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日本茶掲示板同窓会

6キラーカーン:2017/02/12(日) 00:06:13
「歴史認識論争」に端を発する2002年以前のネット上のウヨサヨ論争については、書籍はおろか、ネット上においても言及されることが少ないため、当時の記憶が残っているうちに、「回顧録」的にまとめている原稿の草稿を「チラシの裏」ではありませんが、掲示板のコメントとしてネット上に残しておきます(これで、理論上は「全世界に公開」となります)
まだ、草稿の全体像は書き上げてはいませんが、せめて、2002年までの回顧録は何とかアップできると思います


1. はじめに
 昨今、「ネトウヨ」という語が人口に膾炙している。「ネトウヨ」とは「ネット右翼」の略称或いは別称(蔑称)というのが一般的な解釈であるが、その「ネトウヨ」の指す内容について必ずしも統一性が無いように思われる。極端な例を挙げれば、神原元弁護士が「極左ネトウヨ」 という「右翼」と「左翼」が同居している統語法上「あり得ない」(文法上は間違いではないが、文として意味をなさない用法。ネットスラングでいえば「一行で矛盾している」)用法を駆使した例がある。
 本稿では、このような背景をもつ「ネトウヨ」という語が生じた背景を探り、
①  「ネット右翼」という言葉がかつて存在していたが、現在使われている「ネトウヨ」はその「ネット右翼」の単純な略称ではなく、かつて使われていた「嫌韓厨」の後継用語としての色彩が強いこと。
②  上記①の理由として、「ネット右翼」と「嫌韓厨」は同一ではないが、その存在は近接或いは一部重複しており相互に影響を及ぼす関係にあった事が挙げられる。そのため、両者の総称として、「ネット右翼」やそれに類する言葉が使われた時期もあった。
③  発生論的には「ネット右翼」と「嫌韓厨」は所謂「歴史認識(論争)」を媒介とする近縁種であるとは言えるが、同一ではない。
④  「ネット右翼」と「嫌韓厨」両者の関係が決定的に変化する契機となったのが、日韓サッカーW杯及び小泉首相の北朝鮮訪問と一部拉致被害者の帰国という事象が生起した)2002年であった。
 これらの事象を契機として、リアル、ネットを問わず、反朝鮮半島的言説に対する「タブー」が崩壊し「ネット右翼」と「嫌韓厨」との力関係が決定的に変化し、「ネット右翼」が「嫌韓厨」に事実上吸収された。そのため、「ネット右翼」と「嫌韓厨」の総称が「ネトウヨ」という語で語られるようになった。
⑤ 「ネット右翼」が「嫌韓厨」に吸収された主な理由として、
A)2002年以後、韓国を中心とする周辺諸国の「反日姿勢」が我が国でも報じられるようになり、それらの国々の「反日」に対抗する理論的根拠として、従来からの「ネット右翼」が用いてきた言説が流用された。この結果、「ネット右翼」より「嫌韓厨」の方が目立つようになったため
B)歴史認識論争の主戦場であった「慰安婦問題」の事実問題について「強制連行否定派」の勝利で事実上決着がついたこと、及び、もう一つの主戦場であった「南京大虐殺」問題でも、事実上「大虐殺説」が崩壊したという一応の目的を達成したことから、歴史認識論争を主とする「ネット右翼」が可視化されにくくなった。
 しかし、南北朝鮮の「反日」的傾向は依然として継続しており、その「反日」の根拠として「歴史」を理由としているため、「歴史認識論争」が南北朝鮮発の「反日」への防御・反撃という性格へ変化したこと
⑥ 「ネット右翼」ではなく「ネトウヨ」と表記され、人口に膾炙したのは、語呂が良いこと(日本語でよくみられる四音節の短縮形)及び「サヨク」に対する意趣返しという意味がある。
ということを明らかにする。
 そして、この両者が可視化されるきっかけとして、①「インターネットの普及」、②「戦後の終わり」(あるいは「短い二十世紀の終わり」)、というものがあったということも併せて明らかにする。
なお、本稿は「通史」的な小論であるが、筆者は、西暦2000年前後にNC4の掲示板に出入りしていたことがあるので、知見に偏りがある事はご容赦願いたい。また、当時の掲示板・ホームページ等で現在では閉鎖されて閲覧可能であるものは少なく、また、閲覧可能であったとしても、当時の書き込み等は消去されている場合もあるため、現時点で確認をとることが困難であり、記憶に頼るところが極めて大きい 。このため、本稿は「回顧録」的なものとして読んで頂ければ幸いである。


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