・ソ連崩壊から四半世紀が経過した結果、少なくとも我が国おいて、インターネットは、左派の勢力伸長ではなく、それまでの左派・マスコミの「欺瞞」を白日の下に晒し、左派(リベラル)離れを加速させたというのが中立的な評価であろう 。
更に言うなら、戦後の55年体制においても、国政選挙における実質的勝敗ラインは「与党が三分の二の議席を占めるか否か」であった。つまり、55年体制下であっても保守の側が圧倒的優勢であり、それがインターネットで可視化されたに過ぎないといえるのかもしれない。つまり、「ネット右翼」或いは「ネトウヨ」というのは、ネットが生み出した者ではなく、ネットが可視化させたものであるともいえる。

9キラーカーン:2017/02/12(日) 00:14:47
3.2. なぜ、1990年代以降「歴史認識論争」は燎原の火のようにに盛り上がったのか
 「歴史認識論争」が生起しても、それだけでは、市井の人々が左右入り乱れて議論を行うことを意味しない。現に、「論壇右翼」の時代において行われた、『大東亜戦争肯定論』を巡る議論に代表されるような歴史認識論争は知識人のものであり、市井の人々のものではなかった。
 では、なぜ、この時代に「ネット右翼」(当時は「J右翼」という言い方もあった)が可視化されたのか。その理由はインターネットの普及によって「何時でも、何処でも、誰とでも」議論を行うことができる基盤が整備されたことだけが理由ではない。そのような議論が沸き起こるだけの時代背景もあり、また、歴史認識論争自体に市井の人々を巻き込む種が仕込まれていたのである。
3.2.1. 「歴史認識論争」は現在の市井の日本人を「(悪の)当事者」として巻き込んだ。
「歴史認識論争」は歴史を対象にした論争であるが、歴史というものは、その社会集団(に生きる人々)のアイデンティティーの基盤を構成するものである。特に先の大戦を巡る、「歴史認識論争」では歴史だけではなく、その時代に生きた個人(それは、現代に生きる我々の祖父母や曽祖父母である)も日本の犯罪への加担者として糾弾していった。その個人は、現在に生きる市井の日本人にとっては、その「悪逆非道な日本人」は「子供のころに優しくしてもらったお祖父ちゃん」のような形で、「実体として」記憶されている。自分の知っているお祖父ちゃんはそんな『悪逆非道』ではないし 、さらに、「『悪逆非道』なお祖父ちゃん」が存在しなければ自分自身も生まれてこなかったことも厳然たる生物学的事実である。これらのことが重なり、歴史認識論争を「当事者」として引き受ける人々が多くなった 。
そのことは、歴史認識論争において、慰安婦問題などで日本の責任を追及する立場の歴史認識を「自虐史観」と評したことにも表れている。そのような「当事者性」を認識した(本来なら、そのような「論争」とは無縁の市井の人々として暮らしていたであろう)多くの「サイレント・マジョリティ」であった市井の日本人が所謂「ネット右翼」として、インターネット普及の波に乗って歴史認識論争に参入してきたというのが実態であろう。
その逆に、日本の責任を追及する立場の日本人は自らの歴史に対する「当事者性」を引き受けられず、「私(達)は罪を認め・懺悔して悪の日本人から『解脱』した」と認識し、あたかも非日本人という「神」の視点から、日本人の「ネット右翼」を裁くような言動を歴史認識論争において行っていた 。

10キラーカーン:2017/02/12(日) 00:17:12
3.2.2. 時代背景
3.2.2.1. 冷戦の終結
 1989年にベルリンの壁が崩壊し、翌90年にソ連が崩壊した。このことにより、社会主義或いは共産主義の魅力が無くなり、従来の左派はイデオロギー的再編を迫られた。この事態に直面した我が国の左翼或いは進歩派(所謂「左派」)といわれる勢力が選択したのが、明治憲法下の「軍国日本」という「過去の歴史」であった。これは、所謂「東京裁判史観」と大筋で合致するため、他国とも連携をとりやすいという利点があった。しかし、その反作用として「ネット右翼」と「嫌韓厨」とを結びつける媒介項となった。
3.2.2.2. 昭和天皇の崩御
 昭和天皇の崩御もほぼ同時期であった(1889年1月)。「聖断」に代表されるように、昭和時代は、昭和天皇自身が先の大戦における最大の当事者(の一人)であるため、昭和史について語ることについて、幾ばくか憚られるものがあった。昭和天皇の崩御はその憚りを消滅させ、「昭和史」(特に戦前昭和史)に関する議論が「完全解禁」となった。

3.2.2.3. 戦前・戦中世代の引退
 昭和60年代になると、先の大戦の「真の」体験者が日本社会から退場する事となる。ここで言う「真の体験者」とは、何らかの形で戦時体制に組み込まれた者としての「戦争を知っている」世代、言い換えれば、先の大戦終結前に成人を迎えた者、即ち、昭和20年までに成人した者を指す。これらの者は事実上、明治・大正生まれであり、昭和60年までには60歳の定年を迎えた。
「真の体験者」を少し広くとって、終戦までに義務教育を修了した者(つまり、「社会人」になることが可能な年代)と捉えても、昭和20年までに義務教育(小学校・国民学校)を修了する昭和7〜8年生まれ辺りが下限となる。彼らも平成の初めには60歳の定年を迎える。つまり、20世紀末には「戦争を知っている」世代が引退し、戦争体験が「風化」することを意味した。このことは、職場等の「知り合い」に戦争体験者がいなくなった事を意味する
この結果、「戦争体験」を聞くには、「田舎の祖父母」の下へわざわざ出向かなければいけないことを意味するようになった。したがって、「家庭や職場・学校で戦争体験を聞く」ということが不可能になった。このことによって若い世代が「自然」に戦争体験が耳に入ってくることに比べて難易度が格段に上昇し、自分自身から能動的に聞きに行かなければならないこととなった。

3.3. 時代の「必然」としての歴史認識論争
 先に述べたように、1990年前後に「戦後の終わり」を否応なく実感させる事象が我が国で連続して生じた。この時代背景に合致した「左派」の戦略が「戦前日本の歴史的悪行を言挙げする」(歴史認識論争を仕掛ける)と言うことであり、その象徴として担ぎ上げられたのが「慰安婦強制連行」であった。
 先に述べたように、冷戦の終結とそれに続くソ連の崩壊により、左派は、自身の生存のため、社会主義に変わる「錦の御旗」を必要とした。また、冷戦の終結は「資本主義の未来」としての社会主義或いは共産主義の未来を否定したこととなるため、その「錦の御旗」は、勢い過去に向かうこととなった。これまでの先の大戦に関する論争の歴史もあり、左派が「軍国日本の悪」に「錦の御旗」を求めるのは合理的な選択であった。
 この「錦の御旗」を巡る論争が「歴史認識論争」として冷戦終結後定着することとなった。そして、その「悪辣・残虐性」を際立たせるために必要だったのが「無辜の民に対して暴虐の限りを尽くす日本軍」という構図であった。その構図に合致するために選ばれたのは、それまでにも話題となってきた「南京大虐殺」と1990年代に問題化 した「従軍慰安婦の『強制連行』」であった。
特に従軍慰安婦問題については問題化した時期、主張者及び時代背景から見てもソ連崩壊後によりその魅力を大幅に減じた社会主義理論に変わる結集軸としての「左派の錦の御旗」とされたとするのが妥当な推論であろう。秦郁彦氏も断定はしていないが、「印象論」として同趣旨の事を著書で述べている 。
 こうして、「歴史認識論争」は冷戦の崩壊及びソ連の崩壊により、自身の存在意義そのものが問われかねない状況に陥った左派が自身の生き残りを懸けた戦いとして幕を開けた。

11キラーカーン:2017/02/12(日) 23:42:35
3.4. 左派側の先制攻撃と「自虐史観」及び「サヨク」化への道
3.4.1. 事実認定の甘さから「自虐史観」へ
 前節で述べたような背景で発生した歴史認識論争であるため、同論争は左派側から仕掛け、右派側がそれを防御(否定)するという構図で始まった。
左派側の目的としては、日本軍が悪ければ悪いほど都合がよい。このため、左派は「日本軍の悪行」が事実以上に誇張するという傾向があり、右派はその誇張を「嘘」或いは「捏造」として反撃するのが定番の構図であった。
従軍慰安婦の「強制連行」については、強制連行説の破綻が比較的早期に明らかになり、「広義の強制」や「売春そのものが問題」というように論点が移動していったが、朝日新聞がその「誤報」を取り消すまで25年を要している。
南京事件についてもその事実認定が困難であり、また、論者によって「被虐殺者」の定義が異なる。そして、日本軍の悪を強調したい左派は犠牲者を多く「盛る」誘因が存在するので、可能な限り「被虐殺者」の定義 を拡大し、被害者を「水増し」する傾向ある。この結果、南京事件の被害者を主な基準として、論者が「まぼろし派」、「中間派」、「小中虐殺派」、「大虐殺派」というように分類されるのが通例となっている。
「南京大虐殺」については、現在明らかになっている以上の「事実認定」が事実上不可能である 現状から、「まぼろし派」〜「大虐殺派」の各立場の溝は埋まらないと見られるが、中国の公式見解である「犠牲者30万人」については「水増し」という点で事実上コンセンサスは得られている。

3.4.2. 他国との連携、特に「戦勝国史観」並びに南北朝鮮及び中国の「反日」の利用
 「日本の過去の悪行」を効果的に宣伝するため、近隣諸国の「反日」を利用することも左派の常套手段であった。つまり、「虐殺の被害者(遺族)」、「強制連行の被害者」、「性奴隷」という境遇にある外国人を「広告塔」として使い始めた事である。韓国人慰安婦がその典型例である。
 また、そのような外国人被害者の「発掘」に並行して、左派は「国際共同戦線」を構築していった。日本は第二次大戦の敗戦国であることから、「第二次世界大戦における日本の悪行」を叩き潰した「正義の連合軍」という筋書き にすれば、中国、南北朝鮮のみならず、欧米先進諸国の支持も取り付けやすかった。その最大の成果が国連への食い込みであり、「クラワスワミ報告書」に結実する。

3.4.3. 「左翼」から「サヨク」へ
このように、「日本の悪行」を協調するための「水増し」、「誇張」、(他国による日本批判の主張への無分別な同調の結果としての)「国家意識の欠如」などが「捏造」、「自虐」と右派からの批判を受けるのは必然であったとも言える。
そして、この歴史認識論争を通じて「反転可能性テスト」及び「二重基準の禁止」という他国の「リベラル」では必須と言われるものが我が国の左派(後に彼らは「リベラル」と名乗るようになる)には決定的に欠けていた事が明らかになった 。これを揶揄して「きれいな○○」という表現が広まった 。「ネット時代」の必然としてこの「自己に都合のよい二重基準を駆使する」という左派・リベラルのご都合主義が「満天下にさらされた」ため、ネット上の議論では劣勢に立っていった。
このような経緯をたどり、日本の左翼(左派)は国際基準で言う左翼とは異なるという共通認識ができあがり、「左翼」とは異なる用語で日本の左派を形容する必要が生じ、「サヨク」という語に収斂していった 。

12キラーカーン:2017/02/12(日) 23:45:21
3.5.1. 「ネット右翼」の2大潮流
3.5.1.1. 総論
 インターネットの普及に伴い、色々な組織・団体がWEB上にホームページを開設し、そのコンテンツの一つとして広報と親善を目的に掲示板を開設する場合が少なくなかった。
 広報、交流等を目的とする掲示板という性質上、基本的には掲示板は不特定多数の者に解放されており(誰でも閲覧・書き込み可能)が、その結果として、何らかの「議論」が行われることもあった。これは、パソコン通信時代の「会議室文化」の影響を受けているのかもしれない。
そのような中で、右派的な思想傾向を持つ人々が、自然発生的に「同志」として結集し(緩い)組織化がされていった。その中での2大潮流が「NC4(系)」と「鉄扇会」であった。しかし、NC4も鉄扇会も2002年より前に、ネットにおける影響力を事実上喪失していた。このため、現在の「ネトウヨ」を語る上では直接の関係がないと見なされ、言及されない事が多い 。
 彼らは教職員組合等左派と思われる組織の掲示板に(挑発的に)右派的な書き込みを行い、当該組織構成員若しくはそのシンパと議論を吹っ掛けることも珍しくなかった。このような彼らのネット上での姿勢が「ネット右翼」として認知されるようになっていった。NC4系ではそのような掲示板下の書き込み或いは議論を「出撃」と称していた(この場合、NC4が「出撃基地(作戦室)」という含意がある)。場合によっては、外国のサイトに対して英語での議論も辞さないという事もあった。
 右派側の反論のパターンとしては、「証拠」と「論理的一貫性」を主な武器としていた。これは、井上達夫氏がリベラリズムの条件として挙げた「二重基準の禁止」及び「反転可能性」については敏感である事を意味し、その意味では、ネット右翼こそが「リベラリズム」であるとも言える。その中で、左派による「日本の悪行」の「水増し」或いは「誇張」の度が過ぎるとされていった。そして、議論に疲れた或いは劣勢になることを恐れた左派(サヨク)の掲示板開設者が掲示板を閉鎖するという例も見られた。

13キラーカーン:2017/02/12(日) 23:46:22
3.5.1.2. NC4(日本ちゃちゃちゃクラブ)系
 小林よしのり氏の愛読者が開設していた「よしりんウォッチ」が朝日新聞の記事で事実上閉鎖に追い込まれ、その後継サイトとして立ち上げたものである。NC4設立の経緯については、初代管理人の「らーめん屋次郎」氏がツイッターで次のように述べている 。

「私はこいつ(引用者注:朝日新聞の北野記者)に昔、騙されましたよ。」
「私は脱正議論をめぐって京都大学に通っている学生(中略)も取材したと聞いたので北野記者を信用していたのです」
「あの記事から『殺す』をはじめ、身辺に対する危害を示唆するメールが大量に届きました。掲示板は完全に破壊され、あまりの横暴さから複数の有志の方と『日本ちゃちゃちゃクラブ』(NC4)を立ち上げたのです。」

 NC4は「小林よしのりファンクラブ」を題目に掲げているが、小林氏自身とのつながりは全くといってよいほどない 。したがって、「公認」というレベルではなく、単なる小林氏の著作の愛読者「有志」の集まりというものである。しかし「小林よしのり」或いは氏の著作である『戦争論』を全面に掲げていたため、注目度はそれなりにあり、「2ちゃんねる」も観察スレがたてられ、また、特定の話題で盛り上がると、その話題に特化したスレが立てられたという程度にはネット内では注目されていた。また、『戦争論妄想論』でも取り上げられたのは、これまでに述べたとおりである 。
 サイト内は、気軽に書き込める「雑談のため」の掲示板と「議論のため」に設置された「未来ボード」と「歴史ボード」という2つのツリー型掲示板(通称「ボード」)があり、都合3つの掲示板があった。掲示板はイベント等の告知事項や歴史認識論争の枠にはまらない「雑談」が主であり、中には、「○○の掲示板(左翼系)で左派的な議論が行われているので、(その掲示板に乗り込んで)『論破しよう』」というような書き込みがあり、NC4に書き込みを行っている面々が当該掲示板の議論に参加することもあった(NC4から他の掲示板へ出張って書き込みを行うことから「出撃」と形容された)。そのような書き込みから掲示板でも議論が行われることもあったが、「一定期間が経過すると自動的に削除される」という掲示板の仕様上、腰を据えた議論には不向きなものが有り、ある程度議論が発展すると、それまでの書き込みをどちらかの「ボード」に転載した上で「ボード」で議論を継続するという事も少なくなかった。
 歴史ボードはその名の通り、「歴史」に関する議論であり、「歴史認識論争」の本丸的掲示板である。未来ボードは、現在の話題と将来のあるべき方向性を議論する掲示板であった。
 また、「出撃」やNC4の掲示板に書き込んでいる者で(当時においても、複数の掲示板で「常連」となっている形態は珍しくなかった)他の掲示板の議論で優位に立つために、議論の相手から提示された論点・反論について、NC4に持ち帰り掲示板で反論のための「作戦会議」を行うこともあった。掲示板の過去ログはそのような過去の議論のアーカイブという使用方法もあった。
 また、NC4の常連が個人的にサイトを運営している場合も多々あり、そのようなサイトには他のNC4の常連も掲示板に書き込んだりして、一種の「サイト群」という形態となっていった。NC4の運営者はそのようなサイトを「十二支版」 として、NC4公認友好サイト としてNC4のトップページからリンクを張っていた。
 NC4自身は、2001年頃に生じた「内戦」 により、「ネット右翼」の結集軸としての存在意義を事実上失った。
 NC4系で特筆すべき事項としては、平成における皇位継承問題において、男系維持派の根拠の一つとなっている「Y染色体論」は、NC4の有名常連が考案したものと言われている 。

14キラーカーン:2017/02/12(日) 23:48:13
3.5.1.3. 鉄扇会(「ネット右翼」の始祖的存在)
 鉄扇会(てっせんかい)は、記憶の限り、「ネット右翼」を標榜した初めての「匿名集団」 として特筆すべきものであり、現在の「ネット右翼」の始祖的存在として位置づけられる。ネット上に存在する「草の根」の保守・右派論客を糾合し、ネット上の一大勢力たらんとしたという試みは、我が国のネット言論史において特筆すべき例であると考えられる 。
 鉄扇会についての詳細は把握していないが、NC4のように「総本山」的なサイトは無かったと記憶している。ただし、当然ながら、会員の個人サイトは存在し、サイト間の相互リンクにより、会としての連携は保たれていたものと推測される。
そのような「緩やか」な連合体であっても、「会則」は存在し、当時のネット上に公開されていた記憶がある。その中で、鉄扇会員がネット上で発言する場合、「ハンドルネーム/鉄扇会」という形の名乗りで発言することとなっていた。この点からも、鉄扇会が「会(集団)」としての行動を重視していたことが窺える 。
 記憶に依れば、鉄扇会が「会」として活動していた期間はそれほど長くはない。NC4と同様に2002年までには「会」としての実質的な活動は終息し、会員は個人としての活動に転換していったものと思われる。

3.5.1.4. その他(個人サイト等)
 当時のネット右翼には、NC4及び鉄扇会双方から距離を置いて「独自の活動」を行っていたものも多い、というよりも、実数ではこのような「独立派」が最多数派だったのかもしれない。
 このような独立派のサイトは、基本的に、これまでに作成した個人論説のアーカイブ或いは、時事評論が主要コンテンツであった。このため、議論用の掲示板を設置していないサイトも少なからず存在した。掲示板が存在したとしても、議論用ではなく、閲覧者からの情報提供用窓口(或いは告知内容の補足説明用)という色彩の方が強かったと思われる。
 また、当時のサイトの常として、「リンク集」がコンテンツに存在していることが多く、そのリンク集を辿って必要な情報や知識を手に入れると言うことが定番であった(リンク集には、リンク集作成者の「独断と偏見による」評価・分類がなされていた)現在でも、当時のものを改良して維持しているサイトではその面影が残っている場合もある。

3.5.1.5. その他(議論のアーカイブとしての個人サイト等)
 インターネット上に開設されたサイトはインターネット回線さえあれば、世界のどこからでも閲覧することができるというこれまでに無い利点があった。また、同様に、インターネット上の議論も全世界に公開されていることとなる。「歴史認識論争」はそれに加えて同時多発的に発生していた。
 このような場合、あるサイト・掲示板で行われていた議論と同様の議論が他の場所で行われることも少なくない。そのような場合の「事例集」或いは「論破の手引き」として他所での議論及びそのときに使われた典拠、論理展開等をネット上の集合知として活用することが自然発生的に行われた。NC4の項でも述べたように、そのような議論のアーカイブ或いは作戦室としてインターネット上のサイト(掲示板を含む)が活用されていくようになる。そして、ネット民から高評価を得られたサイトは多くの参加者に共有されるようになった 。
 このように過去の議論及び議論の典拠がアーカイブ化されると言うことは、遅れて議論に参加した者に対する知識の普及及び「それは過去に決着がついた議論」として無駄に同じ議論を繰り返すことが避けられたという効果を持つ。とは言っても、インターネットの中の話であるので、そのような「アーカイブ」の存在を知らなければ、他所で決着がついた議論の結論を知らずに延々と議論を繰り返し時間を浪費したということもあったと推測される。

15キラーカーン:2017/02/13(月) 23:03:04
3.5.2. 小林よしのり「戦争論」の影響(「新しい教科書をつくる会」:「論壇右派」と「ネット右翼」との邂逅と相克)
3.5.2.1. 『戦争論』の衝撃
 インターネットとは関係ないが、1990年代の「ネット右翼」を語る上で無視できないのが、漫画家小林よしのり氏が書いた『戦争論』である。その影響力は、先に述べたように、「らーめん屋次郎」氏が氏の著作に影響を受け、「よしりんウォッチ」から「日本ちゃちゃちゃクラブ」というサイトを立ち上げ、20世紀末期の「ネット右翼」の牽引車となった事にも現れている。
同書は、左派論壇の「反戦平和」に真っ向から異を唱え、「公」をキーワードに「平成の『大東亜戦争肯定論』」とも言うべき内容のものであった。また、同書はその内容のみならず、このような内容の書が漫画という形式で書かれた(描かれた)という手法 も、新しい平成時代の幕開け(1990年代)としても捉えられた。
 漫画という体裁と、当時、先の大戦の概論的入門書が無かった事が相まって、『戦争論』の言説は若い世代に急速に受け入れられていった。これは、先に述べた、①冷戦の終結、②昭和天皇の崩御、③戦争を知っている世代の社会からの引退、によって生じた歴史体験の伝承の空白にはまったからと思われる 。これ以後、小林氏は『戦争論』(及び『ゴーマニズム宣言』)により、漫画家の枠を越え、評論家としての活動の論壇に活動の場を得ることとなり、評論家活動の比重を増やしていった。

3.5.2.2. 「つくる会」の設立(リアルの世界での「歴史認識論争」における右派の反攻)
 「歴史認識」が問われる場として代表的なものとして、文部省検定教科書の記述がある。インターネットが普及する前から、歴史教科書の記述は「家永教科書裁判」 或いは「侵略・進出」書き換え事案など、左右両派が激突する「戦場」でもあった。このため、従来からの(ネット右翼ではない)右派は、具体的な活動として、右派的な歴史認識を取り入れた教科書の作成・採択運動に乗り出した。その活動母体として、彼らは「新しい教科書をつくる会」(以後、「つくる会」と呼ぶ)を設立した。
 「つくる会」は1990年代初めから歴史認識論争に参加していた右派の知識人を中心として1996年に設立された。その中で、2001年の検定に合格し、採択を目指すという方針が立てられた。その時期がインターネットの普及と重なったため、ネット上の活動に飽き足らない「ネット右翼」がつくる会の運動に参加することも見られた 。しかし、つくる会幹部のインターネットに対する理解度は低く、「つくる会」が運動を進めていく中で、「ネット右翼」だった(である)人物がつくる会に参加する際にインターネット上の活動を自粛するよう「要請」があったことも参加者は明らかにしている 。
 時代的な背景もあり、つくる会の活動で旧来型の保守・右派と「ネット右翼」との協力関係が生まれたが、つくる会の活動はインターネット普及前の「旧来型の保守・右派的活動」の域を出ることが無いまま現在に至っている。しかし、当時のマスコミや論壇がインターネットの影響力を計りかねていた(或いは「過小評価」していた)当時において、「歴史認識論争」における左派に対する橋頭堡を確立し 、「ネット右翼」を取り込んだという点では大きな役割を果たしたと言えよう。
 しかし、運動団体にありがちな内部(路線)対立があり、「つくる会」も小林氏も途中で脱会する等主要メンバーの離合集散が激しく、現在では、「つくる会」自体が分裂した。「つくる会」を脱退したメンバーを中心に「教科書改善の会」を設立し、現在は両者が並立状態である。また、歴史教科書は、双方から出版されている 。

16キラーカーン:2017/02/13(月) 23:04:22
3.6. 「嫌韓厨」の発生(歴史認識論争或いは「ネット右翼」の副産物)
3.6.1. 総論
 「歴史認識論争」を仕掛けた左派は他国の視点を持ち込むことにより優位に立つことを戦術の一つとしていた。その中で、主に用いられてきたのは「植民地支配」を受けた朝鮮半島の人々であり、特に「従軍慰安婦」とされた人々であった。これは、先に述べたように、社会主義に変わる左派の「錦の御旗」として「従軍慰安婦」が持ち出された事を意味する。
このため、左派側の歴史認識は「朝鮮半島視点」となりやすく、また、「従軍慰安婦論争」の基盤として「大日本帝国の朝鮮半島支配」に対する半島側の反発が存在する以上、この歴史認識論争に参加する韓国・朝鮮人も左派の側に立つことが予想される 。このような議論であれば、在日朝鮮人の側も「在日差別」の延長線上で同論争に参加でき、従来の「運動」を継続できるという利点もあった 。
この結果、左派の側からの「歴史認識論争」の一部に「朝鮮ナショナリズム」を組み込んだことに対する右派側の反発及び意識が「反・朝鮮半島」とある程度一体化するのは仕方の無いことであった。
そのような状況の中で、朝鮮半島と聞くと条件反射的に嫌悪感を催す言動を行う者もネット上に現れた。彼らは「嫌韓厨」 と呼ばれた。そして、結論を先取りすれば、後述する「2002年の衝撃」以降、嫌韓厨が「ネット右翼」の代表的存在となり、現在では「ネトウヨ」と呼ばれることとなった。そのため、大阪大学大学院人間科学研究科辻准教授(当時)の作成した報告書『インターネットの「右傾化」現象に関する実証研究』においても「ネット右翼」の3条件の一つとして「『韓国』『中国』いずれに対しても「あまり」「まったく」親しみを感じない」としているのもその一つである 。

3.6.2. 2チャンネル「ハングル板」での議論
 匿名掲示板の代名詞的存在である「2ちゃんねる」には朝鮮半島問題を議論する「ハングル板」というものが存在している。現在では、「嫌韓」の総本山的な印象を持たれているが、西暦2000年頃まではそうでも無かったと言われている 。中には韓国に対する理解が深いという自負から「世間が嫌韓となっても最後に残る親韓サイトはハングル板」という内容の書き込みがあったと記憶している。
 このハングル板での議論で特徴的だったのは「ソース至上主義」と言われるものである。当時から、韓国に限らずネット上の書き込みには虚実ない交ぜのものが多く 、意図的なデマも存在する。また、書き込み時に注目を浴びたいとの欲求から、日本人の常識離れした「突拍子もない」事例 を書き込むことが多かった。そのため、「信頼に足るソースが無ければその書き込みは信用しない(≒デマと見なす)」という作法が確立していった。そして、韓国の「反日」が明らかになるにつれ、親韓→知韓→疑韓→嫌韓→反韓→怒韓→呆韓→笑韓→哀韓→憂韓→達韓という「進化」を辿るとまで言われていた 。

17キラーカーン:2017/02/13(月) 23:05:23
3.7. 「ネット左翼」の動向
 「歴史認識論争」が「従軍慰安婦(強制連行)」を錦の御旗にして、韓国をはじめとする「日本軍に侵略されたアジア」糾合するという戦略を立てていた以上、「ネット左翼」と在日朝鮮人のみならず、韓国本土の活動家とネット左翼が連帯する事は同然の成り行きであった。その過程で欧米の「リベラル」の持つ「戦勝国史観」 をも糾合することに成功した。このため、従軍慰安婦が日本の「悪の象徴」であり、それを叩く連合国は「正義」であるという言説は世界に広まっていった。
旧来の論壇・マスコミでは非主流であったが故に、また、論壇・マスコミへのアクセスが限られていた「草の根右派」はマスコミに依らない伝達・記録ツールとしてネットを活用することで知見の標準化・一般化を行い、かつ誰でも利用中たちで「アーカイブ化」するという方策を採った。その一方、(草の根)左派はネットをツールとして用いてはいたが、旧来の運動論の延長線上にあり、従来型の左翼(左派)と比べて「ネット左翼」に特筆すべき特徴は無かったと思われる 。つまり、当時の左派はインターネットを「告知・お知らせ」手段としてインターネットを活用しており、掲示板システムを用いた「双方向の意見交換手段」としての比重は少なかった。
管見の限り、そのような傾向にある左派の中で、ハンドルネーム「クマ」氏が主宰する『「問答有用」掲示板』が例外的に左派の中での「対右派作戦室」というNC4的掲示板の機能を持っていた。
 左派のインターネット活用がそのようなものとなった背景として、平成になっても、マスコミは依然として左派が優勢であり、従来型の運動論で特段の不都合を感じなかった事が理由であると推測できる。

18キラーカーン:2017/02/13(月) 23:07:08
3.8.2. 日対朝韓間議論
3.8.2.1. 日韓翻訳掲示板(NAVER)での日韓議論
 歴史認識論争の主戦場は慰安婦問題、特に朝鮮人の「強制連行」問題であったことから、日本国内だけではなく、日韓間でも発生した。特徴的なことは、論壇だけで発生したのではなく、インターネットの普及と翻訳ソフトの発達により、日韓両国の一般国民が直接対話・議論することが可能となり、議論の裾野が飛躍的に拡大した。その中の代表的な存在がNAVERの「日韓翻訳掲示板」 であった。
 インターネットの普及による場所や発信手段の壁だけではなく、翻訳精度の問題はあるにせよ、ITにより言語の壁も超越したことにより、日韓間の議論に参加できる障壁が事実上消滅したことは議論の裾野が爆発的に拡大することとなった。
 日韓翻訳掲示板の功績は、日韓間の市井の人同士が直接に行う議論を成立させたことである。そのことで、日韓それぞれの民衆レベルでの「本音」に直接触れることができた。その結果としては、韓国の「反日」が政府レベルではなく、一般国民レベルでも広く浸透している事を日本側が知ったことである。その「成果」が、現在の「ヘイト政治家」として扱われている「日本第一党」党首の桜井誠氏 であり、氏をはじめとする「行動する保守」として「ネトウヨ」が現実社会へ飛び出した事であった 。
また、当時の日韓翻訳掲示板で日本人と韓国人との間で直接生起した議論(書き込み)の内容も書籍化 された。
 掲示板に限らず、インターネットでの議論の利点として、(何らかの理由で削除されない限り)過去に行われた議論が「過去の記録」として残されることである。これにより、掲示板での議論の参加者は、過去の議論の結果に関する膨大な蓄積(論理、知識)を自己のものとすることかできた。特に、NAVERの場合には、日韓間における直接野議論であったことから、韓国人の反応も分かるというのが他の掲示板に対する有利名点であったと思われる。先に述べたように、NC4の参加者には、その点について自覚的な参加者が多かったが NC4の議論は基本的に日本人同士の議論であると思われることから、その点においては、「日本側の作戦会議、議論の際の武器庫」という側面が強かった。

3.8.2.2. 従来型の在日朝鮮人との議論(「ハンボード」を中心に)
 我が国には、少なくない在日朝鮮人も居住しており、在日朝鮮人向けのHP或いは掲示板というものも存在している。その中で、有名であったのは、在日三世の金明秀氏が主宰する「ハンボード」であった 。
 「ハンボード」は「han.org」という在日朝鮮人向けのHPにある数あるコンテンツの一つであった 。主宰の金氏の思想傾向は親北朝鮮的であったため、掲示板へ書き込みをする者は親北朝鮮的傾向を有する人々が多かったが、右派からの書き込み(論戦の挑発)も比較的多く見られた 。議論は日本語で行われていたため、基本的には日本国内向けであるが、主催者が在日朝鮮人である事もあり、在日朝鮮人と日本人との間で疑似的な日朝間議論が行われることとなった。
ただし、管理人の編集態度が強硬であり、反北朝鮮的傾向の投稿は削除される傾向にあったため、自由な議論が行われたかという点については疑問が残る。ハンボードは金正日が日本人拉致を認めた時点で事実上掲示板の機能は停止し、程なくして書き込みも禁止となった。
 親北朝鮮系の掲示板の代表が「ハンボード」とするならば、韓国系の掲示板の代表は韓国民団掲示板であろう。当該掲示板は民団のHPの1コンテンツとして存在していたため、ハンボードと同様に疑似的な日韓間議論が行われていた。しかし、ハンボードと同様に日韓W杯の前後から、民団或いは韓国の「反日」的姿勢を批判する書き込みが目立つようになり、掲示板は閉鎖された。

19キラーカーン:2017/02/14(火) 23:41:20
4. 「嫌韓厨」から「ネトウヨ」へ(2002年から第二次安倍内閣成立まで)
 2002年以降は、『ネット右翼の逆襲』をはじめとして「右傾化」、「嫌韓」の一環で多く述べられているところであるため、2002年の日韓W杯及び小泉総理訪朝による「半島タブー」の解禁による影響を主に述べる。
4.1. 2002年の衝撃(「半島タブー」の解禁)
 ネット右翼(或いはそれと対になるべき「(ネット)左翼」)にとって、日韓W杯と小泉首相及び安倍官房副長官(当時)の北朝鮮訪問が行われた2002年は、まさに、「時代を画する」年 となった。
 これらのことから、インターネットレベルにおいては、「2002年の衝撃」が事実上、ハンボードや民団掲示板といった日韓間、日朝間の「草の根対話」を破壊する威力を持っていたことが窺える。ただし、マスコミから提供される情報では、「冬ソナ」が2003年から2004年の出来事である事から窺えるように、2002年以降も「韓流」に代表される「韓国推し」が一般的であった。そのことが、逆に、2002年以降、マスコミが韓国の反日の「共犯」として批判される一因となった。しかし、世論調査等で「嫌韓」の数値が目に見えて高くなるのは、2012年の李明博韓国大統領(当時)の竹島訪問と天皇陛下への社会要求発言からである。
2002年の日韓W杯での韓国の「反日」及び小泉首相(当時)の北朝鮮訪問と拉致の事実が公式に確認された。このことにより、冷戦終了後の歴史認識論争において、左派の「錦の御旗」を支える大きな基盤であった「半島タブー」が取り払われ、「植民地支配」 、「差別」 という語で南北朝鮮に対する批判を封じ込めることができなくなった 。ネット上のみならず、「リアル」の社会でも南北朝鮮に対する「タブー」が取り払われたのが奇しくも同じ2002年であったのは偶然であっても面白いものがある。
「半島タブー」が取り払われた結果、それまでの反動もあり、「ネット右翼」的な言説には「反韓・反北朝鮮」言説を纏う割合が高くなり、「ネット右翼」と「嫌韓厨」との区別がつかなくなってきた。この結果、嫌韓厨≒ネット右翼となり、さらに、ネット右翼がネトウヨと略されたことから、「嫌韓厨≒ネトウヨ」となり、両者の区別が事実上消滅した。

20キラーカーン:2017/02/14(火) 23:42:11
4.1.1. 2002年日韓W杯(韓国の「反日」の公然化)
2002年W杯は開催地決定時点から波乱含みであった。元々、W杯の開催地ローテーションから、2002年W杯はアジア開催が有力視されていたこと及び競技施設整備能力などから日本単独開催の可能性が高いとみられていた。しかし、当時のFIFAの副会長に現代財閥の鄭夢準氏がいたこともあり韓国側の巻き返しが激しく、その結果、韓国の「ごり押し」で日韓共同開催となったことが「嫌韓」の発端であった。
以後、大会準備における日韓間の調整段階において、①開会式と決勝戦の韓国開催、②両国の表記順は(慣例であった)アルファベット順によるJapan, KoreaではなくKorea, Japan とすべき(日本語表記も日韓ではなく韓日とすべき )、③サッカー場をモチーフにしたポスターが「日」の字と似ていることによる変更要求、等の「無理難題」を吹っ掛けるということが常態となっていった。そして、その「無理難題」を正当化するため、少なからず日韓併合時代における我が国の植民地支配ひいては歴史認識を理由にしていた。その結果、そのような歴史認識論争や政治から離れてサッカーを楽しみたいと思っていたサッカーファンの不満のみならずネット右翼からの不満(嫌韓)を醸成させていった。
そのような開催準備期間における「韓国側のいちゃもん」のみならず、大会開催期間中、韓国民衆の日本に対する応援態度に現れる「反日」が明らかになった。また、韓国人は日本人と比べて観戦マナーも悪かった 。何よりも、その後、FIFA自身も求めるように、日韓W杯では韓国戦絡みの「誤審」が目に余った 。
さらに、一概に悪いとは言えないが、韓国戦以外の韓国開催試合の入場者数が日本より少なく、韓国(戦)のみしか眼中にないと見られたことも「サッカーより国威発揚」と否定的な目で見られることとなった。この頃からインターネット上では「知れば知るほど嫌いになる国」として、韓国の「反日」 を集めたサイトが目立つようになった。
そのような草の根レベルの「嫌韓」に対して、我が国のマスコミはの報道姿勢も「日韓親善」で一貫しており、韓国の「反日」を報道せずに、韓国を持ち上げる報道史かしなかった 。このため、日韓W杯以後、マスコミへの批判 が激化し、同年に「ゴミ拾いオフ」 という形で抗議運動を行った。このことから、マスコミも「反日」の共犯として「ネトウヨ」の標的となっていった。

21キラーカーン:2017/02/14(火) 23:43:23
4.1.2. 小泉首相訪朝(拉致問題の公然化:「北朝鮮タブー」の解禁)
 2012年9月には小泉首相が北朝鮮を訪問し、金正日朝鮮労働党総書記(当時)と初の日朝首脳会談を実施した。その会談の席で、金総書記は日本人拉致を行ったことを明らかにした。それまでは、状況証拠から北朝鮮による拉致である事は確実視されていたが、当事者の北朝鮮が拉致を認めていなかったことから、公式には「疑惑」の段階であり、また、北朝鮮批判を行うことは「半島タブー」に触れることから、公の場で北朝鮮に対する懸念を表明することは避けられた 。
 また、拉致問題については、北朝鮮批判につながるため、拉致問題を取り上げることは「右翼」或いは「保守反動」勢力に対する支援になるとして左派は黙殺してきた 。しかし、小泉首相訪朝時に金総書記自身が日本人拉致を認めたため、それを突破口としてそれまでの「半島タブー」から北朝鮮に対して奥歯に物が挟まったような批判しかできなかった不満が一気に噴出した 。また、北朝鮮による拉致被害者に対する調査結果も杜撰なもので、日本国民を納得させるもからはほど遠かったことも北朝鮮への批判に拍車をかけた。
これ以降、北朝鮮は核実験や弾道ミサイル発射実験を現在に至るまで行い、我が国に対する軍事的脅威となっていることから、北朝鮮が我が国において「悪の帝国」の位置を占めることとなる。

22キラーカーン:2017/02/14(火) 23:44:30
4.1.3. 『マンガ嫌韓流』の出版
 当時の「韓流」で統一されたかのようなマスコミの報道に対する不満を反映して日韓W杯からしばらく経った後の2005年に刊行されたのが、山野車輪著『嫌韓流』 である。同書も小林よしのり氏の『戦争論』と同じく漫画形式である。同書はマスコミが吹聴する「韓流」というものから一歩引いて、「現実の韓国」を見据えようという趣旨で出版された。
同書の内容はこれまで、「2ちゃんねる韓国板」をはじめとするネットで話題になっていたものの寄せ集めであり、当時からの韓国ウォッチャーには目新しいものはない。しかし、それまでのマスコミの「方針」に抗して、そのような韓国の「否定的」側面を堂々と取り上げた書籍が出版されたことも、「表の韓流」とは異なり、「草の根の嫌韓」が浸透してきたことの証左とも言える 。
Amazonの『嫌韓流』紹介ページによれば、同書の出版に際して「各出版社から(中略)出版拒否された」という扱いもあったようである。そのことが、逆に、「半島タブー」に真っ向から挑戦するという形となったため、嫌韓やネトウヨといった層からのamazonでのネット購入予約も増え、シリーズ化されたことから見て、一応ヒット書籍となった模様である 。また、出版直後、朝日新聞社に提供されたamazonの書籍売上ランキングでは、同書がランキング対象外となったというような「事件」もあった。これ以降、日本社会の「嫌韓」意識の増加を反映した所謂「嫌韓本」という分野が成立し、新書等の一般書籍が追随した 。

23キラーカーン:2017/02/15(水) 23:40:37
4.2. 左派(リベラル)の逆襲とその限界点
 このように、2002年を境にして所謂「歴史認識論争」の潮目が代わり、ネット上或いは論壇での議論では、親韓国、親北朝鮮、反大日本国帝国を基軸とした左派は守勢に立つこととなった。しかし、マスコミの論調では依然として、左派が優勢で有り、テレビ番組は衛星放送を中心に韓国ドラマが放送されていたため、表面上、日本における「韓流」の傾向は変わらないように見えた。

 政治情勢においても、国内政治では、依然として非自民勢力への期待はまだ失われていなかった。2009年8月に行われた総選挙で、鳩山由紀夫代表が率いる民主党が衆議院の安定多数を得た第一党となり、民主党・社民党・国民新党の三党による1993年以来の非自民(連立)政権が誕生した 。

 リベラル・左派の期待を背負って成立した鳩山内閣であったが、ネット(特にネトウヨ層)から、「御花畑(現実から遊離した独り善がりの理想論)」と揶揄されたように、国民から納得できる業績が上げられなかったことから、鳩山-管-野田と三代の内閣を経て、2012年の総選挙に突入したが、民主党は自民党に地滑り的大敗を喫し下野を余儀なくされた。以後、その総選挙で首相に返り咲いた 安倍晋三内閣が国政選挙で手堅く勝利を重ね、「ネトウヨの時代」となっている。

24キラーカーン:2017/02/15(水) 23:42:38
4.2.1. 小泉以後の自民党政権
 小泉首相が5年間の任期を全うして2006年9月に総理・自民党総裁の座を降りた。首相の個性が政権のイメージに直結するという点では、小選挙区制の申し子というものであった。また、「刺客」など「自分(首相)対敵」という構図を巧みに作り上げ敵対者をつぶしていったという点もその流れに沿ったものであった。言い換えれば、小泉政権とは「55年体制の『終わりの終わり』」というものであった。

 これは、細川政権下で導入された小選挙区制により、各選挙区で政党は1名しか公認を出せなくなった結果、「1対1」の対決の構造に持ち込みやすくなり、「タイマン」が得意な政治家(「対決型」や「劇場型」政治家とも言われる)にとっては都合のよい選挙制度であった 。
また、小選挙区制導入に伴い、各選挙区で自民党候補が1名となることから、自民党の派閥が「党中党」として、個別に選挙戦を戦う事が不可能となった 。その結果、候補者の公認などにおいて、自民党の各派閥より自民党総裁への権限集中をもたらすこととなったため、小泉氏の後を襲った安倍晋三氏及び福田康夫氏はそれまで言われていた首相候補と認められるための条件を満たすことなく、内閣官房長官経験を足場に首相の印綬を帯びることとなった 。このことは、首相(「官邸」)権力の強化、或いは日本政治の「大統領制化」というものが進行していることの証左となる。

 小泉内閣以降、自民党に対する風当たりは強く、閣僚の失言等で大臣が辞任に追い込まれることもしばしばで有り、安倍内閣では松岡農水大臣が自殺に追い込まれている 。

4.2.1.1. 安倍内閣
 任期満了で「余力」を残して退陣した小泉首相から禅譲の形で安倍晋三氏が首相の座に就いた。安倍氏の政治家としての主な経歴も閣僚では内閣官房長官、党務では党幹事長という経歴で首相に就任した。幹事長はともかく、入閣経験が官房長官 の1度のみで首相の座に就いた という点は、日本国憲法下では異例中の異例である。また、戦後最年少総理で有り、初の戦後生まれの総理でもある。
 安倍総理は右派の政治家としてのイメージが強く、総理就任後も「戦後レジームからの脱却」といった右派的「脱戦後」を目指していた。そのため、「リベラル」勢力(特に朝日新聞等の左派マスコミ)からは敵視され、その影響は第二次安倍内閣となっている現在にまで続いている。
 安倍政権において郵政民営化問題で小泉首相と対立し政権時代に自民党籍を失った議員を自民党に復党させたことは「小泉改革の逆行」であると批判を受けた。失言等により、農水大臣が短期間で何人も交代するという自体に成り、2007年の参議院選挙で敗北し、当初は続投の意思を示していたが、結局辞任に追い込まれた。

25キラーカーン:2017/02/15(水) 23:43:02

4.2.1.2. 福田内閣
 参議院選挙での敗北の責任をとって辞任した安倍総理の後を襲ったのは、同じ清和会の福田康夫氏であった。なお、福田氏は初の親子総理である。福田氏は森内閣及び小泉内閣における官房長官として頭角を現した 。福田氏は、内閣の「大番頭」として堅実な手腕で政権を支え、ややもすれば、「失言」の多い森総理や「パフォーマンス」先行型である小泉総理の持つ「軽さ」、「不安定さ」に対する安定役となっていた。安倍氏に続き、福田も官房長官を足がかりに総理の座へ上り詰めたことは、「官邸主導」、言い換えれば、小選挙区制導入により、自民党(内閣)が「制度化された政道連合(内閣)」から、首相という「単一の核」を持つ政党(内閣)へ変化したことを如実に表していた。

 福田氏の政治姿勢自体は、中国への融和的な態度など、自民党の中では比較的リベラルなものであったため、発足当初は安倍政権との対比も有り、リベラルからの期待も高かった 。しかし、小沢民主党との大連立構想の頓挫などが有り、第一次安倍内閣と同様、約一年で政権の座を去った。

4.2.1.3. 麻生内閣
 福田氏の後を襲ったのは、安倍、福田氏と同じく「麻垣康三 」の一人である麻生太郎氏であった。麻生氏は、母方の祖父が吉田茂であるのは有名であるが、その吉田茂自身も、岳父(麻生氏にとっては曾祖父)が牧野伸顕元内大臣、外相、その父が大久保利通という累代にわたり大物政治家を輩出してきた家系でもある(つまり、麻生氏自身は大久保利通に連なる「五世政治家」である)。また、父方は福岡の地元企業のオーナーであり、実の妹が三笠宮寛仁親王妃という日本屈指の名家である。

 そのような出自にも関わらず、べらんめえ口調で有り、筑豊育ちでアフリカ駐在経験を有するなど「お坊ちゃん」ではない経歴も有する 。そのような背景を持つせいか、麻生氏はキリスト教徒(カトリック)であるが、政治思想的にはやや右寄りとされている 。

 麻生氏の首相就任時において前回総選挙から約3年を経過していたため、内閣の求心力を維持するため内閣発足直後の解散総選挙を考えていたと言われている。しかし、リーマンショックの発生により、その対応が優先されたため、内閣発足直後の解散総選挙はできなくなった。「後知恵」的に言えば、この解散総選挙の機会を逃し、任期満了直前の解散総選挙に「追い込まれた」ことが2009年(平成21年)の総選挙で自民党が野党に転落する一因となった。

 麻生内閣については、内閣発足直後の解散総選挙の機会を逃したことも有り、任期切れ間近の「死に体」と言わんばかりのイメージであった。また、麻生総理自身も「生まれが良く」、また、「口が軽く」、任期ではあったが、マスコミや野党が攻撃しやすい人物でもあった。国会審議でも「カップ麺の値段」や漢字の読み方など「揚げ足取り」の質問も多く、そのやりとりが面白可笑しく報道されることも、「自民党内閣の終焉」が近いと感じさせるものであった。
 そして、任期切れ直前の総選挙によって自民党は過半数を割り、1993年以来の下野することとなった。

26キラーカーン:2017/02/19(日) 01:44:53
4.2.2. 民主党政権と「非自民の時代」の頂点とその終焉

4.2.2.1. 総説
 小泉氏が任期満了で政権の座から去った後、(多分にマスコミの「揚げ足取り」的色彩もあったが)安倍、福田、麻生の各内閣が一年内外で退陣に追い込まれ、自民党に対する国民の求心力は失われていった。特に、麻生政権は発足直後の解散総選挙をもくろんでいたといわれるが、その機会をリーマンショックへの対応で失ったことから、任期満了(直前)の総選挙は確定的となり、その時点で自民党の敗北は多くの人が予想するところであった。

 そして、2009年の総選挙で民主党が300を超える議席を獲得し、自民党が下野することとなった。しかし、参議院では民主党は過半数を得ていなかったため、社民党及び国民新党と連立を組んで衆参両院での過半数を確保した。

 民主党政権は、外交・安保分野では在日米軍再編問題、中国及び韓国との関係改善を掲げ、国内政治では、公共事業からの脱却、官僚政治からの脱却といった「自民党政治的なものからの脱却」を掲げていた。また、東日本大震災及び福島第一原発の事故への対応に追われた。
結果として、民主党政権は理念先行型で、現実の政権運営の未熟さから、どれ一つとして達成できず、「リベラル」勢力に対する幻滅を残して2012年の総選挙で大敗を喫し下野した。その後、自民党は国政選挙で手堅く勝利を重ね、「安倍一強」と言われる政治情勢が現出している。

 民主党は、「民進党」に党名を変更したが、依然として党勢は低迷している 。支持率が高く「安倍一強」ともいわれる第二次安倍政権も積極的な指示ではなく「他に選択肢がないから」という理由で支持している国民も多く、「健全な野党」として民進党が生まれ変わることを期待している層も少なからず存在する。

27キラーカーン:2017/02/19(日) 01:45:59
4.2.2.2. 党と政府との関係
 政治主導を確立するには、党と内閣が一体となって政局を運営していく必要がある。鳩山由紀夫内閣発足時の閣僚は「オールスター」で、当時の民主党で名前が売れていた政治家を軒並み入閣させた 。

 党の方には小沢幹事長を配し、鳩山首相と小沢幹事長の体制で政治主導を確立させようとした。小沢氏は、党外からの陳情窓口を党に一本化しようとした。このことは民主党幹事長である小沢氏が党外からの陳情を一手に仕切るということを意味した。さらに言えば、民主党要求の予算配分を小沢氏が行うことを意味した。この結果、内閣主導という民主党の方針が揺らぐこととなっていった。

28キラーカーン:2017/02/21(火) 23:49:12
4.2.2.3. 外交・安保分野
橋本内閣からの懸案であった在日米軍、特に在沖縄米軍の再編に関して「最低でも県外」という公約を鳩山内閣は掲げていたが、結局行き詰まり、社民党が連立離脱するなど、鳩山首相の求心力は目に見えて落ちた 。このため、民主党政権になっても、自民党の第一次安倍内閣以降続いている一年程度の短命政権という傾向に歯止めがかけられなかった 。
民主党には社民党との連立政権でも有り、また、民主党内にも旧社会党出身議員が少なからず存在していたことから、外交・安保分野では親中・親韓的要素が強かった 。特に管直人総理在任中に日韓併合100周年を迎えることから、いわゆる「村山談話」を踏襲した談話を発表し、朝鮮儀軌の返還といった融和的な政策を行っていった。他には、土肥隆一国会議員の中にも日本の竹島領有権放棄に賛同する韓国側作成の文書に署名したことが発覚し、党の役職辞任に追い込まれている。そして、李明博韓国大統領(当時)が現職大統領として初めて竹島に上陸したことにより、対韓融和ムードは完全にといってよいくらい消滅した 。

 また、中国に対しては、習近平国家副主席(当時)の訪問時の「天皇陛下会見ごり押し 」や小沢民主党幹事長(当時)以下の大規模訪中団を組織し、中国への配慮を見せた。しかし、尖閣沖での漁船と海上保安庁の艦艇との衝突事故の処理 や尖閣諸島の「国有化」 などによる日中関係の緊迫化や歴史認識問題は沈静化せず、対中韓外交もさして好転しなかった。このため、その後、そのような親中親韓(サヨク的外交政策)は国民の支持を失っていった。

 菅首相(当時)は、同氏の政治資金管理団体か在日韓国人から違法に献金を受け取っていたことが発覚し、自民党などから辞職を求められる事態となっていた 。また、日本赤軍が起こした「よど号事件 」の実行犯と密接な関係がある団体に政治資金を行っていた問題が生起していた 。菅首相自身にとっては同問題からの追及を免れる絶好の機会となった。

29キラーカーン:2017/03/01(水) 23:25:29
4.2.2.4. 内政問題
 民主党政権となり、「政治主導」や「コンクリートから人へ」というスローガンの下、民主党政権は政権運営手順を変革しようとした。しかし、政治家としては「未熟」である民主党の政務三役(大臣、副大臣、政務官の総称)による性急な「政治主導」は官僚機構の反発を招き、また、「宇宙人」ともいわれた鳩山由紀夫総理の奇矯な言動もあり、鳩山政権の統治能力は目に見えて落ちていった。

 その中でも、民主党政権での「ヒット作」といわれたのが「事業仕分け」であった。外部専門家の目を入れて事業全体としての費用対効果等見極めるという事業仕分けの発想そのものは、事業管理手法として是認できるものであった。しかし、カメラを入れた公開の場での審議は、財政赤字抑制という目的 もあり、ややもすると要求側の「公開処刑」という趣があった 。この結果、事業仕分けも国民向けの「見世物」として消費されていった。

 経済政策も、基本的に円高・デフレ政策であり、株価と景気も低迷していた。景気対策に失敗したことからも、民主党政権に対する支持が失われていった。

30キラーカーン:2017/03/02(木) 23:23:54
4.2.3.5. 東日本大震災(福島第一原発の事故も含む)
4.2.3.5.1. 総説
 東日本大震災が民主党政権における最大の事件、少なくとも最大の事件のうちの一つであったということについては異論がないと思われる。

 東日本大震災への対応については、汗牛充棟であるので、詳しいことはそちらに譲るとして、ここでは、大略のみ述べることとする。結論から言えば、東日本大震災への対応も民主党の「未熟さ」の実例とされている。代表的なものとしては、政府会議の乱立、支援物資の分配・配布にかかる不手際であった。

東日本大震災の対応における民主党の対応は以下のようなものであった。
①民主党政権は、これまでの情報公開の方針を翻し。政府の会議録を作成しない
②官房長官が記者会見を頻繁に行い、内閣官房長官の知名度向上に寄与した。
 (この結果、官房長官は総理への足掛かりとなる「主要閣僚」への昇格を果たした)

 このような事態に対し、民主党から自民党に対し、危機対応のための(救国)大連立内閣の申し出があったが、自民党側が断った 。

31キラーカーン:2017/03/04(土) 01:11:58
4.2.3.5.2. 福島第一原発の事故
 東日本大震災により、東京電力の福島第一原発も被害を受けた。地震によって電源を喪失し冷却機能不全となったことから、水素爆発が起こり、原子炉内の放射性物質が大気中に拡散されることとなった。この際の指示やSPEEDIによる情報提供の遅れ、エネルギー政策の転換 等の民主党政権の対策にも疑問が持たれていた。 その一方東北電力の女川原発は安全に機能を呈したことから、東北電力との比較で東京電力の対応に疑問がもたれることとなった。

 この事態に左派は放射能の被害をことさらに言挙げし不安を煽った が、その中には明らかな嘘も交じっていた。右派から見れば、反核運動と反原発とを強引に結び付け、「反原連」として結実する。その人脈は、SEALDsや沖縄反米軍基地闘争の母体となっていく 。

4.2.3.6. 民主党政権の終焉
 小選挙区制導入に代表される「政治改革」の申し子であり、自民党政治に不満を持つ層やかつての左派あるいは社会民主主義者の「希望」としての民主党政権は
① 中韓両国との関係改善に失敗
② デフレと円高による国内不況
③ 東日本大震災に対する対応への不満
により、任期末期には国民の支持を失っていた。

 そして、2012年の総選挙で民主党は大敗し下野することとなった。その後も党勢は低迷し、党勢回復の切っ掛けさえ掴めない状況にあるのは、既に述べたとおりである。

32新八:2017/03/04(土) 21:12:44
>このような事態に対し、民主党から自民党に対し、
>危機対応のための(救国)大連立内閣の申し出があったが、
>自民党側が断った 。

これは、とても大きいこと。
彼我の違いを認識していた重要な要素なので、色々と背反する様な事象が起きているように見えても
この点を押さえておく必用があると考えております。

33キラーカーン:2017/03/07(火) 00:18:11
5. 「ネトウヨ」の時代(第二次安倍内閣成立以降)
5.1. 総説
5.1.1. 「ネトウヨ」の最大公約数的内容(最早「ネット」とは関係ない)

「サヨク」の時代であった「非自民」の時代は2012年の総選挙での民主党の敗北で終わった。そして、今、この時代を言い表すのに適切な言葉を捜せば、「ネトウヨ」となる。首相に返り咲いた安倍氏の政治姿勢が保守的であること、あるいは世論の「右傾化」ともいわれる状況から、反安倍派からは日本が「ネトウヨ化」 しているとの指摘もある。この後に詳述するが、「安倍一強」といわれる状況下で、左派の影響力は低下の一途であり、ネトウヨの声が大きくなり始めているという分析はわかりやすいが、実際には「左派の自滅」により、無党派層が左派を嫌悪するようになったというのが妥当なとこrであろう

 これまで述べてきたように、「ネトウト」と「ネット右翼」との間には幾許かの乖離はあるが、現在の世情をまとめると。基本的には、
① 中韓(朝)に厳しい外交姿勢であり
② 移民に厳しく
③ 国民の福利厚生の向上を優先
ということが「ネトウヨ化」の最大公約数的内容になると思われる。

 このような内容は「ナショナリズム」と親和性が高く、その意味では、政治的には「右派・保守」に位置するということでは「ウヨ」(右翼)と評されることについては一定の理由がある。欧州では上記「②」を主張する一見排外主義に見える主張を唱える党派を「極右」と称していることも影響しているのであろう。実際には排外主義というよりも、行き過ぎた経済のグローバル化によって貧困層に転落した(転落しそうになっている)中間層の反発であり、外国人排斥そのものが目的ではない(「反グローバリズム」を「排外主義」と定義するのであれば、論理的には一貫するが、それでは乱暴に過ぎる)。

 しかし、現実の政治家を指して「ネトウヨ」というに至っては、最早「ネット」とは関係がない。百歩譲っても「ネット発」の政治運動がリアルの面でも影響を及ぼしたという程度の意味でしかない。公道で行われている「リアル」のデモ行進を「ネトウヨ」と称するのは、もはや「赤い緑」という程度に矛盾している。

 また、インターネットが現代社会に不可欠な社会インフラと化している状況に鑑みれば、「ネット」と「リアル」を区別する実益はないのではないかとも思える。しかし、今後の技術の発達により(特に「VR」及び「AR」)、「リアル」と「ネット」(「サイバー」)を区別・分離する方が合理的である時代が到来するかもしれない。
民主党政権の失敗と「右傾化」する世論の中で、日本国憲法下で安倍晋三氏は初の政権返り咲きを果たした。安倍氏は政権返り咲き後の選挙でも手堅く勝利し、また、外交・内政双方とも決定的な失政がない。この結果、現時点において「安倍一強」という状況が現出しており、他党はおろか、自民党内においても対抗馬がいないといわれるくらい政権基盤は安定している。

 このような状況の中で、左派は復活の手掛かりさえ見出していない。先に述べたように、民主党の2012年の下野以降、党勢も低下の一途であり、党勢の回復を期してみんなの党や維新の一部といった「第三極」といわれた政党を吸収したとはいえ、党の支持率から見れば、合併効果は表れておらず、低落傾向は継続していると言わざるを得ない。

34キラーカーン:2017/03/07(火) 22:27:54
5.2. インターネットでの情報発信に対する既存マスコミの反発と対応
5.2.1. 総説
 21世紀に入ってブログやSNSも普及したこともあり、インターネットでの発言・表現手法も発展してきた。インターネット初期には文字情報だけであったが、現在では、文字情報のみではなく、音声、画像(静止画、動画双方)による発言・表現手段も一般化した。そのようなインターネット環境の変化に伴い、ネットでの「炎上」の主な舞台が、掲示板⇒ブログ⇒ツイッターと変化してきていることも、インターネット環境の発展の証左でもある。

 本稿との関係でいえば、「ネトウヨ」が「ネット右翼」であったインターネット黎明期(2002年より前)ほどの圧倒的存在感は失っているが、我が国におけるインターネット文化の代表的なものとして「掲示板文化」を挙げることについては異論が少ないであろう。それは、今現在においても、インターネットの代表的存在として「2ちゃんねる」の名前が挙がる事にもその影響は明らかである。

 我が国の掲示板文化の特徴として、発言が「匿名」で行われることがある。筆者がインターネット普及前に参加していたパソコン通信サービス「ニフティサーブ」の「会議室」では、「ニフティサーブ」のIDが表示されることから、当該会議室での匿名性は事実上存在しないに等しかった。

 また、我が国では、「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」による判断基準が優勢であることから、「実名」で社会的問題(特に政治問題)に関して意見を発表することによる不利益が大きく、「実名」の知名度が上がることによる利益(≒売名効果)が明白でない限り、市井の人が実名で発言する利益はまず考えられない。このことから、匿名で「本音」を語れる匿名掲示板は広く受け入れられた。掲示板からブログやSNSにインターネットでの発言手段が変化しても、「匿名性」の文化は変わることなく受け継がれている。

 そして、そのようなインターネットの特徴が既存マスコミからの「敵意」を向けられ、「インターネットvs既存マスコミ」という対立構造が生まれている。

35キラーカーン:2017/03/08(水) 22:47:13
5.2.2. 従来の言論空間との対比
5.2.2.1. 総説
 このような匿名性と双方向性というインターネット文化の二大特徴に危機感や反発を擁いたのは従来のマスコミであった。マスコミは、これまで、一般大衆(マス)向けの情報発信を事実上独占していたことから、個人でもマスコミ度同党の全世界への発信手段を持たせてくれるインターネットは、自身に対する脅威に映ったことは想像に難くない。その結果、文字情報(記事)は言うに及ばす、マスコミが報道してくれなくても、自分自身で現場から映像をインターネットで全世界に配信することが可能となった。これも、インターネットには管理者がいないことによるネット利用の「自由」がもたらしたものであった。

この結果、その中で、マスコミが掲示板に対する批判として挙げたのは、
①匿名性
②虚実ない交ぜ
、という2点であり、その結論として、「出所が明らかでなく真偽が明らかにできない」のでネット情報は信用できないとする批判が多くなった。

5.2.2.2. 掲示板文化との対比
「リアル」側からの批判を受けるまでもなく、インターネット界隈では「うそはうそであると見抜けない人は(掲示板を使うのは)難しい」という箴言が所謂ネット民の人口に膾炙していた(物理的にはディスプレイ上であり、「人口」ではないが)。このように、ネット上の情報が虚実ない交ぜである事は常識に近い認識であった 。

 とはいっても、これでだけインターネットが普及すると、そのような「偽情報」に振り回される人も多くなり、その社会的影響も大きい 。中には、そのような情報を意図的に流してその反応を楽しむ「釣り」という「いたずら」も発生し 、そのいたずらを行う人を「釣り師」と呼んだ。

 ネット配信の記事には読者がコメントをつけることが可能となっているものがある。我が国においてはJ-CASTがこの形式であるが、全国紙など、新聞社ではそのような形式になっているところは管見の限り存在しない 。外国では、有名な新聞社のサイトでもそのような仕様になっているところがあり、記者と読者との双方向性が確保されている。
我が国においては、マスコミは一般的に左派・リベラル寄りであるので、右派からの批判的なコメントがつくことが多い。その点からも、マスコミとネトウヨとの相性が悪い、或いは、それまで可視化されなかった「草の根保守」が可視化されたというだけかもしれない。

36キラーカーン:2017/03/10(金) 00:14:51
5.2.2.3. 匿名文化との対比
 「匿名性」については、日本の社会習慣も関連するため、一概に「悪」とは言えない。特に内部告発に準じるような「内幕暴露」的な内容であれば猶更である。ただ、市井の人々にとって実名でインターネット上で発言することのメリットは殆どない 。メリットがあるのは、そのような発言(≒売名行為)を行うメリットのある者に限られる。

 「実名」での議論が「匿名」での議論より優れているという言説の背景には、実名で議論を行うことにメリットを見出す者が、そうでないものに対してインターネット上の議論を有利に進めるために、自分の土俵に引きずり込むという底意が往々にして感じられる。実名での議論を申し込んで拒否されれば、その相手は「議論から逃げた」と「勝利宣言」を行うことができる。このため、既存マスコミや論壇に近い人物がネット上で議論を行う際に、「匿名は卑怯だ」、或いは、「実名を明らかにしろ」という言辞を吐くことは、リアルの肩書(社会的信用)を梃子にして議論を優位に進めようとすることにほかならず、議論そのものでは不利に陥ったことを無意識のうちに悟っていることによる「敗北宣言」として機能することが閲覧者にも感じ取れることが往々にしてある。
とはいっても、インターネットの中においても、継続的に投稿・発言を行う人が発生する。そのような人は、他者との識別のために「インターネット上のペンネーム」をつけることがある。というよりも、インターネットに投稿する際には、実名ではなく、そのような名前(ハンドルネーム )をつけることが慣例となっている。

 そして、同一ハンドルネームでのインターネット上の発言が蓄積されていくと、その発言を基にして、それらのハンドルネームに対する「ネット上の人格」が付与されていくこととなる。

 特に、インターネット上の発言は長期間にわたって消去されることなく保存され、あるいは拡散され、インターネットの中に留まる。したがって、インターネットで言論活動を行う場合は、学術論文にも匹敵する形で、(本人が忘れ去ってしまっている)「過去の発言」との整合性を不断にチェックされることとなる。

 インターネット上において、一旦、そのような「人格」が付与されると、そのハンドルネームでの発言には一定の枠が嵌められることとなる(所謂「キャラが独り歩きする」状態となり発言者自身がその「キャラ」に縛られた言動を強いられる)。
そして、元来、匿名掲示板である「2ちゃんねる」でそのようにハンドルネームを固定して発言する者(コテハン:「固定ハンドルネーム」の略)はそれ自体で尊敬されるということには、コテハンにすることにより、匿名が許される掲示板上においても「固有の人格」を形成する覚悟がある者として認められるということが背景にある。

 逆に、同一の掲示板で複数のハンドルネームを駆使して、「多重人格」を操るものは「ダブハン」(「ダブル・ハンドルネーム」の略)といわれ、「コテハン」を使用しているのにもかかわらず、コテハンの利点だけを享受し、不利益を引き受けることを拒否しているという意味でコテハンの「覚悟」のかけらもない者として一般的には軽蔑の対象となる 。

 先に述べたNC4の「内戦」の原因の一つにこの「ダブハン」問題があったといわれている。

37キラーカーン:2017/03/10(金) 23:26:50
5.2.2.4. 双方向性から誰もが発信者へ(個人とマスコミとが台頭に)
5.2.2.4.1. 双方向性の結果としての個人の報道記者(マスコミ)化
 インターネットには、インターネット全体の管理者が存在しないことは周知の事実である(企業内ネットなど個別のネットには管理者がいるが)。このため、インターネットプロバイダーに加入していれば、インターネットの利用は自由である。また、最近は技術の発展により、通信速度及び通信技術(特に動画配信)において格段の進歩を遂げ、個人が事故現場に行って、そこから撮影した動画をインターネットで全世界に中継することが可能となった。

