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日本茶掲示板同窓会

218キラーカーン:2018/02/19(月) 00:27:38
8.3.3. 「1900年体制」前史(「藩閥内閣」から「大日本帝国憲法体制」へ)

8.3.3.1. 総説

 明治政府が薩長或いは薩長土肥という雄藩を主力とする藩閥政府であったということはよく知られている。維新政府樹立後、征韓論などで明治政府を追われた者が自由民権運動ひいては帝国議会(衆議院)を活躍の場とし在野の知識人などを糾合していった。その代表的人物が、板垣(征韓論で下野)や大隈(明治十四年の政変で失脚)であった。
 一方、明治政府に残留した者は国家機構の整備に伴い、文武官を糾合していった。前者(選出勢力)の代表人物が板垣退助及び大隈重信であり、後者(非選出勢力)の代表人物が山縣有朋であった。
 後に立憲政友会総裁となり、「政党政治家」へ転身する伊藤博文は、の死後、政府で頭角を現してきた伊藤博文は、長州閥ひいては藩閥政治家の領袖となるように、元々は藩閥政治家側の人物であった。しかし、伊藤は、大日本帝国憲法の実質的起草者であったことにより「憲法伯」の別名を持つことからも、国会(大日本帝国憲法上は「帝国議会」)特に衆議院の果たす役割を軽視していなかった。

 伊藤は、日清戦争後には、政党の関与・協力がなければ政府運営は不可能であるとの認識に立っていた。その結果、政党に拒否反応を示す他の元老、特に山縣との政治的立場を異にしていく。そして、第一次大隈内閣総辞職後の1900年、旧自由党(板垣系)と伊藤系の官僚を糾合して立憲政友会を設立した。官僚側はその反作用的に、山縣を盟主とする「非選出勢力」としてまとまっていった。ここに、20世紀最初の25年間の政治体制を規定した1900年体制が確立したのであった。


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