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日本茶掲示板同窓会
158
:
キラーカーン
:2017/12/19(火) 23:33:44
1.1.1.1.1. 自由党の失速から「オーストリア未来同盟」の結成、そしてハイダー氏の死
連立与党となった自由党であったが、失速の兆候は1999年の総選挙直後から存在していた。
既に州知事でもあったハイダー党首は、その言動から親ナチス的政治家とみなされていた。そのため、総選挙の結果、政権与党入りが確実になると、周辺諸国から、反ハイダーの声が高まり、ハイダー党首の入閣が見送られたのは先に述べたとおりである。与党経験が長い国民党、特にシュッセル首相(国民党党首)に対し、与党経験のない自由党が渡り合うためには、州知事経験のあるハイダー党首の副総理(格)としての入閣がほぼ必須条件であった。しかし、ハイダー党首の言動が災いし、その条件は成就しなかった。
自由党は、国民党との連立政権の中で埋没し、支持率を低下させていった。ハイダー自由党は既得権益への「対抗者」ではなく、政権与党として「既得権益」側として選挙戦を戦うことを強いられた。その結果、連立与党となった後の地方選挙で得票率を減らし続け、2002年総選挙で議席をほぼ三分の一に激減するという「大敗」を喫したことが如実に表れていた。そのことは、1999年の総選挙でハイダー自由党が二大政党から「奪った」有権者が二大政党への「帰還」を意味していた 。
ハイダーは入閣できなかったことを逆手に取り、自由党の党勢が失速したのは入閣した自由党幹部の責任とし、彼らを自由党から追放することに成功した。その後、ハイダー氏が党首に就任しないため、党首は短期間での交代が続き、自由党の体制は混乱した。結局、ハイダー氏は自由党から脱党し、「オーストリア未来同盟(BZÖ:Bundnis Zukunft Österreich)」を結成し、自由党所属議員の殆ど(18人中16名)がハイダー氏と行動を共にした。この結果、自由党の党勢の衰えは決定的になった。
しかし、結局、「未来同盟」が自由党と入れ替わる形で連立与党となり、「未来同盟」もこれまでの自由党と同じく自由党の「ポピュリスト」的政策と連立与党としての責任との間で板挟みになり、党勢は伸び悩んだ。その結果、2006年総選挙では総選挙前の16議席から7議席に議席を減らした。この選挙では社民党が第一党に返り咲き、国民党との「大連立」が復活した。
その後、2008年総選挙では「未来同盟」は21議席を獲得し「勝利」したが、その直後ハイダー党首が死去した。ハイダー党首死去後の2013年総選挙では議席獲得がならず、現在、「未来同盟」は消滅過程に入っている。
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