 この時点で、大衆への情報発信はマスコミ或いは論壇の専有物ではなくなった。これまで、マスコミを通じてのみ情報発信が可能であったのが、インターネット回線への接続環境があれば、個人でも全世界に向けて情報発信することが可能となった。

 これまでは、マスコミの「編集」により自身の意図が十分に伝わらない(或いは「捻じ曲げられた」)場合であっても泣き寝入りするしかなかった一般大衆が、「実際はこうである」とマスコミの報道に対して堂々と反論することが可能となった。特に「報道しない自由」を行使されていた右派の市民活動は自身によるネット中継に活路を見出した。この点からもネットと右派との相性の良さが見受けられる。

 最近では、記者会見を自社のホームページに「ノーカット」で掲載するのが一般的になっており、国会中継もインターネット中継ではそのようなっている。マスコミがニュースで「編集」した個所そして、その編集の意図が明らかになるようになっている。これは、マスコミの「情報操作」、極論すれば、「嘘」を見抜く或いは報道被害を防ぐための道具としてインターネットが重要な役割を果たしていることを意味する。これが、マスコミと所謂ネット民との対立の構図となっている。

 有名な例では、尖閣沖での海上保安庁の巡視船と漁船との衝突事故のビデオを「流出」させる際に、マスコミではなく、「youtube」を選択したように、「事実」を発表するのに、マスコミではなく、ネットを選ぶことも見られている。このように、マスコミは「報道機関」としての信用度が目に見えて落ちてきている。

5.2.2.4.2. そして我が国のマスコミのWEB版からコメント欄が消滅した
 インターネットが普及したことにより、既存マスコミもインターネットへの対応を迫られた。当初は、既存の紙媒体のネット化による配達業務の合理化、読者からのコメント・問い合わせといったものであった。しかし、インターネットが普及し始めた時期と「歴史認識論争」の盛り上がった時期が重なっており、また、日韓W杯を巡る報道からも、マスコミの「角度をつけた記事」 に合わせた報道がインターネットを通じて市井の人々に広く共有されることとなった。

 そのような「マスコミの横暴」に対する反感・批判がコメント欄に向かうこととなった。これは、マスコミだけではなく、「ご意見聴取」という名目で掲示板が設置されていた各種団体も同じであった。本稿でいえば、先に述べた韓国民団のHPにあった掲示板がそうであった。そのような批判が多くなった掲示板は旧来の「情報の発信者(マスコミ)と受け手(市井の人々)」という「一方通行」的な関係に慣れきっており、インターネットの普及・発達によってもたらされた「双方向」ひいては「対等」という関係を理解することができず、また、耐えることもできず、そして、順応することもできなかった。

 この結果、我が国のマスコミのWEB版からは記事に対する読者からのコメント機能が消滅していった 。

38キラーカーン:2017/03/12(日) 23:32:34
5.2.3. 「オーマイニュース」の挫折
5.2.3.1. 「オーマイニュース」及び「市民記者制度」とは
ネトウヨが絡むと、マスコミとネットメディアとの関係は対立関係にあるという論調が主流であるが、ネトウヨが絡まない部分では、ネットをマスメディアとの融合・共同を模索する動きもあった。その有名な例が2006年に日本語版のサービスが開始された「オーマイニュース」である(2009年4月にサービス終了)。

 オーマイニュースはもともと韓国のニュースサイトであるが、オーマイニュースが注目されたのは、韓国発というところよりも、「市民記者」制度にあった。市民記者とは、オーマイニュースと契約した上でオーマイニュースのサイトに記事を投稿するという「ネット上の契約記者」という形態、かつ、その「市民記者」には市井の人々がなることも可能という点にあった。

5.2.3.2. 「オーマイニュース」のビジネスモデル
 このビジネスモデルが成立するためには、
①一定以上の購読者を確保するため「市民記者」の記事の質を一定レベル以上に保つ必要がある、
②その質を担保する原稿料収入を確保できる広告就任の確保、
の2点が必須であった。さもなければ、単なる時事問題の評論を主題とする個人ブログ或いは掲示板と大同小異となる。このため、オーマイニュースでは、鳥越俊太郎氏と青木理氏を編集長と副編集長に迎え、記事の質を保証する体制を構築した。しかし、広告・営業担当は最後まで存在しなかったと元オーマイニュース編集部デスクの村上和巳氏は述懐している 。

5.2.3.3. 「左傾化」した市民記者制度
 「市民記者」ということで、集まった投稿記事の7割程度が左派的な記事であったとも村上氏は述懐している 。また、鳥越氏及び青木氏は左派に属するジャーナリストであったということと、マスコミ出身ということから、サービス開始前の鳥越氏の「2ちゃんねる」敵視発言があり、所謂ネトウヨとの対決姿勢を見せていた。このため、既にネット上に確固たる勢力を築いていたネトウヨ勢とは相性が悪いということは予想されていた。また、投稿された記事の割合からも、オーマイニュース自体の論調も自然と「左傾」していった。

 サービス開始後も、記事の質はあまり上がらず、その中で、市民記者の投稿記事は左傾化した記事が多く、記事のコメント欄は炎上状態となった。そのような事態を受け、市民記者体制及びコメント欄のあり方について議論されたが、その中で編集部が出した結論は、旧来のマスコミに依拠して、拒否反応を示しただけであった 。そのことは、記事に対するコメントとの間に生ずるネット上の「混然」となった議論に対し、既存の記者と読者との分離という発想から脱却できなかったことを意味しており、「オーマイニュース」がひいては「市民記者制度」に依拠したネットメディアが破綻するまでは一本道であった。

5.2.3.4. 「市民記者制度」の終焉
 このようなに中、オーマイニュースも含め市民記者制度が我が国に根付くことはなく 、その機能は、ニュース速報としてはツイッター 、解説記事はブログ、評論はコメントという「ボランティア」の形で受け継がれている。そして、現在では、マスコミが、ツイッターなどインターネット上に投稿された記事を「後追い」して報道することも珍しくなくなっている。

39キラーカーン:2017/03/13(月) 23:53:38
5.2.4. 毎日新聞「waiwai」事件
 「WaiWai」とは毎日新聞が英語で発信していた日本紹介コンテンツであり、2000前後からWEBに掲載されるようになったものである。マスコミ系のコンテンツとしては古参に属するコンテンツといってもよいであろう。そして、日本の大手新聞社が英語で全世界に向けて日本の実情を発信する貴重なコンテンツでもあった。

 この事件は2008年4月から5月頃にかけて、「WaiWai」の記事に、およそ事実とは思えない、日本人の性癖に関する品性下劣な記事が継続して連載 されていることについて、読者から問い合わせがあり、引用元からも抗議を受けた。メディアでも取り上げられたことで表面化する 。

 毎日新聞の調査によれば、外国人ライターが、興味本位で「目立つ話題」を英訳して掲載していたとのことである。また、その記事の内容についても部内で私的されることもあったが、その時は問題視されなかったといわれている。

 しかし、国内マスコミは全くと言ってよいほど報道しなかった。ジャーナリストの佐々木俊尚氏はこの件に関する取材で「身内をかばうのではなく『次の標的は自社』という恐怖から報道することができなかった」との言葉を引き出している 。この渦中で、毎日新聞のWEB版から広告が一斉に引き上げられるという事態にまで発展した。

 この事件を巡る毎日新聞の反応も、反論する者には訴訟(今日でいう「スラップ訴訟」)も辞さないという態度を取ったり、ネットメディアに対する情報統制などネットに対して敵対的なものであった。その意味では、毎日新聞社内では「ネット君臨」に代表される「ネットはマスコミの敵」という観念が上層部にいきわたっていたことを示している 。

 余談ではあるが、これ以後、毎日新聞を指すネット上の隠語として「変態新聞」という名が定着した 。

40キラーカーン:2017/03/18(土) 00:19:21
5.2.5. 毎日新聞連載「ネット君臨」事件
 これまでに述べたような、ネット言論に対するマスコミ側の反発の一応の到達点とされるのが、毎日新聞で2007年元旦から始まった連載「ネット君臨」であった。

 内容はネットの負の側面を取り上げるものであり、ネット言論の拡散・普及に対してマスコミ側から警鐘を鳴らすものであった。このような、「反ネット」的論調について話題を呼んだが、ネット上で話題になったのは、連載第一回の記事を巡っての「匿名・実名論争」と「がんだるふ」氏に対する取材方法であった 。

 当時、毎日新聞では、「まいまいくらぶ」というブログ形式のコンテンツがあり、会員登録をした読者から投稿されたコメントも掲載されるようになっていた(筆者は会員登録をしていなかったが、コメントの閲覧は可能であった。コメントの閲覧のみであれば、会員登録を行わなくても可能であった模様)。また、「まいまいクラブ」にも「ネット君臨」の記事が掲載(転載)されていたことから、「まいまいクラブ」のコメント欄でも議論が行われていた。

 「がんだるふ」氏に対する毎日新聞側の取材状況については、「まいまいクラブ」の該当記事のコメント欄に、直接、「がんだるふ」氏本人からコメントが寄せられた 。その概要は次の通りであったとされている。

 「がんだるふ」氏は、所謂「募金詐欺」の問題で、募金主が「事実無根」の誹謗中傷にされているという視点での毎日新聞からの取材を受けた。本記事で問題となったのはであったその中で、記者が「匿名は卑怯」という方向性で記事を編集するための現地を得るための取材という意図が明白であったと「がんだるふ」氏は認識した。そのため、記者に現地を取られないよう言葉を選びながら、教師が生徒に講義するように説明した 。結果として、「がんだるふ」氏の努力は、既に確定している「筋書き」に当てはめるための才良探しであった記者の取材の前には何の意味も持たなかった。

 「5.2.3 従来の言論空間の対比」でも述べたが、ネットにおける「匿名・実名論争」は、我が国のインターネット文化を語る上で古くて新しい問題である。「2ちゃんねる」をはじめとする掲示板文化に代表される我が国のインターネット文化はこの匿名性とともに発展してきたともいっても過言ではない。それは、他国に比べて「プライバシー」の保護に鈍感な社会風土によるところが大きい。また、現実社会においても「政治と野球の話はするな」という箴言が戦後長く言われてきたことからも、このような政治(社会問題)に対して市井の人々「実名」で発言することのリスクが大きい。

 「ネット君臨」ひいては毎日新聞の幹部は、そのような社会的背景を考慮せず、記者という「実名」で社会問題を論ずることが許されている立場に依拠して、その優位を最大限に活用するために、只管「匿名は卑怯」という言説に固執していたということが読み取れた。そのような旧来のマスコミ人としての振る舞いがネット民の不興を買った。

 インターネットにおける「匿名・実名論争」は、旧来のマスコミ像とそのアンチテーゼとしての我が国のインターネット文化の特徴を巡る議論として、今後もいろいろな形で続いていくのであろう。

41キラーカーン:2017/03/19(日) 23:22:41
1.1. 「ネトウヨの時代」前史
1.1.1. 2009年の自民党下野まで(「行動する保守」運動の発生)
1.1.1.1. 総説
 小泉純一郎氏が任期満了に伴い2006年9月に総理及び自民党総裁を退任した頃から、自民党政権の安定度に陰りが見え始める。小選挙区制の導入に親和的であった小泉首相の政治スタイルと比べて、安倍氏の政治スタイルは、戦後最年少での総理就任と実年齢は若かったが、小泉氏よりは旧来の自民党政治家の「匂い」がする政治家であった 。

 2002年以後、ネットの世界では、ネット右翼(ネトウヨ)は確固たる基盤を築いた。その影響からか、リアルの世界でも、自虐史観はもとより、あからさまな北朝鮮擁護は影を潜めた。しかし、自民党政権であるのにもかかわらず、韓流を始め、マスコミの親中、親韓は続いており、ネトウヨの影響力の限界も感じさせていた。

 このようなネットとリアルとの間の「世論」の差異が可視化されたな状況の中、『嫌韓流』の出版がある程度話題になったものの、ネットだけでの活動では限界があるとする見解が浮上した 。その結果、それまではインターネット内での言論活動(掲示板等への書き込み)を主な活動としていた「ネトウヨ」の中からがネットを飛び出す人々が現れ、「行動する保守運動」としてリアルでの活動を行い始めた。

1.1.1.2. 「在特会」の誕生
 このような活動は、行動する保守運動の代表的人物であり、現「日本第一党」党首である桜井誠氏の述懐によれば、日本政府(軍)による慰安婦の「強制連行」を認めたとされる2006年の「河野談話 白紙撤回運動」が嚆矢とされている 。

 これまでにも述べてきたように、歴史認識論争では「自虐史観」と「在日朝鮮人ナショナリズム」とが共同戦線を張っていたこと、また、『嫌韓流』発売の後から、「保守運動」とは言いつつ、反共産主義・反社会主義という色彩を帯びるというよりも、「反特定アジア(中国及び南北朝鮮の3か国を指すネットスラング)」が主流となるのは当然の成り行きであった。このような流れの中で、桜井氏は2008年「在日特権に反対する日本人会」(在特会)と設立し 、現在の「日本第一党」の設立につながっている。

42御前:2017/03/20(月) 23:45:28
メディアが韓流ゴリ押ししすぎて、みんなウンザリしたのもありますね。自由競争資本主義の世の中で韓国関連を自発的に買わなくなったからといって、まさか「差別だ!」とは言いますまい。(被害者ビジネスは通用しないよ、もう)

特定の人種をDNAや血によって優劣つけるのはナチスと同じになってしまいますが、特定の国の人間の犯罪率が高ければ、「だから〇〇人はよー」と相対的に言われる傾向になるのは避けられません。それをヘイト法のような政治的介入でもって抑圧すれば、不公平感を持つ人間が増えて、早々に暴動が起きると思います。(血の気の多い大阪なんか特に)

在日問題に関して言えば、在日(元在日も含め)でも、マトモに「話ができる」例えば、鄭大均、竹田青嗣、朴炳陽、前田日明あたりの討論を、私はもっと聞きたい。

43キラーカーン:2017/03/22(水) 00:08:21
>>朴炳陽

朴炳渉(半月城)に見えて???でした

44キラーカーン:2017/03/22(水) 00:10:02
5.3.2. 民主党政権時代
5.3.2.1. 総説
 在特会の結成をはじめとする「行動する保守」の組織化と軌を一にするかのように、自民党政権が倒れ、民主党政権が発足した。
彼らにとって、中国や南北朝鮮に融和的である「リベラル」の民主党政権は敵以外の何物でもなかった。選挙結果の判明とともに、ネトウヨは雌伏の時代であることを覚悟した。マスコミも基本的にはリベラルであることから、論調は民主党に好意的であり、そのようなリベラルな流れに抗する「行動する保守」に関する記事は報道せず 、外国マスコミが報道したことから、我が国の情報を入手するために外国語の記事を読まなけれなければならないこともあった 。
 このような中で、「目立たなければ我が国のマスコミに報道されない」として、「行動する保守」の運動が過激な言動に走ることもあり、後の「ヘイトスピーチ」問題への伏線となっていった。さらに、ネット上の言論活動だけで実際に(過激)な行動を起こさない人々を「きれいごと右翼」として批判することもあった 。

45キラーカーン:2017/03/24(金) 01:03:06
5.3.2.2. フジテレビデモ事件
 民主党政権時代におけるこの種の運動として特筆すべきものは、2011年8月に行われた「フジテレビデモ」事件であろう。事件の概要は

以前から親韓的報道姿勢が目立っているフジテレビの報道姿勢に対し抗議するためフジテレビ社屋前でデモをする

というものであった。

 日韓W杯以来、所謂ネトウヨ層の間では、マスコミの中でもフジテレビが目立って親韓的傾向が強いと話題になっていた 。その中で、俳優の高岡蒼甫氏がツイッターでフジテレビの親韓的状況を批判したところ、所属事務所から解雇されたことが引き金となって、フジテレビに抗議デモを行う動きがインターネット上で盛り上がった。最初のデモは「お散歩」 と称する非公式なデモとして8月7日に行われた。

 これ以降もデモは何回か行われていたが、報道するマスコミはなかったといわれており 、デモの参加者は、デモの状況を自分自身でインターネット配信を行っていた。「自由」なインターネットを活用することにより、マスコミや論壇に独占されていた言論空間に風穴を開けることができる。これは、インターネットと「ネトウヨ」との相性が良いとされる一例であろう。

46御前:2017/03/27(月) 12:11:01
安倍明恵氏についてはメールが証拠で、辻本議員の名前が出た途端、そのメールはウソって、一体何を言ってるのかわからない民進党...

47キラーカーン:2017/03/28(火) 22:19:46
>>一体何を言ってるのかわからない

これが、この「回顧録まがい」の主題のひとつでもあります。

>>「ブーメラン」と「国家(主権)意識」の欠如を二本柱として、
>>民主党は我が国のリベラルの信用を地に貶めた
>>(実は、1990年代の「歴史認識論争」の時代からネットでは
>>ある程度知られていたことであり、それが現在ではネット以外でも
>>白日の下に曝されたと言うべきであろう)

48キラーカーン:2017/03/28(火) 22:22:10
5.4. 第二次安倍政権と左派の自壊状況
5.4.1. 総説
 民主党の政権与党としての政策は国民を満足させるものではなかった。経済は円高不況で、外交も尖閣問題や韓国の反日など中韓朝各国との緊張緩和とは程遠いものであった。そして、「アベノミクス」や「黒田バズーカ」といった大胆な金融緩和政策などによって、デフレ不況から脱しつつあるというのも安倍政権ひいては安倍総理を支持するネトウヨ層の基盤強化につながるものであった。

 そのような状況の中で、ネトウヨの代表的存在と見られていた田母神元航空幕僚長が2014年の都知事選挙に出馬し、60万票を獲得し、若年層の支持率が高かったという出口調査の結果で、ネトウヨが無視できない勢力として可視化された。

 しかし、それは、他国のように「極右政党」の躍進ではなく、ネトウヨ層が安倍政権の支持層に包含されていき、他国のような「極右政党」が壊滅に瀕しているところが我が国独自の状況であり、また、安倍総理が一人の政治家としてネトウヨ層の支持を得ているということを意味している 。

 しかし、一番大きいのは、左派の「ブーメラン」であった。民主党が政権を取ったことで、野党として自民党を批判していた言動と自身が与党として批判を受けた場合の対応が首尾一貫しておらず、自民党への批判がそのまま自身の言動への批判として跳ね返ってくることが多かった事象を指している。こうした言動は、井上達夫氏がリベラリズムの条件として挙げた「二重基準の禁止」及び「反転可能性」については敏感である事を意味している

 また、「ブーメラン」と匹敵するくらいの問題点が「国家意識」の欠如である。元来、左翼には「世界同時革命論」に代表されるように、国家(主権)意識が欠如しており、それと「自虐史観」が結びつけは、「国」は忌むべきものであるという結論まで行きつくのは然程難しくはない。その国家意識の欠如がもたらしたのが、蓮舫民進党党首の「二重国籍」問題である。

 「ブーメラン」と「国家(主権)意識」の欠如を二本柱として、民主党は我が国のリベラルの信用を地に貶めた(実は、1990年代の「歴史認識論争」の時代からネットではある程度知られていたことであり、それが現在ではネット以外でも白日の下に曝されたと言うべきであろう)。そのせいもあり、下野後の国政選挙では連戦連敗といってよい状況である。その退勢を立て直すため、第三極であった「みんなの党」や日本維新の会を吸収するも、未だに党勢回復の切っ掛けを掴めておらず、「安倍一強」という状況が続いている。

49新八:2017/03/29(水) 23:39:48
>(実は、1990年代の「歴史認識論争」の時代からネットではある程度知られていたことであり、
>それが現在ではネット以外でも白日の下に曝されたと言うべきであろう)。そのせいもあり、
>下野後の国政選挙では連戦連敗といってよい状況である。

そのハズなんですけど、私の選挙区では保革逆転してしまっているんですよね。(新潟3区)
そういう状況なので、あまりこの辺で政治談義は探りながらやっております。

50キラーカーン:2017/03/30(木) 22:40:23
>>新潟3区
といえば田中角栄、というネタもそろそろ通じなくなるのでしょう
で、局所的にはそういうのも出てしまうのは仕方がないのでしょう

51キラーカーン:2017/03/31(金) 23:54:48
5.4.2. 田母神氏都知事選出馬と意外な「善戦」(可視化された「ネトウヨ」)
5.4.2.1. 田母神氏の人物像(自衛官退官まで)
自民党が政権を奪還したことにより、「保守化(右傾化)」の潮流をとらえて、政治の世界に進出しようとする人物も出てきた。その中で、一番知名度があったのは田母神俊雄元航空幕僚長であろう。
田母神氏は防衛大を卒業し航空自衛隊に入隊した。自衛官としては優秀であり、航空自衛官としての最高位である航空幕僚長(空軍大将待遇)にまで上り詰めた。航空幕僚長時代に執筆し、「真の近現代史観」懸賞論文に応募した『日本は侵略国家であったのか』が最優秀賞を受賞したが、その内容が当時の政府見解と異なることから、航空幕僚長の重責にある者が部外に公表 する文書としては不適切 として航空幕僚長を解任 された経歴を持つ。
5.4.2.2. 都知事選出馬と選挙結果(可視化された「ネトウヨ」)
田母神氏は自衛官退官後、軍事評論家或いは保守系活動家として積極的に活動を行っていた。その中で、政治家への転身も視野に入れていたらしく、猪瀬都知事の辞任に伴う東京都知事選(2014年2月)に出馬した。当初は泡沫候補の中の一番手といった扱いであったが、石原慎太郎日本維新の会共同代表(当時)の支援を受けるなど、有力三候補(舛添要一、細川護熙、宇都宮健児)に次ぐ存在を確保し、テレビ討論でも「4人」でということもあった。

 選挙結果は60万票余りを獲得し、4位となった。当選した舛添氏の200万票余りはともかく、2位の宇都宮氏、3位の細川氏がいずれも100万票弱の得票に終わった中での60万票は「大健闘」といってよいものであった。特に、田母神氏は若年層の得票率がたかったとされている 。この結果は、これまで、「伝説の存在」といわれていたネトウヨがその姿を現したとして、マスコミに代表される「リベラル」層に衝撃を与えた 。

 しかし、その後、「自民党の右」に位置する安倍総理の安定した政権運営もあり、「自民党の右」に位置する政党の支持層が自民党に吸収されていったことも 、「安倍一強」の一因でもある。とはいっても、これらの政党はネットでの支持が一般の世論調査よりも高い傾向にあるため、その意味で「ネト」或いは「ネット」と表現するのは間違いではないのかもしれない。

5.4.2.3. 田母神氏のその後(選挙違反で有罪)
 都知事選で予想外の「善戦」をしたことで、田母神氏の政治(活動)家としての価値は高まった。丁度、安倍首相が所費税延期を理由に衆議院を解散したことから、2014年12月に衆議院総選挙が行われることとなった。田母神氏は次世代の党公認で東京12区から出馬した。東京12区は自公の選挙協力により、公明党の指定席であったことから、「行き場のない保守票」を求めて同区から立候補したものと思われる。選挙結果は立候補者4名中最下位ではあったが、2位から4位までは4万票前後で拮抗していたことから、「惨敗」とまでは言えないが、自公協力の壁は厚かったというべきであろう。

 総選挙落選後、都知事選での政治資金の扱いを巡って、田母神氏は公職選挙法違反で逮捕され、運動員に有罪判決(執行猶予付き)が下った。この結果、田母神氏の政治家としての将来は事実上立たれた状態にある。

52キラーカーン:2017/04/04(火) 23:38:38
5.4.3. 民進党(民主党)の「反転可能性」、「二重基準」への無理解
 自民党が政権に返り咲き、民主党(当時)が野党に転落した。野党に転落した民主党は、政権獲得前の「自民党に難癖をつける」という「なんでも批判」政党へ回帰した。民主党が政権を奪取する2009年より前であれば、民主党政権も「将来の希望」であったことから、そのような手法も通用したが、一度政権を奪取した後であれば、政権与党時の実績を基に野党としての言動を評価されることもまた当然な成り行きである。

 そのような変化も理解せずに、かつての野党時代のように与党批判を繰り返していることから、その批判が自身の言動にも突き刺さるという意味で、民主党の与党批判は「ブーメラン」といわれ、反転可能性或いは二重基準の禁止の観点から説得力をなくしている。

 このような姿勢は我が国の「リベラル」といわれる勢力一般にみられる傾向である 。その点からも「リベラル」は我が国の市井の人々の支持を失っており、その傾向は現在においても継続している。その結果、民主党から民進党へ「看板をかけ替え」ても、党勢が回復しない一因となっている。

 次項以下では、そのような「国家意識の欠如」及び「反転可能性及び二重基準」の禁止というリベラルの自殺行為を象徴する事例について述べることとする。

53キラーカーン:2017/04/06(木) 23:03:29
5.4.4. 蓮舫「二重国籍」問題(リベラルの「国家意識の欠如」)
5.4.4.1. 総説(政治家と国籍)
 主権国家が現在の国際社会における主役であることから、どの国家に帰属意識を持っているか(或いは持たないか)ということは、政治家及び国家公務員にとって決定的意味を持つ。我が国においては、政治家を含む国家公務員には日本国籍を有する者であることが求められている(日本国籍を含む多重国籍者であっても法律上は排除されていない)。他国の例として、米国では大統領就任資格がある者は出生によって米国国籍を取得した者に限られる。したがって、所謂移民一世は、閣僚(○○長官)州知事や大統領就任資格を持たない 。この結果、閣僚であっても大統領職の継承順位からは排除される。

 このように、政治家を含む公職を志望する者にとって国籍は決定的な意味を持つ。特に、複数の国籍を有する二重国籍(多重国籍)者が国家の最高指導者に就任する場合は、「忠誠」を尽くす国家がどの国家であるかという問題が生ずる 。即ち、「国家に忠誠を誓う」べき政治家が多重国籍である場合、「複数の国」に忠誠を誓う義務を有する多重国籍者が国家の重要政治家特に大統領や首相に就任することは、その職務遂行と多重国籍が抵触する場合が生じる。
したがって、政治家を目指す者にとっては、多重国籍である事自体が政治家として不適格であるとの烙印を押される可能性を負う(リスクがある)ことを意味する。現に、米国においては、大統領候補者や首相候補者が二重国籍である場合、不適格者とみなされ、米国以外の国籍の放棄を強いられることがある 。

 他国では、フィリピンのヤサイ外相が米国との二重国籍疑惑で同国の閣僚任命委員会が同氏の閣僚任命を否決し、事実上の解任・更迭となった。このように、国家指導者(≒閣僚級)にとって他国との多重国籍は事実上の欠格事由となることが往々にして生ずる。

5.4.4.2. 蓮舫氏の場合
 そのような、政治家と国籍との関係に無頓着であったのが民進党であり、同党党首に選出された蓮舫民進党党首代表である。この蓮舫党首の例が象徴的であるが、民主党をはじめとする我が国のリベラル・左派勢力の政治家は国家(主権)というものに対する無頓着さを隠そうとしない。時には、その無頓着さこそが「地球市民」として将来あるべき人類の姿であるという振る舞いを行う 。
閑話休題、蓮舫党首は本名を村田蓮舫である(姓が「蓮」、名が「舫」ではない)。 蓮舫党首は台湾人の父と日本人の母との間に生まれた。芸能人時代は「国際化」の時流にも乗り、その出自が有利に働いた。また、雑誌やマスコミとの対談記事などでも「台湾系」をセールスポイントとしていた。また、民主党政権時代の「事業仕分け」の仕分け人としても知名度が高かった。このため、党勢回復の切り札として、参議院議員という難点 はあるが、野党第一党党首という「影の首相」の座に蓮舫女史が党首選に擁立された。
 この党首選挙の際、芸能人時代の言動から、蓮舫女史が台湾国籍を放棄していないのではないかという疑いが浮上した。蓮舫女史が日本国籍を保持していることは疑いがない 。問題は、蓮舫女史が日本国籍を選択した際に台湾国籍(中華民国国籍)を放棄したか否かという問題である。評論家の八幡和郎氏によれば、この問題を蓮舫事務所に問い合わせた際の応答ぶりから蓮舫女史はいまだに二重国籍状態を継続していると確信したとのことである 。

 結局蓮舫女史は二重国籍であったことを認めるのであるが、それまでの説明が二転三転しており、その中には、台湾系日本人でありながら、「日本は台湾を国家承認していないので、中華人民共和国の法律によって台湾国籍は処理される」という旨の「台湾の存在をないがしろ」にする説明を行っており、その点からも、蓮舫女史の国家意識の欠如が垣間見えるものとなっていた。蓮舫女史現在に至るまで、本件の結末を説明していない。

 このように、自身の問題について説明が不十分である状態を放置したままでいるということは、与党の説明不足を責める蓮舫党首の言葉の説得力にも影を落としており、ネットでは、蓮舫党首が与党を追及するたびに「戸籍を公開しろ」という「突っ込み」が入るのが定番となっている。

54キラーカーン:2017/04/10(月) 23:07:40
5.4.5. 「日本死ね」問題と「新語・流行語大賞」
5.4.5.1. 最近の「新語・流行語大賞」の概要
 我が国の年末の風物詩として「今年の漢字」と並んで取り上げられるのが、「新語・流行語大賞」(所謂「流行語大賞」)である。流行語大賞は、当初は『現代用語の基礎知識』(自由国民社)の単独主催であったが、2004年から『現代用語の基礎知識』(自由国民社)と株式会社ユーキャンとの共催 となった。

 ここ、数年来、『現代用語の基礎知識』の編集内容が、所謂左派寄り となっていたこともあり、最近の「新語・流行語大賞」も左派の活動を宣伝する内容のものが取り上げられる傾向にある 。また、選考委員もそのような志向を隠していなかった。

 このような「左傾」した選考の例として、2014年の大賞が「集団的自衛権」及び「ダメヨ〜ダメダメ」となったことが挙げられる(2つ繋げると「集団的自衛権、ダメヨ〜ダメダメ」となる 。

55キラーカーン:2017/04/13(木) 23:29:42
5.4.5.2. 「日本死ね」問題
 安倍政権は「一億総活躍」というスローガンを掲げ、働く女性の支援にも力を入れようとしていた。その場合、両親共働きという形態が当然に予想できることから、問題となるのは、両親が仕事で家にいない間の子供(幼児)の世話は誰が行うのかということになる。

 このような問題意識から、安倍内閣としても保育所の増設(保育可能人数の増加)には力を入れてきたところであり、その効果は着実に上がっていた。しかし、景気の回復に伴い、働きに出る女性の増加に保育可能人数の増加が追い付かなくなってきており、特に首都圏において、子供を保育園に入所させられない問題(所謂「待機児童問題」)が深刻となっていた。

 このような情勢の中、あるブログで「保育園落ちた。日本死ね」との書き込みが話題になり、民進党の山尾議員がこの書き込みを基に政府の姿勢を追及した。これにマスコミも同調し、安倍政権への批判の世論を高めようとしたが、待機児童問題は地方自治体が主管となって行う施策である事から、安倍内閣に対する打撃は小さく支持率は然程下がらなかった。

 待機児童問題に関しては、そもそも、「日本死ね」が書かれたブログは匿名ブログであり、また、「言葉が汚い」ことから、国会で取り上げるべきものかという批判はあった。待機児童問題は早急に解決すべき問題であるとの認識は与野党に共通しているので、そんな言葉を使わなくても前向きな答弁を引き出すことはできる見込みがあったこともその批判の背景にあった。

5.4.5.3. 「待機児童」よりも「ネトウヨ叩き」を優先
 その騒動の中で、「日本死ね」が

安倍政権の批判の道具として待機児童問題を利用しただけであって待機児童問題の解決には関心がない

と判断され所謂ネトウヨ層からの反発を買う決定的事案が発生した。

 東京都新宿区も待機児童問題が深刻化していた。舛添東京都知事(当時)は、保育所に使いたいという新宿区の要望を断る形で、韓国学校を建設しようとしていた。元々、左派の「マッチポンプ」を疑っていたネトウヨ層は、単なる「安倍たたき」か、或いは、本当に待機児童の問題を憂いているのかの試金石として「日本死ね」を書き込んだ人に、韓国学校ではなく保育所を建設するよう(待機児童問題を主管している)都知事に陳情に行くべきだと進めたが、「日本死ね」を書き込んだ人は

嫌韓思想を押し付けるな(韓国学校のためなら「保育園落ちた」でも構わない)

という回答だった 。
 これが、「日本死ね」が目的で「待機児童」は安倍叩きのための「だし」であったとネトウヨ層の疑惑が確信に変わった瞬間であった。

 保育園に落ちただけで「日本死ね」という激烈な言葉を浴びせながら、待機児童問題を放置し、親韓一辺倒であるかのような政策を推進する都知事の姿勢には理解を示したことで、「反日」と「親韓」というネトウヨにとってはこれ以上のない「コンボ」が完成した。

 また、「日本死ね」の記事が投稿されてから、至短時間で当該ブルグ記事が所謂リベラル・左派のツイートによって「拡散」されていることからも、周到な準備の下に仕組まれた「マッチポンプ」であったのではないかという疑惑が持ち上がった。実際、2014年の解散総選挙においても、リベラル・左派の側は、「小学校四年生」という「純真な子供」を騙って安倍首相の解散に疑問を呈するという形式で、反自民の世論を高めようとした事案があった。それは、「青木大和小学四年生詐称事件」といわれるものであった。

56キラーカーン:2017/04/16(日) 00:51:44
5.4.5.4. リベラルの「自作自演」の原型(「青木大和小学四年生詐称事件」)
 ここで、リベラルによるネット発の「マッチポンプ」の前科(未遂)としての「青木大和小学四年生詐称事件」に触れなければならない。

 「青木大和小学四年生詐称事件」とは、「僕らの一歩が日本を変える」代表の青木大和氏がウェブサイトを作成し、小学四年生と偽って、安倍総理に「解散の大義」を質問するというものであった。小学四年生が急いで作ったにしては余りにも「レベルの高い」ウェブサイトであったことから、「小学四年生を騙った大人」が解散総選挙で安倍自民党の評価を下げるために「でっち上げた」という疑いが浮上した。

 そのような中、当該WEBサイトのソースコードやドメイン名取得記録などから、「僕らの一歩が日本を変える」代表の青木大和の依頼に応じ、灘高校在校中から天才プログラマとして知られていたtehu氏が党外WEBサイトを作成したことが明らかとなった。青木氏は民主党のイベントに招かれるなど民主党(当時)とつながりが深く 、また、青木氏が民主党のイベントにゲストとして呼ばれたことがあったことから、青木氏と民主党が組んだ反安倍政権世論醸成のための「マッチポンプ」という疑いが浮上した 。

 この一件については、安倍総理も「子供になりすます最も卑劣な行為」と自身のフェイスブック上で批判するまでに至った 。
 このような前科があったことからも、今回の「日本死ね」事案も「民主党或いはそのシンパによる『マッチポンプ』による安倍叩き」という疑惑の目で最初から見られた。

5.4.5.5. 「新語・流行語大賞トップテン」受賞とダブルスタンダード
 「日本死ね」は結局、年末の「新語・流行語大賞トップテン」に入り、国会で取り上げた山尾参議院議員が授賞式に出席した。過去にも、オウム真理教関連の言葉が流行語大賞の対象外となった事例もある事から、「日本死ね」の受賞には、その語調の強さから、流行語として不適切との意見が上がった 。

 その際、受賞擁護派の主張として、①強い語調でなければ問題提起にならない、②「死ね」という言葉だけではなく、文脈を読まなければならない、などといった理由が挙げられた 。
しかし、後述の「ヘイトスピーチ」規制にもつながる論点であるが、所謂ネトウヨ或いは行動保守側も同様の理由で自己の言動を正当化しており、そのことについてリベラル・左派は「死ね」という言葉は使うべきではないなどと強い批判を加えていた。このような経緯を知っている者、特にネトウヨ層にとって、この問題での「日本死ね」擁護論は典型的な「ダブルスタンダード」として批判の対象となった 。

57キラーカーン:2017/04/18(火) 23:29:12
5.4.6. 「しばき隊」とその暴力的体質
5.4.6.1. 総説(「しばき隊」とは何か)
 本稿では、リベラル・左派の市民運動が抱える「暴力性」或いは「抑圧性」を体現する象徴的な団体として、俗に「しばき隊」 といわれる集団に焦点を当て、「しばき隊」を中心「しばき隊」及び「しばき隊」が引き起こしたリンチ事件を糸口にして、現在のリベラル・左派の市民運動が抱える「暴力性」或いは「抑圧性」について述べる 。

 元来、環境保護運動と左派的市民運動とは相性が良いことは、ドイツの「緑の党」を持ち出すまでもなく、全世界的な傾向であり、我が国においても例外ではない。このため、左翼は「赤から緑」へシンボルカラーが変化したと評されることもある。

 したがって、環境保護活動としての反原発運動と左翼活動とは相性が良いのは我が国に限らず、先進国一般にみられる傾向である(但し、その国における影響度は、その国々固有の政治情勢によって異なるのはいうまでもない)。

 東日本大震災とそれに続く福島第一原発事故をきっかけとして、「しばき隊」に代表される暴力的なリベラル・左派活動団体に活気が出てきたのも、一応、その文脈でとらえることは可能である。その「運動」に便乗し、その運動体の暴力的な側面に目をつぶっていた(或いは黙認していた)。その活動をリベラル・左派知識人が支援し、はるか昔に挫折した「60年安保の再来」という「見果てぬ夢」を追っているという点もある 。

 福島第一原発の爆発事故は日本のみならず、世界中で衝撃をもって受け入れられた。この事故の結果、原子炉の中の放射線物質或いは放射線が大気中に放出され、東日本が放射能に汚染されるのではないのかとの恐怖感が広まった。暫定的ながらも、原子力安全・保安院は国際原子力事象評価尺度(INES)による事故評価の最高値は、チェルノブイリ原発事故以来のレベル7となったことによる影響もあったと推測できる。

 我が国には、第二次世界大戦の末期に、広島と長崎に原爆を投下されて以来、原子力或いは放射能に対する「アレルギー」といわれる強い拒否反応がある。さらに言えば、反原子力活動においては、(原爆だけではなく)ビキニ環礁での水爆実験でも我が国の第五福竜丸が被爆したという事例も併せて語られることも多い。そして、そのような「民族としての記憶」は映画「ゴジラ」シリーズの基本設定として現在にも影響を及ぼしている。

 そのような「原子力アレルギー」は、当然のことながら、反原発運動と親和性 が高くなる。この観点から、左派系市民運動が福島第一原発の事故を反政府活動の活性化に利用しようとするのは当然の成り行きである。

 その後、左派の市民運動家は、目標について、反原発⇒反特定秘密保護法⇒反集団的自衛権と次々と看板を掛け替え、現在は反在沖米軍、或いは反レイシズムを金看板として反政府運動を継続している。このため、これらの運動を行う主要な「活動家」は重複しているとの参加者の証言 もある。そして、実際にしばき隊も、この在沖米軍基地反対闘争を支援している。

 そして、そのような左派的市民運動から、「人権活動家」の名を騙った暴力で反対派の活動を封じ込めようとする、まさに、かつての共産主義国家やナチスドイツを彷彿とさせるような暴力的言論弾圧集団である「しばき隊」 が誕生した。そして、少なくない左派系の知識人や識者がその「暴力性」に魅せられ、現代の左派的市民運動を象徴する存在とまでになった。

 以下、現在の左派的市民運動を語る上で欠くことができない存在となった「しばき隊」について述べていくこととする。

58キラーカーン:2017/04/19(水) 22:52:07
5.4.6.2. 「しばき隊」の暴力性
 「しばき隊」という名の元となっている「しばき」の元々の意味は「(相手を物理的な)力で叩きつける」というという意味の関西弁である。このことから、「しばき隊」は本来的に暴力的傾向を有するというのは、主宰の野間氏自身も隠していない。

 現実にも、「しばき隊」及びその界隈には、そのような暴力的スタイルを実践している。沖縄に派遣された機動隊員の「土人」という暴言が話題となったが、在沖縄米軍基地反対闘争を行っている活動家には、それ以上の「暴言」や「暴力行為」を為す者も多い。実際にも在沖縄米軍基地反対闘争においては、先に挙げた「しばき隊」と密接に関係のある「男組」構成員や現地の活動家からも逮捕者を出している。

 また、ジャーナリストの安田浩一氏がしばき隊の主宰である野間氏を連れて米軍基地容認派の女性の自宅にアポなしで押しかけ、野間氏或いは「しばき隊」によるプライバシー暴き或いは「突撃」を支援・容認するかの行動をとっている。

 「しばき隊」による「暴力的威圧」として特筆すべきものとして、「しばき隊」支援者として知られている有田参議院議員の街宣車(通称「有田丸」)に「しばき隊員」が同乗して、反「しばき隊」の立場を鮮明している人士の自宅に本人不在の時間を狙って「突撃」したという疑惑が持ち上がっている (幸運にも、家族も不在だったため、実害はなかった模様である)。

 野間氏自身も、「(相手への言動は)勿論、傷つけるために言っている。それがしばき隊のスタイル」と暴力によって相手の言動を威圧・弾圧することが目的である事を隠していない 。

 「しばき隊リンチ事件」でも野間氏自身が被害者のプライバシーを暴き、また、金明秀氏が、先に述べたように、実名で被害者に対して恐喝まがいのツイートも行っている 。また、過去の事件では、野間氏が相手のプライバシーを暴露し、氏の支援者がその相手の自宅に突撃したことから、突入された相手から損害賠償請求訴訟を起こされ、野間氏は敗訴し、賠償金支払が確定した。

 また、そのような「過激な」言動により、ツイッター社からは野間氏はツイッターアカウントの凍結処分を複数回受けている。ツイッター上で話題になる人士でアカウント凍結になるのは、所謂ネトウヨよりも所謂リベラル・左派が多くなっていることも特筆すべき事項である。このような言動から、リベラル・左派は「自分自身は『正義』であり、法を無視しても許される」という遵法・規範意識の欠如に向かう傾向が強いと判断される。

 また、そのような現状から、所謂ネトウヨ層の方がリベラル・左派より遵法意識ひいては「反転可能性」や「二重基準の禁止」という「リベラル」の根本基準に敏感であると推測できる。そのような、「『ネトウヨ』が実は『リベラル』」という状況となり、昨今の我が国における「右傾化」に歯止めがかけられない状況となっている。

 このように、現状は、所謂リベラル・左派に対して厳しい状況に陥る状況になりつつある。この状況に焦りを感じた北田暁大氏をはじめとする多くの社会学者、有田芳生参議院議員など多くの「有識者」が、「しばき隊」に代表される「暴力的」スタイルが纏う「突破力」に、自身や左派系市民運動団体の市民運動家としての将来を感じ、「しばき隊」の暴力路線に賛同或いは黙認をした 。

 しかし、そのような武力革命集団と見まがうばかりの「暴力路線」に活路を見出すリベラル系の「有識者」の焦燥をあざ笑うかの如く、「しばき隊リンチ事件」の発覚後、「しばき隊」と「在特会」とが「合わせ鏡」や「どっちもどっち」ではなく「しばき隊」とそれを支援している社会学者・識者の方が「よりひどい」という論調がインターネットでは優勢になりつつある。

 少なくとも世論調査を見る限り、安倍内閣の支持率は概ね50%以上を維持しており、「安倍一強」といわれる政治状況にも変化がない。また、野党の支持率も依然として低迷している。特に、野党第一党である民進党の支持率が10%を超える気配がない。これらのことから、「しばき隊」による「暴力路線」が安倍政権に打撃を与えている、或いは無党派層を野党支持層に取り込んでいるとは言い難い状況である。

59キラーカーン:2017/04/20(木) 23:21:46
5.4.6.3. 「しばき隊」の暴力性の発露(「しばき隊リンチ事件」)
5.4.6.3.1. 総説
 このような、「反転可能性」の欠如及び「ダブルスタンダード」による傍若無人の振る舞いが、部内における暴力的私的制裁(リンチ)という醜悪かつ凄惨な形で噴出したのが、いわゆる「しばき隊リンチ事件」(旧「十三ベース事件」である。

 この事件は、発生後、加害者側の在日朝鮮人のための人権活動を支援する社会学者や弁護士を巻き込んだ在日韓国朝鮮人支援者のネットワークで長らく隠蔽されてきた。そのため、その事件の真相はおろか、実際に発生したか否かの真偽も明らかでなかったことから、ネットの中の「在日ウォッチャー」の間で都市伝説的に語られてきたものである。それが、ある週刊誌の「勇み足」的記事がきっかけとなって、世に知られ、また、細部はともかくかつて「十三ベース事件」と呼ばれた暴力事件が発生したこと自体は事実であることが確実こととなった。

 この事件が、かつて「十三ベース」事件と呼ばれていた理由は、
 ① 大阪市の十三で起きた(実際は北新地で発生)
 ② 日本赤軍の「山岳ベース」事件と同様に、彼ら運動体の暴力的性質が端的に表れた事件
とみられたことによる。

 しかし、その後、事件は十三ではなく北新地で起きたことが判明したため、現在では「十三ベース」事件ではなく、「しばき隊リンチ事件」という名称で呼ばれることが多い。この事件では、本稿でも触れた金明秀氏もリンチの隠蔽、もみ消し、矮小化に加担した人物として名前が挙げられている。

5.4.6.3.2. 事件の概要
 この事件の概要及び背景については、鹿砦社から出版された『ヘイトと暴力の連鎖 反原連-SEALDs-しばき隊-カウンター』(『紙の爆弾』2016年7月号増刊)及び『反差別と暴力の正体』(『紙の爆弾』2016年12月号増刊)に詳しい。というよりも、本件について唯一活字化された書籍である。その他に情報を収集するためには、インターネットで断片的な情報を収集しなければならない。

 詳細は『ヘイトと暴力の連鎖』及び『反差別と暴力の正体』に譲るとして、事件の内容を簡略化して述べると
① 被害者と加害者は「同志」として「レイシスト」への「カウンター」活動に参加
② 参加者Aが別の参加者が「レイシスト」団体から金銭を受領していたとの疑念を抱く
③ Aが北新地の飲み屋に呼び出される(かつては「十三」の飲み屋とされていた)
④ Aがリンチを受ける(加害者側が挑発して被害者に暴力を振るわせようとした
⑤ 加害者側が謝罪の意を示すが、後に反故にする
⑥ カウンター参加者が一斉に「B(加害者)は友達」というツイートを実施
⑦ カウンターを支援していた社会学者 などを巻き込んで隠蔽工作
⑧ 週刊誌に事件の概要が出るが、一部事実誤認 があったため謝罪記事が出る
➈ Aが加害者(複数)を不法行為で提訴(現在係争中)
というようなものである 。

60キラーカーン:2017/04/21(金) 23:17:04
5.4.6.3.3. 事件の反響とマスコミの沈黙
 運動方針を巡っての路線対立から仲間割れはよく見られることである。戦後の我が国においては、日本赤軍などの極左暴力集団が「内ゲバ」と言われた内部の武力抗争が発生し、それもあって、我が国における左翼運動は70年安保闘争前後で事実上終焉した。

 本件については在日朝鮮人に対する「暴力行為」に対する反対運動を推進していた側が、内部の路線対立から暴力事件を起こし、かつ、ツイッターを活用し暴行事件の被害者を運動体から疎外した。かつての極左暴力団体において見られた内ゲバというような双方向的なものではなく、一方的な「リンチ」或いは「いじめ」というべき行為によって、組織の方針に反対する者を精神的に追い詰め、更に事件の存在自体を隠蔽した。

 このような「仲間の人権」すら擁護することができず、あまつさえ、その後の被害者に対する言動などが「インターネット」で「全世界に公開」されているという現代社会において、そのような敵対者の人格を毀損して恥じないという「人権運動団体」にあるまじき行為をしたということで「カウンター」運動自体の正当性を疑わせるに十分なものであった。

 更に、被害者が「身の安全」のため、身に着けていた録音機に記録されていた暴行の音声の一部及び暴行を受けた直後の被害者の痛々しい顔がインターネットに「公開」されたことは、事件を知った人々に対して衝撃を与えた。それは、この「リンチ事件」が、まさに「山岳ベース」事件を元ネタにして「十三ベース」事件と称されるに足るものであった。

 事件がインターネット上で周知のものとなった後も、金明秀氏 は「(事件に関するツイートは)トータルとしてデマ」或いは「(被害者に対し)自分や彼女を守ってもらっている自覚はあるのか」というような脅迫まがいのツイートを行っていた。また、支援者が事件の隠蔽のみならず、被害者のプライバシーを暴くなど、被害者に対する「二次被害」もあり、その点からも、「人権活動家」としての資質に疑問がもたれるようになっている。

 このような「人権活動運動」の正当性に疑念を抱かせるに足る重大な暴力事件であるのにもかかわらず、活字媒体で取り上げたのは、先に挙げた鹿砦社のみであり、マスコミはおろか週刊誌でも報道されない状況となっている。この事件は、文字通り「インターネットでのみしか知ることのできない事件」となっている。

 それどころか、マスコミ及び少なくない学者や人権活動家は加害者側の人士を「現代リベラルの旗手」として、あたかも「民主主義の擁護者」として紹介している 。このような現状では、リベラル系のマスコミが、そのような「人権活動家」の暴力的側面を黙認して、マスコミの「正義」のためには、暴力弾圧のための暴力行為を働いても構わないという底意があると判断せざるを得ない。

 「しばき隊リンチ事件」のように、マスコミが好意的に取り上げた人士・団体が起こした独善的で残虐な側面についての「報道しない自由」を行使していることは、マスコミも「しばき隊」との「心中」を決意したと判断する要素となり得る。そして、このような、「マスコミにとって『都合の悪い』事件」は、インターネットを通じてのみ知ることができる。現代のように、個人がマスコミにも匹敵する発信者となり得るインターネット社会であるがゆえに表面化した事件であり、そのような社会でなければ、マスコミによってこの事件は「隠蔽」され市井の人々に周知される機会すらなかった。

 このように、インターネットによる個人の発信は、これまでの「社会の木鐸」というマスコミ像を突き崩しつつあることから、繰り返しとなるが、マスコミがネット言論を「目の敵」にする理由がある。

61キラーカーン:2017/04/26(水) 00:13:00
5.4.6.4. 「しばき隊」への左翼・リベラル勢力の暗黙の支援(「在特会」との違い)
5.4.6.4.1. 総説
 街頭で活動し、口汚く罵ることや、直接的暴力行為によって相手の言論活動を否定するという点で、「しばき隊」は「在特会」と比較されることが多い。確かに、「罵倒など強い言葉でなければマスコミに取り上げられない」に代表される両者の運動論は合わせ鏡のように相似形を描くことが多い。

 おそらく、「思想」はどうであれ、街頭でのデモ活動を行い、「汚い言葉遣い」で注目を浴び、その際、街頭で反対勢力との(物理的)衝突を排除するという目的(方針)が「在特会」と「しばき隊」双方の共通点であれば、その目的に応じて選択される「行動」面が類似してくるのは合理的な帰結である(魚とイルカとの形が「似たようなもの」になるのと同じ)。

 少なくない「保守」や「ネトウヨ」が「在特会」とは一線を画していると公言している結果(詳しくは後述)、保守やネトウヨの側からは「在特会」の運動は、「あんなものは『保守』とは異なる」という抗弁が可能であるのに対し、リベラル・左派の主流は「しばき隊」の暴力的活動を公然或いは黙示的に支持している(少なくとも、表立っての反対意見は見られない)ため、「しばき隊」の悪評によって自身の社会的影響力を消失させていくことになっていった 。

 そして、「しばき隊」の悪名が世間に広まるにつれ、「しばき隊」を公然と或いは黙示的に支持し、「しばき隊」と心中の道を選んだ所謂リベラル・左派系の政治団体や識者の言説に説得力が無くなっていくのも理の当然である。その結果、「在特会」及び「しばき隊」双方から距離を置いていた「無党派層」が反「しばき隊」、即ち「反リベラル・左派」 の側へ追いやる結果になっていくというのも当然の帰結であった。

5.4.6.4.2. 既存の「保守系知識人」の側からの批判も少なくない「在特会」
 しかし、「しばき隊」と「在特会」との間には決定的な違いがある。「在特会」は「保守の風上にも置けない」として、従来の保守系知識人・文化人・識者は、「在特会」を毛嫌いし、「在特会」と同類扱いされることを明確に拒否するという者も少なくなかった 。
 また、ネトウヨ層でも「在特会」的路線を忌避する意見がインターネット上で開陳されることも少なくない。したがって、保守・ネトウヨの主流と「在特会」との間には大きな断層があると判断できる。それは、選挙戦においても、「日本のこころを大切にする党」や「幸福実現党」といった(所謂ネトウヨ層の支持が期待できる)「自民党より右」に位置する政党・政治団体が田母神氏の「大量」得票以後、選挙で結果を出していない という点にも表れている。これらの事象から判断すると、ネトウヨ層の大部分は「安倍自民党」に吸収さているとみられる。

 勿論、これらの政党・政治団体は自民党とは別個に選挙を戦っていることから、自民党を含めた「右派」がそれらの政党・政治団体と共闘することもない。

5.4.6.4.3. 「しばき隊」と「心中」を選んだリベラル・左派
 その一方、「しばき隊」には「タレント精神科医」として知られる香山リカをはじめとする大学教授を始め、有田芳生民進党参議院議員といった政治家も公然と「しばき隊」を応援し、「しばき隊」を排除しようとはせず、逆に「仲間」或いは「同志」として受け入れた 。

 また、SEALDsのような左派系市民運動団体も、福島第一原発事故を契機とした反原発運動以来、しばき隊と良好な関係を保っている。2016年7月の東京都知事選挙でも、民進党、共産党をはじめとする野党と「しばき隊」をはじめとする左派系市民運動団体が連携して、事実上の野党統一候補を擁立したことにも表れているように、しばき隊は所謂リベラル・左派勢力に欠かせない「戦力」となっている。

 そして、マスコミはそのような左派系市民運動を支援する観点から報道することはあっても、彼らの暗部や汚点といったマイナス面(「暴言」や「暴力行為」など)については「報道しない自由」を行使し、報道されることはまずない 。
それとは逆に、朝日新聞系のAERAでは、野間氏を「新しい市民運動の旗手」として紹介し、「しばき隊」をAERAなど「リベラル」が系のメディアが支援している状況にある 。このような事情も「しばき隊」の汚点に関しては、リベラルが主流であるマスコミで報道されない一因であると推測される。

 このように、マスコミが「報道しない自由」を行使している案件について市井の人々が深く状況を知るためには、インターネットで情報を収集するしかない。この点からも、マスコミの「情報発信権の『独占』」が崩れつつあり、マスコミがインターネットを「目の敵」にしているということが実感できる。

62キラーカーン:2017/04/28(金) 00:03:48
5.4.7. SEALDs(シールズ:左派的市民運動の新しい受け皿)
5.4.7.1. SEALDsとは
 現在の日本社会において、街頭デモなど、旧来の左派的市民運動の枠組みにこだわっていては、若者を取り込むことができず、運動のさらなる拡大が望めないため、若者、特に学生の受け皿としての

 「新しい」左派的市民運動団体が求められていた。
そのような状況の中で、これまでの市民運動とは「全く関係のない」新しい学生運動の形として、マスコミやリベラル・左派(特に学者)から称賛された団体として「SEALDs」(自由と民主主義のための学生緊急行動:Students Emergency Action for Liberal Democracy-s)がある 。

 「新しい」と表現しているが、SEALDsも、その時々で焦点となっている政治問題に特化した名称に変更して現在に至っているのは「大人」の左派市民運動団体と同じである。SEALDsの運動論も、ラップを使ったりして「新しさ」や「オシャレさ」を醸し出そうとしているが、結局、旧来の左派的市民運動の運動論と「同類」のものであり、若者向けの「客寄せパンダ」或いは60年安保世代の段階サヨクの「懐旧」が生み出したものとして認知されている 。

 SEALDsは、特定秘密保護法に反対する学生団体(SASPL)が「衣替え」する形で2015年5月に結成され、2016年8月に解散した。しかし、元来が、既存の学生運動団体の衣替えで始まったこともあり、他の左派系市民運動団体の例に漏れず、SEALDsも、先に述べたように、元来は「特定秘密保護法」に反対する学生団体という形で看板を書き換えて現在も左派的市民活動を継続している。

 SEALDsのメンバーが主体となって立ち上げた実質的なSEALDs後継団体としては「REDEMOS(シンクタンク)」や「未来のための公共」といった団体がある 。その背景には、これらの「社会運動」が時の政権(≒第二次安倍政権 )に有意な影響を与えられなかったことから、その「敗北」をリセットするために名前を変えていると推測される。

63キラーカーン:2017/05/04(木) 01:13:09
5.4.7.2. 「しばき隊」との関係(密接な連携から絶縁へ)
 SEALDsは設立当初「しばき隊」と親密な関係を保っていた。そのことは、「しばき隊」の隊員などのツイートや当該ツイートに挙げられた写真や動画により明らかになっている 。また、SEALDsのメンバーと対談することになっていた小林よしのり氏は、その際のSEALDsメンバーの挙動から、「SEALDsの学生は『しばき隊』の言いなり 」という感触を得ていた 。

 この辺りは、反原連、反特定秘密保護法、反集団的自衛権行使といったこれまでの左派的市民運動で培った「市民運動」ネットワークが生きており、そのようなネットワークから有形無形の支援は受けていたのであろう 。そのような「繋がり」があったとしても、SEALDsは(既存のSASPLの「看板の掛け替え」に過ぎないとしても)これまでの市民運動と関係なく、「純粋に国家を憂うる若者」が立ち上がったとしている(主観的にはそうであったのかもしれない)。

 しかし、所謂ネトウヨ層から見れば、SEALDsの後ろには、「60年安保の夢再び」とばかりに結集した「老人」や左翼団体の影がはっきりと見えており、「その『影』を消すことすらできない」ところに、彼らの『未熟さ』を感じ取っていた 。

 しかしながら、SEALDsの設立者である奥田愛基氏は「しばき隊リンチ事件」の存在が公然となった時点で「しばき隊」とは「絶縁宣言」 をしており、その面では、他のリベラル・左派系の市民活動家とは異なり、まだ、合理的・理性的な判断ができているとの見解もネット上で散見された。

64御前:2017/05/05(金) 21:15:16
SEALDsに関して思うこと。
自分の若い頃をふり返ってみれば、スカスカのヒダリーなことを言ってたわけで、彼らを正面切って罵る気にはなれません。
まぁ、あの年頃は、しょーがないだろう思うので。
それよりも、私が嫌だと感じるのは、彼らを担ぐ大人たちの存在です。SEALDsに喜んでた学生運動OB達も、みんな付和雷同的にやってた連中ばかりでしょう。
私は、60年なり70年なり中心になってやっていた人達、例えば東大で三島由紀夫との公開討論会を企画したような人達に、もし良心があるのであれば、SEALDsの若者に語って欲しいと欲しいと思いますね。
別に後悔だの反省する必要なんかないから、何を得て何を失ったか、大人達に利用され、裏切られ、失望した経験とか、その後の人生でわかったこととか、正直に伝えるのが「総括」でもあるからです。
おそらく若い連中は聞く耳持たないと思うけど、それでも語ることに意味があると思います。

もしSEALDsが西部邁とか と公開討論するぐらいやったら、思い切り見直すのですが、あのラップのセンス見たら、それを望むのは無理か、やっぱ...
その点において、三島由紀夫と討論した学生達の言ってることは多分に観念論ではあるが、知的レベルはSEALDsより明らかに高いといわざるを得ません。また、彼らに真摯に応えている三島も、立派な大人だと思いましたね。

https://www.youtube.com/watch?v=5wLaND09VF8

65キラーカーン:2017/05/07(日) 01:31:02
>>公開討論するぐらいやったら

奥田氏は「朝生」などの番組で対談、討論をしているようですが、
ネット上での評判は芳しくないようです
(元々、ネット上でSEALsの評判はよくないですが)

小林よしのり氏との対談予定だったのが「しばき隊」の助言でキャンセルメンバーが居るようです。
(奥田氏のみが対談に参加)

奥田氏は、一橋大学の大学院へ進学できたようですが
一橋は「左」で有名なところです
(ビックスの『昭和天皇』も一橋人脈でできたような本なので
 日本語訳は「ひどい」という専らの話です。
 原文は、「左傾」しているようですが、日本語訳ほどではないらしい)

66キラーカーン:2017/05/10(水) 23:39:27
5.4.7.3. 「しばき隊」以外の左派系(特に共産党系)団体との関係

 SEALDsは既存の団体とは関係なく、学生の「自主的」運動によって立ち上げられた団体という「性格付け」がなされている。しかし、ネトウヨ層は、先に述べたように、その主張などから、学生が旧来の左派系市民運動団体と無関係というSEALDsの「性格付け」に疑問を持っていた。更に、小林よしのり氏の著作 を待つまでもなく、そのような運動にありがちな傾向として、SEALDsの背後に共産党などの既存左派系市民運動団体の影があるとの疑いを持っていた。

 共産党(系団体)との結びつきも指摘されている。例えば、SEALDsの活動日程は日本共産党機関紙の「赤旗」に掲載されていたことから、日本共産党も「友好(同志)団体」と認定していたと思われる。また、この見方を裏付けるように、メンバーの中にも民青(共産党系学生団体)のメンバーが入り込んでいたという報告もある。また、共産党系の団体の街宣車を「たまたま使っていないから」と「気軽に」借りることができ程度の親密な関係はある模様である。

 これらのことから、若者を取り込みたい共産党も含む共産党系の団体が、若者を運動に取り込む「広告塔」としてSEALDsを利用したいという意図は推測できる 。しかし、それ以上の結びつきがあるか否かについて筆者は判断する材料及び知見を持ち合わせていない。特に、SEALDs側から積極的に共産党との連携を求めていなくても、共産党やその他の左派系市民運動団体から、彼らの運動の「広告塔」的存在として連携を持ち掛けられたという仮説が成立する可能性は十分に存在する。したがって、これ以上の分析は筆者の能力を超える。

67キラーカーン:2017/05/15(月) 00:08:36
5.4.7.4. キリスト教繋がりによる左派的市民運動の広がり
SEALDsについては、先に述べた通り、その運動方針及び「街宣車の貸し出し」など関係者の関わりから、所謂左派系市民運動団体、もっと直接的にいえば、共産党、左翼団体或いは極左団体との繋がりは取りざたされていた。

 しかしながら、SEALDs自体は、左翼団体としての連携よりも、実は、直接的な人的関係から、キリスト教系団体との繋がりの方が大きいのではないかとの見解もある 。これまで、ネットなどの情報で明らかになっていることは、

① 奥田氏は全寮制のキリスト教高校)出身
② その他のSEALDs主要メンバーも奥田氏と同じ高校出身
② 出身高校は違っていても、奥田氏と同じ高校の生徒の進学先或いはキリスト教系大学

というように、SEALDs主要メンバーはキリスト教教育を通じての共通点が存在する。
奥田氏の通っていた高校は「平和教育」や「植民地支配」への反省教育に力を入れており、その点でも左派系市民運動とは親和性が高い 。また、我が国では、そのような左派系市民運動団体の中にキリスト教団体の存在が見受けられることも珍しくはなく、左派系市民運動とキリスト教団体とが連携している左派系市民運動 も見受けられる 。

 これらのことから、SEALDsそのものは、我が国におけるキリスト教と左派系市民活動との親和性の高さから生じたものであり、そもそもは共産党(系団体)とは連携するという確固たる意志はなかったのかもしれない。しかし、SEALDsの「広告塔」としての利用価値に気付いた共産党及び共産党系市民運動団体が、前節で述べたように、キリスト教系の左派的市民活動団体との「繋がり」を活かして、そもそも、キリスト教系学校の学生同士の関係で立ち上げたSEALDsへ秋波を送ったという推測も成り立ち得る。

68キラーカーン:2017/05/15(月) 22:44:30
5.4.8. 「ヘイト(スピーチ/クライム)」を巡る問題
5.4.8.1. 「ヘイトスピーチ」或いは「ヘイトクライム」とは

 「在特会」の出現以来、「差別」に代わって、反朝鮮的な言説を批判する言葉として「ヘイト(スピーチ/クライム)という語が脚光を浴びている。「ヘイトスピーチ」については明確な定義はないが、「不特定多数が属する集団に向けられる侮辱的表現」とされている 。それが、具体的な犯罪行為(障害・殺人など)を伴う場合には「ヘイトクライム」と称される。我が国では、事実上、在日朝鮮人に対する批判的な言動を指す語として使われている 。

69キラーカーン:2017/05/15(月) 22:46:59
5.4.8.2. 我が国における「ヘイトスピーチ」の特殊な用法
5.4.8.2.1. 日本において、日本人に対するヘイトスピーチは「あり得ない」のか
 本来、「ヘイトスピーチ」は「不特定多数が属する集団」に対するものとされており、集団の大小、ましてや、「ヘイトスピーチ」の対象となっている集団が多数派か少数派かという「多数派の暴力」の有無は問題とされていない。しかし、我が国においては、この問題の直接の契機が「在特会」の誕生である事から、在日朝鮮人の人権擁護運動の一環としてとらえられてきている。その影響もあり、「ヘイトスピーチ」から「在日朝鮮人から日本人に対する『ヘイトスピーチ』」を排除するため「ヘイトスピーチ」の定義に多数派(マジョリティ)から少数派(マイノリティ。事実上、在日朝鮮人)に対するもの という「条件」を付加することが一般的である。

 このため、「しばき隊リンチ事件」において加害者の在日朝鮮人が被害者の日本人に対して吐いた言辞の中に「日本人に対するヘイトスピーチ」があったとされ、ヘイトスピーチの法的規制を求める立場からは、「日本においては、多数派である日本人に対するヘイトスピーチは論理上あり得ない 」という見解が示されることも珍しくない 。

 このような議論の影響を受け、先日成立した所謂「ヘイトスピーチ規制法」も、正式な法律名が「本邦街出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」とされている。この結果、我が国におけるヘイトスピーチ規制法令も、我が国に居住する外国人(外国系日本国民を含む)の人権保護という文脈で語られ、日本人に対するヘイトスピーチという存在自体が彼らの思考の外にあった 。このため、同法では、日本人に対するヘイトスピーチは「野放し」になるとの批判を浴び、所謂ネトウヨ層からは「日本人差別法」と揶揄されることもある。

5.4.8.2.2. 英米独仏各国の状況
 しかし、元来、ヘイトスピーチの定義の中に「多数派から少数派」に対するものというものはなく、「少数派から多数派」へのヘイトスピーチも当然あり得るとされている。したがって、ヘイトスピーチに対する法的規制がある英独仏の各国では、少数派から多数派へのヘイトスピーチは当然あり得るという前提でヘイトスピーチ規制法令を運用している。

 また、ヘイトスピーチに対する法的規制がない米国においても、公民権運動が盛り上がっていた1960年代においても、少数派の表現に対してもヘイトスピーチ規制が適用されることがあり得るということについて自覚的であった。

 このようなことからも、我が国における「ヘイトスピーチ」を巡る議論は「ガラパゴス化」というべき特殊な状況となっている。

70キラーカーン:2017/05/15(月) 22:47:09

5.4.8.2.3. 日本人からの「正当な」批判を封じる道具としての「ヘイト」
 人種差別、特にユダヤ人虐殺という経験を有する欧米におけるヘイトスピーチに関する議論・現状・経緯を無視し、「多数派から少数派に対するもの『のみ』」ヘイトスピーチが成立するとの言説が我が国において広く流布しているという「特殊事情」は考察に値する。

