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日本茶掲示板同窓会
222
:
キラーカーン
:2018/02/21(水) 00:16:23
8.3.4.2. 第0期:「プレ1900年体制」(第一次大隈内閣から第四次伊藤内閣)
8.3.4.2.1. 政党との連携から政党内閣へ
この時期は、第一次大隈内閣⇒第二次山縣内閣⇒第四次伊藤内閣と、政権交代形態から見れば1900年体制と同じである。但し、この時期は「体制」というわけではなく、当時の政治情勢の結果として偶発的にそのような政権交代になったという方がより正確であろう。
明治31(1898)年、板垣系の自由党と大隈系の進歩党との合併により衆議院に圧倒的多数を占める第一党(憲政党)が成立した。このような状況を受け、当時首相(第三次伊藤内閣)であった伊藤は総辞職を決意し、大隈と板垣の両名を次期首班として奏薦すべきとの立場を取った。
他の元老は政党党首を首班にするのは反対であったが、かといって、誰も首相を引き受ける者がいなかったので、初の政党内閣である第一次大隈内閣が誕生することとなった。
第一次大隈内閣成立前においても、政党と超然内閣との連携は模索されており、第二次伊藤内閣では板垣が内相として入閣し、続く第二次松方内閣では大隈が外相として入閣 している。また、結果として超然内閣となったが、第三次伊藤内閣も発足時は自由党及び進歩党との連携を模索していた。しかし、この時点では、政党は飽く迄「招かれた政治勢力」であり、単独で政権を担うだけの政治勢力とはみなされていなかった。
第一次大隈内閣は、軍部大臣以外は全員政党員という当時の政治体制においては最も「政党内閣度」が高い内閣であった 。しかし、自由党と進歩党との合併から間もないため、両派の融合が進んでおらず、両派の内紛という形でこの内閣は半年足らずで総辞職となった。
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