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日本茶掲示板同窓会

226キラーカーン:2018/02/23(金) 00:29:42
8.3.4.4. 変動期:「大正政変」(第三次桂内閣)

 立憲政友会と山縣閥との間の棲み分けと相互依存関係を基盤とする1900年体制に桂は飽き足らなくなっていた。通算総理在職日数が最長となった桂は、山縣以下の元勲元老の影響力を排除した上で、伊藤のように自らが政党を結成することによって政友会を凌ぐ政治勢力を築こうとしていた。

 その桂の「野望」を看取した山縣は、明治天皇崩御、大正天皇践祚に乗じ、桂を内大臣兼侍従長に「押し込む」ことに成功する。皇室事務と一般政務との峻別は厳格になされるべきという考え方の実施形態である「宮中府中の別」が確立されていた当時、内大臣や侍従長といった宮内官に就任することは政治家としての引退を意味していた 。

 丁度その頃、二個師団増設問題を巡って、増設の実施を求める陸軍と財政上の理由から延期を企図する西園寺政友会との対立が深まっていた。政友会は海軍・薩派と連携して師団増設の延期を決定する。これに反発した上原勇作 陸相 は師団増設の旨を帷幄上奏の上単独辞任し、陸軍が後任陸相を推薦しなかったため、第二次西園寺内閣が総辞職に追い込まれる事態が発生した 。桂は、この機を逃さず、元老会議で次期首相の指名を受けることに成功する。しかし、陸軍大臣の帷幄上奏で総辞職した内閣の後継首相が「陸軍大将」の桂太郎であったことに民衆は激昂する。

 激昂した民衆及び民党(政府に批判的立場を採るな政党)は「憲政擁護・閥族打破」をスローガンに掲げ桂倒閣運動へ突進していく。このため、第二次西園寺内閣総辞職から第三次桂内閣総辞職までの政治的混乱を「大正政変」或いは「第一次護憲運動」という。

 この政治的混乱を桂は即位間もない大正天皇の詔勅や勅語で乗り切ろうとするが、逆に即位間もない大正天皇の「政治利用」 であるとして「詔勅をもって弾丸となし、玉座をもって胸壁となす」と咢堂尾崎幸雄に批判される始末であった。桂は、後備役陸軍大将 であることを活かして自身に連なる官僚や国会議員を糾合し、政友会に対抗する政党(当時「桂新党」と呼ばれていた)を結成しようとした。

 しかし、「混乱を収拾するように」という勅語を受けた西園寺政友会総裁の協力も得られず、桂は、在任2カ月程で総辞職に追い込まれる 。ここにおいて、10年以上にわたり存続し、日本の政治的安定をもたらした桂園時代は終わりを告げることとなった。


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