 このことは、我が国において、外国人問題というものが、事実上在日朝鮮人問題に限られてきたことと密接に関連する。
現在に至るまで、我が国は外国人の移民受け入れに条件が厳しいということが言われている 。このため、我が国に居住する外国人は、先の大戦の敗戦を契機に日本国籍を離脱した在日朝鮮人に事実上限定されてきたという現実がある。

 そのような歴史的経緯の中で、在日朝鮮人は、「差別」を名目にして様々な要求を日本社会に突き付けてきた 。在日朝鮮人が乱暴狼藉を働く「免罪符」として「在日差別」を利用していたということも一つの事実である 。

 「2002年の衝撃」で南北朝鮮及び在日朝鮮人の「日本に対する敵意」を見せられた中で、「在特会」というような「適正国民」である在日朝鮮人は排撃すべきとする「過激派」も出現してきた。そのような状況の中、終戦後、半世紀以上が立ち、冷戦も終結した中で、「在日差別」の実体験がない世代が増えたため、従来からの「差別」や歴史認識論争の進展による「強制連行」という語が日本側からの批判を排除する「魔法の呪文」としての効力が失われつつあった。

 そのような中で、在日朝鮮人を支援する「人権活動家」が新たな「魔法の呪文」として持ち出したのが「ヘイト(スピーチ/クライム)」という語であった。

5.4.8.2.4. 「ヘイトスピーチ規制法」を巡る問題(同法は「日本人差別法」か)
 我が国のヘイトスピーチを巡る議論が、「ヘイト」とは何かから、在日朝鮮人保護のための「武器」としてどのように活用できるかという議論 に転化していったことから、「ヘイトスピーチ規制」自体が、新たな「在日特権」という議論を巻き起こした。その典型的な例として、ネット上で揶揄されたのが、先に「5.4.5 『日本死ね』問題と『新語・流行語大賞』」の節で述べたような

「日本(人)死ね」は流行語大賞だが、「朝鮮(人)死ね」は「ヘイトスピーチ」

というものであった。

 「ヘイトスピーチ」を巡る議論では「死ね」という語自体が不当という立論をしていたのにもかかわらず、「日本死ね」の流行語大賞には「問題提起」と擁護するのが左派・リベラル側の識者の一般的傾向であり、この面でも、が左派・リベラル側の識者「ダブルスタンダード」或いは「反転可能性の欠如」という井上達夫氏が指摘する「リベラル」にとっての致命的失策を犯している。

 この「日本」という概念を意図的に消去或いは無視することも所謂左派・リベラル側の人士の特徴であり、彼らの「国家意識の欠如」をも示しており、そのことは、所謂「自虐史観派」の歴史認識に対しても影を落としている 。

71御前:2017/05/16(火) 23:10:45
上瀧浩子弁護士が、こんなことツィってますよ。

「日本国内で「日本人は誰でも殺せ」との内容は、日本人という優位にある集団に対するものであり、差別にはあたらないと思います。例えば、「日本人女性をレイプしろ」との内容は日本人であることについては差別とはなりませんが女性差別であると考えます」

日本弁護士会は、キ〇ガイ極左のたまり場。

72キラーカーン:2017/05/20(土) 23:07:23
>>日本人という優位にある集団に対するものであり

在日朝鮮人の活動家である金明秀氏を筆頭に、いわゆるサヨク側では
わが国において「マジョリティ」である日本人に対する差別・ヘイト
は成立しないという解釈が支配的です。

こういう点も、「二重基準」と「反転可能性」の欠如という批判を
予め回避しようとする小手先の目くらましで何とかなると思っている
のも、なかなか趣があります

73新八:2017/05/23(火) 20:33:55
http://i.imgur.com/AGpaNhE.jpg
中核派、大坂正明が逮捕されました。
思えば、過激派の起こす事件をリアルタイムで報道されていた世代なのですが
これほどもまでに、残虐な手法で人殺しをしていたなんて、
全く知らされていませんでした。

>「日本国内で「日本人は誰でも殺せ」との内容は、
>日本人という優位にある集団に対するものであり、差別にはあたらないと思います。
>例えば、「日本人女性をレイプしろ」との内容は日本人であること
>については差別とはなりませんが女性差別であると考えます」

こんなこと平気で言えるメンタリティーの根幹を見る思いです。

74キラーカーン:2017/05/25(木) 00:18:14
5.4.8.3. 少数派からの「ヘイト」の実例(「在日医師RED事件」を中心に)

5.4.8.3.1. 在日朝鮮人の「ヘイトクライム」とみられる事件

 我が国における「ヘイトスピーチ/クライム」を巡る議論は日本人から在日朝鮮人に対する者のみが対象となっているが、逆に、在日朝鮮人から日本人に対する「ヘイトスピーチ/クライム」も最近では話題になっている。

 しかし、既に述べたように、「ヘイト(スピーチ・クライム)」は、在日朝鮮人保護の文脈で語られてきたことから、普遍的な「集団に対する名誉棄損」といったものではなく、日本人から在日朝鮮人に対して『のみ』存在するという「ガラパゴス」的な言説空間が生まれた。しかし、外国の例から見て「ヘイトスピーチ/クライム」としか表現しようのない言動は、在日朝鮮人の側からもなされている。有名な例として
① 「あなたたちが強姦して産ませた子供が在日韓国朝鮮人 」(辛淑玉女史)
② 「拉致問題の発覚で初めて堂々と『被害者となれる』チャンスが巡ってきた 」(同上)
③ 「生粋の日本人なら何人でも殺そうと思った 」(2013年5月の生野区通り魔事件)
④ 日本寺院に油をまき、文化財保護法違反等の疑いに問われた事件
⑤ 「しばき隊リンチ事件」
というものがある。

 この他に、もし実行されていたら、「典型的なヘイトクライム」となっていた「在日朝鮮人医師による日本人患者の殺人予告事件」として15年以上前の事件であるにも関わらず、現在でも折に触れて語られる事件が、次節の表題となっている「在日医師RED事件」である。

75キラーカーン:2017/05/29(月) 01:03:44
5.4.8.3.2. 「ヘイトクライム(殺人)」の予告としての「在日医師RED事件」

 この事件自体は、2001年10月、ある在日朝鮮人医師が、在日差別の復讐 として、自身の患者の中の日本人を選んで血祭りにあげることと並行して、賛同する在日朝鮮人医師も募るというものであった。

 ここまでくると、単なる犯罪(ヘイトクライム)であるのみならず、医者としての職業倫理の欠如を疑わせるものであるために、瞬く間に、インターネット上のコリアンウォッチャーの知るところと
なった。本件のあらすじは次のとおりである。
① 「在日医師RED」と名乗る者在日朝鮮人の医師が、「日本人の患者を血祭りに挙げま
 せんか」とインターネットの掲示板に書き込み
② 書き込み内容のあまりの過激さに、「正体暴き」が始まった
③ 「ハンボード」に書き込んでいる常連ではないかと疑われる
④ 並行して行われていた「リアル割」でも氏名、勤務地がほぼ特定される
⑤ 書き込んだ本人は、「なかったことにしてくれ」と恭順の書き込みを始める
⑥ 「ハンボード」で同一人物と見られる者が管理人の金明秀氏によって「出入り禁止」
 処分となる
というものであった 。

 この書き込み通り「在日医師RED」とされる医者が「日本人患者が『血祭り』にあげられた」か否かは現在となっては確認しようがない。しかし、医者という職業を悪用して殺人まで視野に入れた「ヘイトクライム」実施予告というのは、インターネット上での「犯行予告」とはいえ、当時のンターネット上のコリアンウォッチャーに与えた衝撃は大きかった。その衝撃の大きさから、15年以上たった現在においても、在日朝鮮人による「ヘイトクライム(未遂)」の金字塔として「語り継がれるべき事件」となっている。

 また、そのような「反日」的思考を持つ在日朝鮮人の「たまり場」として金明秀氏が主宰する「ハンボード」が使われていたというのも、当時の(親北朝鮮的)在日朝鮮人の中における何らかの心理的傾向を示していると思われる。

76キラーカーン:2017/05/31(水) 23:39:59
5.4.8.4. 現代の「似非同和活動」の「錦の御旗」としての「ヘイト」

 戦後、在日朝鮮人に限らず、「差別」を梃子にして自身の(不当な)要求を「強訴」まがいの方法によって貫徹するという事例が存在した。現在では、そのような活動を「似非同和活動」 と称している。これは、本来、人権問題ではないものを、「人権」、「差別」へこじつけることによって不当な利益を得るという手法である。

 現在においても、西日本、特に、近畿地方においては、部落差別に起因する同和問題が深く根を張っているといわれている 。このため、少なからぬ同和対策事業が「同和利権」と化しているともいわれている。

 その後、終戦から半世紀以上が立ち、冷戦も終結したことから、そのような経緯を知らない世代も増えた。また、「人権活動」の成果により、在日朝鮮人に対する差別は制度上存在しないといってもよい。

 逆に、所謂「在日朝鮮人」といわれる特別永住者は、公務員にでもならない限り、日韓両国で禁じられている事実上の「二重国籍」者として活動することができる。これは、日韓両国で経済活動を行う場合においてかなり有利な点となる。「ハンボード」においても、帰化せずに、引き続き特別永住許可者である理由として、「その方が日韓両国で商売を行うのに便利だから」という在日朝鮮人からの答えがあったと記憶している。

 戦後半世紀以上が立ち、在日朝鮮人に対する差別意識が低下し、在日朝鮮人を日本国民と異なった扱いをするという法的制度も撤廃された。その結果、在日朝鮮人が単に「日本に居住する朝鮮籍 、韓国籍の人」という程度の認識しかされず、「在日差別」という実態が薄れていった。

 そのような中で、「2002年の衝撃」以降、何かにつけ「魔法の呪文」よろしく「在日差別」、「植民地支配」と騒ぎ立て、批判者の言動を封じようとするのは、まさに、「似非同和行為」と同様の行為である 。

 これまでは、そのように在日朝鮮人が「差別」と騒ぎ立てれば日本国、日本国民から何らかの「譲歩」を勝ち取ることができた。しかし、「歴史認識論争」を経た「2002年の衝撃」以降、「在日タブー」の効果が目に見えて落ちた結果、南北朝鮮に対する好感度も急激に下がっていった。そして、「在特会」という正面から在日朝鮮人に敵対する団体も現れた。

 そのような「差別」という「呪文」の効力が消滅していく中で、在日朝鮮人にとっての新たな「魔法の呪文」として活用されたのは「ヘイト」であった。その流れに乗って、「ヘイトスピーチ規制法」が制定された。

 (在日)朝鮮(人)に対する批判者に対して「ヘイト」のレッテルを張り、(在日)朝鮮(人)に対する批判的言論自体を封殺しようとする端的な例が、テレビ東京の「ニュース女子」の番組で沖縄の反在沖米軍基地活動家に対する批判やその反在沖米軍基地運動を支援する南北朝鮮人に対する批判を「ヘイト」としてBPOに審査を申し立てるという動きである。

 しかし、「ヘイトスピーチ」の節でも述べたように、ヘイトスピーチ規制法の提案者である自民党の西田昌司参議院議員は、そのような「ヘイト」の乱用を「問題のすり替え」として、厳しく批判している 。また、そのような反在沖米軍基地運動への批判を「沖縄ヘイト」と称しているように、既に「ヘイト」の乱用・大安売りは始まっている。

 しかしながら、在日朝鮮人に対する批判ははじめとする左派・リベラルへの批判言論を「ヘイト」という形で封殺しようとする動きは、かつての「在日差別」の言い換えに過ぎず、根本は何ら変わっていない。この行動様式は冷戦終結後、「社会主義」が「明るい未来への呪文」としての効力を失った後、「新たな呪文」として「突如」として沸き上がった「従軍慰安婦問題」と同様である。その意味でも、「在日朝鮮人問題」と「従軍慰安婦問題」との親和性を示すものとなっており、「ヘイト」を巡る我が国の特異な状況を物語っている。

77キラーカーン:2017/06/05(月) 00:17:55
6. 「世界総ネトウヨ化」の時代?(『大統領制民主主義の失敗』?)
6.1. 総説
 現在では、オランダやフランス、スイス、オーストリアなど欧州各国で極右政党が主要政党の一角を占めている。中には、極右政党が連立与党入りした国も存在する。また、比例代表制を取っているEU議会選挙では、極右政党が所謂西側先進諸国においても一定の議席を占めている。2014年の欧州議会選挙において、G7の一角を占める英仏両国でも国民戦線(仏国)、国民党(英国)のように「極右」と呼ばれる政党が第一党となった。

 このことから、所謂西欧先進諸国であっても、そのような「極右」政党が各国の政党システムにおいて確固たる基盤を築きていていることは明らかである。とはいっても、これまではそのような「極右」勢力が議会第一党や大統領選挙で勝利して政府の長の座を手に入れられるとは思われていなかった。

 しかし、2014年の欧州議会選挙以降、英国でEU離脱の国民投票でEU離脱派が多数(2016年)となり、米国でトランプ大統領が誕生(2016年)したことで、そのような状況は根本的に変化したといわざるを得ない。所謂、西欧民主主義諸国においても「極右」勢力は政党政治における脇役ではなく、政党政治における堂々たる主役に躍り出ることとなった。

 米国のトランプ大統領誕生の余韻も冷めやらない中、続く2017年には、蘭、仏、独国での総選挙と仏国大統領選挙といったG7を含めた国政選挙が予定されている。また、政権が進退をかけた憲法改正案が否決されたイタリアでも近いうちに総選挙が行われる見込みである。

 これら、主要国の総選挙で、所謂「極右」政党は、既に「何議席獲得するか」という次元ではなく、第一党となるか否か(≒大統領或いは首相の座を掴むか)という次元の争い、即ち「政権の座」を掴むのか否かという次元の争いとなっている。

 そのような「世界総ネトウヨ化」といわんばかりの国際情勢の中で、脚光を浴びつつあるのが「分断」という言葉である。本節では、
①経済のグローバル化の勝者と敗者という「分断」が誰の目にも明らかになった
②分断の種類には「社会のアイデンティティー」と「貧富の差」という2つがある
③「リベラル」の側は分断で不利益を被る「まじめな中産階級」を無視することで分断を「なかったこと」にした
④「極右」が無視された人々に焦点を当て、「反リベラル」という「二分化」戦術を取った⑤その「二分化」は大統領制或いは議院内閣制の「大統領制化」により拡大・固定化した
⑥その結果、西欧先進諸国も「大統領制民主主義の失敗」のリスクが無視できなくなった
という仮説を提示する。

 そして、その「分断」を生じさせた「主因」であるリベラルの反対者に対する抑圧的・暴力的体質を明らかにし、将来に向けて、「分裂」を治癒する方策を考察するものである。

 また、我が国においても、そのような「大統領制化」との潮流とは無縁でなく、国政では小選挙区制の導入と内閣官房機能強化による内閣総理大臣・自民党総裁への権力集中、地方政治では地方自治体の二元代表制(≒大統領制)による「改革派首長」と議会の対立という形で現実化している。

 そのような政治制度改革と、冷戦終結後の「歴史認識論争」の結果としてのリベラルの自壊というべき状況の結果としての「ネトウヨ化」が化学反応を起こし、見通しうる将来において、我が国においてもその傾向は強まりこそすれ、弱まる気配を見せない状況である。

 すなわち、「ネトウヨ化」というのは我が国独自の政治状況ではなく、冷戦終結とそれに伴う(経済の)グローバル化を契機として先進各国で同時並行的に生じた政治的潮流であるとみなすことができる。しかし、その「ネトウヨ化」の原因及び過程については、我が国と欧米との間には違いがある。その我が国と欧米との間の「ネトウヨ化」に関する各国間の比較分析 を行うことは、我が国の「ネトウヨ化」の実態を明らかにするだけではなく、比較政治学上の知見も得られるものと考えられる。

 本章では、これまで、我が国の国内における政治現象として捉えられてきた「ネトウヨ化」というものを、世界情勢の文脈の中に位置づけ、我が国独自の現象と思われてきた「ネトウヨ化」の国際比較(の足掛かり)のための「野心的」な試みでもある。

78キラーカーン:2017/06/10(土) 01:00:23
6.2. 我が国の状況(「橋下現象」-「首長と議会との対立」)
6.2.1. 我が国の政治制度
6.2.1.1. 総説
 我が国の政治制度は、国家レベルでは議院内閣制、地方自治体レベルでは二元代表制(≒大統領制)をとっている。
国会議員選挙制度については、古くは鳩山一郎内閣で検討された小選挙区制をはじめ、いろいろ議論もされており、また、実際に変更もされてきた。しかし、地方自治体レベルでの二元代表制の特性については、これまで我が国ではあまり意識されることはなかった。

 当選者が一人という大統領(首長)選挙では「反○○」という「単一争点」による一点突破で当選する「改革派首長」が往々にして誕生する。また、小選挙区制においては、「風」によって地滑り的勝利(敗北)が発生する。

 しかし、小選挙区制が定着するにつれ、国政レベルでは小泉首相のような「敵を作り出し」、「敵か味方か」という踏み絵を迫る(1ビット脳的)政治家の人気が高まってきた。その「1ビット脳的政治」の影響は地方政治にまで及ぶようになった。地方知事隊は、戦後一貫して二元代表制であったため、制度上「1ビット脳的政治」との親和性が高い。これまでは、国政レベルが中選挙区制に基づく議院内閣制であったことと、地方政治レベルでも「相乗り知事」により「1ビット脳的政治」、ひいては二元代表制による悪影響を緩和していた。しかし、国政レベルで「1ビット脳的政治」が猛威を振るうと、二元代表制を採る地方自治体にそれを押しとどめる術は事実上なかった。

 その結果、議員の集合体である議会よりも公選による独任制(一人しか当選者が出ない)という「究極の小選挙区制」の勝者である首長への期待が高ってきた。首長選挙では、まずは「無党派」次いで「改革派」といわれる首長を輩出するようになった。このような首長は議会との対決姿勢をとる傾向があり、その結果、議会と対立して自治体の統治が停滞するという(大統領制における)分割政府の弊害が我が国においても認識されつつあるのが最近の情勢でもある。

79キラーカーン:2017/06/16(金) 00:19:41
6.2.1.2. 国家レベル
 日本国憲法の規定により、我が国は議院内閣制をとっている。このため、国会議員の選挙制度が決定的な枠割を果たすことになる。我が国は長らく「中選挙区制 」と呼ばれる選挙制度を採用してきた。

 中選挙区制とは単記投票式で選挙区定数が原則 3〜5である我が国独自の選挙区制度のことである。1925(大正14)年の普通選挙導入と同時に導入され、1993年の総選挙まで(現時点では)我が国の選挙制度では一番長く存続した。

 この選挙制度の下である政党が単独で過半数を獲得するためには、同一選挙区で複数の当選者を出す必要がある。このため、自民党は単独過半数を目標にする以上、選挙区で複数当選を目指さなければならなくなっていた。この結果、選挙区単位では、複数の自民党候補が立候補し、同じ自民党候補が「敵」として戦うことになる 。

 このため、同じ自民党に属していても、選挙区では同じ選挙区での当選を目指して「別個に」選挙戦を戦うことを強いられる。したがって、選挙においては「自民党」としてではなく、派閥単位で選挙戦を戦うこととなる。そして、派閥単位の選挙戦を勝ち抜いた国会議員は当選後も当然のように「同志的結合」を維持することとなる。その結果、派閥が選挙互助会の枠を超えて、事実上の政党として機能していた。

 その点に着目すれば、小選挙区制導入前の自民党は複数の派閥が連合した「政党連合」という色彩を持ち、自民党政権は、「単独政権」であっても「制度化された連立政権」という状態にあった。自民党単独政権が、事実上、各派閥による「連立政権」であるとの認識に立てば、自民党政権の運営において「派閥政治」や「派閥均衡人事」が幅を利かせるのも当然の結果とある。

 しかし、1993(平成4)年の総選挙による自民党の下野を契機として始められた「政治改革」で、衆議院議員の選挙制度が中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に改められた。この「政治改革」で小選挙区に配分される定数が6割を超えており 、「政治改革」の焦点が小選挙区制の導入にあったのは明らかである。

 その点では、1989年の参議院選挙における自民党の過半数割れ及び1993年の非自民連立政権(細川、羽田内閣)の樹立という「非自民連合の成功体験」を得た。それを基に、非自民側は小選挙区制導入を導入し、その結果として我が国にも二大政党制を定着させようとした。その先には、二大政党制の定着により自民党の一党優位性を終焉に持ち込むことを最終目的としていた。

 一方、自民党内部において、小選挙区制の導入は、それまでの自民党における「派閥政治」を終了させ、自民党執行部、とりわけ自民党総裁への権力集中或いは自民党代表イメージの一身専属化(自民党総裁の「大統領化」)をもたらすこととなった 。

80キラーカーン:2017/06/20(火) 00:56:36
6.2.1.3. 地方自治体レベル(二元代表制:地方自治体は「大統領制」)
6.2.1.3.1. 「与野党相乗り」知事の誕生
地方自治体においては国政レベルとは異なり、二元代表制(≒大統領制)となっている 。つまり、その気になれば、自治体の首長は「大統領」という「一国一城の主」として振る舞うことが可能である。しかし、「コンセンサス」という「和」、「根回し」或いは「空気」が重要な我が国の意思決定過程においては、「権限を振り回す」首長は余り必要とはされない。

 先に述べたように、55年体制下における自社(保守-革新)対立を経て、中選挙区制度化では一定の議席数が見込める民社党や公明党の設立という中道政党の誕生もあった。

 第一党である自民党が首長(特に知事)選挙で勝利を確実にするため、自民党と中道政党との相乗りで知事候補を推薦することが常態となっていく(俗に「自公民」 ともいわれた)。また、首長が再選を重ねるにつれ、自身の政治基盤の安定(特に議会対策)の必要上、首長は「無所属(相乗り化)」となって、各党からの支持を集める ことも珍しくなかった。

 この結果、1980年代には、自治体の首長、特に知事レベルでは「与野党相乗り」が多くなり、政党公認知事は少数となった。その点では、地方自治体の首長は議院内閣制における君主或いは大統領のような存在であることが求められ、結果として自治体の首長は一党一派に偏しないことが我が国の政治風土となった。

6.2.1.3.2. 制度的には政治改革の影響を受けなかった地方自治体
 1993年の自民党下野を契機として、小選挙区比例代表併用制が導入された国会(国政レベル)とは異なり、地方自治体では制度的には何ら変更されなかった。

 しかし、国政レベルでの制度変更は地方自治体レベルにおいてもその影響を及ぼす。そのような動きの中で与野党相乗り知事という現状を変革しようとする立候補者も現れた。そのような立候補者は政党(議会)の信任・支持とは無縁であった。

 そのような立候補者が当選すれば、「選挙で選ばれた」という正当性を主張して、議会との対立姿勢を打ち出す傾向にある。そのような知事は、政党からの支援を得ていないという観点から、まずは
 「無党派首長」 と呼ばれるようになったが、その後、議会と対立しても「改革」を実行するという公約を掲げることが多くなったことから、昨今は「改革派首長」と呼ばれることが多い。

 そのような自治体では、首長は議会の支持が得られず、議会と対峙するためには有権者の直接的な支持を自身の政治的資源とせざるを得ない 。このような議会と対立志向の首長を選出した自治体では大統領制の分割政府或いは我が国の「ねじれ国会」に見られるような政治の停滞現象が往々にして発生した。

81キラーカーン:2017/06/25(日) 00:56:20
6.2.2. 自民党の状況(派閥政治から総裁政治へ)
6.2.2.1. 小選挙区制導入への対応
6.2.2.1.1.  総説
 小選挙区制度の導入により、各選挙区で政党は1名しか公認を出せなくなった。立候補者数に関する法則(経験則)として名高いデュヴェルジェの法則(後述)によれば、小選挙区制では選挙区単位の(当選可能性のある有力)立候補者数は「2」に収斂する。その結果、衆議院(総)選挙においても「1対1」の対決の構造に持ち込み易くなった。したがって、「タイマン」が得意な政治家(「対決型」や「劇場型」政治家とも言われる)にとっては都合のよい選挙制度となった 。

 衆議院における小選挙区制の導入以前では、1989(平成元)年の参議院選挙 において、連合が(共産党を除く)野党間の橋渡し的な役割を担い、1人区での野党統一候補擁立(所謂「連合方式」)が実現した。この「連合方式」が功を奏し、1989年の参議院通常選挙で(改選議席は言うに及ばす)非改選を合わせた参議院全体においても自民党を過半数割れに追い込んだ。

 この時の経験により、全国的な「風」を起こすことができれば、小選挙区制(=1人区)の方が「政権交代」を起こす可能性が高いことが判明し 、「政権交代」を可能とする小選挙区制導入への追い風となっていた 。この与野党逆転の立役者となった「連合の会」は、その後「民主改革連合」と名前を変え、細川政権での与党となった 。
 小選挙区制の導入という点に着目すれば、(実態は派閥という「政党連合」であっても)単一政党である自民党に有利で(派閥単位での争いがあっても、党機関という一元的な候補者調整機関が存在している)、政党が乱立している(一元的な候補者調整機能のない)細川政権連立与党 には不利となる。

 実際、細川護熙総理(当時)が率いる日本新党であっても、自民党が下野することとなった1993年の選挙では、20%程度の得票率で当選圏内となる4〜5人区での当選が多く、中選挙区制の恩恵を受けた形となっていた。日本新党に限らず、中選挙区制で複数候補者を擁立する体力のないままでは、多数の会派による連立を強いられる非自民連立与党側に不利となる。この状況を脱却する根本的な解決策は小選挙区制を導入し、その「制度の力」を借りて非自民勢力を結集し二大政党制を確立することであった。

 宮沢内閣への不信任案採決を契機に自民党から飛び出て、その後の解散・総選挙で自民党を過半数割れに追い込み、55年体制成立後初の自民党の野党転落を実現させた最大の立役者ともいえる小沢一郎氏は、この選挙制度改革を梃子に政党再編を目論んでいたといわれている。

82キラーカーン:2017/06/28(水) 00:26:08
6.2.2.1.2. 派閥選挙の終焉とデュヴェルジェの法則
 一般的或いは経験則的に、単記投票制の下では、ある選挙区内における政党数又は(有力)候補者数は「選挙区定数+1」に収斂することが知られている(デュヴェルジェの法則)。我が国においても、中選挙区制における我が国の主要政党及び自民党の派閥数は「5+α」に収斂し、概ねこの法則を満たしている。

 「5」は、政党名では自民、社会、公明、民社、共産の5大政党であり、自民党の派閥では田中派、大平派、福田派、中曽根派、三木派の5大派閥である(それ以前は「8個師団」といわれる8つの派閥が鎬を削っていた )。

 「α」は政党では新自由クラブ又は社会民主連合(社民連)、自民党の派閥では中川「グループ」である 。これらは、「5」と同列には扱うことができないほど規模の差が大きい。

 このように、我が国の中選挙区制において、主要政党数がデュヴェルジェの法則が示唆する「6」とはならない理由として、
① 定数が「5」でない(定数が「3」又は「4」)選挙区が存在したこと
② 当時の自民党の派閥が中選挙区制を勝ち抜くため「党中党」として機能していたこと
③ 自民党が過半数を制するためには同一選挙区で複数候補の当選が必要
という理由が挙げられる。

 これらの理由(特に「③」)から、必然的に、選挙区単位では自民党の複数派閥が選挙戦に参入することを意味する(しかし、都市部では、自民党(系)候補が1人しか当選できない選挙区も存在した)。その結果、選挙区単位では、自民の五大派閥のいずれかと非自民四党(社公民共)の組み合わせでデュヴェルジェの法則が満たされるからと推測される。

 そのような野党(当時)自民党の事情がある一方、政権側では「7党1会派」という多数の連立与党を要する細川内閣において、連立与党をまとめ上げるには、与党を単一の政党とするのが近道である。

 中選挙区制では自民党の5大派閥の例を見るように、5〜6個の政党が最適値となるというのがデュヴェルジェの法則の予言するところである。したがって、中選挙区制のままでは、自民党の派閥のように細川政権の連立与党も5程度までしか統廃合されないということは容易に想像がつく。

 その場合、細川政権の連立与党が、将来、連立を離脱し自民党と連立を組むという可能性も否定できない(この懸念は、その後の「自社さ連立」現実のものとなった)。このため、自民党にとって代わる政党勢力の樹立のためには、自民党以外で単独過半数を目指す政党の結成、ひいては二大政党制の確立は不可能であると判断するのが合理的 である。

 この結果、選挙制度を小選挙区制にしてしまえば、「選挙互助会」であっても二大政党に収斂していくことになる。政界再編を目論む小沢一郎氏は「政権交代可能な政治改革」を旗印に小選挙区制の導入に成功する。そして、結果として、自民党と民主党との二大政党制が成立し、2009年の政権交代につながっていく。

83キラーカーン:2017/07/01(土) 01:12:08
6.2.2.2. 自民党総裁への権力集中(自民党政治の「大統領制化」)
 小選挙区制の下においては、各選挙区で自民党候補が1名に限定されることから、候補者選定に自民党執行部が関与する度合いが大きくなった。また、小選挙区制では同一選挙区で複数の自民党候補が立候補しないことから、派閥単位で選挙を戦うという意味も消滅した 。

 その結果、自民党においては、候補者の公認などにおいて、自民党の各派閥より自民党執行部とりわけ総裁(及び幹事長)への権限集中をもたらすこととなった。この点については、高村自民党副総裁(当時)も「(小選挙区制導入という)選挙制度改革のただ一つの良い点は総裁を中心に党執行部が強くなったことだけ」と自民党執行部の一員としてこの見解を裏書している 。

 小選挙区制導入への対応の結果として生じた総理・総裁への権力集中の結果、小泉氏の後を襲った安倍晋三氏及び福田康夫氏は、55年体制で形成されてきた首相(候補)と認められるための条件 を満たすことなく、「内閣の大番頭」とも「首相の女房役」ともいわれる内閣官房長官経験を足場に首相の印綬を帯びることとなった。このことは、首相(「官邸」)権力の強化、或いは日本政治の「大統領制化」というものが進行していることの証左となり、その象徴としての内閣官房長官が首相への登竜門或いは首相候補として認知されるための試金石という地位を獲得したともいえる。

 その一例として、小渕総理(当時)が倒れ、人事不省に陥った際の内閣総辞職の手続が不明瞭であったことで批判を浴びた 。この教訓として、現在では、総理大臣臨時代理の就任順位が第五位まであらかじめ定められている 。その順位は、原則(副総理が置かれていない場合)、内閣官房長官が第一位である。第二次安倍政権のように副総理が置かれている場合は副総理に次ぐ第二位となる。

 その後、「官邸主導」政治の定着及び東日本大震災時における官房長官会見による露出もあり、内閣官房長官が主要閣僚として広く認められるようになっていく。なお、官房長官だけではなく、官房副長官(副大臣又は政務次官と同格)には大臣経験者を起用することもあり、その場合「大物副長官」と言われた。

84キラーカーン:2017/07/01(土) 01:12:27
 ここで、現在との比較のため、55年体制下における自民党総裁に求められる条件を振り返ることとしたい。

 派閥政治華やかなりし当時、総理大臣(自民党総裁)として求められる条件として、一般的にいわれていたのは
① 派閥の領袖
② 主要閣僚(外相、蔵相、通産相)のうち2つ
③ 自民党三役のうち幹事長を含む2役
であった。

この条件から逆算すれば、総理・総裁「候補」として認知されるためには、
① 派閥の領袖(又は派閥の次期領袖として認知されている)
② 主要閣僚経験(財務(旧大蔵)、外務、経産(旧通産)いずれかの経験)
③ 自民党三役(特に幹事長又は政調会長)
のいずれか1つを満たすことが最低限の条件であろうと思われる。該当する職の経験数が増えれば増える程「有力候補」として認知されていく(特に政調会長と主要閣僚の両方を歴任した者は「将来の総理総裁候補」として見込みのある者である可能性が高い)。

 この3条件「すべてを満たさない(派閥領袖ではない、主要閣僚経験なし、三役経験なし)」自民党総裁経験者は、福田康夫氏の他には、小泉元首相(厚相2回)と海部元首相(文相2回)のみであった。(この他にも、3条件が「部分的」に欠けている例はあるが、全て欠けている例はない )。

 例えば、小泉総理の後の総理・総裁候補として認知され、実際に小泉総理退任後、相次いで自民党総裁となった「麻垣康三」の中で、福田康夫氏以外の3名は後者の「候補」として認知される3条件(緩和された総理・総裁のための3条件)を満たしている。特に、麻生氏は「事実上」総理・総裁のための3条件を満たしている(既に述べたように、麻生氏は外相を2期経験(内閣改造を挟んで留任)しているため)。

 その他の例でいえば、異例の状況下で総理に就任した鈴木善幸及び宇野宗佑両氏の場合でも、鈴木善幸氏は複数回の三役(総務会長 )経験があり、宇野氏には主要閣僚経験については完全に満たしていた(通産、外務両大臣の就任経験)。

 小選挙区制導入や省庁再編に伴う内閣官房及び自民党執行部の比重が増してきたこと、就中、総理・総裁の比重が増してきたことは、これまでの総理・総裁になるための「出世街道」を変化させてきている。その象徴が内閣官房長官の「重要閣僚化」である。自民党執行部への権力集中と「党高政低」といわれる状況が相まって、自民党では党総裁の比重が増す一方、小泉総裁以後の自民党執行部では、幹事長の重みが低下する傾向もみられる 。また、政府側では、内閣官房の比重が増し、その結果、内閣官房を所掌する内閣官房長官の存在感が高まってきている。

 このように、総理への権力集中により、政府が総理(兼与党(第一)党首)一人で代表されるような状態になることは、議院内閣制と雖も「大統領制化」への道を歩んでいるともいえる。

85キラーカーン:2017/07/03(月) 00:53:49
6.2.2.3. 野党時代(谷垣総裁時代)の自民党
6.2.2.3.1. 政治家としての谷垣氏
 自民党の野党時代(民主党政権時代)の自民党総裁は「麻垣康三」の中でただ一人総理・総裁の印綬を帯びていなかった谷垣氏であった。野党転落という自民党の「冬の時代」を乗り切るためには、「麻垣康三」の一人として、かねてから(総理)総裁候補として認知され、かつ、その4人の中でただ一人自民党総裁に就任していない谷垣氏を総裁に選出し、自民党の立て直しを図るべきであるというのは組織防衛上も合理的な判断である。

 谷垣氏は宏池会所属 であり、弁護士資格も有することから、一般的には「リベラル派」の政治家として語られている。谷垣氏が自民党の中では「リベラル」であること自体は間違いではないと思われる。しかし、谷垣総裁時代の自民党の政策は、(最大)与党民主党との差異を際立たせようとしたのか、自民党改憲案というような「右寄り」なものも谷垣総裁時代に策定された。

 「リベラル」といわれる谷垣氏自身も母方の祖父が影佐貞昭陸軍中将 であり、靖国神社や伊勢神宮の参拝も行っている。また、外国人参政権には消極的であり、法務大臣時代には死刑執行も命じている。このように、自民党内では「リベラル」であっても民主党的な「リベラル」とは一線を画している。

6.2.2.3.2. 自民党総裁としての谷垣氏
 谷垣氏は、(衆議院第一党ですらない)野党 という「自民党冬の時代」の総裁としてよく自民党を纏めていた。また、谷垣氏は、3年の長きにわたって主要閣僚の一角である財務大臣を務めるなど、閣僚歴も豊富であり、政治家として有能であったのは間違いない。しかし、「麻垣康三」の中で、安倍、麻生両氏ほどの「華」はなく、第二次安倍政権においても総裁経験者でありながら、法務大臣や幹事長に「甘んじている」という点も「地味な政治家」 という印象を強化する。

 谷垣氏が総裁であった野党時代の三年間、谷垣氏が期待通りに手堅く自民党を纏めている一方、政権の座に就いた民主党は、これまで述べたように、政権運営能力の未熟さをさらけ出して、国民の支持を失いつつあった。そのような民主党への支持率下落傾向の中、谷垣総裁の下で行われた2010年の参議院通常選挙において改選第一党の座を奪回した。その結果、参議院で与党が過半数を割り込むという「ねじれ国会」が再現され、自民党の意向を無視して法案が可決できる状況ではなくなった。この参議院選挙の勝利で、自民党は来るべき衆議院総選挙における政権奪回の足掛かりをつかんだ。

 このように、谷垣氏は地味な印象を与える政治家であるが、豊富な入閣歴や政調会長経験もあるように、政策に強い「有能な守りの政治家」である。谷垣氏はその能力を期待通りに発揮し、野党時代の自民党を率いる上で必要とされた自民党が耐えるべき時に党の統率を保って耐えることができた。この点は、大正時代において、原敬政友会総裁の前で「苦節十年」を耐えきった加藤高明憲政会総裁に匹敵する政治家といってよいくらいである。

 加藤高明は総理となってから、第二次大隈内閣時代の開戦外交の失敗の汚名をそそぎ、憲政会は政友会に続く政権担当可能な政党の地位を確立したが、谷垣氏は、加藤高明と異なり、総理の印綬を帯びることは(現時点まで)なく、現在、自身の自転車事故による負傷療養中であり、政治家としての復活の目途は立っていないため、首相としての谷垣氏の能力は評価することはできない。恐らく、谷垣氏は、このまま、「総理になれなかった自民党総裁」としてなお残すことになる可能性が極めて高い。

 小泉氏や安倍氏或いは麻生氏のような見かけの派手さはないが、政権奪回を目指す野党第一党総裁として求められる場面で求められる能力をしっかり発揮したという点は正当に評価されるべき政治家である。

86キラーカーン:2017/07/10(月) 00:49:08
6.2.2.4. 安倍氏の総裁返り咲きと総選挙での自民党勝利による総理返り咲き
6.2.2.4.1. 安倍氏の自民党総裁返り咲き
 2012年9月、谷垣総裁の任期満了に伴う総裁選挙が行われた。2010年の参議院選挙で改選第一党の座を奪回しており、このまま、民主党政権の支持率が低迷すれば、次の総裁任期中に行われる次期衆議院総選挙において第一党及び政権奪回も夢ではないため、この総裁選は「影の総理」に留まらず、「次の総理」を選ぶという性格も帯びていた。

 現職の谷垣総裁(当時)は、当然、再選に向けて動き出していた。しかし、執行部から石原伸晃幹事長(当時)も出馬に意欲を示しており、結果的に、石原幹事長が谷垣総裁を蹴落とす形で、宏池会ほかの支持を取り付け、谷垣総裁は出馬断念に追い込まれた 。安倍元首相も、所属派閥である町村派(清和会)の町村会長が出馬に意欲を示した中で出馬を表明し、清和会も事実上の分裂選挙となった。

 総裁選の結果、地方票300票の過半数を獲得した石破元防衛大臣が一位となったが、国会議員票も含めた総投票数の過半数に達せず、二位の安倍氏との決選投票となった。決選投票は、自民党所属国会議員のみで行われるため、国会議員票で石破氏より優位にあった安倍氏が逆転で自民党総裁の座を勝ち取り、自民党総裁に返り咲いた。一度退任した総裁が返り咲くのは自民党史上初のことである。

87キラーカーン:2017/07/10(月) 00:50:08
6.2.2.4.2. 安倍氏の政治的位置とその特質
 安倍氏は岸信介を源流とする自民党の中でも右といわれる清和会出身でもある。また、母方の祖父である岸信介氏の影響も否定していない ことから、自民党の中でも右派といわれている。

 我が国で国会議員を輩出した政党の中では、自民党が一番「右」に位置する時代が長い。このため、自民党内で「右」ということは、野党を含めた我が国の政治地図では一番右に位置することを余儀なくされるため、「極右」、と評されることも珍しくない。昨今の「ネトウヨ化」と言われる日本社会の状況もあり、自民党でも「右」に位置する安倍総理は「ネトウヨ」ともいわれることがあり 、現に現在に至るまで、左派・リベラル勢力からは「ネトウヨ総理」と称されることが少なくない。

 この結果、「河野談話」に代表される自民党の「リベラル派」には飽き足らないネトウヨ層の中でも、「自民党の右」である安倍首相であれば許容範囲である割合は高いと見受けられる。それは、「自民党の右」に位置する政党(太陽の党⇒維新(石原派)⇒次世代の党⇒日本の心を大切にする党)の党勢がジリ貧になり、現在では消滅の危機にある事もその傍証である(本来なら、これらの政党を支持する層が自民党支持へ「移行」している)。また、「反朝鮮半島」という特質を持つネトウヨ層にとって、北朝鮮による拉致問題にも尽力したという「実績」も安倍総理を支持する要因となっていると考えられる(「4.1.2.2. 安倍晋三氏を一躍小泉後継に候補に押し上げた拉致問題への対応」参照)

88キラーカーン:2017/07/10(月) 00:52:18
6.2.2.4.3. 総選挙での自民党の勝利(政権奪回)と安倍氏総理返り咲き
 安倍氏の総裁返り咲き当時、衆議院議員の任期は残り一年を切っており、近々に、政権選択選挙となる衆議院総選挙が行われることとなっていた。民主党政権は、支持率が低迷し、政権発足直後の勢いがなかった。したがって、衆議院の任期が残り1年を切ったこの時期で自民党総裁に選出されれば、遠からず行われる総選挙において衆議院第一党の座の奪回し、首相の印綬を帯びる可能性が少なくなかった。

 2012年12月に行われた総選挙で、当初の予想通り、自民党は過半数を制し3年ぶりに政権に返り咲いた。そして、自民党総裁の安倍氏は首相に指名され第二次安倍内閣が発足した。安倍氏は、日本国憲法下で総理に返り咲いた初の人物となり、日本国憲法施行前の「戦後」を含めても吉田茂 氏以来の総理返り咲きとなった。
戦前で首相に返り咲いたのは、伊藤博文、山縣有朋、松方正義、大隈重信、桂太郎、西園寺公望、山本権兵衛、若槻礼次郎及び近衛文麿の9人である。対象を組閣の大命を複数回受けた者まで広げても「鰻香内閣 」で一度は大命拝辞の憂き目にあった清浦圭吾が加わるだけである。いずれも、当時の日本政界を代表する(超)大物政治家である。

 安倍総理は、自民党内でも「右」に位置する政治家といわれているように、所謂「東京裁判史観」には批判的であり、自民党の野党時代にはそのような発言も行ってきた。安倍氏が総理に返り咲いた時点で、反安倍の左派は、「慰安婦問題の国際化」の夢再びとばかりに、安倍首相が「極右」或いは「歴史修正主義者」という国際キャンペーンをしてもらうべく、外国報道機関に対してアピールを行い、安倍首相の国際的評判を落とそうとしていた 。

 実際、安倍氏の総理返り咲き時の米国は、リベラルの民主党政権(オバマ大統領)であったこともあり、総理返り咲き直後の安倍総理に対する警戒感は強かったといわれていた。基本的にリベラルな米国マスコミもそのような論調で報道し、米国民主党政権内部でも
そのような見方が強かったとされている。

 安倍総理の「戦後レジームの見直し」という発言を捉えて、安倍総理は「歴史修正主義者」 とレッテルを張られることもある。「歴史修正主義」という語はホロコーストとの関連で注目を浴びたため、この言には親ナチという含意を帯びることとなっている。この結果、「歴史修正主義」という語は「ナチ(ス)」と同義として使われることも多く、論敵に対する「レッテル張り」として使われることが少なくない。そのため、安倍氏は、総理返り咲き当時、欧米から警戒されていたといわれている 。

 そのような中、安倍総理は長期安定政権となるとともに、着実に(特に外交分野において)実績を重ね、「戦後70年談話」、慰安婦問題の「不可逆及び完全な解決」、オバマ大統領との広島と真珠湾の相互訪問を実現させ、「戦後70年」の節目に相応しい「和解」を演出した。

89キラーカーン:2017/07/10(月) 00:52:35

 また、米国大統領選挙後は、トランプ新大統領との親密な関係等、長期安定政権を背景にして外交実績を上げつつある。その大きな転機となったのが、安倍総理訪米時の議会演説であった。
 皮肉なことに、安倍外交の「成果」はネトウヨ層からの異論も強い。特に慰安婦問題については、「慰安婦問題で、『最終的かつ不可逆』という文言が盛り込まれても韓国が合意を履行するわけがない 」とネトウヨ層から批判され、更に、合意により10億円の出資を決定したことから「韓国に妥協した」とネトウヨ層からの批判を浴びることもあった。

 第二次安倍政権は、現在のG7において一番の安定度を誇るといっても過言ではない。G7首脳で安倍氏よりも先任のオランド仏大統領、メルケル独首相の両名は2017年に選挙の洗礼を受ける。仏大統領選にはオランド大統領が不出馬のため大統領選挙後には退任する。このため、独総選挙でメルケル首相が敗北すれば、第一次安倍政権を含まなくても、安倍氏が最先任となる。

 また、岸田外相もG7の外務大臣では最先任 となっていることを活かして、少なくない外交成果を上げている安倍政権である。
このように、近年の我が国の内閣では例を見ないほどの安定度を誇る第二次安倍政権であるが、その第二次安倍政権をもってしても依然として懸案として残っているのが、中国の南シナ海・東シナ海進出、特に尖閣諸島への進出及びロシアとの北方領土問題である。また、朴槿恵韓国大統領弾劾を契機とした韓国の政情不安もあり、韓国との「不可逆かつ最終的な」解決であったはずの慰安婦問題を含め、歴史認識問題全般においても先行きが不透明となっている。

 とはいっても、国内では「安倍一強」とまで言われる状況であり、野党第一党である民進党の支持率も10%内外で低迷している。このため、このままの状況であれば、安倍氏は自民党総裁の3期9年の任期を全うし、2020年の東京オリンピックはおろか、100年以上にわたって更新されなかった我が国の総理大臣在任期間を更新することが確実視されている 。

90キラーカーン:2017/07/13(木) 23:26:45
6.2.3. 「無党派」から「維新」そして「都民ファースト」へ(「分断の固定化」)
6.2.3.1. 総説
 地方自治体レベルでは、昭和50〜60年代(1970年代後半〜1980年代)になって首長(知事、市町村長)選挙において「与野党相乗り」 が珍しくなくなった。この結果、県知事は「(共産党を除く)オール与党」ということも珍しくなくなった。このような状況であれば、国会のように「与野党対立」という構図もなく、知事と議会が大統領制下の「分割政府」のように対立関係になることもない。その結果、自治体の政治は円滑に遂行される。
 当時はオイルショック以後の「安定成長からバブル景気へ」という時期であり、また、「3割自治」といわれるように国と地方自治体との権限の差が大きかった。更には、1960年代〜70年代の「革新知事」 の時代を経て、特に都市部において、自民党の力が弱まり、所謂中道勢力(公明、民社両党)の協力を得なければ自民党と雖も知事選に勝利できないという現状もあった。

 このような経済的、制度的背景から、首長と議会との対立よりも、両者の協調によるコンセンサス方式での当該自治体の利益極大化という手法が有効とされていた時代である。この結果として「与野党相乗り」が多く、その点では争点に欠け「無風」となる知事選挙が多かった 。

 その中で、議会の支持を当てにせず、首長自身の個人的な人気を背景に、議会(政党)と独立した存在として知事の座を目指す動きがあった。このような背景を持つ「無党派首長」であるので、所謂「タレント候補」と親和性が高く、結果として「タレント首長(知事)」として一世を風靡したのもそのような背景を持つ者であった。

 しかし、1990年代頃から、「オール与党」ではない、それどころか「オール野党」という首長が誕生するようになった。そのような首長は、自治体統治を個人的人気に頼らざるを得なくなる。そのため、議会との「対立」を演出して「反議会」という観点で住民の支持を得ようとする。その結果、大統領制における「分割政府」或いは我が国の国会における「ねじれ国会」というような「決められない政治」が出現した。

 また、意図的にそのような「膠着状況」を作り出し、首長選挙を事実上の「住民投票」とすることで、その投票結果を「直近の住民の意思」として議会に押し付け、事実上、議会の意思を無視するという手法を採る首長が現れた。そのような「改革派首長」の中で、最も洗練かつ苛烈な手法を採り、「一斉の風雲児」となったのが、橋下徹元大阪府知事・大阪市長である。その系譜は小池百合子東京都知事にも引き継がれている。

91キラーカーン:2017/07/19(水) 00:37:40
6.2.3.2. 「きっかけ」としての無党派知事(青島東京都知事、横山大阪府知事)
6.2.3.2.1. 「無党派」の衝撃(1995年)
 「無党派知事」或いは現在の「改革派知事」の直接の祖先は、先に述べたとおり、青島都知事及び横山大阪府知事の両名であるとするのが、現在からの視点では妥当であろう 。

青島、横山両知事もタレントしての知名度を生かし、全国区時代の参議院で政治家生活を開始した「著名なタレント議員」として政党や派閥といった組織に依存しない「個人票」を持つという共通点を持つ 。また、両者とも、知事選挙への出馬に際しては、現状の都政、府政への「異議申し立て」として立候補した経緯があり、議会の支援は受けないというよりも得られなかった状態で知事選への出馬を表明した(政党推薦の知事候補が彼らとは別に立候補した)。

 当時(1995年当時)、東京及び大阪両知事選は統一地方選挙の一環として行われていた。このため、当然のことながら、我が国を代表する二大都市圏である東京及び大阪両知事選は統一地方選挙の「目玉」であり、その結果は「政権の中間評価」 として国政へ与える影響が無視できないものであった。

その1995年の統一地方選挙で、東京と大阪の「二都」で、同時に政党推薦候補を破り、政党の支持を得られなかった「無党派」の知事が誕生したことは、政界のみならず、一般社会にも大きな影響を与えた。その影響度の大きさから、「無党派」という語が「流行語大賞」の年間大賞に選ばれた。この時、政党或いは議会と無関係の「アウトサイダー 」が首長となった場合の自治体における「二元代表制」の有効性について日本国憲法体制が試されることとなった。

6.2.3.2.2. 当選後の青島、横山両知事
 このような立候補〜選挙戦の経緯から、青島、横山両知事とも当選後の議会との関係は良好とはいえなかった。青島都知事はすでに秒読み段階に入っていた「世界都市博覧会」を「ドタキャン」に近い形で中止し、横山府知事は大阪府の財政赤字に苦しんでおり、その課題を解決するために議会との関係構築に労力を割いた。

 青島都知事は都市博中止後、議会との対立から目立った実績が残せず、一般的には「選挙に一番強い 」ともいわれる二期目の出馬断念に追い込まれた。横山府知事は対照的に、財政再建などで一定の成果もあげ、ボケ役として名声を築いた「タレントとしてのキャラ」もよい方向に作用し、議会との関係構築に成功した。元々府民からの人気も高かった横山府知事は再選時には、圧倒的な人気を誇り、共産党を除く既成政党が軒並み「不戦敗」に追い込まれ 、信任投票的な選挙戦で再選を果たした 。

 いずれにせよ、現在の、(既成)政党に支持基盤を置かず、個人的な人気を頼りに自治体統治を行っていく「改革派首長」或いは「劇場型首長」といわれる政治家の原型は青島都知事、横山大阪府知事の両名に求めることは妥当であると考える。

92キラーカーン:2017/07/19(水) 00:39:11
6.2.3.3. 「改革派知事」への変化(田中康夫長野県知事)
 青島及び横山両知事が無残な形で知事の座から去り、「無党派知事」も政治改革のあだ花となるかと思われたが、「二元代表制」あるいは「議会とのしがらみがない」ということを活かして、首長の立場で(旧体制の代表である)議会と対立しながら地方政治を改革するという「改革派知事(首長)」 という形で無党派知事は再生を果たした。そのような議会或いは既成政党との対立姿勢を明確にした首長は田中康夫長野県知事(当時)が嚆矢とされる。

 政治家或いは政治運動家としての田中氏の出発点は神戸空港建設反対運動といわれている。その際の運動手法は政党に頼らない署名運動であり、その手法に共鳴した人々の要請を受けて、小学校から高校までを過ごした長野県知事選挙に出馬することとなった。選挙戦では、(共産党を除く)与野党相乗りの候補を破り当選したという点も、青島、横山両知事を彷彿とさせるものであった。

 知事としての田中知事の施策は
① 公共事業の削減
② 県職員(公務員)の削減と民間人の登用
③ 住民集会など「直接民主主義」的手法の採用
というものであり、これらの手法は、国政、地方政治問わず、「改革派」といわれる政党、政治家が常用する手段となっていく。

 これらの手法は、「税金の無駄遣い」や「住民の声を直接聞く」という住民の支持を得るための「定番」といってもよい政策パッケージであるため、就任当初は田中知事の支持率が高かった。そのため、議会との対立が深刻化し、知事不信任案が可決を受けての知事選挙でも当選することができ、4年後でも再選できたということも、首長の選挙は再選時(し就任4年後)が一番強いという経験則を補強する。

 しかし、個人的人気に頼る政治手法は、一歩間違うと批判を許さない独善的な政治手法へとなり民衆の支持が離れ、最終的には権力者の座から追われる事例も、古今東西少なくない。田中知事も、その例に漏れず、三選出馬時には共産党以外の政党が田中知事から離れていった。その結果、三選は果たせず、知事の座を追われることとなった。

 田中氏は、その後、長野県知事時代に立ち上げた「新党日本」代表として国政に転出した。田中氏は、既成政党には属さず、自身が設立した「個人商店」的政党である「新党日本」所属議員 として活動したということにも、「個人の人気」に頼る政治手法の限界が垣間見える。

93キラーカーン:2017/07/21(金) 00:24:56
6.2.3.4. 二元代表制のリスクの現実化-鹿児島県阿久根市
 21世紀を目前にして青島、横山両知事が自治体政治の表舞台から退場し、田中知事も国政へ転身し国会議員の中に埋没した。その後、議会や既成政党の支援と無縁な「無党派」の衣鉢を継ぐ首長はしばらく出現しなかった

 青島、横山、田中と続く首長(知事)と議会との対立による政治停滞のリスクは認識され始めていたが、現実のものとはなっていなかった。その、二元代表制のリスクが現実のものとなったのは都道府県ではなく、市町村のレベルであった。その場所は鹿児島県阿久根市であった。阿久根氏は、市政刷新を掲げる竹原信一市長(2008年当選)と市議会との対立が表面化しつつあった。市政刷新のためには市議会との対決姿勢が必要であるとの竹原市長の政治姿勢によって市長と市議会の対立が引きこされた 。

 この結果、阿久根市政は市長不信任による市議会解散と再不信任による市長選挙 、或いは、市議会を開会せず、「閉会中」を理由とした市長の専決処分(議会の同意を得ない首長の決定)の乱発により、市長派と反市長派との対立の中、市政が停滞した。

 阿久根市の場合は、結局、市長選挙と議会選挙との応酬の結果、2011年の市長選での竹原市長の退場という形で決着した。しかし、公選首長が、その「民意」を背景に持てる権限を発揮すれば、少なくとも議会の「思い通りにはならない」ことが証明され、自治体の統治が停滞することが明らかになったのであった。

94キラーカーン:2017/07/22(土) 00:53:41
6.2.3.5. 「最終形態」としての「橋下維新」(「大統領民主主義」の失敗)
6.2.3.5.1. 総説
「無党派知事」といわれたように、青島都知事や横山府知事は、主要政党からの支持・支援を得られなかったが、両知事とも議会との対立ありきではなかった。勿論、選挙戦の経緯から議会の支持を得るのは、それまでの「相乗り知事」に比べれば困難であったとは思われるが、両知事は自身の個人的人気を交渉資源としつつ議会との妥協点を見つけようと模索はしていた。特に横山府知事は就任後も個人的人気が高かったことから、「ノックのいうことなら」という体裁で、議会との妥協も成立していた(その結果が、横山府知事の再選時における共産党以外「不戦敗」という空前絶後の「大金字塔」である)。

 しかし、橋下氏に代表される最近の首長は、意図的に議会を「既得権益の団業集団」として「敵」として認定し、首長対議会という対立構造を作り出し、「善玉(首長)対悪玉(議会)」の構図を作り出そうとしている。そして、そのようか形で作り出した「構図」により、「反議会」という形で、自身への支持を調達し、首長の権限により、議会の意思を無視する「正当性」を調達しようとしている。

 そして、そのような構図は「敵と味方」の分断を固定化し、その決着或いは安定状態は、どちらか片方の消滅によってしかありえないという結末を導きやすい。 その2派による「仁義なき戦い」を引き起こし、合議制を基盤とする民主政治とは相性が悪い。

 また、独任制の首長と合議制の議会とでは、意見の集約・決定に要する時間が決定的に異なる。というよりも、「独任制」の首長に「合議」は存在しない。このため、迅速な決定ができる首長側の方が「対決」の争点設定のイニシアティブを執り易い。また、二元代表制では、首長選挙により全ての選択肢が首長個人に集約される。このことから、「○×式」の単独争点型で」、二者択一を迫る手法は、(合議・熟議を旨とする議会よりも)独任制の首長とも親和性が高い。このため、機会をとらえて、住民投票や自身の辞任による首長選挙に訴えかけるという誘因が存在する。

 Jリンスをはじめとする政治学者が主張するように 、米国と同じく大統領制を採用している南米諸国では、クーデター等により民主政治の中断を経験している。大統領権力を巡って「敵か味方か」に国民を二分する大統領制と個人的野心・利益追求が結びつけば、国全体が大統領派と反大統領派との間で「仁義なき戦い」という状態となる。そうなれば、敵対勢力への暴力的弾圧から壊滅という手段の行使につながりやすい。その結果、国民との間の亀裂を増幅・修復不可能までに確固たるものとなってしまうため、民主的手段ではなく「暴力的手段」による政権交代への誘因が存在するというリスクが大統領制には存在するといわれている 。

 本節では、
① 平成の初期に出現した旧来の政治構造と異なる「アウトサイダー」として現れた「無党派(知事)」から議会との対立構図を演出する「劇場型首長」への「発展」
② 小選挙区制導入をなどの「政治改革」が、地方自治体の二元代表制に対してどのような影響を及ぼし、その「(現時点での)最終形態」である橋下徹氏に至ったのか

について、簡単な考察を試みる。

 最後に、橋下氏は「右」や「ネトウヨ層の受け皿」とされることがあるが、政治家としての橋下氏の姿勢は、「如何にして首長として『権力』を握るか」ということが最重要目的である。この点から見ても、橋下氏は基本的に「ノンポリ」であり、自身が権力を握るためであれば誰とでも連携するし、誰でも「敵認定」する。小池都知事に対するツイートも維新と支持者層が競合するが故の「主導権争い」と見れば分かり易い。その一端を慰安婦問題や桜井誠在特会会長(当時)との討論を通じて、明らかにしたい。

95キラーカーン:2017/07/24(月) 00:41:05
6.2.3.5.2. 「橋下維新」による大阪支配と分断の固定化
6.2.3.5.2.1. 総説
 国政レベルでの小選挙区制導入による自民党総裁への権力集中、地方自治体レベルでの「無党派・改革派首長」という1990年代以降の我が国の政治潮流は、内閣総理大臣及び首長の「大統領制化」(≒議会との対立と均衡)という点では共鳴し合う部分があった。そして、議院内閣制と小選挙区制の下で議会の絶対多数を掌握した執政府の長(首相及び首長)の一身に集中する権限の強さは、まさに「大統領制化」と表現するにふさわしいものである。

 このような二元代表制の利害得失を知り尽くし、「大統領制化」の流れに乗り、自身の首長としての権力を極大化させ、政界でも一代の風雲児となったのが、橋下徹元大阪府知事、大阪市長である。橋下氏は、天性の「討論の強さ」があり、首長(個人商店主)向けの資質を持った人物である 。

 橋下氏は、「反○○」で民衆の支持を集め、それを背景に相手の「殲滅」を図るという政治手法を常用した。そして、その支持を背景に権力を自身に集中させた。そのため、彼らの政治手法は「対決する政治」或いは「劇場型政治」と表現されるようになった。
橋下氏の手法が、それまでの「無党派・改革派首長」と決定的に異なるのは、自身が中心となって与党を結成し、議会多数派を占めることを最終目的とした点であり、そのことによって、首長絶対優位の政治状況を現出させようとしたことである。それは、国政レベルで「郵政解散」により絶対多数を握り、自身の権力基盤を確固たるものとした小泉首相と重なる部分が多い。

 国政レベルでの「決められる政治」を求めた「政治改革」を二元代表制の下で追及する橋下氏の政治手法の一環として「維新」対「反維新」の分断が固定化され、後者が前者に殲滅されようとしているのが現在の大阪の政治状況である。

96キラーカーン:2017/07/24(月) 01:00:32
6.2.3.5.2.2. 橋下氏の政治手法
橋下氏の政治手法は箇条書きにすれば
① 「敵」を作り出す
② 作り出した「敵」への住民の憎悪を煽る
③ 「敵」を倒すために首長である自分に「民意」という「全権委任」を求める
④ その「全権委任」によって、敵を滅ぼす
⑤ 滅ぼした敵の権限は橋下氏が握り、「全権委任」として「裁量」最大限に拡大
というものである

 まさに「敵か味方か」、「敵は滅ぼさなければならない」という政治手法を採り、敵を打破して獲得した権限は橋下氏が独占して行使するという、「弱肉強食」、「勝者総取り」の政治手法である 。そのような政治手法を否定した(敗者の円満な退場と「敗者復活」の機会を与える)上に成立している現代の政治手法にはそぐわない のは火を見るより明らかである(特に比例代表制を採っている場合、現在の社民党や共産党のように、少数会派の「完全殲滅」は困難である)。

 橋下氏は「民衆の興味は長続きしない」、「(損切のうまさ(損得勘定のうまさ)」を二大特徴とする政治家である。前者については、まず、「派手な政策」打ち上げる。そして、実際は裁判闘争なので、「取り消し処分」や「間違い」となることが多いのだが、
① その決定は年単位の時間を要する
② その決定は、最初に打ち上げた程には大きく取り上げられない
③ 決定がなされたころには民衆の注目度が消滅しているか小さくなっている
④ 「嘘」をつくコストの方が「嘘を暴く」コストより格段に小さい
 (「嘘をついたもの(逃げ切り)勝ち」ということが往々にして生ずる)
という理由により、自身間違いが「隠蔽される」ということを熟知している。

 また、「損切のうまさ」とは、
① 自身にとって本質的でない部分での不祥事はさっさと認める
② 後に尾を引かない形で「大げさに謝罪する」
という手法で、それ以上の追及を避ける。
これは、先の「長続きしない」とも関連するが、一度「大げさに」謝罪すれば、それ以上追及するほどの「持続力」を民衆は持っていないということを逆手に取った手法である。したがって、継続的に「燃料」を投下して、民衆の興味を長期間継続させないためにも、「最初に」、「大げさ」に謝罪することは必要となる。それと、橋下氏自身の「弁舌のうまさ」とが相まって、自身の失政を追及されない一因となっている。

 その、「橋下的」政治手法の最たるものが「再選を目指さない」というものである。
橋下氏は政治家になるということは「権限を行使する」こと自体が目的であり、そのためには嘘をついても構わないということは公言してきたことである 。そして、その「嘘」が露見しないために、「短期決戦」で民衆の目先を変えるという手法を採っている。その「短期決戦」と公開討論というのは相性が良い(限られた討論時間の中で「嘘」がばれなければそれで「勝ち」である。討論終了後に「嘘」が明らかになっても意味がない。また、嘘をつくよりも嘘を暴く方が多大な労力及び時間を要するという点も、時間が限られた「公開討論」の中では、「嘘をつく」側にとって有利に働く。

 このことから導き出されるのは、「再選を目指さない」ということである。他の政治家とは異なり、再選を目指すということは政治家としての橋下氏にとって「自殺行為」となる。また、再選を目指さない(少なくとも、再選ありきではない)態度は、「権力に恬淡」としているという印象を与え、「利権とは無縁で清潔」な政治家であるとの印象も与えるという効果もある。そのため、大阪府知事或いは大阪市長としても再選への出馬はしていない(大阪府知事は自身の大阪市長選への出馬という「突発事情」もあるが)。

 橋下氏にとって、政治は、自身の権力欲を満たす「おもちゃ」であり、1期4年もやれば飽きもするし、長くなればなるほど、首長として過去の言動との整合性を常に問われることとなる。つまり、再選を重ねる程「嘘」はつきにくくなる。そのため、住民投票での「大阪都構想」の否決を理由として再選出馬を諦め、「余力を持った形」で退陣した。そのため、橋下氏は「法律顧問」として現在でも大阪維新の会で隠然たる影響力を保っており、「復帰待望論」も根強い。

97キラーカーン:2017/07/26(水) 00:51:09
6.2.3.5.2.3. 橋下氏にとっての「天祐」
二元代表制において首長と議会との対立関係を解消するためには、
① 議会の多数を首長支持派が占める
② 議会多数派が支持する首長を当選させる
という2つの方策がある。

 議院内閣制では議会の多数派と首相の出身会派が一致することが制度設計上の大前提であるため、この問題はまず発生しない 。したがって、議院内閣制の「大統領制化」という場合、首相(与党党首)への政府及び政党権力の集中という形で現れることが基本形である。そして、小泉総理・自民党総裁及び安倍総理・自民党総裁の「一強」といわれる政治状況もこの例に漏れない。

 本項では、二元代表制の下での首長側の行動を取り上げていることから、橋下氏が採った前者の方策に焦点を当てる。

 橋下氏にとって幸運だったのは、当時、大阪市では自民党が内紛状態にあり、現状に不満を抱く一派が、松井一郎大阪府議(当時)を中心に橋下氏と連携して新たな会派・政党を結成する動きを見せたことである。この橋下氏と松井氏との連携を基に「大阪維新の会」が結成される。

 このため、橋下氏は、当選当初から議会に自身の支持基盤がある程度あり、それを足場に他会派と交渉を行うことが可能であった。自身の与党を「ゼロ」から作り上げる必要はなかった。この点が、あくまで「個人」であり、結局議会に自身の支持会派を確立することができなかった青島、横山、田中の各知事(そして、竹原阿久根市長)との大きな相違点である。小池東京都知事も橋下氏の手法を取り入れ、無所属系の都議会議員を中心に、小池都知事自身の支持政党となる「都民ファーストの会」をゼロから立ち上げている。

 「大阪維新の会」はその名の通り、大阪府議を中心とした大阪の地域政党であった。しかし、大阪都構想の実現のためには、大阪府議会(と大阪市議会を含めた大阪府下の各市町村議会)の権限でできる事項だけではなく、地方自治法改正が必要であった。法律改正を働きかけるためには国会に足場を持たなければならなかった。

 白紙的には、「大阪維新の会」は地域政党に留まり、国政では与党である自民党或いは公明党と連携して地方自治法改正を働きかけるという方法も存在したが、「大阪維新の会」が自民党から分派する形で結成されたという事情から鑑みて、「大阪維新の会」が国政レベルで自民党を「頼りにする」という方策は採り得なかった。

