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日本茶掲示板同窓会

216キラーカーン:2018/02/17(土) 02:35:08
8.3.2.3.3. 「革命政権」としての維新政府が「山縣スタイル」を生んだ

 明治維新(維新政府)は戊辰戦争という内戦を経て樹立されたことは言うまでもない。また、その維新政府の一応の完成は1877(明治10)年の西南戦争終結後ということも異論は少ないであろう。偶然にも、維新の三傑はこの前後に全員が相次いで亡くなる
。しかし、そのような内戦を経て確立された維新政府において、戊辰戦争から西南戦争までの「軍功」により政府高官の地位を占めた者は少なくない。

 元勲元老(格)である黒田清隆や山田顕義は陸軍中将でありながら軍部大臣以外の閣僚として活躍している。「山縣スタイル」の創始者であり、終身現役の元帥として陸軍に影響力を維持していた山縣も軍部大臣以外の閣僚や枢密院議長の経験がある。その他にも、例えば、維新政府では軍人にならなかった板垣退助は戊辰戦争で討幕軍の総督、参謀としての軍功、軍歴がある。更には、目立った軍功があったわけではなく「軍人政治家」に含まれることはないが、西園寺公望も戊辰戦争では総督や参謀を務めたという軍歴がある。

 このように、日清戦争の頃まで、軍功により軍以外の政府高官の地位を占める者が存在し、ひいては、軍功などにより陸海軍の将官にまで上り詰めた上で軍部大臣以外の閣僚に就任する「軍人閣僚」或いは「軍人政治家」が一定数存在したことにつながる 。例えば初代内閣である第一次伊藤内閣では、首相も含めた10名の閣僚中「軍人閣僚」は過半数の6名であり、維新政府内閣(1900年体制より前の内閣)の掉尾を飾る第二次山縣内閣では、同じく10名の閣僚中5名が軍人閣僚である。

 現役軍人首相内閣であるが、軍人閣僚率が15名中の5名(うち現役3名)である東条内閣を「殆ど軍部の直接支配」と評する のであれば、維新政府内閣の最初と最後を飾る第一次伊藤内閣や第二次山縣内閣で軍人閣僚率が50%以上というのは、「軍事独裁政権」と言っても過言ではない。しかし、そのように評する人は管見の限り見当たらない。

 つまり、維新政府内閣において軍人閣僚率が高いのは、軍部支配というよりも、内戦を経て成立した明治維新政府であったため、維新政府の高官を占めるべき「建国の功労者」の中に軍人が多かったということである。それは、ジョージ・ワシントンが米国初代大統領となり、ド・ゴールが第二次世界大戦終結後に政府首班を務めた事例に近い。

 そのような維新政府における「軍人政治家」頂点に位置したのが山縣有朋であるということについては衆目の一致するところであろう。その意味において、政治家としての山縣を温存する「山縣スタイル」というのは当時の政治情勢から生み出された一種の必然でもあった。「現役」であることに拘った山縣という存在が「山縣スタイル」そしてそれを一般化した「現役軍人首相内閣」という政軍関係理論上の「特異点」を生み出した 。

 しかし、それは山縣個人或いは山縣とともに戊辰戦争や西南戦争を戦った軍人政治家に対する「属人的例外措置」を正当化するものであっても、彼ら以後の世代である桂以後の軍人政治家が「山縣スタイル」によって首相就任することを正当化するものではない。山縣と同世代ではない彼らが「山縣スタイル」を踏襲するのであれば、「属人的例外措置」を「制度化」するそれ相応の理由が必要である。次節ではその理由ひいては「1900年体制」の基礎条件を「軍人閣僚」を補助線として考察していくこととする。


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