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日本茶掲示板同窓会

238キラーカーン:2018/03/05(月) 00:33:16
8.3.4.7.4. 「第二次護憲運動」と1900年体制の完全なる終焉

 高橋内閣の総辞職から加藤(友)、第二次山本、清浦と(政党からの支援があったことが明白であったとしても)非政党内閣が3代続いたことは1900年体制においても異例のことである。1900年体制の主役である政友会はもとより、第二党として政権交代構造に参画したい憲政会双方とも、この状況に不満を持っていた。このような中で、政党内閣を目指すという点で利害が一致した政友会、憲政会及び革新倶楽部の三党は清浦内閣打倒を目指すこととなる。

 政友会内部では、①清浦内閣との対決路線、②清浦内閣からの禅譲路線、という政権奪取戦略を巡っての路線対立があり、後者は政友会から分離して「政友本党」を設立する。このような情勢を背景に、政友会、憲政会及び革新倶楽部の3党は俗に「護憲三派」と称されるようになる。

 清浦内閣で行われる総選挙は日本初(そして大日本帝国憲法下では唯一)の「政権選択選挙」 となった。その選挙結果は
① 護憲三派の勝利
② 憲政会が比較第一党(第二党は政友本党)かつ護憲三派内での過半数確保
という憲政会の「完全勝利」であった。

 この選挙結果を背景に、加藤高明憲政会総裁は「苦節十年」の末に念願の首相の座に就いた。加藤内閣は途中で護憲三派連合が崩壊し、憲政会単独内閣となったが 、治安維持法、普通選挙法などの成立など課題を着実にこなしていった。加藤は元老西園寺の「追試」に合格し、「二大政党」の一角としての座を確実なものとし、「山縣閥と政友会」の政権交代構造から「政友会と憲政会(民政党)」という政権交代構造の変革に成功した。

 以後、515事件まで二大政党による政権交代の時代を「憲政の常道」の時代という。ここにおいて、1900年体制はその歴史的役割を終えた。


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