 その他には、自民党ではなく、連立与党の公明党と連携を図るという選択肢もある。大阪では、公明党を取り込まなければ多数派にはなれない維新にとって、国政レベルで公明党と連携するというのは選択肢としてあり得る。とはいっても、公明党も自民党との間で裁量の余地を持っておきたいことから、国政で公明党、大阪では維新という「取引」は困難であると思われることから、維新と公明党もその時々の政治情勢によって連携するか否かを決めるという方向が合理的結論となるので、公明党が国政レベルで「維新の窓口」となるような連携は困難である。

 そうなれば、維新自らが国政政党となって国政へ打って出るという方策しかない。ここでも橋下氏は幸運であった。当時、「自民党の右」に位置する「たちあがれ日本」は来るべき総選挙に向けて党勢拡大 のための方策を模索していた。その一環として、当時東京都知事であったが元国会議員及び閣僚経験者でもあり全国レベルで一定の知名度がある石原慎太郎氏との連携が浮上した。この連携は合意に達し、「たちあがれ日本」は「太陽の党」として再出発することが確定していた。

 そのような情勢の中、国政進出を目指す「大阪維新の会」と東京及び関東に次ぐ大票田である大阪及び関西での党勢拡大を見込んだ「たちあがれ日本」との利害が一致した。この結果「太陽の党」に「大阪維新の会」も合流することとなり、「日本維新の会」が発足した 。

 その後、日本維新の会は2012年の総選挙で54議席を獲得し、野党第二党となったが、所謂大阪派(橋下派)と東京派(非大阪派:石原派)との亀裂が深まった。前者が多数派となり日本維新の会と同様に「第三極」といわれていた「結いの党(旧「みんなの党」が中心)」と合流する。その後、日本維新の会は民主党へ合流し、「民進党」が発足した。民主党(民進党)へ合流しなかった議員が「おおさか維新の会」を結成して現在に至る。後者(石原派)は「自民党の右」という立場を堅持すべく「次世代の党」→「日本のこころを大切にする党」となっているが民進党以上に党勢は先細りである(2017年現在)。

98キラーカーン:2017/07/28(金) 01:03:03
6.2.3.5.3. 橋下氏と歴史認識問題
6.2.3.5.3.1. 総説
 橋下氏は「右」といわれているが、言動を子細に見ていけば、必ずしも「右」ではない。確かに、橋下氏は経済に限らず自由競争至上主義であることから、新自由主義的な「右」であると表現することは可能である。また、歴史認識などでは「従軍慰安婦」の強制連行を否定していることも「右」の政治家であるとの認識を補強している。

 橋下氏の民衆の感情を煽り、その感情を自身の支持基盤とする政治手法は「ポピュリスト」とはいえるが、当然のことながら、ポピュリスト=「(極)右」である事を意味しない。

 また、先に述べたように、日本維新の会の橋下派は「自民党の右」に位置する石原派と袂を分かつ形で「第三極」の「結いの会(旧「みんなの党」)との合流を経て民主党と合流し「民進党」となった。このことから見ても、橋下氏及び橋下派といわれる人士は所謂「保守」でもなければ「右」でもなく、ましてや「ネトウヨ」というわけではない。

 さらに言えば、ヘイトスピーチ禁止条例の制定など明らかにそれ以外の論点では基本的に南北朝鮮寄りの見解を示している。その点では従来型の「ネット右翼」或いは「ネトウヨ」とは一線を画しており、その点でも橋下氏は「右」と「左」との間の「第三極」の位置を占めている。

 橋下氏の「南北朝鮮寄り」の言動と「公開討論」で相手を完膚なきまでに叩きのめすという橋下氏の政治手法からすれば、桜井誠在特会会長(当時)との「討論」は「当然の帰結」といえる。両者の「討論」は事前の期待に反して、両者の単なる罵り合いとなったという意味でも「伝説」となっている。その「罵声=討論内容」は、これまでの公開討論で「不敗」を誇った橋下氏の言説の片鱗すら見受けられなかった。その意味で、公式には「両者反則」による「引き分け」であったとしても、実際は橋下氏の「敗北」といってよいのかもしれない。

 いずれにせよ、そのような在日朝鮮人問題をはじめとする対朝鮮半島問題についての橋下氏の立場は「反在特会」的立場或いは親南北朝鮮的である事は明白であり、「嫌韓厨」を大きな要素とする「ネトウヨ」とは一線を画していることは間違いない。

6.2.3.5.3.2. 「従軍慰安婦」問題
 「従軍慰安婦問題」では、橋下氏は風俗業は必ずしも「違法ではない」という観点から当時の慰安婦を容認している。また、戦時において勝者が敗者の女性に性的暴行を働くのは珍しくないことから、それとの比較で我が国の慰安婦制度のみがやり玉に挙げられるのは「不公平である」としている。

 その一方、(個人的見解として)「慰安婦自体は容認しない」とも述べており、その点では、従来の「ネット右翼」的な従軍慰安婦論とは一線を画している 。

99キラーカーン:2017/07/29(土) 02:27:41
6.2.3.5.3.3. 桜井誠氏との「討論」
 「ネトウヨ」論との関係でいえば、橋下氏の志向が明らかになったのは、桜井誠在特会会長(当時)との討論であろう。既に述べたように、橋下氏は「従軍慰安婦」の強制連行は否定したものの、それ以外の論点については基本的に南北朝鮮側の見解に理解を示していた 。橋下市長自身も「ネトウヨ」については、「直接話を聞く」という対応だったので、それに桜井氏が「釣られた」という形で両者の「討論」が実現した。

 桜井氏のブログでの発言 によれば、橋下市長の側が色々条件を付けてきたが、対外的には、桜井氏が「討論から逃げ回っている」との「嘘」の発表をしたとのことである。

 両者の討論の結果は動画サイトにも掲載されている通り、「討論」とは言い難い罵声の応酬であった 。その動画から見る限り、既に述べたように、橋下氏の態度がそれまでの学者や評論家などに対しての公開討論で「不敗」を誇った態度とはかけ離れていた。このことから、桜井氏との討論に際し橋下氏の側に何か「目算狂い」があって、あのような「場外乱闘」まがいの討論形式にせざるを得なかったのではないかと推測される(繰り返しになるが、橋下氏は、基本的に、討論や記者会見では相手を「完全論破」する討論スタイルであったのが、桜井氏相手ではその片鱗さえも伺えなかった)。

 恐らく、橋下氏はこれまでの「評論家」や記者との討論で「連戦連勝」だったので、在特会会長相手の討論も「楽勝」或いは「鎧袖一触」と思っていたのであろう。ところが、桜井氏が討論相手として「意外に手強い」と気が付いて、「両者反則」による引き分けで有耶無耶にせざるを得なかったのではないかと推測できる。この解釈であれば、桜井氏のブログでの「証言」や両者の「討論」の動画とも矛盾しない。また、橋下氏のいつもの討論スタイルとの違いも説明可能である。

100キラーカーン:2017/07/30(日) 01:41:01
6.2.3.6. 「都民ファースト」の行方
6.2.3.6.1. 小池女史の都知事選出馬
 橋下大阪市長の政界引退後、世間の耳目を集める「改革派」或いは「維新型」地方自治体の首長は出現しなかったが、昨年の小池百合子都知事という新たな「維新型首長」が出現した。

 東京都の人口は1000万人を超え、都市化も進んでいることから、最近は「知名度」を有する所謂「タレント候補」でなければ当選できないとされてきた。事実、青島都知事以来、石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一氏と所謂タレント候補が当選してきている。とはいっても、1期4年で終わった青島都政の教訓からか、以後の都知事は、知名度に加え、政治家としての一応の実績を残していたため 、政治家の実績のない単なるタレント知事では当選は難しいと見られてきた。

 海外出張の際の「贅沢」などによる「公私混同」批判を浴びた舛添都知事の辞職に伴う都知事選は2016年7月に行わることとなった。都知事の与党は自民党と公明党であるが、自民党東京都連の都知事候補選定にも不手際もあり 、小池女史は自民党の推薦を得られないままの出馬に踏み切った。

   
 猪瀬都知事の頃から都知事と都議会自民党ひいては自民党東京都連の間に不協和音があったといわれている。その選挙戦の中で「都議会のドン」の存在が白日の下に曝され 、小池女史によって「敵」に仕立て上げられた。こうして、「分かり易い悪役」を見つけられたことから、小池氏は地滑り的な勝利を得た。今後は、このような「分かり易い悪役」を見つけられるか否かが小池氏の「腕の見せ所」となる。

6.2.3.6.2. 「維新」の東京版か、自民党の分裂か
 小池都知事は、当選後、「悪役」を作り出すことで求心力を得ようとしてきた。この点は橋下元大阪府知事の手法を忠実に再現しており、その点では無党派首長⇒改革派首長⇒維新型首長という系譜の政党後継者である。

 小池都知事にとっての悪役は「自民党都議団・都連」及び石原元都知事であった。悪役に仕立て上げる「お題目は」
都議会自民党・自民党東京都連に対して:都議会を私物化するドン支配
石原元都知事に対して:汚染された豊洲への市場移転
というものであった。

 前者に対しては、小池都知事当選直後の都議会自民党の態度もあり、「善玉(都知事)」と「悪玉(都議会自民党)」との対立構造が明白となったことと、それなりの「火種」があったことから、小池都知事の目論み通りの構図となった。

 しかし、後者については、石原都元知事及び浜渦元副知事を「100条委員会」 で喚問して「人民裁判化」しようとしたが、決定打とはならなかった。また、豊洲市場自体についても移転手続に若干の瑕疵があったものの、安全基準等は満たしていたことから、「ちゃぶ台をひっくり返しただけ」という評価がネット上では上がっている 。

101キラーカーン:2017/07/31(月) 00:38:43
6.2.3.6.3. 都議会選挙での勝利
 二元代表制を採る我が国の地方自治体では、知事が主導権を持つためには、議会にも知事の支持基盤を必要とする(所謂「分割政府」の問題)。このため、小池都知事は、自身の与党として「都民ファーストの会」を立ち上げ、選挙直前に代表に就任して選挙戦を戦った。

 小池都知事就任直後の自民党都議団の「悪役らしい」振る舞いもあり、2017年の都議会選挙は自民党(と民進党)の敗北で終わった。小池都知事率いる「都民ファーストの会」は当選者及び獲得票数双方とも第一党という「完全勝利」であった。

 しかし、小池都知事は、「二元代表制」を理由に、都議選直後に「都民ファーストの会」代表を辞任した。結局、小池都知事は都議選で議席を獲得することだけを目的に「客寄せパンダ」的に代表に就任したに過ぎず 、政党運営を「放り出した」格好となっている。

 維新も、新人議員が多かったことから、議員の質は必ずしも良いとはいえず、少なからず、不祥事が発覚している。このため、今後予想される「都民ファーストの会」の不祥事から距離を置くため、自身の政党を放り出したともいえる。

この点か評価すると、
① 権力行使が目的の橋下元大阪市長
② 自身の栄達が目的の小池都知事
となるのではないだろうか。

 とはいっても、これからは、都議会も小池都知事の与党が過半数を占めていることから、安易な先送り(決断回避)という手法は採れない。また、2020年の東京オリンピックに連動した公共事業(築地市場の豊洲移転もその一環)

 これから、小池都知事はどのような「悪役」を仕立て上げるのか、今後の東京都の政局はそれが焦点となる。

102キラーカーン:2017/08/04(金) 01:41:38
6.2.3.6.4. 都知事選挙及び都議会選挙を通じた「リベラルの『自壊』」
6.2.3.6.4.1. リベラル・左派陣営の「内ゲバ」(「宇都宮おろし」と「鳥越擁立」)

 これまで、折に触れて、我が国のリベラル・左派勢力の「自壊」について述べてきたところである。2016年の都知事選挙と2017年の都議会選挙活動においても、リベラル・左派の「自壊」は加速することはあっても、減速することはなかった。

 リベラル・左派陣営(民進党、共産党、社民党など)は共倒れを防ぐため統一候補を模索していた。その中で、過去2回都知事選挙に立候補していた宇都宮健児氏が立候補を表明した。しかし、宇都宮氏では「左派色」が強すぎる として、宇都宮氏とは別の「勝てる候補」の擁立が模索された。その結果、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏が「野党統一候補」として擁立され、宇都宮氏は立候補を取り下げることとした。

 鳥越氏が立候補を表明してから、宇都宮氏の選挙事務所には、立候補を取りやめさせるための「説得」が続けられた。その「説得」にはかなり酷いものもあったといわれている 。また、しばき隊の支援者は宇都宮氏の立候補に否定的であったことから、そのような「酷い説得」はしばき隊或いは氏の支援者によるものであったとしても不思議ではない。そのような、立候補者統一も左翼恒例の「内ゲバ」と見られることとなった。

 また、鳥越氏の婦女暴行疑惑についても、従軍慰安婦問題では「女性の人権」として、加害者である男性側に厳しく責任を追及していた鳥越氏の支持者が一転して、鳥越氏擁護に回ったことという「ダブルスタンダード」も見受けられた。

 結局、後述するように、鳥越氏の婦女暴行に関する報道と「女性の人権」を巡る見解の相違から、宇都宮氏は鳥越氏を支援することはなかった。

 2016年の都知事選においても「内ゲバ」、「ダブルスタンダード」といったリベラル・左派陣営によく見られる事象を有権者は見せつけられた。その影響からか、小池女史出馬を巡る対応から「自民分裂」というリベラル・左派にとった有利な条件での都知事選挙戦でありながら、当選した小池氏に加え、自民党推薦で立候補した増田寛也氏にも届かない第三位に甘んじた。

 このことは、民進党をはじめとするリベラル・左翼勢力が自民党に対抗する政治勢力としては、完全に見限られたことを意味する。その傾向は、都知事選から約1年後に行われた都議会選挙において、民進党が共産党の後塵を拝し、壊滅的惨敗を喫したことにも表れている。

6.2.3.6.4.2. 鳥越氏の婦女暴行報道の「黙殺」
 選挙期間中に、週刊誌が鳥越氏の婦女方向疑惑について報じた 。鳥越氏はその疑惑を否定したが、週刊誌の記事は被害者側の訴えを基に構成されていた。鳥越氏はリベラル・左派の「統一候補」として立候補しているだけに、鳥越氏の支持者には慰安婦問題について日本側の責任を厳しく追及する立場の人が多い。そのような「被害者の訴え」に対する態度が慰安婦問題に対するそれとは180度異なって、「加害者」の鳥越氏を擁護するといって点も、「自身の政治的立場によって『正義』を変える」という我が国のリベラル・左派の「お家芸」である「ダブルスタンダード」を駆使していると捉えられた。

103キラーカーン:2017/08/07(月) 00:17:12
6.2.4. 「55年体制」への郷愁と田中角栄ブーム(「大統領制化」への反発)
6.2.4.1. 総説

 最近「田中角栄ブーム」ともいえるような「田中角栄本」が相次いで出版されている。在世中は、ロッキード事件に代表される「金権腐敗」、「派閥政治」の権化といわれ、「目白の闇将軍」という異名を代表格として「自民党政治家のラスボス」扱いされ、「究極の悪役」としてマスコミに扱われた 。ところが、現在では「戦後民主主義或いは高度成長を体現する政治家」として、田中角栄氏は肯定的な評価とともに描かれるようになり 、再評価の動きもみられる 。

 田中角栄氏が活躍していた当時の政治状況は、「国対政治」という言葉が存在したことでもわかるように、ボス同士の談合によって議論の大枠が決定されるという「内に派閥政治、外に国対政治」というなっていた。これは、派閥の長或いは与野党国会対策責任者との話し合いによって議会政治の運営が決まるということを意味する。「国対政治」や「派閥政治」は、悪く言えば「ボスたちの密室の談合」によって決まる政治であり、よく言えば「関係者のコンセンサスという納得と熟議」の政治ということになる。

 田中角栄氏が、このような国対政治という我が国特有の政治風土の体現者的政治家として語られてきたことについては異論がないと思われる。だからこそ、ロッキード事件以降、先に述べたように「派閥政治」の権化という「悪の象徴」としてこれまで語られてきた政治家であった。

 しかし、現在においては、その「悪」とされた田中角栄的政治手法が、小選挙区制導入の結果による(「1ビット脳」的政治手法とも言える)敵味方の峻別(とそれによって引きこされる「敵」とされた者への不寛容及び指導者へ「集中」として現れる)「大統領制化」が進んでいる現代の日本政治に対する何らかの警鐘として多くの人々の琴線に触れるものがあるが故の「田中角栄ブーム」なのであろう。

104キラーカーン:2017/08/08(火) 00:50:28
6.2.4.2. 田中角栄の政治手法(「内に派閥政治、外に国対政治」)
 しかし、最近の「角栄ブーム」は、そのような「悪」の政治家としてではなく、反対派への配慮を忘れず、相手の納得を得つつ(或いは「篭絡」しつつ)慎重に合意を得て仕事を進めるという「善」の政治家として語られていることがこれまでの角栄論と異なるところである。ロッキード事件とどれに続く田中角栄批判の大合唱を見聞きした筆者にとっては隔世の感がある。

6.2.4.3. 田中角栄の政治手法と「古き良き」自民党政治
 では、なぜ、最近、「田中角栄ブーム」或いは「田中角栄再評価」というべき書籍が相次いで出版されたのであろうか。それは、昨今の政治情勢とは無縁ではないと思われる。さらに言えば、現在の政治情勢に対して何らかの不満を抱いている層が「田中角栄的手法」(或いはその改良版)を解決策として待望していることを意味しているのであろう。百歩譲っても、「待望」とまではいかなくても、解決について何らかの参考になると判断しているのは確実と思われる。

 では、その「現代の政治状況に対する処方箋」として期待されている「田中的手法」とはどういうものであろうか。田中氏の政治手法は、先に述べたように、「内に派閥政治、外に国対政治」というものである。これは、所謂「55年体制」の下で慣行化されたものである。特に「国対政治」では、少なくとも主要政党(自民、社会、公明、民社、共産)のうち、共産党を除く4党の合意が必要とされる点でコンセンサス型の政治そのものである。

 自民党内の意思決定手続においても、コンセンサスが重視される。自民党における常設の最高意思決定機関である総務会の議決でも、反対意見のものは採決時に退席するなどして「反対意見の不存在」をもって議決されるのが慣例である。このため、自民党総務会長は老練な調整型の政治家が起用されるのが通例である。

 また、当時、「敵と味方」は相対的なものであった。中選挙区制の当時、多くの自民党議員にとって、選挙区では敵であっても、国会議事堂の中では同じ自民党の一員として仲間であるという関係にある議員は多かった。その逆に、国会では与野党に分かれる「敵」であっても、選挙区(地元)では、「与野党相乗り知事」の存在によって仲間となることは少なくない(特に知事選挙)。その極端な例が、同じ自民党であっても、「保守分裂」となって、分裂した「保守(自民党系)」の一派が公明党や民社党と連携し、同じ自民党を「敵」にするということもある。

105キラーカーン:2017/08/09(水) 00:53:48
6.2.4.3. 田中角栄の政治手法と「古き良き」自民党政治
 では、なぜ、最近、「田中角栄ブーム」或いは「田中角栄再評価」というべき書籍が相次いで出版されたのであろうか。それは、昨今の政治情勢とは無縁ではないと思われる。さらに言えば、現在の政治情勢に対して何らかの不満を抱いている層が「田中角栄的手法」(或いはその改良版)を解決策として待望していることを意味しているのであろう。百歩譲っても、「待望」とまではいかなくても、解決について何らかの参考になると判断しているのは確実と思われる。

 では、その「現代の政治状況に対する処方箋」として期待されている「田中的手法」とはどういうものであろうか。田中氏の政治手法は、先に述べたように、「内に派閥政治、外に国対政治」というものである。これは、所謂「55年体制」の下で慣行化されたものである。特に「国対政治」では、少なくとも主要政党(自民、社会、公明、民社、共産)のうち、共産党を除く4党の合意が必要とされる点でコンセンサス型の政治そのものである。

 自民党内の意思決定手続においても、コンセンサスが重視される。自民党における常設の最高意思決定機関である総務会の議決でも、反対意見のものは採決時に退席するなどして「反対意見の不存在」をもって議決されるのが慣例である。このため、自民党総務会長は老練な調整型の政治家が起用されるのが通例である。

 また、当時、「敵と味方」は相対的なものであった。中選挙区制の当時、多くの自民党議員にとって、選挙区では敵であっても、国会議事堂の中では同じ自民党の一員として仲間であるという関係にある議員は多かった。その逆に、国会では与野党に分かれる「敵」であっても、選挙区(地元)では、「与野党相乗り知事」の存在によって仲間となることは少なくない(特に知事選挙)。その極端な例が、同じ自民党であっても、「保守分裂」となって、分裂した「保守(自民党系)」の一派が公明党や民社党と連携し、同じ自民党を「敵」にするということもある。

106キラーカーン:2017/08/11(金) 01:15:07
6.2.4.4. 「大統領制化」に対する警鐘としての「田中角栄ブーム」
 これまで述べたように、我が国の選挙制度には、中選挙区制と地方自治体の二元代表制の組み合わせを採っている。この選挙制度によって敵と味方の区別が相対的なものであり、時と場合によって連携の組み合わせが異なる事を許容する政治環境にある。このことは、当選者が一人であるがゆえに敵味方が固定される大統領制や小選挙区制とはきわめて相性が悪い。

 しかし、大統領制の「母国」である米国が、なぜ、中南米諸国のような「大統領制民主主義の失敗」を経験しなかったかについては、大統領制研究の中でも大きなテーマとなっている 。そして、その「民主主義国のチャンピオン」としての米国の存在が「大統領制民主主義」のリスクを覆い隠しているのではないかとの指摘もある 。

 したがって、「田中角栄ブーム」が「大統領制化」に対するアンチテーゼとして起きているということであれば、その田中角栄ブームは、逆説的に、小選挙区制導入以後、或いは「小泉以後」の我が国の政治状況の大勢が「大統領制化」へ向かっていることを示しているともいえる。

 昨今の「田中角栄本」で描かれているように、田中角栄は「敵」への配慮も忘れない政治家であった。それは、「敵味方」の区別が相対的なものであり、コンセンサスによって国会運営が今よりも強力になされていた時代では、多数派を握るためには必要不可欠な政治手法であった。確かに、当時の田中派は自民党で最大派閥であり、「田中派支配」といわれる程度には「数の政治」である側面は持っている。しかし、最大派閥であっても過半数を握れない以上 、その多数は、必ずしも「強行採決」のための多数ではなかった。

 「大統領制化」の副作用として、何でも「敵味方」に二分されて、「大統領(首長)」の支持勢力の組織化によってその分断が固定化されてしまう。これまでは、そのような事態は「(政権交代可能な)二大政党化」として、好意的に語られてきた。

 しかし、小泉以後の政治、特に二元代表制を採る地方自治体で、議会に敵対的な「改革派首長」の出現するようになった。この結果、「敵味方」で運営される「1ビット脳的政治」の不都合な点に少なくない人々が気付いた。そのような「敵か味方か(1ビット脳的政治)」の弊害に気付いた人々が、その対抗軸として「(コンセンサス志向の政治である)55年体制の権化」である田中角栄を美化し称賛していると推測できる。

107キラーカーン:2017/08/14(月) 00:24:07
6.2.4.5. 「敵味方」の区別から始まる政治の申し子としての共産党と「維新」
 因みに、55年体制下において、共産党だけが「敵味方」の区別が明確であった(だからこそ「確かな野党」という言い方もできる)。そのため、「与野党相乗り」知事が珍しくなくなっても、共産党だけは、その「相乗り」には加わらなかった。

 その側面から言えば、「敵味方」の峻別と「敵の殲滅」を基本とする橋下氏の政治手法は「共産党の鏡像」というべきものでる。この点で、橋下氏の政治手法を「(共産党の)民主集中制に似ている」と評した田原総一朗氏は慧眼であったといわざるを得ない 。また、そのような議院内閣制と二元代表制の差異を感じ取り、地方自治体の首長に「留まった」橋下氏の嗅覚は鋭いものがある。

108キラーカーン:2017/08/15(火) 01:29:14
6.3. 外国における「ネトウヨ化」の状況
6.3.1. 総説
 現在では、オランダやフランス、スイス、オーストリアなど欧州各国で極右政党 が主要政党の一角を占めている。中には、極右政党が連立与党入りした国も存在する。また、比例代表制を取っているEU議会選挙では、極右政党が所謂西側先進諸国においても一定の議席を占めている。そのような情勢を受け、比例代表制である欧州議会では2014年の選挙はにおいて、G7の一角を占める英仏両国でも国民戦線(仏国)、国民党(英国)のように「極右」と呼ばれる政党が第一党となった 。

 このことから、所謂西欧先進諸国であっても、そのような「極右」政党が各国の政党システムにおいて確固たる基盤を築きていていることは明らかである。とはいっても、これまではそのような「極右」勢力が議会第一党や大統領選挙で勝利して政府の長の座を手に入れられるとは思われていなかった。

 しかし、2014年の欧州議会選挙以降、英国でEU離脱の国民投票でEU離脱派が多数(2016年)となり、米国でトランプ大統領が誕生(2016年)したことで、そのような状況は根本的に変化したといわざるを得ない。所謂、西欧民主主義諸国においても「極右」勢力は政党政治における脇役ではなく、政党政治における堂々たる主役に躍り出ることとなった。

 米国のトランプ大統領誕生の余韻も冷めやらない中、続く2017年には、蘭、仏、独国での総選挙と仏国大統領選挙といったG7を含めた国政選挙が予定されている。また、政権が進退をかけた憲法改正案が否決されたイタリアでも近いうちに総選挙が行われる見込みである。

 これら、主要国の総選挙で、所謂「極右」政党は、既に「何議席獲得するか」という次元ではなく、第一党となるか否か(≒大統領或いは首相の座を掴むか)という次元の争い、即ち「政権の座」を掴むのか否かという次元の争いとなっている。

 そのような「世界総ネトウヨ化」といわんばかりの国際情勢の中で、脚光を浴びつつあるのが「分断」という言葉である。本節では、
①経済のグローバル化の勝者と敗者という「分断」が誰の目にも明らかになった
②分断の種類には「社会のアイデンティティー」と「貧富の差」という2つがある
③「リベラル」の側は分断で不利益を被る「まじめな中産階級」を無視することで分断を「なかったこと」にした
④「極右」が無視された人々に焦点を当て、「反リベラル」という「二分化」戦術を取った⑤その「二分化」は大統領制或いは議院内閣制の「大統領制化」により拡大・固定化した
⑥その結果、西欧先進諸国も「大統領制民主主義の失敗」のリスクが無視できなくなった
という仮説を提示する。

 すなわち、「ネトウヨ化」というのは我が国独自の政治状況ではなく、冷戦終結とそれに伴う(経済の)グローバル化を契機として先進各国で同時並行的に生じた政治的潮流であるとみなすことができる。しかし、その「ネトウヨ化」の原因及び過程については、我が国と欧米との間には違いがある。その我が国と欧米との間の「ネトウヨ化」に関する各国間の比較分析 を行うことは、我が国の「ネトウヨ化」の実態を明らかにするだけではなく、比較政治学上の知見も得られるものと考えられる。

 欧州では、そのような「福祉排外主義」に基づく「極右」勢力だけではなく、(財政状況に関わらず)「没落した中間層」に対する貧困対策を行うべきという「ポピュリスト左派」という政治勢力も無視できない存在となっている。代表的な存在が、米国大統領予備選で大本命のヒラリー・クリントン上院議員に肉薄したサンダース上院議員や仏大統領選で主要四候補の一角を占めたメランション氏である。本節では必要に応じ、そのような「ポピュリスト左派」勢力にも触れる。

 本章では、これまで、我が国の国内における政治現象として捉えられてきた「ネトウヨ化」というものを、世界情勢の文脈の中に位置づけ、我が国独自の現象と思われてきた「ネトウヨ化」の国際比較(の足掛かり)のための「野心的」な試みでもある。

109キラーカーン:2017/08/19(土) 01:46:30
6.3.2. 移民問題(欧州における「極右」政党の起点)
 欧州における「極右」の伸長は他国(特に中東、アラブ諸国)からの移民や労働者の流入に端を発しているということについては現在において異論がないものと思われる。特にドイツにおいては、『最底辺』にあるように、東西統一前の1980年代後半から、トルコ人労働者の流入が社会問題となり始めていた 。但し、当時は、外国人労働者を受け入れるだけの「パイの大きさ」があったことから、『最底辺』のように、外国人労働者の差別的待遇による低賃金が問題とされていた。

 『最底辺』を引くまでもなく、現在においても発展途上国からの外国人労働者は、移住先の国家では給与水準の低い単純労働に従事するものが多数である。このため、国内求人増以上に外国人労働者・移民を受け入れることは国内の低所得者層の仕事を奪うことを意味する。このため、景気拡大が弱まった際に、先ず、影響を受けるのはこの層である。

 このような外国からの移民によって脅威にさらされている層の国民にとって、自身の生活を守るためには外国人労働者排斥を主張しなければならない立場にある。しかし、後述するが、リベラルはそのような低所得者層の国民の声に耳を傾けることなく、移民の声に耳を傾けた。それが、欧米での「ネトウヨ化」の始まりであった。
 そして、移民の流入は中間層の没落と経済のグローバル化による富裕層の一層の富裕化という「格差の拡大」をもたらしただけではなく 、移民の多くを占める中東のイスラム系移民と欧州キリスト教社会との不和による社会レベルの「アイデンティティー摩擦」をもたらした。その結果は、自身の没落とアイデンティティー危機をもたらした移民の流入の拡大阻止・縮小へと向かうのは仕方のないところである。その結果が、移民排斥或いは「福祉排外主義」を唱える「極右」の台頭の下地ということとなる。

110キラーカーン:2017/08/22(火) 23:16:22
6.3.3. 経済のグローバル化による中間層の没落
 経済分野では冷戦時代から多国籍企業というものが存在している。そのような多国籍企業は世界的な大企業である事が多い。このため、為替リスクや国ごとで異なる法制度など多国籍企業の利益追求にとって「国境」というものが「足枷」となることも多い。労働力(者)も同じである。

 「国境が存在しない」場合、生産費用を低減するためには、大きく分けて次の2つの方法がある
① 外国から低賃金で働く労働者及び原材料を「輸入」する
② 生産費用が安い国で生産する(企業の「空洞化」)
である。

 現在、WTOなど「自由貿易」が「正しい」とされていることから、「物」については、「輸入自由化」されている物品が多く、また、輸入制限手段も関税を賦課することによる場合が多く、輸入価格が容認できるのであれば、「物」の輸入自体に制限はない。

 このことから、「移民に寛容」な先進国では、発展途上国からの移民受け入れによって格安の労働力を調達するという方策をとることができる。この代表例が「アメリカンドリーム」という言葉に代表される米国であり、『最底辺』にもあるように、ドイツ(旧西ドイツ)もその一例である。さらに言えば、我が国を除くG7諸国はこの方法により、確約な労働力を調達している。

 一方、移民の受け入れが厳しい国では、企業(工場)自体が外国に「進出」することによって、格安な労働力を手に入れる方策を採る。G7諸国においては我が国のみがこの方策を採っている。

 両者とも「格安な労働力」と手に入れるという点では目的が共通している。したがって、どちらの方策を採ったとしても、そのような「格安な労働力」に取って代わられた国内の労働者階級が「割を食う」のも同じである。

111キラーカーン:2017/08/25(金) 01:01:07
6.3.4. グローバル経済と国家との相克、その結果としての「リベラル」の没落
 経済のグローバル化によって苦しくなったかつての中間層は、自身や家族の生活を維持するための施策を「国」に対して訴えることとなる。しかし、経済のグローバル化と「人道主義」の観点からは、「自国民」である没落しつつある自国の中間層よりも、「外国人」である移民の保護を優先しがちとなる 。

 特に「リベラル」といわれる層が、彼らの都合で「救われるべき弱者」を取捨選択し、その一方で、「グローバリスト」として経済のグローバル化の果実を享受しているという状況になっている。また、「グローバリスト」としてのリベラルにとって、「国家」というものは、「不条理な障壁」にしかすぎず、その「障壁の内側」にいるだけで何らかの「特権」を得られるような「国民」は救う価値がなく、それよりも「障壁」によって救済を阻まれている難民や移民こそが「救われるべき存在」であるとされている。

 その結果「リベラル」或いは左派といわれる人々にとって、「自国民」の貧困層、或いは中間層から転落しようとしている層は「眼中にない」という状況になっている。リベラルは「グローバリスト」として国境を越え、「地球市民」としての活躍を目指していた。

 そのような状況では、国境という「壁に守られているのにも拘らず」貧困にあえぐ没落した中間層である「自国民」はリベラルにとって「救済に値しない民(≒「キモイ親父」)」となった。その中で、自国民ということのみに意味を見出し、そして、実際にそのような「見捨てられた自国民」の声に耳を傾けるせる保守或いは「極右」を彼らが支持するのは合理的な選択でもある

 本来ならば自国の貧困層の声を救い上げるべき「リベラル」は彼らの声には耳を傾けず、目を背け続けた。そのような彼らの声を聴きに行った政治家が米国のトランプ大統領であり、フランスのルペン「国民戦線」党首(当時)であった。

 つまり、経済のグローバル化によって生じた貧富の格差拡大の「ツケ」は国家(社会福祉政策、労働政策)に回された。貧困層に転落しようとする、或いは既に転落した人々に対して「国家はあなた方を見捨てない」という信号を送り続けたのは、労組を支持母体にしてきたリベラルではなく、「移民排斥」を唱え、「同胞」としてあなた方を見捨てないというメッセージを送り続けた「極右」であった 。

 リベラルが国内の「没落した中間層」を「見捨てた」一方で、飽く迄もそのような国内中間層を「救うべき」と考えた左派も存在した。彼らはリベラルよりも「左」という意味で「急進左派」と呼ばれるようになった 。

 その結果、「リベラル」は、本来、自身の中核的支持層となるべき「没落した中間層」からの支持を得ることを放棄した。さらに言えば、リベラルは「差別反対」といった「政治的正しい」言説を唱える一方で、「没落した中間層」を一貫して無視しつつけるという「差別的取扱」を行っていることを恬として恥じる気配がない。その結果、「リベラルの自壊」というべき状況となり、「右傾化」といわれる状況の創出に一役買っている 。

112キラーカーン:2017/09/02(土) 00:55:42
6.2.5. リベラルの自壊の結果としての「右傾化(ネトウヨ化)」
6.2.5.1. 冷戦の終結とグローバル化或いは「唯一の超大国」

 冷戦終結後、世界情勢は「米国が唯一の超大国」というべき状況となった。21世紀になり、中国の台頭が著しいといっても、かつての米ソのように「世界を二分する」超大国となるか否かについては不透明である。

 というよりも、古来「中原」或いは文字通りの「中国」として「唯一の超大国」である(あった)ことを歴史上の誇りとしている。そのような中国が米国との「分割統治」に満足するかという中国の「歴史認識」の次元において、中国は、米国との「世界分割」を受け入れない可能性もある。また、経済のグローバル化に伴い、中国と米国との間での経済的相互依存が進んでいる現状において、(もし実現するとして)米中での「世界分割」がどのような形態になるのかも予想がつかない。

 尖閣諸島や南シナ海の事例を見るように、中国は、自己が不利の間は只管隠忍自重して時を稼ぎ、力関係が有利になったと見るや、その覇権主義的性質をむき出しにするという側面もある。このことから、中国は、究極的には中国の「一極支配」を目的としており、米国との「世界分割」はそのための手段であると見る方が妥当ではないかと考えられる。

6.2.5.2. リベラルのグローバリズムへの接近(ネオコン)
 冷戦はソ連の崩壊で幕を閉じた。これにより、自由民主主義が「唯一」の歴史発展の方策との考え方も発生した 。リベラルの側では、冷戦終結の直前(レーガン米大統領時代)から、リベラル・左派は資本主義体制内での「左」への改革ではなく、「人権を抑圧する」共産主義・社会主義国家に対する資本主義・自由民主主義の「伝道師」として、「保守派」に転向するという事象が発生した。彼らは、旧来からの保守主義者ではなく、「新しい」保守主義者という意味で「ネオコン」と呼ばれるようになった 。

 彼らは、世界全体へ資本主義(経済面)と自由民主主義(政治面)を広げるべきとの考え方を持っていることから、グローバリズムとは相性が良かった。また、「伝道師」的役割を果たすという側面から、彼らの言説も厳しくなっていく。

 結果として、「成功したグローバリスト」の中には少なくない「元リベラル(ネオコン)」が含まれるのも理の当然である。また、冷戦の終結で「社会主義」或いは「共産主義」というものが余喘を保つのが精いっぱいであったことから、リベラル的色彩を纏う「ネオコン」が、1990年代の間に「グローバリストのリベラル」となったのではないだろうか 。

 欧州の社会民主主義勢力が打ち出した「第三の道」という考えも「社会主義の敗北」という世界情勢とは無縁ではない。そのような中で、社会民主主義が生き残る道を模索した結果のとして「第三の道」に結実したと見受けられる。

 しかし、我が国では、そのような「第三の道」ではなく、戦前の日本を「悪魔化」するという「歴史認識論争」に我が国のリベラル・左派は活路を見出したのは既述の通りである 。そして、それが、我が国と欧米との「ネトウヨ化」の差異となって現われていく。

 このように、「ネオコン」を媒介項にしてリベラルと冷戦後の(資本主義に基づく)グローバリズムが結びつくこととなった 。そして、リベラルの目が国外に向き、自国において救済を必要とする人々が見えなくなっていった。

※構成を変えたため、節番号が変更になっています。

113キラーカーン:2017/09/04(月) 00:39:37
6.2.5.3. 成功者(「セレブ」或いは「エリート」)としてのリベラル

 経済のグローバル化とともに、企業は生産コストの低下特に人件費の低減を目的に、ある企業は発展途上国での生産に移行し、ある企業は自国内の移民を労働者として雇用した。その結果、NIESやBRICSといった新興工業国も台頭し、先進国に比べて低所得である発展途上国の所得が上昇するという効果もあった

しかし、そのような企業の生産体制の変化により職を失ったのが、本章でいう「(先進国の)没落した中間層」であった 。企業の多国籍化と自由競争により、そのような中間層が職を失うのは(自由主義経済の下では)自己責任とされ、救いの手は差し伸べられなかった。

 さらに、富める者はますます富み、先進国での貧富の差が拡大した。そのため、米国では「Occupy Wall street」という抗議行動も行われた。グローバル化の波に乗って成功した者は「国境の軛から解き放たれた」グローバリストとして「リベラル」化していった。本来なら、自国内の貧困層に手を差し伸べるべきリベラルが自身の成功により、セレブ化或いはエリート化(以下まとめて「セレブ化」という)していった。リベラルは「国境を越えたエリート連合」よろしく、国境を無視した。その結果、「国境の内側」を生活範囲とせざるを得ない没落し、疲弊した中間層との乖離が更に広がった。

114キラーカーン:2017/09/06(水) 00:02:12
6.2.5.4. リベラルに見捨てられ、切り捨てられた国民(「ポリコレ棒」の威力)

6.2.5.4.1. 総説
 グローバル化で成功し、「セレブ化」したリベラルは、自国民より他国民を「救うべき弱者」として扱った。その「弱者」の典型例が難民である。難民を自国に引き受けることは、自国の没落し疲弊した中間層をこれまで以上の塗炭の苦しみにあわせることとなる 。本節では、リベラルが反対派の意見を封殺する「棍棒」として「PC(≒差別主義者)」の概念を乱用したことによる、「市井の人々」の反発を取り上げる。

 リベラルは「政治的に正しい」という「ポリティカル・コレクトネス(political correctness:PC)」という概念を打ち立てた 。本稿の文脈での「PC」は
① 「政治的に正しい」を決める権限はリベラルの側「のみ」が持つ
② その正しさに対するする異論・反論は許されない
③ 疑いを掛けられた側が「無実」を証明しなければならない(「悪魔の証明」)。
④ 「PC」を理由とする限り、反対者にどのような制裁を加えても不問に付す
という特徴を持つ。

 つまり、本稿でいう「PC」とは、本来の意味ではなく、「しばき隊」を典型例とするリベラルの他者に対する不寛容・排他的な態度を揶揄する文脈で使われる言葉を指す 。

 このように、「PC」は、リベラルの考え方に反対する者を「弾圧」する道具として機能するため、我が国のネットでは「ポリコレ棒」と揶揄されることがある 。また、英語でもそのようなPCを他社の思想を弾圧する道具として用いる戦闘的リベラル・左派を揶揄する言葉として、後述するが「Social Justice Warrior」(社会的正義の戦士)という言葉がある。

 PCは、元来、差別撤廃のため「差別的な取り扱い」につながる言葉を排除するというものであった。代表的なものが、議長を意味する「chairman」が男性を意味する「man」が含まれているとの理由で「男女平等」な「chairperson」に言い換えられたというものである。この他にも、盲目を意味する「blind」という語が忌避され、キーボードを見ずに入力できる「ブラインド・タッチ」が「タッチ・タイピング」という例がある。これに類する例として、サッカーでも「ロスタイム」が「アディショナルタイム」へ、「サドンデス」が「ゴールデンゴール」と言い換えられた(「ロス:loss」や「デス:death」という否定的な語感を持つ語の利用を止める)。

 このような「言い換え」が結果的に「言葉狩り」に移行していくのは洋の東西を問わない。そして、その行き着く先は、どの言葉を利用するかという次元で神経をすり減らすことになるという息苦しい社会である。我が国でも、そのような「言葉狩り」に遭って、『ちびくろサンボ』のように発売中止(絶版)に追い込まれ、また、部落解放運動家による「つるし上げ」のための「糾弾会」出席を余儀なくされることも見受けられた。

115キラーカーン:2017/09/08(金) 00:26:25
6.2.5.4.2.  移民と「PC」と先進国中間層の経済的転落
 現在では、「人権擁護」の行き過ぎのため、移民受け入れ拡大政策に反対するだけで「極右」や「人種差別主義者」呼ばわりされることは珍しくない。移民受け入れ拡大反対とナショナリズムとの親和性が高いため、欧州において、移民受け入れに消極的な立場と「右翼」さらには「極右」と称されてきたことについては一定の理由がある。というよりも、欧州では、移民政策が「極右」かそうでないかを判別する基準となっている。

 そして、本来は、国内経済が移民の受け入れを欲しているか受け入れ余力があるかといった国内諸情勢によって移民受け入れ政策を決定しなければならない。しかし、移民受け入れ拡大を「自明」であるとし、な国内経済・社会的情勢を検討して受け入れ方針を策定すべき、或いは、難民よりも自国民の経済状況改善を優先すべきといった、移民受け入れ政策に反対或いは慎重な姿勢をとる人々をリベラルは「人種差別主義者」であるとしてきた。そして、「PC」を理由にしてリベラル派は「言葉狩り」よろしく、自己の反対派にレッテルを張り、異議申し立て自体を封じてきた。特に、マスコミや人文科学や社会科学の学会ではリベラルが優勢であるため、そのような「レッテル張り」が有効に機能してきた。

 移民による犯罪の告発も「人種差別」との批判を浴びることを懸念して及び腰になることも我が国のみならず、欧州においても見受けられる 。我が国では、ルーシーブラックマン氏殺害事件の犯人が韓国系日本人であったことから、犯人について語ることが一種のタブー視されていたことが、同事件を追ったドキュメンタリー『黒い迷宮 ルーシーブラックマン事件15年目の真実』(リチャード・ロイド・パリー著 濱野大道訳 早川書房 2015年)の著者が語っている。

 移民拡大を叫ぶリベラルとその結果としてなされる移民拡大によって危険にさらされるのは「セレブ」と化したリベラルではなく、移民によって職を奪われる「没落した中間層」である事は論を待たない。そして、そのような層は先進国では中-低所得者層に該当する。このような欧米の「極右」のイメージにより、我が国でも「ネトウヨは低所得者のニート」というイメージで語られることが多い。この立場に立つ代表的な論者としては小林よしのり氏が挙げられる 。

 しかし、古谷常衡氏によれば、自身のHPの閲覧者を「ネトウヨ」と仮定すれば、閲覧者は、「自己申告」によると、「都市の30〜40台のサラリーマン、或いは自営業者」という層が多いとのことである。

 いずれにせよ、「セレブ」化したリベラルは、その「グローバル性」により、自国民よりも、他国の難民を救うに値するとし、そのような自国民の窮状に対しては高みの見物を決め込み見向きもしなかった。

116キラーカーン:2017/09/10(日) 02:01:39
6.2.5.4.3. 「他文化強制」と「PC」と「social justice warrior」
 PCの文化的側面では、リベラルが推進する「多文化共生」に反する態度は許されないとしてきた。この結果、移民問題と同様に、リベラル派は「言葉狩り」よろしく、自己の反対派にレッテルを張り、異議申し立て自体を封じてきた。日本人に分かり易い例でいえば、移民の非キリスト教徒への「配慮」として、米国では「メリークリスマス」の代わりに「ハッピーホリデー」と言わなければならないというものがある 。

 リベラルは自身の見解に反する人を「人非人」としてレッテル張りを行うのに躊躇がない。そのレッテル張りのための「錦の御旗」がPCであった。さらに言えば「何がPC」なのかという判断権はリベラルのみが保持し、それに対する反論は受け付けないということも共通している 。

 そして、そのような「言葉狩り」を行う者を英語で「social justice warrior」という 。
我が国では、「オタク≒ネトウヨ」という認識 のもとに、「萌え」や「アニメ趣味」を「ネトウヨ的」として批判する者や外国人(特に朝鮮人)に対する「差別的」言動を針小棒大に取り上げ、営業妨害や自宅への突撃を行ったりする場合もある。そして、「しばき隊」を筆頭に、そのような「暴力的」行為であっても「反差別」という「PC」によって免罪されるという自己中心的な正当化を図っている。

117キラーカーン:2017/09/12(火) 00:58:15
6.2.5.5. 切り捨てられた国民の怒り-「福祉排外主義」の勃興
6.2.5.5.1. はじめに

 本来なら、貧困層に転落しようとしている国内の疲弊した中間層はリベラル或いは左翼が救い上げるべき国民である。これまで、左派政党(≒社会民主主義政党)はそのような手法で支持を拡大し、ある国では政権を奪取した。しかし、前節でみたように、現在、生活が脅かされている先進国の中-低所得者層は経済のグローバル化で「勝者」となり、「セレブ化」したリベラルに見捨てられ、切り捨てられていた。

 リベラルは国家に対し、国民ではなく、難民など「非国民(文字通り国民でない者)」を救えと要求していた。そのようなリベラルに切り捨てられた「行き場のない」国民の声を、勢力拡大のための「穏健化」を図り、移民反対から自国民優先の福祉施策(「福祉排外主義」)へ舵を切った「極右」が吸い上げるという構図となっている。このような「(自国民の底辺)労働者に優しい極右」という20世紀後半の政治情勢では考えられないような現実が21世紀になって発生した。

 この後、先進諸国を中心に極右勢力或いは「ネトウヨ化」の実態を概観していくが(「6.4.各国の状況」)、その前に、昨今の極右勢力の伸長の鍵となる「福祉排外主義」について総論的な部分を概観しておく。

118キラーカーン:2017/09/14(木) 00:13:52
6.2.5.5.2. 福祉排外主義の勃興
 冷戦終結後、経済のグローバル化或いは社会保障制度の厳格化によって、「近代化の敗者」或いは「没落した中間層」とも呼ばれる学歴・所得社会的地位が低い層が発生した。先に述べたように、このイメージは我が国の「ネトウヨ」のイメージと重なるところが大きい。そして、西欧における「極右」政党はこのような層を支持母体の中核としている。

 当初「極右」政党は彼らから仕事(収入)を奪っていった移民の排除を端的に訴えていたが、それだけでは支持が広まらなかった。また、欧州では移民排斥がナチスのユダヤ人排斥を連想させるものである事も移民排斥を主張する「極右」政党の支持が広がらなかった一因でもある。さらに、過大な難民(非キリスト教徒)の流入は、自国の社会を変革するだけではなく、崩壊に導びくという議論もなされたが、その議論も「文明の衝突」を連想させるということで、支持を広げる決め手とはならなかった。

 そのような排外主義の壁を破ったのが「福祉排外主義」と言われるものである。移民の流入・増大により、「近代化の敗者」に対する社会扶助が以前にもまして必要となった。そのためには、
① 増大する需要に対応できる財政上の措置
② 社会扶助費削減のため、社会扶助の対象となっている移民の対象者数を削減
という二つの手法がある。後者を強く主張する者が「福祉排外主義者」となる(勿論、それと合わせて、前者を主張することも可能である)。

 この「社会扶助の対象となる移民削減」のためには、そもそも、受入移民数を削減し、更に(可能であれば)、移民を「国外追放」という施策が俎上に上る。このようにして、反移民ひいては(経済面での)反グローバル主義が無視できない状況となってきた。
限られた資源であるならば、まず、自国民の「近代化の敗者」に分配すべきというのは、国民国家という制度的建前からは正当な要求である 。そして、その訴えは自国の「近代化の敗者」の琴線に触れた。そして、「近代化の勝者」であり、グローバル化に対応した「勝者」であるリベラルと「近代化の敗者」との亀裂、断層が可視化されるようになった。

 (グローバルな)リベラルのスローガンでもある「『国境を越えた』弱者救済」は成功者が「善人」であることを示すお手軽な手法となっていった。その結果、グローバル化の波に乗った成功者は「善人」であることを示すためにリベラル的に振る舞うこととなる。そして、弱者救済という左派・リベラルのスローガンは「金持ちの道楽」へと堕落していった。

 更に言えば、「道楽」であることから、「救うに値する」人を決めるのはリベラルが恣意的に決める。国内の「没落した中間層」は彼らリベラルの琴線に触れることはないため、決してリベラルによる「救済の対象」とはならなかった。それに加え、リベラルは資産を「グローバル化」の恩恵を利用して国境を越えて回避 させる一方、「弱者(≒難民)」を受け入れる負担(例:国内の中間層の職を奪う)は「グローバル化」による資産隠しには縁遠い国内の中間層(「没落した中間層」に押し付けた。

 言い換えれば、リベラルは「グローバル化」の果実だけを享受し、自己満足のために「弱者」救済を唱えるが、その負担は国内の「没落した中間層」に押し付けて、自分たちは負担を回避している。その負担を強いられる者が異議申し立てしようとすれば、リベラル派「差別主義者」として彼らの人権を認めようとせず、継続して負担を強いる。これは、先に述べた「二重基準」と「反転可能性の欠如」という「リベラルの自己矛盾」ということを示して余りある 。

119キラーカーン:2017/09/16(土) 01:23:51
6.3. 各国の状況
6.3.1. G7諸国
6.3.1.1. 日本(日本型ネトウヨ政党と欧米型ネトウヨ政党との並立)
6.3.1.1.1. 総説
 我が国の「ネトウヨ化の歴史」についてはこれまで縷々述べてきたところである。したがって、本節では、その歴史的事象から得られた知見を基にした理論的枠組を中心に記述する。

 我が国の「ネトウヨ化」における他国との大きな違いは「歴史認識論争」主導型ということである(欧米型及びドイツ型は「移民問題主導型」)。また、我が国は移民受け入れが少ないこともあって、欧米型やドイツ型のように「移民問題主導型」にはなり得ない。このため、欧米の「極右」勢力からは我が国の移民政策が「理想像」と見られることもある。したがって、我が国では、他国とは異なり「没落した中間層」は、グローバル化による移民の流入ではなく、グローバル化による産業の空洞化とデフレ経済がもたらされたものである。

 このように、我が国においては、欧米型ネトウヨ政党が敵視する国内移民が殆ど存在しない。その代わり、「歴史認識論争」で母国の肩を持ち、現在の居住国である我が国に対してヘイトスピーチまがいの批判を行う「特定アジア(三国)」(中国、北朝鮮及び韓国の三国をいう)に向けられている。

 特に、在日朝鮮人に対しては、その「反日」的姿勢がマスコミ等によって強調されるため 、歴史的経緯、そして、「特定アジア」諸国の一員として批判の矛先が向くこともある。
このような経緯もあって、歴史認識に起因する周辺各国との関係悪化を契機に「日本型ネトウヨ政党」が結成された。このような「日本型ネトウヨ政党」は「太陽の党」の党を嚆矢とする。その後、紆余曲折を経て、現在の「日本の心を大切にする党」に繋がっている。

 しかし、現状では、安倍自民党が所謂ネトウヨ層の受け皿となっているため、党勢が伸び悩み、国会内では自民党と統一会派を組むなど、「安倍自民党別動隊」というような状況となっている。
その背景には、安倍総理が「自民党の右」に位置する政治家であり、かつ安倍総理自身が拉致問題をきっかけに総理の座を掴んだことがある。その結果、安倍政権である限り、自民党は日本型ネトウヨ勢力の受け皿として機能する。したがって、安倍政権が長期安定政権(最近はその安定度に陰りがさしているが)となった現在、日本型ネトウヨ政党(勢力)が自民党に吸収されるのは当然の成り行きである。

 このような「日本型ネトウヨ化」の動きとは別に、グローバル化による現状改革勢力が一定の勢力を確保し、それらは「第三極」と言われるようになる。その中から、日本産「欧米型ネトウヨ政党」といってもよい「維新系政党」 が発生した。「維新型政党」は現在においても、「第三極」としての存在感を有しており、所謂「無党派」の受け皿となって、自民党と拮抗する勢力になる可能性を秘めているのは、最新バージョンの「維新型政党」である「都民ファースト」の2017年の都議選に圧勝し、東京都自民党を一敗地に塗れさっせたことにも表れている。

 このように、我が国の政治環境において、日本型ネトウヨ勢力と欧米型ネトウヨ勢力とが並立しているという特異な状況にある。日本型ネトウヨ勢力は安倍自民党に事実上吸収されたが、欧米型ネトウヨ勢力は依然として「第三極」としての存在感を示している。「都民ファースト」が一定の統治能力を見せ、民進党に代表される「野党の保守的勢力」を糾合して国政に進出すれば、自民党に取って代わる勢力となる可能性もある。しかし、国政政党としての「維新」も党勢が伸び悩み、「大阪維新」の東京版築地市場移転問題を巡り、小池都政が混迷の度を増していることから、我が国における欧米系ネトウヨ政党がこれ以上勢力を伸ばす可能性は低いと見積もられる。

 移民の受け入れが極端に少ない我が国では、移民が我が国の社会に対する脅威であるとは認識されていない。この点が「維新系政党」と「欧米型ネトウヨ政党」との最大の際である。したがって、反移民が主軸である「欧米型ネトウヨ政党」と「維新系政党」を同一類型として扱うことについては異論があると思われる。しかし、ポピュリスト政党としての共通点を重視することによって、「歴史認識論争」主導型である「日本型ネトウヨ政党」と「維新系政党」との差異分析、ひいては我が国の政党間の差異を明らかにするうえでも有益であると考えるので、「維新系政党」を「ポピュリスト政党」ではなく、「欧米型ネトウヨ政党」(或いは亜種)として扱っている。

120キラーカーン:2017/09/17(日) 01:57:45
6.3.1.1.2. 日本型ネトウヨ政党(「たちあがれ日本(含む後身政党)」)
6.3.1.1.2.1. 「たちあがれ日本」の結成
 歴史認識論争において、所謂「自虐史観」を批判する側に属していた政治家は、当時の自民党においても「一番右」に位置していた。そのような政治家の代表的存在であった平沼赳夫氏は無所属となっていた 。彼らは、民主党政権の成立による政界の「リベラル化、左傾化」の中で、自民党の中で埋没するよりは「反民主党・保守」の旗幟を鮮明独自の政党の結成を模索し「たちあがれ日本」を結成する。

 日本における保守政治家の代表的存在であり、当時、東京都知事であった石原慎太郎氏は「たちあがれ日本」の発起人とはなったが、参加はしなかった。結党後初の国政選挙となった2010年7月の参議院通常選挙では比例区で1議席を獲得した。しかし、その後、民主党への対応方針を巡り、与謝野馨氏が離党 するなど党勢は伸び悩んだ。

 「たちあがれ日本」は他の小政党にも連鋭を呼びかけたが、結局浪人中の元議員を立候補予定者として糾合する程度であった。その中で、発起人でもあった石原都知事が次期総選挙に都知事を辞職して「たちあがれ日本」に合流することを2012年11月に表明する。石原氏の合流表明を受け「たちあがれ日本」は、同月13日、「太陽の党」へ党名を変更し石原氏を正式に共同代表として迎え入れた。

6.3.1.1.2.2. 「日本維新の会」との合同と分裂
 その直後の同月17日に国政進出を目論む大阪維新の会と合流し、「日本維新のとなったため、「太陽の党」は5日間で姿を消した 。同年12月に行われた衆議院総選挙で日本維新の会は小選挙区、比例区合わせて54議席を獲得し、野党第二党(衆院第三党)に躍進する。しかし、続く2013年7月の参議院通常選挙では、「みんなの党」をはじめとする「第三極」との選挙協力が難航し、地方区、比例区合わせて議席の獲得に留まった。

 結局、「ネトウヨ」といっても、日本型と欧米型とは相性が悪かったのか、「石原派(日本型ネトウヨ政党)」と「橋下派(欧米型ネトウヨ政党)」に分裂し、元どおりとなった。分裂後は、前者が「次世代の党」となり、後者が「日本維新の会」の名称を継承した。その後、橋下派は「みんなの党」からの離脱者で結成された「結いの党」と合併し「維新の党」となった。

6.3.1.1.2.3. 原点回帰と安倍自民党
 「たちあがれ日本」に始まる「日本型ネトウヨ政党」は、維新系政党との合同・分裂を経て「次世代の党」として「日本型ネトウヨ政党」としての原点に回帰した。「次世代の党」の課題は、「保守政党」と「維新系政党」との間で「日本型ネトウヨ政党」としての独自の存在意義を国民に訴求できるか否かという点にあった。

 「たちあがれ日本」結成当時は民主党政権である、野党に転落していた自民党は、(自民党内では)リベラルな谷垣総裁あった。このため、「自民党の右」という位置は、民主党政権や「リベラル」な谷垣自民党に飽き足らない保守層に対して訴求効果があった。
しかし、「次世代の党」となった時点では安倍政権であった。先に述べたように、安倍総理は拉致問題をきっかけに政治家として飛躍したこともあり、安倍総理は所謂ネトウヨ層からの支持が高かった。また、それに加えて、所謂ネトウヨ層以外からの安倍内閣の支持率は高かった。

 このような政治情勢では、「次世代の党」は安倍自民党との違いを打ち出すことは困難となる。まして、相手は衆議院で安定多数を擁する与党である。この結果、「次世代の党」の党勢は先細りになっていった。

 「次世代の党」は「日本のこころを大切にする党」を経て「日本のこころ」に党名を変更して党勢挽回を期するが、党勢は回復せず、2017年の通常国会から自民党と統一会派を組み、事実上、自民党に吸収された状態である。

 今後、非自民によるリベラル・左派政権が誕生し、自民党が「左旋回」しない限り、「日本型ネトウヨ勢力」は自民党内で「自民党の右」という政治勢力として活動していくことになると思われる。これは、「たちあがれ日本」結党前の状態に戻ったことを意味している(つまり「元の鞘に収まった」ということである)。

121御前:2017/09/17(日) 10:47:50
北朝鮮から国土上空に2回もミサイル飛ばされて、例の迎撃ミサイルは一体何のためのものなのでしょうか?
世界のパラダイムがこれほどまで変わってしまった以上、日本は第9条改正どころか、核武装議論もしなければならないように思えてきました。

莫迦政府と無理心中したくないですわ。

122新八:2017/09/17(日) 19:48:28
日本の迎撃機能は万全です。
撃たなかったのは、撃つ必用がなかったと言う事だと思っています。
あと、世界のパラダイムが変わったとは、私は考えていません。
シー・チンピンが、「朝鮮人とは何か」が分かっていなかっただけではないかと愚考しております。
プーチンは、さすが良く分かってらっしゃると、私は見ております。

で、臨時国会の日程が、9月28日開始と決まったときに、うっすら『解散?』と予感したのですが、どうやらそのようになりそうですね。

>莫迦政府と無理心中したくないですわ。

ちゃんと選択肢を与えられる素晴らしさを享受しましょう。
民主主義って素晴らしい。
憲法改正も、核武装も実現できるとすれば、それこそ「圧倒的な民意」あればこそなのですから。

123御前:2017/09/18(月) 00:27:13
私の言った「世界のパラダイム」とは、冷戦時代のことですね。未だあの頃のまんま、平和憲法を守っていればいいと思い込んでいる風潮があるのは恐ろしいです。
あと憲法改正が通っても間に合うかどうか、もはや危ない状態ではないかと思います。どんな莫迦な憲法があろうと、有事の際は超法規の防衛出動する政府ならいいですが、残念ながらその確信が私は持てません。この先ミサイル2回も飛ばされてこれでは、この先3回、4回と上空侵犯しても「まだまだ撃つ必要がない」と延々言ってる可能性高いと思います。これがNATOなら、とうに戦闘開始になっていますよ。
ここでよく、日本は一度痛い目に遭わないと変わらない、という意見もありますが、じゃあいざ自分とこにミサイルが落ちてきて犠牲者になってもいいかと言えばそれはみんな嫌なわけです。なら、あらゆる危険性は排除すべく備えるのが国家安全保障ですよね。

124キラーカーン:2017/09/29(金) 00:23:51
6.3.1.1.4. 欧米型ネトウヨ政党(所謂「維新系政党」)
6.3.1.1.4.1. 「維新系政党」を「欧米型ネトウヨ政党」とみなした理由

 先に述べたように、我が国の特殊状況として、日本型ネトウヨ政党の他に欧米型ネトウヨ政党が存在することもあげられる。所謂「維新系政党」は
① 新自由主義的政策志向
② 「敵か味方か」という二分法で支持を調達(「1ビット脳」的政治)
という点で欧米型ネトウヨ政党と共通性がある。

 「維新系政党」に共通するこのような特徴は「欧米型ネトウヨ政党」が有するポピュリスト的性格と共通する。このため、欧米型ネトウヨ政党と比べて移民排斥傾向が少ない維新系政党を「ネトウヨ政党」ではなく「ポピュリスト政党」に分類されることもある。
また、維新系政党の発祥の地である大阪は部落差別問題に代表されるように、大和時代以来の長い歴史に培われた独特の「しがらみ」存在する。初代の「維新系政党」である「大阪維新の会」はそのような「しがらみ」を理由とする「既得権益」を打破するという立場を取った。

 そのことにより、大阪維新の会は、自由競争、規制緩和、民営化という新自由主義的色彩を自然と纏うこととなった。そして、そのような新自由主義的色彩は「大阪維新の会」の政党後継者的位置にある「日本維新の会」にも受け継がれている。

 欧州では、EU統合(≒ユーロ圏)により、既成政党側も財政赤字の制限などが科され、国家としてある程度の新自由主義的政策を採る必要性に迫られている。そのため、政権担当能力がある既成政党(特に議会第一党を狙う政党)は、ある程度、新自由主義的政策を採らざるを得ない。

 それにより、新自由主義と移民に対する厳しい態度を政策の二本柱とする「欧米型ネトウヨ政党」と既成政党との政策距離を小さくする。「欧米型ネトウヨ政党」としては、そのような既成政党との差別化或いは主要支持者層である「没落した中間層」の支持を維持するために、新自由主義的政策ではなく、ある程度左派的福祉政策(所謂「バラマキ福祉」)を主張する必然性が存在する。この結果、「アベノミクス」においても、そのような左派的或いは「大きな政府」的な色彩が強い。

 しかし、我が国では、既成政党、特に自民党が新自由主義的政策から距離を置いているため、「維新系政党」が新自由主義の主張を変えていない 。

125キラーカーン:2017/10/03(火) 01:10:48
6.3.1.1.4.2. 「欧米型ネトウヨ政党」との相違点(「移民」に対する警戒感の程度)

 我が国は、従来、移民の受け入れには厳しく、我が国に在住している定住外国人(所謂移民)が欧米各国に比して少ないことから、所謂「移民」に分類される我が国における定住外国人又は外国系日本人問題(特に一世及び二世)が重要な政治課題として提起されることは少ない。このため、維新型政党は移民排斥という考え方も弱く、外国人に対する生活保護支給反対のような「福祉排外主義」の色彩も弱い 。

 この結果、維新系政党発祥の地である大阪では朝鮮学校用地の地代の引き上げといった「反在日朝鮮人」的な政策と「ヘイトスピーチ規制条例」など、在日外国人、特に在日朝鮮人に対して融和的な政策が併存しているが、それも新自由主義の影響が強い結果であると仮定すれば一応の筋は通る(学校用地の地代の減免は。規制緩和と「公平な」自由競争の原理に反し、「ヘイトスピーチ規制」も「言論の自由競争(市場)」を妨げるものと解釈すれば、新自由主義的政策の枠内に収まる)。

 この点において、中間層の職と所得を奪い「没落した中間層」の主犯として移民をやり玉にあげ、その結果。移民排斥を唱える「欧米型ネトウヨ政党」との顕著な差となっている。
6
.3.1.1.4.3. 「維新系政党」最新バージョンしての「小池新党」

 「欧米型ネトウヨ政党」である維新系政党は離合集散を経て、現在、事実上大阪を基盤とする地域政党に回帰した。その結果、大阪以外の地域は、事実上「維新系政党」の空白地となっている。したがって、大阪以外の地では、新たな「維新型政党(欧米型ネトウヨ政党)」が発生する余地がある。その可能性は東京都において「小池新党」という形で現実となった。

 これまでに述べたように、小池都知事は、自民党から飛び出す形で東京都知事選挙に打って出て当選した。その後、2017年7月に行われた東京都議会選挙において知事与党としての「都民ファーストの会」を結成し、都議会第一党の座を獲得した。

 この「小池新党」の勝利は、「非自民かつ非リベラル・左翼」という意味での「第三極」或いは「欧米型ネトウヨ政党」に対する有権者のニーズが現在においても高いことを意味している。2017年10月に(解散による)衆議院総選挙が実施されるため、「小池新党」も地域政党ではなく、国政政党「希望の党」として活動を始めている。

 しかし、小池都知事の政治手法は、「その場限りの刹那主義」であり、政治家としての一貫性を考慮しないという手法においては橋下氏よりも徹底している。また、選挙区当たりの政党数を「2」(≒二大政党制)に収束させる小選挙区制による要請により、非自民勢力は「単一政党」に纏まる誘因が発生する。その結果、小池新党に参加する面々も「日本のこころを大切にする党」から「民進党」まで「幅が広く」、彼らの政策位置も「ごった煮」状態である。小池都知事は、民進党の弱体化によって「草刈り場状態」となった「非自民かつ非リベラル・左翼」という「選挙互助会」的ニーズに的を絞って小池新党を立ち上げた。

 このような「ごった煮」状態と橋下氏を上回る小池都知事の刹那主義という観点からすれば、小池新党は「維新系最新バージョン」としての「欧米型ネトウヨ政党」というよりも、日本初の「本格的ポピュリスト政党」というべきかもしれない。

