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日本茶掲示板同窓会

229キラーカーン:2018/02/25(日) 00:35:58
8.3.4.5.3. 第二次大隈内閣
8.3.4.5.3.1. 難航する首相選定

 第一次山本内閣の総辞職を受け、元老は次期首相の選定を始めた。海軍・政友会連立内閣であった山本内閣が総辞職した以上、後継首相・内閣はそれ以外の政治勢力から選ばれるのは当選の成り行きである。とすれば、次期首相は山縣閥から輩出する順番となる。しかし、次期首相選定は難航する。

 当時、桂を失った陸軍にはこの時点で推したい首相候補がいなかった 。勿論、当時においても寺内正毅という首相候補は存在した。しかし、大正政変から2年も経っておらず、また、第一次山本内閣も軍(海軍)の汚職事件で総辞職したことから、陸軍から首相を輩出することは憚られる情勢であった。

 結局、元老会議は、これまで首相を輩出した政治勢力(山縣閥(陸軍系)、海軍、政友会)とは無縁であり、政治的には無色の「徳川16代将軍」である徳川家達 を次期首相に指名した。しかし、徳川が辞退したため次期首相選定は振出しに戻った。

 徳川が辞退したため、、次期首相は山縣閥の文官系から選定することが第一選択肢となった。当時、山縣閥の文官系で首相候補となり得るのは、平田東助と清浦奎吾がいた。元老会議は清浦を次期首相に指名する。清浦は組閣作業に着手するが、海軍大臣予定者の加藤友三郎に辞退され 組閣辞退に追い込まれた 。

 清浦の大命拝辞で非選出勢力の首相候補が払底した。とはいっても選出勢力側に首相候補となり得る人物も存在していなかった。第一次山本内閣総辞職の経緯から政友会から首相を出さないことは「当然の前提」となっており、「桂新党」改め立憲同志会側の首相候補である桂は既に鬼籍に入っていた。桂の死後、同志会は加藤高明を指導者としてまとまりつつあり、官僚系の同志会員としては大浦兼武もいた。しかし、両名とも元老からは首相としては「今一歩」とみなされていた。

 ここで、井上馨が「大隈再登板」という奇手を提案した。大隈は明治十四年の政変で失脚するまでは、元老の上席を占める参議、且つ、元首相であり、経歴の点では問題はない。また、内閣制度創設後も閣僚として元老達と席を並べていたこともある。更に、大隈は同志会の前身と言ってもよい進歩党⇒憲政本党の指導者であり「同志会名誉総裁」と言ってもよいくらいの立場であった。他の元老も大隈以上の候補者が思い当たらず、「明治十四年の政変」以来の行きがかりもあるが 、「反政友会連合」という観点から、次期首相は大隈に決した。

8.3.4.5.3.2. 第二次大隈内閣の成立

 ともあれ、次期首相は大隈に決定した。同志会を与党とするため、加藤高明外相他、幾名かの閣僚は第三次桂内閣以来の再任である。また、山縣閥の「反政友会」の観点から好意的中立であった。山縣閥は2個師団増設、同志会は衆議院第一党の座を奪取という点で共闘していた「呉越同舟」でもあった。

 難産の末に第二次大隈内閣が発足したが、衆議院の多数派は依然として原が率いる政友会であった。このため、陸軍の悲願ともいえる2個師団増設に関する予算案は衆議院で否決され、1914(大正3)年12月、内閣は解散総選挙に打って出ることとなった。

8.3.4.5.3.3. 同志会の総選挙勝利と憲政会の結成と内閣の陰り

 先に述べたように、山縣閥は、二個師団増設或いは文官任用令の再改正 、同志会は政友会を総選挙で破り衆議院第一党の座を獲得すること、即ち、衆議院で政友会を第一党の座から引きずり落とすという点で利害が一致したことで提携関係が成立していた。

 依然として衆議院第一党であった政友会は2個師団増設に関する予算を否決したことを契機に、内閣は解散総選挙に打って出た。同志会は大隈の知名度を最大限に利用した選挙戦 を行い、381の議席を争った。結果は同志会153、政友会108と同志会が念願の第一党を奪取した。また、同志会の他に中正会など大隈内閣を支持する勢力を合算すれば過半数となり、ここに「反政友勢力」の悲願が達成された。


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