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日本茶掲示板同窓会
231
:
キラーカーン
:2018/02/25(日) 23:54:43
8.3.4.6. 第3期:「桂園時代の『復活』」(寺内内閣から原内閣)
8.3.4.6.1. 総説
第一次山本内閣及び第二次大隈内閣は、「2+2」体制の中で、選出勢力及び非選出勢力双方の「+2」が相次いで首相を輩出した点で「1900年体制」の「変動期」であったと言える 。「+2」が双方とも首相を輩出する間に体制を整えていた「2」側が「満を持して」出馬したのがこの時期の寺内内閣及び原内閣である。
寺内、原の両名とも桂園の正統後継者というべき地位にあった。その点では、まさに「正調1900年体制」への回帰と言ってもよい時期である。この時期は第一次世界大戦、ロシア革命、シベリア出兵、第一次世界大戦の終結とパリ講和会議、そして、ワシントン軍縮会議からワシントン体制への参加と日本の対外政策に関する大事件が生じているが、本節で述べる政治体制論、特に「交代大統領制」に関しては「正調1900年体制」へ回帰した以外、特記すべき事項は余りない。
但し、「初の本格的政党内閣」と称されることもある原内閣で初めて「純政党内閣」をこの時期の主役である寺内及び原双方とも「元首相」として政治的影響力を行使することはできなかった。寺内は首相退任後程なくして死去し、原は首相在任中に暗殺されたからである。このように、元勲元老の衣鉢を継ぐべき政治が相次いで亡くなり、その役目を貫徹できたのは、「最後の元老」となった西園寺、もう少し広く取っても「準元老」として並び称された山本と清浦であった。
これまで参議、閣僚、首相、元老と地位や呼び名は変わっても、明治の太政官制末期から大日本帝国憲法体制を支えてきた元勲元老(大隈を含む)も、原首相の暗殺(1922(大正11)年11月)と前後して山縣及び大隈が死去する(1923(大正12)年2月)。この時点で、元老の持つ「政治的な天皇の代行者(≒大統領)」としての機能は事実上消滅することとなる。それは、「交代大統領制」としての「1900年体制」が名実ともに滅亡したことを意味した。
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