126キラーカーン:2017/10/05(木) 23:51:18
6.3.1.1.5. 「第三極」(特に「みんなの党」)の離合集散と消滅

 1993年の非自民連立政権(細川内閣)の発足による政治改革の動きの中、非自民、非労組(≒旧社会党⇒民主党)つまり、規制緩和と行政経費削減による「小さな政府」を旗印に掲げる勢力が誕生した。我が国ではそのような政治勢力を「第三極」と称していた。

 二大政党の一角を占める民進党(旧民主党)も結党当初は、自民でも社民党(旧社会党)でもない政党として結党した過去があり 、民進党も第三極的色彩も有している。

 小選挙区制の導入や新進党の解党を経て、非自民勢力が、民主党へ一本化されていった。その過程で、旧社会党勢力も民主党へ吸収されることとなったため、自民党及び新進党とは異なる「第三極」として発足した民主党においても、旧社会党や民社党の支持母体である労働組合の発言力が強まり、リベラル・左派的色彩が強まっていった。

 このような民主党の「左傾化」及び自民・民主の二大政党化を受け、非自民・非民主の規制緩和と行政経費削減による「小さな政府」を目指す政党として「みんなの党」が結成された。

 以後、規制緩和と行政経費削減による「小さな政府」を目指す政党を「第三極」として扱われることとなり、「維新系政党」も「第三極」の一つとして扱われることとなった 。みんなの党は、一時期、公明党をも凌ぐ勢いも見せ、参議院選挙では三人区以上で議席を確保した。しかし、その後、程なく党勢は頭打ちとなった。

 このように、「みんなの党」と「維新系政党」は自由主義的政策志向という点において和性が高い。このため、両党の合同論は断続的に発生した。その一方、それ以外では所属国会議員間の政策距離が大きかった。このため、非自民・リベラル志向の議員も存在し、彼らは「維新系政党」よりも民主党に親近感を感じていた。それらの政党と離合集散を繰り返している。

 結局「みんなの党」の主流派は「維新系政党」との合流を選択し、「みんなの党」から分離し「結いの会」を結成した上で「維新系政党」と合流した 。しかし、合流した「維新系政党」の中でも、大阪派(橋下派)とそれ以外との路線対立が発生し、後者は民主党へ合流し民進党となった。

 このように「第三極」(と民主党)は規制緩和と行政経費削減による「小さな政府」という点での共通点はあり、また、小選挙区制の選挙区(衆議院の選挙区と参議院の「1人区」)が多数を占めることから「第三極」として一つの政党に纏まるということは、国政政党として存続するうえでも望ましい選択であった。しかし、それ以外の点において政策距離が大きかったため、「第三極」は離合集散を繰り返し、現在では、「維新系政党」と民進党及び「小池新党」に吸収され、政党としては消滅している。

127キラーカーン:2017/10/08(日) 01:47:32
6.3.1.1.6. 自民党等の関係
 自民党との関係では、「自民党の右」に位置する「日本型ネトウヨ政党」(「たちあがれ日本」⇒「太陽の党」(⇒「維新系政党」)⇒「次世代の党」⇒「日本のこころを大切にする党」が対象となる。先に述べたように、安倍総理・自民党総裁が「自民党の中での『右』」に属する政治家であったため、潜在的「日本型ネトウヨ政党」の支持者層が安倍自民党支持層となっている。この結果。「日本型ネトウヨ政党」の党勢は伸び悩み、国会では自民党と統一会派を組むに至り、自民党に事実上吸収合併された形で、現在に至っている。ただし、「小池新党」(「希望の党」)結成を機に、「日本のこころを大切にする党」党首の中山恭子参議院議員は自民党ではなく、「小池新党」に合流した。

128キラーカーン:2017/10/09(月) 01:48:00
6.3.1.1.7. 2017年10月総選挙
(未定)

6.3.1.2. 英国(英国独立党の躍進)
6.3.1.2.1. グローバル化の勝者であるリベラルに対する反発
 英国でも福祉排外主義を唱える英国独立党(UKIP:United Kingdom Independent Party)が経済成長から取り残されたブルーカラーや非熟練ホワイトカラー層の支持を集めている。英国独立党の標語は「国民保護サービスであって国際保護サービスではない」というものであり、福祉排外主義に合致する。但し、英国独立党には「小さな政府」を志向するリバタリアン的潮流も存在する 。このため、今後、主たる支持者層である「没落した中間層」とリバタリアン的路線との間での軋轢が生ずる可能性もある。

 英国独立党のもう一つの支持者層は英国のEU懐疑派である。英国はEUの前身であるEC(ヨーロッパ共同体)の原加盟国 ではない。それどころか、ECに対抗してEFTA(ヨーロッパ自由関税同盟)を設立したのちに、EFTAを裏切る形でECに加盟した(1971年)。また、サッチャー政権も「反ヨーロッパ」的姿勢をとっていた。英国労働党の支持者層が他国の「極右」政党と比べて支持者層の平均年齢が高いのはこのような歴史を実際に体験した層の一定程度が英国独立党の支持者層となっているからと推測されている。

 「近代化の敗者」或いは「EU懐疑派」どちらであっても「グローバル」よりは「ナショナル」である。それが、集合名詞であるところの「国民」としての拒否感であるのか、「個人(労働者)」としての拒否感であるのかの違いである。ここでもグローバル化の「勝者」としてのリベラルそして自国民よりも「非国民」の救済を優先するリベラルに対する「敗者」の反発がある。ここでもグローバル化の敗者に対するリベラルの冷淡さ が「ネトウヨ化」を招いていると見ることができる。

129キラーカーン:2017/10/10(火) 00:58:20
6.3.1.2.2. 英国内の地域対立とEU離脱問題との関係
 我が国では「英国」とあたかも単一国家のように扱っているが、英語で「UK:United Kingdom」というように、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの地域 からなっており、スコットランドには独自の議会も存在する。このため、これまで述べてきた地域間対立も「リベラルVS非リベラル」に影響を及ぼす。

 特にスコットランドは、2014年、スコットランドの独立を問う国民投票が実施されたことや北海油田の利益分配などでイングランドとは潜在的な対立関係にある 。EU離脱を問う国民投票では、スコットランドがEU残留で、ロンドン都市圏などを除くイングランドがEU離脱派という投票結果で、英国内の地域別の温度差が明らかとなった。

 2015年の総選挙でもスコットランドの地域政党であるスコットランド国民党(SNP:Scottish National Party)がスコットランドでは、59議席中56議席を獲得するという「完全試合」を成し遂げている。スコットランド国民党は中央レベルでは労働党と政策位置が近く、2015年の総選挙でも、仮に勝利すれば、労働党と連立を組むとの観測もあった。したがって、スコットランドにおいては、民族自決主義が「ネトウヨ化」或いは「極右政党」とは結びついていないというのが特徴となっている。

6.3.1.2.3. 2017年6月の総選挙(「大きな政府」路線による野党労働党の健闘)
 メイ首相は、労働党の合意を取り付け、EU離脱交渉を名目として解散総選挙に打って出ることとした 。解散時点では保守党が圧倒的有利であるといわれていたが、選挙期間中に労働党が差を詰めた。選挙結果は保守党が第一党の座を守ったものの、議席を減らし、過半数を割り込んだ。このため、実質的には保守党の敗北となった。保守党は、過半数まで10議席足らずという議席数であるため、少数単独政権を選択した。当面は北アイルランドを地盤とする保守政党である民主統一党(10議席)の閣外協力を得て政権運営を行うことを選択した。過半数を制する政党が存在しない中でのメイ首相の政局運営となるため、予断を許さない。

 労働党が健闘した要因としては、①「オールド・レイバー」とも言われるコービン党首が脱緊縮を掲げた政策を打ち上げたこと、②英国に選挙疲れがあったこと、などが言われている 。冷戦終結後の経済のグローバル化に対応したブレア元首相の唱えた「ニュー・レイバー」の効力が無くなり、長期低迷傾向にあった労働党が、「反緊縮」という旗印で「没落した中間層」の救済に取り組んでいるというメッセージを有権者に与えたことにより労働党が健闘した原因と言ってもよい。

 これは、トランプ大統領にも言えることであるが、「ネトウヨ化」の主力と見られている「没落した中間層」の票を獲得することができた効果でもある。これは、「欧米型ネトウヨ化」が経済主導型である事を如実に示している。

 ネトウヨ化以外の貧困対策(具体的には、反緊縮による「大きな政府」)を打ち出し、その政策が彼ら「没落した中間層」の琴線に響けば、左派であっても彼らの票を獲得できるということの証明でもある。

 その一方、ここ数年、英国政治の「台風の目」であった英国独立党(UKIP)が、今回の総選挙で敗北を喫した。前回の総選挙では二大政党に次ぐ得票率(10%超)を記録したが、今回は1%超の得票率にとどまった。EU離脱を掲げるUKIPの得票が激減したことも、労働党の健闘と合わせて、英国政治の「潮目」が変わったのかもしれない。その結果は、比例代表制で行われる次回の欧州議会選挙結果で明らかになるであろう。

130キラーカーン:2017/10/12(木) 01:04:09
6.3.1.3. 米国
6.3.1.3.1. トランプ大統領の誕生
 2016年の世界での最大ニュースがトランプ大統領誕生であったと認定しても、少なくない人が首肯するであろう。それほどまでに、トランプ大統領の誕生は世界に驚きと衝撃をもって受け入れられた。そして、大統領選を通じてグローバル化の「勝者」であるリベラルと「敗者」である「ラスト・ベルト」の労働者が対照的に映し出された 。勿論、前者の代表がヒラリー・クリントン女史で後者の代表がドナルド・トランプ氏であるのは論を待たない。クリントン氏はまさに「リベラル・エスタリッシュメント」の象徴として捉えられた 。

 ヒラリー・クリントン氏やハリウッドスターに代表される「セレブ」なリベラルがマスコミと一丸となって中間層(トランプ支持派)を「敗者」と見下し、見捨てるという構図は大統領選挙で明確に見受けられた 。その一方、大統領選挙でトランプ支持者に取材すると「『オレに意見を求めてくれるのか』『長く話を聞いてくれてありがとう』と喜んでくれた。しばらくして、わかった。自分の声など誰も聞いていない。自分の暮らしぶりに誰も関心がない。あきらめに近い思いを持っている人たちが多かった」 との反応が返ってきたというのがその一例である。

 トランプ支持を公言するとマスコミから人種差別主義者を始めとするリベラルから「PC」で袋叩きに遭うという現状から、マスコミの世論調査でもトランプ支持を公言できないという「隠れトランプ支持派」が存在するとされていた。大統領選挙の結果はその存在が事実であったことを如実に示した。

 大統領選挙でトランプ支持を公言した者に対して暴行を加えるという事件も発生しており、「残虐さ」ではリベラルも「極右」 も差はない。それどころか、マスコミは「極右」の暴力は

 トランプ氏は、リベラル的価値観ではなく、「没落した中間層」に「未開拓の票田」を見出し、大統領に当選した。この結果、リベラルを敵に回し、「分断」と正面から対峙せざるを得なくなったトランプ政権が、とりあえず、4年間の任期を全うできるか否かが焦点である。

131キラーカーン:2017/10/14(土) 02:14:04
6.3.1.3.2. シャーロッツビルでの左右両派の衝突
 2017年8月、米国バージニア州シャーロッツビルで、右派(白人至上主義者)と左派が衝突し、その際、左派の女性1名が死亡した。

 この衝突の発端は、南北戦争での南軍の司令官であったリー将軍の銅像を撤去することに反対の人々による集会であった。その集会に参加した人の中に、白人至上主義者やネオナチをいわれる者が参加したことに対してリベラル側が抗議集会を行った。その両派の集会を分離できずに衝突したが発端であった。

 先に述べたように、右派の参加者に白人至上主義者が存在していた。このことによって、この問題は、人種差別の克服という現代アメリカの「国是」を巡る論争へ移行した。また、左派の側に車で突入したことによる死亡者が発生したこともあり、マスコミの論調は「右派の全面否定」という様相を呈していった。

 この一連の事件に対し、トランプ大統領は、人種差別と「双方」の暴力を批判したことで、マスコミはトランプ大統領に「人種差別容認」とのレッテルを張ったが、左派の「暴力」については何も触れなかった。

 その後、左派の「反差別活動」はエスカレートし、米大陸を「発見」したコロンブスが「人種差別主義者」であるとして毀損されるという事例も生じ始めている 。このような事態を受け、トランプ大統領は「リー将軍の次はジョージ・ワシントンか」という旨の発言をしたが、当該発言も物議を醸しだしている。

6.3.1.3.3. 「分断」を白日の下に曝したトランプ大統領
 このような、一連の事態をリベラル・左派は「分断」と称している。そして、その分断は、「右派」によって生じたものであるとしている。さらに、シャーロッツビルの事件が深刻化した原因を「白人至上主義者」に対して断固たる態度をとらないトランプ大統領に原因があるとしている。

 しかし、トランプ大統領は「極右」の存在を完全に否定しなかったことで初めて、「分断」が認知された。確かに、大統領選挙結果からも「分断」の存在は可視化されていたともいえるが、今回のシャーロッツビルの事件によって、その分断が「だれの目にも」明らかになったことは相応の意味がある。

 トランプ大統領は「暴力的な左派」の存在を事挙げすることにより、リベラル・左派の暴力行為及び「違法行為」も避難していることもマスコミの批判を浴びている。「目的のためなら『違法』な手段も正当化される」というのはリベラル・左派の「伝統芸能」であることは、ソ連などの社会主義諸国の例を引くまででもない。また、北朝鮮や中国といった現時点における社会主義国が抑圧的な体制である事も論を俟たない。

 今般のシャーロッツビルの事件においてもリベラル・左派は、トランプ大統領が白人至上主義者を批判しなかったこと及び彼らの「暴力」をこれまでにない勢いで批判している。しかし、リベラル・左派の暴力・違法行為について批判することはない 。

 これまで、欧米のリベラル・左派は我が国のそれとは異なり、二重基準と反転可能性については厳しいものだと思われてきた。しかし、今回のシャーロッツビルの事件に対する一連の反応から、少なくとも米国のリベラル・左派は我が国のそれと同様の「自分勝手なダブルスタンダード」の陥穽に嵌ったと判断せざるを得ない 。
シャーロッツビルの事件におけるリベラル・左派の行状は「しばき隊」のそれの忠実なコピーのように見える。

132キラーカーン:2017/10/15(日) 00:31:17
1.1.1.1.1. 「分断」を作り出したのはグローバル化とそれに掉さしたリベラル・左派
 マスコミの論調ではこのような分断を生じさせたのはトランプ大統領の政治姿勢であるとされている。しかし、実際には、「分断」をもたらしたのはリベラル・左派の側である。トランプ大統領派その「分断」を利用して大統領になり、かつ、その「分断」を白日の下に曝したが、「分断」そのものの「原因」ではない。

 「ラスト・ベルト」に代表されるように、トランプ氏の大統領選出馬前から、米国には、グローバル化の波に乗れず、その結果、リベラル・左派から見捨てられた「没落した中間層」が既に存在していた。リベラル・左派はそのような存在から目を背け、無視し、「存在しない」かのように振る舞っていた。それを象徴するのが、ヒラリー・クリントン元上院議員の「deplorable」という発言であった。

 このように、リベラル・左派はそのような「没落した中間層」の存在を認知しないことよって、「分断」が存在しないものとして振る舞っていた。そのような「没落した中間層」の存在を否定する限り、「没落した中間層」との間に生じた「分断」の存在も否定され続ける(相手が存在しない限り、「分断」も存在しない)。

 また、リベラル・左派は「グロール化に掉差した成功者として、合法・違法を問わず、国境を超える人々の人権を擁護する一方で、「没落した中間層」の窮状に耳を傾けることはなく、彼らの窮状を無視し続けた。

 そして、リベラル・左派が育成・培養した「分断」即ち「没落した中間層」が一定の割合を超えたとき、彼らの代表が政治の舞台へ躍り出る。その代表例が共和党ではトランプ大統領であり、民主党において、そのような「没落した中間層」の声を救い上げたのは「極左」のバーニー・サンダースであった。

 大統領となったトランプ氏は言うに及ばず、サンダース氏も、エスタブリッシュメントの代表となったリベラル・左派の代名詞的存在となったヒラリー・クリントンに一太刀浴びせ、大統領予備選でも、最後まで、ヒラリー・クリントン女史と民主党候補の座を争った。このことからも、左右問わず、このような「没落した中間層」の声が大統領選を左右するまでに大きくなっていることを可視化した。

133キラーカーン:2017/10/19(木) 23:38:24
6.3.1.3.5. 南北戦争を巡る米国の歴史認識論争、それとも、米国の「文化大革命」

 先に述べたように、シャーロッツビルの事件の発端は、同市にあるリー将軍の銅像の撤去を求める声に対する抗議集会であった。リー将軍の銅像の撤去を求める声の背景にあったには「黒人奴隷制度を維持しようとした南部連合の総司令官であるリー将軍は人種差別主義の象徴である 」というものであった。その騒ぎが大きくなり、また、シャーロッツビル以外の地においても、「奴隷制度を支持した」南軍関係の銅像の撤去や目に触れないようにするなどの措置が広まっている。

 このような状況の中で、南北戦争の「敗者」である「南側」視点の「歴史認識」は奴隷制容認の御題目の前に十把一絡げに葬り去られようとしている。また、南軍関連の銅像が毀損される だけではなく、動機は不明であるが、リンカーン大統領の銅像に火をかけられたという事件も発生している 。

 南北戦争とは関係ないが、ジョージ・ワシントンといった人物についても「当時」奴隷を保有していたことや以って銅像が撤去されるとの懸念も出始めている 。また、米大陸を「発見」したコロンブスの銅像が毀損されるという事件も発生している 。

 ここまで事態をみると、かつて我が国でも四半世紀ほど前に繰り広げられた「歴史認識論争」が米国内部で行われている(というよりも、事件の激烈さから「歴史認識闘争」という方がより実態に即しているかもしれない)。また、このリベラル・左派による見境のない行動を文化大革命に准える人も出てきている。

 この南北戦争を巡る歴史認識論争は、これまでに述べたグローバル化が原因ではなく、国内事情というローカルな要因であるというところに特色がある。この場合、南側は我が国と同じ「敗戦国型」のネトウヨ化が深化するものと考えられる。ただし、コロンブス像にまで問題が波及していることから、南北戦争を超えて「コロンブス以後」のアメリカ合衆国の歴史に波及する可能性もある。

134キラーカーン:2017/10/21(土) 00:40:21
6.3.1.4. 仏国(「マクロン旋風」と「国民戦線」)
6.3.1.4.1. 大統領選挙(「対NF(国民戦線)大同盟」?)

 フランスはシラク大統領時代に大統領の任期が7年から5年に短縮された(シラク大統領再選時の2002年の大統領選挙から適用)。この憲法改正により、米国のような同時選挙ではないが、大統領選挙と国民議会選挙が同時期に行われるようになった。このため、大統領の与党と国民議会多数派とが異なる「コアビタシオン 」が生起する確率は低くなったといわれている 。

 コアビタシオンとは。我が国では「ねじれ国会」に相当する事態である。仏国第五共和国制において、大統領と首相との役割分担に関する規定が必ずしも明確でなかったことから、コアビタシオンの場合、大統領と首相のどちらが行政府の実権を握るのかという点が議論されてきた 。これまでの実例の積み重ねから、コアビタシオンが生起した場合、大統領が外交・防衛分野を担当し、首相が内政分野を担当するのがフランス政治における憲法的習律(暗黙の了解事項≒慣習法)とされている。

 2017年の大統領選挙の事前予想では「国民戦線」のルペン党首の決選投票進出が確実視されており、第1回投票 の結果、当初の予想通り、ルペン党首と「無党派(独立系)」で立候補したマクロン氏の両名が決選投票に進出した。

 確かに、事前予想ではルペン、マクロン両氏がやや優位に立っていたとはいえ、第1回投票直前では、中道右派のフィヨン氏と左翼のメランションの2氏を加えた4氏の支持率が20%前後で拮抗していた。このため、態度未定の有権者の動向によっては、4氏全員に決選投票進出の可能性があり、決選投票進出者が誰になるか予断を許さない状況であった。左右二大勢力に加え、極右(ルペン氏)と無党派(マクロン氏)が加わった四つ巴の選挙戦は第五共和国政治史上まれに見る大混戦であったといえる。

 そのような選挙戦の中で、特筆すべき事項として、現職大統領であるオランド氏が出馬断念に追い込まれたことである。更に、オランド大統領後継氏としての大統領与党(中道左派)の候補者が上位4人に大差を開けられていた。

 このような戦況情勢はフランス政治における「リベラル」或いは「左派」の退潮を示していた。「没落した中間層」を取り込むような「反緊縮」或いは「大きな政府」路線はメランション氏のような急進左派の主張となってしまい、冷戦終結後における左派・リベラルの主流派である「グローバリズムと多様性」では、最早「没落した中間層」をはじめとする国民多数派の支持を得られないような状況になっている 。

 マクロン新大統領は新首相に保守派のフィリップ氏(共和党)を指名した。現時点でのマクロン新党(「共和国前進」)の現職議員は社会党からの鞍替組のみという左派色が強いため、フィリップ首相指名を梃子に保守派の支持を獲得したいものと見られている。

135キラーカーン:2017/10/26(木) 00:30:57
6.3.1.4.2. 「NF(国民戦線)」に次はあるのか

 2017年の大統領選挙第一回投票では上位(有力)4名が支持率20%前後で争うという混戦となり、決選投票の顔ぶれさえ予想困難であった。しかしながら決選投票進出者は、事前の世論調査で僅差ながら上位であった、独立系(右派)のマクロン氏と国民戦線のマリーヌ・ルペン氏となった。その点では、激戦だったとはいえ、世論調査通りの「順当」な結果であった。

 国民戦線は2002年の大統領選以来の決選投票進出となった。2002年の大統領選では国民戦線は決選投票でも票の上積みができず(得票率は第一回投票から微増16.86%⇒17.19%)、決選投票に進出したことに意義があるという結果でしかなかった。

 しかし、2017年の大統領選挙では得票率を1.5倍以上に増やしており(21%⇒35%)、15年前に比べて国民戦線への拒否感は薄れているとみられる。国民戦線も人種差別主義的言動が目立った初代のジャン・マリー・ルペン氏から、二代目党首のマリーヌ・ルペン女史になってから、従来の人種差別的な政策ではなく、「フランス及びフランス国民ひいては欧州民主主義を防衛するための移民制限」という欧州の価値観防衛を前面に出している効果が表れていると見られる 。

 したがって、ルペン女史が共和党及び社会党という二大勢力を破り、決選投票に進出したという選挙結果は国民戦線にとって「次の大統領選」或いは国民議会選挙につながる敗北であったとみることができる。しかし、「反NF大同盟」に対抗できる切り札がなければ、マクロン新大統領が5年間の任期で結果を出せず国民戦線以外の選択肢が無くなったとしても、決選投票で勝利するには今のままでは不可能ということも予感させる。

136キラーカーン:2017/10/28(土) 01:06:19
6.3.1.4.3. 国民議会選挙(マクロン派の地滑り的勝利)
 「独立派」或いは「無党派」であるマクロン氏が大統領に当選したことで、次の焦点は、既成政党に基盤を持たないマクロン氏が6月の国民議会選挙で多数を握ることができるか否かに移った。もし、「否」となれば、コアビタシオンとなり、マクロン氏の権限は外交・防衛を中心とした外政事項に限定され、欧州の「右傾化」或いは「ネトウヨ化」に対する第一の処方箋となる経済政策や移民政策は国民議会の多数派の信任に基礎を置く首相の手に帰することとなる 。逆にマクロン新党(「共和国前進」)が過半数を制すれば、政府及び議会の双方におけるマクロン大統領の指導的立場が明確になり、マクロン大統領の政治基盤は安定する。

 議会選挙の結果 は、マクロン氏が率いる「共和国前進」が議会の過半数を占める地滑り的勝利であった(577議席中308議席。)。これまで仏政界を牽引してきた左右両派は主役の座から降りることを余儀なくされた。特に中道左派の凋落は激しいものがあった。

 国民戦線は議席を8議席(6議席増)としたものの、選挙制度の壁に阻まれ、議席数は振るわなかった。また、第一回投票結果同士で比較しても、大統領選挙から得票数を減らしており、大統領選挙での敗北の影響があったとみられる。その一方、メランション氏が所属する「屈しないフランス」は得票数は第一回、第二回双方とも国民戦線より少なかったが、国民戦線を上回る17議席を獲得した。

 この選挙結果により、大統領選と国民議会選を近接した時期に行いコアビタシオンを回避するという制度設計が生かされた形となっている。しかし、投票率も第二回投票で43%と史上最低を記録した(前回比11%減)。この点からも、マクロン氏の政権運営には不透明さが漂う。

 仏国でも、EU離脱問題は国内経済問題或いは移民問題と密接に連動している。この状況下で、コアビタシオンとなれば、「非決定による現状維持」の可能性も無視できず、マクロン氏の経済政策(一層のグローバル化の推進)が実行されないという可能性もある。兎に角、フランスの有権者は当面の国家運営をグローバリストに近いマクロン氏に託したということである。

 また、メランション氏率いる「屈しないフランス」が国民戦線を上回る議席を獲得した。このことも、「没落した中間層」を獲得できる政策が、これまでの主流派(左右問わず)からは出てこないことを意味している。マクロン氏の政権運営が失敗すれば、ルペン氏或いはメランション氏の存在感が増すこととなる。そうなれば、ルペン氏にせよメランション氏にせよ、これまでのグローバリズム的路線は転換を余儀なくされる。

137キラーカーン:2017/10/30(月) 01:30:14
6.3.1.4.4. マクロン大統領の失速
 これまで述べてきたように、大統領選挙に続き、国民議会選挙でもマクロン大統領が勝利した。このことにより、「コアビタシオン」の心配のないマクロン大統領の政権基盤は盤石なものとなったかのように見えた。しかし、就任後程なくしてマクロン大統領の支持率が急落している 。この支持率急落は前任のオランド大統領を上回るものと言われ、この趨勢が続けば、オランド前大統領のように、大統領の再選が望むべくもない情勢となる可能性も否定できなくなってきた。

 その場合、フランス国民の受け皿となるのは、「極右」の国民戦線とルペン党首か、「極左」メランション氏か。いずれにしても、
 これまでのような「中道」路線は否定される。
とは言っても、マクロン大統領には5年近い時間がある。言い換えれば、巻き返すだけの時間は残されている。また、マクロン大統領の人気が失速したことで、一敗地に塗れた中道右派の巻き返しのチャンスが巡ってきたともいえる。「マクロン一強」構造が崩壊の兆しを見せていることで、フランス政治の行方も予断を許さない状況となりつつある。

138キラーカーン:2017/11/05(日) 00:33:25
6.3.1.5. 独国(メルケル政権と「ドイツのための選択肢(AfD)」)
6.3.1.5.1. 総説
 メルケル政権はG7諸国の中で抜群の安定度を保ってきた。現在では、G7首脳の中で最先任となっている。また、2013年の連邦議会 総選挙 では、メルケル首相の出身政党であるキリスト教民主勢力(CDU/CSU) が約20年振りの得票率40%超えを達成し、議席占有率も1957年選挙に次ぐ2番目に高いものであった。

 2017年に国民議会の総選挙が行われ、キリスト教民主勢力(CDU/CSU)が引き続き第一党となった。与党の勝利は選挙前から有力視されていたため、その意味では予想通りであるが、選挙前には大連立を組んでいたしかし、他国と比べての保守政党が強いといわれるドイツにおいても反EU及び反移民を掲げる「ドイツのための選択肢(AfD;Alternativ Fűr Deutschland:英語ではAlternative for Germany)」という「極右」政党の台頭が著しい。AfDは2016年に行われた3つの州議会選挙(バーデン=ビュルテンベルク、ラインランド=プファルツ、ザクセン=アンハルトの各州)で5%阻止条項 を突破し、州議会での議席を確保した。

139キラーカーン:2017/11/08(水) 00:39:00
6.3.1.5.2. 堅調な与党(CDU/CSU)と極右政党(AfD)
 2016年に行われた地方選挙では与党第一党のCDU/CSUが堅調であり、地方選挙でも第一党の座を維持した。また、特筆すべき事項として、中央政界では二大政党の間でキャスティング・ヴォートを握り、長らく連立与党の座を維持してきたが2013年の総選挙で得票率が5%に達しなかったため、議席を失った自由民主党(FDP:Freie Demoktatische Partei、英語ではFree Democrat Party)も、一時期の低迷を脱し、連立与党として返り咲いた。

 緑の党は、環境保護を基本とした政党であり、基本的には左派政党と位置付けられている(これは他国でも同様)。しかし、同党の支持者層は、1980年代後半以降、所謂「ブルジョワ層」が主体となっている。その点では「富裕層が『リベラル』を訴える」という「リベラルのセレブ化」(というよりも「セレブのリベラル化」という表現がより適切か)という傾向はドイツにおいても妥当するといえよう。

 この結果、CDU/CSUは緑の党と支持者層が競合するという事態になり、緑の党も「敗者」である疲弊した中間層の声を救い上げる存在とはなっていない。

140キラーカーン:2017/11/12(日) 00:40:36
6.3.1.5.3. 極右政党(AfD)
 AfDは元来、EU離脱と移民反対という政策を掲げており、「国境」にこだわる政党であった。したがって、元来、AfDは反グローバル化を訴える政党ではあるが、経済主導型ではなく、「ドイツ」の維持というアイデンティティー主導型である。この点でAfD日本のネトウヨと共通している。そのため、発足当初のAfDは「没落した中間層」の支持を必ずしも期待しない政党ではあったことを意味している 。このため、本稿では、AfDを「欧米型ネトウヨ」ではなく「ドイツ側ネトウヨ」として独立した類型を設けた理由でもある。

 しかし、AfDは反グローバル化を主張していく中で、「没落した中間層」からの支持が高まり。政党としても彼らの支持を期待するようになる。この結果、AfDは失業率の高い旧東ドイツ地域で支持率が高い 。この点からも、他国と同様に国内の失業と「極右」政党の伸長との間に正の相関関係がみられる。全国レベルでも、連邦議会での議席獲得に必要な支持率である5%を世論調査でも一貫して超えており、2017年の総選挙での議席獲得が確実視されている。

しかし、AfDも2017年4月の党大会で、
①ペトリ党首が連邦議会への立候補辞退を辞退(党首辞任)
②穏健派(現実派)と原理派との路線対立
が明らかとなり、また、世論調査での低迷している(一時期は支持率が10%超であった)こともあり、一時期ほどの勢いは感じられない。

また、AfDの政策で特筆すべき部分として
①現在の歴史教育が『ナチス期に偏重』
②ドイツ史の肯定的部分への視野拡大
を要求しており 、日本における「つくる会」の「自由主義史観」に類似する部分もある。この点は、第二次世界大戦における敗戦国である日本とドイツとの共通点であるともいえる 。

141キラーカーン:2017/11/14(火) 00:13:13
6.3.1.5.4. 2017年9月総選挙
 2017年9月、任期満了によるドイツ連邦議会選挙が行われた。選挙前から、与党第一党であるCDU/CSUの第一党維持は確実視されていた。しかし、大連立を組んでいた二大政党(CDU/CSUとSPD:社会民主党)の一角であるSPDは大連立内閣で埋没し、党勢が伸び悩んでいた。それ以外の中小政党では、前回総選挙でAfDに支持者を食われる形で議席を失ったFDP(自由民主党)の議席回復とAfDの議席獲得が確実視されていた。

そのような中で選挙戦に突入し、投票結果は次の通りとなった。
① CDU/CSUが事前の予想通り第一党の座を維持したものの、246議席(選挙前 311)に減らし、CDU/CSUの得票率は1949年以降最低となった。
② AfDは94議席(連邦議会で初の議席)を獲得し、第三党となった。
③ 前回総選挙で議席ゼロとなった自由民主党も80議席を獲得し、連邦議会に返り咲いた。議席数では緑の党及び左翼党を上回る第四党となった。
④ 左派勢力では、社会民主党が第二党の座を維持したものの、史上最低の153議席(選挙前192)にとどまった。
⑤ 緑の党は69議席(選挙前63)及び左派党は67議席(選挙前64)と微増にとど まり、AfD及び自由民主党の後塵を拝することとなった。

 ドイツの「die Zeit」誌の分析によれば、今回総選挙の特徴は以下のとおりである
① 100万人以上の有権者が今回の総選挙でCDU/CSUからAfDに乗り換えた。
② 前回総選挙で左翼党に投票した者のうち11%がAfDに投票した。
③ AfDの得票のうち140万票が前回棄権した有権者である。
④ 今回自由民主党に投票した者の三分の一が前回総選挙ではCDU/CSUに投票した。

 この選挙結果から見れば、二大政党が議席を減らした分がAfDと自由民主党が分け合ったということになる。CDU/CSUは社会民主党との大連立で「左旋回」したため、CDU/CSUに取り残された右派の支持がAfDと自由民主党に流れ、前回総選挙で社会民主党に投じた層からは、CDU/CSU、緑の党、左翼党へほぼ均等に投票者が流出している。

 また、この選挙結果を受け、
① 大連立でCDU/CSUに埋没した社会民主党が連立を解消
② CDUと議会内統一会派を組むCSUが独自の立場で連立交渉に参加の動き
という事態が発生している。

 CDU/CSUと自由民主党の2党連立では過半数に達しないため、緑の党を加えた三党連立(ジャマイカ連立 )が本命視されているが、緑の党との政策距離が他の二党と離れていると見られていることから、この三党連立交渉は難航が予想される。

 連立の安定度から言えば、CDU/CSUと自由民主党の連立に社会民主党が加わる「超大連立」或いは総選挙前と同様のCDU/CSUと社会民主党が最適解であるが、社会民主党が歴史的敗北を喫した主因がCDU/CSUとの大連立にあったとの見解が一般的であるため、社会民主党が連立に加わることは現状ではあり得ない。

 その一方、安定した連立政権樹立には、与党の政策距離が近接或いは政策位置が連続している必要があるとする連立政権形成理論がある 。したがって、社会民主党を飛ばして緑の党を連立与党に加える「ジャマイカ連立」は連立政権の安定度に黄信号が灯るという結論になる。

 この結果、「ジャマイカ連立」の交渉が難航し、緑の党が連立に加わらない(或いは緑の党が閣外協力に転じる)CDU/CSU-自由民主党という少数連立政権の選択(これでも、社会民主党、緑の党、左翼党という「左派系」3政党の議席数の合計を上回る)の可能性も否定できない。

 更には、連立交渉難航の末、「三顧の礼」をもって社会民主党を連立与党にする大連立の復活もあり得ない話ではない 。この場合の前提は、緑の党との連立交渉が決裂することが前提である。過去において、CDU/CSU及び社会民主党双方との連立経験がある自由民主党が連立与党に留まるかは流動的である。

 AfD躍進の陰に隠れているが、連立政権となるメルケル政権の安定度にとっては、社会民主党の大敗、自由民主党の復活という「穏やかな右傾化」の影響の方が大きくなっている。

142キラーカーン:2017/11/18(土) 02:13:28
6.3.1.5.5. 今後のドイツ政治・社会
 既に述べたように、AfDの支持者層は、元来、「没落した中間層」ではなかった。しかし、反移民、反EUを訴える中で、「没落した中間層」を支持者に取り込んでいくうちに、運動方針も過激化していった。そのことは2017年総選挙での投票結果にも表れている。AfDは旧東ドイツ地域での得票率が高く、ルール地方或いは大都市での得票率が低い 。CDUよりも保守的と言われるCSUの地盤であるバイエルン州においてもAfDは順調に得票を伸ばしている。

 このことは、移民による「没落した中間層」の存在はドイツにおいても存在していることを意味している。大連立によるCDU/CSUの「左旋回」により、中道右派から保守に位置する有権者層の受け皿として従来のFDPと並んでAfDが選択されている。また、AfDには左翼党からも支持者を獲得していることから、旧東ドイツ地域を中心に「没落した中間層」からの支持を得ているとみられる。

 ドイツにおいて移民制限について議論することは、ホロコーストというナチスドイツに関する「歴史認識」を問われることと不即不離の問題として。この点が他の欧米諸国とは異なるドイツ独自の事情として存在する。そのため、先に述べたように、AfDもナチス時代の「自虐的な」歴史認識を問題としている。

 また、AfDは、その主張を過激化していった。政党が、主張を過激化・明確化・純化することは、「固定票」を確実に獲得できることが見込める。このことから、包括政党を目指さない(≒連立与党入りを目指さない)単一争点型政党において、確実に得票を重ねるため、そのような主張の過激化を行うことが発生する。AfDにおいても例外ではなかった。今回総選挙でも、選挙後にAfDの穏健派幹部が離党した 。
 EUの下で「欧州の盟主」として繁栄してきたドイツも他国と同様に、グローバル化による社会の分断の洗礼を受けている。これまで、先進国随一の安定度を誇ってきたメルケル政権の「最後の正念場」といえるかもしれない。

143キラーカーン:2017/11/22(水) 00:07:11
6.3.1.6. 伊国(「フォルツァ・イタリア」の勃興)
 イタリアでは、かつての自民党のように保守政党であるキリスト教民主党(DC)が一党優位的な政党構造であった。そのような一党優位的な政党構造は1990年代初めの「タンジェントポリ」といわれる政界汚職事件でDCをはじめとする既成政党が軒並み甚大な損害を受け、イタリア議会は再出発を余儀なくされた。このため、タンジェントポリを契機とする政治改革が一応の成果を見た1994年以降は第二共和政と言われる。

 イタリアは、北部が工業、南部が農業(一次産業)と南北の相違が明確であった。ミラノ、トリノという工業化の進んだ大都市を要する北部の方が経済的に豊かであった。そのため、北部の豊かな経済を他地域に分配せず、北部で独占すべきという方向での排外主義が生まれた。

 そのような「裕福さを維持するための排外・分離主義」 的な政党として「北部同盟」が1980年代末に結成された。国外では仏国民戦線や蘭自由党という「極右」政党と連携しているため、一般的には「極右」と言われている。国会や欧州議会にも議員を送り出しているが、地域政党の域に留まり、全国レベルでは、ベルルスコーニ氏が率いる「フォルツァ・イタリア」が右派の主軸となり、しばしば下院第一党 の座を獲得している。その結果。ベルルスコーニ氏も何度が首相の座に就いている。

 「フォルツァ・イタリア」は保守政党に分類され、「極右政党」や「ポピュリスト政党」には分類されないのが一般的である 。しかし、かつてイタリアを代表する保守政党であったDCとは異なり、イデオロギー上の明確な核を持たない政党と言われている。
また、政党としての行動もトップダウン型の「身軽さ」を武器にしていることと相まって、「フォルツァ・イタリア」はベルルスコーニ氏の「個人商店」という趣がある 。このため、「フォルツァ・イタリア」はDCのような保守政党というよりは「ポピュリスト政党」として扱われることが多い。このような「融通無碍」さと「身軽さ」が、「フォルツァ・イタリア」は保守政党ではなくポピュリスト政党に分類される理由ともなっている。

 結党当初、「フォルツァ・イタリア」は「1ビット」或いは「敵か味方か」的な二元論的な主張を繰り広げた。これは、イタリア第二共和制において、第一党に有利な比例代表制を取り入れたため、「右」のブロックでの優位を確実にするための行動とも言われている。この点も、小選挙区導入が主眼であった日本の「政治改革」と共通する。

 結局、ベルルスコーニ氏の個性、崩壊したDCをはじめとする既成保守層の取り込み、イタリアにおける二大政党ブロック化に伴う政策争点の近接化 など種々の要因が絡み合って、「フォルツァ・イタリア」は、イタリア政界において、「極右」ではなく、保守の「主流派」に近い位置を占めることとなった。
フォルツァ・イタリア」は2009年に「国民同盟」と合同して「自由の人民」となったため、一度、政党としては消滅した。その後、ベルルスコーニ氏が「自由の人民」から分派する形で、2013年、「フォルツァ・イタリア」が再結成され、現在に至っている。

144キラーカーン:2017/11/23(木) 00:27:23
ドイツの連立交渉が難航しておりますが、
問題は
1 AfDを連立交渉から排除
2 社民党は連立与党にはならない
という連立方程式の「答えが無い」と言う状態に陥ったことです

選挙結果から見れば、CDU/CSUと社民党との大連立
しか答えが無いのですが、上記の「2」から、それが不可能
となっていることです。

ここまでくれば、社民党に首相の座を渡してのCDU/CSUと
社民党との大連立継続という奇手も出てくるかもしれません

145キラーカーン:2017/11/26(日) 01:12:54
6.3.2.1. オランダ(既成政党が辛うじて踏み止まった)
6.3.2.1.1. 「極右」政党成立前史
 オランダでは、長く社会民主主義政党(左派)、キリスト教民主主義政党(中道右派)、自由主義政党(右派)が三大政治勢力であった。1970年代からの都市化、グローバル化などにより、これら三大政治勢力の支持基盤が流動化した。三大政治勢力の中で、この流れに乗ったのが自由主義政党であった。20世紀初頭から、「万年三位」に甘んじてきた自由主義政党が、2000年代初頭には、世論調査で、しばしば支持率第一位になるまでに党勢を拡大してきた。

 世論調査での支持率が一位となる事は議会第一党の座が視野に入るということを意味する。そして、それは、1918年以来、久しく絶えてなかった自由主義政党からの首相輩出が現実のものとなる事を意味した。自由主義政党からの首相輩出が指呼の間に迫ったその時、オランダ政界は激震に襲われることとなる。「フォルタイン党」の結成と同党の躍進であった。

 イスラム圏からの移民増大により、「没落した中間層」が発生した。彼らの不満が醸成される中で、イスラム教徒の「排他的」性格が、欧州の「自由主義」と相容れないのではないかという疑念が沸き起こってきた。それは、911同時多発テロ事件以降、イスラム過激派によるテロの増大によって裏書されてきた。

 そのような中、イスラムとの「融和」を唱えるリベラル・左派よりも、欧州の「自由主義の敵」としてイスラムを理解するという「排外主義」が発生してきた。オランダの「極右」政党は、そのような「西欧的価値観の守護者」として現れた。

146キラーカーン:2017/11/27(月) 00:59:19
6.3.2.1.2. 「フォルタイン党」の結成と躍進
 総選挙 を2か月後に控えた2002年3月、有名コラムニストのフォルタイン(Fottuyn)が「フォルタイン党」を設立した。同党の方針は、①既成政党批判、②多文化主義批判ひいては移民批判、が二本柱であった。結党二か月程度、そして、フォルタイン党首が投票日直前に暗殺されたのにも拘らず、同年5月の総選挙では第二党となり、連立与党の一角を占めた。

 初の総選挙で第二党に躍り出たフォルタイン党の政策や同党の躍進に見られる既成政党への不満は、支持者層が(一部)重なる他の連立与党(キリスト教民主主義力及び自由主義政党)にも影響を与えていった。フォルタイン党以外の連立与党は支持者をフォルタイン党に奪われるのを防ぐため、キリスト教民主主義勢力や自由主義政党は連立政権の政策として移民規制を取り入れることとなった。
フォルタイン党躍進のあおりを受け、2002年の総選挙では、自由主義政党は議席数を三分の二程度(38議席から24議席)まで減らすという敗北を喫した。この結果を受けて、自由主義政党も一般党員の声を聴くという「党内改革」を打ち出した。

 自由主義政党は、それまで、地方名望家などからなる「エリート政党」という色彩を残していた。しかし、フォルタイン党の躍進を受け、自由主義政党でも、「エリート」以外の支持者の不満を解消するため、一般党員や党員ではない支持者の声を丹念に拾い集めるという「党内改革」を行った。しかし、その「党内改革」は党勢を立て直すのではなく、本来の支持者層である所謂「エリート層(富裕層や地方名望家)」とそれ以外の党員・支持者との「路線対立」を引き起こした。後者は、後に自由主義政党を離脱し、自由主義系ポピュリスト政党を立ち上げることとなる。

147キラーカーン:2017/11/28(火) 00:45:07
6.3.2.1.3. 自由主義系ポピュリスト政党の出現とフェルドンクの退場
 フォルタイン党の躍進を契機とした自由主義政党の路線対立から、自由主義政党を離れて独自の政治活動を行う者が現れた。そして、その中から政治指導者として現れたのがウィルデルス(Wilders)とフェルドンク(Verdonk)であった。まず、フェルドンクについて述べる

 フェルドンクは、学生時代、最左派に属する政治的立場を取っていた。しかし、司法省や内務省での勤務経験を積むうちに「右旋回」し、自由主義政党へ入党することとなる。フェルドンクは女性であったこともあり、フォルタインに支持基盤を切り崩されようとしていた自由主義政党立て直しの旗頭とされた。フェルドンクは外国人・移民問題担当大臣として入閣し、移民・難民に対して厳しい政策を実施していった。

 そのような「右傾化」した政策は党の内外に物議を醸しだしたが、世論調査の結果を見る限り、彼女の人気は上がっていった。その国民的人気に対する反作用として、エリート主義の抜けきらない自由主義政党内部では、彼女は冷ややかな視線を浴びていた。とはいっても、自由主義政党はフォルタイン党の出現以後、有権者の支持を獲得するため「民主化」を迫られていた。2006年、来る総選挙の筆頭候補者(≒首相候補)を、初めて、一般党員の投票で決定することとした。彼女は筆頭候補者を争う党員選挙では、主流派の擁立した候補に敗北したが、彼女は諦めなかった。

 オランダの下院総選挙は比例代表制でありながら、個人名での投票も許容されていた 。この選挙生徒を利用して、彼女は、個人名投票を事実上の国民投票として、党員選挙での逆転を図ったのであった。その結果、本番の総選挙では、彼女は、自由主義政党の個人票で最多得票を獲得した。しかし、党執行部は党員投票の結果を優先したため、彼女と党執行部との亀裂が深まり、彼女は離党を余儀なくされた。

 彼女は新党「オランダの誇り」を設立し、2010年の総選挙に臨んだが、党内の指導力を確立できず、また、かつて左派の政治志向を持っていたことが災いし、獲得議席は「ゼロ」であった。この結果、彼女は政界引退を余儀なくされた。

148キラーカーン:2017/11/29(水) 00:34:32
6.3.2.1.4. ウィルデルスの台頭と自由党の結成
 ウィルデルスは10代後半にイスラエルに長期滞在した経験を持つ。その際にイスラムに潜む問題性を認識したといわれている。その後も、イスラエルを頻繁に訪れている。

 イスラエルから帰国してからは、オランダの社会保険関係の機関で勤務した。その時の経験から、労使の組織利益が優先されオランダ全体の利益が蔑ろにされているとの考えを持つに至ったとされている。その後、オランダの自由主義政党に入党し、有能な党職員として頭角を現した。また、イスラムに対する問題意識から、911同時多発テロが起きる以前からイスラム教徒によるテロの可能性を指摘していたことから注目を浴びるようになった。

 しかし、その後、イスラムを巡る扱いで、穏健路線をとる党執行部や議員団と衝突し、自由主義政党を飛び出し、独自の政治活動を行うようになる。

 ウィルデルスは2005年の欧州憲法条約批准を巡る国民投票で、反イスラムの立場を取り、国民投票を批准反対に導いた政治指導者としても注目を浴びるようになる。この結果を受け、ウィルデルスは「自由党(Partij voor de Vijheid:Party for the freedom)」を設立した。

6.3.2.1.5. 自由党の躍進
 自由党として初の総選挙となった2006年の総選挙において、自由党は得票率約6%で9議席を獲得した。その後。同党は10〜15%程度の得票率であり、オランダ政治における主要政党の座を獲得したといってもよい 。

 ウィルデルスは、イスラムの脅威を訴え、断固とした措置を訴える一方、既成政党による「古い政治」を打破するという姿勢を取り続けている。そのような自由党の支持層は、男性、若年層、非キリスト教徒、低学歴といわれている。それに加えて、「移民に批判的」及び「既存の政治に対する不満が強い」、「直接民主主義志向」があるといわれている。

149キラーカーン:2017/12/03(日) 00:15:30
6.3.2.1.6. ウィルデルスとフェルドンクを分けたもの
 ウィルデルスとフェルドンクは「似た者同士」であった。しかし、現在では、ウィルデルスの自由党は主要政党の一角を占め、フェルドンクの「オランダの誇り」は1議席も獲得できず政治の表舞台からの退場を余儀なくされた。このように、両者の現状は対蹠的である。

 では、ウィルデルスとフェルドンクの明暗を分けた者は何であったのか。ウィルデルスの手法を見ると
① 自由党員はウィルデルス「ただ一人」である(候補者や運動員は支援者に過ぎない)。
② 候補者の「質」には細心の注意を払っている(議席数よりも議員の質を優先)。
③ ウィルデルスの「一人政党」のため、制度化と意思検定に関する問題が生じない
と、「一人政党」ポピュリスト政党が陥りがちな急激な拡大による、①質の劣化、党としての規律低下、という悪弊を避けていることが自由党の成功の要因と見られている。

 一方、フェルドンクは、政治の「アウトサイダー」として民衆の期待を煽るカリスマという「正統的なポピュリズム」の道をなぞっていた。そして、そうであるが故に、政党の規律などが欠如し、「風頼み」から脱却できなかった。これが、ウィルデルスとフェルドンクとを分けたものであるといえよう。

150キラーカーン:2017/12/05(火) 23:46:18
6.3.2.1.7. 2017年総選挙(自由党の第一党ならず)と左右分極化?
 2017年3月に行われた総選挙は、英国のEU離脱、米国でのトランプ大統領誕生と「ネトウヨ化」の流れの中で行われることとなった。このような世界情勢を受け、オランダでも自由党が第一党(=ウィルデルスが首相となる)となる予想が有力であった 。しかし、選挙結果は、与党第一党である自由民主国民党(Volkspartij voor Frijheid en Democratie:People’s party for Freedom and Democracy)が踏ん張り、第一党の座を維持した。自由党も議席数を増やした(15議席⇒20議席)ものの第二党に留まり、ウィルデルス首相の誕生とはならなかった。

 この選挙結果は土壇場で「極右」政党の首相を阻止したが、自由党を「拒絶」したわけでもない。それどころか、国民への支持は広まっており、将来のウィルデルス首相誕生の可能性を残したものであった。

 このように、保守、右派が支持を伸ばしたのに対し、連立与党である中道左派の労働党(Partij van de Albeid:Party of the Labor)が議席を激減させた(38議席⇒9議席)。しかし、候等よりも「左」に位置する環境左派である「GL」(Groen Links:Green Left)及び「民主66」(Politieke Partij Democraten 66:Political party Democracy 66)が議席を伸ばした(GLが4議席⇒14議席、民主66が12議席⇒19議席)ことから、英仏両国と同様に左派の支持層が中道左派から急進左派へと「左傾化」或いは「過激化」していることが伺える。

 これは、左右両派で、穏健な中道路線よりも「過激な」路線が好まれている、或いは、「大統領制化」の影響と見ることも可能である。

 とにかく、自由党の第一党は指呼の間に迫ってきた。大統領選或いは総選挙で「敗北した」フランスの「国民戦線」とは異なり、次の総選挙でのウィルデルス首相の可能性が現実のものとなってきた。それとの合わせ鏡のように勢力を伸ばした急進左派勢力にも注目する必要がある。「イタリア第一共和制」のような分極化された多党制 に向かうのか、それとも、中道右派勢力が勢力を維持し、中道左派が巻き返すことにより、「国民統合」を回復するのかが注目される。

151キラーカーン:2017/12/08(金) 00:47:29
6.3.2.2. スイス(「魔法の公式」の崩壊)
6.3.2.2.1. スイスの政治体制と「魔法の公式」
 スイスは有名な多言語国家 であり、また、建国の経緯からも、連邦制を採っている。内閣を形成する7人の大臣は「同格」であり、輪番で1名が連邦大統領の職を務める。国会は、二院制である。同じく連邦制を採るドイツと同様に、国民による総選挙(比例代表)で選出される国民議会と州代表で構成される全州議会からなる。

 スイスは、内閣の構成員は、1名ずつ両院議会総会で過半数の賛成でもって選出される。スイスは、言語、宗教、地域による差異が大きく、内閣の構成員を選出する過程で与党は「過大規模連立」となりやすい。この結果、スイスでは、1950年代末から、自由民主党、キリスト教民主党、社民党及び農民党が7つの閣僚の座を2:2:2:1で分け合うという体制が維持されてきた。この内閣構成員の配分比率は「魔法の公式」と呼ばれてきた。

152キラーカーン:2017/12/09(土) 00:28:56
6.3.2.2.2. 「農民党」から「国民党」へ
 内閣構成員を送り出していた主要4政党は、特定の社会階層を支持基盤とするのではなく、国民全体を支持基盤とすべく包括政党化を目指していた。ここでは、農民党を取り上げる。農民党は1971年に「スイス国民党」へと党名を変更し、党の路線も保守から中道へ移行させたが、支持率は1990年代初頭まで10%程度にとどまっていた。

 地方レベルでは、農民党の系列であるチューリヒの地域政党「チューリヒ州党」が1970年代後半に実業家のクリストフ・ブロハー(Christoph Blocher)を党首に選出したことで、同党は転機を迎える。ブロッハーは「経営者目線」で党の改革に着手したが、支持者を若年層や女性に拡大したが、自由主義的な方針であったため環境問題等で立ち遅れ、1980年代後半には党勢は頭打ちとなった。

 この情勢を受け、ブロッハーは党の政策を「右転回」させていく。ブロッハーは「真面目」に働く者こそが「真のスイス人」であるとし、外国人などと区別していった。併せて犯罪や麻薬などの問題を「社会の安全」の問題と捉え、この両者を「移民」で結びつけた。 この結果、ブロッハーの政策は「怠け者の外国人」にも福祉を提供するリベラル的政策とは一線を画し「福祉排外主義」に近くなっていく。

 この「右転回」が功を奏し、国民党は1990年代に支持を伸ばしていく。この背景には、国民投票の機会が多いスイスの政治制度があると見られている。国民投票の度に、各政党は直接国民に訴えかける機会が発生し、国民党はそれを支持率向上へ結び付けた。
この実績を基に、ブロッハーはチューリヒの地方政治家の枠を超え、1996年の党大会で自派が党首と国民議会議員団長を獲得した。これは、ブロッハーが国民党内の権力闘争にも勝利したことを意味していた。

153キラーカーン:2017/12/11(月) 23:05:45
6.3.2.2.3. 国民党の急成長(党首の発信力とネット時代への対応)
 欧州各国の谷間にあって永世中立国として冷戦の影響をあまり受けなかったスイスであったが、(経済の)グローバル化の波は例外なくスイスにも襲ってきた。「魔法の公式」を支えてきた主要政党の「棲み分け」の基礎となっていた宗教や都市/農村などによる旧来の社会的分断線が曖昧となってきた。その代わりに、グローバル化における「勝ち組」と「負け組」が新たな社会的分断線として浮上してきた。

 国民党は冷戦終結という事態に対応し
① 反共・反社会主義(特にマスコミ、大学の「左傾化」への反感)
② スイスの歴史の中に存在する自由と自立の擁護による新自由主義と保守主義の両立
を柱として、冷戦後の社会主義・共産主義の敗北とグローバル化が進む世界情勢に巧みに対応し、スイス国民の支持を伸ばしていった。

 このようなグローバル化の進行の中で「負け組」に分類されたのは、伝統産業、自営・中小企業経営者、農民、肉体労働者であった。彼らは、当初、既成政党ではなく、「極右」に分類される新興政党の支持基盤となっていったが、最終的には国民党へ吸収されていく。

 「勝ち組」のうち、経営者層は国民党の支持基盤となっていき、情報・文化産業労働者や知的労働者層は社民党などのリベラル勢力の支持基盤となっていった。このように、国民党の支持者は「没落した中間層」に代表される「負け組」だけではなく、「勝ち組」(市場万能主義者)も存在していた。この点グローバル化における「勝ち組」を支持者に取り込んだという点において、スイス国民党は、日本の「維新」や「みんなの党」に代表される「第三極」と共通した特徴を持つ。

 また、国民党はブロッハー党首の「発信力」を活かし、他党に先んじて議題や論点を設定し、有利な土俵を設定した上で議論を有利に展開した。このスタイルはインターネットが普及したという時流にも乗った。この点も橋下徹氏の「発信力」と「ディベート力」に依存した大阪維新系の政党との類似性がある。

154キラーカーン:2017/12/13(水) 00:02:10
6.3.2.2.4. スイスの政治制度と「二者択一」との親和性(国民投票制度)
 スイスは、他国のような行政府の長が存在せず、国会議員から選ばれた7人の閣僚が対等であるという大統領制とは程遠い政治制度である(「首相」に相当する閣僚会議議長は輪番制)。しかし、5万人以上の署名を集めれば通常の法律案でも国民投票に付すことができるという制度があるため、他国に比べ、立法過程において国民投票が行われる頻度が高い。国民投票では「賛成」か「反対」の二者択一となるため、国民投票は全国規模で有権者に二者択一を迫ることとなる。

 このような国民投票が多用されるスイスの政治制度において、国民党が行った二者択一的な訴えは効果的であった。この結果、大統領制或いは大統領制化と程遠いとスイスの政治制度においても、大統領制化とは異なる形で二者択一と親和性の高い政治体制の下で「ネトウヨ化」が進んでいった。

6.3.2.2.5. スイスの「歴史認識」とネトウヨ化
 橋下元大阪市長の政治手法に見るまでもなく、二者択一的な訴えを行う場合、「敵」を措定する方が広範な支持を集めやすい。しかし、敵を措定するためにも、ある程度は「アイデンティティー」を持っておいた方がよい。スイス国民党がそのために用いたのは「歴史認識」であった。

 第二次大戦期、スイスにも、少なくないナチ協力者が存在したといわれている。しかし、国民党はスイスの現在に至るまでの独立と永世中立の歴史を前面に出した。具体的には
① エリートはともかく、一般国民は中立を守った
② 中立を守るために国境を守る『排外主義』は肯定される
③ スイスの連邦制を堅持することによる「国民投票制度」の維持
というものであった。

 国民党は、スイスの「誇りある歴史」を援用することによって、これまでの支持層を維持しつつ「極右」、肉体労働者、単純知的労働者という「没落した中間層」をはじめとする新規支持者の獲得に成功した。この結果、1999年の総選挙で議席数では社民党に及ばなかったものの、得票率では社民党と並ぶ第一党になった。

 このように、スイスの「ネトウヨ化」も他の欧米型(ドイツを除く)と同様に、移民問題に代表される経済問題主導型であるが、歴史認識を「ネトウヨ化」の補強材料としている点が他の欧米型ネトウヨ勢力とは異なる。

155キラーカーン:2017/12/13(水) 23:59:13
6.3.2.2.6. 国民党の伸長と「魔法の公式」の崩壊
 国民党は、得票率で第一党に躍り出た1999年選挙以後、「魔法の公式」の変更を目指した。しかし、先に述べたように、閣僚の選出には両院総会で過半数の賛成を得る必要がある。しかし、過半数を制する政党が存在しない現状では、閣僚の選出には、他党の協力が不可欠である。この閣僚選出制度が障害となって、国民党は、一人しか閣僚を選出できず、さらに、国民党の伸長(ネトウヨ化)の立役者であるブロッハーを閣僚に選出することができなかった。この背景には、閣僚の選出は現職優先ということもある。

 このため、国民党は「閣内野党」的立場を強め、国民投票制度を活用することによって政府に揺さぶりをかけていった。国民党は2003年の総選挙で、議席数、得票率ともに第一党の座を勝ち取った。国民党はブロッハーを含む2人の閣僚を送り込むことに成功した。それとの入れ替わりで、キリスト教民主党の閣僚数が1になった。

6.3.2.2.7. 国民党とスイスはどこへ向かうのか
 「魔法の公式」を覆してブロッハーの入閣に成功した後、国民党は内閣の決定をコンセンサス・全会一致方式から多数決制に変更しようとする。他の主要三政党は、危機感を持つ。しかし、2007年の総選挙で国民党は更に党勢を伸ばし、議席数・得票率とも史上最多となったのである。

 ここで、他の主要三党は「禁じて」を放つ。現職優先の閣僚選出の両院総会で現職閣僚であるブロッハーの再選を阻止したのである。この結果、国民党は下野し、選出された閣僚は党籍を離脱することとなった。国民党内でも「路線対立」が表面化し、ブロッハーを支持しない「穏健派」が国民党を離脱し「市民民主党(Bürgerich Demokratische Partei)」を結成した。その後、国民党を離党した閣僚が辞任し、その後任に国民党の閣僚が選出されたため、国民党は与党に復帰した。この結果、「魔法の公式」は自民:2、社民党:2、キリスト教民主党、国民党、市民民主党各1となった。

 2015年の小選挙では過去最多議席を更新し、閣僚配分も自民:2、社民党:2、キリスト教民主党:1国民党:2と2003年時点に復帰した。今後も、国民党の第一党体制はしばらく続くものと見られる。ただし、「協調・多極共存型」と言われるスイスの民主政治に意義を唱えたブロッハー国民党は今が絶頂期 であるとの見方もある。この後、スイスはどこへ向かうのだろうか。

156キラーカーン:2017/12/16(土) 01:13:42
6.3.2.3. オーストリア(ハイダーと自由党を中心に)
6.3.2.3.1. 総説
 オーストリアは、戦後長く、中道右派の国民党(Österreichsche Volkspartei:ÖVP)と中道左派の社会党(Sozialistische Partei Österreichs:SPÖ)との二大政党制となっていた(社会党は1991年に社会民主党へ改名)。1980年代半ばまで二大政党の間で埋没していた小政党であった.オーストリア自由党は1980年代半ばから勢力を伸ばし、1999年総選挙で国民、社会両党に匹敵する議席を獲得し、中道右派の国民党の連立相手として政権与党にもなった。これが、西欧諸国の極右政党の中で初めて政権与党となった事例である。

 オーストリアは大統領と首相の双方が存在する。大統領は国家元首であり、憲法上、首相以下の閣僚、最高裁判事などの高官の任免権を持ち、下院の解散権も有する。しかし、大統領の権限は首相によって代行されている。このため、オーストリアの政治体制は、憲法上は半大統領制と言えるが、実際上は議院内閣制となっている 。

 オーストリアドイツと同様に連邦制を採っている。このため、上下両院の選出方法もドイツと類似している。上院は各州代表として、各州議会によって指名される。しかし、ドイツとは異なり上院議員は個人で投票に参加する。下院は比例代表制により国民の直接選挙で選出される。

 比例代表制であっても、オーストリアは長らく社会党と国民党が二大政党として君臨していた。オーストリアの政党政治の特色として、両党の単独政権だけではなく、両党による「大連立」政権がしばしば樹立されることにある 。このため、オーストリアの政治風土は二大政党による対立主義ではなく、二大政党を含めた各種利益団体の同意・コンセンサス志向型 であるといわれる。しかし、冷戦終結後、グローバル化の流れの中で、そのようなコンセンサス方式による意思検定が揺らぎつつあった。

 ハイダー氏が党首となって以後の自由党は、グローバル化と冷戦終結という世界の変化に対応し、二大政党によるコンセンサス方式を(時代遅れ)の「既得権益」と攻撃する一方、グローバル化による外国人の流入によってオーストリア人のオーストリアが乱され、また、外国人によって国内オーストリア人の雇用が奪われたという主張を展開した。この点において、自由党は他の欧州諸国の極右政党と同一線上にある。しかし、旧ナチ党員の親を持つハイダー氏が「親ナチ」的だとして明確に排除の台頭となったのは他国と様相を異にする。

 また、ハイダー氏は党首討論などで「党首の個性」というものを党の任期を直結させることに成功しており、その点からは政治の「大統領制化」という最近の特徴も備えている。
自由党の政権参画は、そのコンセンサス方式放棄の流れを決定づけた。1990年代以降、自由党の躍進により、国民・社会(社民)二大政党制から、国民、社民、自由の三党鼎立体制となりつつある。

 しかし、「大連立」が例外的な手法ではないというオーストリアの政治風土は、大統領選挙のように「あれかこれか」という二者択一、ひいては国家規模の分断を迫る「1ビット脳的」政治とは異なり、「あれもこれも」という「ネトウヨ化」に対する処方箋の可能性を感じさせるものである。

157キラーカーン:2017/12/17(日) 23:09:36
6.3.2.3.2. ハイダー自由党の党勢拡大と政権参画
 オーストリア自由党(Freiheitliche Partei Österreich:FPÖ)は、ハイダー氏が党首になるまでは得票率5〜6%の小政党に過ぎなかった。1980年代前半には右派の国民党内では左派(リベラル派)に属するシュテーガー(Steger)党首の下で社会党と連立政権に参加することもあった。
しかし、連立政権に参加したことによる埋没及び、経済のグローバル化を背景に自由党内はシュテーガー党首のリベラル路線よりもイェルク・ハイダー(Jörg Haider)氏の「極右」路線が自由党内で支持を拡大したことが挙げられる。元ナチ党員を両親に持つ家庭環境で育ったハイダー氏は自然と戦後の「非ナチ化」に反発し、親ナチ的思想、ドイツナショナリズムを身に着けていった。ハイダー党首は自由党の「右傾化」を主導し、国民党躍進の立役者となった 。しかし、その言動から、ハイダー党首には親ナチ的政治家という評価が定着していた。

 ハイダー氏は自身に対抗する党員を自由党から追放するなど自由党の党内権力を掌握していき1986年には党首に就任した。ハイダー氏は党内権力掌握の過程において執行部よりもハイダー氏個人の指導力に負っていた部分が大きい。この点においても、現代政治における「大統領制化」を先取りしたものといえる。

 ハイダー党首は、既成政党を既得権益層として、学者、マスメティアを左翼・共産主義者として、外国人をオーストリア人の職を奪う者として郷劇の対象とした 。その結果として、EU(欧州統合)懐疑主義を採っていた。

 自由党はハイダー氏が党首に就任した1986年9月以降から党勢を拡大させ、冷戦終結によってその勢いを加速していき、1999年の総選挙で65議席獲得した国民党に次ぐ第二党 となり、ついに連立与党となった。

 スイスと同じくオーストリアにおいても経済のグローバル化と冷戦終結により、国民党、社会党という二大政党への凝集力は失われつつあった 。

 ハイダー自由党は、このような「極右的」主張を行うことによって、これまで「代替案」の存在しない政治体制(≒「大連立」が頻繁に生起する体制)の中で、二大政党制に風穴を開ける唯一の選択肢となり得たのであった。その結果、この二大政党に飽き足らない国民、特に若年層に対して、「既得権益に切り込む新しいリーダー・政党」という形で支持を拡大していった。元来、自由党は高年齢の自営中間層を基盤としていたがハイダー党首の下で若年層はもとより、ホワイトカラー。主婦、自営業者にも支持を拡大していき、更には、1999年の総選挙で、ハイダー自由党は社会党と匹敵し得る程度に労働者層の支持を集めるようになっていた。

 しかし、ハイダー党首の親ナチ的言動が問題とされ、入閣が見送られることとなった。州知事として統治経験を有していたハイダー党首が入閣できなかったことにより、自由党は政権の中で埋没していった。

