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日本茶掲示板同窓会
120
:
キラーカーン
:2017/09/17(日) 01:57:45
6.3.1.1.2. 日本型ネトウヨ政党(「たちあがれ日本(含む後身政党)」)
6.3.1.1.2.1. 「たちあがれ日本」の結成
歴史認識論争において、所謂「自虐史観」を批判する側に属していた政治家は、当時の自民党においても「一番右」に位置していた。そのような政治家の代表的存在であった平沼赳夫氏は無所属となっていた 。彼らは、民主党政権の成立による政界の「リベラル化、左傾化」の中で、自民党の中で埋没するよりは「反民主党・保守」の旗幟を鮮明独自の政党の結成を模索し「たちあがれ日本」を結成する。
日本における保守政治家の代表的存在であり、当時、東京都知事であった石原慎太郎氏は「たちあがれ日本」の発起人とはなったが、参加はしなかった。結党後初の国政選挙となった2010年7月の参議院通常選挙では比例区で1議席を獲得した。しかし、その後、民主党への対応方針を巡り、与謝野馨氏が離党 するなど党勢は伸び悩んだ。
「たちあがれ日本」は他の小政党にも連鋭を呼びかけたが、結局浪人中の元議員を立候補予定者として糾合する程度であった。その中で、発起人でもあった石原都知事が次期総選挙に都知事を辞職して「たちあがれ日本」に合流することを2012年11月に表明する。石原氏の合流表明を受け「たちあがれ日本」は、同月13日、「太陽の党」へ党名を変更し石原氏を正式に共同代表として迎え入れた。
6.3.1.1.2.2. 「日本維新の会」との合同と分裂
その直後の同月17日に国政進出を目論む大阪維新の会と合流し、「日本維新のとなったため、「太陽の党」は5日間で姿を消した 。同年12月に行われた衆議院総選挙で日本維新の会は小選挙区、比例区合わせて54議席を獲得し、野党第二党(衆院第三党)に躍進する。しかし、続く2013年7月の参議院通常選挙では、「みんなの党」をはじめとする「第三極」との選挙協力が難航し、地方区、比例区合わせて議席の獲得に留まった。
結局、「ネトウヨ」といっても、日本型と欧米型とは相性が悪かったのか、「石原派(日本型ネトウヨ政党)」と「橋下派(欧米型ネトウヨ政党)」に分裂し、元どおりとなった。分裂後は、前者が「次世代の党」となり、後者が「日本維新の会」の名称を継承した。その後、橋下派は「みんなの党」からの離脱者で結成された「結いの党」と合併し「維新の党」となった。
6.3.1.1.2.3. 原点回帰と安倍自民党
「たちあがれ日本」に始まる「日本型ネトウヨ政党」は、維新系政党との合同・分裂を経て「次世代の党」として「日本型ネトウヨ政党」としての原点に回帰した。「次世代の党」の課題は、「保守政党」と「維新系政党」との間で「日本型ネトウヨ政党」としての独自の存在意義を国民に訴求できるか否かという点にあった。
「たちあがれ日本」結成当時は民主党政権である、野党に転落していた自民党は、(自民党内では)リベラルな谷垣総裁あった。このため、「自民党の右」という位置は、民主党政権や「リベラル」な谷垣自民党に飽き足らない保守層に対して訴求効果があった。
しかし、「次世代の党」となった時点では安倍政権であった。先に述べたように、安倍総理は拉致問題をきっかけに政治家として飛躍したこともあり、安倍総理は所謂ネトウヨ層からの支持が高かった。また、それに加えて、所謂ネトウヨ層以外からの安倍内閣の支持率は高かった。
このような政治情勢では、「次世代の党」は安倍自民党との違いを打ち出すことは困難となる。まして、相手は衆議院で安定多数を擁する与党である。この結果、「次世代の党」の党勢は先細りになっていった。
「次世代の党」は「日本のこころを大切にする党」を経て「日本のこころ」に党名を変更して党勢挽回を期するが、党勢は回復せず、2017年の通常国会から自民党と統一会派を組み、事実上、自民党に吸収された状態である。
今後、非自民によるリベラル・左派政権が誕生し、自民党が「左旋回」しない限り、「日本型ネトウヨ勢力」は自民党内で「自民党の右」という政治勢力として活動していくことになると思われる。これは、「たちあがれ日本」結党前の状態に戻ったことを意味している(つまり「元の鞘に収まった」ということである)。
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