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日本茶掲示板同窓会
219
:
キラーカーン
:2018/02/19(月) 00:29:44
8.3.3.2. 「元老」とは何か。
ここで、大日本帝国憲法体制を語る上で避けることのできない、元老に触れる。
元老の一般的定義は、「国政の重要事項について影響力を行使し、首相奏薦について天皇の下問を受け、その他宮中関係事項について発言する指導者層」とされており、当初の伊藤博文、山縣有朋、井上馨、黒田清隆、松方正義、大山巌、西郷従道の7名に桂太郎及び西園寺公望の2名を加えた9名を指すのが一般的とされている。
元老は明治維新後の政治状況の中で自然発生的に生まれた集団であるため、明確かつ統一的な定義が存在しない。一般的には「『元勲優遇の勅語』 を授かった者」を元老の定義とすることが多いが、少なくとも伊藤から西郷までの7名(以後、「元勲元老」という。)は当該勅語を授かる前から元老であった 。例えば、西郷はその死去まで当該勅語を授かっていないが、西郷を元老の一員に含めることについての異論は見られない。
その後、大正になり、元老を追加する必要に迫られた際、「追加された元老」であることの対外的証明として「元勲優遇の勅語」を授けられることが取り沙汰された。しかし、「最後の元老」西園寺が元老の追加に反対したため、桂太郎及び西園寺公望を最後に元老は追加されず、その結果として、「元勲優遇の勅語」を賜った者はいない。
では、元に戻って元老を如何にして定義すればよいのか。それは、彼ら(特に元勲元老)の閲歴から判断して帰納的に彼らが元老とされた条件を抽出するしかない。そして、元勲元老とその他の政治家(「維新の三傑」を除く)を区別するための基準は彼らの経歴を見れば明らかとなった。明治維新の功労者の中で、元勲元老とその他の元勲とでは明らかな違いがある。それは
維新政府における太政官制終了時において参議以上の職を占めていた者で内閣制度創設とともに引き続き天皇の(政治的)輔弼職(閣僚及び内大臣)に留まった者
である。現代における元老研究の第一人使者と言っても過言ではない伊藤之雄氏も彼らに共通するこの経歴に注目している 。
この定義を厳密に解釈すれば、黒田清隆が外れ、山田顕義と三条実美の2名が加わるので、「元勲元老」の7名と差異が生じる。
しかし、黒田は、当時、長州閥の領袖であった伊藤と並んで薩摩閥の領袖であったことから、第一次伊藤内閣発足時の入閣は憚られたものと考えられる。事実、黒田は、伊藤の対抗として初代首相候補にも名前が挙がっており、第一次伊藤内閣の後、「(山田を含む)元勲元老の総意」で第二代首相に就任した。このことから見ても、第一次伊藤内閣発足時に入閣しなかったのは、黒田の政治生命が尽きたのではなく、当時、薩長藩閥内で伊藤に次ぐ地位にあったため、入閣が憚られたためであったことは明白である。
残る三条と山田2名は元勲元老の一員とされることはまずない。学術研究の政界においても正式に元老の列に加えている研究者はいない。しかし、山田及び三条も他の元老に伍して元老的な役割を果たしたとの見解 が存在することは事実である。このため、彼らを「元老以前の元老」と見做せば、この定義と矛盾をきたさない。
この両者を「元老以前の元老」と表現した理由は
① 山田は「元勲優遇の勅語」を賜る前に死去した(これは西郷と同じ)ため
② 三条はその死まで内大臣の職にあり、「元勲優遇の勅語」を賜る機会がなかったため
であったと考えられるからである 。
元勲元老の後継者として「追加された元老」には桂と西園寺と両名を挙げるのが一般的であるが、桂については元老格となってから短期間で死去したため、元老に含めない見解もある 。
ちなみに、元老とよく似た言葉で「元勲」という言葉がある。「(維新の)三傑」と並んで「元勲」も明治維新の功労者として用いられるが、元老よりも広い範囲で用いられる。この語も明確な定義がないのは元老と同じであるが、敢えて「元勲」を定義すれば
(家柄ではなく)明治維新の功績により、維新後、参議以上の職に上り詰めた者
となるであろう。
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