 自由党の政権参画により、
① 政府事業の民営化
② 社会保障ではなく、自助努力を優先
③ その一方で育児手当の拡大
④ 法人減税
という新自由主義的政策変更がもたらされた。ただし、上記「③」については、女性、特に母親がフルタイムの労働者ではなく、パートタイマーを選択する誘因となり、「母親が家庭にいる」時間の拡大をもたらすという「保守的な」効果があった。

158キラーカーン:2017/12/19(火) 23:33:44
1.1.1.1.1. 自由党の失速から「オーストリア未来同盟」の結成、そしてハイダー氏の死
 連立与党となった自由党であったが、失速の兆候は1999年の総選挙直後から存在していた。

 既に州知事でもあったハイダー党首は、その言動から親ナチス的政治家とみなされていた。そのため、総選挙の結果、政権与党入りが確実になると、周辺諸国から、反ハイダーの声が高まり、ハイダー党首の入閣が見送られたのは先に述べたとおりである。与党経験が長い国民党、特にシュッセル首相(国民党党首)に対し、与党経験のない自由党が渡り合うためには、州知事経験のあるハイダー党首の副総理(格)としての入閣がほぼ必須条件であった。しかし、ハイダー党首の言動が災いし、その条件は成就しなかった。

 自由党は、国民党との連立政権の中で埋没し、支持率を低下させていった。ハイダー自由党は既得権益への「対抗者」ではなく、政権与党として「既得権益」側として選挙戦を戦うことを強いられた。その結果、連立与党となった後の地方選挙で得票率を減らし続け、2002年総選挙で議席をほぼ三分の一に激減するという「大敗」を喫したことが如実に表れていた。そのことは、1999年の総選挙でハイダー自由党が二大政党から「奪った」有権者が二大政党への「帰還」を意味していた 。

 ハイダーは入閣できなかったことを逆手に取り、自由党の党勢が失速したのは入閣した自由党幹部の責任とし、彼らを自由党から追放することに成功した。その後、ハイダー氏が党首に就任しないため、党首は短期間での交代が続き、自由党の体制は混乱した。結局、ハイダー氏は自由党から脱党し、「オーストリア未来同盟(BZÖ:Bundnis Zukunft Österreich)」を結成し、自由党所属議員の殆ど(18人中16名)がハイダー氏と行動を共にした。この結果、自由党の党勢の衰えは決定的になった。

 しかし、結局、「未来同盟」が自由党と入れ替わる形で連立与党となり、「未来同盟」もこれまでの自由党と同じく自由党の「ポピュリスト」的政策と連立与党としての責任との間で板挟みになり、党勢は伸び悩んだ。その結果、2006年総選挙では総選挙前の16議席から7議席に議席を減らした。この選挙では社民党が第一党に返り咲き、国民党との「大連立」が復活した。

 その後、2008年総選挙では「未来同盟」は21議席を獲得し「勝利」したが、その直後ハイダー党首が死去した。ハイダー党首死去後の2013年総選挙では議席獲得がならず、現在、「未来同盟」は消滅過程に入っている。

159キラーカーン:2017/12/24(日) 01:46:33
6.3.2.3.4. ハイダー離党後の自由党の復活
 2006年総選挙の結果、社民党が68議席、国民党が66を獲得し、第一党の社民党と第二党の国民党との大連立が復活した(自由党は21議席)。ハイダー氏による内紛の結果、連立与党から転落した自由党であったが、自由党はハイダー氏の「未来同盟」を尻目に2002年総選挙から3議席増の21議席を確保し、党勢を維持した。

 大連立復活後、与党第二党の国民党の中には大連立に対する不満が高まり、国民党の要求に応える形で2008年に総選挙が行われた。社民党が第一党を死守したが、社民、国民両党が議席を減らし、自由党と自由党分派であるハイダー氏の「未来同盟」が議席を伸ばした(社民党57、国民党51、自由党34、未来同盟21)。

 結局、社民党主導の大連立という「元の鞘」に収まったが、社民、国民両党とも議席を減らすという辛勝でもあった。二大政党が伸び悩む一方、自由党と未来同盟の合計が51議席と国民党の獲得議席数を超えた。

 その後、2013年の総選挙では、社民党52、国民党47、自由党40と事実上、三党鼎立状態となった。

 この選挙結果を背景に、自由党はいくつかの州政府では連立与党となっている。また、シュトラッヘ自由党党首は穏健路線を選択し、党内の右派を切り捨てた。その結果もあってか、2016年の大統領選挙では、同党のホーファー候補が第一回投票で第一位となった(決選投票で緑の党のファン・デア・ベレン候補に敗北)。

 このように、自由党は社民党及び国民党に次ぐ第三党の地位を確実にしつつあり、また、2016年の大統領選挙では二大政党以外の候補者が決選投票に進出したことで、オーストリアの二大政党制も岐路に立っている。

 「極右」国民党は、オーストリア政治の中で確固たる地位を占めているという意味では、欧州各国において最も成功した「ネトウヨ政党」といえるかもしれない。

160キラーカーン:2017/12/25(月) 01:58:41
6.3.2.3.5. 2017年総選挙(国民党の「右旋回」と自由党の復活)
 国民党は左からは社民党、右からは自由党の挟撃を受ける格好となった。2017年5月、国民党は移民に対して厳しい態度を採る31歳のクルツ外相を党首に立て、「右旋回」した形で選挙戦に臨んだ。結果的に総選挙の前哨戦となった大統領選挙で自由党のホーファー候補が決選投票に進出したこともあって、右派政党である国民党及び自由党の優位が予測されていた。

 選挙結果は、国民党61、自由党53、社民党52となり、自由党が1999年以来となる第二党となった。この選挙結果から、下馬評通り、国民党と自由党との連立政権の発足が確実視されて、2017年12月、連立協議がまとまり、国民・自由連立政権が発足することとなった。先の大統領選挙と併せて、後世、この選挙でオーストリアは国民、社民、自由の三党鼎立時代に入ったと評されるかもしれない。

 自由党は国民党との連立内閣で、外相、内相、国防相という外交防衛治安を所掌する大臣ポストを獲得し、移民受け入れなど対外治安対策については、これまで以上に強硬な姿勢を採ることになると見込まれる。

6.3.2.3.6. 自由党の復活をもたらしたもの
 2017年10月総選挙は、オーストリアに二大政党ではなく三党鼎立、それも、国民党の「右旋回」と極右」自由党の台頭という「右傾化した三党鼎立」、という選挙結果をもたらした。このようなオーストリアの「右傾化」も他の欧州諸国と同様に移民問題に対する国民の不満が直接の契機となっている。国民党の「右傾化」も「欧州型ネトウヨ化」した国民を支持者層に取り込むためという正当戦略上至極当然の結果である。

 オーストリアの二大政党制及び最近のオーストリア自由党の復活を前提とすれば、国民党が支持者層を拡大するためには、二大政党の一角である社民党の支持者を奪うよりは、自由党の支持者を奪う方新規獲得支持者数が多い。また、政策位置的観点から見ても、かつて社会党と名乗っていた左派である社民党支持者層よりも、保守或いは右翼政党と言われた自由党の支持者層を奪う方が容易であったと思われる 。

 これらのことから、国民党の支持者を拡大するためには社民党の支持者を取り込むべく「左旋回」するよりも自由党支持層を取り込む「右旋回」の方が容易であったと考えられる。また、社民党が第一党である状況で大連立を組んでいた2006年以降、「左派」の社民党に対する反感(或いは大連立での埋没感)も後押ししたのかもしれない。

 一方、そのような国民党の「右旋回」により、国民党との支持者の競合が激しくなったとみられる自由党が社民党と同程度の得票を挙げたことは、国民党だけではなく、オーストリア国民全体の「右旋回」が明らかになったともいえる。

 ハイダー氏が自由党党首になって以降、反移民、EU懐疑という政策を訴えてきた自由党が、「親ナチ」と言われたハイダー氏の軛を脱し、州政府での連立実績も踏まえ「『老舗かつ政権担当能力のある』欧米型ネトウヨ政党」として体制内政党として認知されてきたのが大きいと思われる。

161キラーカーン:2017/12/27(水) 01:48:52
7. 結論:グローバル化とリベラル・左派への反発としての「ネトウヨ化」
7.1. 結論1:「ネトウヨ化」の正体
7.1.1. 「ネトウヨ(化)」の類型化
 「世界総ネトウヨ化」といっても、その様相は単一ではなく、類型化が可能である。ネトウヨ化には
① 経済的軋轢主導型か歴史認識問題主導型か
② 戦勝国か敗戦国か
という2つの軸があり、それによって、各国のネトウヨ化も4つに分類が可能である。ただし、敗戦国であることと歴史認識主導型というのは親和性がある。これは、「歴史認識論争」においてある国家・共同体の持つ「歴史認識」が批判されることによって引き起こされるが、その場合、批判される「歴史認識」は所謂「敗者」の歴史認識であることが一般的である。ナチスドイツを巡る「歴史認識論争」は言うに及ばず、日本における「歴史認識論争」もそのような側面を持つ。しかし、敗戦国であることと歴史認識主導型が同一ではないとの判断から、この2つの軸を基準としている(後掲図1参照)。

 2つの軸によるに時限座標では4つの象限が存在する。そのことは、「ネトウヨ化」も、理論上、4類型が存在することを意味する。しかし、これまで述べてきたように、現在確認されている「ネトウヨ化」は3つであり、4つではない 。

その3種類とは、
① 「欧米型ネトウヨ化」(経済軋轢主導型)
② 「日本型ネトウヨ化」(歴史認識論争主導型)
③ 「ドイツ型ネトウヨ化」(経済軋轢・歴史認識複合型)
の3種類である。

その「ネトウヨ化」の特徴を類型ごとに纏めると、
① 欧米型:移民受け入れによる移民との経済面の軋轢から、世代を跨いで定住した移民
  との社会面への軋轢へ発展
② 日本型:「歴史認識論争」において母国の側に立つ「移民(在日朝鮮人)」との軋轢か
  ら「在日特権」という経済的不公平感が絡む「反移民(在日朝鮮人)感情」
③ ドイツ型:移民受け入れによる経済面の軋轢に「歴史認識問題(ナチス)」が絡む反移
  民、反リベラル化
となる

 これらのいずれの形態においても、結果として現れるものは「移民への反発」である。だからこそ、これらの傾向はその結果から「右傾化」と言われ、或いは、その政治手法から「ポピュリズム」という語で一括りにされ、「同じ物」であると認識されて 。

 「日本型ネトウヨ化」は歴史認識主導型であるが、日本において「福祉排外主義」が存在しないわけではない。日本においてもデフレ不況などから、生活保護の需要が高まる一方で、生活保護の支給レベル及び支給決定に関する不公平感から「生活保護バッシング」が発生した。「生活保護バッシング」そのものは日本国民に対する福祉の「公平な充実」を求めるものであるため、福祉排外主義にはなり得ない。

 在日韓国人の生活保護受給率及び在日韓国人が生活保護を不正に受給していたという事例が発生したことにより、それまで「在日特権」と呼ばれていたものと融合して「福祉排外主義」というべき事象が発生した 。しかし、そのような「福祉排外主義」は、飽く迄、それまでにも存在して「嫌特定アジア」とりわけ「嫌韓」感情を増幅させるものであって、「福祉排外主義」が主要因というわけではない。

 このことは、移民が押し寄せた国家において、新たに流入した移民と旧来からの住民との間の軋轢に起因する社会不安リスクが増大することを意味する。移民との軋轢が社会不安の直接の契機である以上、その社会不安リスクを解消する方策として経済面及び社会面の両面から移民排斥を唱えるという結果に至る。したかって、その傾向が「極右化」或いは「ネトウヨ化」と称されることは然程不合理ではない。改めてネトウヨ化の類型を図式化すれば、次の図のようになる。

162キラーカーン:2017/12/28(木) 01:19:10
7.1.2. 日本型ネトウヨ化(アイデンティティー危機が発端)
7.1.2.1. 「ネトウヨ化」の主要因である「歴史認識論争」の発生

 繰り返しを厭わず言えば、日本のネトウヨ化は、移民受け入れによる経済的な軋轢からネトウヨ化した欧米とは異なり、「従軍慰安婦問題」に代表される「歴史認識論争」に端を発する。

 「日本型」及び「ドイツ型」のネトウヨ化は、第二次大戦の「敗戦国」で生じ、それらの国々による第二次大戦中の行為は侵略に付随する行為ということで「絶対悪」という烙印を押された。その「烙印」に権威を与えたのは、日本に対しては東京裁判であり、ナチスドイツに対してはニュルンベルク裁判であった。だからこそ「東京裁判史観」という語も生まれた。そして、その「戦後処理」を国際法上担保するものとして、国際連合に「敵国条項」が設けられ 、国際連合の公用語である中国語表記(=正式名称)は「連合国」である。

 第二次大戦の敗戦国、特に日本とドイツは、第二次世界大戦という総力戦における徹底的な敗戦により、戦争中の事象は「歴史上比類のない悪行」として否定された。敗戦国は自国の歴史に誇りが持てず、否定的な態度を示すことが「国際社会」から強制されることに対する反発として現れる。

 国家或いは民族集団という共同体のアイデンティティーを形成する核として歴史 は大きな役割を果たす。このため、ということで、「歴史認識」が「ナショナル」なものを想起させる引き金として「ネトウヨ化」に対して影響を及ぼす。

 ある共同体のアイデンティティーに直結する「歴史認識」ついて「部外者」から否定的言辞で語られ、かつ、その言辞が「国際社会」からの圧力という形でもたらされる場合、当該共同体の中から、そのような外部からの「歴史認識」の強制に対する反発が生まれ、その結果外国に対し厳しい対応を求める態度として現れることは十分に予想される。

 このような部外者による「歴史認識」への介入を「グローバル化」の一環として是認したのがリベラル・左派である。このような「集団としての自己決定権」でさえも、「グローバル化」の名の下に放棄することさえ厭わなかった。

 そのような、リベラル・左派の態度は、経済政策面においては、移民によって発生した「没落した中間層」(ドイツ)や産業空洞化によって発生した「失われた世代」(日本)に該当する人々を自己責任であるとして無慈悲にも切り捨てていくことに繋がっていった。その結果、リベラル・左派は「自国民よりも(在住)外国人を優先」するという共通認識を生み出していった。

 冷戦の終結と社会主義の敗北により、存在意義の消滅の危機に瀕した左派は、社会主義に代わる理論的根拠を「歴史」に求めた。そして、その「歴史」から導き出される「悪の大日本帝国」の復活阻止或いはその遺産の糾弾を「錦の御旗」。それを梃子に左派としての「運動体」としての生き残りを図った。そのための「錦の御旗」として用いられたのが「従軍慰安婦問題」であることは、これまでに述べてきたとおりである。

 その「歴史認識論争」を仕掛けた左派と在日朝鮮人が「大日本帝国という『悪の象徴』」を媒介として共闘したことから、歴史認識論争は在日朝鮮人問題という色彩も帯びた。戦後、外国からの移民を他国に比べて厳しく制限していた 。このため、移民の流入に苦慮する欧米諸国とは異なり、日本では在日朝鮮人が「移民」と称され得る事実上唯一の存在であった。したがって、日本においての移民問題或いは在日外国人問題は在日朝鮮人問題のみであるといっても過言ではなかった 。このため、日本における「移民問題」は、まず、歴史認識論争の形をとって現われた。

 しかし、「歴史認識論争」は、多分に理念上の論争であり、経済的利害に結びついた議論ではなく、「日本人としての原罪」を巡るものであった。また、在日外国人の絶対数及び人口比率も欧米と比べて格段に低いため、欧米で見られるような、民族集団通しの争いは生じることがなく、また、経済的利害で在日朝鮮人と敵対関係になることはなかった。

163キラーカーン:2017/12/28(木) 22:52:59
7.1.2.2. 経済のグローバル化(産業空洞化)は「ネトウヨ化」のきっかけではない
7.1.2.2.1. 産業空洞化及びデフレ不況による「失われた世代」の発生
 日本では他国と比べて、終身雇用制である事と解雇の要件が厳しいといわれていることから、一度正社員となれば、刑法犯などよほどのことがなければ解雇されることはない。これに合わせて、日本は外国からの移民や難民の受け入れ数が少なく、日本の中間層の職を奪うほどの数的規模ではなかった。この結果、欧米とは異なり、経済のグローバル化による移民の流入によって日本国民が職を奪われることはなく、ひいては「中間層の没落」は生じなかった。

 日本ではグローバル化の影響は、移民の流入とは逆に、企業が海外に進出するという「産業の空洞化」として現れた。つまり、移民の流入による「没落した中間層」は発生しなかったが、産業の空洞化の結果、そもそも就職できない若者が増大した(「就職氷河期」の発生)。

7.1.2.2.2. 日本において「グローバル化」は「反移民感情」を惹起させなかった
 デフレ不況と産業空洞化の結果、日本では、グローバル化の負の影響は「没落した中間層」ではなく、そもそも没落しようのない「就職できなかった若年層(所謂「フリーター」、「ニート」)」として現れた 。後に、彼らは「失われた世代」と呼ばれることとなる。

 この若者の就職難約10年に亘って継続したため、「就職氷河期 」と称されるようになった。このような長期の就職難の時代が発生したことにより、就職できなかった学生が社会に無視できない割合で存在することとなった。しかし、「最初から転落した若者」の存在による経済面での悪影響が社会全体で認知されるには相応の時間が必要であった。

 日本は、従来、国外からの移民受け入れ数は少ないといわれている。このため、他のG7諸国とは異なり、経済がグローバル化されても、移民の流入による社会不安はゼロではないが他のG7諸国と比べて低い水準にあった。

 日本において「福祉排外主義」が勃興するのは、その「失われた世代」が一定の規模となったことから、社会保障制度が社会的問題となった以後である。社会保障制度が社会的問題となる中で、「生活保護バッシング」に代表される社会保障制度の欠陥と「在日特権」が結びつくことで「嫌韓」或いは「嫌特亜」意識に裏打ちされた「福祉排外主義」が勃興してくるのである。

7.1.2.2.3. デフレ不況による「福祉排外主義」と「ネトウヨ化」への影響
 日本は他のG7諸国と比べて移民が少ないといっても、先に述べたような「福祉排外主義」が日本の「ネトウヨ化」を加速或いは従来のネトウヨ層を先鋭化させていったのは間違いのないところであろう。

 しかし、繰り返しを厭わずに述べれば、日本においては「福祉排外主義」とは関係なく「2002年の衝撃」により「ネトウヨ化」が進行していたということが欧米型ネトウヨ化と決定的に異なる点である

 このまま、所謂「アベノミクス」が軌道に乗り、日本の経済が回復し、福祉排外主義が無くなったと仮定しても、日本においては、最早、「ネトウヨ化」は止まらないと思われる。

 それは、「2002年の衝撃」から見ても明らかである。また、ユネスコの世界遺産認定を巡る対立に見られるように「嫌特定アジア」の主戦場は依然として「歴史認識論争」である。「従軍慰安婦強制連行説」が事実上破綻した今日では、新たに「関東大震災における朝鮮人虐殺」や「第二次世界大戦中の強制労働」を「錦の御旗」を変えて運動を継続しようとしている。そこには、欧州に見られるような「福祉排外主義」は見られない。

164キラーカーン:2017/12/28(木) 22:56:26
7.1.2.2.4. 「在日特権」と社会保障制度改善要求の混合物としての「福祉排外主義」
 バブル崩壊後の景気低迷は2000代半ばに一息ついたが、それもつかの間のことであった。2008年のリーマンショックで全世界的な不景気となり、日本も多大な影響を被った。リーマンショックによる不況と「2002年の衝撃」以後醸成されてきた「嫌韓(ネトウヨ意識)」とが結びつくこととなった。これにより、日本のネトウヨと欧米の「極右」のイメージがある程度重なるようになった 。具体的には、生活保護受給を巡る「不公平感」を巡る問題として表面化した。

 生活保護は日本国憲法第25条に規定された生存権の具現化であり、生活保護は現金が支給されるだけではなく、本来3割が自己負担となる保険診療も自己負担がゼロとなるなどの特典もある。

 これらを勘案した「実質支給額」を加味すると年金生活者はもとより、デフレと就職氷河期で低賃金に甘んじている若年層(その象徴として「年収300万円」という語がある )よりも支給水準が高い(実質年収400万円)ともいわれている 。

 このため、生活保護関連費の地方自治体財政負担は小さいものではない。このように、生活保護は一部(25%)が地方自治体負担(75%が国庫負担) となることから、自治体財政健全化の見地からは生活保護認定を極力制限するということが「適切な行政」となる。いきおい、生活保護の申請書を窓口の役人が受け取らないといった「水際作戦」というような手法を採ることもあったといわれている 。この結果、生活保護受給認定を受けることは「針の穴を通す」ように難しく、そのため、生活保護が受給できず、「餓死」するといった事件も発生していた。

 しかし、特定の勢力 の「後ろ盾」或いは「口添え」があれば、比較的容易に生活保護の申請が受理されるということも都市伝説的に言われている。また、生活保護の受給認定がなされず餓死するという事案が発生する一方で、本来なら受給されない者に対しても生活保護が受給されるという「不正受給」の問題も表面化した。

 行政(地方自治体)は、日本国民に対しては「あの手この手」で生活保護申請取下を求めるのに、在日朝鮮人に対しては甘い審査で申請を認めるという俗説が所謂ネトウヨ層の間に広まっていった。その俗説を裏付けるかのように在日朝鮮人世帯の生活保護受給率が日本国民との比較でも言うに及ばず、他の在日外国人 と比べても極めて高い水準にあるといったデータがネット上で発表された 。それが転じて、生保受給(認定)も「在日特権」として語られることもあった。

 このような、生活保護を巡る
① 年金生活者や若者の平均年収と生活保護支給水準との間の不公平感
② 生活保護申請すら認めない「水際作戦」と弁護士や地方議員の「口添え」或いは在日
 朝鮮人のような「弱者」には生活保護申請が認められ易いという生活保護認定を巡る
 生活保護認定を巡る不公平感
という2つの不公平感が醸成されていった。

 特に後者の不公平感は、不正受給の温床と言われてきた。この不公平感を裏付けるように、在日朝鮮人による不正受給や平均年収より遥かに高収入の芸能人による生活保護不正受給事案が発覚する一方で、真面目な日本国民には生活保護が受けられず餓死したという事例 も発生している。また、2014年4月には「反差別活動家」であった在日朝鮮人が生活保護不正受給容疑で逮捕(同年8月に有罪判決)されたことも、生活保護バッシングの一環で「福祉排外主義」が勃興する一因ともなった。

 この結果、「歴史認識論争」や「2002年の衝撃」を経た末の「嫌特定アジア」特に「嫌韓」感情の増幅装置として「生活保護バッシング」に代表される「福祉排外主義」が機能したことであった。

 生活保護受給に限らず、リーマンショック以前から、特別永住資格以外にも虚実が入り混じった「在日特権」 と言われるものが存在するといわれてきた。

 それは、生活保護に限らず、住民税減税など在日朝鮮人への「不当」な経済的利益の付与が「在日特権」であるという形で言説化された。「在特会」の「在特」は「在日特権」の略であり、同会の設立が2007年であったことから、「在日特権」そのものについては、リーマンショックの前から人口に膾炙し始めていた。

 結果として、生活保護受給を巡る問題は在日朝鮮人をはじめとする外国人の生活保護不正受給事案の発覚も日本国民と在日朝鮮人との「格差」ひいては「在日特権」の存在を認識させることとなった。国民国家或いは国民主権の建前から言えば、日本国政府及び地方自治体は「日本国民のため」が第一義である。最高裁判所の裁判例もそれを支持している 。したがって、外国人よりも自国民を優先して生活保護を行うべきとの世論すなわち「福祉排外主義」の勃興を促すこととなった。

165キラーカーン:2017/12/30(土) 01:18:20
7.1.2.3. 「1989年の衝撃」(「ネット右翼の発生」)
7.1.2.3.1. 冷戦終結と「歴史認識論争」のグローバル化と産業空洞化
 日本型ネトウヨ化にとって冷戦終結 によるグローバル化とは移民に代表される「人的移動」のグローバル化ではなく、国家、或いは民族共同隊のアイデンティティーに関わる「歴史認識論争」のグローバル化及び人件費等各種経費削減のために国内企業が生産拠点を国外へ移転するという産業の「空洞化」として現れた 。この結果、日本では経済のグローバル化に伴う移民の流入は欧米各国に比べると格段に少ないものであった。このため、日本においては、欧州各国で見られるような経済のグローバル化による「反移民感情」というのは殆ど発生しなかった 。

 最近では右派・保守の側から「歴史認識論争」を「歴史戦」と称することもある 。これは、「歴史認識論争」が一種の戦争であり、ひいては(歴史学の枠を超えて)国際紛争或いは閔則紛争という国際政治の文脈で語られることを示している。

 実際、日本を巡る歴史認識論争の主戦場は日本や中朝韓という当事国ではなく国際機関・会議や米国である 。これは、当事者ではない第三国を味方につけることにより、中朝韓三国が日本に対する有利な立場を得ようとしているからである。

 これまで述べたように、ソ連(当時)が冷戦に敗北したことにより、「社会主義」や「共産主義」は左派の結集軸(「錦の御旗」)としての効力を失った。この結果、日本の左派は左派的活動を継続するために社会主義や共産主義に代わる「錦の御旗」を必要とした。
7
.1.2.3.2. 昭和天皇穂崩御と戦後40年(昭和の「歴史化」)
 冷戦終結と前後して、昭和天皇崩御という歴史的事象も重ねて生じた。昭和天皇の崩御は昭和を「歴史」として扱うことを可能とした。昭和天皇の崩御時、第二次大戦終結から40年以上が経過しており、実際に軍隊経験がある人は既に60歳の定年となり、社会の第一線から退いていた。更に、終戦時に義務教育を終了した年齢層(昭和8年生まれ前後)もあと数年で定年となり、社会の第一線から退場することが見込まれていた。

 このことは、「第二次大戦の体験」が現在の人々が生きる「今」から、社会の第一線を退いた人たちの「過去」即ち「歴史」となる事を意味していた。そのため、昭和戦前期の日本を「歴史的に」捉えることに対する実社会での障害は格段に少なくなっていった。そして、「嘘」を重ねたとしても、「生き証人」から反発を食らう可能性が格段に減少することも意味していた。

166キラーカーン:2017/12/30(土) 01:20:39

7.1.2.3.3. そして左派は「歴史」を新たな「錦の御旗」に選んだ
 このような時代背景により、左派は、社会主義国家や共産主義国家の実現という「未来」よりも「歴史上類を見ない極悪・残虐な大日本帝国」という「過去」を「錦の御旗」とすることを選択した。
歴史という「錦の御旗」下で個別の「象徴的事実」として採用された個別具体的な歴史的事実は色々あるが、衆目の一致する代表的な「象徴的事実」は「従軍慰安婦問題」であるのは衆目の一致するところであろう。この「従軍慰安婦問題」を「エース」として、左派は「歴史認識論争」を仕掛けていった。

 先に述べたように、「従軍慰安婦問題」は冷戦終結とともに歴史の表舞台に躍り出たことは定説化している。知ってか知らずか「従軍慰安婦問題」は日本の左派の「自虐史観」と韓国の右派との「ディスカウント・ジャパン」という「連係」を生み出した。そして、以前から連携していた日本の左派と北朝鮮シンパの在日朝鮮人との連携も含めた日朝韓連携が日本において「反左派」及び「嫌韓」ひいては「反朝鮮半島」感情を生み出し、「日本型ネトウヨ化」へとつながっていった。

 しかし、そのような「反朝鮮半島感情」は、これまで「在日差別」と絡み合った「朝鮮半島タブー」のために1990年代ではあまり大きなものとはならなかった。「反朝鮮半島感情」が「公認」されるのは、日韓W杯及び金正日が日本人拉致を認めた「2002年の衝撃」を俟たなければならなかった。

 このように、1990年代前半の段階で所謂「自虐史観派」は歴史認識論争と冷戦終結により「敵」を見失った韓国の「ナショナリズム」や「東京裁判史観」或いは「戦勝国史観」を巧みに結び付けることに成功した。そのことによって、所謂「自虐史観派」は「歴史認識論争」を自身に有利な形で国際化することに成功した。そのような左派によって仕掛けられた「歴史認識論争」は、日本において、と在日朝鮮人の活動家とが結びついた「反日民族運動」となっていった 。

 この「歴史認識論争」に起因する「ネトウヨ化」(日本型とドイツ型)は基本的に「敗戦国」の側で生じていることが特徴である。というよりも、「勝者の正義」に立脚する戦勝国(特に国連安保理常任理事国)は「勝者の正義」によって「歴史認識論争」によって他国から批判を受ける理由が存在しない。従って、第1図においても、「戦勝国で歴史認識主導型」の象限は空欄となっている 。

167キラーカーン:2017/12/31(日) 02:05:17
7.1.2.4. 「2002年の衝撃」(「ネット右翼」から「ネトウヨ」へ)
7.1.2.4.1. 総説
 2002年は日韓W杯及び小泉総理の訪朝により、「南北朝鮮の『双方』が反日」であることが満天下に示されることとなった。これにより、「差別」という名目で維持されてきた「朝鮮半島タブー」が事実上解禁されることとなった 。

 これにより、これまで、「歴史認識論争」が主であり、反朝鮮半島意識が従という意識が逆転し、反朝鮮半島意識が主、「歴史認識論争」が従という意見が主流となっていく。この

反朝鮮半島意識が主、「歴史認識論争」が従

が主流となる契機が2002年に生じたので、本稿では「2002年の衝撃」と表現している。

 これ以降『嫌韓流』に代表される「嫌韓・嫌朝鮮」本が一つの分野として成立していくこととなる。これも、冷戦終結後に「仮想戦記」が一つの分野として成立したことと軌を一にしている。また、この「2002年の衝撃」をきっかけに一躍小泉後継争いに名乗りを上げ、小泉総理退任後の総理・総裁の座を射止めたのが安倍晋三現総理である 。

 この結果、「ネトウヨ」が「ネトウヨ元年」ともいえる年となった 。

7.1.2.4.2. 「2002年の衝撃」前史
 「従軍慰安婦」問題をはじめとする「歴史認識論争」は1990年代から盛んであった。1990年代半ばから、インターネットの普及により、「歴史認識論争」は市井の人々を巻き込み、更には国境を越えて市井の人々の間で活発に行われるようになった。「新しい歴史教科書をつくる会」には、そのような「インターネットを入り口に、保守/右翼的活動を始めた」人々 が参加していった。そのような「インターネットを入り口に、保守/右翼的活動を始めた人々」が「ネット右翼」と呼ばれるようになっていった。

 現実問題として、ネット上での「言論活動」と「リアル」での運動とは相性が良いとは言えない。このため、「ネット右翼」で「つくる会」などで実際に運動している人の割合は高くないと推測できる(自由時間の一部としてネットでの書き込み・議論などをしており、「野外」での運動に参加する暇がない)。

 したがって、「ネット右翼」には「ネット空間『だけ』で威張っている」という「ひきこもり」や「内弁慶」的な性向を揶揄する響きもある。それが「リアル」で「市民活動」を行ってきたリベラル・左派との大きな相違点となっている。

 そのような「ネット右翼」が「嫌韓」或いは「嫌南北朝鮮」意識を前面に押し出した「ネトウヨ」へ変化する契機となったのが、「2002年の衝撃」である。

168キラーカーン:2017/12/31(日) 02:05:38

7.1.2.4.3. 「2002年の衝撃」
7.1.2.4.3.1. 2002年W杯
 2002年は世界第歳のスポーツイベントの一つであるサッカーW杯が初めてアジアで開催された年でもある。当初、日本の単独開催が有力視されていたが、現代財閥のオーナー一族である鄭夢準氏が国際サッカー連盟(FIFA)の副会長であったことから、韓国側の巻き返しも強烈で、日韓共催となった。

 この開催地を巡る争いで単独開催を共同開催に「譲歩させられた」として、日本側で不満を持つ素地ができた。共催決定後は、韓国側が、「歴史認識」を梃子にして日本側に譲歩を迫る手法を採ってきた。その例として
① サッカーのピッチを題材としたポスターの図柄が「日」の字に似ているとして拒否
② 国名はアルファベット順という慣例を無視して、Korea, Japanの順にした
 (本来はCoreaだったのが、日韓併合時に日本の後に来るようにKoreaとされたと主張)
というものがあった。

 このような韓国側の主張は、どのような案件でも「歴史認識」を持ち出して日本より優位に立とうとするものとして、嫌韓感情がさらに醸成されていった。W杯では韓国が準決勝に進出するというアジア初の快挙を成し遂げたが、韓国戦絡みの「誤審」が相次ぎ韓国による審判買収も取りざたされるような事態となった。FIFA100周年記念DVD収録のW杯「10大誤審」のうち、日韓大会で5つ、うち4つが韓国戦である。

 このような状況であったのにも拘らず、日本のマスコミはこの「誤審」問題を全くといってよいほど報道せず、「日韓友好一辺倒」であったことも「マスコミ不信」が増加することとなった 。とはいっても、この結果、韓国に対する批判が抑えきれなくなっていき「嫌韓」の端緒となっていった。

7.1.2.4.3.2. 小泉総理訪朝
日韓W杯が「韓国批判の解禁」であったとすれば、小泉総理の訪朝と北朝鮮が日本人拉致を認めたことは「北朝鮮批判の解禁」であった。この両者が同じ2002年に起きたというのは象徴的である。つまり、「南北朝鮮タブー」が同時に取り払われたことも「嫌朝鮮半島」に拍車をかけたということは間違いない。

 冷戦時代、当然のことながら、韓国は資本主義陣営、北朝鮮は社会主義陣営の一因であった。このため、リベラル・左派が圧倒的優勢である日本のインテリ及びマスコミにおいては、韓国は「悪の独裁国家 」であり、北朝鮮は「地上の楽園」であった。

 したがって、同じ「朝鮮半島タブー 」といっても、北朝鮮のそれの方がはるかに厳しかった。特に、マスコミでは「北朝鮮」という略語すら単独で使用できず、最初に「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国」と言わなければならなかった。国内においても北朝鮮に批判的な発言をすると、朝鮮総連から「強烈な抗議」を受けたりして日常生活に支障をきたすということが言われていた。

 冷戦が終結し社会主義の退潮が明確になり、更に、日本海側を中心とする日本人行方不明事件が北朝鮮の犯行であるとの状況証拠が揃っても、マスコミや有識者の「北朝鮮への肩入れ」は継続しており、拉致事件も「右翼の反北朝鮮キャンペーン」に利用されるとして表立って取り上げることが憚られる雰囲気であった 。

 そのような、「公開の場において北朝鮮に対してものが言えない雰囲気」が一変したのが、小泉総理訪朝時に金正日総書記が日本人拉致を認めたときであった。そして、小泉訪朝に随行していた安倍官房副長官(当時)が「拉致問題に言及がないならこのまま帰りましょう」と小泉総理に進言したとされている。

 拉致事件を北朝鮮が認めたことにより、これまで「抑圧」されてきた北朝鮮批判、ひいては北朝鮮を陰に陽に支援してきたリベラル・左派への批判が「解禁」されることとなった

169キラーカーン:2018/01/01(月) 02:28:19
7.1.2.5. 「日本型ネトウヨ」は安倍首相の存在により、既存政党に包摂された
7.1.2.5.1. 総説

 これまで述べてきたように、欧州においては、仏国の国民戦線や独国のAfDなどの所謂「極右政党」(本稿での「欧米型ネトウヨ政党」)が存在し、それらの政党が議会に確固たる地位を占めつつある。また、オーストリアの自由党は連立与党入りが取り沙汰されている。しかし、それらの「極右」政党は「アウトサイダー」化しており、議会内で「まともな政党」として扱われていない。それは、第一党が過半数を採ることがない国家、即ち、連立政権が常態である国家において、そのような「極右」政党は連立交渉相手として見做されていない。旧西側諸国においては、唯一、オーストリア自由党のみが連立与党となったことがあるだけである。

 その一方、欧米と同様に右傾化が進んでいるといわれる日本においては、欧米諸国とは事情を異にする。欧米諸国とは異なり「日本型ネトウヨ政党」である「日本のこころ」は事実上自民党に吸収され、政党としては消滅した状態にあるといっても過言ではない 。

 また、米国にも「ティー・パーティー」或いは「オルタ右翼」と言われるような日本でいう「ネトウヨ勢力」が存在するが、それらの勢力は自前の政党を有しておらず、予備選などを通じて共和党内部で影響力を行使する道を選択している 。このように、欧州各国では「極右」と称される「欧米型ネトウヨ政党」が存在しているのに対し、日本及び米国においては所謂「ネトウヨ勢力」が既成政党に包摂されている 。

7.1.2.5.2. 日本型ネトウヨ政党・勢力の現状

 現在「日本型ネトウヨ政党」としては「日本のこころ」があるが、2017年10月の解散総選挙を機に離党者が発生し、同党所属の国会議員が1名となった。この結果、国会議員数での政党要件である「5名以上の党所属国会議員」を満たさなくなった。更に、総選挙での得票数が全国で2%に達しなかったことから、政党要件を失うこととなった 。この総選挙で政党要件に届かないという結果及び国会内では自民党と統一会派を組んでいるという現状により、「日本のこころ」は政党としては事実上消滅状態にある。

 「2002年の衝撃」以降、日本社会では排外主義的な「ネトウヨ化」が着実に進んでいるといわれているのにもかかわらず、日本の政治において「日本型ネトウヨ」は可視化されず、組織化もされていない。わずかに、2014年の東京都知事選で田母神氏が60万票を獲得したという事例があるだけである。

170キラーカーン:2018/01/01(月) 02:28:38
7.1.2.5.3. 日本型ネトウヨを包摂した安倍自民党

 では、なぜ、日本では欧州各国とは異なり、「ネトウヨ政党」特に「日本型ネトウヨ政党」が存続できないのかが論点となる 。日本で所謂「ネトウヨ勢力」の活動が認知されだしたのは「2002年の衝撃」の後、となる。小泉政権時代の「強力」な自民党に陰りが見え、ねじれ国会となり、リベラル・左派政党である民主党が自民党に代わって政権に就くという可能性が無視できなくなっていった。

 そのような状況の中での「ネット右翼」の危機感が「在特会」の結成(2007年)など、所謂「ネトウヨ勢力」がネットだけではなく「リアル」の世界でも政治的活動を行うようになっていった。民主党が政権与党であった2009年から2012年は、民主党が明確な「敵」であり、また、中国漁船の海保巡視船への「体当たり事件」など、所謂「ネトウヨ勢力」が危機感を持つ事象が発生していた。

 2012年に第二次安倍政権が発足した後は、「安倍一強」ともいわれる政治情勢の中、安倍総理が所謂「ネトウヨ勢力」を自民党に繋ぎ止めている格好となっている。

 安倍晋三氏は「2002年の衝撃」を機会に頭角を表し首相にまで上り詰めた。また政治思想的にも「自民党の右」に位置する政治家であるとされており、月刊誌に寄稿した文章も「戦後レジームの打破」など「自民党の右」という世評に違わぬものであった。このため、安倍氏はリベラル・左派からは「ネトウヨの頭目」とみなされている 。

 このような経緯から、安倍総理はリベラル・左派からは「不倶戴天の敵」扱いされていることは容易に想像がつく。安倍総理は確かに「自民党の右」に位置する政治家であるが、実際の政策はそれほど「右」というわけではない。「特定秘密保護法」や「平和安全法制」や「共謀罪」の法定化は世界標準で見れば当然の法整備であり、それ自身が「右」と言われるものではない。そのため、外国では、安倍総理は「リベラル」な政治家と見られることもある 。

7.1.2.5.4. 安倍自民党以後に日本型ネトウヨ政党は復活するのか

 現時点において日本型ネトウヨ政党が一定の政治勢力まで成長していないのは、安倍晋三という個人に日本型ネトウヨ勢力が包摂されているという属人的事情が大きいと考えられる。このため、「安倍一強」が継続している限り、日本型ネトウヨ勢力は安倍自民党に包摂されたままでいると予想される。

 とは言っても、第二次安倍政権が行っている政策は月刊誌へ寄稿した文章より穏健なものであり、海外の識者からは「リベラル」と評されるようなものである 。このため、これからも自民党が日本型ネトウヨ勢力を包摂できるか否かは不透明である。

 例えば、自民党の「左」に位置する政治家が第二次安倍政権の後に総理・総裁となれば、或いは、旧民進党勢力が政権奪取に成功した場合、そのような日本政治の「左傾化」に危機感を抱いた日本型ネトウヨ勢力が自民党から分かれて独自の活動を立ち上げる可能性がある。そうなれば、都議選での田母神候補の「善戦」のように、政界のアウトサイダーとして一定の存在感を示す機会があるかもしれない 。

171キラーカーン:2018/01/03(水) 01:06:35
7.1.2.6. 他国における「日本型ネトウヨ化」と思われる例
 日本国外における日本型ネトウヨ化と思われる事例の中で最近の有名な例は、2017年8月に発生した米国のシャーロッツビルでの事件での左右両派の衝突事件である。この事件は、「南北戦争」を巡る歴史認識である。この問題は、日本でも大きく報じられたが、米国内戦に起因する米国内の問題であるため、排外主義的な主張には発展しなかった。したがって、ネオナチや在特会のような「分かり易い」例ではないが、「敗者の側」に属する共同体の歴史認識が問われた例であることから「日本型」の一例として見做すのが妥当であろう 。

 先に述べたように、この事件は南北戦争に絡む「南部側の歴史認識」が直接の引き金なっている。この事件の結果、リー将軍をはじめとする南軍関連の銅像が「南部史観」(⇒奴隷制の正統化⇒白人至上主義)の象徴として毀損されることを避けるために南軍関連の銅像を「非公開」にする事例が発生している。

 シャーロッツビルの事件は米国の国内問題の枠に収まるものであるが、日独の場合は論争が国外に波及し、国際問題となる。「主な敗戦国」ではないオーストリアの場合 でもナチスという「歴史」が絡めば、ハイダー氏が率いる自由党が連立与党入りした際にはEU域内での制裁論議にまで発展した 。

172キラーカーン:2018/01/05(金) 01:32:08
7.1.3. 欧米型ネトウヨ化(グローバル化による経済的不安が発端)
7.1.3.1. 総説
 欧米のネトウヨ化は、日本のネトウヨ化とは異なり、「歴史認識論争」からではなく、経済のグローバル化によって増大した移民によって引き起こされた国内経済状況の変化特に「中間層の没落(の恐れ)」による移民排斥感情が引き金となっている。

 先に述べたように、欧州各国における移民問題は、冷戦終結前からドイツ(旧西ドイツ)のトルコ人移民のように散発的に表面化していた。しかし、それは、移民の労働環境の劣悪さの告発が主題であり、現在の「没落した中間層」や「福祉排外主義」という文脈ではなかった 。

 冷戦終結後の経済のグローバル化の進展によって、経済的な裕福さを求めて外国から欧米先進国への移民の流入が増大した。さらに、冷戦時代のような米ソ超大国による「たが」が無くなり、(全世界的紛争に発展する可能性のない)地域紛争が増加し、難民保護の観点から欧米先進国にそのような戦災難民も流入するようになった。

 そのような難民や移民は肉体労働的な職に就くことが多かった。その結果、移民先の中間層の国民が担っていたが移民との競合にさらされ、多くは移民がその仕事を奪っていった。また、EU発足によって、加盟国間で移民に対する取扱の差異が残存しているのにも拘らず、EU域内における経済的国境が事実上撤廃されたことも、移民流入の増加傾向に拍車をかけることとなった 。

 このようにして移民に仕事を奪われた「没落した中間層」が、その対策として移民の流入制限等の施策を求めるのはミクロレベル或いは対症療法的には正しい。移民が増えることにより増大する社会的リスクは、その移民に仕事を奪われた「没落した中間層」の発生だけではない。移民増大によって彼らの声が無視できなくなり、旧来からの住民と新しく移住してきた移民との間でアイデンティティー摩擦が生じることである。特に、宗教的価値観の異なる国(例:イスラム圏からキリスト教圏である欧州)へ移住した場合、その摩擦は大きくなる

 このように、移民の流入や経済のグローバル化によって、経済的状況のみならず、所属する共同体のアイデンティティーといった欧州社会の安定を担ってきた層が「没落した中間層」となっていった。「極右」政党は、移民排斥だけではなく、経済のグローバル化によって祖国(ひいては欧州)がアイデンティティー危機に陥っているという点を訴えた。そして、そのような「没落した中間層」の声をくみ取る努力をしてきたのは「極右」政党のみであった 。その結果、「極右」政党は、「我こそが欧州社会の守護者」へと変革を果たし、主要政党の座にのし上がった。

 その後、「多文化共生」 の名の下に、移民増大による従来からの社会的アイデンティティーが揺さぶられることとなり、「極右」政党も福祉排外主義一辺倒ではなく、極右政党こそが「自由でリベラルな」欧州社会の担い手であるとして支持を伸ばしてきた。更には「福祉排外主義」により、先ず「没落した中間層」である国民の救済が第一という施策を掲げ、本来、左派の支持層である貧困層にまで支持が浸透してきた。それが、欧米における「右傾化」の実態である 。

 このように、欧米型ネトウヨ化は、経済のグローバル化とそれによる移民の流入による「中間層の没落」を契機として、移民の増大によって欧州社会のアイデンティティーが揺さぶられたことに効果的に対応できたことによって発生した。

 「極右」は移民排斥という処方箋を提示した一方、リベラル・左派の側は有効な対案を提示的なかった。リベラル・左派は、これまで、「多様化」や「グローバル化」の観点から、移民受け入れに賛成であり、それに反対する人々を「排外主義者」や「人種差別」として糾弾するだけであり、「没落した中間層」の救済へ意識を向けることはなかった。

 この結果、左派・リベラルは本来の支持者層である「没落した中間層」にそっぽを向かれ「極右」の台頭を指を咥えてみているしかなかった。これからは、左派・リベラルが彼らに対する「処方箋」を提示てきるか否かが焦点となる。それが、左派・リベラル復活のカギとなる。

173キラーカーン:2018/01/06(土) 01:44:05
7.1.3.2. 経済のグローバル化による移民の増加による「没落した中間層」の発生
 「資本主義の勝利」となった冷戦終結後、東西の壁が取り払われることとなった。この結果、世界経済はより一層の多国籍化・グローバル化が加速することとなった。いきおい、欧米先進国には豊かさを求めて、旧植民地や発展途上国からの移民が押し寄せることとなった。その一方、日本では、移民を受け入れる代わりに、国内企業が製造コストの低減のため、国外へ生産拠点を移すという事態も生じた 。

 そして、その移民の流入(欧米)にせよ、産業の空洞化(日本)にせよ、その結果は国内の中間層の職が奪われるというものであった。その典型例が米国の「ラスト・ベルト」と呼ばれる地帯に住む白人たちである。

 同じ仕事であっても移民の方が低賃金を苦にしないのが一般的傾向である(先進国では低い給与水準であっても出身国に比べれば十分に「贅沢」ができるだけの給与を移民が受け取れる)。この結果、移民を受け入れた国では、低賃金でも働く移民が仕事を奪い、産業が空洞化した国では経済・給与水準の低い進出先の国民が仕事を奪っていった。勿論、ある産業は移民が仕事を奪い、ある産業は空洞化により進出先の国民が仕事を奪うというように、国家レベルでは移民流入と空洞化が同時に発生しているという方がより正確であろう。

 移民や空洞化により職を奪われた、或いは、職にありつけなかった人々は経済的に困窮していく。この状況は「没落した中間層」と移民との間における経済的利益の対立関係と表現せざるを得ないものである。この移民と「没落した中間層」との対立の結果、限られた福祉予算を巡り移民や外国人を優先するのではなく、「国民共同体」或いは「国民主権」の論理から、国家などの公的団体が行う福祉施策については自国民を優先すべきとの「福祉排外主義」が生起してくる。その声を巧みに吸い上げたのが「極右」と言われる欧米型ネトウヨ政党であった。

174キラーカーン:2018/01/08(月) 02:13:54
7.1.3.3. 移民の増加による「外国人コミュニティ」の形成とアイデンティティー摩擦
 移民が流入することは、中間層から職を奪うだけではない。移民と旧来からの住民との間で生活集団を巡る摩擦を必然的に引き起こす。移民がもたらした問題は「没落した中間層」だけではない。移民が移民先の社会秩序に適合しないことによる社会不安及びアイデンティティー危機も発生する。「郷に入れば郷に従え」ということわざもあるように、移民側が少数であり、かつ、移民先の文化に「同化」する形であればこの問題は生じない(例:日系米国移民 )。たとえ摩擦が生じたとしても「制御可能」な範囲に緩和される可能性が高い。この点で移民の流入の制限にしている日本は極右にとっての手本になっているというのは先に述べたとおりである。旧植民地では「中〜上流」に位置する「エリート」が旧宗主国に移住する場合には、流入する移民の数も多くはなく、かつ、そのような「秩序ある平穏な移民」であることも期待できる。

 しかし、移住国の文化などに無関心な「一般庶民」の移民や宗教的戒律が絡む場合、外国からの移民が移民先の社会慣習に「同化」することは容易ではない。特に宗教が絡む場合、移民先への「同化」が往々にして「棄教」を意味することもあり、容易ではない。特に、内心と行動とが分離できない(宗教的戒律で日々の行動が細かく規制されている)イスラム教徒にとって、移民先の欧米の習慣に「同化」することとイスラム教の戒律との両立はかなり困難である。例として、1日5回の礼拝を挙げるだけで十分であろう。この礼拝の戒律が非イスラム圏で多数を占める人々との生活習慣との間で摩擦を生じさせることは容易に想像できる。

 宗教的戒律だけが問題ではないにせよ、欧州キリスト教圏とイスラム圏との間ではツール・ポワティエの戦いや十字軍など、イスラム教徒キリスト教は1000年以上にわたって争いを繰り広げている。現在においても、「イスラム国(IS)」といったイスラム過激派による欧州キリスト教圏でのテロは収まる気配がない。キリスト教徒とイスラム教徒との共存は現在においても困難な状況にある。

 このように、移民は「没落した中間層」の発生という経済的問題だけではなく、移民先のキリスト教文化に統合・包摂されない現代の「まつろわぬ民」という副産物をもたらした。このイスラム教徒の移民という「まつろわぬ民」を如何にして社会に統合・包摂するかという問題と移民によって発生した「没落した中間層」を如何にして救済するかという問題の二つが絡み合った複合問題に対する「処方箋」を持ちえたのは「福祉排外主義」と(イスラム教)移民移民の排斥(或いは、排斥できないまでも移民受け入れに関し「厳格な管理」を行う)という施策を打ち出した「極右」だけであった。

 このような経緯を経て、極右は経済のグローバル化によって動揺した社会を立て直すため、「極右」と言われながらも、欧米的な「自由主義」の護持者としての地位を固めていき、政治の舞台における地歩を固めていき、いくつかの国では連立与党として政権に参画するまでになっている。

175キラーカーン:2018/01/09(火) 00:10:06
7.1.3.4. 「維新系政党」は「欧米系ネトウヨ政党」か「ポピュリスト政党」か

 本稿においては、所謂「維新系政党」を欧米系ネトウヨ政党として扱ってきた。これは、「維新系政党」の政治手法が欧米諸国の「欧米型ネトウヨ政党」との類似点が多いためである。というよりも、移民に対する態度を除けば「同じ類型」であってもよいと言えるからであった。

 つまり、欧米型ネトウヨ政党とはポピュリズムに反移民感情が結合したために「極右」とみなされているが、日本の維新系政党は反移民感情と結合していないことから「極右」や「ネトウヨ」ではなく、単なる「(右派)ポピュリスト政党」ではないか説も成立する余地がある。

 確かに「欧米型ネトウヨ政党=ポピュリズム+反移民感情」という等式を全盛とするのであれば「欧米型ネトウヨ政党-反移民感情=ポピュリズム」という等式も成立する。また、「『維新系政党』=欧米型ネトウヨ政党-反移民感情」であるとすれば、前述の等式と併せれば「『維新系政党』=ポピュリズム」となる。

 しかし、日本においても維新系政党は、自衛隊や平和安全法制に対しては与党(特に自民党)の立場に近いことから、野党系「保守」政党として捉えられることが多い 。このため、リベラル・左派の側からは「維新系政党」や維新系政党の議員も「ネトウヨ政党(政治家)」と称されることがある。

 これまでに述べたことからの結論からすれば、「第三極」、「右派系ポピュリスト政党」と「極右」政党そしては本稿では触れることのなかった「左派系ポピュリスト政党」との境界線は
第三極:新自由主義○、ポピュリズム的手法×、反移民×
維新系(右派系ポピュリスト)政党:新自由主義○、ポピュリズム的手法○、反移民×
欧米型ネトウヨ政党:新自由主義○、ポピュリズム的手法○、反移民○
左派系ポピュリスト政党:新自由主義×、ポピュリズム的手法○、反移民×
ということになろう。

 また、マスコミなどの外国政治に関する記事においても、極右政党の特色として「反移民(感情又は政策)」が挙げられている。

 つまり、新自由主義的な政策志向を持つ第三極にポピュリズム的手法が付加されると「維新系政党(右派ポピュリスト政党)」となり、それに「反移民(感情・政策)」が付加されると「欧米型ネトウヨ政党」となる。したがって、明確な反移民(特に反在日朝鮮人)という政策志向を持たない維新系政党は「極右」ではない。

 これらのことから、「維新系政党」は右派ポピュリスト政党 であるとするのが妥当であろうというのが本稿の立場である。

176キラーカーン:2018/01/09(火) 23:46:45
7.1.4. ドイツ型ネトウヨ化(移民流入と歴史認識論争との複合型)
 日本と並ぶ「二大敗戦国」であるドイツにおいても、冷戦終結とドイツ統一により、歴史認識論争が生じている 。大きなものとしては、
① ナチスとは異なり、ドイツ国防軍は清廉潔白という「ドイツ国防軍神話」への疑義
② いつまでナチスのことを反省しなくてはならないのか
という2つである 。後者については、ドイツの極右政党AfDも政策綱領に入れている。

 このため、ドイツにおける「ネトウヨ化」においては、移民問題と歴史認識論争との「二本柱」となっているため、「日本型」及び「欧米型」とは異なる第三の類型として「ドイツ型(複合型)」とした理由である 。

 ドイツ型ネトウヨ化は日本型と欧米型の複合型という性質を持つので、その内容については、日本型ネトウヨ化及び欧米型ネトウヨ化の双方の特徴を持つ。最近における特記事項としては、2017年9月の総選挙において「極右」AfDが、ドイツ連邦共和国となって以降初めて所謂5%阻止条項を突破して連邦議会で議席を確保したことである。且つ、その議席数は、AfDより前に「5%の壁」を突破して連邦議会に議席を得ていた緑の党や自由民主党などを上回る第三党となったことである。「欧州」或いは「EU」の盟主であるドイツで極右政党が躍進したことは欧州の「ネトウヨ化」の流れが止められないというところまで来ているのかもしれない。

177キラーカーン:2018/01/10(水) 22:40:20
7.2. 結論2:「世界総ネトウヨ化」をもたらした原因
7.2.1. 総説
 日本型、欧米型、ドイツ型という差異はあっても、日本や欧米各国で「ネトウヨ化」或いは「右傾化」と言われる事象が進行していることは事実である。前節では、その類型化と歴史的経緯について述べたが、本節では、その原因についてまとめる。

ネトウヨ化の原因には
① グローバル化による「反移民感情」の醸成
② 大統領制化とポピュリズムの蔓延(「1ビット脳的政治」の広がり)
③ それらの事態に対するリベラル・左派の「自滅」
の3つが挙げられる。

 ネトウヨ化については「反移民感情・政策」がカギとなることから、その直接的原因となったグローバル化については、前節で触れたところである。しかし、「大統領制化」やリベラル・左派の「自滅」については断片的に触れただけであるので、本節で整理したいと思う。

178キラーカーン:2018/01/11(木) 23:39:06
7.2.2. 冷戦の崩壊によるグローバル化(「1989年の衝撃」)
7.2.2.1. 日本型ネトウヨ化:歴史認識論争のグローバル化
7.2.2.1.1. 「1989年の衝撃」
 冷戦の崩壊により、「社会主義」或いは「共産主義」がリベラル・左派の「錦の御旗」としての魅力を完全に喪失したといってもよい状況となった。冷戦の終結はリベラル・左派にとって「革命」という「未来」への希望を喪失したことを意味した。「歴史」という「過去」を新たな「錦の御旗」にすることを選択した。特に「従軍慰安婦」の「強制連行」問題は「女性への性的暴力」も絡む案件である事から、現代社会に与える衝撃も大きく、一躍、歴史認識論争の「大黒柱」となっていった。

 このような「日本初」の歴史認識論争に対し、反日闘争を「建国神話」としたい中韓朝の「特定アジア三国」、更には「戦勝国史観(≒東京裁判史観)」維持の観点から欧米各国が便乗した形で、「自虐史観」の国際ネットワークが形成されていった。「自虐史観派」が構築した国際ネットワークの成果の一例が「クラワスミ報告」であり、同報告によって「性奴隷」という語を一般化させたことである。

 この国際ネットワーク化の反作用として、中朝韓の中で突出して積極的に「歴史認識論争」を仕掛けてくる韓国に対する反感が日本国内において強くなっていったことが挙げられる。勿論、日本においては、韓国だけではなく、中国や北朝鮮に対する反感も存在するが、中朝両国は、独立以来、冷戦時代にはソ連圏の一員(社会主義国)として「日本の敵国」であったため、「1989年の衝撃」による中朝両国の「反日度」の変化は比較的小さいものであった。

 したがって、中朝両国は「1989年の衝撃」以前も以後も「反日」である事には変化がなかったため、「1989年の衝撃」の影響を真正面から受けたのは韓国だけであった。その結果、現在のインターネット圏域においては、日本と韓国が冷戦期間中において「反共の同志」であったという歴史的事実は忘れ去られた格好となっている。

179キラーカーン:2018/01/11(木) 23:40:33
7.2.2.1.2. 「2002年の衝撃」
 「1989年の衝撃」があった後も、反韓(中朝)傾向はネットの中、それも「従軍慰安婦」問題を筆頭とする「歴史認識論争」に付随したものに限定されていた。その一方、マスコミでは依然としてリベラル・左派の威力が強いものがあった。そのため「朝鮮半島タブー」が当時においても残存しており、南北朝鮮に対する批判的言説を述べるには「特別な配慮」が必要であった。また、「リアル」な社会では「韓流」といった「韓国ブーム」が生起しており、「反韓(中朝)」は「ネット限定のブーム」として社会的関心を引かない、或いは、「ネット発」ということで一段低く見られていた。

 このような状況が一変する契機となったのが、日韓W杯と小泉総理訪朝が契機となった「2002年の衝撃」であった。日韓W杯では韓国の日常としての「反日」が市井の人々の芽にも顕わになり、小泉総理の訪朝でそれまで「疑惑」に過ぎなかった北朝鮮による日本人拉致が北朝鮮の犯行によるものであったことが明らかになった。これにより、ほぼ時を同じくして南北朝鮮双方に関する「朝鮮半島タブー」が解禁された 。

 このような状況の中で、これまで「歴史認識論争」の附属物であった「嫌韓(中朝)」との関係が逆転する契機となった。また、それに付随して、冷戦時代から北朝鮮を支持してきたリベラル・左派の言説の信頼性が地に堕ち、リベラル・左派の落日が誰の目にも明らかになった瞬間であった。

 「2002年の衝撃」以降、出版界では「嫌韓本」というジャンルが成立し、「嫌韓」は完全に市民権を得た。そのような日本国内情勢を意に介さないかのように「特定アジア三国」は反日デモ(中国)、告げ口外交(韓国)、拉致問題へのおざなりな対応及び核・弾道ミサイル開発による日本への威嚇(北朝鮮)を繰り返している。そのような状況もあり、「自民党の右」に属する政治家の政権である第二次安倍政権が国政選挙で5連勝を果たし、2017年現在、衆議院で与党が2/3以上の議席を占めている。

180キラーカーン:2018/01/13(土) 00:09:52
7.2.2.2. 欧米型ネトウヨ化:経済のグローバル化と移民・難民の流入
 冷戦の終結により、日本では歴史認識論争に起因する「右傾化」が発生したが、日米欧では多国籍企業のみならず、経済全体のグローバル化が生起した。(巨大)多国籍企業自体は冷戦終結時には存在していたが、生産設備(工場等)だけではなく、人の移動に関しても国境を越えて多国籍化した。このような状況の中で、より良い暮らしを求めて、西欧諸国には外国からの移民の流入が増大した。

 それに加えて欧州はEUなど欧州統合の動きの中で、経済活動に関しては、事実上、欧州域内の国境を廃止したのと同様の状況となっていたため、EU域外からは、いずれかのEU諸国で移民が認められれば、そこを足掛かりにしてより経済状況の良いEU域内の国への移住が自由にできるようになった。更に、最近は、中東やアフリカの内戦などを避けて欧州へやってくる難民も増大している。

 移民の祖国は西欧諸国より経済水準が(各段に)低いため、西欧の基準では「低賃金」であっても彼らにとっては「高収入」である場合も多い。このため、西欧諸国における肉体労働などの分野では移民先の「現地人」から仕事を奪うこととなる。或いは、工場の海外移転(産業空洞化)によって解雇される労働者も発生する(日本において「失われた世代」が発生したのはこのパターン)。このような経緯で経済的に発展した先進諸国において「没落した中間層」が発生することとなる。

 移民によって発生するのは「没落した中間層」ひいては所得格差だけではない。移民が多くなれば、移民先の社会に同化しない(できない)人も増える。それでも、移民が少数であり、かつ、時間はかかっても移民が移民先の生活習慣などを尊重し、移民先の社会へ「同化」すれば摩擦も少なくなる。日本がこれに該当する。

 しかし、欧州において、イスラム圏からの移民や難民の流入が多く、彼らは、容易に移民先の社会へ同化しない。イスラム教はキリスト教や(大乗)仏教と異なり、日々の行動がイスラム教の戒律に結びついている(一日5度の礼拝やラマダンなど)。このため、キリスト教社会である欧州の生活様式とイスラム教の信仰を守ることが二律背反となる可能性が他の宗教と比べて高くなる 。この結果、冷戦終結後における欧州へのイスラム系移民の流入増加は従来からの住民から職を奪うだけではなく、生活共同体も破壊するという「二重の不利益」をもたらすこととなった。

 リベラル・左派は「(グローバル化する世界で)国境という概念は古い。(可哀想な)移民を受け入れよ、反対する者は人種差別主義者である。『没落した中間層』は自己責任」としか主張せず、「没落した中間層」の痛みを無視し目を背け続けてきた。

 それに対して「極右」は、「(国民国家の主権者である)あなたたちは国からの救済を受ける資格がある。我々は、欧州の自由な社会を守りたい。そのためには移民の流入を制御・制限するしかない」という主張を掲げ、民衆の支持を得てきた。これが、欧米型ネトウヨ化の本質である。

181キラーカーン:2018/01/14(日) 22:06:02
7.2.3. 「没落した中間層」を嘲笑し「差別主義者」となったリベラル・左派
7.2.3.1. 総説(「没落した中間層」や「ネトウヨ」を「存在しない」ことにしたリベラル)
 本節では、これまで述べてきたような「右傾化」或いは「ネトウヨ化」に対する左派・リベラルの対応はどのようなものであったのか、そして、リベラル復活の兆しはあるのか。その点について考察する。

 「欧米型」、「日本型」を問わず、ネトウヨ化の経済的背景としては、グローバル化による「没落した中間層」の存在が挙げられる。欧米型では移民の流入により職を奪われ、日本型ででは「産業空洞化」により職が存在しなかったことで「失われた世代」となった。彼らは、「グローバル化」による「他国民の救済」よりも国民主権に基づく「自国民の救済」を優先せべきであると主張し、それは「福祉排外主義」へとつながっていった。

 救済の対象が他国民であっても自国民であっても、経済的格差の是正のため、景気対策或いは失業対策による「没落した中間層」への手厚い支援が当面(短期的)施策としては主眼となる。古い言葉でいえば「大きな政府」路線への回帰である。

 しかし、グローバル化した経済の結果、冷戦後の主流派リベラル(≒中道左派)は「国際協調」或いは「グローバル化」に反するような施策は採りづらくなってきた。また、欧州ではユーロという国際通貨を導入したことから、各国の予算の収支にも制限が課せられ、財政赤字拡大を覚悟する「大きな政府」路線は採りづらくなっていた 。

 そのような情勢の中、「グローバル化」への選好を有する(≒「国境」には否定的)リベラル・左派は、「グローバル化」が進む世界の中で「勝ち組」となっていった。グローバル化は本質的に国際社会の基本構造の一つである「国境(国家主権)」の絶対性を否定或いは「国境(主権)」の相対化を目指す傾向にある。そのようなリベラル・左派にとって、難民や移民は「国境を超える」存在として救済の対象となるが、「没落した中間層」は「国境を越えられなかった」愚かな人間として、救済の対象とはみなされず、そして、リベラル・左派の視界から消えていった 。

 その一方、「極右」或いは「欧米型ネトウヨ政党・勢力」がそのような「没落した中間層」に光を当て、彼らの救済を図るべきと訴えた際には、「(『没落した中間層』に光を当てること自体が)国内に『分断』を持ち込もうとしている」として批判したのであった。

182キラーカーン:2018/01/16(火) 00:31:44
7.2.3.2. 欧米型(「没落した中間層」の救済から逃避したリベラル・左派)
7.2.3.2.1. 「没落した中間層」の発生と「国家」の復活と「極右」の台頭

 冷戦終結前から多国籍企業を代表格として「国境(国家主権)」の絶対性が揺らぎ始めているのではないかという議論は存在していた。そして、冷戦の終結以後、「唯一の超大国」となった米国や欧州統合の動きなどから、冷戦終結後の世界においてはグローバル化(≒国境の相対化)の動きも加速していており、その傾向は現在においても継続している。

 ナショナリズムを否定するリベラル・左派にとってグローバル化或いは国境(国家主権)の相対化は相性が良い。その逆に「国境の内側」でしか生きられない「没落した中間層」とは相性が悪い。彼らリベラル・左派にとっては「国境」という概念を相対化或いは消し去ってくれる難民や移民の方が「救うべき同胞」として認識することができる。

 また、貧困にあえぐ人を「国境を越えて」救済するというリベラル・左派としての自己満足も得られる。その一方で「国境の内側」の「没落した中間層」はリベラル・左派にとって「存在しない」人々とされ、リベラル・左派の視界から消え、「見捨てられた人々」 となっていった。

 そのようにしてリベラル・左派から「見捨てられた」存在となった「没落した中間層」を「(救済されるべき)同胞」としてとして扱ったのが極右政党であった。極右政党は「反移民」の側面が強調されるが、実際は、「反移民」と「没落した中間層」の救済とが「福祉排外主義」によって結合され、この両者は合わせ鏡のように表裏一体となっている。

 このようにして、リベラル・左派は、本来、彼らの支持母体である労働者階級を「見捨てた」ことにより、退勢に向かうこととなった。逆に、そのような「弱者」に救いの手を差し伸べることで「極右」は勢力を伸ばしてきた。

