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日本茶掲示板同窓会
239
:
キラーカーン
:2018/03/06(火) 01:30:10
8.3.4.7.5. 1900年体制の終わりと「御下問範囲拡張問題」
西園寺は「最後の元老」という異名で語られることが多い。政治家としての西園寺を一言で言い表すなら、「桂園時代」よりも「最後の元老」の方が相応しいというのは衆目の一致するところであろう。
この時代のもう一つの特徴として、大隈も含めた元勲元老が全員鬼籍に入り、元老が「最後の元老」西園寺公望のみとなったことである。また、西園寺自身も70歳を超えており、決して若くはなかった。したがって、憲法習律上元老のみに与えられてきた機能、即ち、次期首相の奏薦機能を今後(特に西園寺死後)どのように担っていくのかという問題が政治問題するのもこの時期からである。
次期首相の奏薦以外にも、元老は和戦の決や宮中事項について関与してきた。しかし、和戦の決など国家の重要事項については第二次大隈内閣の加藤高明外相が元老に諮らず参戦を決定するなど、既に元老が関与することは憲法習律ではなくなっていた。また、宮中事項については元老の所掌とされているが、内大臣、宮内大臣、侍従長など宮中の官僚組織も確立されていることから、元老がいなくなっても特段の問題は生じないと思われていた。このため、「西園寺死去後」を見据えた元老機能再編問題は、次期総理選定の際にける「御下問範囲拡張問題 」に収束することとなった。
「御下問範囲拡張問題」の解決策として考えられるものは、①元老を補充するか否か、②元老を補充しない場合、どの機関(既存、新設)に元老の権限を代行させるかに大別される。
前者の元老の補充であれば、当時「準元老」とも称された山本権兵衛及び清浦圭吾の両名を元老に任命すれば当面の危機は回避できる 。但し、問題点としては、その次の世代の政治家で元老に相応しい者が軒並み鬼籍に入っており、元老候補の人材が枯渇していたことにあった。寺内は首相退任後程なくして無くなり、原、加藤(友)、加藤(高)の3名は在任中に死去(暗殺を含む)したため、彼らが「元首相」として活躍することはできなかった。
では、後者の「元老の機能を他に移譲する」という方策も同様の問題点を抱えていた。天皇の諮問機関としては、国務では枢密院、統帥(軍事)分野では元帥府或いは軍事参議院、宮中では宮中顧問官という機関が存在していたが、元老に匹敵する人的集団であるとは言えなかった。というよりも、そのような機関の一員に留まらない「大物政治家」だからこそ元老と呼ばれたのであった。そのような経緯からすれば、既存の機関に元老の機能を委譲することは「元老の格下げ」に他ならないということになる。そこで「大物政治家」を一堂に会した最高諮詢会議の設立も検討された。
しかし、西園寺はそのいずれの方策も取らず、一人で元老の職責を果たすことを決意した。しかし、完全に単独ではなく、内大臣と協議した上で次期首相の奏薦を行うこととした 。この時期まで、内大臣 の殆どは、元老(格)若しくは元老に準ずる政治家が就任しており、元老の相談相手或いは協議相手として最も適当であると考えられていたため「元老内大臣協議方式」はすんなりと受け入れられた。
また、丁度、憲政会が政権担当能力を身に着けつつあり、元老が消滅したとしても、英国のような「憲政の常道」路線で首相が決定される見込みが高い。そうであれば、元老の次期首相奏薦機能は形式的なものでよい。
このように、二大政党制の確立と西園寺の意思という二つの偶然が重なり、西園寺が「最後の元老」となることが決定した。しかし、時代はそれを許さず、515、226事件など、元老の機能が形式化することはなかった。そして、515事件以後、「御下問範囲拡張問題」は内大臣が主宰し、首相経験者と現任の枢密院議長が構成員となる「重臣会議」に移行し、昭和20年の敗戦を迎えたのであった。
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