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日本茶掲示板同窓会

157キラーカーン:2017/12/17(日) 23:09:36
6.3.2.3.2. ハイダー自由党の党勢拡大と政権参画
 オーストリア自由党(Freiheitliche Partei Österreich:FPÖ)は、ハイダー氏が党首になるまでは得票率5〜6%の小政党に過ぎなかった。1980年代前半には右派の国民党内では左派(リベラル派)に属するシュテーガー(Steger)党首の下で社会党と連立政権に参加することもあった。
しかし、連立政権に参加したことによる埋没及び、経済のグローバル化を背景に自由党内はシュテーガー党首のリベラル路線よりもイェルク・ハイダー(Jörg Haider)氏の「極右」路線が自由党内で支持を拡大したことが挙げられる。元ナチ党員を両親に持つ家庭環境で育ったハイダー氏は自然と戦後の「非ナチ化」に反発し、親ナチ的思想、ドイツナショナリズムを身に着けていった。ハイダー党首は自由党の「右傾化」を主導し、国民党躍進の立役者となった 。しかし、その言動から、ハイダー党首には親ナチ的政治家という評価が定着していた。

 ハイダー氏は自身に対抗する党員を自由党から追放するなど自由党の党内権力を掌握していき1986年には党首に就任した。ハイダー氏は党内権力掌握の過程において執行部よりもハイダー氏個人の指導力に負っていた部分が大きい。この点においても、現代政治における「大統領制化」を先取りしたものといえる。

 ハイダー党首は、既成政党を既得権益層として、学者、マスメティアを左翼・共産主義者として、外国人をオーストリア人の職を奪う者として郷劇の対象とした 。その結果として、EU(欧州統合)懐疑主義を採っていた。

 自由党はハイダー氏が党首に就任した1986年9月以降から党勢を拡大させ、冷戦終結によってその勢いを加速していき、1999年の総選挙で65議席獲得した国民党に次ぐ第二党 となり、ついに連立与党となった。

 スイスと同じくオーストリアにおいても経済のグローバル化と冷戦終結により、国民党、社会党という二大政党への凝集力は失われつつあった 。

 ハイダー自由党は、このような「極右的」主張を行うことによって、これまで「代替案」の存在しない政治体制(≒「大連立」が頻繁に生起する体制)の中で、二大政党制に風穴を開ける唯一の選択肢となり得たのであった。その結果、この二大政党に飽き足らない国民、特に若年層に対して、「既得権益に切り込む新しいリーダー・政党」という形で支持を拡大していった。元来、自由党は高年齢の自営中間層を基盤としていたがハイダー党首の下で若年層はもとより、ホワイトカラー。主婦、自営業者にも支持を拡大していき、更には、1999年の総選挙で、ハイダー自由党は社会党と匹敵し得る程度に労働者層の支持を集めるようになっていた。

 しかし、ハイダー党首の親ナチ的言動が問題とされ、入閣が見送られることとなった。州知事として統治経験を有していたハイダー党首が入閣できなかったことにより、自由党は政権の中で埋没していった。

 自由党の政権参画により、
① 政府事業の民営化
② 社会保障ではなく、自助努力を優先
③ その一方で育児手当の拡大
④ 法人減税
という新自由主義的政策変更がもたらされた。ただし、上記「③」については、女性、特に母親がフルタイムの労働者ではなく、パートタイマーを選択する誘因となり、「母親が家庭にいる」時間の拡大をもたらすという「保守的な」効果があった。


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