 現在において、「多様性」や「反差別」といった「政治的に正しい○○」(所謂「ポリコレ」や「ソーシャル・ジャスティス・ウォーリアー(SJW)」は「金持ち(リベラル)の道楽」となっている。リベラル・左派から見捨てられた「没落した中間層」にはそのような「道楽」に付き合うだけの経済力はもはや残っていない。
そのような「インテリ左翼」は「没落した中間層」や自身の政策に賛成しない者を「我々の政策の良さを理解できない『知的に劣った』者」として蔑み、見下しているからである 。

 リベラル・左派は本来の支持者層である貧困や生活水準の低下に苦しむ人々を見捨て、「外国人」の救済に力を注いでいくことは、政治勢力としてのリベラル・左派の「自滅」を意味するものであった。

183キラーカーン:2018/01/19(金) 00:07:16
7.2.3.2.2. 「没落した中間層」を嘲笑し、見捨て、「差別されるべき者」としたリベラル

 そのような移民の増大によって疲弊し貧困や生活水準の低下に苦しむ「没落した中間層」に対し、リベラルは救いの手を差し伸べることはなかった。それどころか、経済のグローバル化に乗り遅れた「敗残者」とされ、国境を越えてくる難民や移民よりも救済する価値のない人々とされた。そして、彼らの存在を「なかったことにする」ことによって、「分断」の存在を否定した。

 この点からも、リベラル・左派は「没落した中間層」の救済はおろか、同じ「人間」として扱っていない「差別主義者」と言っても過言ではなかった。「グローバル化」は、そのリベラル・左派が「没落した中間層」を「差別」するためのイデオロギーとして機能した 。

 リベラルは、「グローバル化」の流れとともに「国境から解脱した」民として「国民共同体」或いは「国境」への対抗意識は高まっていった。EUという形で、実質的に国境を廃止した欧州はその到達点ともいえた(とはいっても、EUとそれ以外の地域という「国境」は存在する)。更に、WTOやTPPといった自由貿易の推進や関税の廃止などにより、経済面での「国境の無効化」は加速していった。

 このように「グローバル化」への志向を有するリベラル・左派は「国境の内側」で懸命に生きる「没落した中間層」を「グローバル化に対応できなかった『敗者』」、「愚か者」或いは「自己責任」による因果応報として嘲笑した 。

 このような「没落した中間層」に属する人々は冷戦終結までは、リベラル・左派が最も重要視していた支持者層であった。それは、英国をはじめとする少なくない欧米のリベラル・左派政党が「労働党」或いはそれに類する党名をつけていることでも明らかである。
しかし、冷戦終結後のグローバル化の流れの中で、リベラル・左派は彼らを見捨てた。そのようなリベラル・左派に「没落した中間層」をはじめとする国内勤労者階級の支持が戻ることは考えにくい 。

 その結果、「国境」を意識から消し去ったリベラル・左派は、「国境を超える」ことを意識させてくれる「国外」の貧困(移民・難民も含む)には手を差し伸べるが、「国境を意識させる」国内の貧困には見向きもしなかった。リベラル・左派が優位な国家では、国家は主権者である国民を救済せず、「赤の他人」である外国人の救済に血道を上げていると「没落した中間層」からは見られていた。

 このように、増加しつつある「没落した中間層」に対して
① リベラル・左派は、彼らを嘲笑し、「劣った」存在として差別されるべき存在とした
② 「極右」は彼らを「同胞」として見捨てないと訴えた
この「没落した中間層」に対する対応の差が現在のリベラルの衰退と「極右」の伸長とリベラル・左派の退潮という両者の明暗を分けることとなった。

184キラーカーン:2018/01/20(土) 00:33:21
7.2.3.2.3. 「没落した中間層」を直視したリベラル・左派(「極左(急進左派)」の誕生)

 欧米では、このような「極右」の伸長に危機感を持ったリベラル・左派の中から、これまでリベラル・左派が見捨ててきた「没落した中間層」に真剣に向き合うべきだという考え方が現れた。しかし、その考え方の担い手は、英国のコービン氏を除けば、ヒラリー・クリントン氏に代表される旧来の主流派である「インテリ左翼」或いは「セレブ左翼」ではなく、「極左(急進左派) 」と呼ばれるようになった 。

 コービン氏も英国における二大政党の一角である労働党の党首であるが、その政治的立場は労働党内の左派である。コービン党首はブレア元首相に代表される「ニュー・レイバー」ではなく、旧来の社会民主主義(オールド・レイバー)であるといわれている。その点では、国内の貧困に向き合うというリベラル・左派或いは「労働党」の原点を見つめなおすことがリベラル・左派復活の鍵であるのかもしれない。

185キラーカーン:2018/01/22(月) 00:27:52
7.2.3.3. 日本型(「反日運動」に資源を集中)
7.2.3.3.1. 総説
 繰り返しになるが、日本の「ネトウヨ化」は、欧米諸国(特に欧州諸国)の「移民の流入による経済的困窮」による「没落した中間層」の発生ではなかった。左翼活動家や「進歩的知識人」などのリベラルは、社会主義、共産主義が敗北した世界である冷戦後の世界においても左翼的活動を継続するための理論的支柱を「自虐史観」に見出した。そのような背景を持つリベラル・左派の「歴史認識論争」に対する反発である「反自虐史観」としてのナショナリズムの勃興が日本における「ネトウヨ化」の始まりであった。

 したがって、これまでにも述べたように、現在では「ネトウヨ」か否かの判断基準となっている「嫌韓」若しくは「反朝鮮半島」、「反特定アジア」感情の比重は少ないものであった。嫌韓」若しくは「反朝鮮半島」、「反特定アジア」感情は、飽く迄、その「歴史認識論争」の副産物であった。その「反自虐史観としてのナショナリズム」と「反特定アジア」感情との主客交代は「2002年の衝撃」を引き金とした「反朝鮮半島感情」を契機として生じ、現在に至っている。

 このため、現在において主流となっている「ネトウヨ」を対象としてきた言説は全て「2002年の衝撃」特に「日韓W杯」を起点としているといっても過言ではない。その結果、2002年より前の「ネット右翼」の時代は、「神代」として、当事者の記憶の中にしか存在し、その断片が稀にネット上の「思い出話」として流れてくる程度である。

 リベラル・左派の暴力化、不寛容化、独善化などに対する反動としての「ネトウヨ化」という点では「欧米型ネトウヨ化」と「日本型ネトウヨ化」の共通点はある(だからこそ欧米型ネトウヨと日本型ネトウヨとの差異をあまり意識せず、双方を同一の「ネトウヨ」としてまとめて論じることも発生するということである)。
このように、日本型ネトウヨ化は、「歴史認識論争」というイデオロギー論争から発生したという点で、移民の流入による「没落した中間層」の発生を契機として「ネトウヨ化」が生じた欧米諸国とは一線を画している。このため、日本のリベラル・左派は経済問題ではなく、「歴史認識」や「多文化共生」といった政治的或いは非経済的側面にその言論を集中させている。

 特に民主党左派(民進党左派⇒立憲民主党)は、新自由主義的な「小さな政府」具体的には「財政健全化」を志向する傾向が強い(これが、民主党・民進党も「第三極」的要素を持つという実際的な理由である)。

 その結果、日本のリベラル・左派は、欧米のリベラル・左派のように「大きな政府」或いは積極的な財政出動による経済刺激策は「小さな政府」や「財政健全化」という政策を唱えることはほとんどない。日本におけるリベラル・左派の活動は「反原発」、「反集団的自衛権」など、庶民の日々の暮らしに直結しない「イデオロギー論争」といったものが主流となっている。言い換えれば「安倍退陣が実現するなら飢えても構わない」ということである。

 したがって、「日本型リベラル・左派(≒「パヨク」)」は、「失われた世代」或いは「失われた20年」を生み出したデフレ脱却をはじめとする貧困対策(経済政策)には全くと言って興味がない。それどころか「貧困のために安倍首相を支持するのは『肉屋を支持する豚』であり、自殺行為である」言い換えれば「霞を食って生きることのできない者は愚かである」として、反安倍闘争のための飢えに耐えることのできない者に対して、「人間失格」という差別的嘲笑を行っている。

 リベラル・左派の支持層は、景気回復政策ではなく、かつての学生運動といった「左翼運動の夢よもう一度」や高度成長やバブル景気の果実を享受して「逃げ切り体制」に入った高齢者が主である。
このように、経済的側面に目を向けないリベラル・左派が、「左翼学生団体」としてのSEALDsなどという「若者」の運動を盛り上げても、リベラル・左派の訴求力は目に見えて落ちている。それに対する焦りもあって、「しばき隊」のような暴力行為に走る活動の先鋭化やマスコミの「角度をつけた」誤解を招くような「フェイク・ニュース」化を引き起こしている。

 そのような、「味方の暴走」をリベラル・左派の識者は咎めることをしないどころか、逆に、そのような運動と一体となって「暴走」しているという現状がある 。それによって、日本の多数を占める「ノンポリ層」(≒無党派層)の離反を招くというリベラル・左派にとっての悪循環に陥っている。

 これは、アベノミクスが一定の成果を挙げ、若年層の支持が高い安倍政権と対蹠的である。言い換えれば、雇用状況などの経済好転による恩恵を受けている層(主に若年層)の安倍内閣及び自民党支持率が高いということと対蹠的である。

186キラーカーン:2018/01/23(火) 00:40:21
7.2.3.3.2.歴史認識論争

 日本の「ネトウヨ化」は「1989年の衝撃」によるリベラル・左派(当時の言葉でいえば「進歩的知識人」)のアイデンティティー崩壊の危機を回避するため、社会主義・共産主義に代わる「錦の御旗」として「自虐史観」を持ち出したことに起因する。この「自虐史観」に基づくリベラル・左派の反転攻勢として歴史認識論争が発生した。

 この「自虐史観」によって生じたアイデンティティー危機に対抗するための「反自虐史観」という形で丁度普及し始めたインターネットを利用して「保守的(反自虐史観的)歴史観」を開陳する市井の人々を総称する形で「ネット右翼」という語が誕生した 。
その後「2002年の衝撃」で反在日朝鮮人、反特定アジア感情と結びつく形で「排外主義」と言われるようになり、更に(バブル崩壊後の「失われた20年」)に生じた経済的停滞と結びつくことによって「生活保護バッシング」の一環として在日外国人への生活保護支給を問題視する「福祉排外主義」という色彩が付加され、欧米型ネトウヨ化との差は縮小していった。しかし、日本のリベラル・左派は国内貧困対策には全くと言って無関心であり、反差別や反排外主義という政治イデオロギーに特化した活動を行っているという点に、日本型ネトウヨ化の特徴が表れている 。

 このように、「歴史認識論争」が「1989年の衝撃」を契機に活発化したのではあるが、歴史認識問題自体は「侵略」から「進出」へ書き換えるよう検定意見がついた問題 や「新編日本史」の検定を巡る問題 など、冷戦終結前から存在していた。また、冷戦前においても、そのような歴史認識問題は、マスコミが騒ぎ立てること により、中韓両国を巻き込んだ国際問題へと発展したこともあった 。

 既に述べたように、冷戦終結前においては、それらの「論争」は論壇或いはマスコミの論説の枠内で行われていた。冷戦が終結してもインターネットが普及する前においては、「歴史認識論争」も当初は論壇の枠内であった。1990年代半ばにインターネットが一般家庭にも普及すると、「いつでも、どこでも、誰とでも」議論ができる環境が構築され、「草の根」レベルでもれ式認識論争が行われるようになったのはすでに述べたとおりである。

 「歴史認識論争」の基本は、社会主義という「錦の御旗」をなくしたリベラル・左派が自身のアイデンティティー維持或いは活動隊としての継続性を目的として、「戦前の日本という『絶対悪』を叩く『絶対正義』の存在」として自己の正当性を維持しようとしたものである。そして、日本のリベラル・左派の間において

「絶対悪の日本人」であることを懺悔し、悔い改めて日本人から『解脱』した存在として、我々リベラル・左派は、「国境」や「民族」にとらわれ、未だに「日本人」解脱できない「愚か」な『ネトウヨ』を教え導く

という「教義」を確立するに至った。この「(リベラル・左派である)日本人が(それ以外(リベラル・左派のいう「ネトウヨ」)日本人を『絶対悪』として叩く構図」から「反日」或いは「自虐 」と称された。

 その「教義」を「布教」するために必要な「殉教者」或いは「聖人」として外国人の「従軍慰安婦」の存在を必要とした 。更に「従軍慰安婦」のみならず、日本を厭占めるためなら「手段を択ばない」或いは「嘘も方便」とばかりに、虚実ない交ぜの言説で「ジャパン・ディスカウント」を行ってきた。それに対して「ネット右翼」の側は、一次資料と合理的推論に基づき、その「自虐史観派」の言説に潜む、嘘、誇張、ダブルスタンダード、ひいては、それを生み出す「反日的」イデオロギー的基盤を批判していった。

 このような議論の姿勢が功を奏したのか、ネット上では「ネット右翼」或いは「ネトウヨ」的言説が優勢を占めるに至り、ひいては、最近の「安倍一強」とまで言われる政治状況を生み出した。
しかし、「1989年の衝撃」や「2002年の衝撃」を経てもマスコミにおいては、リベラル・左派的言説が圧倒的優勢であった。そのため、ネット言論とマスコミの論調との乖離は非常に大きいものがある。このようにして、日本の「右傾化」は始まった。

187キラーカーン:2018/01/24(水) 01:07:32
7.2.3.3.3. 「没落した中間層」の救済には無関心でイデオロギー闘争主体のリベラル・左派

 かつては、湯浅誠氏のようなホームレス支援活動家をリベラル・左派が旗印にしようとしたこともあった。しかし、結局、リベラル・左派は経済では緊縮財政路線 、イデオロギーではグローバリズムと国民経済軽視という従来のスタンスから脱却できていない。このように「1989年の衝撃」以降、日本では、欧米諸国と異なり、右傾化に対するリベラル・左派の対応として貧困対策は重視されていない。

 また、彼らは「没落した中間層」を「貧しく、馬鹿、キモイ、オタク、ネトウヨ」レッテルを張り、一方的な侮蔑ひいては差別の対象としている。このように、リベラル・左派はあたかも「没落した中間層」を教え導く「全能の神」であるかの如く振る舞っている。そのように振る舞うことに疑問を持たないリベラル・左派が従来の方針を転換して「没落した中間層」の声に対して向き合う気配は今のところ見られない 。

 サンダース、コービン両氏に代表される昨今の欧米のリベラル・左派の復活の兆しに見られるような「没落した中間層」の救済を日本のリベラル・左派が旗印に掲げる動きは見受けられない。それどころか、デフレ経済によるデフレ不況、産業空洞化、就職難という国民生活に直結し、ひいては「没落した中間層」の救済につながる経済政策への無関心を貫いている。

 日本のリベラル・左派は、「衣食足って礼節を知る」という箴言を忘れ、過去の大日本帝国のなした「世界史上比類のない」悪逆非道な行いに対する「反省の証」としての特定アジア各国に対する謝罪と贖罪の証として「反差別」を主張することを最優先している。その一方でリベラル・左派は「反差別闘争」、「アベ政治を許さない」というイデオロギー闘争に傾斜していった。

188キラーカーン:2018/01/25(木) 00:37:39
7.2.3.3.4. そしてリベラル・左派は暴力化・先鋭化していった

 グローバル化の中で、リベラル・左派の活動は、経済的不安なく政治闘争に没入できる人々のたしなみという「金持ちの道楽」となっていったのは日本でも欧米でも共通した傾向である。国政選挙では連戦連敗を重ねるリベラル・左派が、その停滞状況を打破するために「しばき隊」に代表される「暴力路線」に希望を託したのも故なきことではない 。

 そのようなリベラル・左派の暴力化・先鋭化の結果として「リベラル思想」が反対者に対する差別・暴力的弾圧という人権侵害行為を正当化するための口実となっている(「反差別」を掲げればどのような暴力・人権侵害も正当化される) 。

 そのリベラル・左派の暴力化・先鋭化の危険性が現実のものとして顕現したのが「しばき隊リンチ事件」であり、その「リンチ事件」に対して岸正彦、金明秀氏をはじめとする「インテリ左翼」が行った隠蔽工作であった 。彼らの言う「反差別行動」とは、しばき隊などの暴力集団がリベラルを標榜しつつ、「カウンター」と称する反対勢力への暴力的威圧行為を繰り返すことであった。その手法は、彼らが相手を全否定するために「万能の剣」として使う「ナチス」と類似しているのは皮肉でも何でもない。そして、現在においてもリベラル・左派の暴力化・先鋭化の傾向には歯止めがかからない状況となっている 。

 ネット上では、このような、リベラル・左派の「対話拒否・闘争路線」に対し「ネトウヨ四天王」を自称する者がツイッターで以下のような投稿をしている。

それでもネトウヨの私は「発言」することをやめなかったし、もう議論は無駄だと結論付ける事もしませんでしたよ。
そして、少なくとも私の見た限り、(ネトウヨの中には)「言葉の力を見限る」人は出なかった
デマツイートを集めて、ツイッター社の前で踏みつける者も出なかった。私たちは「リベラルと違う」

リベラルは
「議論をつくせ」
「対話で解決すべきだ」
これらの言葉はもう二度と口にしないでください
「対話を捨てた」のですから
リベラルの口から出るこの言葉には
「俺の言う通りにしろ」
以外の意味しかない

(ネトウヨである)私は、私たちはデマへの言葉の無力を感じながら言葉の力を信じたんですよ。やめなかったんですよ
リベラルにそれは出来ませんか
「それは差別だやめるべきだ」
と指摘することさえ、もう諦めてしまうんですか。「言葉の力」を見限ってしまうんですか

ネトウヨが口汚く感情的に主張をしたとき、「学歴も仕事もないとネトウヨのようになる」
と嘲笑われたからですよ。
怒りを怒りのままぶつけたら
「黙れネトウヨ」
と一蹴されたからですよ

 リベラル・左派はこのように、自身に賛同しない者を一方的に嘲笑し、蔑み、貶めていった。このようなリベラル・左派が「没落した中間層」に対して共感し、彼らの苦しみを分かち合うことができず、一方的に、ネトウヨ、人種差別主義者というレッテルを張り、悪罵を投げつけることしかできなかった。しかし、逆に、リベラル・左派の側がネトウヨを「差別」していた。その結果、「没落した中間層」がリベラル・左派から離れていくのは理の当然のことであった。

189キラーカーン:2018/01/26(金) 00:52:35
7.2.3.3.5. リベラル・左派の自壊・自滅による「安倍一強」の継続・強化

 リベラル・左派が「反日活動」に集中したため、産業の空洞化や就職氷河期によって発生した日本版「没落した中間層」の支持を失っていった。それは逆に、そのような「没落した中間層」に向かい合い、彼らのための政策を行っているのが「アベノミクス」に代表される第二次安倍政権である。「アベノミクス」の成果は、第二次安倍政権の発足から約5年を経て、株価やGDP、そして、求人倍率や失業率の数値が改善され、デフレ経済脱却の芽が見えてきたことにも表れている。

 安倍内閣の支持率は、そのような景気対策の影響が大きい若年層になるほど高くなっていることからも明らかである 。その逆に、民主党・民進党左派を中心に結成した立憲民主党の支持率は年齢層が高くなるほど支持率が高くなっている。また、公明党及び第三極の諸政党は年齢層による差はあまり見られない。この傾向は、森友・加計問題によって安倍内閣の支持率が低下しても変化しておらず、2017年10月の衆議院総選挙においても同様であった 。

 日本の「右傾化」或いは「ネトウヨ化」への左派・リベラルの対応において顕著となる。そして、日本では、そのような左派・リベラル勢力に変革の兆しが見えず、逆に「しばき隊」に代表される「極左暴力路線」という民意に反する方向への傾斜を強めている。その結果、リベラル系のマスコミがいかに安倍政権を批判しても、森友・加計問題までは安倍内閣の支持率は一貫して40%を超える水準にあった。その一方、野党第一党の民進党は、支持率低落傾向に歯止めがかからない。

190キラーカーン:2018/01/27(土) 01:16:33
7.2.3.3.6. 有権者から見捨てられたリベラル・左派

 自民党が歴史的大敗を喫した2017年の都議会選挙でも、「都民ファーストの会」の約188万票に次いで、自民党は約126万票を獲得していた 。獲得議席数では自民党と然程の差がなかった共産党(約77万票)や公明党(約73万票)の得票数と比べても、得票数では大差をつけている。また、机上の計算ではあるが、国政で連立を組んでいる自民、公明両党の得票数を合計すれば「都民ファースト」の得票数を上回っている。

 それとは逆に、選挙前から離党者が続出した民進党は獲得議席数が5議席、獲得票数が約39万票であり、公明党はおろか、共産党にもはるかに及ばない得票数にとどまっている。このことは、民進党が「反自民」の受け皿として不適格であると、有権者から完全に見放されたといってもよい状況であるといえよう。

 しかし、共産党も、議席数では2議席増に留まっている。このため、今までの路線を維持する限り、議会の過半数を制する「政権政党」には脱皮できず、これ以上の「伸びしろ」は見当たらない。この都議選の結果、民進党にせよ、共産党にせよ、「リベラル・左派」政党は反安倍或いは非安倍の受け皿として完全に見限られたとみてよい。

 さらに言えば、「アベノミクス」により、民主党政権時代から経済指標、特に失業率や主食内定率の改善が著しい。この結果、「自民党の右派」であり、「経済政策でも結果を出している」安倍政権にとりあえず死角が見えず、「安倍一強」と言われる政治状況に変化がみられる様子はない。

 都議会選挙から約3カ月後に行われた2017年10月総選挙でも与党(特に自民党)が現状勢力を維持できた一方で、野党第一党の民進党が事実上崩壊し、民進党(参議院のみ)、立憲民主党、希望の党、無所属の会と事実上4党に分裂した 。また、総選挙後は内閣支持率も回復傾向にある。このまま、日本のリベラル・左派が自滅・自壊を続けるのであれば、日本におけるリベラル・左派の復活の芽はないと言って良い。日本においては左派・リベラル勢力の復活の芽は見えていない。

 もし、「安倍一強」に陰りが見えるとすれば、「自民党のリベラル」再結集(所謂「大宏池会 」構想)が現実となり、更に、「大宏池会」が連立与党である公明党又は「維新」や「都民ファースト」に代表される「第三極」とが連携する場合であろう。

 いずれにしても、安倍政権のライバルは自民党の中或いは連携勢力の中にあり、民主党をはじめとする野党ではない。

191キラーカーン:2018/01/28(日) 01:06:48
7.2.3.4. ドイツ型(移民の流入と歴史認識論争との複合型)

 移民問題主導型ではあるが、ナチスドイツの負の遺産から歴史認識論争 も一定の比重を占める複合型というのがドイツ型である。このため、ドイツのリベラルも欧米型及び日本型双方の色彩を示すという特徴を有する。両者が複合するという点がドイツ型の特徴であるため、それぞれの特徴については、欧米型及び日本型の特徴を参照されたい。

 因みに、ドイツにおいては、ナチスの存在があまりにも大きく、「歴史認識論争」の占める比重は移民のそれに比べて低い。そのため、「混合型」と言っても、移民の流入によるネトウヨ化主導という点では欧米型ネトウヨ化に近い。

192キラーカーン:2018/01/28(日) 01:07:35
7.2.4. 「没落した中間層」を「救済すべき『同胞』」とみなした「極右」

 グローバル化の中で、国境にとらわれないリベラル・左派が国境の内側で呻吟する「没落した中間層」を見捨てていく中で、「国家はそのような人々を見捨てるべきでない」と「没落した中間層」の声を汲み上げようとしたのが「極右」政党であった 。その結果、「極右」政党は「行き場のない不満」を抱えた「没落した中間層」の不満を吸い上げることに成功し、「極右」政党の勢力拡張に成功した。この結果、極右政党は欧米諸国で勢力を伸ばし、国によっては、大統領或いは議会第一党の座を伺うまでになった。

 「極右」は「没落した中間層」のような国内の貧困は「国家」の名で「没落した中間層」を救うとの政策を掲げた。そのためには外国人や移民に厳しい「(福祉)排外主義」や「ネオナチ」と言われることも辞さないとの立場を取った。これでは、選挙においてリベラル・左派と「極右」との人気の差は火を見るより明らかである 。

 「極右」勢力は様々な批判を受けつつも欧州各国で勢力を伸ばしていき、オーストリアでは連立与党となったのを始め、仏国民戦線は大統領選挙で決選投票に進出し、オランダでは第二党に躍進した。また、選挙制度上の壁から議席が余り獲得できない英仏両国においても、比例代表制を採る欧州議会選挙では相応の議席を獲得しており、存在感を示している。

 このことは、「没落した中間層」を「愚者」として貶めるリベラル・左派と「同胞」として救済しようとする極右との差が現在の「勢い」の差になって現われている。そのような「右傾化」或いは「ネトウヨ化」に対し、「弱者救済」を主眼とした「急進左派」が勃興しつつあるところである。

193キラーカーン:2018/01/28(日) 22:52:03
7.2.5. 政治の「大統領制化」
7.2.5.1. 総説

 本来的には「ネトウヨ化」とは関係はないが、「世界総ネトウヨ化」の促進要因となったものとして最近の(比較)政治学において「大統領制化」という現象がある。

 そもそも、大統領制或いは二元代表制は、行政区域内でただ一人の当選者を選ぶ「究極の庶選挙区制」である。、大統領制は、民主政治の中にゼロサム・ゲームと「勝者総取り」的結果に向かう傾向を導入したともいえる 。この結果、大統領制或いは二元代表制は議院内閣制と比べて国民の間の亀裂或いは分断を固定化・拡大する傾向が強い。

 また、大統領という職責から、大統領(候補者)は有力政党の指導者(≒党首)であることが一般的である。したがって、大統領は「国家の顔」だけではなく「政党の顔」という役割も担わされることとなる 。その「政党の顔」という側面が強くなれば、国全体が、「大統領派」か「反大統領派」に二分される。その結果、大統領制の国家或いは二元代表制の地方自治体においては、反大統領派によるクーデター又は革命を惹起させやすく、その結果、大統領制は議院内閣制よりも民主主義の安定度が劣るとの議論が提起された 。

 当選者が一人という大統領(首長)選挙や小選挙区制においては、有力候補者が2名 に収斂するというのがデュヴェルジェの法則が予測するところである。この法則があるからこそ、「政権交代可能な二大政党制」を目指した日本の政治改革を実現する制度改革として、日本の衆議院選挙に小選挙区制が導入された。

 小選挙区制や大統領選挙のように(有力)候補が二人に収束する選挙戦では「敵か味方か」或いは「共通の敵」を作り出すという二分法が選挙戦術として有効となる場合が多い。そして、国全体でただ一人しか当選者を輩出しない大統領制ではその「二分法」による弊害が最大となる。また、「当選者が一人」ということから、大統領制は独裁制へ転化しやすい 。民主党が2009年の総選挙で政権奪取に成功したのは「反自民」という世論の後押しがあったのは言うまでもない。このような「敵か味方か」という二分法或いは「一ビット脳的政治」を招きやすい大統領制或いは「二元代表制」という特性に便乗して、最近では議会との対立を煽る首長が目立ってきたのはこれまで述べてきたとおりである。

 このような「反○○」という「(共通の)敵を作り出す」手法で当選してきた大統領・首長は、当選後の新たな敵として議会を標的にする。この場合、二元代表制の首長側が大統領・首長と議会との対決姿勢を増幅する働きをする 。我が国においてこの手法を多用しているのが改革派首長或いは所謂維新系政党(「都民ファースト」及び「希望の党」を含む)である。彼らは、「既得権益」などの「敵」を作り上げ、「敵味方」という二分法で有権者の感情を煽る というポピュリスト的手法を活用している。そのような対決型の首長が当選した自治体が増加した(そして、そのような自治体は「劇場型」であるがゆえにニュースとなり易く、世間の注目を浴びる頻度が高くなる)結果、分割政府における統治機能の麻痺・機能不全という二元代表制の弊害が日本においても顕わになってきているのが最近の改革派首長の弊害でもある。

194キラーカーン:2018/01/30(火) 01:00:05
7.2.5.2. 「大統領制化」とは何か

 本節でいう大統領制化 というのは、制度としてのそれではなく、大統領制、半大統領制、議院内閣制という政治体制を問わず、政治権力が行政権の首長、すなわち、大統領又は首相に集中する傾向を指す。具体的には

① 行政府(執政府)及び出身政党における首長(指導者)の権力資源の拡大
② 行政府(執政府)及び出身政党における首長(指導者)の権力の自律性の増大
③ 首長(指導者)の指導性を重視する選挙過程

の3つの特徴を持つという。これは、

① 首長の権力の源泉は議会に依存するのではなく、直接選挙で選出されたことによる
② 首長の指導力は(選挙での勝利を条件として)出身政党の圧力から保護される
③ 首長は「選挙の顔」として選挙結果に直接影響を及ぼす

という大統領制化の効果をもたらす。日本においては、「改革派首長」を淵源とする「首長権力の大統領制化」というものは、橋下元大阪市長をはじめとする「維新系政党」で一応の完成をみた。その正統後継者は小池都知事である 。

 問題は、この「大統領制化」が属人的なものであるのか、構造的・制度的なものであるのかということである。属人的なものであるのであれば、一過性のもので終わる可能性があるが、構造的・制度的なものであれば、ある程度継続的なものとなる。勿論、構造的・制度的なものであったとしても、首長の座に就いた人の属人的な資質によって大統領制化の度合いは変動する 。これは、同じ「大統領制化」といっても、大統領制、反大統領制及び議院内閣制と政治体制が異なれば、その「大統領制化」の範囲も異なることと同様である。

 日本でいえば、地方自治体レベルでは改革派知事或いは維新系政党は制度変更と伴わないため(というよりも、制度自体が大統領制の一種である二元代表制となっているため)属人的色彩が強い 。或いは、既存の制度を活用しただけであり、これまでは、属人的事情で大統領制化が「抑制」されてきたともいえる。

 国政レベルでは小選挙区制導入や首相権力(官邸)の強化という制度改正を伴っていることから、意図的に首相権力を高める方策ととってきたと言える。また、リベラルが主流のマスコミによる批判的な報道にも関わらず。国政選挙での連勝により、安倍総理・総裁への求心力は維持されており、国政では「安倍一強」と言われる政治状況となっている。

195キラーカーン:2018/01/31(水) 00:16:12
7.2.5.3. 「1ビット脳的政治」と大統領制化とポピュリズム

 これまでも述べているように、大統領制或いは二元代表制における大統領選或いは首長選は「究極の小選挙区制」である。勿論、大統領選は国を二分する戦いになる。特に大統領選が決選投票制を採っている場合、その決選投票は文字通り「国を二分する」選挙戦となる。

 このような「国を二分する」選挙戦、「敵か味方か」或いは「反○○」という二分法は、全ての問題が究極的には「0と1」に二分される「1ビット脳的政治」は相性が良い。ここに、ポピュリスト的政治家が付け込めば、「風」に乗って政権を奪取することも可能である。

 この種の問題は大統領制においては「政治の素人」が大統領になるというリスクとして知られている。「素人」は資質・経歴の問題であるが、「ポピュリスト」は政治手法の問題である。但し、全国民(住民)の直接選挙で選ばれる大統領、首長であるからこそ、「素人」或いは「ポピュリスト」という語が選挙に際して有利に働くこともある。

 トランプ米大統領や橋下元大阪府知事のように、この両者は矛盾せずに重なり合うことが往々にして存在する。勿論、アイゼンハワー米大統領 のように「政治の素人」であっても、大統領として及第点を与えられている者も存在するので、「政治の素人」であるから大統領或いは首長として不適格とはならない。従来の経緯や文脈から離れた変革が必要な場合はそのような「外部の血」を入れるという利点もある。日本の例では、官僚出身の「改革派知事」というのが該当する。

 ただし、国家(自治体)全体でただ一人を選出された者に権力が集中していく大統領制化と「1ビット脳的政治」との融合は「右」だけで起きているのではない。それは「左」の側にも起きている。有名な例はスペインの左派ポピュリスト政党の「ポデモス」である。

196キラーカーン:2018/02/01(木) 00:36:48
7.2.5.4. 議院内閣制における大統領制化
7.2.5.4.1. 総説

 (半)大統領制を採る国が「大統領制化」するのはある意味当たり前であるが、前述の『民主政治はなぜ「大統領制化」するのか』においては、議院内閣制をとる国も含めて「大統領制化」という概念が使用されている。昨今の政治体制論における「大統領制化」を巡る議論もこの前提に立っている。

 議院内閣制において「大統領制化」という語が用いられる場合は首相(与党第一党党首)への権力集中という意味で使用されている。最近、議院内閣制においても首相への権力集中・自立化という「大統領制化」が進んでいるというのが、ポゲントゲとウェブの立論である 。

197キラーカーン:2018/02/01(木) 00:37:31
7.2.5.4.2. 日本における首相の「大統領制化」

 この「議院内閣制における『大統領制化』という点において、1990年代に「政治制度改革」を経験した我が国は分かり易い実例となっている。細川内閣の成立以後の日本の「政治改革」は首相権力の強化・自立化という点で一貫している 。

 自民党総裁としては、小選挙区制の導入は自民党の権力の源泉である公認権とそれに付随する選挙運動を総裁-幹事長という党中央で掌握することを可能とし、「党中党」としての派閥の存在意義を消滅させた。

 行政の長としての総理大臣としては、「官邸機能の充実」という掛け声のもと、総理直属の機関が拡充強化されている。これは、行政権を分担管理する各省大臣から独立した総理権力の強化・自律化という結果をもたらす。

 このような、政治制度改革後に強化された総理権力或いは自民党総裁権限を最も効果的に使った総理として小泉総理を第一に挙げるのは衆目の一致するところであろう 。「刺客候補」、「派閥推薦を受けない大臣人事」、「偉大なるイエスマンと自称した幹事長」など、小泉総理の「大統領制化」を語る逸話を挙げるのに苦労はない。

 そのような中で、旧来の派閥政治の経験に依拠した「古い」タイプの政治家は時流に取り残されていった 。総理大臣でいえば、福田康夫氏、自民党脱党組でいえば政調会長、通産大臣を歴任した亀井静香氏といったところであろうか。福田氏は総理退任後存在感を発揮できず政界を引退し、亀井氏は自民党を離党し、国民新党を結成し鳩山政権から野田政権までの間連立与党として一定の存在感を発揮したが、結局、泡沫政党のままで政界を引退することとなった。

 一方、安倍晋三氏は、第一次政権での蹉跌を経て、第二次政権で「安倍一強」とまで言われる政治情勢を現出させたことから見ても「大統領制化」という流れに適応したと判断してよいと思う。また、副総理兼財務相として安倍総理を支える麻生元総理も「キャラが立って」おり、その点では大統領制化と親和性が高い。リーマンショックで解散総選挙の時期を逸した ことで結果として自民党を下野させたが、その「個性」から、第二次安倍政権では副総理兼財務相として独自の存在感を放っており、「暫定」であれば総理再登板の芽が残っているともいわれている。

198キラーカーン:2018/02/02(金) 00:54:34
7.2.5.4.3. 首相の解散権の制約と「大統領制化」

 最近、議院内閣制を採る国において注目すべき傾向がある。それは、首相の解散権の制限を規制する国が増加傾向にある事である。首相の解散権制限は、国会議員の生殺与奪の権を制限するため首相権力の弱体化を意味する。

 しかし、逆に、首相の解散権が制限されるということは国会議員の任期に対する総理の影響力が低くなり、議会の進退と内閣(与党)の進退との独立度が高くなり、議会と内閣との間の関係の独立性が高くなる。その結果、一般的に議会の解散がない ことを特徴とする大統領制へ制度的に接近していくこととなり、一種の「大統領制化」といってよい状況となる 。

 最近になって、首相の解散権に制限を加えた代表的な例は、2011年に「固定任期議会法」を制定したイギリス がある。

199キラーカーン:2018/02/03(土) 01:23:33
7.3. 結論3:将来への展望(「国民国家の「統合」再生への処方箋)
7.3.1. 総説

 グローバル化とそれに対する反発としての「ネトウヨ化」の流れは大陸を超えて存在している。それに対するリベラル・左派の対応は、ネトウヨ化を軽蔑し嘲笑するのみで有効な対策を立てられていない。その結果、国政選挙においてリベラル・左派の主流派は巻き返しの切っ掛けさえ掴めていない。

 更に、インターネットの発達により、発信力という点でリベラル・左派が圧倒的に優勢であるマスコミや学界(特に社会科学分野及び人文科学分野)の優位性が減殺される傾向にある。インターネットは、リベラル・左派が優勢なマスコミや学界の自己矛盾と二重基準を白日の下にさらけ出し、その結果、リベラル・左派は「自壊」或いは「自滅」と言ってよい状況に陥った。その「反リベラル・左派」も「ネトウヨ化」に一役買っている。

 更に、そのようなリベラル・左派の自壊・自滅以外にも「世界総ネトウヨ化」を下支えするような「大統領制化」という傾向もある。現実に、「ネトウヨ化」の流れはG7諸国のみならず東欧にも広がっている。このような昨今の情勢を見る限り、「世界総ネトウヨ化」の流れは「時代の必然」なのであろうか。

 本節では、社会の分断が「ネトウヨ化」を進行させているという認識の下、社会の分断を食い止めるための方策を検討する。
筆者は「ネトウヨ化」のもう一つの主要要因であるリベラル・左派の自壊・自滅については、「自業自得」として冷淡な態度をとるが、もしリベラル・左派の反撃というものが存在するのであれば、どのようなものが考えられるかについても可能な限り考察を試みる。但し、現在のリベラル・左派、特に日本のリベラル・左派の状況では、そのような方策を採ることは事実上不可能に近く「絵に描いた餅」に等しいものとなろう。

 勿論、「21世紀の政治制度改革」だけでネトウヨ化ひいては社会の分断が緩和されるとは思えない。ネトウヨ化ひいては社会に分断が緩和される為には、制度改革だけではなく、実際に指導者(大統領や首相)に就任する人物にもよるところは大きい。どのような人物が指導者に就任しても現在問題となっている「分断」を食い止め治癒できるための政治制度とはどのようなものかについて論ずることは可能である。本節では、代表的な政治体制である、大統領制、議院内閣制及び反大統領制についての概要を述べた上で、「分断」を食い止める或いは緩和するための政治体制はどのようなものかについて考察する。

200キラーカーン:2018/02/04(日) 00:52:08
7.3.2. なぜ、日本型ネトウヨ政党は消滅の危機にあるのか

 欧米各国では、「極右勢力」の台頭により、国内の「分断」が深刻化しているといわれている。著者もその見解に同意する。そのような「世界総ネトウヨ化」の中で、「ネトウヨ政党」が消滅の危機にある唯一の国と言ってもよいのが日本である。

 これまで述べたように、日本型ネトウヨ政党は事実上自民党に吸収され、事実上消滅したといってよい状況にある。それは、安倍晋三総理が自民党の右に位置する政治家であり、彼が総理であり、彼の出身母体である清和会が自民党主流派である限り、「ネトウヨ政党」として独立して存在する意義を持たないからであろう。衆議院の小選挙区制や参議院ではの一人区が多く占めていることも、大政党の公認を得た方が有利であり、小政党であった日本型ネトウヨ政党の自民党への吸収傾向を後押ししていた。

 我が国の「リアルの社会」において、「ネトウヨ化」が認知されだしたのは、小泉総理の退陣後、第一次安倍政権が誕生した後である。これは、先の記述と一見矛盾するようではあるが、第一次安倍政権もリベラル・左派からは「右翼」や「極右」とみなされており、リベラル系のマスコミや市民運動などの攻撃が強まった反作用として「リアルの社会」に「ネトウヨ」が飛び出していったという経緯があるからである。

 この経緯については「在特会」創設者であり、「ネトウヨ政治家」の代表格である桜井誠氏も2006年の河野談話撤回要求運動は転機であると述懐していたことからも裏付けられる 。

 これは、欧米各国では、「欧米型ネトウヨ勢力」の受け皿として既存政党が機能せず、彼らが独自に政治勢力(≒政党)を結成せざるを得なかったことと対蹠的である。そして、欧米各国では、その政党が泡沫政党の地位から脱したとしても、オーストリアといった少数の例外を除き、既存政党側から連立与党として招聘されない状況にある 。

 この例から言えば、我が国で「ネトウヨ」が独立した政治勢力となるには、安倍政権が退陣し、自民党が旧宏池会や旧経世会を中心とした「自民党内リベラル」が主流派となる「自民党の左旋回」という状況が起きるような状況にでもならなければ、日本型ネトウヨ政党が独立した政治勢力となる見込みはないであろう。

201キラーカーン:2018/02/05(月) 00:25:50
7.3.3. リベラル・左派の反撃はあるのか

 これまでに述べたようなリベラル・左派の傲慢が現在の「極右」の台頭を招いたという反省から、欧州のリベラル・左派勢力には、「原点回帰」の立場から「没落した中間層」への支援を真剣に考えるべきとの動きも出ている。その代表格は英国のコービン労働党党首、仏国のメランション氏、米国のサンダース上院議員であり、彼らは一般的に「急進左派」と呼ばれている。

 近年選挙があった米国、英国、仏国では、急進左派の側からそのような「大きな政府」路線を掲げる候補・政党が現れ、一定の支持を集め
① 米国ではサンダース上院議員が民主党の大統領予備選において最後までヒラリー・ク
 リントン氏に食い下がり
② 英国ではコービン氏が率いる労働党が健闘し、保守党が第一党の座を死守したものの
 過半数割れに追い込み
③ 仏国ではメランション氏が大統領選で「4強」の一角として、最後まで決戦投票進出
 の可能性を残していた。

 現在は「セレブ」と化し、「没落した中間層」をはじめとする貧困層を見下すようになり貧困層からの支持を得られなくなったリベラル・左派であるが、元来(冷戦終結前)、リベラル・左派は貧困層の救済となる社会福祉充実のため「大きな政府」を志向する傾向があった。そのようなリベラル・左派の原点に立ち戻り、「没落した中間層」の支持を取り戻そうとしている、急進左派の動きは20世紀(或いは冷戦終結)まで見られたリベラル・左派への原点回帰ともいえる。

 米国では2016年大統領選挙の民主党予備選挙においてサンダース上院議員が「社会主義」的な政策を掲げ、民主党予備選挙における「絶対的本命」と言われたヒラリー・クリントン氏に最後まで食い下がった。当選した共和党のトランプ大統領も共和党の中では小さな政府への志向度が一番小さいといわれている 。

 英国では、EU離脱交渉を前に政権基盤の強化を図って解散総選挙に打って出た保守党が過半数を割り込み、当初劣勢が伝えられていた労働党が意外な検討を見せた。英国労働党が善戦した要因として、労働党が医療サービス支出増など、既得権益バッシングの「ない」「反緊縮」政策をとった事が挙げられている 。

 仏国では、大統領選挙で急進左派ともいわれるメランション氏が労働者保護を掲げ、支持率を伸ばした。メランション氏はマクロン大統領らと「4大候補」の一角を占め、マクロン、ルペン両候補を僅差で追いかけ、決選投票進出の可能性を残すまでに「健闘」した。

 英国や仏国或いは米国のサンダース氏ように、健闘した左派・リベラルが掲げた「没落した中間層」を取り込む「反緊縮」或いは「大きな政府」路線はメランション氏のような急進左派のものとなった。冷戦終結後における左派・リベラルの主流派である「グローバリズムと多様性」では、最早「没落した中間層」から「福祉排外主義」に移行しつつある国民多数派の支持を得られないような状況になっている。

 このように、欧米では、リベラル・左派が「没落した中間層」を「グローバル化の敗者」として嘲笑し、救済する価値もない存在として切り捨て、彼らの救済を「国家に押し付けた」 。それと引き換えにリベラル・左派は「国境を超える」グローバリストとしてのアイデンティティーを確固たるものとしたのであった。そして、「没落した中間層」の代わりに、そのグローバリストとしての存在を満足させるための「弱者」としてグローバリストの救いの手が差し伸べられたのが「難民」であった。

 リベラル・左派の主流派がそのような現状に甘んじている限り、リベラル・左派の復活はなく、「左派の復権」はメランション氏に代表される「急進左派」によって成し遂げられることになろう。

202キラーカーン:2018/02/07(水) 00:19:52
7.3.4. 分断を緩和する可能性のある政治体制は存在するのか
7.3.4.1. 総説

 本節では、大統領制、議院内閣制及び反大統領制の各制度について解説する 。

 なお、本稿では、政治体制としては、(立憲)君主と大統領は国家元首として同値であるという前提に立っている。もっと単純化していえば、「元首が非世襲であれば大統領制、世襲であれば(立憲)君主制」との前提に立っている。このため、(立憲)君主制の項は存在しない。必要に応じ、「大統領」を「君主」に置き換えれば良い。

 議院内閣制と大統領制は二律背反であると思われているが(一般論としては正しい)、端的な例を挙げれば、(半大統領制ではない)「大統領が存在する議院内閣制」という政治体制も存在する。
大統領と首相と双方が存在する政治体制において、どちらが政治的実権を握っているか、即ち、大統領制化議院内閣制かということを判別する分かり易い目安として、「サミットに誰が出席するか」ということが挙げられる。例えば、G7サミットでいえば、大統領が出席する国は大統領制(米国)又は半大統領制(仏国)であり、首相が出席すれば議院内閣制(日本、英国、独国、伊国及びカナダ)である。G7諸国で議院内閣制を採っている国のうち、日本、英国、カナダ の3カ国が立憲君主制、独国、伊国の2カ国が大統領を有する議院内閣制である。

203キラーカーン:2018/02/08(木) 00:35:31
7.3.4.2. 大統領制
7.3.4.2.1. 総論

 政治体制論でいう大統領制は「大統領」という役職(国家元首)が存在しているという政治体制を指すという意味ではない。言い換えれば、役職の名称の如何を問わず、国家元首が以下のような性質を持っている場合に「大統領制」に分類される。
① 国家元首を(実質的 )直接選挙で選出する
② 国家元首は議会により、任命又は罷免させられない
③ 大統領と内閣との間に「二重の権威」を認めない。国家元首は内閣を指揮する

 当然のことながら、上記の条件を満たさない、「大統領が存在する『議院内閣制』」という政治体制が存在するのも、既に述べたとおりである。。

 サルトーリは「大統領制はあまり機能しなかった。アメリカ合衆国を唯一の例外として(中略)それらは決まってクーデターや革命に屈した。」と大統領制の安定性について厳しい評価をしている 。逆に、だからこそ、唯一の成功例としての米国の大統領制を「ベスト・プラクティス」として分析する意味はある。

7.3.4.2.2. 失敗例としての南米諸国

 南米諸国は19世紀に相次いで独立を果たすが、独立後の政治体制については、米国を参照とし、大統領制を採用した。しかし、多くの国でクーデターなどによる民主制(大統領制)の崩壊を経験している。この原因は、「強力な大統領」という「幻影」に怯え、大統領権力を弱体化する方向へ政治力学は働いた結果、「決められない政治」に陥ったというものである 。

7.3.4.2.3. 成功例としての米国
 「世界に冠たる民主主義国家」としての米国の名声は不動のように思える。勿論、人種差別など米国の民主主義にも問題がないわけではないが、「世界一の民主主義国家」として米国を挙げることに異を唱える人は少数派であろう。その米国が「大統領制発祥の地」であることから、「君主制の改良型」である議院内閣制よりも、民選の元首である大統領制の方が「民主的」であるとの「イメージ」も強い 。しかし、米国以外の大統領制は必ずしも「民主度」は高くない。サルトーリは米国の大統領制が成功している理由について、
① 思想的な無節操
② 脆弱で無期率な政党
③ 地域中心的な政党
の3つを挙げている 。

 つまり、米国の政治風土が党派的、思想的な原因により議会の対立軸が固定化されることを回避する、言い換えれば、その時々の議員個人の選挙区の利害関係によって議会での態度(投票行動など)が決定されるということである。また、このことを裏面から表すものとして「(米国の大統領は)建国の父たちが、党派的な対立から超越してそれを抑制する存在として設計したものである 」という表現もある。その議員の利害を纏め望む法律案を成立させるためには、議員を調停できる「強い大統領」を必要とした。

 これらを纏めると、
① 議会内の対立軸は案件により異なり、政党間で固定化されてい「ない」
② 大統領は議会内の対立から超然としているべきである
というのが元来の米国の大統領制の制度設計であったといえる 。

 サルトーリは、このような分断が固定化されていない米国の政治環境が米国の大統領制を「成功」に導いたとしている。言い換えれば、大統領制においては、行政府を掌握している「強い」大統領と、案件に応じて党派性を超えた投票行動を容認する「弱い議会政党」が成功する大統領制の条件である(分離から融合)。

7.3.4.2.4. 米国大統領制の黄昏?-トランプ大統領を生み出したものは何か

 米国においても、大統領は「行政の長」よりも「政党の顔」としての比重が大きくなってきている。このため、大統領の議会への働きかけ自体が党派的対立を招くようになったとされている 。また、法案に対する大統領の立場表明によって、それを支持するか否かで二分されやすいという傾向にある 。

 これらのことから考えれば、党派対立から「超然」とした行政府の長としての大統領とを、ここ数十年の傾向として、共和・民主の二大政党に対応した党派性に基づく二分化の傾向が強まってきた議会 との相乗効果によって、米国政治も二分化される傾向にあるとの推測は成り立つ。その党派性による分極化・分裂がトランプ大統領の登場により誰の目にも明らかになってきたのでないかと推測できる。

204キラーカーン:2018/02/09(金) 00:00:19
7.3.4.3. 議院内閣制
7.3.4.3.1. 総説

 議会と政府との完全分離或いは相互独立性を基盤とする大統領制とは異なり、議院内閣制とは、政府(内閣)の存立が議会の投票結果により、政府(内閣)全体或いは政府の長が誕生し、必要な場合には議会は政府に対する支持を表明し、罷免される政治体制である 。このため、政府の任期議会の信任が無くなるまでであり、政権存続期間は一定しない 。この政府の存続が議会の信任に依存している結果、議院内閣制においては立法権と行政権(執行権)は(連立)与党において共有されることとなる 。

7.3.4.3.2. 首相の立場による分類

 議院内閣制は、(米国)大統領制のように一人の人間に権力(行政権或いは執行権)が集中することを排除する政治形態である。この結果議院内閣制における首相の地位、権力については与党議員との関係に依るため、次の3つに分かれるとされている 。
① 非同輩者の上に立つ第一人者(a first above unequals)
  与党議員から不信任を突きつけられる可能性がなく、閣僚を意のままに任免できる
② 非同輩者中の第一人者(a first among unequals)
  閣僚を罷免することはできるが、自身は罷免されない
③ 同輩者中の第一人者(a first among unequals 或いは primus inter pares)

  自身が自由に任免できない(押し付けられた)閣僚が存在する
議院内閣制においては、フランス第三、第四共和政のような「強い議会」と「弱い首相」の組み合わせではなく、英国やドイツのような「非同輩者の上に立つ第一人者」による政府(内閣)が与党からある程度の独立性をもって行う政治システム(宰相システム )の方が安定するといわれる(融合から分離)

205キラーカーン:2018/02/10(土) 01:33:57
7.3.4.4. 半大統領制
7.3.4.4.1. 総説

 半大統領制とは、国民の直接投票で選出される行政府の長である大統領と議会の信任に依存する首相との間で行政権(執行権)を共有している体制を指す。即ち、大統領は首相行政府の権限を共有し、首相は議会(与党)と権限を共有する。

 とはいっても、大統領と首相が「並立」しているのではない。大統領の出身政党と議会多数派が同じである場合には、大統領制が優位に立ち、そうでない場合には、首相が優位に立つ。但し、劣位になった方の権力・権限がゼロになる事(つまり、純粋な大統領制と議院内閣制との「交代」)にはならない 。

7.3.4.4.2. 半大統領制の持つ「曖昧さ」

 このように、半大統領制は大統領制と議院内閣制との間を揺れ動く「曖昧な政治体制」ということもあり、論者によって半大統領制に該当する国家には異同がある。ここでは、代表的な論者として、「半大統領制」という語の生みの親であるデュヴェルジェと「交代大統領制」(この語については後述)の提唱者であるサルトーリを例に引く(図3参照) 。

 デュヴェルジェは、フランス、ヴァイマール・ドイツ、ポルトガル、フィンランド、スリランカ、オーストリア、アイルランド、アイスランドの8カ国を半大統領制の国としている。一方、サルトーリはオーストリア、アイルランド、アイスランドの3カ国については、大統領の権限が名目化していると判断して議院内閣制としている。「半大統領制」という語はフランス第五共和制の政治体制を説明するためにデュヴェルジェが作った語であるが、デュヴェルジェもサルトーリも第五共和制以前に消滅した政治体制であるヴァイマール・ドイツを反大統領制に分類しているのは興味深い 。

 この「元首(大統領)」の権限が実質化したために、政治体制が議院内閣制に移行したという事象は、欧州における多くの立憲君主国に見られたのみならず、戦前期日本の「憲政の常道」期にも見られたものである。半大統領制か(大統領の権限が名目化した)議院内閣制かの判定は、民主政の発展段階にある立憲君主制における君主の権限と首相の権限との判別、或いは、立憲君主国に多く見られる君主権力の名目化と同様の問題である。しかし、半大統領制はその「曖昧さ」を活かして、政治状況に応じ、大統領制と議院内閣制を「切り替える」ことを可能とする政治体制なのかもしれない。

 そして、半大統領制の持つ大統領制と議院内閣制との間の「振動」という性質に着目し、その可能性に着目したサルトーリは「交代大統領制」(後述)提唱する 。また、「交代大統領制」の実例とはみなされていないが、実質的に大統領制(超然内閣)と議院内閣制(憲政の常道)の間を揺れ動いた体制として大日本帝国憲法体制、特に「1900年体制」がある。このように、大統領制でも議院内閣制でもなく 、その両者の間を「振動する」政治体制が、現在のような「ネトウヨ化」した社会において分断を緩和する可能性のある政治体制として以後述べていくこととする。

206キラーカーン:2018/02/11(日) 01:37:57
7.3.5. 「分断」を食い止める政治体制
7.3.5.1. 総説

 先に述べたように、大統領制、議院内閣制、半大統領制それぞれに長所と短所がある。一般的に大統領制は硬直的であり、議院内閣制は柔軟であるといわれている。そのことを示す言葉として「議院内閣制の危機は体制の危機ではなく政府の危機である」というものがある 。また、選挙制度においても小選挙区制と比例代表制では相反する長所と短所がある。このため、政治危機に応じて最適な政治体制を柔軟選択又は変更できる体制を構築しておくのが理想的である。

 しかし、憲法を英語で「constitution」というように、憲法では国家権力行使に関しての構造化、制度化が主眼の一つである。言い方を変えれば、憲法は「最高」の国家行政組織法でもある。したがって、どのような政治体制を採用するかについての基本的構造は憲法に規定しなければならない。これは、先の述べた「政治危機に応じて柔軟に政治体制を変更できる 」とは二律背反する要求である。

 現在「ネトウヨ化」と並んで問題となっている「分断」であるが、その「分断」を食い止める或いはその分断を治癒できるための政治制度はどういうかを選択できる融通性を持った政治体制 を憲法にどのように規定するのかついて考察を行いたいと思う。
安定し、効果的な統治をもたらす政治体制は
① 大統領制においては、強い大統領による議会への働きかけで大統領への支持を調達
 (大統領と議会との分裂からの統合)
② 議院内閣制では、強い首相による内閣(行政府)の与党からの独立性の確保
 (首相と議会(与党)との融合から分離)
③ 反大統領制においては、政治状況に応じた大統領制と議院内閣制との「切り替え」
 (状況に応じた大統領と首相(与党)との間の最適バランス)
ということになる。

 しかし、これまで述べてきたように、大統領制は、現在、「国家元首」というよりも、「政権与党の顔」としての役割が増大しており、「党派的傾向」が強くなってきている。それと「大統領制化」と言われる状況とも相まって、「分断」を拡大させ、固定化させこそすれ、その分断を押しとどめる効果は少ないと考えられる。これは、議院内閣制と小選挙区制(≒二大政党制)との組み合わせを選択した場合においても生じやすい。

207キラーカーン:2018/02/12(月) 01:21:07
7.3.5.2. 政治体制はどの程度まで憲法で規定すべきか

 憲法典において規定されている事項は各憲法典によって異なる。先に述べたように日本国憲法は統治機構についての規定が粗いため、他国では憲法改正を要するような統治機構改革も法律改正で可能と言われている。

 大日本帝国憲法に至っては、更に規定が粗く、天皇と大臣のみしか規定されておらず、天皇を各大臣が輔弼するという体制のみが規定されていた。したがって、首相の権限をはじめとする内閣の職務権限、或いは首相任命手続などについては憲法ではなく、法律レベル で規定されていたか或いは「慣行」に任されていた。

 現代においては、そこまで「粗い」ということは許されないであろう。少なくとも、
① 大統領制、半大統領制、議院内閣制のいずれか
② 国家元首について(非世襲≒大統領制、世襲≒君主制)
③ 政府の長(首相又は大統領)の任命資格及び任命手続政府の長と各閣僚との関係
④ 内閣の権限内閣の組織
⑤ 大統領弾劾或いは内閣不信任と議会解散
については憲法において規定されるべきであろう。

 また、サルトーリのいう「交代大統領制」を採用する場合には
⑥ 大統領制、半大統領制、議院内閣制が変更される要件
についても規定する必要がある。

 選挙制度については、議論が分かれると思うが、
① 大統領制を採用する場合には大統領選挙
② 連邦制を採用する場合には、上院(州代表)と下院の議員資格及び選挙制度
は規定する必要があると思われる 。

208キラーカーン:2018/02/13(火) 00:03:19
7.3.5.3. 緊急避難としての「(挙国一致)大連立」の効用
 政治体制の基本は憲法で定めるべきであるという大原則を是認したとしても、憲法レベルでの規定が不可能である「事実上の」政治体制がある。それは「(挙国一致)大連立」である。

 大連立とは、平事においては政権を争うライバル関係にある政党或いは政治勢力が、国家的危機などに際して一時的に連立を組むということをいう。このような事態は、まさに、国家消滅の危機でなければ是認し得ないものである。歴史上では、英国が第一次及び第二次の両世界大戦時に対外戦争を行う際に実施した「(挙国一致)大連立」が有名な例である。

 最近、特に本稿の趣旨でいえば、「極右政党」の台頭により既存の政治体制の安定が損なわれるため、既存の政治勢力(≒政党)が連合することによって既存の政治体制を維持しようという動機が生まれる。そして、それまで政権を争っていた各勢力が連合することでしか過半数を確保できないという状況になったときに、極右政党を連立与党から排除するために大連立を組むということがある。現在、ドイツにおいて行われているCDU/CSUとSPDとの大連立交渉がこの例である 。

 政治的危機を乗り切るための劇薬としては有効な場合もあるが、長期間にわたると、政権交代の可能性が無くなり一党優位制へ転換する契機も生まれる。したがって、大連立は、大連立を必要とした状況がある程度緩和された段階で解消するのが正しいと思われる。

209キラーカーン:2018/02/13(火) 00:04:07
7.3.5.4. 緊急避難としての「超然内閣」の例(イタリア)

 現在、所謂先進民主主義諸国において、一番「交代大統領制」に近い政治体制を採っているのがイタリアである。イタリアは基本的に議院内閣制であり、下院第一党党首が首相になる事を原則としている。しかし、タンジェントポリ のような多くの国会議員を巻き込んだ政治危機の際には、大統領の決断により、疑惑の当事者となっている国会議員による内閣ではなく、非議員による「超然内閣」 を結成して政治危機を乗り切るという手法を採ることがある。

210キラーカーン:2018/02/13(火) 23:11:51
8. 試論:「ネトウヨ化」への処方箋としての「交代大統領制」
8.1. 総説

 本節では、前節の内容を受けて、ネトウヨとリベラル・左派との間の分断を緩和する可能性のある政治体制としての「交代大統領制」とその実例としての「1900年体制」について述べていく。

8.2. 「交代大統領制」とは何か

 交代大統領制は政党政治の比較分析などとして世界的に高名なジョバンニ・サルトーリ氏の提案である 。サルトーリは「交代大統領制」の根幹制度を
① 政府は総選挙時に終了し、総選挙の結果発足する政府は議院内閣制である
② 内閣不信任の際は大統領が「超然内閣」を組織する(大統領制への移行)
③ 大統領は直接選挙により有権者の過半数で選出され、任期は議会の任期と一致する。
とする。

 サルトーリは、これにより、議院内閣制と大統領制との間での「体制の均衡」が成立するとしている。その理由として
① 議員は倒閣運動に参加しても閣僚になれない
② 「政府の長」としての大統領には再選がない
としている。

 このような、議院内閣制を基準としながら、政治危機には時限大統領制で対処するという考え方は、イタリアにおける緊急避難的な超然内閣を思わせる 。

211キラーカーン:2018/02/15(木) 00:46:47
8.3. 「交代大統領制」の実例としての「1900年体制」
8.3.1. 総説

 本節では、サルトーリが提唱した「交代大統領制」の実例としての我が国の「1900年体制」を紹介する。1900年体制はサルトーリの提唱前であるが 、先に述べたイタリアの例を除き、交代大統領制の実例として一番適当であると考えられる。また、日本語で書かれた本稿においては、日本の実例を引いた方が適当であると考える。

 議院内閣制と超然内閣の「いいとこ取り」で戦前日本において政治が一番安定していた時期であったといっても過言ではない。本節では、1900年体制を「ネトウヨ化」ひいては国家の分断を緩和するための「ベスト・プラクティス」として論じてみたい。

212キラーカーン:2018/02/15(木) 00:48:23
8.3.2. 「1900年体制」とは何か

8.3.2.1. 一般的な意味における「1900年体制」

 「1900年体制」とは板野潤治氏の創案とされている 。詳細は同書に譲るが、「1900年体制」を簡潔にいえば

 伊藤博文率いる政友会と山縣有朋率いる官界が疑似二大政党的に交互に政権を担当する政治体制

といえる。この体制の大枠が明治33年(1900年)の立憲政友会の設立で定まったことから「1900年体制」と板野は名付けた。しかし、この体制の下で伊藤或いは山縣が首相となったことはなく、事実上、山縣の後継者である桂太郎と伊藤の後継者である西園寺公望が交互に政権を担当した「桂園時代」の別称 として用いられている。

 この時代は、内閣史の観点から見れば、大日本帝国憲法下の日本で一番政権が安定していた時代であった。これは、超然内閣(桂)と政党内閣(西園寺)とが交互に政権を担当することにより、「交代大統領制」が期待した効果を挙げた時代であるともいえる 。

213キラーカーン:2018/02/15(木) 00:49:35
8.3.2.2. 拡張された「1900年体制」(本節における「1900年体制」

 本節では、一般的な意味における「1900年体制」を拡張して

政党指導者と官界の指導者が交互に総理大臣となることが基本であった第一次大隈内閣から清浦内閣まで

とする。これは、実際の「政局」ではなく、内閣の性質(政党内閣か超然内閣か)に着目したものである 。

 但し、第一次大隈内閣と第二次山縣内閣は1900年体制確立のための前段階(移行期)とした方が正確かもしれない。というのも、
① 第一次大隈内閣の与党となった憲政党は大隈の改進党と板垣の自由党との合同に元老
 が政権担当意欲をなくしたための「突発的」政権交代であり、「体制」とまで制度化され
 ていなかったこと
② 第二次山縣内閣は松方、西郷といった元老が閣僚として名を連ねており、「最後の藩閥
 内閣」
という性格も持つ
ということから、純然たる1900年体制とは言い難い面がある。この点に配慮して、本稿では、この両内閣を「第0期」としている。

 そして、政党(選出勢力)と官界(非選出勢力)との間の疑似二大政党制的政権交代構造の維持が不可能になったことが白日の下に曝された時点(第二次護憲運動から加藤憲政会内閣の成立)によってこの「広義」の1900年体制は終わりを告げることとなる。

214キラーカーン:2018/02/16(金) 00:21:39
8.3.2.3. 「山縣スタイル」(現役軍人首相)の発生
8.3.2.3.1. 総説

 ここで、1900年体制において鍵となる概念である「山縣スタイル」について触れなければならない。

 「山縣スタイル」とは現役軍人のまま首相に就任するということを指す言葉であり、この形態で初めて首相に就任した第三代総理の山縣有朋に由来する 。その後、桂太郎、山本権兵衛、寺内正毅、加藤友三郎、東条英機、東久邇宮稔彦王と敗戦まで断続的にこの類型の首相を輩出してきた

 そのような実例に反して、大日本帝国憲法体制の下では「山縣スタイル」は予定されていなかった。というのは、予備役制度発足(明治21(1888)年12月)と同時に、部外の文官職に専任となった武官は予備役に編入されるという規定が創設されたからである。この規則に従う限り、現役軍人の総理大臣は存在しえない。なぜなら、総理大臣はどの省にも属さない「文官職」であるからである。

 この規則の例外として、「同じ軍内の文官職」に専任となる場合には現役残留が可能であった。例えば、文官の学校教官が充てられる職(例:英語教官)に駐米武官経験者を充てる場合には現役残留が可能である(勿論、予備役編入の上「文官」として就任することも可能)。

 このように「現役軍人首相」が不可能な制度設計であったのにも拘らず、
① 「山縣スタイル」が発生したのはなぜか
② 「現役軍人首相」がなぜ日本では「平穏無事」に成立したのか
③ 「文民・文官」首相ではなく、現役軍人首相がなぜ選択されたのか
という「1900年体制」を生み出した理由について考察していきたい。

215キラーカーン:2018/02/16(金) 00:22:26
8.3.2.3.2. 大日本帝国憲法体制の例外としての「山縣スタイル」

 なぜ「山縣スタイル」が発生したかといえば、政治家としての山縣の特別な地位に由来する。山縣は元勲元老の中でただ一人現役軍人であり続けた人物である 。予備役制度創設時、山縣は「陸軍外の文官職」である内務大臣であったが、現役武官の監軍(後の教育総監)が内務大臣を兼任 するという形で現役に留まっていた。しかし、山縣が首相となれば、監軍兼首相というわけにはいかない。しかし、首相に相応しい武官職がないため、このままでは首相専任とならざるを得ないが、それでは山縣は予備役編入となる。

 山縣の政治家としての権力の主な源泉は「現役軍人」である。当時の政治情勢から見て山縣が首相に就任するのは当然視されていた 。首相に就任するからと言って山縣が予備役編入となることはあり得ないというのも当時の政治家にとって「常識」であった。この二律背反を解消するために、「勅語」による現役残留という「超法規的措置」ととらざるを得なかった 。これが「山縣スタイル」の始まりである。

 その後、終身現役である元帥で首相になった第二次山縣及び寺内内閣を除き、桂太郎(第一次、第二次)、山本権兵衛(第一次)、加藤友三郎が首相に就任する際もこの方式が踏襲された。この結果「現役軍人が首相の大命降下」を受けた場合、勅語を受けて現役に残留するのが「異例の慣例」となった 。

 そして、この歴史的経験の上に、東条内閣という「戦時内閣」、そして、東久邇宮内閣という「終戦処理」が成立するが、それは「現役軍人首相」という形態のみを借用したものであり、「1900年体制」下の現役軍人首相とは性格が異なっている 。

 但し、この「勅語による現役残留」は現役軍人が首相に就任する場合「のみ」に発出されるのを原則とした 。したがって、現役軍人は首相と軍部大臣以外の閣僚に専任となる場合には閣僚就任とともに予備役編入となった。予備役制度創設時、西郷が「陸軍中将の海軍大臣」であるが故に予備役編入されたのもこの延長線上にある。

216キラーカーン:2018/02/17(土) 02:35:08
8.3.2.3.3. 「革命政権」としての維新政府が「山縣スタイル」を生んだ

 明治維新(維新政府)は戊辰戦争という内戦を経て樹立されたことは言うまでもない。また、その維新政府の一応の完成は1877(明治10)年の西南戦争終結後ということも異論は少ないであろう。偶然にも、維新の三傑はこの前後に全員が相次いで亡くなる
。しかし、そのような内戦を経て確立された維新政府において、戊辰戦争から西南戦争までの「軍功」により政府高官の地位を占めた者は少なくない。

 元勲元老(格)である黒田清隆や山田顕義は陸軍中将でありながら軍部大臣以外の閣僚として活躍している。「山縣スタイル」の創始者であり、終身現役の元帥として陸軍に影響力を維持していた山縣も軍部大臣以外の閣僚や枢密院議長の経験がある。その他にも、例えば、維新政府では軍人にならなかった板垣退助は戊辰戦争で討幕軍の総督、参謀としての軍功、軍歴がある。更には、目立った軍功があったわけではなく「軍人政治家」に含まれることはないが、西園寺公望も戊辰戦争では総督や参謀を務めたという軍歴がある。

 このように、日清戦争の頃まで、軍功により軍以外の政府高官の地位を占める者が存在し、ひいては、軍功などにより陸海軍の将官にまで上り詰めた上で軍部大臣以外の閣僚に就任する「軍人閣僚」或いは「軍人政治家」が一定数存在したことにつながる 。例えば初代内閣である第一次伊藤内閣では、首相も含めた10名の閣僚中「軍人閣僚」は過半数の6名であり、維新政府内閣(1900年体制より前の内閣)の掉尾を飾る第二次山縣内閣では、同じく10名の閣僚中5名が軍人閣僚である。

 現役軍人首相内閣であるが、軍人閣僚率が15名中の5名(うち現役3名)である東条内閣を「殆ど軍部の直接支配」と評する のであれば、維新政府内閣の最初と最後を飾る第一次伊藤内閣や第二次山縣内閣で軍人閣僚率が50%以上というのは、「軍事独裁政権」と言っても過言ではない。しかし、そのように評する人は管見の限り見当たらない。

 つまり、維新政府内閣において軍人閣僚率が高いのは、軍部支配というよりも、内戦を経て成立した明治維新政府であったため、維新政府の高官を占めるべき「建国の功労者」の中に軍人が多かったということである。それは、ジョージ・ワシントンが米国初代大統領となり、ド・ゴールが第二次世界大戦終結後に政府首班を務めた事例に近い。

 そのような維新政府における「軍人政治家」頂点に位置したのが山縣有朋であるということについては衆目の一致するところであろう。その意味において、政治家としての山縣を温存する「山縣スタイル」というのは当時の政治情勢から生み出された一種の必然でもあった。「現役」であることに拘った山縣という存在が「山縣スタイル」そしてそれを一般化した「現役軍人首相内閣」という政軍関係理論上の「特異点」を生み出した 。

 しかし、それは山縣個人或いは山縣とともに戊辰戦争や西南戦争を戦った軍人政治家に対する「属人的例外措置」を正当化するものであっても、彼ら以後の世代である桂以後の軍人政治家が「山縣スタイル」によって首相就任することを正当化するものではない。山縣と同世代ではない彼らが「山縣スタイル」を踏襲するのであれば、「属人的例外措置」を「制度化」するそれ相応の理由が必要である。次節ではその理由ひいては「1900年体制」の基礎条件を「軍人閣僚」を補助線として考察していくこととする。

217キラーカーン:2018/02/18(日) 01:45:18
8.3.2.3.4. 維新政府の名残としての「山縣スタイル」或いは軍人閣僚

 本節では「山縣スタイル」の補足として、首相以外の軍人閣僚について述べることとする。軍人閣僚といえば軍部大臣(陸軍大臣及び海軍大臣)が代表的存在であるが、明治時代においてはそれ以外の大臣にも軍人(陸海軍将官)が就任している。本節ではそのような「軍人閣僚」に焦点を当てる。

 ここでは、将官(少将以上)で大臣(首相及び班列を含む)に就任した者とする。本稿で軍人閣僚を将官以上に限定した理由は、当該大臣が形式的な軍歴があるだけではなく、「軍人(武官)であることを主要な理由として 」大臣に任命されたという実質的要件を担保するためである。任官後短期で退官し、退官後の経歴が認められて大臣に任用された場合はもとより、徴兵経験者の大臣を排除する必要もあるからである。

 「将官」以上に限定するもう一つの理由は大臣の任用資格との関係である。大臣のにんよう資格については、
① 軍部大臣の任官資格が中将以上
② 軍部大臣を含め国務大臣は親任官
とされていることから、それとの均衡上必要とされる「軍歴」は中将以上である。百歩譲って、「軍歴+α」の「合わせ技一本」で大臣に任用される場合であっても、「軍人政治家」と称されるに足る軍歴として将官以上の軍歴は必要となる 。

 内閣制度草創期には現役・非現役問わず、将官でありながら軍部大臣以外の閣僚(非軍部大臣)に就任する者が一定数存在した。また、将官以上で軍部大臣や総理大臣を含む閣僚に就任した者のうち軍部大臣のみの閣僚経験は一人(仁礼影範)だけである。

 このことは、明治維新後約20年経過しても、軍が大臣級高官の主要な人材供給源であったことを示している。国家機構整備が軌道に乗り、官僚から大臣が輩出できるようになると軍人閣僚は減少していき 、日露戦争後には、軍人政治家としての出世コースは軍部大臣から総理大臣のみとなった。

 このように、日露戦争の頃には、ヒラ閣僚級では軍人閣僚に頼らなければならないという状態は脱することができた。しかし、官僚出身者が非選出勢力を取りまとめるだけの実力を持つ「大物政治家」となるにはもう少し時間を要した。日露戦争から約10年経過し、元号も大正へと変わった頃になり、ようやく、平田東助、清浦圭吾という「官僚政治家」が首相候補に名乗りを上げるようになった。

 しかし、それでも、当時、の軍人政治家の筆頭格と目されていた桂太郎、山本権兵衛、更には山縣や桂の後継者と目された寺内正毅よりもより見劣りするのは否めなかった。政党政治家にめを転じてみても、大隈重信や板垣退助という「明治の元勲」から政争に敗れ政党政治家に転じた者、或いは、戊辰戦争に従軍した西園寺公望といった公家政治家ともかく、松田正久、原敬という「純粋」な政党政治家が首相候補に名乗りを上げるのはまだ先のことであった。
このような状況では、非選出勢力を纏めるのは引き続き軍の領袖である「軍人政治家」の役割であり、そのような軍人政治家が現役のまま首相に就任する場合、「山縣スタイル」という前例を踏襲するのは合理的である。

 官界と政党が十全な政権担当能力を身に着けていない時代であった1900年体制においては、山縣が政治の第一線を退いた後も山縣の後継者である桂や寺内という軍人政治家が官界を含めた非選出勢力全体の領袖である事が求められたため、「山縣スタイル」を継続しなければならなかった。

 大正の末期になり、官界と政党(特に憲政会)が首相輩出勢力として一本立ちし、その一方で総力戦遂行の観点から軍(特に陸軍)としても(現役)軍人首相を求めなくなった時代となったことで、「山縣スタイル」ひいては「1900年体制」はその歴史的使命を終えた。そして、時代は政党政治に親和的な「最後の元老」西園寺公望と「憲政の常道」の時代へと移っていくことになった。

218キラーカーン:2018/02/19(月) 00:27:38
8.3.3. 「1900年体制」前史(「藩閥内閣」から「大日本帝国憲法体制」へ)

8.3.3.1. 総説

 明治政府が薩長或いは薩長土肥という雄藩を主力とする藩閥政府であったということはよく知られている。維新政府樹立後、征韓論などで明治政府を追われた者が自由民権運動ひいては帝国議会(衆議院)を活躍の場とし在野の知識人などを糾合していった。その代表的人物が、板垣(征韓論で下野)や大隈(明治十四年の政変で失脚)であった。
 一方、明治政府に残留した者は国家機構の整備に伴い、文武官を糾合していった。前者(選出勢力)の代表人物が板垣退助及び大隈重信であり、後者(非選出勢力)の代表人物が山縣有朋であった。
 後に立憲政友会総裁となり、「政党政治家」へ転身する伊藤博文は、の死後、政府で頭角を現してきた伊藤博文は、長州閥ひいては藩閥政治家の領袖となるように、元々は藩閥政治家側の人物であった。しかし、伊藤は、大日本帝国憲法の実質的起草者であったことにより「憲法伯」の別名を持つことからも、国会(大日本帝国憲法上は「帝国議会」)特に衆議院の果たす役割を軽視していなかった。

 伊藤は、日清戦争後には、政党の関与・協力がなければ政府運営は不可能であるとの認識に立っていた。その結果、政党に拒否反応を示す他の元老、特に山縣との政治的立場を異にしていく。そして、第一次大隈内閣総辞職後の1900年、旧自由党(板垣系)と伊藤系の官僚を糾合して立憲政友会を設立した。官僚側はその反作用的に、山縣を盟主とする「非選出勢力」としてまとまっていった。ここに、20世紀最初の25年間の政治体制を規定した1900年体制が確立したのであった。

219キラーカーン:2018/02/19(月) 00:29:44
8.3.3.2. 「元老」とは何か。

 ここで、大日本帝国憲法体制を語る上で避けることのできない、元老に触れる。

 元老の一般的定義は、「国政の重要事項について影響力を行使し、首相奏薦について天皇の下問を受け、その他宮中関係事項について発言する指導者層」とされており、当初の伊藤博文、山縣有朋、井上馨、黒田清隆、松方正義、大山巌、西郷従道の7名に桂太郎及び西園寺公望の2名を加えた9名を指すのが一般的とされている。

 元老は明治維新後の政治状況の中で自然発生的に生まれた集団であるため、明確かつ統一的な定義が存在しない。一般的には「『元勲優遇の勅語』 を授かった者」を元老の定義とすることが多いが、少なくとも伊藤から西郷までの7名(以後、「元勲元老」という。)は当該勅語を授かる前から元老であった 。例えば、西郷はその死去まで当該勅語を授かっていないが、西郷を元老の一員に含めることについての異論は見られない。

 その後、大正になり、元老を追加する必要に迫られた際、「追加された元老」であることの対外的証明として「元勲優遇の勅語」を授けられることが取り沙汰された。しかし、「最後の元老」西園寺が元老の追加に反対したため、桂太郎及び西園寺公望を最後に元老は追加されず、その結果として、「元勲優遇の勅語」を賜った者はいない。

 では、元に戻って元老を如何にして定義すればよいのか。それは、彼ら(特に元勲元老)の閲歴から判断して帰納的に彼らが元老とされた条件を抽出するしかない。そして、元勲元老とその他の政治家(「維新の三傑」を除く)を区別するための基準は彼らの経歴を見れば明らかとなった。明治維新の功労者の中で、元勲元老とその他の元勲とでは明らかな違いがある。それは

維新政府における太政官制終了時において参議以上の職を占めていた者で内閣制度創設とともに引き続き天皇の(政治的)輔弼職(閣僚及び内大臣)に留まった者

である。現代における元老研究の第一人使者と言っても過言ではない伊藤之雄氏も彼らに共通するこの経歴に注目している 。

 この定義を厳密に解釈すれば、黒田清隆が外れ、山田顕義と三条実美の2名が加わるので、「元勲元老」の7名と差異が生じる。

 しかし、黒田は、当時、長州閥の領袖であった伊藤と並んで薩摩閥の領袖であったことから、第一次伊藤内閣発足時の入閣は憚られたものと考えられる。事実、黒田は、伊藤の対抗として初代首相候補にも名前が挙がっており、第一次伊藤内閣の後、「(山田を含む)元勲元老の総意」で第二代首相に就任した。このことから見ても、第一次伊藤内閣発足時に入閣しなかったのは、黒田の政治生命が尽きたのではなく、当時、薩長藩閥内で伊藤に次ぐ地位にあったため、入閣が憚られたためであったことは明白である。

 残る三条と山田2名は元勲元老の一員とされることはまずない。学術研究の政界においても正式に元老の列に加えている研究者はいない。しかし、山田及び三条も他の元老に伍して元老的な役割を果たしたとの見解 が存在することは事実である。このため、彼らを「元老以前の元老」と見做せば、この定義と矛盾をきたさない。

この両者を「元老以前の元老」と表現した理由は
① 山田は「元勲優遇の勅語」を賜る前に死去した(これは西郷と同じ)ため
② 三条はその死まで内大臣の職にあり、「元勲優遇の勅語」を賜る機会がなかったため
であったと考えられるからである 。

 元勲元老の後継者として「追加された元老」には桂と西園寺と両名を挙げるのが一般的であるが、桂については元老格となってから短期間で死去したため、元老に含めない見解もある 。

 ちなみに、元老とよく似た言葉で「元勲」という言葉がある。「(維新の)三傑」と並んで「元勲」も明治維新の功労者として用いられるが、元老よりも広い範囲で用いられる。この語も明確な定義がないのは元老と同じであるが、敢えて「元勲」を定義すれば

(家柄ではなく)明治維新の功績により、維新後、参議以上の職に上り詰めた者

となるであろう。

220キラーカーン:2018/02/20(火) 00:19:33
8.3.3.3. 半大統領制の「大統領」としての元老

 元老は、大日本帝国憲法体制において、事実上の「政治面での天皇の代行者」つまり、政治体制論上において大統領制或いは半大統領制の大統領或いは君主と同視すべき存在であった。但し独任制である大統領とは異なり、元老は複数人であるという時代の方が長い。このため、元老個々人が「大統領」(「君主」)であるというよりも、政治家集団としての「元老」が大統領(君主)と同値であるということである。

つまり、
① 事実上の大統領制:元老である彼らが現役の政治家として首相(閣僚)となっている
           時代。所謂「超然内閣」(図3の「レベル2」或いは「レベル1 」)
② 事実上の議院内閣制:政党内閣の下で、彼らの存在が名目的(図3の「レベル4」)
③ 事実上の半大統領制:元老(特に山縣)が健在の政党内閣(図3の「レベル3」)
となる。

 松方が死去し、元老が西園寺のみになる(大正13年)までにおいて、首相が元老と異なる政治勢力に属している(前述の「レベル3」)場合、元老と首相との間での「コアビタシオン」状態となる。

 このように、元老が健在の間の大日本帝国憲法体制は、元老と首相との力関係により、事実上の政治体制が変化するという「柔軟性」に富んだ体制でもあった。そして、その「柔軟性」が本節でいう、「交代大統領制」のベスト・プラクティスとしての1900年体制論へと展開される。

 この観点からも「元老」というのは政治体制の安定剤として機能し、大日本帝国憲法に規定がない存在でありながら大日本帝国憲法体制の安定に大きく寄与した。このように「元老」は大日本帝国憲法体制を読み解くうえでの鍵となる存在でもある 。そして、明治維新による「革命政府 」から「憲政の常道」(「議院内閣制」)までの「事実上の政治体制の変更」を許容する大日本帝国憲法体制というものの「懐の深さ」も特筆すべきものがある 。

221キラーカーン:2018/02/21(水) 00:15:37
8.3.4. 「1900年体制」本論
8.3.4.1. はじめに

 「1900年体制」とは、先に述べたように、政権担当能力のある2大勢力の間における疑似二大政党制的政権交代構造が確立されたということである。この場合は、伊藤博文が総裁として率いる立憲政友会(選出勢力)と、山縣有朋を盟主として結集した文武官による「山縣閥」(非選出勢力)である。しかし、1900年体制において伊藤と山縣が首相となることはなかった 。

「1900年体制」の存続期間は、大略、伊藤博文による立憲政友会の結成から二個師団増設問題に伴う第二次西園寺内閣の崩壊までということになる。この時期における総理大臣は短命に終わった第四次伊藤内閣を除けば、桂太郎と西園寺公望の両名のみであったことから、結果的に、事実上「桂園時代」の別名ともなっている。ここでは、政党内閣(政党指導者が首相である内閣)と超然内閣との政権交代構造である点に注目して、「桂園時代」を離れて時代区分を設定する。

222キラーカーン:2018/02/21(水) 00:16:23
8.3.4.2. 第0期:「プレ1900年体制」(第一次大隈内閣から第四次伊藤内閣)

8.3.4.2.1. 政党との連携から政党内閣へ

 この時期は、第一次大隈内閣⇒第二次山縣内閣⇒第四次伊藤内閣と、政権交代形態から見れば1900年体制と同じである。但し、この時期は「体制」というわけではなく、当時の政治情勢の結果として偶発的にそのような政権交代になったという方がより正確であろう。

 明治31(1898)年、板垣系の自由党と大隈系の進歩党との合併により衆議院に圧倒的多数を占める第一党(憲政党)が成立した。このような状況を受け、当時首相(第三次伊藤内閣)であった伊藤は総辞職を決意し、大隈と板垣の両名を次期首班として奏薦すべきとの立場を取った。

 他の元老は政党党首を首班にするのは反対であったが、かといって、誰も首相を引き受ける者がいなかったので、初の政党内閣である第一次大隈内閣が誕生することとなった。

 第一次大隈内閣成立前においても、政党と超然内閣との連携は模索されており、第二次伊藤内閣では板垣が内相として入閣し、続く第二次松方内閣では大隈が外相として入閣 している。また、結果として超然内閣となったが、第三次伊藤内閣も発足時は自由党及び進歩党との連携を模索していた。しかし、この時点では、政党は飽く迄「招かれた政治勢力」であり、単独で政権を担うだけの政治勢力とはみなされていなかった。

 第一次大隈内閣は、軍部大臣以外は全員政党員という当時の政治体制においては最も「政党内閣度」が高い内閣であった 。しかし、自由党と進歩党との合併から間もないため、両派の融合が進んでおらず、両派の内紛という形でこの内閣は半年足らずで総辞職となった。

223キラーカーン:2018/02/22(木) 00:54:26
8.3.4.2.2. 憲政党結成の反作用としての「山縣閥」の形成と第二次山縣内閣

 第一次大隈内閣の後を襲ったのは、第二次山縣内閣であった。第一次大隈内閣までの政党勢力の伸長への対抗上、官僚勢力は山縣 を結集軸とした。そして、下野していた伊藤も自身が率いる政権担当能力のある政党の結成を目指していた。

 このように、憲政党の結成から第一次大隈内閣の誕生を契機として、選出勢力と非選出勢力への二分化による棲み分け相互依存による両勢力間の政権交代構造が確立されつつあった。また、第一次大隈内閣から、内閣総辞職によって軍部大臣以外の閣僚が「総入れ替え」になり、名実ともに「内閣総辞職」となっていった 。これが、この時期を「第0期」とした理由でもある。

 第二次山縣内閣は超然内閣ではあったが、国会対策上、憲政党(旧自由党系)と連携した。この点も桂園時代の「情意投合」を彷彿とさせる。しかし、第二次山縣内閣は松方や西郷という元勲元老が入閣していたため、「最後の藩閥内閣 」という側面も持つ。

224キラーカーン:2018/02/22(木) 00:54:57
8.3.4.2.3. 立憲政友会結成と第四次伊藤内閣

 明治33(1900)年9月伊藤が旧自由党系と自身に連なる官僚を主体として立憲政友会を結成した。山縣は政友会の体制が整わないうちに総辞職し、政友会内閣としての第四次伊藤内閣が発足した。第一次大隈内閣のような「突発事故」ではなく、政治体制として超然内閣と政党内閣とが交代に誕生するという政権交代形態が形作られたのがこの時期(第二次山縣内閣⇒第四次伊藤内閣)である。

 山縣の目論み通り、第四次伊藤内閣は一年足らずで総辞職となった。これを最後に元勲元老が入閣はおろか、首相になるのも最後となった 。伊藤と山縣は「1900年体制」を残して次の世代へ明治政府を引き渡すこととなった。このようにして内閣史上では、元勲元老の時代が終焉し桂園時代が幕を開けることとなった。

225キラーカーン:2018/02/23(金) 00:26:19
8.3.4.3. 第1期:「桂園時代」(第一次桂内閣から第二次西園寺内閣)

 第四次伊藤内閣総辞職後、次期首相の座は、時存命中の元勲元老で総理未経験者であり且つ総理就任への意欲を持っていた井上馨に下った。しかし、井上は蔵相に希望していた渋沢栄一に入閣を断られ、また、与党と頼む立憲政友会 も第四次伊藤内閣総辞職の痛手から立ち直っておらず、井上は組閣断念に追い込まれた。

 ここに及んで、元勲元老から首相を輩出することは不可能となった。元老が選んだのは陸軍大臣を長く務め、山縣の後継者の立場を固めつつあった桂太郎であった。桂は山縣閥に連なる官僚を主体として第一次桂内閣を発足させた。

 桂よりも先に入閣した山縣閥の官僚(芳川顕正、清浦圭吾)が存在したのにも拘らず桂が首相となったのは、当時において、帝国大学による官僚の人材育成が軌道に乗っておらず、軍人が非選出勢力を取りまとめざるを得ない状況にあったことを伺わせる。

 その傍証として、桂内閣では現役軍人である児玉源太郎が陸相から内務大臣(一時文相も兼任)に転じている 。第一次伊藤内閣以降超然・藩閥内閣にほぼ一貫して見られた非軍部軍人閣僚は児玉内相で一時途絶え、226事件後に復活する。このように非軍部軍人閣僚となった児玉は「最後の維新型軍人政治家」ともいえる。

 第一次桂内閣は、元老との良好な関係もあり、日露戦争を挟んで4年超の存続期間を誇る。これは、1内閣の存続期間としては、日本国憲法が改正されない限り更新不可能な最長不倒内閣である 。また、国会対策では西園寺率いる政友会との良好な関係構築に成功し、「情意投合」とも言われる政権たらい回し構造の確立に成功する 。この時期においては、次期首相指名のための元老会議は事実上開催されていない。

 桂は、この体制のもと、第一次内閣で4年超、第二次内閣で3年超の長期安定政権を築く。一方の西園寺も、第一次内閣で約2年半、第二次内閣で二個師団増設問題があったものの約1年4カ月と比較的長期政権を築くことに成功した。第一次、第二次の西園寺内閣は純然辰政党内閣ではなかった ものの、政権担当能力を示すことに成功し1900年体制の安定化に寄与した。

 しかし、この桂園時代の安定は意外なところから綻びを見せ始める。それは、明治45(1912)年7月30日、明治天皇崩御がきっかけであった。

226キラーカーン:2018/02/23(金) 00:29:42
8.3.4.4. 変動期:「大正政変」(第三次桂内閣)

 立憲政友会と山縣閥との間の棲み分けと相互依存関係を基盤とする1900年体制に桂は飽き足らなくなっていた。通算総理在職日数が最長となった桂は、山縣以下の元勲元老の影響力を排除した上で、伊藤のように自らが政党を結成することによって政友会を凌ぐ政治勢力を築こうとしていた。

 その桂の「野望」を看取した山縣は、明治天皇崩御、大正天皇践祚に乗じ、桂を内大臣兼侍従長に「押し込む」ことに成功する。皇室事務と一般政務との峻別は厳格になされるべきという考え方の実施形態である「宮中府中の別」が確立されていた当時、内大臣や侍従長といった宮内官に就任することは政治家としての引退を意味していた 。

 丁度その頃、二個師団増設問題を巡って、増設の実施を求める陸軍と財政上の理由から延期を企図する西園寺政友会との対立が深まっていた。政友会は海軍・薩派と連携して師団増設の延期を決定する。これに反発した上原勇作 陸相 は師団増設の旨を帷幄上奏の上単独辞任し、陸軍が後任陸相を推薦しなかったため、第二次西園寺内閣が総辞職に追い込まれる事態が発生した 。桂は、この機を逃さず、元老会議で次期首相の指名を受けることに成功する。しかし、陸軍大臣の帷幄上奏で総辞職した内閣の後継首相が「陸軍大将」の桂太郎であったことに民衆は激昂する。

 激昂した民衆及び民党(政府に批判的立場を採るな政党)は「憲政擁護・閥族打破」をスローガンに掲げ桂倒閣運動へ突進していく。このため、第二次西園寺内閣総辞職から第三次桂内閣総辞職までの政治的混乱を「大正政変」或いは「第一次護憲運動」という。

 この政治的混乱を桂は即位間もない大正天皇の詔勅や勅語で乗り切ろうとするが、逆に即位間もない大正天皇の「政治利用」 であるとして「詔勅をもって弾丸となし、玉座をもって胸壁となす」と咢堂尾崎幸雄に批判される始末であった。桂は、後備役陸軍大将 であることを活かして自身に連なる官僚や国会議員を糾合し、政友会に対抗する政党(当時「桂新党」と呼ばれていた)を結成しようとした。

 しかし、「混乱を収拾するように」という勅語を受けた西園寺政友会総裁の協力も得られず、桂は、在任2カ月程で総辞職に追い込まれる 。ここにおいて、10年以上にわたり存続し、日本の政治的安定をもたらした桂園時代は終わりを告げることとなった。

227キラーカーン:2018/02/24(土) 02:30:59
8.3.4.5. 第2期:「変動の時代」(第一次山本内閣から第二次大隈内閣)

8.3.4.5.1. 総説

 桂園時代を支える基盤であった山縣閥と政友会との「棲み分けと相互依存」による政権寡占状態は大正政変で変動を余儀なくされた。当時、桂の権力基盤である山縣閥と西園寺の権力基盤政友会が非選出勢力と選出勢力を代表する二大勢力であったのは言うまでもないことであるが、非選出勢力及び選出勢力双方にそれ以外の「第二勢力」が存在した。非選出勢力においては海軍であり、選出勢力であれば大隈系(憲政本党⇒桂新党⇒同志会⇒憲政会⇒民政党)であった。この時点で桂園という二極体制は山縣閥+海軍(非選出勢力と政友会+同志会(選出勢力)という「2+2体制」へと変化した。

 大正政変で打撃を受けた山縣閥及び政友会が首相を輩出することが不可能となり、『正調』1900年体制が継続していれば首相になれるはずもない山本(海軍)及び大隈に首相の座が回ってきた。しかし、首相を輩出したとはいえ、海軍も同志会も独力で内閣を組織できるだけの力はなかった。このため、山本も大隈も山縣閥か政友会のいずれかを提携相手として選択しなければならなかった。桂園時代からの因縁もあり、山本は政友会を選択し、大隈は山縣閥を選択した。

 このように、大正政変の結果を受け、非選出勢力(現役軍人首相)と選出勢力(政党党首)との間の政権交代構造という1900年体制の大枠は維持しつつ、二大勢力である山縣閥或いは政友会のいずれからも首相を輩出できなかったという点で、この時期は「変動の時代」といえる。

228キラーカーン:2018/02/24(土) 02:33:10
8.3.4.5.2. 第一次山本内閣

8.3.4.5.2.1. 「第三の男」山本権兵衛

 大正政変で総辞職した第三次桂内閣の後を襲ったのは海軍の山本権兵衛であった。山本は、「桂園権」の「権」として桂や西園寺と並び称されることもあったが 、それでも桂、西園寺に次ぐ「第三の男」であった。山本は海軍武官で初めて首相の印綬を帯びたものであった。これ以降、海軍武官(大将)が首相の印綬を帯びることが度々発生するが、その場合、

本命、対抗双方とも何らかの事情で首相に就任できない事態において「誰も反対出来ない中間派」として首相に指名されるという

場合が多い。

 その場合の本命及び対抗は時期によって変動するが、この場合、その両者は、山縣閥と政友会であったことは間違いない。大正政変で桂が内閣総辞職に追い込まれ、西園寺も「混乱を収拾するように」という勅語を守れなかったという「違勅」により一時的な政治的蟄居に追い込まれた 。

 このように、桂はもとより西園寺までも傷を負い、第三次西園寺内閣が不可能となった。かといって、山縣閥及び政友会に桂及び西園寺に代わる首相候補は存在しなかった。そのため、自他ともに認める桂園に次ぐ「第三の男」山本に首相の座が回ってきた。
8
.3.4.5.2.2. 政友会との「連立内閣」

 政治家としての山本の基盤は海軍及び薩派であった。しかし、両者とも、山縣閥や政友会のように独力で政権を維持できるだけの勢力ではなかった。この点に関しては、第二次西園寺内閣において、海軍と政友会は「師団増設反対」で利害が一致していた経緯もあり、山本と政友会との提携に落ち着いた。副総理格の内相には、政友会代表として第一次、第二次西園寺内閣で内相を務めた原敬が第一次西園寺内閣、第二次西園寺内閣に続き三度目の就任となった。
原の内相就任に加え、政友会の協力の条件として、現役軍人であるため、正党員資格を持たない首相、陸相、海相の3名に(外交は一党一派に偏しないという観点から政党内閣であっても非政党員も許容される )外相を加えた4名以外の閣僚の就任については政友会員又は政友会への入党が条件となった 。この結果、第四次伊藤内閣以来初、西園寺内閣でも実現できなかった、過半数が政友会員である内閣を実現した。このことは、第一次山本内閣が「海軍と政友会との連立内閣」或いは「山本(海軍)をみこしに担いだ政友会内閣」である事を如実に示すものであった。

 このように、第一次山本内閣は桂園時代とは異なり、現役軍人を首相とする事実上の政党内閣というキメラのような内閣であった。但し、武官が政党を基盤に内閣を組織するという点において、第一次山本内閣は第三次桂内閣の延長線上にあった 。

8.3.4.5.2.3. 軍部大臣現役武官制の撤廃と政治的任用職の拡大

 現役海軍軍人が首相ではあるが政友会員が過半数を占める第一次山本内閣において、政党側に有利な制度改正がなされていく。その代表例は
① 軍部大臣現役武官制の撤廃
② 高位の文官職の政治任用対象ポストの拡大
であった。

 このように、初めて政党員首相となり、また閣僚の過半数を政党員が占めた第一次大隈内閣において政党員が行為の文官職を占めたことの反動で第二次山縣内閣において制定された政党員の登用を防ぐ規定が緩和されていった。

8.3.4.5.2.4. ジーメンス事件の発覚から総辞職へ

 山本と原の政治家としての力量も申し分なく、安定政権 かと思われていたこの内閣が急転直下総辞職に追い込まれることとなった。海軍高官も関与した疑獄事件として有名な「ジーメンス事件」であった。

 ジーメンス事件の詳細については省略するが、本件については、海軍高官が関与した贈収賄事件であったことから、現役海軍大将である山本首相に対する貴族院からの追及が厳しく、予算案が貴族院で否決されたことを見届けた上で山本内閣は総辞職となった。

8.3.4.5.2.5.  第一次山本内閣の意義

 第一次山本内閣は、桂園時代の政権交代構造である山縣閥(桂)と政友会との政権構造を維持しながら、第三次桂内閣で果たせなかった、「軍人首相と政党との融合」という政官軍を縦断する内閣であった。これ以降、海軍大将が「誰も反対できない中間派」として首相となる場合であったも、政党員を閣僚とするなど政党との協力関係構築が前提となっていく。

229キラーカーン:2018/02/25(日) 00:35:58
8.3.4.5.3. 第二次大隈内閣
8.3.4.5.3.1. 難航する首相選定

 第一次山本内閣の総辞職を受け、元老は次期首相の選定を始めた。海軍・政友会連立内閣であった山本内閣が総辞職した以上、後継首相・内閣はそれ以外の政治勢力から選ばれるのは当選の成り行きである。とすれば、次期首相は山縣閥から輩出する順番となる。しかし、次期首相選定は難航する。

 当時、桂を失った陸軍にはこの時点で推したい首相候補がいなかった 。勿論、当時においても寺内正毅という首相候補は存在した。しかし、大正政変から2年も経っておらず、また、第一次山本内閣も軍(海軍)の汚職事件で総辞職したことから、陸軍から首相を輩出することは憚られる情勢であった。

 結局、元老会議は、これまで首相を輩出した政治勢力(山縣閥(陸軍系)、海軍、政友会)とは無縁であり、政治的には無色の「徳川16代将軍」である徳川家達 を次期首相に指名した。しかし、徳川が辞退したため次期首相選定は振出しに戻った。

 徳川が辞退したため、、次期首相は山縣閥の文官系から選定することが第一選択肢となった。当時、山縣閥の文官系で首相候補となり得るのは、平田東助と清浦奎吾がいた。元老会議は清浦を次期首相に指名する。清浦は組閣作業に着手するが、海軍大臣予定者の加藤友三郎に辞退され 組閣辞退に追い込まれた 。

 清浦の大命拝辞で非選出勢力の首相候補が払底した。とはいっても選出勢力側に首相候補となり得る人物も存在していなかった。第一次山本内閣総辞職の経緯から政友会から首相を出さないことは「当然の前提」となっており、「桂新党」改め立憲同志会側の首相候補である桂は既に鬼籍に入っていた。桂の死後、同志会は加藤高明を指導者としてまとまりつつあり、官僚系の同志会員としては大浦兼武もいた。しかし、両名とも元老からは首相としては「今一歩」とみなされていた。

 ここで、井上馨が「大隈再登板」という奇手を提案した。大隈は明治十四年の政変で失脚するまでは、元老の上席を占める参議、且つ、元首相であり、経歴の点では問題はない。また、内閣制度創設後も閣僚として元老達と席を並べていたこともある。更に、大隈は同志会の前身と言ってもよい進歩党⇒憲政本党の指導者であり「同志会名誉総裁」と言ってもよいくらいの立場であった。他の元老も大隈以上の候補者が思い当たらず、「明治十四年の政変」以来の行きがかりもあるが 、「反政友会連合」という観点から、次期首相は大隈に決した。

8.3.4.5.3.2. 第二次大隈内閣の成立

 ともあれ、次期首相は大隈に決定した。同志会を与党とするため、加藤高明外相他、幾名かの閣僚は第三次桂内閣以来の再任である。また、山縣閥の「反政友会」の観点から好意的中立であった。山縣閥は2個師団増設、同志会は衆議院第一党の座を奪取という点で共闘していた「呉越同舟」でもあった。

 難産の末に第二次大隈内閣が発足したが、衆議院の多数派は依然として原が率いる政友会であった。このため、陸軍の悲願ともいえる2個師団増設に関する予算案は衆議院で否決され、1914(大正3)年12月、内閣は解散総選挙に打って出ることとなった。

8.3.4.5.3.3. 同志会の総選挙勝利と憲政会の結成と内閣の陰り

 先に述べたように、山縣閥は、二個師団増設或いは文官任用令の再改正 、同志会は政友会を総選挙で破り衆議院第一党の座を獲得すること、即ち、衆議院で政友会を第一党の座から引きずり落とすという点で利害が一致したことで提携関係が成立していた。

 依然として衆議院第一党であった政友会は2個師団増設に関する予算を否決したことを契機に、内閣は解散総選挙に打って出た。同志会は大隈の知名度を最大限に利用した選挙戦 を行い、381の議席を争った。結果は同志会153、政友会108と同志会が念願の第一党を奪取した。また、同志会の他に中正会など大隈内閣を支持する勢力を合算すれば過半数となり、ここに「反政友勢力」の悲願が達成された。

230キラーカーン:2018/02/25(日) 00:36:20
8.3.4.5.3.4. 加藤外相の「強情」から「苦節十年」へ

 ここで、時計の針を少し前に戻す。1914(大正3)年6月、オーストリア=ハンガリ帝国皇太子フォランツ・フェルディナンドがサラエボで暗殺されたことがきっかけとなって第一次世界大戦が発生した。

 列強各国は中国に権益を有していたため、日本も影響を受けないわけにはいかなかった。しかし、当時の筆頭元老である山縣は「欧州の内戦」として静観すべきとの立場であった。しかし、外相の加藤高明は日英同盟に基づき英国側で参戦することを企図していた。

 当時まで、和戦の決定など国家の存立にかかわる決定は元老の了解を得るというのが不文律であった。それは、名実ともに明治国家の「建国の父」である元勲元老自身の実績に基づく権威がそうさせていた。

 しかし、加藤外相は元老の同意を得ることなく日英同盟に基づく参戦を決定する。大日本国憲法上、外交大権の輔弼者は外務大臣(と総理大臣)である事を根拠に、加藤外相は山縣以下の元老の要請或いは抗議を無視しした 。元老が大日本帝国憲法上の規定に基づかない、自身の実績と天皇の信任に基づくという「属人的制度・不文律」である事の弊害がと呈した形となった。

 また、加藤外相は、参戦に併せ「対華21ヶ条要求」を中華民国に提示し、その秘密条項で対中利権獲得を露わにしたことから、中華民国はもとより列強の不信を買った。この一連の「失策」で加藤は「首相候補として『落第』」との判定を下された。これも、第二次大隈内閣総辞職後、同志会(憲政会)が与党に返り咲くまで10年 を要した一因でもある 。

8.3.4.5.3.5. 総選挙の勝利から総辞職へ大隈の「元老待遇」

 総選挙は同志会以下の与党(反政友会勢力)の勝利に終わった。しかし、この総選挙で大浦内相による選挙干渉が問題となり、大浦内相は辞任を余儀なくされる。内相という「副総理格」であり、且つ、同志会における官僚派の筆頭格ともいうべき大浦が閣外に去ることは第二次大隈内閣の屋台骨を揺るがす大事件でもあった。

 この事態を受け、閣内は総辞職派と内閣改造派に分裂した。大隈首相も一時は総辞職に傾いたが、大正天皇の即位を理由にして内閣継続を望んだ。結果として、選挙干渉を行った大浦内相に加え加藤高明外相ら総辞職を主張した閣僚を更迭する内閣改造による内閣続投ということとなった。

 第二次大隈内閣は、師団増設と大隈首相を支持する同志会以下の「反政友会連合」が衆議院の過半数という内閣発足当初の目標を達成した。そのことは、第二次大隈内閣を成立させていた山縣閥と同志会との呉越同舟もまた終わりに近づいたことを意味した。その結果大正天皇の即位の例が滞りなく挙行されてから程なく第二次大隈内閣は総辞職した。

8.3.4.5.3.6. 大隈の「元老待遇」

 第二次大隈内閣が小辞職した時、統治機構において大きな問題が持ち上がっていた。それは「元老の枯渇」であった。

 第二次大隈内閣成立時、元老は、山縣、井上、松方、大山の4人であった。元老の資格があった西園寺は大正政変のあおりで「政治的蟄居」状態であり、元老として活動できる状態ではなかった。第二次大隈内閣の間に井上が死去し、大山も第二次大隈内閣総辞職直後にこの世を去る。

 このような状況の中で、元老制度を維持するのであれば、元老を補充する必要がある。「政治的蟄居」中の西園寺を復権させたとしても、元老は山縣、松方、大山、西園寺の4名である。桂は既に鬼籍に入り、「第三の男」山本はジーメンス事件により「政治的蟄居」を余儀なくされている 。西園寺の同世代或いは次世代の政治家で元老に手が届きそうな人物は当時存在していなかった 。

 西園寺は元政友会総裁であったことから、その均衡上、「新元老」は憲政会系が好ましい。そのような思惑から、大隈が新元老候補として浮上する。大隈の経歴は元老達に匹敵することは自他ともに認めるところである。このような経緯もあり、大隈が総理を退任する際に、内容が「元勲優遇の勅語」に類似した「御沙汰書」を大隈が賜った。

 しかし、大隈は「元老」として振る舞うことはなかった。それは、政党指導者として今更、憲法上に規定のない天皇との個人的信頼に基づく元老の一員になる事は不可能であったからである。しかし、退任時に加藤高明を次期首相に推薦することや、個人的に意見を求められた際には「元老格」として意見を述べることはあった 。
 その後、元老補充問題は、原首相暗殺後、西園寺が「一人元老」となった時点で次期首相指名に際しての「御下問範囲拡張問題」として再燃することとなる。

231キラーカーン:2018/02/25(日) 23:54:43
8.3.4.6. 第3期:「桂園時代の『復活』」(寺内内閣から原内閣)

8.3.4.6.1. 総説

 第一次山本内閣及び第二次大隈内閣は、「2+2」体制の中で、選出勢力及び非選出勢力双方の「+2」が相次いで首相を輩出した点で「1900年体制」の「変動期」であったと言える 。「+2」が双方とも首相を輩出する間に体制を整えていた「2」側が「満を持して」出馬したのがこの時期の寺内内閣及び原内閣である。

 寺内、原の両名とも桂園の正統後継者というべき地位にあった。その点では、まさに「正調1900年体制」への回帰と言ってもよい時期である。この時期は第一次世界大戦、ロシア革命、シベリア出兵、第一次世界大戦の終結とパリ講和会議、そして、ワシントン軍縮会議からワシントン体制への参加と日本の対外政策に関する大事件が生じているが、本節で述べる政治体制論、特に「交代大統領制」に関しては「正調1900年体制」へ回帰した以外、特記すべき事項は余りない。

 但し、「初の本格的政党内閣」と称されることもある原内閣で初めて「純政党内閣」をこの時期の主役である寺内及び原双方とも「元首相」として政治的影響力を行使することはできなかった。寺内は首相退任後程なくして死去し、原は首相在任中に暗殺されたからである。このように、元勲元老の衣鉢を継ぐべき政治が相次いで亡くなり、その役目を貫徹できたのは、「最後の元老」となった西園寺、もう少し広く取っても「準元老」として並び称された山本と清浦であった。

 これまで参議、閣僚、首相、元老と地位や呼び名は変わっても、明治の太政官制末期から大日本帝国憲法体制を支えてきた元勲元老(大隈を含む)も、原首相の暗殺(1922(大正11)年11月)と前後して山縣及び大隈が死去する(1923(大正12)年2月)。この時点で、元老の持つ「政治的な天皇の代行者(≒大統領)」としての機能は事実上消滅することとなる。それは、「交代大統領制」としての「1900年体制」が名実ともに滅亡したことを意味した。

232キラーカーン:2018/02/27(火) 01:15:49
8.3.4.6.2. 原内閣と陸軍

 原内閣は、初の「本格的」政党内閣と言われることがある。これは、それまでの「政党内閣」は、
① 短命内閣(1年未満):第一次大隈内閣、第四次伊藤内閣
② 軍部大臣及び外務大臣以外の閣僚にも与党員ではない閣僚が存在
 (第一次、第二次西園 寺内閣、第三次桂内閣、第一次山本内閣、第二次大隈内閣)
であったことから、大手を振って「政党内閣」と呼称することを憚られる事情が存在したからである。

 しかし、原内閣は、そのような政党内閣を称することを「憚る」事情が存在しない初の内閣でもあった。また、原は初の平民(華族ではない≒爵位を持たない )の総理大臣となったことから「平民宰相」 との異名を持つ。そのような経歴も「本格的政党内閣」という原内閣の性格を強化することに繋がっている。

 1900年体制の主役である政友会と山縣閥を率いる者として原と山縣は当然のことながら政治家としては対立関係にある。原の首相指名についても、山縣は最後まで抵抗している。このため、陸軍対策として、原は筆頭元老でもある山縣と田中陸相との二正面作戦を展開した。結果として原首相は陸軍の統制に一応の成功をおさめた。

 陸軍の側も、第一次世界大戦が「総力戦」となった現実を踏まえ、政党との協力関係を構築する必要を感じていた。政党は国民だけではなく、経済界も統合する実力を持つ。三菱財閥は大隈や加藤高明を通じて憲政会と密接な関係にあった。一方、三井財閥は井上馨(政友会設立に関与)及び西園寺公望(実弟が住友家の当主)を通じて政友会と密接な関係にあった。

 総力戦を遂行するためには、政党の国内各勢力を束ねる能力を利用すべきだという見解が陸軍内でも発言力を増していった 。このため、陸軍は首相の座には拘らず、陸相を通じて政党内閣を「裏から」利用した方が都合がよいとの考えも出てきた。特に原内閣のような強力な政党指導者が組織する政党内閣に対して真っ向からの対立姿勢を採るということも、政治力学上困難であった。これに、ワシントン軍縮会議への海軍大臣出席に際しての海相代理問題に端を発して、軍部大臣武官制の撤廃まで具体的な検討になっていった。

233キラーカーン:2018/02/27(火) 23:25:30
8.3.4.6.3. 政党と軍とのパワーバランスの変化(軍部大臣武官制撤廃問題他)

 軍部大臣武官制撤廃は、大正政変の際にも「政変の元凶」として問題となったが、結局現役武官制の撤廃に留まった。しかし、非現役武官は政党員の資格があるので、非現役大中将まで軍部大臣任官資格を拡張すれば政党員の軍部大臣も可能となるという点において大きな意味を持つ改正であった。

 軍部大臣は閣僚の一員とはいえ軍の代表という側面もあるため、軍部大臣の任用資格は1900年体制の主役である山縣閥と政友会の権力バランスの決定する大きな要素である。第一次山本内閣で副総理格の内相として文官任用令の改正により政治的任用職を拡大し、軍部大臣現役武官制を軍部大臣武官制に改正した当事者でもあったことから、自身が首相である原内閣が軍部大臣の任用資格についてをどのように扱うのかは注目を集めていた。

 当時は軍部大臣現役武官制ではなかったため、原内閣では予備役或いは後備役の大中将の軍部大臣を起用するのではないかという観測もあった 。しかし、原は現役の田中義一を指名した。これは、山縣以下の陸軍と決定的な対立を避け、陸相を通じて陸軍を統制しようとする原首相の姿勢を示すものであった 。

 それから時は流れて、「本格的政党内閣」となった原内閣は、第一次大戦後の世界情勢の変化を見据え、他国間協調主義そして対米協調主義に舵を切るべきだと考えていた。そうした折、ワシントン軍縮会議が開催されることとなり、日本からの全権として加藤友三郎海軍大臣が出席することとなった。

 海軍大臣が長期にわたって不在となることから、(正式な肩書はともかく)海軍大臣臨時代理の任命が避けられない情勢であった。軍に対する政治側の優位を確立しようとする原政友会は勿論のこと、海軍における軍政面の責任者である加藤海相自身も軍部大臣に武官でない者が就任すること(軍部大臣文民制度)もあり得るとの考えを持っていた。

 結局、敗戦までに文民海軍大臣は実現しなかったが、原首相が海軍大臣事務管理に就任した。事務管理とはいえ、事実上の「文民海軍大臣」が現実のものとなった 。原首相が暗殺されたため、原内閣での文民軍部大臣問題はここで突然の終焉を迎えることとなった 。しかし、この問題は以後も政軍関係上の重要問題としてくすぶり続ける。

 軍部大臣任用資格の他に政軍関係上重要な制度改正としては、朝鮮、台湾領総督に武官でない者(所謂「シビリアン」)の任用が可能となったことである。原内閣で両総督の任用資格が改正されるまで、両総督には現役将官が任命されてきた 。原内閣はこれを改正し、両総督に文民或いは文官を任用することを可能とした 。勿論、これまで通り、現役武官からの任用も可能であった。以後、朝鮮総督は非現役大将の任命はあったもの、文民や文官からの任用は敗戦までなかったが、台湾総督には文官総督が実現した。

234キラーカーン:2018/03/01(木) 00:25:59
8.3.4.6.4. 原内閣の突然の終焉

 原内閣は発足から3年を超え、長期安定政権を気づいていた。最大のライバルである山縣閥に対しても山縣本人との良好な関係構築ともに田中陸相通じて陸軍に対して影響力を及ぼしていた。また、原は松田正久の死後、政友会における「唯一無二」の指導者であり、政友会を完全に掌握し、衆議院においても安定多数を擁していた 。原内閣は、当時(そして現在においても)最長である第一次桂内閣を上回る長期政権が視野に入ってきた。

 病気で天皇としての執務を遂行が困難になりつつある大正天皇の摂政として皇太子裕仁親王(昭和天皇)の摂政就任の準備を着々と進め、欧州外遊、久邇宮良子女王 との婚約発表を終え、あとは11月の摂政就任を待つだけとなっていた。

 最大の政敵である山縣にもその力量を認めさせ、将来は盤石に見えた原内閣であるが、その終焉は唐突にやってきた。皇太子裕仁親王の摂政就任を約1か月後に控えた1921年10月、原は東京駅で暗殺される。原首相を屠った凶刃は、原首相・内閣のみならず、約四半世紀にわたって日本政治の安定と漸進的民主化に多大な貢献をした1900年体制をも同時に屠ったのであった。

235キラーカーン:2018/03/02(金) 00:06:38
8.3.4.7. 第4期:「1900年体制の終焉」(高橋内閣から清浦内閣)

8.3.4.7.1. 総説

 この時期は、原首相の暗殺と政友会の混乱、そして、現役軍人首相候補の払底と山縣の死去による山縣閥の終焉により、「1900年体制」の時代が終焉したことを日本全体に周知するための時期である。

 大正10年後半から翌11年初めの間、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の摂政就任、原首相の暗殺(大正10年10月)、山縣、大隈両元老(格)の死去(大正11年2月)、そして、大正13年には松方も死去し、西園寺が「ただ一人の元老」となり、時代の変わり目を意識せざるを得ない事象が連続して生起した。

 内閣も原首相の暗殺の後、高橋内閣、加藤友三郎内閣、第二次山本権兵衛内閣、清浦内閣と推移していくがいずれも短命に終わり(加藤友三郎内閣は加藤首相の死去という突発事象によるものではあるが)、政友会及び海軍の政権担当能力の低下が明らかになっていた。

 一方、陸軍も総力戦に対応するには、現役陸軍軍人が首相になるよりも政党内閣の下で総力戦体制を構築する方が効果的との見解が(後の統制派に連なる軍人を中心に)有力となりつつあり、山縣閥(陸軍)と政友会との棲み分けと相互依存による政権交代構造を前提とする「1900年体制」の限界が白日の下に曝された。

 時代は、元勲元老が全員死去し、事実上の新帝即位である摂政皇太子就任に相応しい「新しい体制」の必要性を感じさせるものとなった。

 この「新しい時代」は現在では「憲政の常道」と呼ばれている。その時代をもたらした原動力は、一度は元老達に「不合格」の烙印を押された加藤高明憲政会総裁であった。加藤高明は「苦節十年」を耐え切り、首相就任後の「西園寺の追試」に合格する。一方の政友会は憲政会と革新倶楽部との「護憲三派連立内閣」から離脱し、原内閣の陸相であった田中義一を総裁に迎え、来るべき将来の政権奪取に向け体制を立て直しつつあった。「護憲三派」の一角を占めていたが、小政党であった犬養毅率いる革新倶楽部は憲政会、政友会の間で埋没し、犬養は革新倶楽部を政友会に吸収合併させ、犬養自身は政界引退を表明した 。

 清浦からの禅譲路線(これは、情意投合的な1900年体制の延長線上の発想であり、当時においては「王道」の考え方であった)を期待した政友本党は政友会へ出戻るか憲政会に合流するかで事実上分裂する。

 こうして非選出勢力(山縣閥と海軍)と選出勢力(政友会と同志会)との疑似二大政党制的政経交代構造、更には超然内閣とい政党内閣との政権交代構造という「交代大統領制」というの「成功例」としての「1900年体制」は終わりを告げたのであった。

236キラーカーン:2018/03/03(土) 01:06:22
8.3.4.7.2. 原の暗殺と政友会の迷走

 首相の急死による内閣総辞職であったため、次期総理も政友会から出すということは衆目の一致するところであった。とはいえ、 原という絶対的指導者を失った政友会は混乱に陥る。全政友会総裁でもある元老西園寺の再登板も取りざたされたが、後継総裁が高橋是清蔵相に決まり、高橋が首相兼蔵相となり、その他全閣僚留任の上高橋内閣が発足した。 このように、高橋内閣は「居抜き」で発足したが、高橋の指導力は原と比べるべくもなかった。程なくして閣内対立を招き、高橋内閣は約半年で総辞職を余儀なくされる。

 高橋内閣が総辞職した後を襲うべき陸軍には、当時、衆目の一致する首相候補が存在しなかった。このため、ワシントン軍縮会議の後始末もあり、加藤友三郎が首相に就任する。首相が加藤友三郎に決定する過程で、当時の筆頭元老の腹案は「本命が加藤友三郎、対抗が加藤高明」であった。これを知った政友会が加藤県政系内閣成立を阻止すべく、加藤友三郎内閣への全面的閣外協力を申し出たことで、次期首相は加藤友三郎に決定している。このような軍(現役軍人首相)と内閣との協力形態はこれまで存在した、「情意投合」や「第一次山本内閣」とも異なるため、しなかったため、「変態内閣 」と称された。

 加藤友三郎は海相を兼任し、海軍軍縮といったワシントン会議の後始末を堅実にこなしていたが持病が悪化し、在任1年余りで総理在任のまま死去した。

 加藤友三郎が死去したことで、陸軍、政友会、海軍の首相候補が払底し、加藤高明憲政会総裁は未だ「首相の器」とはみなされていなかった。残る候補は、当時、唯一人の「元首相」である山本権兵衛か山縣閥(官僚系)の重鎮であり、山縣の後継者として現任の枢密院議長であり、「鰻香内閣」で「事実上の元首相」でもある清浦の両名しか残っていなかった。当時、両名を指して「準元老」という呼称もあり、名実ともに、西園寺に次ぐ長老政治家とみなされていた。

 「最後の元老」西園寺は加藤友三郎路線の継続も含みで山本権兵衛を選択する。山本は海軍大将ではあったが、首相在任中(第一次山本内閣)のジーメンス事件の余波で現役を去っており、当時は退役海軍大将であった。このこともあり、組閣には薩摩人脈が活躍している。この他には錦城学校卒業生から4人の閣僚を輩出しており、政党から唯一入閣した犬養毅も一時期、薩摩の錦城学校の教員をしていた。しかし、この内閣も虎の門事件(摂政宮狙撃事件)で総辞職を余儀なくされ、約3カ月という短命内閣に終わった。

 山本本人には責のない事件とはいえ、総辞職を余儀なくされ、政治の表舞台から退場した以上、残る首相候補は清浦しか残されていなかった。元政友会総裁という経歴を持つ元老西園寺は、清浦の後は非選出勢力(陸軍、海軍及び官界)の首相候補が払底するとの認識に立っており、清浦の後は体制を立て直した政友会を本命と見ていた。

 清浦は超然内閣として発足した。この時点で、清浦内閣は来るべき総選挙までの「選挙管理内閣」となることが事実上決定した。加藤友三郎、第二次山本、清浦と非政党内閣が三代連続したことから、当時の二大政党である政友会と憲政会、そして、小政党の革新倶楽部は政党内閣復活を要求し、清浦内閣と対決姿勢を打ち出すに至った。この運動を「第二次護憲運動」という。この動きの中で、衆議院で圧倒的多数を有していた政友会が野党派と与党派(清浦からの禅譲路線)に分裂し、後者が政友本党を結成したという政友会の分裂が生じた。このため、運動の主体となった政友会、憲政会、革新倶楽部の三党を「護憲三派」と称するようになった。

 このような中で総選挙が行われ、結果は護憲三派の圧勝であった。この結果を受け、清浦は退陣を決意し、後継首相は、比較第一党党首である加藤高明が就任し、政友会及び革新倶楽部と「護憲三派連立内閣」を組んだ。

 非選出勢力にとって「最後の手札」というべき山本、清浦という「準元老内閣」であってに短命に終わり、陸軍以外の非選出勢力が政権担当能力を消失したことが明らかになった。清浦内閣の下で行われた総選挙で護憲三派連合が勝利したことから、山縣閥と政友会との棲み分けと相互依存による疑似二大政党的政権交代構造を基盤とする「1900年体制」は名実ともにその命脈が尽きた。

237キラーカーン:2018/03/04(日) 00:52:19
8.3.4.7.3. 山縣の死去と山縣閥の終焉

 非選出勢力の主力ともいうべき山縣閥も転換期を迎えていた。第一次世界大戦が「総力戦」であったことから、政党の持つ民衆統合機能を活用し軍は政党を支援して総力戦体制を構築すべきという考え方が、後に「統制派」と呼ばれる軍人から出てきた 。

 この考え方によれば、最早「現役(陸軍)軍人首相」に拘泥する時代ではないということになる。原内閣における田中陸相のように、強力な指導力を発揮できる(文民)首相と協調して(陸軍の組織的利益を確保することは前提としつつも)軍政優位の立場から総力戦体制を構築することが最適解となる。これは、「1900年体制」からの離脱に他ならない。

 さらに、1900年体制というよりも大日本帝国憲法体制の保証人でもあった筆頭元老の山縣も天寿を全うし鬼籍に入る。山縣の死の直前には大隈も鬼籍に入っており、「元勲元老(格)」も過去のものとなりつつあった。政界、官界、陸軍を束ねる「扇の要」であった山縣が没すると、山縣閥自身が陸軍と官界・政界(貴族院勢力)に分割され、前者は「首相輩出勢力」から一歩身を引いた形となった 。

 このようにして、1900年体制の一方の主役であった山縣閥はその歴史的使命を終えた。それは、別の観点から見れば、国家体制整備が完成の域に達し、「元勲」や「元老」という属人的な統合ではなく、国家組織に基づいた統合或いは「縦割り」という時代に移行したともいえる。

238キラーカーン:2018/03/05(月) 00:33:16
8.3.4.7.4. 「第二次護憲運動」と1900年体制の完全なる終焉

 高橋内閣の総辞職から加藤(友)、第二次山本、清浦と(政党からの支援があったことが明白であったとしても)非政党内閣が3代続いたことは1900年体制においても異例のことである。1900年体制の主役である政友会はもとより、第二党として政権交代構造に参画したい憲政会双方とも、この状況に不満を持っていた。このような中で、政党内閣を目指すという点で利害が一致した政友会、憲政会及び革新倶楽部の三党は清浦内閣打倒を目指すこととなる。

 政友会内部では、①清浦内閣との対決路線、②清浦内閣からの禅譲路線、という政権奪取戦略を巡っての路線対立があり、後者は政友会から分離して「政友本党」を設立する。このような情勢を背景に、政友会、憲政会及び革新倶楽部の3党は俗に「護憲三派」と称されるようになる。

 清浦内閣で行われる総選挙は日本初(そして大日本帝国憲法下では唯一)の「政権選択選挙」 となった。その選挙結果は
① 護憲三派の勝利
② 憲政会が比較第一党(第二党は政友本党)かつ護憲三派内での過半数確保
という憲政会の「完全勝利」であった。

 この選挙結果を背景に、加藤高明憲政会総裁は「苦節十年」の末に念願の首相の座に就いた。加藤内閣は途中で護憲三派連合が崩壊し、憲政会単独内閣となったが 、治安維持法、普通選挙法などの成立など課題を着実にこなしていった。加藤は元老西園寺の「追試」に合格し、「二大政党」の一角としての座を確実なものとし、「山縣閥と政友会」の政権交代構造から「政友会と憲政会(民政党)」という政権交代構造の変革に成功した。

 以後、515事件まで二大政党による政権交代の時代を「憲政の常道」の時代という。ここにおいて、1900年体制はその歴史的役割を終えた。

239キラーカーン:2018/03/06(火) 01:30:10
8.3.4.7.5. 1900年体制の終わりと「御下問範囲拡張問題」

 西園寺は「最後の元老」という異名で語られることが多い。政治家としての西園寺を一言で言い表すなら、「桂園時代」よりも「最後の元老」の方が相応しいというのは衆目の一致するところであろう。

 この時代のもう一つの特徴として、大隈も含めた元勲元老が全員鬼籍に入り、元老が「最後の元老」西園寺公望のみとなったことである。また、西園寺自身も70歳を超えており、決して若くはなかった。したがって、憲法習律上元老のみに与えられてきた機能、即ち、次期首相の奏薦機能を今後(特に西園寺死後)どのように担っていくのかという問題が政治問題するのもこの時期からである。

 次期首相の奏薦以外にも、元老は和戦の決や宮中事項について関与してきた。しかし、和戦の決など国家の重要事項については第二次大隈内閣の加藤高明外相が元老に諮らず参戦を決定するなど、既に元老が関与することは憲法習律ではなくなっていた。また、宮中事項については元老の所掌とされているが、内大臣、宮内大臣、侍従長など宮中の官僚組織も確立されていることから、元老がいなくなっても特段の問題は生じないと思われていた。このため、「西園寺死去後」を見据えた元老機能再編問題は、次期総理選定の際にける「御下問範囲拡張問題 」に収束することとなった。

 「御下問範囲拡張問題」の解決策として考えられるものは、①元老を補充するか否か、②元老を補充しない場合、どの機関(既存、新設)に元老の権限を代行させるかに大別される。

 前者の元老の補充であれば、当時「準元老」とも称された山本権兵衛及び清浦圭吾の両名を元老に任命すれば当面の危機は回避できる 。但し、問題点としては、その次の世代の政治家で元老に相応しい者が軒並み鬼籍に入っており、元老候補の人材が枯渇していたことにあった。寺内は首相退任後程なくして無くなり、原、加藤(友)、加藤(高)の3名は在任中に死去(暗殺を含む)したため、彼らが「元首相」として活躍することはできなかった。

 では、後者の「元老の機能を他に移譲する」という方策も同様の問題点を抱えていた。天皇の諮問機関としては、国務では枢密院、統帥(軍事)分野では元帥府或いは軍事参議院、宮中では宮中顧問官という機関が存在していたが、元老に匹敵する人的集団であるとは言えなかった。というよりも、そのような機関の一員に留まらない「大物政治家」だからこそ元老と呼ばれたのであった。そのような経緯からすれば、既存の機関に元老の機能を委譲することは「元老の格下げ」に他ならないということになる。そこで「大物政治家」を一堂に会した最高諮詢会議の設立も検討された。

 しかし、西園寺はそのいずれの方策も取らず、一人で元老の職責を果たすことを決意した。しかし、完全に単独ではなく、内大臣と協議した上で次期首相の奏薦を行うこととした 。この時期まで、内大臣 の殆どは、元老(格)若しくは元老に準ずる政治家が就任しており、元老の相談相手或いは協議相手として最も適当であると考えられていたため「元老内大臣協議方式」はすんなりと受け入れられた。

 また、丁度、憲政会が政権担当能力を身に着けつつあり、元老が消滅したとしても、英国のような「憲政の常道」路線で首相が決定される見込みが高い。そうであれば、元老の次期首相奏薦機能は形式的なものでよい。

 このように、二大政党制の確立と西園寺の意思という二つの偶然が重なり、西園寺が「最後の元老」となることが決定した。しかし、時代はそれを許さず、515、226事件など、元老の機能が形式化することはなかった。そして、515事件以後、「御下問範囲拡張問題」は内大臣が主宰し、首相経験者と現任の枢密院議長が構成員となる「重臣会議」に移行し、昭和20年の敗戦を迎えたのであった。

240キラーカーン:2018/03/07(水) 00:36:30
8.3.5. 「交代大統領制」或いは「1900年体制」を支える「影の条件?」

 このような交代大統領制或いは1900年体制のような「幅広い」或いは「節操のない」政権交代構造が可能となるためには、そのような政権交代が「些細な事」であると思わせる明野国家元首(大統領或いは君主)に絶対的権威があるということが必要なのかもしれない。そのような存在自身が「国内の分断を治癒する」存在となり得る

241キラーカーン:2018/03/07(水) 00:41:10
8.3.6. まとめ

 大日本帝国憲法の規定は簡潔であったため、幅広い政治体制の包含が可能であった。特に、大日本帝国憲法には「内閣」や「内閣総理大臣」という文言すらなく、「国務大臣及び枢密顧問」として第五十五条第一項に「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ズ」、同第二項に「凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス」とのみ規定されているだけである。したがって、内閣の性格はその時々の政治情勢によって変化し得る体制であった。これが、大日本帝国憲法体制において幅広い政体を採ることができる要因でもあった。

 また、「元老」という憲法に規定のない「政治面での天皇の代行者」というべき存在もあり、元老と内閣との関係ひいては天皇大権の行使と内閣の権限行使の態様も両者の力関係により変化した。現実の歴史に見るように、大日本帝国体制下における内閣は(選挙を経ない疑似)大統領制的内閣である超然内閣から議院内閣制まで多様な形態を採り得た(「図3」のレベル2からレベル5)。このように憲法上許容される政体の幅が広いのも大日本帝国憲法体制の特徴である。大日本帝国憲法体制における政権交代、特に「山縣スタイル」の内閣を樹立するためには、タイのように「クーデター⇒民政移管⇒クーデター⇒以下繰り返し」のように憲法改正或いはクーデターを必要とする。

 しかし、大日本帝国憲法体制においては、「平穏」な通常の政権交代手続で可能であった。そして、現代においても「平穏且つ公然、そして合法的で体制変革を伴わない」正規の政権交代としてある買われている。このような「柔軟な政権交代構造」により、クーデターや革命或いは憲法改正を経ずに政治状況に応じ最適な政権形態を選択することが可能であった。

 この結果、非選出勢力との政権交代構造を維持することで立憲政友会に代表される選出勢力が政権担当能力を身に着ける時間を稼ぐことができ、他国に比べれば、円滑或いは平穏に権威主義体制路言ってもよい超然内閣から「憲政の常道」までの政治体制変革を成し遂げることができた。

 もう一つの効果として、その時点における政治体制を憲法の枠に縛られず「自由」に選択できるということが挙げられる。諸般の事情から、政党内閣ではなく「各政党から中立な超然内閣」という選挙管理内閣で「政権選択選挙」を行い、その結果を見定めてから民選内閣制に移行するという手法も「当たり前のように」可能となる。これは、大日本帝国憲法体制下において西園寺が清浦内閣で使った手法でもある。また、類例は、現代のイタリアでも見られる(例モンティ内閣(2011〜2013年)。。

 このように、「1900年体制」はサルトーリが提唱した「交代大統領制」という概念を先取りしたものである。この観点からも、「1900年体制」特に「山縣スタイル」に代表される現役軍人首相(内閣)の果たした役割を「非民主主義的で権威主義的体制」であるとの否定的側面だけではなく、円滑に憲政の常道にまで移行させたという観点からの再評価をすべきではないかと思われる。実際に、政党政治家は元老、特に山縣という「巨大な壁」に挑むことで政権能力を身に着け「憲政の常道」時代を自らの力で引き寄せたのであった。

 そして、現在、俗に「右傾化」(本稿では「ネトウヨ化」)と言われているものの要因とされてきた、「大統領制化」と「リベラル・左派の暴走・自滅」によってなされた「敵味方」を峻別する「1ビット脳的政治」によってもたらされた修復不能とも見える分断による隘路を潜り抜け、国民或いは国家統合を回復するための手掛かりを「1900年体制」は示しているのかもしれない。

242キラーカーン:2018/03/07(水) 00:45:37
長くなりましたが、これで終わりです。
実際には、ここに書き込んでから修正した個所は多多あります。
また、ここには掲載できませんでしたが、図表や脚注、参考URL
などもあります。


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